マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

曖昧なピープルが世界を回す - 2004年06月26日(土)

 学会というやつに出ると、いつも知恵熱が出て困る。要するに、世界は最先端の研究と治療に満たされているのではないか、という幻想に取り囲まれて、それについていけない自分がアレルギー反応を起こしている状況なのだ。
 「ああ、この人は切れ者なんだろうなあ」とか「こんなにひとつのことに執着できるなんて凄いなあ」なんて、僕はただ演壇を見上げるばかりで。
 まあ、その一方で、「これは極論なのではないか?」というようなものも散見されるし、現場無視というか「がん患者の自然予後をどうして検証しないんだ!ひょっとしたら治療してもしなくても一緒なんじゃないか!」とかいうコメントを述べる人もいるわけで。
 いや、確かに変わらない可能性だってあると思うよ。理論としては正しい。でも、そんな「研究」の対象にされて早死にするのは、誰だって遠慮したいだろう。

 基本的に会場には、そういう一部のエキセントリックなまでの「推進力」と「とりあえず何もやってないとカッコつかないから発表してみる」という人、日常診療を離れて、「今日はポケベルも鳴らないし、久々にゆっくり飲めるな」という人までいるわけだ。後者が「いいかげんな医者」というものではなくて、世の中がうまく回っていくためには、そういう「日常生活を愛する人々」というのは、良い緩衝材になっているのだと僕は思う。そして、そういうタイプの人間たちが、人類の大部分なのだ。

 僕は基本的には小泉支持なのだけれど(というか、小泉さんよりマシな人というのも思いつかないし)、今度の選挙では、ちょっとだけ自民党が負けるくらいがいいな」と思っている。率直なところ、揚げ足取りだけの民主党とか、宗教がらみの某政党とか、逆バック・トゥ・ザ・フューチャーの社民党とか共産党というのは、「こんな人たちが政権とっても、きっと今よりマシにはならないだろうなあ…」とつい考えてしまう。とはいえ、これ以上小泉さんがアンタッチャブルな存在になっていくのは、あまりに危険な気もするのだ。小泉さんの一存で戦場とかに行かされるのはやっぱりかなわない。

 「今こそ決断のときだ!」「日和見主義を捨てろ!」なんていうムードが渦巻いているけれど、実際のところ、そういう「日和見主義」というのは、そんなに悪いものではないのかもしれないし、ほんとうは、そういう「ハッキリしない曖昧なバランス感覚」こそが、特定のイデオロギーで世界を染めてしまうよりも、「できるかぎりの平和」を維持するためには有用かもしれないな、なんて思うのだ。
 「今の日本は、難しい立場に置かれている」
 確かにそうなんだろうけど、じゃあ「簡単な立場」な時期がいつあったのか?と問われたら、本当はたぶん、そんな時期なんてなかったのではないだろうか?「最近の若者は…」という愚痴が、古代遺跡から発掘されるのと同じように。
 いや、唯一あるとすれば、それは「戦争をしていた時代」だ。「鬼畜米英」というのは、思想としてはシンプルかつクリアカット。

 もちろん、学問の世界と照らし合わせても「推進力としての極論」が必要なこともわかる。でも、その一方で、そのムードに酔ってしまうことで、「バランスをとる努力」を放棄するのは、すごく危険なことなのだ。
 インターネットには「極論」があふれているけれど、そんなものに簡単に共感してラクをしてはいけないと思う。
 
 大声で喋るやつが、常に正しいことを言っているとは限らない。
 フォント弄りが、常に笑えるわけではないのと同じことだ。




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「本当に書きたいこと」 - 2004年06月23日(水)

なんだかいろんなところにいろんなことを書き散らかしていて、ここがすっかりおろそかになってしまった。
最近また、僕の知っているサイトのいくつかが閉鎖したり更新停止になったりした。人気サイトというのは、やっぱりみんなそれなりに辛いものらしくって、ストーカー行為みたいなのにあったり、誹謗中傷メールをずっと送ってこられたりもしていたらしい。
「人気サイトはいいねえ」なんて僕もサイトというものをやりはじめた当初はずっと思っていて、なんとかしてたくさんの人に読んでもらおうと必死だった。ある意味自分を切り売りしてでもアクセスカウンターを回そうと思っていた時期があったのだ。
タイトルに「看護婦」と入れたらアクセスアップ!とかね。
今から考えたらバカバカしい話だが、それはたぶん、今は「余裕」があるからだと思う。

サイトというのは、大きくなればなるほど、リアクションは大きくなる(もっとも、僕の場合は「身の丈まで」ということだから、1日数百レベルのアクセスしか実感はできないのだが)。
そして、たくさんの人がみてくれるということには、当然メリットとデメリットがある。
メリットは、「多少マイナーな話でも、分母が大きければ反応してくれる人がいる」ということだ。100アクセス/日のサイトは、100人にひとりしかわからないような話はしにくいが(もともと同好の士ばかり集まっていれば別)、10000アクセス/日のサイトなら、10000人のうち100人しかわからないネタだってなんとかなるのだ。
それに、応援してくれる人だって多くなるしね。

デメリットとしては、「反感を持つ人も多くなる」ということがある。「あんなにアクセスが多いのに面白くない」とかいうのは、本来逆恨みみたいなものだ。「世界の中心で、愛をさけぶ」が300万部売れる小説か?と問われたら、僕は「そんなに売れるほどのものじゃない」と即答する。でも、だからといって、作者の片山恭一に「どうしてお前の本は、あんなベタなだけで目新しさのない小説なのに、あんなに売れるんだ!」と文句を言っても仕方のないことなのだ。書いたのは片山氏だが、それで商売しているのは出版社だし、買うのは読者だ。宣伝に踊らされて買うほうの責任のほうが大きいだろう。売れたからといって、必ずしもいい小説とは限らないが、売れたからといって非難される筋合いもないのだ。売れなかったら「隠れた名作」だったかもしれないし、他人の評価なんてのはアテにならない。

そして、言葉というのは遠慮なく他人を傷つける。
(以下の文章は、あくまでも「例文」なので、僕の思想とは関係ありません、ということにしよう)
たとえば僕は、育児日記というのが、正直なところちょっと苦手だ。
もともとあまり子供は好きじゃないし(ほら、ちょっとここで引いたでしょ?)、自分の子供のことばかり語られても…とかつい考えてしまう。
なんだか、そういう幸せな家庭をみると、不完全な自分というのが浮き彫りにされてしまうような気がするのだ。「この年になって子供がいないというのは、人間として何かが足りないのではないか?」なんて。
もっとも、僕の場合は自発的に独身なのでしかたないが、子供ができない夫婦の場合は、こういう日記に対する思いは、もっと切実だろう。
でも、そういうのは、書いている側に悪意があるわけじゃないし、別に悪いことを書いているわけじゃないのだ。
それでも、言葉というのは誰かを傷つけることもある。

ひとりの女性がいて、A君とB君から求愛されていたとしよう。彼女がA、Bともに悪意は全く抱いていなかったとしても、Aを選べばBは傷つくし、Bを選べばAは奈落の底。言葉は、そういう酷薄を内包している。

そんなことを考えていると、どんどん書きたいことが書きにくくなっていく。僕は2年半くらいずっと某所で「文章読み日記」というのを書いているのだが、最近実感しているのは、「書きたいことを書くというより、なるべく批判されにくい文章を書くようになってきたなあ」ということだ。おかげで「ただし、○○の人は除きます」とか、但し書きばかりが多くなって、テンポは悪くなるし、結論も曖昧になってしまっている。

僕はマスコミは好きじゃないけれど、彼らが背負っているものを考えたら、ある程度「ウソツキ」あるいは「書けない事もある」というのは、やむをえないのかもしれない。生活だってあるし、身の安全だってあるし。少なくとも、大新聞に記名記事を書くような人は、けっこう抗議とかを受けたりしているのではないだろうか?
だから、一概にマスコミ批判だけをやるのも良くないな、と最近思っている。もっとも、僕は彼らを信用することはない。「取材に答えなかったら、なんて書かれても知りませんよ」という、彼らの末端の言葉を実際に耳にしたからね。

でもね、最近こんなふうにも思うのだ。
本当は、誰かに読んでもらって、構ってもらいたいだけで、僕には「本当に書きたいこと」なんてどこにもないんじゃないか?って。
たぶん今の僕には、「誰かを自発的に傷つけてまで書きたいこと」なんて、ありはしない。

ただ、頭をなでてもらうためだけに尻尾を振って芸をしてみせる、寂しがりやの動物。



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”プロ野球はもう、死んでいる!”(巨人・阪神ファン禁止) - 2004年06月16日(水)

野球の話と政治の話は(とくに今は、イラクの話など危険だろう)あまり公の席でするべきではない、とよく言われる。まあ、それだけ多くの人に関心とそれぞれの好みがある話、ではあるのだけれど。

今から、昨今話題の近鉄とオリックスの合併と野球界について書こうと思う。ただし僕は、巨人と阪神を応援している人々には、以下の文章を読むことを薦めない。というか、読まないでください、お願いだから。たぶん不快になるから。
それでも読むのなら、いちいち腹を立てないでください、よろしく。



これで少しは静かになったかな。
僕は今回の近鉄とオリックスの合併については、「結局、この方法しかなかったんだろうなあ」という気がする。
ほんとうは「近鉄」という企業のプロ野球界への「抗議行動」なのではないか、という意味も含めて。
今の野球チームの多くは、巨人という独裁者と阪神・中日という地方政権と、そのおこぼれか大企業のお情けにすがって運営されている。今日スポーツ新聞で読んでビックリしたのだが、福岡ダイエーホークスは、現在年間10億円の赤字を出しているのだそうだ。ずっと好成績が続いているため、選手の年俸高騰が招いた面もありそうだが、九州の人間からすれば、あれだけ毎試合福岡ドームがほど大入りになって、ファンが多い球団がそんなに赤字であるということは信じられない思いがする。
でも、それが現実なのだ。
巨人みたいにやらないと儲からない商売なのだよ。

巨人はいいよ、どんなに選手に年俸を払ったとしても、チームが強くなりさえすれば新聞も売れるし、放送権料も必ず入ってくる。つまり、巨人の「補強」というのは、まさに「企業努力」になるわけだ。他のチームは(中日は巨人的な経営基盤なのだが)、どんなに強いチームを作っても、観客動員やグッズ販売でしか利益があがらない。そりゃ「巨人は金をかけている」なんていうけど、巨人は「投資」で他球団は「企業の広告」なのだから、そんなの、競争しても勝てるわけがないじゃないか。
そして、「金と人気のある球団」に選手は集まり、そこからの放映権料をいただいて、セリーグのチームは生きながらえている、というわけだ。
元木に1億2千万だもんな、巨人。ありえねえ。
同じ野球選手のくせに、巨人の連中は自分だけ偉いと思っていて、キャバクラで遊んでばかりの人間の屑が大多数。それでも、巨人に入っただけで自分が偉くなったような気になっていやがる。

僕にとって「死んでも悲しくない人ランキングベスト10」には、ナベツネ、三山、清原、江藤、金本、二岡と多数ランクインしているくらいだし。
ほんと、巨人とそれを巡る人々が、僕は吐くほど嫌いなのだよ。
徳光が出てくればチャンネルは即座に変えるくらいに。

僕は30年近く広島ファンをやっているのだが、最近のプロ野球を観ていると、本当に悲しい。巨人や阪神は、ドラフトで良い選手を金と人気で獲得し、さらにFAで他のチームから主力選手を高額年俸で引き抜いていく。「大富豪」というトランプゲームを知っているか?あれは最初に「大富豪」がビリの人から一番いいカードをもらって、要らないカードをビリの人に渡す。まさにあんな感じの状態で、しかもプロ野球というゲームは、常に大富豪と貧民は一定なのだ。
力の格差は、この10年間のあまりに不公正な制度で広がる一方。
この制度があと10年続けば、さらに格差は広がるだろう。
ましてや、こんな状況では、実力のある新人選手は「安心して就職できる」人気チームを選ぶだろうし。

今回、近鉄は野球界に一石を投じた。僕が知っているこのチームは、パリーグの中では経営基盤が安定している強豪チームのはずだったのに、いつのまにかとんでもない事態に陥っていたのだ。
今のパリーグは、実際のところダイエー・西武以外のチームのレベルダウンは甚だしくて、中継ぎピッチャーが大炎上して大量失点、というみっともない試合が増えている。先発はともかく、中継ぎレベルになると、1軍でもまともなピッチャーはほとんどいなくなってしまうのだ。本当に酷い話。
「経営努力」とか言うけれど、「経営努力でどうにかなる段階じゃない」のだよ、もう。

「そんなにカープが弱いのがイヤなら、巨人ファンになればいいのに」
そんなことを言う人がいる。
でも、そんなに急に生き方なんて変えられない。
巨人ファンになるくらいなら、死んだほうがマシだ。

でも、その一方で、僕はこんなことも考える。
「では、まったく同じ戦力・資金どうしのチームでのプロ野球は、そんなに良いものなのだろうか?」と。
正直言って、僕は「貧乏でも一生懸命練習して実力をつけて、金満ゴキブリ軍団にうち勝つ」カープが大好きだ。
もしビル・ゲイツがカープのオーナーになって、アレックス・ロドリゲスやランディ・ジョンソンが入団し、金の力でFAやドラフトで有力選手をかき集めるようなチームだったら、絶対に応援する気にはならないと思う。
貧乏球団が金満チームに向かっていけるからこそ応援のしがいがあるというものなのだ。
「みんな同じようなチーム」だったら、それはそれであんまり面白くないだろうな、という予測もできるのだよ。
 たぶんね、そういう「不公平極まりない、チーム間の格差」こそが、僕がカープに肩入れしてしまう元凶なのではないか、という気がする。
 「弱いから」「金が無い」からこそ応援するのだ。
 ただし、あまりにも格差がつきすぎると、もうついていけない。
 「どうせダメだよな…」というあきらめの境地に入ってしまえば、自分を悲しくさせるだけの野球になんて、関わらないほうがいいに決まっているじゃないか。
 今は、その状況に近い。
 
 あのナベツネは、そんなことがわかっていて「格差」を推進しているわけではないのだろうが…
 僕はカープに強くなってもらいたいのだけれど、その一方で「巨人みたいに卑怯な強さを追及するチームではないから好き」なのだ。

 「格差」に腹を立て、憤りながらも、僕の「偏愛」のもとは、その「格差」であることを否定できない。
 何も考えずに「強い巨人を応援すればいいじゃん」とか言ってるニューロンの接合障害を起こしている人たちがうらやましいよ。

 おそらく、近鉄ファンも同じような気持ちなんだろうなあ、と思う。
 ファンっていうのは、そういうものなのだ。
 球団が無くなるからといって、そう簡単にあきらめられるようなものではないし、「買収されてしまうような球団」だからこそ、思いはつのる一方だ。

 でもな、僕はもう疲れてきたよ。
 覚えておくといい、共産主義社会では、歪みが少ない時期には人々は同じ階層の小さな格差を比べあっていただけだが、歪みが大きくなりすぎたとき、革命を起こして社会そのものをひっくり返した。
 近鉄が無くなって、1リーグになれば済むなんて問題じゃない。

 だいたい、今の野球の試合って、面白いか?
 スポーツの世界でくらい、たまには「奇跡」をみせてくれないのか?
 権力と金を振りかざすやつらが偉そうにしてるのは、現実だけでもう沢山だ!



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インターネットは「危険なコミュニケーションツール」なのか? - 2004年06月11日(金)

 インターネットが危険なコミュニケーションツールか?という点については、僕はハッキリ「そうだと思う」と言わざるをえない。
もっともそれは、「人間にとっては、コミュニケーションそのものが危険を孕んでいる」という大前提があって、インターネットというのがそれをより簡単かつ効率的に行ってくれるツールである、というのが理由なのだが。

 昨日仕事場に不動産屋から電話がかかってきたのだけれど、「今月分の家賃が振り込まれていないんですが…」というような督促の内容だった。通帳の金が何者かによって抜き取られたのか、自動振込みの期限が切れたかのどちらかの理由(たぶん後者)だと思うのだが、まあ、金を払っていないのだからこちらに非がある。でも、その不動産屋の男と話していて僕は内心ムカつきまくっていた。なぜかというと、その男はいちいち人を小馬鹿にしたようなヘラヘラとした話し方をしていたからだ。こちらで「では、本当に振り込まれていないんですね?」と確認すると、「そりゃそうですよ、そうじゃなかったら、いちいち電話するわけないじゃないですかー」とか、そんな感じ。
 正直、普通の買い物とかの話だったら、「キャンセルします!」と言ってブチ切れてしまいそうだったのだが、部屋となると「ここで大ゲンカして『出ていく!』とかいう話になっても、引越しとか大変だしなあ…」とかそんなことを考えると、やっぱり下手に出てしまうしかなかったのだ。でも、今度引越しをしたら、二度とこの不動産屋には関わらないようにしたいと思う。
 そもそも、僕はアパートを借りて4年もの間、一度の遅滞もなく家賃をきちんと払い続けてきたし、大きなトラブルも起こしたことがないのに、なんで一度の滞納でそんなヒドイ扱いを受けなければならないのか。
 
 まあ、それはいい。しかし、あらためて考えると、電話というツールでは、「顔が見えない」からなおさら、相手の態度とか喋り方というのが気になるものなのだなあ、ということを痛感した出来事だった。電話のメリットとして「顔が見えないから何でも話せる」とかいうけれど、本当は「顔が見えないからこそ、話し方とか声の大きさなどに気をつける必要がある」ということなのだと僕は思う。
 例えば、受話器を激しく「ガチャン!」と置かれただけで(今は携帯が主だからそんなことはほとんどないけど)そこに、なんらかの「悪意」を感じてしまう人だっているのだ。
 インターネットは、「書いてある文章」(人によっては、絵とか音、という場合もあるけど)でしか、他人と繋がることができない、不完全なコミュニケーションツールだ。当たり前のことだけど、それをもう少し理解しておいたほうがいい。
 要するに、「書いたことがすべて」なんだから、裏を返せば「よほど注意して書かないと、無用な誤解や争いの原因になる」ということだ(もちろん、注意して書いてもクレーマーみたいな人もいるけどね)。「顔も見えないし、自分が誰だかわからないから、勝手に好きなことが書ける」なんて思っている人は、このツールの特性を利用しているようで、本当は全然わかっちゃいない。本来は「書かれているものしか伝わらないから、より一層気をつけて文章を書く」ようにするべきなのだ。ちゃんと誠意を持って書きさえすれば、それだけで判断してもらえる世界にもかかわらず、それをうまく利用できない人が、なんと多いことか。

 僕の今の仕事の多くは「文書のやりとり」をすることなのだが、実際にやってみると、これはけっこう怖い。僕が間違って癌じゃない標本の診断書に「癌」と書けば、その患者さんは必要のない手術を受けることになるかもしれない。臨床の場では、ちょっとした失敗があっても、医者と患者のコミュニケーションが取れていれば、「まあ、先生だって人間だから」と許していただけるケースだってある(もちろん、命にかかわるようなミスは別だ)。でも、診断書だけで繋がっている存在にとっては、書いてあることだけがすべてで、そこには情状酌量の余地はない。「この先生だって疲れてタイプミスしたんだろうから…」なんて、顔を見たこともない人間に対して温情をかけてくれる人間というのは、そんなにいるものではないのだ。

 「言葉だけの世界」を「顔が見えないから、何やってもいいや」と考えるか、「言葉だけでしか伝えることができないのなら、その言葉を大事にしなくては」と考えるかは、その人間しだいだ。
 もちろん、「嘘の言葉で他人を騙す」ことだってできるし。

 僕は「インターネットでのコミュニケーションだけで、誰かとわかりあえる」というのは幻想だ」とずっと考えてきた。でも、こうしてずっとサイトをやっていると、少なくとも、「言葉だけの世界」についてどういう意識を持って接しているか、という姿勢だけでも、けっこう伝わってくる面もあるのだと思うようになってきた。もちろん、全幅の信頼なんておけないけれど、「僕にとって、つきあってみる価値がある人間」かどうかくらいは、なんとなくわかるような気がする。



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そんなに簡単に「共感」できるなんて羨ましい。 - 2004年06月07日(月)

 こんなふうにサイトをやっていると、さまざまな批判を浴びることだってある。まあ、僕の場合は自分で蒔いた種だったりすることもあるので、仕方ないなあ、なんて思うこともあるのだけれど。
 しかしながら、最近はサイト上でも実生活においても、「共感」というものに対する違和感を覚えることが多いのだ。むしろ、相手に悪意がないという点においては、「批判」よりも性質が悪いことすらある。
例えば、「僕が子供の頃、キン肉マン消しゴムが流行ってさあ…」なんて言ったことに対して、「そうそう、流行ったよねえ」とかいう「共感」は、僕だって嬉しいし、思い出話に花も咲くというものだ。
 でも、「うちの親が病気で亡くなって…」というような話に対して「そうそう、私の親もこの間病気で亡くなったので、共感します」とみたいなことを言われたら、実際のところどうなのだろうか?
僕は、そういうのはちょっと苦手だと感じる。人間にとって負の記憶というのは、そう簡単に他人に理解できるものではない、と考えているからだ。例えば、地下鉄サリン事件の被害者に「わかるわかる。僕も子供のころ焚き火の煙吸って苦しかったからさあ…」なんて、「共感」した自分の話を始める人がいたら、どう思いますか?
 「死」とか「失恋」なんていう「大きな負の体験」というやつは、残念ながら、その衝撃を受ける側の人間の感性によって意味づけは大きく異なってくるし、安易に「その気持ちわかります!」なんて言われてしまうと、かえって、「お前にわかるものか!」なんて反発してしまうものなのではないだろうか?
 「親の死」にしても、90歳まで生きて、家族に看取られての大往生と「行ってきます」と普通に挨拶した直後の事故死では、周囲が受ける衝撃は異なるものだと思う。
 にもかかわらず、それを「親の死」という型にあてはめて「共感」してしまう人が、なんと多いことか!
 他人の痛みや苦しみに感情移入することはとても大事なことだし、ある意味「人間としての誠意」そのものなのではないかと思う。でも、だからといって、それを相手に安易な形で「共感しました」なんて伝えることは得策ではないだろう。
 悪意でないのがわかっているだけに、返答に困ることだってある。
 「そんなもんじゃないのに!」ってさ。

 人間の体験というのは、基本的に個人的なものだ。同じ風景をみていても、受け入れ方は人それぞれなのだし、安易に「共感」なんてできない。

 とはいえ、「共感なんてできない」という諦めのもとに、葬式に行かなかったり、声をかけなかったりすると、それでは何も伝わらないというのも事実なのだ。
 そういう匙加減というのは非常に難しいものだと僕は常日頃感じているのだけれど、そんなこと考えたこともなく「共感」しまくっている人なんかも多くって、僕っていうのはつくづく生きるのが下手なんだなあ、なんて悩んでみたりもするのだ。



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無自覚に「世界の中心で、悪口をさけぶ」人々へ - 2004年06月05日(土)

佐世保の事件では、加害者側の女の子のことと「ネットという媒介」がクローズアップされているわけだけれど、僕は正直なところ、殺されてしまった女の子は、あまりにも「無防備」だったと思うのだ。そもそも、小学生にそんな「防備」を要求することはおかしなことなのかもしれないけれど。

だいたい、「ネットは本音で語れるツール」だというようなイメージを持っている人が多いようだが、それは単なる「幻想」にしか過ぎない。僕もサイトをやっていて、そんなに数は多くないものの中傷されたり、「やり場のない感情」みたいなのをぶつけられることがある。
僕だって失礼な言葉を投げつけられれば腹が立つし、言い返してやりたい、とも思う。でも、そんな常識の無い人をいちいち相手にするのは時間のムダだし、関わりたくもない。だから、苛立ちながらもノーリアクションを貫くことにしている。
基本的には、人に殴られるのもイヤだが、人を殴るのもイヤだから。

だが、この日に書いたように(今日の内容は、この内容の繰り返しみたいなものだ)、ネットというのは「どんな悪口だって許される無法地帯」ではなくて「反撃してもメリットがないから放置されているだけ」なのだ。
僕だって、本当に反撃するべき誹謗中傷を受けたら、あらゆる手段を使って反撃するつもりだし、法的手段も辞さない。

「あんな悪口程度」なんていうのはオトナの感覚であって、僕だって小学生のころは、些細なこと(それは、テストの点数がちょっと悪かったとか、友達に仲間はずれにされたとか、そんな「つまらないこと」だ)で、心を痛めていたものだった。でも、家と学校、とくに自分のクラスだけが世界を構成している時期の子供にとっては、それは、けっして「些細な問題」ではない。
「いい子ぶっている」なんていうのは、「いい子」であることを恥ずかしく感じがちな小学生くらいの時期の子供にとっては、最大限の侮辱だろうし。

ここを読んでくださっている方々は、おそらくサイト管理人が多いと思うのだけれど、サイトの掲示板への書き込みというのは、たぶん書くほうにとっては「2人きりの状況で文句を言う」というくらいの認識なのだろうけど、サイトという「世界の誰にでも見ることが可能な世界」を管理する側にとっては、「世界の中心で、悪口をさけばれる」ような気持ちになるものではないですか?もちろん、そんなふうに世界中の人が見ることが可能だからといって、実際に観ているわけもないのが現実だとしても。
「誰だかわかっている相手に大勢の人の前で罵倒される」という状況であれば、ちょっとキレやすい人間なら、なんらかの「復讐」を考えることは、けっして不思議なことではないのかな。

もちろん、それが「人を殺す」という行為になってしまうのは異常なことだ。ただし、加害者の小学生にとっては、そういう直接的に相手を傷つけるような方法しか思いつかなかったのかもしれない。オトナにだって、「酒を飲んで口論となり、カッとして」人を殺す人間だって、けっして少なくはないのだし。

もちろん、「そのくらいで人を殺そうとするほうが悪い」のは間違いない。
でも、「ネットだから、直接顔をあわせないから、どんな悪口を言ってもいいんじゃない?」というのは、所詮「ご都合主義」だと覚悟しておいたほうがいい。今の世の中、その気になりさえすれば、誰がどこで書いたかなんて、いくらでも調べることは可能なのだ。

僕は思う。現実で他人に面と向かって言えないようなことは、極力ネット上に書くべきではないのだ。それは、「公衆の面前で放たれた悪口」みたいなものだから。もし書くのであれば、それなりの「覚悟」をしておくべきだろう。足を踏んだあとで「相手がヤクザとは知りませんでした」なんて言っても、通用するわけがない。

もう、ネット上だけでの幻想の世界というのは、一部のシャレのわかる人間たちの間にしか成立しなくなってしまった。
今では、出会い系サイトだって、すぐに「写真送って!」って言われる時代なのだから、ネット上での言葉のやりとりだって「お遊び」だと思っているのは自分だけ、ということは十分にありえる。
だいたい「ネット上に書いていることだけで友達になれる」という考え方に準拠すれば「ネット上に書いていることだけで恨まれる」とか「敵意を持たれる」可能性について憂慮するほうが自然なのではないか。

昔のネットは「もしもボックス」だった。「ココデハナイドコカ」に行けそうな気がしていた。
でも、今のネットは「どこでもドア」で、現実と現実との距離を縮めはしたけれど、現実に無いところに行くことは、けっしてできない。

ネットは楽しい。でも、とても怖いツールだ。
それでも、「世界の中心で、悪口をさけぶ」ことができますか?



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