「抱かれたくない男」のようなサイト戦略 - 2004年03月31日(水) 車を運転していたら、新しくオープンしたらしいガソリンスタンドの前で、店員さんたちが一生懸命大きな旗を振っていた。 僕はそういうスタンドに寄ると、あーだこーだとサービス過剰でなんだかめんどくさいので、好きこのんでそういうところに寄ることはない。内心「あんなに派手にやってたら、かえってみんな引いちゃうんじゃないの?」とか思ってしまうのだ。 でも、昨日レースクイーンと結婚した「抱かれたくない男・ナンバーワン」の出川さんを観ていて感じたのだけど、何事でも「とにかく目立つ」ってことが大事な場合もあるのだ。 件のスタンドだって、あの仰々しい雰囲気に嫌悪感を示す人もたくさんいると思うのだが、とにかく「存在を認識されないと、選択肢のうちに入らない」というのは、一面の真実には違いない。 出川さんも「誰も知らない人」であるよりは、芸能人として「抱かれたくない男・ナンバーワン」というのは、「認知されていること」の証明なわけで。 誰も知らない人では、「抱かれたくない男」にランクインできないからさ。 ネットをやっていると、「なんでこんな極端なことばかり書いているサイトが人気サイトなんだ?」と思うことがある。 それもたぶん、そういうことなのだろう。 「みんなと一緒」では、誰も目を留めてくれないから、嫌う人が多くても、アピールすることが大事な場合だってあるのだ。 普通のサイトが普通にやっていくのは、なかなか難しい。 まあ、恋愛とかだと、基本的にひとりのツボに嵌ればいいわけだから、「極端なアピール」でも、何もしないよりは、はるかに「可能性がある」わけだしね。 嫌われることを恐れては、結局何もできないことが多いんだよなあ。 ... 「感情」と呼ばれるものについて。 - 2004年03月30日(火) (1)みんなが幸せになるような恋愛なんて、きっと存在しない。幸せそうに微笑む美男美女カップルの陰では、その女の子に憧れていた男が泣いていたりするものだ。たとえ、当の本人たちはその存在を認識していなくても。 ひょっとしたら、世界で一番みんなを幸せにするカップルというのは、世界一の嫌われ者同士のカップルかもしれない。 (2)「完璧」というのは、ありえないのかもしれない。結局、「あのソツのないところが苦手!」とか言われてしまったりもするしね。 (3)「どうしてみんな僕に恋愛相談とかしてこないのだろう?」と考えてみたりする。あいつより、少しくらいマシなことが言えそうなものなのに。本当は、その理由はわかっている。「僕が他人に恋愛相談とかしないから」なのだ。 「愛されない理由」も、たぶん同じだと思う。 (4)どんな「演技」だって、一生続けられれば、それはもう「演技」じゃないさ。 (5)「写真うつりが悪い」とずっと思っていたので、自分が写った写真を見るのは大嫌いだった。だが、今になって考えると、「写真うつりがいい人」というのは、いつも自分が写った写真をしっかり見て、そのときの表情やポーズをチェックし、次回にフィードバックしている。「天分」だけの問題じゃなかったのだ。 「感情表現がうまくできない」と悩んでいる人が多い割には、自分の「感情表現」を鏡に映し、その結果を次回に生かしてしている人は、ほとんどいない。 (6)どうして、これだけ解ったようなことが書けるのに、実践できないのかな… ... 『ドラゴンクエスト』本紀(1) - 2004年03月28日(日) 「ドラゴンクエスト5」が発売された。 僕は基本的に、何かを読み返すとかいうのがあまり好きではなくて(でも、小学生の頃に買ったマンガは、必ず翌日も読み返していたけどね)、「この映画大好きだから、もう3回も観た」なんていうのは、ちょっと信じられないのだ。 だって、一度観たら、ストーリーは頭に残っているし、「好きなものの再確認」のために、何度も見直すくらいなら、別のものを観たほうが時間を有益に使えるのではないか?という気持ちを持っていたのだ。 でも、「ドラゴンクエスト」だけは、遊ばずにいられない。 たぶん、僕自身の人生ともリンクしている(と自分で思いこんでいる)からだ。「ドラゴンクエスト」について思い出すと、そこにはすべて、その当時の自分の姿の記憶がある。それは、寂しい転校生だったり、寮からの束の間の脱出であったり、大学時代の閑散とした部屋だったりした。 「ドラゴンクエスト」シリーズとは、長い長いつきあいになる。 「ドラゴンクエスト」は、発売当初、「ファミコンで『ロールプレイングゲーム」というのができる!」ということで、週刊少年ジャンプでしきりに宣伝されていたのだが、当時パソコンゲーム少年だった僕は、「ケッ、あんなの『ウルティマ』や『ウィザードリィ』のパクリじゃないか」とか思っていた。実際に『ウルティマ』や『ウィザードリィ』で遊んだことはなかったにもかかわらず。 たぶん、そういう耳年増な時代だったのだと思う。 ちなみに、後年『ウルティマ』や『ウィザードリィ』も遊んではみたけれど、僕にとっては断然『ドラゴンクエスト』のほうが面白かった。パクリだろうがなんだろうが。まあ、ゲーム内容以前の「操作性」というところで、『ドラゴンクエスト』は、ものすごく優れていた。 「たいようのいし」の場所がわからなくて、はじめて誰かに「謎解き」を聞いたのもこのゲームが最初だった。答えを聞いて、ちょっと腹立ったけど。 『ドラゴンクエスト』は、それなりに話題にはなったし、「面白い!」と思ったゲームなのだけど、ちょっと物足りないところもあった。なんといっても、3日で終わる。 そんなある日、家にエニックスから、一枚の絵葉書が来ていたのだ。 『ドラゴンクエスト2』発売のお知らせ。 アンケートはがきを送ったからだと思うのだが、当時「新作ゲームの情報を誰よりも早く知ることができる」というのは、ものすごく嬉しいことだったのだ。今みたいに、新しい情報が秒単位でネットを駆け巡る時代じゃない。 向こうからしたら、僕への絵葉書など「ワン・オブ・ゼム」だったのだろう。でも、僕にとっては「自分に特別に『ドラゴンクエスト2』の秘密情報を教えてくれた!」という気がしたのだ。 しかも、今度は、仲間が増えて、多人数同士の戦闘ができるという。 『ドラゴンクエスト』は、ゲームのエンディングを変えた素晴らしいラストをはじめ、3日で終わっても「買ってよかった(というより、手元にあってよかった!)」ゲームだけど、長さのほかの不満があるとすれば、1対1の戦闘では、「この敵に攻撃されて受けるダメージは、最大○○ポイント」というのが「読める」ということだった。しかし、敵味方の人数が増えることによって、戦闘のバリエーションは、大きく広がることになった。 そしてついに『ドラゴンクエスト2』の発売日。当初発売予定だった年末を過ぎての発売だったが、その姿はあっという間に店頭から消えた。 それは、ひとつの社会現象だった。 (2)に続きます。 ... 「伝える仕事」の尊さ - 2004年03月27日(土) 僕は以前、アナウンサーという仕事にあまり意義を見出せなかった。 なぜならあれは、基本的に「何かを右から左に伝える仕事」だという意識があるからだ。そこには「自分」が介在する要素がない。 でも、今日のニュースステーションを観ていて思った。 「伝える仕事」というのは、本当はとてもとても尊いものなのではないか、と。「何が尊いのか?」と言われるとうまく言葉にできないけれど、少なくともこの21世紀でも、多くの人に何かが伝わるには、誰かの力が必要なのだ。こうしてWEBに書いている文章だって、普段は意識していないけれど、パソコンを作った人やプロバイダーの人の手が、確実に介在している。 「誰かに何かを伝えられること」というのは、すごくありがたいことだ。 情報だって感情だって、誰かの手を借りなくてはならない限りは「伝言ゲーム」なのだから。あのゲームは「間に誰が入るか?」で、全然伝わる情報が伝わってしまうっていうのは、みんな経験済みのはず。 だいたい、人間の「仕事」の大部分って、誰かに何かを「伝えること」だものなあ。 ... 他人に何かを伝えるために、必要な文章の長さ。 - 2004年03月24日(水) 先日、車を運転しながらラジオを聴いていたら、卒業シーズンらしく、こんなFAXが読まれていた。 【今年小学校を卒業する娘へ キミが私の娘で、本当に良かった。 体が不自由な弟のために、勉強ができるのに地元の学校に進学してくれてありがとう】 要約すれば、そういう内容で、僕はそれを聴きながら「ああ、いい娘さんんなんだなあ」なんて、やや感動モードに入りかけていたのだけど、どうも次第にクールダウンしてしまった。 その原因は、そのFAXが「ひたすら長い」ものだったから。 その「娘への手紙」は、いろんな思い出が綴られていたのだけれど、「娘への個人的なメッセージ」を延々と聞かされるというのは、第3者である僕にとってはけっこう苦痛だった。そして、「これは長い…」と悟ったDJが途中からどんどん早口になっていったのも、僕の苛立ちに拍車をかけた。 たぶんDJは下読みの段階では「いい話だ…」と感動していたのだろうが、自分で読み始めてみると、そのあまりの長さ、くどさに気がついて焦っていたのだろう。 いや、内容そのものは、すごくいいことが書いてあったし、娘への愛情も感じられた。 しかしながら、いかんせん「長い!」 何かを誰かに伝えようとするとき、僕たちは内容にこだわりがちだが、「話の長さ」というのは、おそらく重要なファクターなのだと思う。もちろん状況によって、適切な長さというのは異なっていて、さきほどの「娘への手紙」も、電波にのせるものでなく、直接娘に渡すのなら、必要にして十分な長さだろう。 結婚式のスピーチなどは、「適切な長さ」が重要な文章の冠たるもので、あまり関係のない地元の偉い人のスピーチなんて、短ければ短いほどいい。友人代表のスピーチは、あまり短いと寂しいが、少なくても「長すぎる」よりは、はるかに親切というものだ。挨拶をする人は自意識過剰になりがちだけど、他の招待者は、まぎれもなく新郎新婦が主役なわけだし。 だいたいの話は、送り手が「ちょっと短いとみんなに思われるかな?」と感じるくらいで止めておいた方が、本当は良いのだ。おそらく、そのくらいで丁度いい。 以前、井上ひさしさんが、文章の書き方について「まず書いて、自分の一番気に入ったところをバッサリと削るようにしなさい」と言われていた。なぜかというと「自分で気に入っているところは、かえって表現が冗長になっていてリズムが悪くなっていることが多いので、読む側には鼻につくから」なのだそうだ。 「結果として長くなってしまった」というのはともかく、原則的にはなるべく短い文章のほうが良い。とくに、何かを誰かに伝えようとするためには。「内容」のみならず、「長さ」も技術のうちなのだ。 ちなみに、この文章が「長すぎる」のは言うまでもない。 ... 映画「イノセンス」感想(ネタバレです) - 2004年03月21日(日) (この文章には、映画「イノセンス」のネタバレが多数含まれますので、未見およびこれから観ようという気持ちがある方は、読まないほうがいいです。というか、お願いだから読まないでください)。 さて、昨日押井守監督の「イノセンス」を観たのだが、19時過ぎからの会で、中規模の部屋に客は3〜4割。内容とは直接関係ないのだけれど、最初に流れる予告編(僕はこれを観るのがけっこう好きなのだ)が、「キューティーハニー」とか「スチームボーイ」とか、アニメ系ばかりで、逆にさんざん流れている「トロイ」とかをやっていなかったのには驚いた。うーん、やっぱりマニア向けなのか「イノセンス」。 で、映画を観ての感想としては、台詞回しが銀河英雄伝説チックというか、何もいちいちそんな小難しいことを言い合わなくてもいいんじゃないか、という気がしたことを除けば、なかなか楽しめる映画だったと思います。正直なところ、テーマの斬新さというのはあまり感じなかったのだかれど、むしろ「こういう場面は、こういう演出でみせるのか」というような感慨が大きかった。しかし、そういう「まわりくどさ」というか、「みんなわわからないかもしれないけど、自分だけはわかっている感」みたいなのが、この映画の魅力なのかもしれません。 正直、「攻殻機動隊」を観てなかった僕には、設定とかは限りなくなくわけがわからないし、あの「少佐」という人が出てくるのは、あまりに唐突かつ強すぎなキャラ設定で、「るろうに剣心」の斎藤一のような、全体のゲームバランスを壊してしまうキャラ設定のような印象も受けました。それに、これほど「人間」を出さずに「人間」を出そうとした作品は珍しいかな、とも。最後の船での戦いとか、敵の幹部が出てくるわけでもなく、ただ淡々と襲ってくるレプリカント(じゃなくて、なんと呼ぶのだろう、セクサロイド?←ガイノイドらしい)を撃ちまくるのみ。最後の最後まで、「観客が憎しみを投影するべき個人」というのは、登場しないのです。ただ、「個人」を描かなかったことで、「人間という生物」が浮き彫りにされている面もあるのかな。 よくわからないところもたくさんあったのですが、それは実際には「難しい」というよりは、「意味ありげな引用の内容を頭の中で咀嚼しているうちに、ストーリーが先に進んでしまっている感じ」でした。 僕がこの映画であらためて感じたことというのは、「人間と人形、そして機械の境界の曖昧さ」みたいなもので、それは、僕が前から考えていた「人間は機械なのではないか?」という感覚によくマッチしていました。人間は、まだ人間自身には解釈しきれないくらいの精巧な機械であり、すべての情報を数値化し入力することができれば、「人間の一生」(それは、道に迷ったときに、右に行くか左に行くか?」まで)なんて、完璧にシミュレートできるのではないか、というものです。 僕たちが「悲しい」と思って泣くのは、僕たちにインストールされているプログラムが「そういう情報は『悲しい』というものなんだよ」という条件式にあてはまる状況を「悲しい」と解釈して、涙を流すというプログラムを実行するのではないか、「感情」というのは、そんなに聖なるものではなくて、単に「入力信号に対する反応」なのではないか、というような世界観。 しかし、僕がそんな話をすると、一緒に映画を観に行った人に、こんなことを言われました。 「確かに、あなたの言うとおりなのかもしれない。でも、『人間はプログラムに沿って動いているだけの機械だ』ということが仮にわかったとして、誰がそれで幸せになるの?何かそれでいいことがあるの?」 僕はそれを聞いて、考え込んでしまいました。 彼女は「面倒なことに対しては、思考停止してしまう」というようなタイプではないですし、日頃は人間の「こころ」にまつわる仕事をしています。そして、その僕への問いかけは、たぶん、「それでは、自分の仕事はなんなのだろう?」という自分への問いかけもあったはずなのですが。 考えすぎることや、何かを知ろうとしすぎることは、ときに人を不幸にします。「そんなことなら、知らなきゃよかった」なんて経験は、誰でも一度や二度はあるのではないでしょうか? 結局、僕は何のためにいろんなことを考えているんだろうか? 「自分だけは知っている」という自己満足のために、誰も喜ばないような「真理」を追究することに、果たして意味があるのかどうか? 「知ること」によっても、結局は幸せになれない人間という存在。 それでも、「知りたい」という欲求を抑えなれない、残酷なイノセンス。 ... たとえば、「日常性に溺れる」ことについて。 - 2004年03月17日(水) 「半熟ドクター(3/16)」を読んで。 ああ、こんな文章を読んでしまうから、僕はまたいろんなことを考えてしまう。20歳くらいまでの僕って、本当にバカバカしいくらい自意識過剰で、天下国家を語りたがり、「見かけや職業に左右される感情は、『愛』じゃない」なんてことを本気で考えていたのだ。 僕は年をとってよかったなあ、と自分では思っている。そりゃ、体脂肪は劇的に増えたし、若い子にモテモテ、なんて状況には全くならないが、少なくとも自分というものを肯定、とまではいまでも、まあ、こんな人間がいてもいいだろう、と自分で自分を受け入れられるようになったし(ああ、でもまだ自分の顔を鏡でジロジロみたり、自分が写っている写真を見たりするのは、今でもイヤでイヤで仕方がない)、いろんなことに寛容になってきたような気もするのだ。 だが、それは自分で「おおらかになった」と思い込んでいるだけで、実際には単にいろんなことを誤魔化すのがうまくなっただけなのかもしれない。 【「心」とか言うけどさ、結局「貧しくても」心が美しい人、とか「キレイなのに」親しみやすい人、なんて、「心」を語る前に修飾語がついてるじゃないか、どうせ、そんなもんだよ。それなら、最初から見かけや学歴を気にします、って自覚したほうがいいんじゃない?】なんて。 どんなにがんばっても世界なんて救えるわけもないし、ノーベル賞がもらえるわけでもない。それが現実なのだし、それならそれで、小市民的な幸せを見つけたらいいさ、みんなそうしているよ。とりあえずときどき美味しいものが食べられたり、日記を書いて褒めてくれるメールが来ればいいや、それもまた人生のヨロコビだ。 それはたぶん、自分に対する言い訳なんだろうな、なんて思う。どうせ何もできないんだから、と自分に言い聞かせ、何かに一生懸命頑張っている人に「なんか、宗教的だよなあ」とか冷笑をあびせる。 オトナなんて、情けないものだ。 でも、僕は少なくとも、それで生きるのがラクになった。 そんなの邪道、とか言いながら、年賀状をパソコンで作ってしまうようなものだ。便利さに一度慣れると、元に戻るのは至難のわざ。 そして今日もこうして、虚構の自分語りをして時間を過ごす。 自分より若い人たちの書いたものを読んで、「青いな」「『正しい理念』ばかりで、誰も共感しないだろうな」と内心苛立つ。 もう、「正しい理念」を振りかざす勇気が無くなってしまった自分に。 本質は何も変わっていないのかもしれない。 でも、僕を覆う殻は、どんどん厚くなっていくのだ。 そしてもう、それに包まれないと生きていけないような気がしてきている。見栄えのいい殻のために生きている、そんなときもある。 …これでも、生きているのが鬱陶しいと思う夜だってあるのだ。 ... 結末だけを知りたがる人々 - 2004年03月14日(日) 「あらすじ本」の流行は留まるところを知らず、昨日本屋に行ったのだけれど、これでもかとばかりにその手の本が積み上げてありました。 「このくらいは常識!日本の名作100選のあらすじ」や「世界名作30選」など(タイトルはうろ覚えです)。 最初にこの手の本を考えた人は、凄いと思う。この数十年で娯楽の幅というのは革命的に広がってしまって、「共通体験」というべき「スタンダード」な本は、ほとんど死滅してしまったから。 もっとも、今の子供たちにも「ポケモン」とかがあるし、スタンダードが絶滅したわけではないんだろうけど。 僕が子供の頃、今から20年前くらいは、まだまだ娯楽の幅自体が狭くて、テレビの放送が無くなってしまえば、ラジオを聴くか、本でも読むかしかやることがなかったのだ、本当に。ラジオも「鶴光のオールナイトニッポン」なんかを聴きながら、内心、「これって、どんな意味?」とか考えていたものだった。いや、なんとなくわかるものはわかってはいたんだけど。 例えは、本にしても「読むべき本」というのは比較的範囲が狭いもので、学校の「読書好き」は、江戸川乱歩の「少年探偵団」やドイルの「シャーロック・ホームズ」を片っ端から読んで、僕みたいにマイナー志向を気取る人間ですら「怪盗ルパン」とかで「人とは違う」ことをアピールしていたくらいだった記憶があるのです。そういえば、エラリー・クイーンとか格好つけて読んだけど、「XYZ」以外は全然ピンと来なかった。クリスティは面白いのが多かったなあ。あんまり分厚くなかったし。 でも、今の子供たちは違う。ビデオ(DVD)、ゲーム、本にしても、中古書店がたくさんあるから、安い金額でたくさん本が買える。要するに、「やることがない」とう状態に、陥ることなんてないんじゃないでしょうか。もちろん、リアルタイムで子供をやっている人は、そんなことないと感じているのかもしれないけどね。 少なくとも、「本」しかも漫画ならぬ「名作」と呼ばれるような作品にそんなに手が伸びるとも考え難いのだ。だいたい、僕の子供時代から20年も経っているのだから、今の子供にとっては一層「時代おくれ」の印象があってしかるべき。 僕だって、10年前のトレンディドラマなんて観ると、「携帯持ってたらよかったのにねえ…」なんて思ってしまうものなあ。 そう考えると、永遠の名作なんてありえないのかもしれないし、「名作を読む」っていうのは、もはや共通体験ではありえず、「こんな話だった」っていう「知識」だけで十分なのかもしれない。 ただ、僕がちょっと心配なのは、最近あまりに「結果だけを必要とする人々」が増えてしまって、プロセスが失われてしまうのではないかなあ、ということなのです。 どんな面白いゲームでも、エンディングだけ観たら面白くもなんともない。でも、「そのゲームをやった!」とみんなに言いたいためだけに、エンディングだけ観るようになってしまうのかも。 実は、「ドラクエ」と「FF」だけが突出して売れるのは、それらが「売れることを前提に手間とお金がかけられている素晴らしいゲーム」であるのと同時に、「ドラクエ」や「FF」なら、みんなと「共通体験」ができるだろう、という気持ちもあるのではないかなあ。だから、新しいゲームに、入り込む余地みたいなものは、これからもどんどん少なくなっていくのかもしれません。実際に「D」と「F」と「P」以外のRPGは、次第に売れなくなっていっているみたいだし。 まあ、そんなのは当たり前で、まっとうに学校や会社に行っている人間は、このくらいでもう、おなかいっぱいなんだよね。 結局、名作というのは、過去の遺物になってしまう運命なのかもしれません。でも、その一方で、名作というのは、「年月」という最強のフィルターを通りぬけてきたものたちだから、バカにはできないと思うんですけどね。 プレイステーション・ベストみたいなものか。 ところで、例の「名作あらすじ集」を読んでみると、実際にあらすじにしてしまうと、文学作品というのは、いかにバリエーションが少ないものか、なんて感じてしまいます。そんな読み手がビックリするような結末なんて、ありえないんだよね、とくに本の場合には。残りのページ数で「まだ終わらないな」とか「そろそろ決着つくな」とか、つい考えてしまうし。 そういえば、人生とかいうやつだって、結末にはたいしたバリエーションはないものなあ。 何でも結末だけを知りたがるんじゃなくて、プロセスを楽しめないと、やっぱり損なのかも。 ... もうひとつの「耳をすませば」 - 2004年03月13日(土) ケッ、美男美女の初恋物語かよ、こんなの現実にはありえねー! 少なくとも、自分には異次元だよこの話は。 僕の「耳をすませば」に対する、この10年来の感想は、こんな感じでした。最初に映画館で観たときも、「とんでもないもの観てしまった…」と大後悔時代に突入してしまいましたから。まあ、サエナイ・モテナイ中高生時代(いや、モテナイどころか、高校は全寮制の男子校ですらあったんだけどさ。でも、来るやつには寮にバレンタインのチョコレートとか送ってくるんですよ本当に)を過ごした僕にとっては、「ホビットやエルフよりよっぽどファンタジーな映画」という感じ。 何度、席を立とうと思ったことか! そういえば、「カントリー・ロード」の本名陽子さんの歌声だけは、なぜかすごく好きでしたけど。表現力豊かというよりは、真っ直ぐに前に向かって放たれる声。 それで、今回あらためて観直してみたのですが、さすがにあれから10年経つと、いろんなものが変わったのだなあ、なんて思います。黒電話で連絡を取り合う中高生カップルなんて、もう絶滅種でしょうし、あんな清純派の女子ばかりいるような学校もありえないでしょう(それはたぶん、当時からそうだった)。今だったら、キスくらいするだろうな、とか思ったし。まあ、リアルタイムの時点で、すでに「こんなピュアな恋愛物語なんて、ありえん!」とみんな思いつつも、これはジブリだ!と心に言い聞かせていたわけですが。 でもね、僕は10年間、「耳をすませば」は、恋愛モノだと思い込んで心の中で激しく排斥していたけど、今回観て、これは「自分探しの物語」なのだなあ、ということがはじめてわかったような気がしたのです。 雫が物語を書いているシーンなんか、なんとなく自分のことを振り返ってしまった。僕はいわゆる似非文学少年だったのですが、自分で創作をするということは、あまり考えたことがありませんでした。それが、中学校のとき、「火吹き山の魔法使い」という本が出て、それから「アドベンチャー・ゲームブック」というのが大流行したとき、ちょっとした変化があったのです。 たぶん全然知らない人が多いのだろうけど、「ゲームブック」というのは、要するに「途中に選択肢があって、自分の選択によってストーリーが変化していく本」のこと。例えは、「分かれ道がある。左に進むなら56ページ、右なら80ページに行け」というような感じで、その行き先のページから、物語が分岐していきます。 これにハマった僕は、「よし、自分でゲームブックを作るぞ!」と思い立って、自分の学校を舞台にした内輪ネタ満載のゲームブックを書いたりしていたのです。それはもう、ほんとうにくだらない内容ではあったのだけど、そうやって「何かを完成させる」という行為は、すごく楽しかったような気がするのです。実際は、描きかけの超大作ばかりが残って、完成したのは何篇かくらいだったんですけどね。 「耳をすませば」の中で、雫のお父さん(それにしても、立花隆の「あまりに声の演技をしていない」声優っぷりにはあらためてビックリ…)が「人と違うことをして生きるというのは、キツイことなんだぞ」と言うシーンがあります。結局、レールの上に踏みとどまって、「人と同じことをして生きる」道を選んだ僕にとっては、ちょっとせつなくなる言葉でした。 「耳をすませば」というのは、ラブ・ストーリーであると同時に(あるいは、それ以上に)「何かを創り出すことに目覚めてしまった人々」の話なのかもしれません。いや、本当に描きたかったのは、むしろそっちの方なのかな、なんて。「彼が好きだから物語を書こうと思った」のか「物語を書くきっかけが彼だったのか」は、結論が出せる話ではないのだろうけど。 あんな美男美女の恋は、僕には縁遠い話だったけど、それだけで拒絶する必要もないのかな、なんて思った「耳をすませば」だったのです。 相変わらず恋愛パートについては、全然共感できませんでしたが。 携帯電話が普及して、学生たちがブランドものを持ち歩くようになって、「愛の形」が変わっても、「創作者たちの苦悩と葛藤」というのは、たぶん不変なんじゃないかなあ。 ... ラブ・コンプレックス - 2004年03月11日(木) (1)すぐに恋愛話をしたがる人は苦手だ。とくに「愛って…」とか自分の考えを一般論だと勘違いしている人。 (2)「別れる理由」って、そんなに大事なのかなあ。動機よりも「もう好きじゃない」という結論がすべてなんじゃないだろうか。 (3)「もう、絶対あんな男とは付き合わない!」と泣いた彼女の次の男は、だいたい前の男とよく似ている。 (4)女性というのは、多くの場合「どうしてそっちを選ぶの?」という男のほうに行きがちだ。 (5)「正しい恋愛」というのがこの世に存在すると思っている人は、ちょっと怖い。 (6)同様に、「正しくない恋愛」というのが存在すると思っている人も。 (7)でも、「迷惑な恋愛」というのは、厳然として存在する。 (8)なんでもあり、なんだよな、結局。でも、STD(性感染症)には気をつけてね。 (9)恋愛経験が少ない、というのは確かにコンプレックスだ。 (10)しかし、恋愛経験なんてのは、「他人に自慢する」以外に使い道のない経験だよな。 (11)う〜ん、しかしながら「コミュニケーションの基本」とか「ブラックジャックによろしく」には書いてあったけどね。 ... 「安易に自殺した人たち」が責められる本当の理由 - 2004年03月09日(火) 「自殺は悪いことだ」そんなことは至極最もなことにもかかわらず、みんなは「ラスト・サムライ」で渡辺謙演じる勝元の「死の美学」を「これぞ日本人の魂!」とか絶賛するわけだ(いや、僕も嫌いじゃないよ、作り話だし)。 でも、浅田農産の会長夫妻が「自ら死を選んだこと」については、「自殺は良くない!」とか「安易に死に逃げるな!」とか罵倒してしまうわけで。 それを言うなら、勝元だってあんな勝ち目のない玉砕戦術に敵や味方を巻き添えにしなくったってよかったんじゃないの?なんて思わなくもない。 「死刑廃止論者」の多くが、池田小事件の宅間やオウムの麻原のことになると口を濁してしまうのは、なんだかとても不思議なことだ。「死刑廃止」というのなら、「改心した後の永山則夫」について語るより、まずこういう「もっとも死刑に相応しい犯罪者」たちに対して考えなければなるまい。彼らは例外だというのなら「死刑廃止」なのではなくて、「死刑慎重論」(死刑にする犯罪者は、なるべく慎重に判断しよう)であって、別にそれなら僕は異論はない。 浅田農産がやったことというのは、不届き千万なことで、自分の利益と生活を追求するあまり、他人が口に入れるものに対して不感症になってしまった生産者というのは、「万死に値する」と思う。ただ、話を聞いていたら、「弱っている鶏から出荷する」なんてことは、昨日今日はじまったことではないみたいだし、おそらく、この浅田農産だけがやっていることではないのだろう。 こういう感覚っていうのは、本人たちにとっては、料理屋で客が手につけなかったパセリをそのまま次の客に出すのと同じ程度のものではなかったのかな、などとすら感じるのだ。 確かに、鶏インフルエンザというのは怖い。ただし、今のところ日本では死者はいないし、卵や肉からの感染は確認されず、感染ルートは生きた鶏からのみとされている。僕はこの「鶏インフルエンザ隠し」のニュースを観て、「まあ、こういう人たちがいてもおかしくないだろうな」と思ったし、驚きもしなかった。考えてみれば、兵器を売って儲けているよりよっぽどマシじゃないか。だからといって、死にかけた鶏を食べさせられるのは、気持ちの良いものではないけれど。 しかし、言葉は悪いかもしれないが、こうして浅田農産がスケープゴートになったおかげで、今後「鶏インフルエンザ隠し」をやろうとする生産者は、まず出ないだろうと思われる。老夫婦が「死を選ばざるをえない」と追い詰められるようなバッシングを受けて、ブランドイメージも失墜するのなら、せめて自分の命だけでも守っておいたほうがマシだからだ。 そういう意味では、彼らの自殺には「意義」がある。これほどの生産者への「無言の圧力」はないだろう。本当に悲しいことだけど。 西南戦争で、西郷隆盛が敗れたことで、士族たちが「諦めた」のと似たような効果があるのかもしれない。 どうして、「ラスト・サムライ」の勝元の切腹は受け入れられて、社会から追い詰められ、行き場のなくなった老夫婦の自殺はバッシングされるのか?まあ、あの状況では、勝元は切腹しなくても死んでいただろうけど。 僕には、その理由がわかるような気がするのだ。 それは、勝元の死は「自から選んでの死」であり、老夫婦の死は「他の方法がない、追い詰められての死」だから。 「自殺はよくない」「卑怯だ」「説明責任を果たすべきだ」という声を発する人たちも、本当は、わかっているんじゃないかと思う。彼らを死に向かわせたのは、本当は誰なのか?ということを。 でも、それを認めたくないから、死者を「卑怯者!」と罵倒するしかないのだ。まったくどうしようもないことなのだが、浅田農産の人々が、どんなに経緯を理路整然と説明したとしても「反省していない」なんて叩かれるだけだろうし、「会長夫婦が自殺」というひとつの事実以上に、生産者に「隠すことの怖さ」を印象付けられ、今後の「鶏インフルエンザ隠し」を予防できる結末なんて、他に思いつかない。 そんなふうに考えると、彼らも犠牲者には違いない。少なくとも、僕は勝元にはなれないが、会長夫妻のような立場になってしまう自分というのは、容易に想像できるのだ。場当たり的な嘘が嘘を呼んで、がんじがらめになることなんて、そんなに珍しいことじゃない。 「逃げるための死」とかいうけど、自殺というのは普通の人間が「ちょっと死にたい」と思ったくらいで容易にできるものではなく、病的な「死に向かう強迫観念」のようなものに由来することがほとんどだ。「死にたい」と言う人はたくさんいるけれど、本当に死んでしまう人の割合は、そのごくごく一部なのだから。 「安易に死ぬな」とか言うけど、安易に死ぬことができる人間が、そんなにあなたの周りにはたくさんいるんですか? 僕は、自分が彼らを殺した張本人の一人だと思う。それを受け入れるしかないような気がする。彼らのやったことを責めないと、自分や周りの人たちの命にかかわる。彼らを責めた仲間は大勢いることだし。やりすぎたとは思う。死ぬことはなかったじゃないか、とも思う。でも、その一方で、これほど効果的な「抑止効果」はない、とも感じる。そういうふうに感じるのは、人間としては悲しいことなのだが。 嫌われついでに、最後にひとつ言っておこう。 もともと人間というのは、赤の他人の健康より自分の利益が気になるという傾向がある。だって、そうじゃなければ、スーパーやコンビニの食料品売り場で、賞味期限が迫っているものから前に並べられるなんてことは、ありえないと思わないかい?「賞味期限内だから大丈夫」でも、基本的には新しいもののほうが、より「安全」なのでは? 鳥インフルエンザは、今のところ肉や卵を介しての発症は報告されていないし、70℃以上で加熱すれば大丈夫だと言われている。だから、そんなに心配なら、自分で口に入れる前にしっかり加熱するべきだし、それでも不安なら食べなければいいのだ。他に食べるものがないわけじゃない。BSEにしてもそうだが、「安くてそれなりに美味しいもの」には、どこかに歪みがあって然るべきなのではないか。 他人の不実さを責めるだけではなくて、生き延びるためには「自衛手段」も考えておいたほうがいいよ、絶対に。 ... 「ロード・オブ・ザ・リング〜王の帰還」感想(1)(高度にネタバレです!) - 2004年03月08日(月) さて、せっかく観たのだから感想でも書こう、なんて思ったのだけど、実際にはあまりうまく言葉にならない。いや、細かいところはいくらでも文句の言いようはあって、「なんで唐突にサルマンは退場してしまっているんだ?」とか(どうも、監督と揉めたらしい)、ガンダルフ魔法使いなのに肉弾戦ばっかりだとか、結局は、フロドが使命を果たしたというよりは、指輪の力に負けたけど結果オーライだったんじゃないか、とか、さすがにあの死人軍団とかは、もうどっちが悪いほうなのかよくわかんないんじゃないかとか、せっかく無敵の死人軍団を指揮したんだから、黒門攻撃まで「もう一仕事!」って出撃させたらラクになったのに、とかいろいろ考えはしたのです。 でも、そんなのはすべて、些細なことで。 僕はこの「ロード・オブ・ザ・リング」の3部作が大好きで、たぶん、自分でも時々観るし、自分の子供にもみせてやりたいと思う。 「指輪物語」は、ファンタジーの原典とも言うべきもので、僕が小学生の頃、「ロードス島戦記」とかで、「すべてはここから始まった」というような感じで語られていたものでした。僕が実際に読んだのは、だいぶ経ってからなのですが。 「ロード・オブ・ザ・リング」に対する批評のなかで、「あまりに『善と悪』というのが二極化しすぎていて、定型的かつ帝国主義的だ」というものがありました。僕も確かにそう言われればそうだと思う。 でも、「ロード・オブ・ザ・リング」を観て、圧倒的な戦力差がある国に空爆を仕掛けようとか思う人はいないのではないかなあ。それとも、自分の敵は、みんなサウロンのような「絶対悪」だと決め付けることができるようになるのだろうか? 実は、ファンタジー世界の優れた点は、「絶対悪」を設定できるという点にあって、少なくとも最近の人間を扱った映画では、「テロリストにも5寸の理」くらいは感じられないと「ストーリーに幅がない」なんて言われてしまう。でも、この「指輪」の世界では、「絶対悪」というのが大前提として存在している。 どうしてこんな昔のファンタジーが今?と思う人もいるかもしれない。でも、僕はこの映画を観て、素直に正義とか友情とか自己犠牲って素晴らしいなあ、なんて感じてしまったのだ。もともと、潜在的にジャンプで洗脳された世代でもありますし。今、ここまでクリアカットに「善と悪」を類型化した作品って、ありえないものね。 「悪人にもトラウマがある」とか、そんなのばっかり。 もちろん、それが悪いと決め付けるつもりはないけれど、今の世界は「絶対的な価値」を求めながらも、それを現実には信じられない、という感じがする。でも、「ロード・オブ・ザ・リング」というのは、「安心して信じていい正義」なのだ。 なんか偉そうに分析してみたけれど、本当はそんなに単純な作品じゃないことは、観た人はおわかりいただけると思う。フロドは指輪の魔力に打ち勝ったわけではないし、結局最後はエルフたちと旅立ち、ホビット庄を去る。「指輪中毒」になってしまったビルボがフロドに与える恐怖感というのは、並大抵のものではないだろう。 一方、この物語の裏の主役であるサムは、この大冒険のあと、日常に幸福を見つけ出し、平凡な我が家に帰っていく(原作では、サムも「指輪の影響」を受けていて、後日西方のエルフの国に渡ることになる)。 フロドとサムというのは、補完しあう仲間であると同時に、ある意味正反対の資質を持っている。 サムが「指輪の責任は背負えないけれど、あなたは背負えます!」と言って、あの山を登っていったとき、僕は泣きながら画面を観ていた。サムは忠実なフロドの下僕であり、友であると同時に、自分の役割を理解した存在だった。でも、考えてみれば、「使命を果たすもの」と「使命を果たすものを支えるもの」というのは、役割分担であり、支えあうことはできても、決して交わることのない関係なのかもしれない。 とりあえず、(1)は、このくらいで。 この作品については、まだ語るべきことはたくさんあるのです。 ... 謝恩会での忘れられない光景 - 2004年03月04日(木) 謝恩会といえば、ひとつの忘れられない光景がある。 あまり目立たたずに学生生活を送り、クラスで「そういえばいたなあ」と思われる程度の存在だった僕は、当然のように部活の顧問とチューターの先生くらいしか挨拶するべき先生もおらず、華やかに女の子たちが談笑している会場の片隅で、数少ない友人・知人たちと談笑していた。 僕にとっては、同級生たちとの謝恩会よりも部活の追いコンのほうが、重大な行事だという認識もあり、まあ、これも仕事のうち、みたいな感じ。 もうそろそろ謝恩会も終わる、という時間になって、ずっと部活で一緒の、僕の数少ない女友達だった女の子が、僕たちのテーブルにやってきて、しばらく立ち話をしていた。まあ、他愛のない思い出話だ。 そんなふうに笑いながら話している途中のことだ。 突然、彼女の瞳から涙が落ちた。 まるで、天気雨のように。 そして、その雨はなかなか止まらず、土砂降りになった。 「みんな、今までありがとう。今日はこれからすぐ電車に乗らないといけないから。私はこれで帰らなくっちゃ」 彼女は、涙声で僕たちにそう言った。 彼女は、遠くに住む恋人を追いかけて、自分の実家とも出身大学とも離れた場所で研修し、生活することを選んだのだ。 そこは、彼女にとっては、恋人がいることを除けば、全くの未知の場所。 「宴もたけなわではありますが…」という司会者の声に押されて、僕たちは会場を後にした。 彼女はひとりで、タクシー乗り場に向かっていった。 「その格好で行くの?」 「うん、夜行の電車の時間に間に合わないから。途中で着替えるよ」 田舎の医学部の卒業生は、卒業後、出身大学に残る者もいれば、実家のある土地に戻る者もいるし、都会で腕試しをする者もいて、みんな散り散りになっていく 僕はその夜、みんなと朝まで呑み、カラオケボックスで歌いまくった。 ただ、この夜が明けてほしくないな、なんて思いながら。 あのとき一緒に朝を迎えた同級生のうち、半分以上の面子とは、それ以来会っていない。 あのとき泣いていた彼女は、恋人を追いかけていったはずの新しい土地で、結局新しい恋をして他の男と結婚し、今でも毎年、夫と2人の子供と一緒の写真入りの年賀状を欠かさずに送ってきてくれる。 「わざわざ恋人を追いかけていったのにねえ…」なんて、思う人もいるだろう。 僕も以前は、そんなふうに感じたものだった。 でも、今はなんとなく、それもまた人生なのだな、という気がするのだ。 ... やっぱり、「大手」は強い… - 2004年03月03日(水) 僕は基本的に電話というのが苦手だ。携帯も「送信履歴」はほとんどないし(もっと正確に言えば、受信履歴もほとんどない。ただ(受信>送信)であることだけは確実。学会でホテルの手配をする必要があったのだが、あちこち電話するのは、なんとなくイヤだった。だって、ホテルに電話をして「申し訳ありませんが、満室でございます」とか拒絶されるのがイヤなのだ。向こうも商売なのだから、気にしなければいいんだろうけど、やっぱりそういうところでも「拒絶される」と気分が良いわけもない。 そこで、WEB上でホテルの予約をしようと思って、Googleで検索して、いくつかのサイトを巡ってみたのだけれど、結果はほぼ全滅。時期が悪いというのもあるのだけれど、空いていて、予約が可能なホテルがほとんどないのだ。 ディスプレイの前でひとつ溜息をつき、最後にJTBのサイトに行ってみた。まあ、こういう大きなところで頼んだら高くつくだろうし、空いてないだろうなあ、なんて思いながら。 しかし、なんのことはない、JTBのサイトでは、たくさん部屋が空いているのだ。値段だって、他の「オススメサイト」みたいなところとそんなに変わらない(もっとも、平日の特別プランなどではだいぶ違うのかもしれないが)。 僕はそのサイトを眺めて、「やっぱり大手は強いなあ」と感慨深かった。結局、まずはこういう大手の旅行会社が部屋をおさえていて(実際、そのホテルそのもののサイトでも予約できなかった部屋が空いていたりもする)、そのおこぼれを他の旅行サイトがもらっている、というような形式になっているのだろう。 いくら個人の情報発信が盛んになっているとしても、やっぱりお金がかかるところでは、大手はまだまだ強い。一度こういう体験をすると、人は大手に流れるようになるし、人が集まれば、モノや情報はさらに大手に流れていくことになる。 大手は小回りが利かないとか、利用者の生の声が聞けないとか言われるけれど、やっぱり大手は強い。悔しいくらいに。小さなところがどんなに良心的でも、品物が無ければどうしようもない。 ほんと、「自分で事業とかはじめて、大手を相手に競争する」って、大変なことだと思うよ。「仕事がうまくいかないから独立」なんて、そんなにうまくいくわけない。大手に割って入って生きていくのは、大変なこと。 サイトでも、やっぱり人が集まるところには、それだけで力があるものなあ。「2ちゃんねる」なんて、器は空っぽなのに。もちろん、その「力」には、プラスもマイナスもあるのだけれど。 ...
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