マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

本屋で感じた「マニアックな憂鬱」 - 2004年02月28日(土)

最近、コンビニかショッピングセンター内の大型書店ばっかりだったけど、久々に郊外の小型書店に行ったので。

(1)「アンダーグラウンド」(村上春樹)
麻原の判決が出たのをきっかけに、この本をもう一度読み返してみようと思って探してみたのだが(実は、前回は長くて最後まで読んでない)、見つからず。そういえばこの本に対して、「村上春樹は、神戸出身なのにどうして震災のことを書かずに地下鉄サリン事件のことなんか書いたんだ」と言っていた評論家がいて、偉そうにしているけど「ただ文句つけたいだけのバカ」っていうのが評論家にもいるんだな、と思った。
こういう人は、「書きようが無いこと」というのがこの世に存在するということが、死ぬまでわからないに違いない。

(2)「銀河英雄伝説」(田中芳樹)
高校時代に死ぬほどハマった。今でもDVD欲しい。
しかし、「本編10巻+外伝6巻。本編の10巻以降の時代のことは、絶対に書かない」と田中芳樹は言っていた記憶があるのだが、外伝は結局いまだに4巻止まり。昔は、「早くあと2冊書いてくれ」と思っていたけれど、最近では、「未完のままのほうが、夢があるのかな」なんて感じてもいる。最高の作品は、次回作、なんて。
それにしても「銀英伝」は、完結してよかったよなあ。あれ依頼田中芳樹は未完の大作を賛成し続けていることだし。
広げすぎてしまえない大風呂敷。

でも、いまだにヤン提督は憧れの人で、30になったときは、思わず「どうして何も悪いことなんかしていないのに、30になんかならないといけないんだ!」なんて言ったりしたような。

(3)文藝春秋
「蹴りたい背中」と「蛇にピアス」だけでも全部読んだ人って、実はファイナルファンタジー8のクリア率と同じくらいではないのか。それにしても相変わらずどこが広告でどこが記事なのか全然わからない本。

(4)アダルトコーナー
が増えてくると、「この本屋はそろそろ危ないな…」という気がしてくる。
僕はこれを「セガサターンの法則」と呼んでいる。

(5)村上龍
彼が中学生向けに書いた職業解説書「13歳のハローワーク」をパラパラと眺めてみたのだが、「医師」についての解説に驚いてしまった。コレだけの長さの文章なのに、実に適切で率直で、若者に現実を教えつつ夢を残している。内心「てきとーに書いてるんだろ?」と思っていた僕が悪かった。謝ります。

(6)郊外書店
しかし、こういうあまりあわただしくない郊外書店は、どんどん減ってきているのだ。空間としては、紀伊国屋よりはるかに居心地がよいと僕は思うのだけど。郊外書店は商店街の小さな本屋を駆逐し、今度は大規模書店に…という悲しき歴史の流れ。しかし、おじいちゃんおばあちゃんが細々とやっているような本屋に入ると、「何か買ってあげないといけない症候群」におそわれてしまうので、それはそれで入りにくいのだよな。



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人間関係とか、そういうもの。 - 2004年02月25日(水)

最近いろいろ人間関係について考えることが多いので(30代前半・男)

(1)同級生
久しぶりに見かけた大学時代の同級生に、「話しかけることあるかなあ…」なんて迷う前に「よっ!」なんて声をかけられる人間になりたい。

(2)女友達
たぶん、異性の友人というのは、どちらかが少しだけ相手に恋をしている状態なのではないだろうか。たぶん、だけど。

(3)子供
自分の子供は積極的に欲しいとは思わないけど、他人の子供は羨ましいような気もする。

(4)後輩
追い出しコンパに出ないのは、僕が知らない後輩ばっかりだというのもあるし、自分の年齢を実感させられるからでもある。

(5)女友達<2>
恋人はひとりで十分だけど、ずっとプラトニックな友達でいてくれたらいいなあ。お互いがそう思っていれば、そんなにいい関係はないはずだけど。

(6)男友達
僕のようなインドア体質の30男には、男友達というのは「一緒に酒を呑むこと」くらいしか遊び方が思いつかない対象で。まあ、お互いにそれで十分、なのかな。

(7)恋人
君がいてくれて嬉しいと心の底から思うのは、僕が君を必要としているときよりも、君が僕を必要としてくれているときなんだ。



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サイトが心を映す鏡だとするならば。 - 2004年02月24日(火)

 「愛とはつまり幻想なんだよ」と、言い切っちまったほうがラクになれるかも、なんてね。

 僕は自分という人間にずっと欠けたものを抱えていた。そして、そんな自分がイヤでイヤで仕方がなかった。
 まあ、どこにでもある話だ。

 現にこうやって文章を書いていても、語彙の無さとか、表現の平板さとかなんて自分でも読み返したくないくらいだし。
 ただ、WEB上では、人はあまり凝った表現を好まない、という認識も持っている。パソコンの画面の向こうにいる人は大概忙しくて仕事の合間に画面を見ていたり、右(もしくは左)手は、マウスを握っていたりするわけだ。
 みんなそんなに、WEBの文章に気を留めない。
 そして今日も、1日が終わる。
 たぶん、それでいい。

 最近どうもサイトをやっていて、キツイことが多かった。
 それは、ちょっと困ったメールだったり、BBSでの批判だったり。
 今年になってから、サイトに来てくれる人の数は明らかに増えていて、それにつれて困った事の数も増えていった。
 メールボックスをチェックするのも、自分のサイトの掲示板を覗くのも、なんとなく気が重くなってしまった。他のサイトの掲示板にも、なんとなく書き込みしにくいような気になっていたし。
 こんなサイト運営は疲れてしまうだけだから、しばらく休止しようかとも考えていたのだ。
 でも、あるサイトの人からのメールで、ふと気がついた(本当は、そのときには気がつかずに、今まさに急にそんな気がしてきたのだ)。

 「どうしてケンカ腰で書き込みをしてきたり、失礼なメールを送ってくる人がいるのだろう?」

 サイトというのは、自分を映す鏡のようなものだ。
 ケンカ腰の書き込みが増えたのは、僕自身が外に向かってファイティング・ポーズをとってみせているからではないのか?
 「噛み付かれたら噛み付き返してやろう、負けるもんか!」というトゲトゲしい気持ちが、どこかに滲み出てしまっているのではないのか?

 そりゃ、こっちがケンカ腰なら、そこに来る人だってファイティング・ポーズをとった人が多くなるのは当然のことだよね。ガンつけながら歩けば、殴りかかってくるやつもいるさ。そんなことはわかっていたはずなのに、自分を強く、偉く見せようという悪循環にハマってしまっていた。

 もちろん、こんなこと書いたからって、状況は劇的には改善しないと思う。でも、少しだけ、自分の中に溜まってしまった「肩の力」みたいなものが抜ければいいな、と思っているのです。

 流し読みされるWEBの文章の中で、僕が書いたものを読んでくれる人が、ちょっとだけリラックスできたり、「ふうん」と立ち止まってくれたら、それでいいのだ。

 ひとつ深呼吸をして、椅子の背にもたれてのんびりと書くから、ちょっとの間だけ、つきあってくれると嬉しい。
 


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感情と理論と実践と。 - 2004年02月23日(月)

 例えば、タバコは体に悪い、なんてことは、子供だって知っている。
 病院の外来で診察していれば、「タバコは吸っちゃダメ」と言うのが医者の責務だ。
 しかし、例えば僕がうららかな春の日に田舎を散歩していて、農作業の合間に紫煙をたゆたわせているお爺さんをみかけたたら、いきなり「タバコは体に悪いですよ!」なんて注意したりはできないだろう。

 肺の病気の患者さんに「タバコを止めるように」なんてアドバイスするのは当然のことだ。しかし、もっと広い観点からみれば、「健康な人ほどタバコを吸うべきではない」のかもしれない。
 そうやって病気の発生を予防したほうが、医療費だって安くつくし、その人は病気で苦しまなくたって済むかもしれない(もっとも、病気というのはタバコだけが原因ではないのだけど)。
 「肺癌ができてしまったからタバコは止めるように」と言うより、「肺癌の予防のためにタバコを止めるように」というほうが、はるかに理にかなっているような気もする。
 僕たちは、そんなことは内心わかっていながら、「今は自分は元気だから」という理由で、病気を避けるためのいろんな努力を後回しにしているわけだ。

 僕は最近、いろんなサイトを読んできて、肺癌の末期の患者さんに『禁煙しろ!』と叫んで自分の正しさを証明しようとする人たちが多いのではないか、なんて気がしているのだ。

 確かに、理論としては正しい。
 しかし、その一方で、そんな机上の正しさには、ついていけない人も多いのではないだろうか?
 批判している対象の立場に自分がいたら…なんて考えないのだろうか?

 頭の薄い人を「ハゲ!」と呼んで、「自分は正直者だ」なんて浮かれていませんか?
 自分の生活を守るために上司に逆らえない大人を「弱虫!」なんて責めていい気になってないかい?

 僕はキミたちをバカだとは思わない。
 でも、バカをバカにするのが正義だと思っているのなら、その正義はオンラインゲームの中だけで発揮したほうがいい。



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シンプル・シンキングのススメ - 2004年02月22日(日)

例えば「競馬」というものがある。
「競馬とは何か?」という問いへの最もシンプルな答えは、「馬に人が乗ってレースをして、真っ先にゴールした馬と人が勝つ、そんな競技」ということになるだろう。
その本質というのはおそらくダービー卿の時代から変わってはいない。
やっていることは一緒なのだ。
「オグリキャップ奇跡の復活」のドラマだって、実際にオグリがやったことといえば、中山競馬場の2500mを先頭で走り抜けた、ただそれだけのこと。
ただそれだけのことなのに、何十億もの馬券や競馬に関わる人々の営み、そしてファンの思い入れ、みたいなものが、ものすごく「競馬」というものを複雑で、ドラマチックなものにしている。
例えば、贔屓のプロ野球チームとか芸能人なんてのもそうだ。
ミルコ・クロコップとノゲイラがリングの上で激闘を繰り広げても、それは、誰も関心を持たなければ、僕たちの人生を変えることなんてないのだ。
でも、僕たちはそういう「自分には本来関係の無い何か」に思い入れを抱くことによって、そんなに長くもない人生をドラマチックにしている。

本来、人間が生きるなんてことはシンプルそのもので、食べて、飲んで、寝て、子供を作って、ただそれだけのことだ。現代社会では食物を得るために仕事をしなければならないこともあるが。

「生きる」という本質というのはたぶん、全然変わってはいない。でも、僕たちの思い入れは深くなるばかりで、いろんなものをドラマにしようとしすぎて、自分で自分がつくったストーリーの迷宮を彷徨う羽目になる。
もっとシンプルに生きられればいいのに、といつも思う。

個人サイトとは何か?といえば、たぶん「誰かが自分の気持ちや主張、作品を書いたもの」ということになるはずだ。でも、かなり多くの人がそこに自分の「思い込み」で肉付けをし、書いている人間に対して過剰な評価や批判をし、ディスプレイの向こうで笑ったり怒ったりしている。
僕には、そういうのが人生を難しくしているのだ、と思えてならない。

結局、自分で自分の首を絞めているだけなんじゃない?
あなたからのクレームの大部分は、「あなたが勝手にそう思い込んでいること」であって、僕はそんなことは書いていないんだけど?

ところで、こういうとき「あなた」というのは、特定の誰かのことじゃないですからね、と念押ししておかなければいけないのは、すごく悲しい。

いや、僕自身「これはオレのことか?」と思いがちなんだ、本当は。


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或ネット阿呆の一生<2> - 2004年02月20日(金)

金曜日の夜だし、仕事をしながら思いついたことをつらつらと。
御意見無用。

(1)インターネット

 こうして他人の幸福や不幸、細かい感情の揺れを身近に知ることができるというのは、本当に凄いことだ。
 …知ったところで、どうせ何もできはしないのだが。


(2)優しさ

 親が亡くなったとき、通夜や葬式に来て一緒に泣いてくれた人のことは、たぶん忘れないし、何かあったら全力でサポートしたいと思う。来なかったヤツは、外せない用事であれ、悲しんでいる僕の様子を見るのに忍びなかったからということであれ、そんな理由なんてすぐに忘れてしまった。たとえ嘘泣きでも、一緒に泣いてくれるやつが必要なときだってある。


(3)正しい人々

 ネットで何かを主張している人の大部分は、「正しいこと」を求めているわけじゃなくて、「正しい自分に同調してくれる人」を求めているだけだ。


(4)不倫

 不倫日記が苦手なのは、「結婚してから夫以上の相性の人に出会うなんて思わなかった…」とか書いてあるからだ。人間の人生の長さから考えれば、結婚した後のほうが普通長生きするのだから「より相性の良い人」に出会う確率は、出会わない確率より高いに決まっているじゃないか。
 そんな当然の危険を受け入れる覚悟もなしに結婚しているのかね?


(5)生きがい

 少なくとも、他人のことを批判することだけが生きがいの人より、批判される僕のほうがマシだと思うようにしている。でも、やっぱり批判されるのはイヤだし、火の粉を振り払うのにばかり力を使って、応援してくれる人たちへの感謝が後回しになってしまっている現状は、ロクなもんじゃない。




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「日本vsオマーン」あまり試合内容とは関係ない雑感 - 2004年02月18日(水)

いやあ、いろんな意味で凄い試合だった。
8時45分になると延髄で逆転勝ちする猪木のような…
89分のフラストレーションと一瞬のカタルシス。

(1)オマーンにとっては、「逆ドーハの悲劇」みたいな試合だっただろうなあ…

(2)サッカー絡みになると、「君が代」を大声で斉唱する人々には、いまだになんとなく抵抗がある。

(3)ジーコ監督、試合途中なのに落ち込みすぎ。それは監督の仕事じゃないだろう。

(4)それにしても、重苦しい試合だったなあ。最後の1点が無かったら、暴動起こってたんじゃないだろうか。

(5)でも、久保にボールが渡ったとき、本当に一瞬スタジアムが静まりかえったね。まさに空白の一瞬。

(6)あのPKになったプレーは、贔屓目なしだとファールじゃないような気がするなあ。高原も別にシミュレーションをやったわけじゃないけど。

(7)アナウンサー、興奮してくると、オマーンの選手は、個人の名前じゃなくて、みんな十把一絡げに「オマーン!」って呼んでたなあ。

(8)しかし、わかんないよねえ。早々に大量リードしてたら「トリビア」観ようと思ってたのに。

(9)たぶん今、「トリビアの泉」の視聴率急上昇

(10)いきなり「尻なめろ」かよ…

(11)それにしても、今日の試合あのまま引き分けだったら、ものすごく先行き厳しかったな。

(12)たぶん、今日一番日本で使われた駄洒落は、「オマーンら、許さんぜよ!」



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就寝前自動筆記装置(その1) - 2004年02月16日(月)

 明日は早いのだが、寝る前に10分だけ思いついたとりとめのないことを書いてみたいと思う。10分経ったら寝る。
 インターネットは自由なメディアである、と僕はなんとなく思っていたのだが、最近はどうもそうでもないような気がしてきた。でも、考えてみたら自由である必要性なんてどこにもなくて、僕は自分の書きたいことがかけて、それなりの反応があればいいのだ、ということもわかっているのだ。そこが何者かに制限された世界であっても、誰かの掌の上で踊っているだけにしても。
 僕は「運命」なんて信じない。自分の仕事がうまくいかないことやモテナイことは「運命」だと思うこともできるが、生まれてすぐに餓死してしまう子供や宅間の犠牲になってしまった子供たちに「それが運命だったんだ」なんて言葉をかけられるほど傲慢にはなれない。
 ネット上で誰かと論争するのはドキドキするし、自分がいっぱしの論客になったようで気持ちいいが、その実、僕はデモに参加しようとしたこともないし、選挙権すら放り投げてしまうことも多い。「ゴタクを並べるやつより、行動するやつのほうが偉い」そんなことを考えると、穴があったら入りたい気分になるが、こうやって恥じらってみせるのもまたポーズで、本当に誰も見ていない世界というのがあったら、ひとりで引きこもってゲームでもやって、衰弱死するまで麻薬でも打っているような気もする。見栄なんだよな、結局。

 ネット上で「毒舌」をウリにしているサイトは数多いが、実は単に揚げ足をとっているだけ、というのばかり。今にブログだらけになって、オリジナルを発信する人間は絶滅するんじゃないか。

 某所でも書いたが、インターネットは「本当の情報」を得ようとする場合には、むしろ役に立たない場合が多い。インターネットで拾えるものは、完成された学問のエッセンスではなくて、人々の未整理の感想とか、誰かを騙そうとする「お得な情報」ばかりだ。だって考えてみてもらいたい。本当にお金になるものを誰がタダでみんなに使わせてあげようと思うだろうか?パソコン好きの中には、役に立つものをフリーウェアとして供出してくれている人も多いのだが、もともとパソコンが苦手な学問の大家たちが、無償で自分たちの知識を公開するなんて考えにくい。
 確かにインターネットは情報収集の手段を変えたが、今のところは手段が変わっただけで、内容は退化している観すらある。「名作あらすじ事典」で読んだ気になっているのと一緒だ。言ってみれば、名作というのはプロセスや細かい表現が素晴らしいのであって、文学作品の基本的な筋立てなんて、そんなにバリエーションが多いものじゃない。固有名詞だけ憶えてどうする?
 いわゆる「情報ソース」を探すときには、やっぱり新聞社のサイトとかをアテにしてしまう。あれだけ「マスコミ不信」を訴えておきながら、現実的にはそうならざるを得ないのは情けない限りだ。「新聞社のサイトはウソだらけだが、個人サイトは意味のない情報だらけ」という現実。

 というようなことを考えていたら、15分も経ってしまったので寝る。
 「マニアックな憂鬱」に書きたいことは最近たくさんあるのだけど、うまく文章にならなくて困ってしまう。
 


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奥田民生と広島市民球場と私 - 2004年02月12日(木)

参考リンク「奥田民生が広島市民球場でライブ」


 奥田さんは広島出身で、大のカープファンというのは知っていたのですが、ここまでやるとは思いませんでした。
 僕は子供の頃広島に住んでいたことがあるので(といっても、市内じゃありませんが)、あの広島市民球場が「騒音規制のために、コンサートの開催ができない」とうのも理解はできます。
それにしても、あの広島市民の「聖地」が一度もコンサートに使われたことがないっているのは、意外だよなあ。
 広島市民球場は、おそらく現存しているプロ野球チームのホームグラウンドとしては、最も狭くて、汚い部類に入ると思います。好プレイには喝采が、ひどいプレーにはファン(?)の野次が飛びかかってくる、旧い野球場です。そこには原爆の被害から立ち上がり、カンパでチームを守ってきた広島の人間たちの夢と記憶と追憶が遺されています。
 何年も乗り続けてきた車のように「もうポンコツなんだよね、これ」と自嘲しながらも、そこには捨てがたいものもたくさん詰まっていて。

 奥田さんは現在38歳。僕の6〜7年先輩ということになりますから、まさに「広島カープの黄金時代に多感な時期を過ごした」ということになりますね。当時小学生の僕にとっても、強かったカープのことはすごく記憶に残っていて、今でも1番高橋慶彦から4番山本浩二〜8番水沼までの「200発打線」のオーダーは、ソラで言うことができるくらいですから。
あんなに結果が出なくても山本浩二監督が解任されないのも、浩二監督は広島ファンにとっての長嶋茂雄みたいなものだと言えば、理解していただけるのではないかと。

 最近Bクラス続きで、目だった話題もない(あるとすれば、金本のFA→阪神移籍)くらいのもののカープにとっては、久々に明るい&ファンの愛を感じる話題で、僕はすごく嬉しかったのです。
観客動員は落ち込み、新球場建設は挫折し、まさに暗い話題続きの広島カープに対する、一ファンとしての奥田民生さんの心意気には、胸を打たれる想いがします。
上の記事を読むと、地元だからといって、そこまでして市民球場でライブやりたいのか…と僕ですら思うくらいですから。

 球場の広告も最上段で、広島の選手のみ当てれば10万円というのも気が効いています。とはいえ、これに関しては、現在広島の左打ちの長距離打者といえば、前田選手(本質的には中距離ヒッターかもしれないけど)くらいなので、誰か当てられるのか、多少疑問ではありますが。
 巨人のぺタジーニやカープファンにとっては不倶戴天の敵である金本の名前を挙げて、「当てたら罰金」というのも「ファンなんだなあ」というのが伝わってきますし。
 東京ドームの長嶋さんのセコムの看板は、当てれば企業から100万円出るそうですが…

 民生さんくらいになると、変に「地元意識」を出しちゃうより、阪神が勝てれば阪神ファンとか、無難に「野球は興味ないです」なんて言っちゃったほうが、ラクなのではないかと思うのです。でも、彼はあえてそうしなかった。
 その姿は、とても清々しくて、ちょっと羨ましくなるくらい。
 「どこのファン?」って聞かれて、相手を見ながら「とりあえずダイエー」とか答えてしまう自分が悲しくなってきます。
 野球と政治の話は御法度、なんて言うしさ。

 お金もないし、新球場のアテもないけど、今年はいい結果を出してもらいたいなあ。
 カープが優勝したら、僕もそのライブにぜひ参加したいものです。



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インターネットは人を「癒す」のか? - 2004年02月11日(水)

参考リンク:「インターネットは引きこもりなど精神的に悪影響……」との調査に逆説(MYCOM PC WEB)

「インターネットは人を癒すのか?」という質問には、どういうふうに答えたらいいのだろう。だいたい「癒し」という言葉の定義そのものが非常に曖昧なもので、「ちょっとした気分転換」というようなレベルから「人生の疲れを快復するためのもの」というレベルまであるのだろう。
だいたい、「イルカが人を癒す」と説いていたジャック・マイヨールが自殺してしまったのを聞けば、「癒し」なんて言葉のいいかげんさを考えずにはいられない。

人によって気分転換の方法というのは異なる。酒やタバコで気分転換をすれば、人生の「負け組」的な扱いを受けることが多いし、テレビゲームが趣味だと、「不健康な人間」だと言われる。
テニスや野球などの「スポーツが趣味」だと、それだけでイメージがアップする。人生というのは不公平なもので、テレビゲームが趣味なのとスポーツが趣味なのとでは「何かが好き」という点ではベクトルの大きさが同じでも、社会的な評価は異なるということだ。
そういうのは、一種の「この時代に生まれた運」みたいなものなのかもしれない。

インターネットの便利さというのは、大きく分けて2つあって、「情報の即時性」(「質」は、正直まだアテにならないと思う)と「同好の士を集めやすい」という点にある。
実社会で自分という人間をさらけ出して同好の士を探すというのは非常に大変なことだ。とくに自分がマイノリティの場合はなおさらだ。
でも、インターネットで「僕はこんなのが好き!」と言えば(そして、幸いにもそれが多くの人の眼にふれることができれば)、「僕も」「私も」という人が名乗り出てくれることは、そんなに珍しいことじゃない。
しかしながら、それは別にそういう趣味の人が増えたわけじゃなくって、スクリーングする分母が増えた分、分子の数もそれに伴って増えているだけに過ぎないのだけれど。

しかし、そうやって露出してしまうことには、正直難しい面も多い。
「コミュニケーションに対する考え方」というのは人それぞれで、男と女であれば、出逢ったその日はアドレス交換程度が普通だという人もいれば、最後までいくのが当たり前だと考えている人たちもいる。
仮にある種の趣味に対して「同好の士」であっても、その他の人生観がすべて同じだとは限らないのだ。
それに、人の眼にふれる機会が多くなれば「お前はどうしてそんなものが趣味なんだ?」とケンカを売ってくる人も出てくる。そういうとき、「誰も見ていない時代のほうがよかったよなあ」なんて、ディスプレイの前で溜息をつくことだってある。

「インターネット」というのは、現在のところ、結局最後は人間対人間、ということになってしまう。
 でも、ネット上の人格がすべてじゃない、ということは、常に頭に入れておいたほうがいいだろう。
 僕はネット上での自分というのが、リアルな存在であるよりも、むしろオンラインゲームのキャラクターみたいなものであることを本当は望んでいるのだ。
 電源を入れればすごい魔法が使えて、どんなにモンスターに襲われてボロボロになっても、電源を切ればそれでおしまい。

「インターネット」は、あくまでもツールであり、それに対する接し方、価値観も人それぞれだ。
「インターネットで癒される」と感じる人もいるだろうし、「インターネットは単なる道具だ」という人もいるだろうし、「インターネットなんて煩わしい」という人もいる。
 ただ、それだけのこと。
 大事なのは、それぞれの目的に合った使い方をすることと、他人の使い方を受け入れるということだ(もちろん、他人に迷惑をかけるような使い方は許されない)。

 認めてほしい、でも放っておいてほしい、というのが、矛盾した考え方だなんて、わかってはいるのだけれど。




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「ロード・オブ・ザ・リング」テレビ版の感想 - 2004年02月08日(日)

「ロード・オブ・ザ・リング」テレビ放映を観ての感想です。


(1)やっぱり映画館で観たほうがいい!

 こういうファンタジー映画は、感情移入度が面白さに直結すると思うのだけど、家のテレビで観ていると、テレビ場面の周りに見慣れた壁や洗濯物などがあったりして、なんとなく現実に引き戻されがち。CMもあるし。どうしても白けるんだよなあ。映画館の魅力というのは、画面の大きさや音響だけではなくて「映画に集中できる環境」もあるのです。
 とくにLOTRは、映画館向き。
 テレビで観て「こんなものか」と思ってもらいたくないなあ。
 ほんと、映画館だと全然違うから。
 もちろん、テレビで観てもそれなりに面白かったんだけど。


(2)灰色のガンダルフ

 あらためて観ると、この賢者はけっこう隙だらけだったりするのです。
 雪山を越えようとして、サルマンの山崩し攻撃でアッサリルート変更。しかし、仲間の意見が割れて「それでは、指輪を持つものに決めさせよう」なんて、夕食に行く場所が決められなくて、子供に決めさせるお父さんじゃないんだから…
 さらに、坑道で扉を開けられずに頭を抱え込むガンダルフ。
 まあ、こういうふうに、キャラクターが「万能じゃない」ところが、LOTRの魅力なわけだけど。
 ポイントではキッチリ締めてくれてるしね。


(3)旅の仲間

 最初にみんなが集結するシーンは、いつも泣けてきます。
 みんなけっこう個性的といえば聞こえがいいが、アクが強くてワガママ。
 そういうところがまた、「人間的」なわけですが。
 レゴラスを最初に映画館で観たときには、このカッコいい人(エルフだけど)は、誰?と思ったけど、今となっては、オーランド・ブルームはメジャー街道一直線。
 レゴラスに関しては、あんな至近距離から弓使わなくてもいいんじゃない?とか思わなくもないけど、ああいうのがエルフのスタイルなんだろうなあ。
 エルフといえば、エルロンドを観るたびに、エージェント・スミスを思い出してしまって、どうも信用できないような気がしてしまいます。
 先入観というのは、恐ろしいものだ。


(4)指輪の魔力

 「タイタニック」で、ものすごく高価な青い宝石のはずなのに、あまりに安っぽいガラス玉みたいで興醒めしてしまったことがあるのだけれど、ああいう「妖しい宝石」というのをビジュアル化するのは、けっこう難しいことなんだろうなあ、と感じる。今回の「力の指輪」は、絵的には、ほんとうにシンプルかつ地味なんだけど、まあ、それが逆に「こんな指輪でも、人間(もしくは他の種族)の心が簡単に操られてしまう」というのを強調する意味では、あれでいいのかもしれない。
 僕はたぶん、知らなかったらあれが道に落ちていても拾わないような気がするけど。


(5)指輪の解釈

 ピーター・ジャクソン監督は、「指輪は自由を失うことの象徴」とコメントしていたけど、僕は、「欲望と猜疑心の象徴」だと思うのです。解釈としては、そんなに違わないのかもしれないけど。あの指輪の怖さというのは、「本当は何の魔力がなくても、そういう思い込みで、みんなあの指輪を奪い合って破滅していくのではないか?」という怖さ。
 この時代だからこそ、ジャクソン監督は、あえてその解釈をしてみせたのかもしれないけれど。


(6)サムとフロド

 僕が最初にこの映画を観たときに、サムというのはなんとなく居心地の悪いキャラでした。最初から「フロドさま」と使用人根性丸出しの態度で、今の日本に生きる僕からすれば、そんなに自分を卑下しなくてもいいのに、なんて思ったり。そういうのは、日本人的平等主義観による偏見なのかもしれませんが。
 でも、この物語は、サムの自我の成長の物語でもあるのです。
 最初は巻き込まれて付いてきたサムが、使命に立ち向かおうとするフロドの姿に打たれて、自らの意志で(ときには、死の覚悟も示して)「付き人」から「仲間」になっていく。「旅の仲間」の最後の「サム、お前がいてくれてよかった」というシーンは、ベタベタなんだけど、毎回感動します。


(7)全体として

 本当に映像と音楽が素晴らしい映画なのです。ストーリーについては、この第一作「旅の仲間」は、どうしても状況説明に割かないといけない部分が多すぎて、やや場面転換が早すぎ、盛り上がりに欠ける印象があるかもしれない。最後の場面も、なんとなく中途半端(これは原作でもそうなのだけれど)
 「説明的である」というのは微妙なところで、「指輪物語」に子供のころから親しんできた西洋人ならともかく、多くの日本人にとっては、これでも説明不足な所もあると思うのです。でも、これ以上説明的にもできないし、難しいところ。

 でも、少しでも「面白い」と感じるところがあったら、ぜひ第二作「二つの塔」を観ていただきたい。こちらのほうは、「説明しなくてはならない呪縛」から逃れられているために、より「面白い」作品になっています。エルム峡谷の攻防は、映画史に残る名場面だと思いますし。


(8)愛だよ、愛

 番組の最後に「出演者からのコメント」がありましたが、ピーター・ジャクソン監督はじめ、キャスト・スタッフは、みんなこの作品に愛情を持って接しているんだな、ということが伝わってきました。
 世界中の「指輪」のファン(あるいはマニア)たちが、多かれ少なかれ不満を抱えながらも、この作品を「許せてしまう」のは、なんといっても、この作品には「同じファンとしての愛情」を感じるからだと思います。


 いろいろ書きましたが、「王の帰還」のアカデミー作品賞と日本での大ヒットを願ってやみません。
 ほんと、「ロード・オブ・ザ・リング」は、「映画館で観るべき作品」だから!


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書き手と読み手の微妙な距離感 - 2004年02月04日(水)

 先週末に、ラジオで聴いた話。

 直木賞作家の阿刀田高さんが、こんなことを喋っておられた。

【ラフカディオ・ハーン(=小泉八雲)という人が、「雪女」の話を書いているんです。
 若者と年寄りの2人の男が雪山で遭難して、そこで雪女に遭うんですよ。それで、年寄りのほうはそのまま殺されてしまうけれど、若い男のほうは『ここで見たことを誰にも言わない』っていう約束で、命を助けてもらう。
 それからしばらくたって、その若い男は、村で、身寄りが無いのでこれから江戸に行くという美しい女、おゆきと出逢うんです。男は一目惚れしてしまい、おゆきを『とりあえず自分の家に来ないか』と誘います。それで結局、おゆきは男と一緒に暮らすようになるんですが、その場面の転換のところが、すごく印象に残っているんですよ。

 男とおゆきの村での出会いのシーンのあと、小泉八雲は、
『当然のことながら、おゆきは、江戸には行かなかった』
とだけ書いて、話は次の場面に進んでいくんです。
 男に誘われたあと、どのようにしておゆきが男と結ばれたか、なんてことは全く端折って、この一行でおしまい。
 僕は、この『当然のことながら』というところに、すごく魅かれるんですよねえ。普通、男とおゆきが家に行ったあとの描写とか、いろいろ書きたくなるじゃないですか。おゆきが何者か?とか。でも、八雲はそうしなかったんですよ。考えてみれば、ずっと読んできた読者にとっては、おゆき=雪女ってことは、すぐわかっちゃうわけです。そして、2人が再会することによって、何かが起こるってことも。だから八雲は、実際に読んでいる読者の気持ちになって、それを代弁するように『当然のことながら』と書いたんです。「みなさんにとっても、わかりきったことでしょう?」って。こういう作家と読者との距離感っていうのは、やっぱりプロの作家は凄いなあ、と子供心に思いましたよ。】

 半分備忘録のようなつもりで思い出しながら書いてみました。この話を聞いて、阿刀田さんのこの感性も、タダモノじゃないなあ、と僕も感動しました。

 「ものを書く」というのは、自分を表現すること、なのですよね。でも、「人に読んでもらう文章を書く」ということには、また違った難しさがあります。一読者としては、書き手のあまりに肥大した自意識を垂れ流しているような文章というのは、あまり読む気がおきないものです。よっぽどの有名人とか、自分の興味がある人はさておき。
 しかしながら、自分が書く側になってしまうと、ついつい「自分を読み手の基準にした文章」というのを書いてしまいがちなのです。
 「この表現は、専門知識がない人にはわかりにくいかな」と長々とクドイ説明を加えてしまったり、いろんな方面のことを考えて、ついつい結論が消化不良になってしまったり。

 八雲さんは、たぶん、2人の馴れ初めのシーンを詳細に描くこともできたはずです。書き手としては、2人の心の機微を描いてみたいという気持ちもあったはず。
でも、それを敢えてやらない勇気と客観的な視点を持っていたわけですね。
「読者は、『おゆきは江戸には行かないんだ』ということがわかっているはずだ」という確信。

「読み手との距離を測る」というのは、書く側の人間からすると、本当に難しく、かつ重要な問題だと思うのです。
説明不足もダメですが、説明過多もまた、読み手にとってはしらけてしまいますし。
 もちろん、これを読んで「説明不足」を感じる読者だっていたのかもしれませんが。
 いちばん多くの読者が納得できるところにうまく「落としどころ」を設定するというのは、まさにプロの技術。

 「自分の書いたものを客観的に読める」というのは、プロの書き手としての必要条件なのかもしれませんね。



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「ラスト・サムライ」感想(完全ネタバレなので要注意!) - 2004年02月01日(日)

「ラスト・サムライ」を観てきました。
公開からもうだいぶ経っているにもかかわらず(まあ、土曜日のレイトショーで、1200円だったってこともあるけど)、8割くらいの客入り。僕の地元の映画館としては、かなり異例だと思います。

以下、その感想です。
例のごとく激しくネタバレしているので、未見の方は読まないほうがいいです。

(1)オールグレン大尉(=トム・クルーズ)

 過去の原住民虐殺に対する罪の意識からアル中になってしまった大尉ですが、日本の「武士道」に触れて、勝元と行動を共に。彼も「死に場所を求めている人間」という意味では「ラスト・サムライ」だったのでしょう。ただ、逆に彼の境遇を考えると「武士道の魅力にとりつかれた」というよりは、「失恋して自暴自棄になった男がオウムにハマった」というような感じ(要するに、耽溺する対象が、酒から「武士道」に替わっただけではないか?)を受けるのも確か。彼はこの物語の中では「狂言回し」であり、アンタッチャブルな存在なのですが、あまりにオールマイティすぎるかな、という気もします。いくらなんでも、ラストシーンで天皇の御前に出られるとは思えないし。
 世界史マニアの立場から言わせていただくと「テルモピレーの戦い」を引き合いに出しているわりに、彼の戦術はチープ極まりないし。どう考えても勝つ気があるならあんな大平原に陣取るのはおかしくて、山間の狭い道に陣取るべきです。実際に「テルモピレー」では、そうやってペルシアの大軍をスパルタ王レオニダスは迎撃しています。一度に大勢が通れない道であれば、大軍も機能しないので兵力差が埋めやすい。まあ、最初から「玉砕覚悟」だったのかもしれませんが、それならあんなセコイ火玉を使った火計なんてやらずに、正々堂々騎馬で突撃して散ればよかったのに。まあ、映画的には平原での戦闘シーンのほうが盛り上がるに決まってはいるんだけど。

 そして、いちばん信じられないのはラストシーン。あのシチュエーション(勝元軍総討死)の状況で、オールグレンただひとり生きて還ってきたら、小雪はじめ村人たちは、正直、彼に対してあまり良い感情は持てないと思う。もちろん、表立ってそういう態度は示さないかもしれないけど、普通は「生きて帰ってくるなんて、やっぱり『侍』じゃないな」と感じるでしょうし、あるいは「敵のスパイだったんじゃないの?」と思われてしまうかもしれません。もちろん全部の状況を知っている観客は、彼が生き残ったことにそんなに悪意を持たないでしょうけど、村人たちは戦場の状況なんて知らないわけだから。もし心配した村人が一部始終を観ていて村に報告したとしても、あのあと囚われたであろうオールグレンが生きて帰ってくれば「やっぱり、完全な『仲間』じゃないな」というのが本音でしょう。アメリカ人じゃなければ、100%処刑されている状況ですから。


(2)勝元(=渡辺謙)

 渡辺謙の存在感は、ほんとうに素晴らしい。でも、勝元は本当に矛盾したキャラクター。「武士道」を語りながら、「敵を知るため」と、当時としては信じられないくらい流暢に英語を話す。普通、「武士道」を語るような旧い侍は、「英語なんて毛唐の言葉だ!」なんてバカにするはずです。逆に、そこまで西洋を識っているのであれば、あんなムチャな反逆はしないはずで。
 現代人である僕からすれば、「周りにそそのかされて戦うなんてかわいそう」な気もします。西郷隆盛をモチーフにしたキャラクターらしいのですが、そういう意味では、西郷も「矛盾の人」ではありました。
 でも、東京で元老院の会議に出た後に、彼がひとりで切腹していれば、あそこまでの犠牲者は出なかったかな、とも思うのです。
 自分の身を捨てて部下を助ける、というのは、武士の美徳のはず。
 (現に、そうやって自刃した侍大将は、歴史上たくさんいます)
 もちろん、オールグレンにそそのかされなかったら、彼はそうしていたはずですが。
 オールグレンとお互いに通じるものもあったのでしょうが、いまわの際に英語を喋るというのは、なんとなく違和感があります。「外人と会話しているんだから」「ハリウッド映画だから」ということなんでしょうが、僕は自分が死にそうになったら、その間際に英語の言葉が思い浮かぶような予想はできません。
 「じゃあ、勝元はいったいどうしたいの?」というのもよくわかりませんでした。「西洋の技術を用いつつ、日本人の心を大事にする」ということなら、何もスタイルにこだわる必要はないはずです。刀での戦いだけでは、日本が早晩に列強の餌食になることだって見えていただろうし。オールグレンの項でも書きましたが、本当に勝ちたければ平地での会戦なんて愚の骨頂で、ゲリラ戦が妥当でしょうし、鉄砲でも大砲でも使えばいいのに。
 ただし、彼のような高名な「侍」が、新設された軍隊に敗れたという事実は、歴史の歯車を大きく転換する力にはなるでしょう。
 西南戦争では、当時最強とうたわれた薩摩の武士たちが、新政府の農民上がりの新設軍の前に叩きのめされました。そのことにより、武士は時代の変化を確認することになり、新政府軍は自信をつけたのです。それは、銃火器と西洋式軍隊の「武士道」に対する勝利であり、農民や町人たちにとっては、ドラスティックな時代の変化だったと思います。
「まさか、自分たちが侍に勝てるなんて!」と。
まあ、その「まさか勝てるなんて!」の連続が、日本の軍隊の肥大をもたらしてしまった面もあるのですが。
あと、乗っている白い馬目立ちすぎ。あれじゃ狙い撃ちされまくると思う。

 でも、勝元の生き様、死に様には「美学」があり、それはすごく魅力的であり、僕を惹き付けました。それは紛れもない事実。


(3)おたか(=小雪)

 男が女性に着替えさせてもらうってエロスだなあ、なんて思ったのですが、あの場面でオールグレンとキスしたのは、なんだか違和感あったなあ。「二夫にまみえず」ではないんでしょうか?
 僕的には、キスしないほうが「良い映像」だったのですが。
 予告編では、「小雪、なんか生活に疲れたっぽい雰囲気だ」なんて思っていましたが、映画の中では良い仕事をしていたと思います。濡れ髪って色っぽい。


(4)氏尾(=真田広之)

 なんだかあんまりキャラ立ってなかったですね。最後に腹を撃たれまくりつつも突撃していったのは、ゾンビみたいでした。


(5)天皇

 いくらなんでも、あんなに簡単に直接会話をしたり、ましてや勝元と廊下で歩きながら話すなんてありえません。しかし、彼の立場からいえば、侍たちに同情しつつも流されなかったのは、むしろ立派なのかも。


(6)大村

 典型的な利益誘導型の悪役なのですが、あまりにベタすぎるか。「総攻撃だ!」のシーンは、ちょっと笑いました。あんな指揮官ありえん。
 勝つ事を重視するなら、あのまま遠くから大砲撃ちまくっていれば、相手はどうしようもなかったのに。
 まあ、新しい軍の腕試しという目的もあったのでしょう。そんな目的で突撃させられるほうは、たまらんと思うけど。
 ちなみに、新政府軍が至近距離で鉄砲撃とうとしたり、敵味方入り乱れて乱戦になっているのに第二陣が鉄砲を撃ちこんでいたのには、びっくりしました。味方に当たるって…

 ただし、歴史の流れからすると、大村は必ずしも間違ったことばかりやっていたわけではないような気も。
 そういう意味では、あのタイミングで大村を切り捨てた天皇は、トップとしては非情かつ有能であるともいえるでしょう。


(7)寡黙な侍

 僕はけっこう福本さんに注目していたのですが、なかなか渋い見張り役ぶりでしたね。どんな斬られ方をするんだろうと密かに楽しみにしていたんですが、最後に「オールグレンさん!」と叫んで弾に当たってしまいました。その後の回転しながら倒れる様は、面目躍如といった感じです。
 でも、「最後に一言」というのは、なんとなく「できるかな」のノッポさんを思い出してしまいました。


(8)その他

 風景がとても美しい映画です。それだけでも見る価値はあるかも。日本の田園風景とは、微妙に違う気もしますが。なんとなくホビット庄っぽい。
 あと、矢はあんなに当たりませんし、とくに合戦時にあんなに弓なりに放たれた矢は、ほとんど威力ないと思います(もと弓道部なので)。そりゃ鉄砲のほうが強いって。
 ガトリング銃は強すぎ。ああいうのが、まさに「歴史の流れの象徴」なんでしょうけど、あのまま勝元即死かと思って、一瞬盛り下がりました。
 あれで生き延びるオールグレンにもビックリですが。


<総括として>

 上記のようにツッコミどころはけっこうあったのですが、けっこう楽しめました。「侍の生き様、死に様」というのは、やっぱりカッコいいなあ、とか思ったし。
 とにかく、渡辺謙は目立ってました。もっとも、「ラスト・サムライ」を目立たせるための映画だったんでしょうけど。
 いちばん好きなシーンは、クライマックスの合戦シーン前に、終末の予感を抱かせつつも、村の夜がいつものように静寂に包まれて、虫の鳴き声が響いていたシーンです。
 戦場の中の静けさ、とでも言いましょうか、不思議と記憶に残るシーンでした。戦の前ってあんな感じなんかな、って。
 合戦シーンの迫力もありましたし(先にも書いたように、ああいう戦法自体はおおいに疑問だったけど)、最初のほうの予告編では毎回劇場内で失笑が漏れていたトム・クルーズの立ち回りも、完成版ではとくに違和感はありませんでした。かなり練習したのでしょう。

 現実は映画のように簡単に日本人とアメリカ人が理解しあうことは難しいでしょうし、新政府軍にも十分に理はあると思います。むしろ、信念に殉ずる侍たちの玉砕ショーにつきあわされて戦死した新政府軍の雑兵たちは、ちょっとかわいそうだなあ、とも。
 そして「武士道は日本の心」なんて言いますが、実はあれは「日本のごく一部の人々の心」であって、武士という日本社会のひとにぎりの階級の人々のなかの、さらに少数派の人々の行動原理でしかなかったのです。
 多くの武士たちは、維新にともなって刀を捨てて就職したりしているのですから。
 まあ、だからこそ「ラスト・サムライ」は美しい。

 ただ、「日本人はこんなに凄かった!」というような解釈は、ちょっと身びいきしすぎで「日本人のなかには、こういう『武士道』に準じた人たちもいた」というのが正しい理解の仕方なのではないかなあ、と申し添えて置きます。

 アカデミー賞云々はともかく、2時間半退屈することなく観られますし、「ラスト・サムライ」は、素晴らしい作品だと思います。ドラマ性もあるし、アクションシーンも満載。

 それにしても、渡辺謙はやっぱり目立っていました。
 上映後に「もし渡辺謙以外で、勝元役を探すとしたら、誰がいいだろう?」っていうのを考えてみたのですが、どうしても渡辺謙に代わる人は思いつかなかったものなあ(一応、候補として緒方拳とか名前が出たけど、何か違うし)。



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