マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

4月最後の日に思いついたことなど。 - 2004年04月30日(金)

(1)どうして人質3人組に対して「割り切れない感情」を抱いてしまうかとずっと考えていたのだが、僕自身のそれには、たぶん「コンプレックス」の成分が含まれているのだと思う。僕はあの人たちみたいに他所の国の人のために危険を冒して何かをしてあげよう、という気持ちにはなれない人間だから。そういう「自己犠牲的になれない自分」を正当化したい、という気持ちもあって、人質バッシングというのは起こっているのだと思う。ほら、あんなことするやつらはバカだろ、って自分に言い聞かせたりして。

(2)同僚に聞いた話。天皇陛下の一般参賀は、だいたい和やかな光景としてテレビ中継されているが、現地ではいかにも右翼っぽい怖い人たちが、拡声器で「天皇陛下ばんざーい!!」とやっているらしい。なんでも「殺伐とした異様な雰囲気」だったとか。でも、テレビではそういう音声は修正されている、と。

(3)年金って、みんな「将来自分がもらうため」に入っているのだろうか?僕は「今現在困っている人生の先輩たち」のために払っているつもりなのに。

(4)ネットで、すごく良い日記を読んだ。きっと幸せな生活を送ってきたんだろうなあ、と温かい気持ちになった。でも、その一方で、学校も部活も仕事も「好きだった」と言い切れない僕のコンプレックスは増幅していくのだ。

(5)最近、この世のすべてのことが、「最初からそういうふうにできていたのだ」と思えてしまって困る。そんなことはない、と思いたいが、それを実証することもできないのだ。



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「良心」って何だろう? - 2004年04月27日(火)

参考リンク:<新入社員>「良心に反する仕事でも行動」 初めて4割超に(毎日新聞)

 上の記事を読んで、ふと思った。「良心に反する仕事」と言うけれど、僕たちの「良心」っていったい何なのだろうか? 
 ちなみに、「日本語大辞典」(講談社)には『良心』は、「自分の言行のよしあしを判断する意識、conscience」と書いてあった。『良心的』は、「良心に従ってするさま。いい加減ではすまさないさま。」だった。
 つまり、「良心」とは、絶対的なまのではなく、人それぞれの判断基準がある、ということなのだろう。
 例えば、「良心に反する仕事」と言われても、その範疇はさまざまだ。極論としては「あそこの人たちを皆殺しにしてこい!」とかいう「仕事」を要求されても行動するか、と問われれば、そんなことをやる人などまずいないだろう。その一方で、「顧客に他社に比べて劣る自社製品を薦めること」というレベルだって「良心に反する行動」と考える人もいるだろうし、消費者金融の社員なんて、ある程度は自分の「良心」との葛藤があるものではないだろうか?もちろん医者という職種も「この人を延命させるのが正しいのか?」「ここで心臓マッサージを止めてしまっていいのか?」とかいうような状況で、「良心」が問われることもある。

 基本的に「良心」というのは、他人にはどうしようもないものなのではないだろうか?
 「良心に従って」と言われても、あの池田小学校事件の犯人のように「良心」そのものが一般的な基準をはるかに外れてしまっている人間には「良心」そのものが意味をなさないだろう。
 「お前には良心が無いのか!」と責めてみても、実際には「自分で本当に悪いと思いながら悪いことをやる人」というのはそんなに多くなくて、ちょっとした窃盗でも「金持ちが悪い」とか「こんな社会が悪い」とか「生きていくにはしかたない」といった、その人間なりの「良心」の範疇に入ってしまうことが多いのだ。
 「良心的な人」とか「良心的な店」というのは、裏を返せば「自分にとって役に立つ人」とか「味や量の割には値段が安くて、トクした気分になる店」という意味のことが多くて、そういうのは、本来の「良心」ではないのだ。「良心的」かどうかなんて、本人以外の誰にもわからないのだから。

 「良心」というのは、ほんとうに曖昧な言葉だと思う。僕の「良心」とあなたの「良心」はかなり違うものだろうし、今までの経験や属する集団の個性によっても変動する。一般的なキリスト教徒の「良心」とイスラム教徒の「良心」というのは、人間としての根本的なところでは符号するのかもしれないが、おそらくかなり異なるものなのだろうと思う。

 この結果について僕が考えることは、みんなが「滅私奉公」するようになったというよりは「良心」というのは、えらく軽くなったものだなあ、ということだ。だいたい、そんな曖昧で個人差のある言葉に対するアンケートにそんなに意味があるのだろうか?
 本来は「会社のために人を殺せますか?」とか「明らかに劣っている賞品を顧客に勧められますか?」とか具体的に聞くべきだろうに。
 「良心に逆らう」というのを「嫌な仕事でもやる」という程度に解釈している人が多かったのではないかな、きっと。

 こんなこと書いててなんですが、僕自身も正直、自分の「良心」の範疇って、今でもよくわからないのですよね。
 他人を「良心的じゃない!」とか思うにもかかわらず、自分の「良心」って、本当に実感するのが難しい。

 「会社への忠誠心が上がった」のではなくて、「良心」に対する実感が薄れた結果なのかな、なんて思ってみたり。



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「尾崎豊の13回忌の日に」 - 2004年04月25日(日)

 今日は尾崎豊の13回忌、なのだそうだ。
 以前にも書いたことがあったと思うのだが、僕はリアルタイムでは尾崎の歌は全然理解できなくて「卒業」を聴いては「窓ガラスに八つ当たりして、『支配からの卒業』を目指すより、勉強して東大にでも行って社会を改革しろよ」とか思っていたし。「I LOVE YOU」も「要するにヤンキーカップルの『とにかくやりたい』って歌だろ?」とか内心バカにしている人間だった。まったく、子どもというのはオトナが思う以上に子どもらしくないものだ。

 尾崎豊絡みでの「良い印象」というのは僕の中には全然無くて、同級生で尾崎を聴いている連中はみんな見ちゃいられないナルシストだったし、彼らは事あるごとに「俺は、俺は」という人々だったし。尾崎絡みで記憶に残っていたのは、東京ドームで復活コンサートを行った際に「信者」が集まったということと、斉藤由貴と不倫をしていて、斉藤由貴の写真がCDのジャケットに使われている、という都市伝説があったことくらいだ。それも、「敬虔なモルモン教徒」であるはずの斉藤由貴がそんなことしてもいいの?というような感慨だった。

 今から考えると、若いころから「枯れてしまった人間」だった僕にとっては、尾崎の「オープン自意識」というのは羨ましくてしょうがなかったのかもしれないけど。

 大学時代に鈴木保奈美主演のドラマで「OH MY LITTLE GIRL」が使われたときには、少しだけ尾崎豊が好きになった。というか、この曲はなぜか好きなのだ。たぶん、尾崎の曲の中では「叙情的」ではなくて「叙事的」だからなのだと思う。
 大学の卒業式の謝恩会のあと、半分以上の人とはもうこれから一生会うことは無い、という状況で、みんなで泥酔して「卒業」を歌った。「この支配からの卒業」なんていっても、大学から社会人なんて、「ヤンキー仲間を抜けて暴力団に入る」みたいなものなのだが。それでも、その状況での「卒業」は不思議にその場の空気を代弁してくれたのだ。

 話は前後するけれど、尾崎の訃報を聴いたのは、ちょうど部活の春の大会の最中だった。そういえば、アイルトン・セナが事故死したサンマリノGPもそうだった(あの事故も部活の試合のために泊まったホテルで観た。あの中継のやるせない雰囲気は、今でも忘れられない)。

 それで、その大会が終わったあとに、好きだった女の子に「尾崎豊の死とセナの死で、自分の周りの世界がガラガラと崩れていくような気がする」と話したことをよく覚えている。
 確か彼女は「私もそんな感じがします…」と答えて、しばらく2人は黙りこんでしまったんだっけ。

 僕は同世代として尾崎を理解することはできなかったのだけれど、それは、やっぱり「尾崎的なもの」をあの頃の僕が持っていて、それを他人に「ほら、お前はこういうヤツだろ!」と突き出されるのがイヤだっただけなのかもしれない。今となっては、そんな「尾崎豊をキライだった自分」を懐かしむような気持ちで、宇多田ヒカルが歌う「I LOVE YOU」や桜井和寿が歌う「僕が僕であるために」を聴くことができる。尾崎豊がアーティストに愛されるのは、その曲の内容だけじゃなくて、そういう「自分の中の恥ずかしいものを曝け出す姿勢」に対する共感、みたいなものもあるのだろう。それは「アーティスト」にとって必要不可欠なものだから。

 今となっては、尾崎豊が死んでしまったことは「伝説の完結」にすら思える。あの人はいま」に尾崎が出現して照れ笑いしながら「こーのしはいからの、そつぎょう〜」と歌ったりすれば、僕たちの失望は計り知れないものだっただろうし。もちろんそのほうが、本人や周囲の人たちにとっては幸せだったのかもしれないが。

 あれから12年も経つのだ。
 僕の周りでは、この12年間の間にいろんなものがガラガラと崩れ落ちていったり、いかなかったりした。
 それでも、あの尾崎の青臭い歌は全然変わらないことに、僕はなんだか羨ましいような、妬ましいような気持になってみたりもするのだ。
 あの女の子は、今どこでどうしているのかわからない。
 ただ、元気で幸せになっていてくれればいいなあ、と願うばかりだ。
 


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「三十数年の孤独」 - 2004年04月24日(土)

今朝ラジオを聴いていたら、大神いずみさんが「ひとり旅の思い出」について喋っていたので。

(1)大神「ひとりでいろんなところに行くのは平気だけど、旅先でひとりで食事をするのは辛い」確かにそうだなあ。ひとりで店にいると、味よりも周りの人のことのほうが気になる。

(2)映画はひとりで観るべき、なのだと思う。誰かと一緒に行くと、ついつい横顔が気になったりするものだ。でも、終わったあとに感想を話す相手がいないのは寂しい。

(3)本当は「ひとりで食事をしている自分」や「ひとりで映画を観ている自分」を誰かに見られるのがイヤなのかもしれない。「寂しい人なんだな」とか思われるんじゃないか、とか。だから、吉野家とかラーメン屋にひとりで入るのは、別にイヤでもなんでもない。

(4)誰かと一緒にいると「連れ」以外は風景だが、ひとりだと周りのすべてが二人称。感性は研ぎ澄まされるが疲れる。

(5)「自分は孤独だ」と言葉にする人を見ると、まだまだだな、と思う。言葉にしている時点で「誰か違うって言ってよ」とお願いしているようなものだからだ。

(6)「ひとりでいること」が選択できる社会というのは、たぶん恵まれているのだろう。水も食料も無くて飢えていたら、それどころじゃない。

(7)「他人は誰も自分のことをわかってくれない!」と嘆く前に、「自分が他人のことをわかろうとしているかどうか?」と考えてみたほうがいい。

(8)誰かが作ったパン食ったり、誰かが仕立てた服着たりしているのに、「本当に孤独」なわけがない。

(9)それでも「なんか寂しいなあ」と思う日もある。



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ネタバレ読書感想〜「世界の中心で、愛をさけぶ」(片山恭一) - 2004年04月21日(水)

(恒例の注意書きなのですが、以下の文章は、ネタバレというか「世界の中心で、愛をさけぶ」を既読であるという前提で書かれていますので、ストーリーを知りたくない方、映画を観られる方、この作品の大ファンの方は読まれないようにお願いします。読んで気分悪くなっても「自己責任」ということで。


(もういちど、ネタバレですよ!…って、この作品自体が30ページくらい読んだら先がネタバレしまくりな小説なんですけどね)



 ああ、なんて表現したらいいのだろうか?キレイな、本当にキレイな話だ。まるで、インドのタージ・マハールのような。僕は小説がリアリズムに偏ることに対してあまり好感を抱いてはいないのだが、ここまでベタベタの話を読まされてしまうと、それはそれで白旗、という気持ちすら湧いてくる。「描いてて恥ずかしくないのか!」とか。
どうしてこの作品が200万部も売れるのか、とは思うし、これで1400円かよ、とも思う。「泣きながら一気に読みました」という柴咲コウの言葉に、「どこで泣くの、これ?」と言ってしまいたくもなる。
この作品の前に200万部売れたのは、17年前の村上春樹「ノルウェイの森」なのだが、正直、この17年間で小説というのは退化してしまったのではないか、とすら感じる。

実際、この小説で僕の心に響いたのは、アキを失ったあとの主人公の「喪失感」の描写だけで(いや、それだけでも心に響いたのは特筆すべきことなのかもしれないけれど)、それ以外は、あまりにキレイすぎてよくわからなかったのだ。
まあ、もし誰かを「感動させよう」と考えているならば、必読の書かもしれない。若い恋人、病、死、再生…これほど「感動のロジック」に従って構成された物語はあんまりないんじゃなかろうか。ある意味、綿矢りさのほうが考える余地があるし、よっぽど「オトナ向け」だ。
しかも最後は「夢オチ?」と錯覚してしまうようなアッサリとしたエンディングだし。
「所詮、恋を忘れるには恋、ってことかよ」とツッコミたくなるような。
まあ、確かにその通りではあるんだけどね。

「世界の中心で、愛をさけぶ」というのは、イメージの断片を繋ぎ合わせたような物語で、登場人物の「実在感」がとても薄い話だ。綿矢りさのように「もどかしい比喩」が延々とつらなるわけじゃないし、姫野カオルコみたいに、「若いオンナの生態」が歴史書のように綴られるわけでもない。アキはまるで、あだち充のマンガのヒロインみたいなのだ。もちろん、あだち漫画のヒロインは白血病にはならないし、ましてや死んだりはしないけれど。

 この物語には、ものすごく美しい描写とものすごく曖昧な描写が入り混じっている。最初に曖昧なほうを書いてしまおう。「朔太郎」と「アキ」は主人公にもかかわらず、全然どんな人なのかイメージが湧いてこない。いわば「白血病で死んでしまう女の子A」と「その女の子とつきあっていた男の子B」という感じ。おそらく、あえて外見についての描写を控えているのではないだろうか。アキと朔太郎というのは、「子どもにとっての永遠の憧れのカップル」を具現化したようなものなのだが、会話がやたらとまわりくどくて鼻につく。「背伸びした村上春樹読者のセリフ」みたいなのだ。実際、病院で高校生がそんな凝った会話しないだろうよ、とかツッコミたいところ満載。
 ところで、この小説にとってプラスになったのは「性」を描かなかったところなのではないだろうか。もちろん、主人公の「やりたい!」というような描写はあるのだけれど、実際にコトに及ぶには至らない。それがこの小説の「美しさ」になっているのだろう。セックスの描写というのは、それが存在するだけで生々しくなるし、逆に、どう描いても滑稽になってしまうところもあるし。

 風景の描写は美しい。とくにふたりが取り残された(とはいっても、「計画通り」だったわけだが)島の光景は、とても綺麗なイメージだった、そして、火葬場のたなびく煙や桜の季節に舞う白い灰などは、僕にとってもどこかで見た風景で、ものすごくしんみりしてしまったし。こういうシーンは、おそらく片山さんのなんらかの本当の「喪失体験」がベースになっているのだろう。

 まあ、短時間で読めるし、そんなに責められるべき小説ではないのかもしれないよね。
「こんなに売れるのはおかしい!」って、売れたことを叩いても仕方がないし。

 でも、僕はこの小説にひとつだけ「やられた…」と思ったことがある。それは、僕が今まで忘れてしまった人、あるいは忘れてしまおうとしている人に対する申し訳なさみたいなのを思い起こしてしまった、ということだ。
 アキの死を「乗り越えた」朔太郎は、新しい彼女の前でアキの話をし、アキの「お葬式」を学校の校庭でやる。
 そう、どんな悲しい別れだって、人間は乗り越えられるのだ。ネガティブに考えれば、どんなつらい別れだって、記憶は少しずつ薄れていくのだ。人間というのは、冷たい、ものすごく冷たい。僕たちは、そうやって生きている。
 最後のシーンに、多くの人は朔太郎の「再生」を見たのだろうと思う。でも、僕は彼の、そして人間というものの酷薄さを感じて、ちょっと寂しくなった。
 だからといって「乗り越えるまでのプロセス」をキチンと描くべきかどうかは微妙なところで、そういう「のどごしの悪いところ」をあえて省略していったのが成功の原因なのかもしれないのだが。

 みんなの「こんな恋愛をしてみたい」というのは、朔太郎の立場としてなのかなあ、それとも、アキの立場としてなのかなあ…僕は自分が死ぬのもイヤだし、相手を失うのもイヤだ。忘れられるのも辛い。僕は、こんな恋愛は勘弁してもらいたい。
ところで、この作品を映画化すると、柴咲さんの出番はほとんど無いんじゃないかなあ、と真剣に悩んだのですが、実際はどうなんでしょうね。



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使えないお金 - 2004年04月20日(火)

 先日、カレー屋で食事をしたときのことだ。
いつものように本を閉じて、伝票をつまんでレジの前に行くと「研修中」の名札をつけた、たぶん20歳そこそこくらいの女の子がレジを打ってくれた。
 いわゆる「美人」ではないけれど、闊達そうな感じの子だ。

「お会計は850円です。」
 僕は千円札を出して、お釣りが出てくるのをなんとなく目のやり場に困りながら待っていた。
コンビニでの会計の最中などもそうなのだが、僕はこういうときの手持ち無沙汰がけっこう苦手なのだ。セブンイレブンで、レジの後ろにゲームとかCDの発売日の表があるのは、本当に良く考えられているなあ、といつも感心してしまうくらいに。

 その女の子は、まだ慣れていないらしくて、たどたどしい手つきで100円玉と50円玉とを一枚ずつ大事そうに取って、それを自分の手のひらの上に置いてみせた。

「150円のお返しになります」
 そのとき、彼女の動きが一瞬止まった。
彼女の手のひらの50円玉はえらく錆びて黒ずんでいて、ちょっと汚れてるな、という感じだったのだ。

「す、すみませんっ!」
 彼女はあわてて手を引っ込めて、レジの中から新しい50円玉を1枚、取った。

…今度の50円玉も、さっきのよりは少しマシ、という程度に汚れていた。
彼女は、一瞬躊躇したのだけれど、おそらく「もう一度新しいコインを探すのにかかる時間」と「少し苛立ちはじめている僕」を見比べて、「すみません!」ともう一度言って、その50円玉を僕の手のひらにそっと置いた。

 少なくとも、最初のだって使えないほどの汚れ方ではなかったんだけどね。
 帰り道、僕はその50円玉1枚だけ、ズボンのポケットに入れておいた。

 あれから1週間くらい経つけれど、いまだに使ってしまう気になれなくて、まだポケットの中にある。



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「感情」と呼ばれるものについて<その2> - 2004年04月19日(月)

(1)僕はずっと、自分に本当の感情なんてなくて、「笑うべき状況」だから笑い、「泣くべき場面」だから泣いているような気がしていた。要するに、シチュエーションに応じて「反応」しているだけなのではないかって。そういえば学生時代に「シンドラーのリスト」をみんなで観に行ったら、周りがみんな泣いていて「オレも泣かないとマズイかな」と思ったこともあったな。
そういうのは、一種の「離人感」なのだろうか。

(2)実は、「絶対的な感動」なんてないのかもしれない。どんなに感動的なドラマだって、ネットやりながら片手間に観ていれば、「ふーん」って感じだものね。逆に、「泣きたいとき」には、ありふれた人情ドラマにだって泣いてしまうこともあるし。

(3)馬券の買い方、というのは、その人の性格がよく出るものだ。僕はだいたい「なんとか当てたい」という欲が強すぎて、あれもこれもと買いすぎてしまい、当たってもそんなに儲からないわりには外すと痛い、という買い方をしてしまう。要するに、「ギャンブルになっていないギャンブル」をやっているのだ。まさにJRAのいいお客さんだ。

(4)「2ちゃんねる」の書き込みとかを読んでいると、あんまりヒドイことが書いてあるので腹が立つこともあるのだが、きっとああいうのの大部分は、普通の人の負の感情の捨て場になっているのだと思う。そう考えると、存在意義というのは、確実にあるのだろう。ジョギングしている人に「そんなことでストレス解消するな!」と文句言うのが筋違いみたいなもので、見なければいいんだよな。まあ、自分が風評被害を被りそうな場合は別として。

(5)誰かを説得するのに最良の方法は、「その人の誤りを責める」ことではなくて、「その人にとって何が一番得なのかを理解させる」ということなのだろう。ただしその方法は、説得者にとっては自分の正しさを証明できない、要するに「責めるより気持ちよくない」ので、あまり用いられることはない。

(6)ほんと、他人の考えていることがわかるようにできていなくて良かった、と思うよ。

(7)世の中の大部分は、理屈ではなくて、「好きか嫌いか」で動いているということだ。そして、「どうしてみんな(僕が考える)正しいことに従わないんだ!」という人は、その意見の正しさ以前に誰にも話を聞いてもらえない。



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「捨てる」ということの大切さ - 2004年04月17日(土)

 この1週間くらい、いろんなことを考えていた。
 イラクの人質事件についてもさまざまな意見のぶつかり合いがあったし、やっぱりそういうことについて誰かとやりとりするというのは、それはそれで疲れるものなのだ。例えそれが、WEBの上という限定された空間であったとしても。
 でも、最近は正直疲れてきたし、こうやって何かを発言することに意味があるのだろうか?というような無力感もあるのだよなあ。
 「あなたの意見は…」というのに続くのは「絶対に正しい私の意見」で、僕はその人を「説得」すべき手段を持たないし、そんなことをしている暇もなければ、そんな疲れることをやれるほどの気力もない。

 僕は30過ぎて、ようやく「自分が生きていくのがラクになった」と感じている。そのひとつの理由としては、職業人としてキャリアを積んで、少なくとも仕事の上で「自分の存在価値」みたいなものを意識できるようになったこと。もちろん替わりなんていくらでもいるのだけれど、まあ、それはそれでいい。いかりや長介さんが亡くなってまだ1ヵ月にもならないのに、僕はもう「追悼番組にもちょっと飽きてきたな」なんて思っているし、昭和天皇が崩御されたときでも、地球が急に逆回転したりはしなかった。

 そして、もうひとつの理由は「捨てること」を覚えたことだと思うのだ。
 子供の頃の僕は、今にも増して「ものが捨てられない子供」で、ボロボロになった枕カバーとか、壊れたおもちゃなんかにも「魂」を感じてしまって、それを「捨てる」というのを懼れていた。肉とか魚は、「その動物が殺される痛み」みたいなものを自分の中で想像してしまって、それを「食べる」ということができなかった。今では平気どころか焼肉とかは大好きになったが、それでも魚の目玉をしゃぶる人は信じられないし、牛肉の活き造りがあったら、たぶん食べられないと思う。まあ、後遺症みたいなものだ。

 イラクのことをどんなに僕が偉そうに考えてみても、所詮、僕はイラクでボランティアをやろうなんて思わないし、劣化ウラン弾の怖さを世界にアピールしようなんて考えたこともない。まあ、そういうのはひとつの「興味」の問題で、合コンと更新のどちらを選ぶか?と問われたときに、何の迷いもなく「更新!」と心の中で呟きながら、同僚の誘いを「ごめん、週末はちょっと用事があるから!」なんて断るのと同じようなものだ。手鏡で階段を登る女子高生のスカートの中を覗かないのも「たかがパンツのために、そこまでするほどの価値を感じない」からであって、たぶん世の中には「すべてを失っても、今ここで女子高生のパンツの中身が見たい!!」と思う人もいるのだろう。だからといって覗いていいというものではないのが社会というものだし、覗かれるほうの都合だってあるんだろうけど。「金持ってるんだから、イメクラにても行けよ!」と言う人もいるのかもしれないが、ヘンに頭のいい人というのは、そういう代償行為で解消するというのができないタイプが多いような気もする。「違い」を頭の中で理論化してしまうのだよなあ。そして、そういう強迫観念が「捨てられない」のだ。
 あの人の不幸は、学歴があって、テレビのコメンテーターとかをやっていたということだ。こう言っては悪いが、ホームレスの人やヤクザの若者が同じことをやっても、こんなにセンセーショナルに叩かれはしなかったはずだし。ああ、そのくらいやるだろうね、みたいな。
 そう考えると、僕はそういう「社会的不適合な衝動」が今のところ自分の中にほとんどないことに、感謝すべきなのかもしれない。

 僕は最近「捨てる」ということを考えることが多くて、それは昔の思い出であったり、モノであったり、何かに対する興味であったりするのだ。
 「捨てる」ということは、ネガティブに考えられがちなものだが、この年になって、「捨てることというのは、すごくすごく大事なのだ」ということがわかってきた。
 例えば、「まだ読んでいないけど、たぶんこの先も読まないであろう本」が増えすぎると、部屋がどんどん手狭になってしまうように。
 イラクのことを僕がどんなに心配してみたところで、本当は何も役に立たないんじゃないか、と思うのだ。どんなに偉そうな言葉を口にしてみても、僕には自分の体をイラクの人々のために捧げるほどの善意はないし、稼ぎの多くを割いて彼らに与えようなんて思えない。自分が生きるのに目一杯で。
 それでも、僕の周りではさまざまな議論は尽きないし、僕自身だって、いろいろ考えることは多い。
 「何も考えずに、日常のことに全力を尽くせ」というのは、ある意味「奴隷の思想」なのだろう。とはいえ、学会で「イラクのことをずっと考えていたので、スライド作れませんでした」とか壇上で口にする人がいれば、それはやっぱり「それならイラクに行け!」と後ろ指をさされるに違いない。
 「イラクのことはイラクのこと」だし「自分のことは自分のこと」だというような割り切りができないと、生きていくのは難しい。
 
 「あまり考えすぎないようにしよう」と思う。
 興味を捨てるのは難しいことだけど、本当は僕自身がイラク情勢に興味があるのではなくて、単に「みんなが興味を持ちそうな話題なので、取り上げている」というのが、僕の正直な気持ちなのかもしれないし。

 今は、とにかくさまざまな情報が耳に入ってくる時代で、相対的に人間の「体感時間」は短くなったのではないだろうか。現代人には「何もできない夜」なんていうのは存在しない。それなのに、「考えるべきこと」の範囲は、広がっていく一方で。

 「お魚さんや牛さんがかわいそう」という気持ちを「捨てる」ことができたからこそ、僕は普通の食生活が送れる。読んでいない本をどうしても読みたい、という気持ちを「捨てる」ことができたから、なんとか発表の準備がすすめられる。善悪はわからないが少なくともいちいち悩んでいるよりはラクだ。
 「忘れられるから人間は生きていける」のと同様に、何かを得るためには何かを「捨てる」ことが必要だ。僕は誰にも嫌われたくないと思って生きてきたのだけれど、悲しいことだが「誰にも嫌われていない八方美人」という理由でその人を嫌いになる人間というのも存在するし(いや、僕自身がまさにその嫌ってしまうタイプなのだ)、「みんなに公正に接している人」というのは、いざというときに味方がいなくなってしまったりするものだ。ほら、みんなでキャッチボールをやるときに、ことさら嫌われてはいなくても、特定の友達がいない人はなんとなく取り残されてしまうのと同じことさ。

 どうしてこんなことを長々と書いているかというと、たぶん、僕は自分のことを本質的に「捨てられない人間」だと思っているからだ。だからこそ「捨てることの難しさ、大事さ」を今、自分に言い聞かせている。
 
 僕は、イラク情勢のことは、基本的に自分の日常生活から「捨てる」ことにする。そして、自分の仕事をやる。そんなことを言ってみても、たぶん生き方なんてそう簡単に変えられるものではないのだろうけど、それでも、少しは気がラクになるといいな、と思う。

 なるべくシンプルに、サラッと生きたい。
 それが今の僕の切実なる願い。




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「覚悟」が必要なWEBサイト - 2004年04月14日(水)

世の中には、とにかくいろんな人がいるのだ。
医者という仕事をやっていて一番困惑させられるのが「失敗したら訴えるぞ!」というタイプの人だ。
誤解されては困るのだけれど、僕は「失敗しても訴えるな」と言っているわけではないのだよ。でも、失敗もしないうちから「失敗したら…」とか脅迫まがいの言動をする人のことって、どうも信じられない。失敗したくて失敗する医者なんていないし、その一方で、失敗したくなくてもミスや予期せぬトラブルの可能性を絶対にゼロにすることはできない。
現実問題として、手術中に手術室に巨大な隕石が落ちてくる可能性だって、ゼロではないじゃないか。
僕はそういう「クレーマー気質」の人と話しながら「じゃあ、もし成功したら、僕はあなたを訴えてもいいんですか?」と心の中で呟く。いや、みんなが言いたいことはよくわかるよ。「お金もらってやっているんだから、文句言うな!」って。でもね、脅迫される分までは、給料に入っていないと思うんだ。
「失敗したら…」とか言う人って、「成功したら、自分が訴えられても構わない」という覚悟を持っているようには見えないことがほとんどなのだ。

WEBで文章を書くことは、気軽な趣味だ。こうやってディスプレイの前に文字を打つだけで気分転換になるし、自分がものすごく「何かを考えているような人間」であるような錯覚もできる。新しい知り合いもできる。いいことばっかりじゃないか、なんて思う。でも、僕はその一方で、こうやって世間に自分が書いたものを公開するという行為には、ある種の「覚悟」が必要なのではないか、とも考えているのだ。

ネット上で誰かの悪口を書くことなんて簡単だ。気分だってスッキリするしね。そして、多くの場合、ネットでの悪口は誰からも言い返されない。キライな芸能人だって、政治家だって、人質の家族だって、ほら、俺がどんなに罵倒しても、何も言い返してこないじゃないか、ザマーミロ。
「ネットだから」「匿名だから」ということで、核シェルターの中から誰かを攻撃して、自分が偉くなった気になっているのつもりなのかもしれないし、それは別にやりたければやればいいことだ。場合によっては賛同する人もたくさん出てくるだろうし、世の中を動かせるかもしれない。

でも、考えてみてもらいたい。例えば僕がキムタクの悪口を言っても、キムタクが僕に抗議のメールを送ってきたり、事務所が内容証明を送ってきたりしないのは、僕の言うことに納得したからではなくて「僕のような小物をいちいち訴えても、手間ばかりかかって、何のメリットもない」からだ。それでジャニーズ事務所に「風評被害」が出るほど大きなサイトでもないしね。
もちろん、新聞社のサイトが全く同じことを書けば、ジャニーズ事務所の反応も全然違うことになるだろう。

ネットが楽園だと思っている人は、たぶんそんなに少なくないのだろうと思う。
そういう人たちは、ネットというのは「自分だけが好きなことを書けて、他人はそれに対して文句を言ってはならない空間」だと思い込んでいるのだろうか。
日常日記を淡々と毎日書いている人に対して文句を言ってきたりするのは、明らかにルール違反だと思う。
「それはおかしい」なんて他人の生活に文句をつけるのは、単なるヒマ人のやることだ。
しかし、「ネット上に誰かの悪口を書いている場合」においては、「自分も悪口を言われる覚悟」というのは、ある程度必要なのではないだろうか。
「自分は安全なところからやり放題で、相手はやられ役」だなんて、アメリカ軍の空爆じゃあるまいし。だいたい、そんな状況なら、僕だって自爆テロをやるかもしれない。日本人の感覚では「お家でのんびりテレビを観る生活or自爆テロ」だが、現地の人にとっては「何もできずに野垂れ死にor自爆テロ」なのかもしれないし、それなら「せめて自爆テロをやる」ほうを選んでしまうことは、けっしてわからない話ではないと思う。
 「僕たちの父祖は竹槍でB29に向かっていった」なんて笑い話になっているが、自分がその時代にいれば、「何もせずにやられるくらいなら、せめて竹槍でも持って一矢報いたい」と考えるのは、全然不自然なことじゃない。
 大事なのは「自爆テロはよくない」と「教化」しようとするよりも「自爆テロなんて選択肢は流行らない」「楽しく生きるという選択肢がある」社会に(もちろん、政治的のみならず、経済的な面も大きい)一刻も早くしていくことなのだと思う。

いかん、脱線しすぎてしまった。
ネット上の「覚悟」について書いていたのだった。
僕の個人的な考えでは、「ネットに誰かの悪口を書いた人は、誰かに悪口を言われても仕方ない」と思うし、そういうことを書くからには、書く側にだってある程度の批判を受ける『覚悟』が必要なのだとも思う。
それもなく「自分の正しさ」を他人に受け入れさせたいだけ、というなら、ぜひ本屋で「マイ・ノート」とかいう真っ白な日記を買ってくるべきだ。
あれはいいよ、本当に。僕も本当の本音はあれに書いてるよ(嘘)。

だいたい、ネット上の人間というのは、「強い(失礼な)言葉を使って、自分が優位に立った気になる」とか「わかったふりに頼りたがる」傾向が強いのだが、そういうのを読むたびに「それって、現実で誰かの前で口に出して言えるの?」とか思ってしまう。傍からみれば、そんな言葉を平気で他人に吐く人間のほうが、はるかに「バカ丸出し」なんだがなあ。
ネット上のトラブルで訴えられる人なんて後を絶たないし、「言ってない」なんて言い訳は通じない世界だよ。
僕は、とくにネットを通じてお金とか人脈を得ようなんて思わない。臆病な人間だし、拒絶されることが怖いからだ。そして、ネット上でも「リアルで誰かに面と向かって言えないこと」は言わないようにしよう、と心がけているつもりだ。それは、気持ちよくこの世界を楽しむためのマナーだし、僕は誰かを煽ったり煽られたりしながらドライブするより、自分のペースで好きな音楽など聴きながら、リラックスして運転したいのだ。急ぐ人は抜いてくれればいいし、ゆっくり走りたい車は道を譲ってくれるとありがたい。

車に乗ったらやたらと気が大きくなって、無謀な運転をしたがるやつがいるけど、そういう人間をあなたは軽蔑しませんか?
どんな立派な車に乗っていたって、人を轢いたらそれは罪に決まっている。「車が勝手に人を轢いた」とか言うつもりかね、ナイトライダーか?

「言い返される覚悟がなければ、『毒舌』なんて吐く資格は無い」と僕は思います。テレビで「毒舌」で売っている人だって、陰でキツイ目にたくさんあっているはず。それでも、彼らは「覚悟」を持って、毒舌を吐き続けている。
ネット上でも、長続きしていて読み手に安心感を与えるサイトというのは、やっぱり「覚悟」を感じることが多い。

さて、あなたには「覚悟」はありますか?

「言葉でしか伝えられない世界」なのだから、もっと言葉を大事にするべき、なんだけどねえ。


ちなみに僕は、自分の中でサイトをやる「苦痛」が「楽しみ」を少しでも超えたら、すぐ閉鎖する「覚悟」はしています。




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ものわかりが良すぎる日本人 - 2004年04月10日(土)

 僕はかねがね不思議に感じていることがある。
 それは「どうしてみんなあんなに偉い人の立場になって考えたがるのだろう?」ということだ。
 少なくとも江戸時代の農民や町人には「将軍様」(って、北のあの人じゃないよ)の気持ちになって天下国家を考える、なんてことは、ほとんど無かったのではないだろうか。
 生活に追われる立場であれば、「明日の米がない…」とか「3日後のお祭りが楽しみ」とか、そういうレベルで生きてきたのだろうし、年貢が増えれば憤り、労働を強制されれば悲しんでいたはずだ。
 そこに「いやあ、将軍様も生活が厳しいんだろうし、仕方がないよ」とか、上の立場に「理解を示す」人は、ほとんどいなかったと思う。

 翻って、今の日本では、いろいろな情報を多くの人が手に入れることができるようになった。江戸時代であれば、けっして民衆の知るところにはなかった「国家機密」レベルのものだって、ニュースとして無防備に流されている。そして僕たちは「もし俺が小泉首相だったら」「ブッシュの今回の戦争の目的は、石油利権だ」というように、偉い人の立場に立って、物事を語ろうとしている。「日本の国益のためには、テロに屈するべきではない」とか。

 それは、大局的には正解に違いないと僕も思う。
 でも、その一方で僕は「自分が首相や高級官僚として『全体の幸福を追求する』という立場になる、という想像よりも、旅行中に飛行機がハイジャックされたり、爆弾テロに巻き込まれたり、戦地に動員されたりする、という想像のほうが、よりリアルに感じられて仕方が無い。

 つまりは、こういうことだ。
 「無力な一市民」であるはずの人たちが、そんなに「自分を苦しめるかもしれない天下国家の大義」に対して、そこまで寛容である必要があるのだろうか、って。
 「自分が将来もらえないから国民年金なんて払わない」と言っている人々が「国のために人質は犠牲になるのが当然」と他人に言う資格があるのか?

 人質になった3人は危険を承知で行ったのだし、「自己責任」が大きいとは思う。でも、そうやって「国益」とやらにあまりにみんな理解を示しすぎて、「家族が自衛隊撤退を訴えることすら許せない社会」というのは、太平洋戦争前の日本と同じではないのか?
 僕自身は「撤退すべきではない」と考えているし、小泉首相も公人として「テロには屈しない」という姿勢をとるに違いない。
 でも、「人質の家族が、自衛隊撤退を訴えられる社会」というのは、けっして失われてほしくないと僕は感じているのだ。その実現の可能性はさておき。
 僕が家族だったら、同じことをするかもしれないしね。

 「偉い人」になったつもりで物事を見る、というのは、大局観を養う、という意味では大事なことだろう。でも、「偉くなったつもりで天下国家を語る」だけじゃなくて、「リアルな自分の視点」も大事にするべきではないのか。
 頭の中だけ「1億総小泉純一郎」でも、首相はたぶん戦場には行かないし(誤解してほしくないが、僕は「(慰問レベルを除いては)首相が戦場に出かけていくべきだ」とも思わない。それは首相の仕事ではないからだ。それに、戦場以外だってテロの標的にもなる可能性は高い)、僕たちは一兵卒として駆り出されたり、テロに巻き込まれる可能性だってある。思い出してみてもらいたい、同時多発テロの被害者たちは、オフィスで普通に仕事をしていただけなのだ。

 「ドラゴンクエスト」の勇者のつもりで街を練り歩いている人を見かけたら、きっとみんな指差して笑うだろう。でもね、リアルな自分に関係ない「国益」とかばかり唱えて、自分の足元が見えていない人は、それと同じなんじゃないかい?
 その「国益」とやらは、本当に自分のためになるものなのかい?

 天下国家を語るのもいいさ。ただし「国益」ばかり考えてくれる人は、「自分の目先の利益ばかり考えている人」と同じくらい国にとって利用しやすい存在だということも、知っておくべきだと思う。

 だいたい「国益」とやらのために個人が死ぬことを強いられなくて良い日本を作るのに、どれだけ多くの人々が犠牲になったか、考えたことがあるんですか?
  


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それは、誰かが責められるべきことなのか? - 2004年04月08日(木)

回転ドアに子供が挟まれて亡くなった事件に対して、さまざまな議論が起こっている。
「ビルの管理責任」「回転ドアの設計会社」「子供に対する親の責任」「子供の自己責任」
今の時点では、回転ドアの速度やセンサーが届く範囲についての「不備」が指摘されており、ビルの管理責任を問う声が大きいようだ。その一方で「親が子供の手を握っていれば…」という声もあるのだが、一般的な6歳の子供は、親に手を握っていられるのをけっして喜ばないだろう。
とはいえ、「ビルの安全対策の手落ちだ!」と100%責任を問うのもどうか、という気もする。

僕が今歩いて通勤している道の途中には、歩いて渡りきるのに10分くらいかかる大きな橋があって、その橋の上を通っているときは、とても不安な気持ちになることがある。
そう簡単に落ちるようなものではないのだろうけれど、高いところが苦手な僕にとっては、やっぱりそれはそれで怖い。
「もしこの橋の上で、子供が遊んでいて落ちて死んだらどうだろう?」なんてことを考えてみるのだが、そのときに人々は「こんなふうに子供が落ちることができるような橋を造ったのはおかしい!どうして絶対に落ちないようにスッポリ覆ってしまわなかったんだ」と言うだろうか。橋の安全管理の責任が問われるだろうか?

車の事故ではどうだろう。
年間1万人くらいの人が、いわゆる「交通事故」で命を落としており、このうちの大部分は「車というものがこの世に存在しなければ防げていた事故」なのだが、僕たちは「自動車をこの世から亡くすべきだ」なんて口にすることはない。
もちろん、事故の大部分は運転者のミスなのだが、車を運転する人なら、ミスをしないドライバーが存在しないことくらい、容易に理解できるはずだ。運転技術が高いことは、事故の軽減・発生率の低下にはつながるが、それでも「絶対に事故を起こさない」なんてことはありえない。
それでも、人は車の危険性に目をつぶって、今日も乗り続けているのだ。
「車があるから、事故が起こるんだ」なんて、大部分の人は思わない。
実際は、運転者の技術や注意力以前に、車が無ければ起こらない事故だって、たくさんあったはずなのに。

いろいろな責任が追求される一方で、あの回転ドアの事故に対して、僕は正直なところ「これは、誰かが責められるべきことなのだろうか?」とも思うのだ。
「あんなもの必要ない!」と言われても、気圧の問題とかもあるらしいし、「見た目のインパクト」というのは、ああいう施設においてはひとつの存在理由であるはずだ。センサーについても、逆に「しょっちゅう誤作動するよくらい感度を上げたらいいのか?」と問われれば、それはそれで不便な面もあるだろうし。
では、「親の責任」かと言われれば、そんなふうにも思えない。6歳なんて子供なりの判断で自分で動ける年頃だし、親の言うことを素直に聞きもしないだろう。「危ないよ」と言われることをやってみたい年頃だ。だいたい、普通に歩いていても車に轢かれたり、川に落ちて亡くなる子供だっている。「すべて親の管理責任」というのは、あまりに酷だ。
乳児ならともかく、「もう6歳」なのだ。

僕はこの事故について「誰の責任か?」と問われれば、「誰の責任というより、ある一定の確率で常に起こる危険がある不幸な事故だった」ような気がする。
「もっと注意していれば」と考えるのは当然のことだが、それはたぶん、今回の事故が起こったからわかったことだ。
この事故を契機に、不必要な回転ドアについては見直しがすすめられているし、センサーについても「適正な基準」が再検討されることになるだろう。
「亡くなった子供はどうなるんだ!」
そう、そんな「後世の利益」のために犠牲になった子供はかわいそうだと思う。
でも、だからといって、それを特定の誰かのせいにするよりは、それぞれが自分の立場から未来への教訓にするしか、生きている人間にできることはないのではないか。

「生きる」というのは、常に多かれ少なかれ、リスクを背負っているということだし、なんのかんの言いながら、僕たちは今日も車に乗るし、六本木ヒルズにもたくさんの人が訪れている。
誰かのせいにして満足するより、それぞれができることをやるしかない。
どんなに気をつけても事故の確率をゼロになんてできないのだけれど。


今日、イラクで3人の日本人が拘束され、自衛隊の撤退が解放条件とされているらしい。こういう事態は「起こってほしくなかった」に決まっているけど、「起こってもおかしくない」と誰もが思っていたはずだ。
小泉首相も、当然「こういうことは想定していた」だろう。
承知の上で自衛隊を派遣したのだから、そのくらいの犠牲はやむをえない、と考えるべきなのか、それとも、(相手が約束をちゃんと守るかどうかはわからないが)「3人の生命のために撤退すべき」なのか?

たぶん「妥協しない」というのが日本の国益にとっては正解なんだろうな、と思う。ここで撤退してしまったら、日本は「弱腰の国」として世界中から嘲笑われるだろうし、今後も同じような方法で日本を脅迫する集団が出てくるだろう。

でも、人質になった人たちのことを考えると「犠牲になれ」と言うのは、あまりに非人道的な気もするんだよ。その一方で、「自分の知り合いじゃなくてよかった」という意識もあるのだけれど。
「人の命は地球より重い」という有名な言葉があるけれど、たぶん本当は「人それぞれ、自分にとっては地球より重い命もある」ということなのだろうな。



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夕暮れに感じる「失われたもの」 - 2004年04月07日(水)

昨日の夕方、ちょっとした用事で外を歩いていたら、どこからか魚を焼いているにおいが漂ってきた。たぶん塩鮭だと思う。もう15年も一人暮らしをしていて「あたたかい家庭」なんてものへの憧れは消え去ってしまったような気がしていたのだが、この「夕飯の支度の香り」にだけは、なんだかセンチメンタルな気持ちにさせられる。
失われてしまった一家団欒への追憶、とでも言えばいいのだろうか?もともと僕の子供の頃にだって、そんな理想的な団欒なんてありはしなかったような気もするのだけれど。
少なくとも今の路線で人生を進めていけば、僕に団欒の食卓なんてものが訪れる機会はないような気がする。夜は遅いし、結婚相手だって一生懸命毎晩ごはんの支度をするような余裕はあるまい。
そんな人生が間違っている、なんていう気はない。でも、あの夕暮れのにおいに、僕はいつも「失われてしまったもの」を感じて、せつなくなるのだ。

「専業主婦で、ずっと家で待たれたりしているのはプレッシャーになるからイヤだ」なんて言いながら、僕はそういうものを求めているのかもしれないな、とときどき思う。
「家のことをキチンとやる」とか「家族を幸せにする」というのはスゴイことだな、と最近、あらためて感じる。

「みんなをほんの少しずつ幸せにすること」と「身近な人をものすごく幸せにすること」のどちらが正しいかなんて、誰にも決められないよな、きっと。
「ひとりの人間が周りに与えられる愛情の総量」なんて、実は、そんなに個人差はないのかもしれない。


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「才能」について思いついたことなど。 - 2004年04月05日(月)

限りなく自虐的な気分で。

(1)オリンピック選手は、あんなに練習してすごいなあ!とか言いながら、僕はいつも「自分にオリンピックでメダルが取れるくらいの才能があれば、同じくらい頑張れるさ」とか思っている。

(2)ああ、やっぱりあの人は良家の子女だなあ、とか「住む世界が違うなあ」とか感じて哀しくなることもあるのだ。でも、もっと哀しくなるのは、世間一般からみたら、おそらく自分もその「良家の子女」の範疇に入っているんだろうな、と実感するときだ。

(3)いっそのこと、皇族とか、名門政治家とか、中途半端じゃない超エリートに生まれてみたかった、とか感じることがある。「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」と素で言えるような人間に。

(4)イヤだったピアノが好きになったのは、周りが誰も弾けなかった難しい曲を僕だけが弾けるようになったからだ。「好きこそものの上手なれ」とは言うけれど、エラーばかりなのに野球をやりたがる人はあまりいない。

(5)とはいえ、エラーしたときに「畜生!」と思うか、「今度はこうやったら取れるかな」と思うかで、たぶんその先は違ってくるのだろう。

(6)日本人ってバカだなあ、と思うのは、こんなに誰にでもチャンスがある国は世界にほとんど無いのに、みんな「2世」とか「名門」とかをありがたがるということだ。自分たちで階級社会をつくってどうするんだ。

(7)だいたい、「自由の国」とか言うけどさ、生まれ落ちた瞬間にマイケル・ジョーダンにはなれないことはわかるが、田中角栄にならなれる可能性はあるような気がしないか?

(8)何もしないで、ある日突然開花する才能なんて、本当にあると思う?

(9)世の中には、「自分の才能を使っていない」ということを自慢する人間が、なんて多いことか!


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「馴れ合えない人々」とインターネット - 2004年04月03日(土)

 どうしてこんなことを急に書き出そうかと思っていたかというと、そもそもここに書くべきことが最近ほとんどない状況の中で、花見のあとに2時間ほど居眠りしてから起き上がると、女の子たちがチアリーディングをやっているドラマが放映されていて、観るともなしにそれを観ていたら、なにかとてもとても哀しくなってきてしまったのだ。

 僕の学生時代というのは全寮制の男子校というやつで、僕はそこで毎日「こんなのイヤだなあ」と思いつつ、イヤになるような成績をとったりとらなかったりして暮らしていた。楽しみといえば寮を抜け出して駄菓子屋で買ってきた菓子やジュースを摂取することと本を読むこと、そして週末の外出くらいのもので、本当にあれは、毎日面白くもなんともなく生活だった。
 結局この30過ぎまで、自分にも他人にも誇れるようなものなど何もなく、ただこうして「普通に生きるのもけっこう大変なんだぞ」なんて偉そうに書いていると、なんだかそれはそれで虚しいなあ、なんて思ったりもするのだ。あと10年もすれば、「俺の若いころは…」なんて偉そうに語るイヤミな先輩一人誕生、といった面持ちで。

 インターネットは「馴れ合い」というのは、一面の真実には違いない。もともとネットは効率よく情報を集めるためのツールで、それを仲間集めに応用しただけのようなものだし。まあ、友達選びの基準が「アクセス数」とかいうのはどう考えても矛盾極まりないのだが、こういうのは現実世界でもそんなものだから仕方がないか。一面識もない人だけど「ろじっくぱらだいす」の人とかに会う機会があったら、平身低頭してしまいそうだし。

 で、コミュニティとしてのネットというのは、どんどん変質しつつあって、例えば「インターネットのメール交換で出会った」なんていうのは今では、あまりに一般的でドラマのネタにもならないし、だいたい、一週間もメール交換すれば「写真見せてよ」なんてやられるのがオチだろう。で、「デジカメないんだよね」なんていうのも通じない、と。
 で、結局は自分の容姿と才能に自信がある、アクティブな人々が、ネットを回していくっていうわけさ。
 そして、「一般常識がないやつは、ネットの中でも通用しない」というような常識的な世界が構築されていくわけだ。ネットというのは、「馴れ合いやお付き合いが苦手な人々」のセーフネットという面があったにもかかわらず。
 僕はこっちのほうで、「疎外感」があるのは当たり前で、そのコミュニティに入りたければ、自分を叱咤して踏みとどまれ、みたいなことを偉そうに書いたけど、自分でもオトナになったなあ、なんて考えてもみるのだ。
 実は、僕がこうしてネットに文章を垂れ流しているのは、そういうリアルのコミュニティみたいなものへの「疎外感」を何かで埋めたいと思っていたからのような気がするのに。

 ネットというのは「自分の身分や立場に縛られずに、自由に発言できるコミュニティ」のはずだったのだが、そこには権威が生まれ、序列だってできた。新大陸アメリカに渡った人々はイギリスで宗教的に辛い立場にあった者が多かったのだが、彼らが新大陸に渡ると、またその中でさまざまな序列ができあがっていった。アメリカ人が「平等」を旗印にするのは、基本的に彼らが「平等」ではないからだ。それでも「平等でなければならない」というような強迫観念は、賞賛されるべきところも大きいのだが。

 自分でも何を書いていいのかわからなくなったのだが、僕はネットを「最後の楽園」にしておきたい、という気持ちが強いのだ。
 もっとも、そんな「楽園」なんて最初からどこにもなくて、僕が「そんなものはないことを知らなかった」だけなのかもしれない。

 それでも僕はネットが好きだけれど、その「好き」という理由が、当初の「楽園を予感させるもの」から「自分がある程度の権力を持っている場所(そりゃ、微々たるものだけどね)」に変貌してしまっていることをつくづく自覚してみたりもするのだ。
 「愛国心」を称える人が、みんな偉い人なのと一緒だね。

 僕は三島由紀夫のこと、とくに彼の晩年のことをずっと「バカだなあ」と思っていたのだけど、最近、少しずつ考えが変わってきた。たぶん三島は「文章を書く」という仕事にずっと携っていくうちに、文章の限界をみてしまったのではないか?頭で考えることは、どんなに素晴らしいことでも、所詮フィクションでしかないという矛盾に悩むようになったのではないか?彼は「己の貧弱な肉体に対するコンプレックス」を抱えていたというが、おそらく、あのチアリーダーをやっていた女の子たちのような「肉体の記憶」(なんかいやらしいな…)を持っている人間への、「フィクションとしての記憶しか持たない」というコンプレックスだったのではないか。
 三島由紀夫は、自分の肉体で「痛み」を証明したくて、あんなことをやってしまったのかもしれない。まあ、他人からすれば、はた迷惑極まりない話だ。

 たぶんね、今のネットのコミュニティというのは、そういう「フィクション」と「ノンフィクション」の間で揺れている。「ネットはひとつの世界である」という認識と「ネットは現実社会のひとつのツールである」という認識と。
 ほんとうは、「ネットの中くらい『馴れ合えない人々』にも寛容な空間でもいいんじゃないかなあ」なんて考えてみたりもする。
 それでも、バーチャルな関係だけでは飽き足らず、より現実的・肉体的なものへと向かってくのは、必然なのかもしれない。

 本来「馴れ合いない人々」である僕が、ちょっとここで偉そうにしているからって、ほかの「馴れ合えない人々」に説教するなんて、ちゃんちゃらおかしいよな。



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