マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

「ロード・オブ・ザ・リング」が、生理的に受け付けられない! - 2004年01月28日(水)

 「えーっ、そんなの興味ないよ。だって、あんな世界、現実にはありえないし」
 このコメントは、僕が友人に映画「ロード・オブ・ザ・リング」の答えだ。
 「そんなこと言わずに、1回観てみれば?」
 「そんなの時間のムダ」

 世の中には、エルフとかホビットとかが出てくるというだけで、「そんな世界は受け付けない」という人がけっこういるものなのだ。しかし、「ツチノコが近所の空き地にいた!」とかいうような与太話じゃなくて、あくまでも架空の世界の話なんだから、それはそれで楽しめばいいんじゃないかなあ、なんて思うのだけどなあ。
 しかし「ロード・オブ・ザ・リング」は、確かに架空の世界なんだけど、そこで語られていることは、ものすごく現実的なのだ。そこがまたこの作品世界の魅力。「二つの塔」のヘルム峡谷での戦いは、観ていて本当に泣けてきた。「マトリックス・レボリューションズ」のザイオン攻防戦でのミフネのシーンより、よっぽど僕は好きだ(定番とはいえ、この2つのシーンは、ちょっと似ているよね)。
 むしろ、ファンタジーだからこそ、より明確に「人間」が描かれている部分が「ロード・オブ・ザ・リング」にはあると思う。

 でも、その一方で、僕は「恋愛映画」というやつを原則的に受け付けないのだ。いや、恋愛なんて千差万別だから、何の参考にもならないし。
 そうそうふうに、物事の多くを「何かの参考になるか」という基準で判断してしまうのは、僕の悪い癖なのだが。

 そういう判断基準というのはサイトを観るときにも同じで、なんとなく「タメになりそうな要素」というのを求めてしまう。

 結局、ものの見方を変えるというのは、なかなか難しいんだよねえ。
 まあ、マンガは当然、電話帳にだって、「役に立つ要素」というのは存在してはいるんだろうけど。

 僕にとっては、一部の人が書いている「現実」のほうが、「ロード・オブ・ザ・リング」より、むしろ「生理的に受け付けられないファンタジー」なんだけどなあ。

 ほんと、価値観なんてのは、人それぞれ。
 


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人間とコンピューターの境界線 - 2004年01月27日(火)

 今日は講演会があって、半ば義務的に「医療技術へのコンピューターの応用」の話を聞かされていたのだが(正直眠かった…数学は苦手なんだってば)、その中で講師の先生が「現在のコンピューターは、間違えることができない」と言っていたのが、妙に心に残った。

 「将棋ソフトで、とんでもない手を指すことだってあるじゃないか」
 「桃鉄(桃太郎電鉄・コンピューターボードゲーム)で、適切なカードを使わなかったりするじゃないか」

 確かに、その通り。しかしながら、こういうのは「コンピューターが間違っている」のではなくて、「間違えるようにプログラムされていて、その通りに動いている」のか「現在の能力の限界で処理しきれないので、結果として完璧な答えが出せない」だけなのだ。
 コンピューターは、間違えない。

 実は、それこそがコンピューターと人間との差なのかもしれない。
 「間違えないコンピューター」は、人間に対して手抜きもできないし、嘘もつけない。

 よく、「自我を持って反乱するコンピューター」というのがSFで語られるが、現実的には、現在の構造の延長では、「コンピューターが自我を持つ」というのは不可能で、「自我を持っているように見せかける」ということしかできないのだ。
 コンピューターは、人類のいろんな手間や距離を縮め、人と人との距離を近づける一方、戦争の道具になったり、他人を中傷する窓口になったり、人と人との格差を生み出した。
 でも、それはコンピューターの責任ではない。
 彼らは「そういうふうにプログラミングされていた」だけで、人間の意向を反映しているだけなのだ。
 少なくとも、今のところは。

 「人間は機械じゃない!」という言葉を耳にするたびに、僕は「でも、僕たちが『感情』と思いこんでいるものは、プログラムみたいなものじゃないのかな?」なんて考える。「悲しいこと」がインプットされると涙が出るし、「嬉しいこと」がインプットされると笑顔になる、そんなプログラムに従って動く、精巧な機械。

 そして、嫌な事件が起こるたびに「そんなふうにプログラムされている人間を更生することができるんだろうか?」なんて呟いてみるのだ。できるとすれば、「プログラムの改変=洗脳」だけなのでは?なんて。

 どうせコンピューターなら、「悲しい」とか感じなくて済めばよかったのにね。


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「新撰組!」の「らしく生きる辛さ」 - 2004年01月25日(日)

今日、「新撰組!」を観ながら思った。
ああ、三谷(幸喜)さんは、わかってるなあ、と。

番組の最後のところで、近藤勇は「百姓だから、侍にはなれないから、より侍らしくなるんだ!」と叫ぶ。
そうなのだ、幕末に「侍らしかった」のは、本当の(身分上)偉い侍じゃなくて、日頃バカにされていたような下級武士や農民上がりの連中だった。
当時は、切腹の儀式は形骸化していて、切腹者が扇を腹に当てるのを合図に介錯人がとどめをさす、というのが普通だった。
しかし、新撰組や志士たちは「鉄の掟」で「自分で腹を切る」という「本当の切腹」をやっていたのだ。

僕はいつも思う。
本当に男らしい男は「男らしくしよう」なんて思わないだろうし、そういうコンプレックスも持たないはずだ。
金持ちが金持ちに対するコンプレックスを持たないのと同じく。

「成金根性」なんてバカにされたりするのは、たぶん、そういうコンプレックスが「金持ちらしく振舞おう」という行動になってしまうのだと思う。

「女らしく」「人間らしく」「大人らしく」
世界には、たくさんの「らしく生きる」という生き方が溢れているけれど、実際には「自分は女らしくないんじゃないか?」「人間らしくないんじゃないか?」「大人らしくないんじゃないか?」という不安やコンプレックスが、「らしく生きなければ」という動機になっているのだ。

新撰組の隊員たちをつき動かしていたのは、「俺たちは侍じゃないのなら、より侍らしく生きてみせてやる!」という意地と見栄だったのだろう。

そう考えると、新撰組がこんなに長い間、人々に愛されている理由もわかるような気がする。

僕たちだって、みんな「〜らしく生きる」というのを脅迫観念のように持って生きているわけだから。

しかしなあ、「らしくしなければならない」っていうのは、やりがいがあるのと同時に、辛いよほんとに。自分で自分をがんじがらめにしていく行為。
サイトの文章だって、「こんなのらしくないよなあ」なんて自分で決めたりしているのに気付いて、愕然とすることもあるくらいなんだから。



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大雪の日に車を運転するような人生 - 2004年01月23日(金)

 ここは九州だというのに昨日は朝から雪が積もっていて、この地域の交通網は麻痺しまくっていた。
 僕は当直先の病院から職場に行くために大雪の中チェーンもなしに車の運転をしたのだが、これは本当に怖かった。車は滑りまくるし、カーブを曲がりきれなくなりそうになるし、坂で停まったら動けなくなりそうになるし。
 実際に事故を起こしたり、坂の中腹で停まった車もたくさんいたし。

 しかし、後になって冷静に考えてみると、あの日の朝、大渋滞していた車の中に、「絶対に今やらなければならない仕事」を抱えていた人は、僕も含めて、どのくらいいたのだろうか?
 実際に僕も、いつもなら30分の道を3時間かけてなんとか辿り付いたのだが、実際に仕事場についたときには、もう運転だけで疲労困憊、何もする気力が起きなかった(そして、実際に上の先生が来られなかったり、仕事の材料が来なかったりで、ほとんど仕事にもならなかった)。
 よく考えたら、そんな状況で「絶対に仕事場に行かなければ」なんて考えるのは「思い込み」でしかないのだ。僕が「危ないから道路の状態が安定してからいきます」と言ったところで、状況はほとんど変わらなかっただろうし、到着時間そのものだって、そんなに変わらなかったはずだ。
 でも、そういう「自分が行かなくては」というような「思い込み」に僕たちやこの社会は支えられているのかもしれないが。

 なんだか、こういうのって、人間の生き方みたいなものなのかもしれない。
 生きていれば、雪が積もって身動き取れないような時期もあるはずだ。
 そういうときに、「大雪を克服して何かをやらなくては」と考えるのは、本当に正しいことなのだろうか?
 実は、多くの「大雪の日」というのは、少し待っていれば溶けてなくなってしまう。たいがいの問題は、時間をおけばたいしたことではなくなってしまう。
 それが本当に「溶けてしまうもの」かどうかを判断するのは難しいことだけど。

 にもかかわらず、僕たちはムリをして、本当はその必要もないのに、ムリに車でどこかに行こうとして事故を起こし、後で雪の無くなった道路を見て、「なんであんな雪の日に運転したのだろう?」と自問自答するのだ。
 今日は明日のカンファレンスのため、ちょっと離れた場所にいるのだけれど、ここは、ちょっと寒いけど雪の欠片もない。
 場所が変わると、「どうしてあそこは、あんなに雪が積もっていたのだろう?」なんて疑問に思うこともあるだろう。
 苦境なんて、大部分はそんなものだ。

 そんな偉そうなことを言いつつも、現実にはやっぱり僕は雪の日にも車を出してしまうんだけど。そうして「ムリをしてまで仕事に行く自分」に酔うために。
 そしてたぶん、日本中が同じように酔っているのだ。

 まあ、本当は「いつ雪が降ってもいいように、チェーンとそれを装着する技術を身に付けつつムリをしない」というのが正解なんだろうけどさ。



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「ジロジロ見ないで」と「ジロジロ見ないように」 - 2004年01月21日(水)

参考リンク:『ジロジロ見ないで “普通の顔”を喪った9人の物語』(扶桑社)

先日本屋に行ったとき、偶然手に取ったこの本。
ちょっと興味を持ってページをめくっていたら、なんだか目が離せなくなってしまった。
この本には、火傷や病気などで、明らかに「普通」とは違う顔を持ってしまった人たちの手記が、写真付きで紹介されている。
どの人も、正直言って街で見かけたら「どうしてこんな顔に…」と思ってしまうような顔。
読んでいて、僕はなんだか、いたたまれない気持ちになってしまった。

この人たちが僕の近くにいたら、たぶん僕は「ジロジロ見る」ことは無いと思う。だいたい僕は、もともと人の顔を見る習慣がなくて、いつも街で知り合いに声をかけられるとビックリする。
どうしてこんな人の顔だらけのところで、知り合いの顔を認識できて、その上「もし人違いだったら…」なんて考えずに、特別な用もないのに声をかけられるのだろう?なんて思ってしまうのだ。

でもおそらく、この人たちが僕の近くにいたら、「彼らの顔を見ないように」とものすごく意識するだろう。
それもまた、「差別意識のたまもの」なわけで。
「自然な態度で接しよう」とか「差別しないようにしよう」なんて考ている時点で、「普通じゃない」のだ。
だって、日頃友人・知人や街の人に接するときに、そんなことを意識する人なんているはずもない。
だいたい、「自然に」なんていうけれど、「じゃあ、こういう顔の女性と付き合おうと思だろうか?」なんて考えてみると、たぶん「思わない」。

「普通に接する」というのは、とても難しいことで、過剰に「それでも強く生きているなんて偉いなあ」なんて言うのも「差別」だろうし、「こういう人たちを差別してはいけない」なんていう考え方だって「差別」なのだ。
 彼らの言葉に感銘を受けることすら「差別」なのかもしれない。

 この本を読んでいて、かっこ悪くてモテないが、なんとか「普通」の範疇に入って生きている自分をちょっとだけありがたいなあ、なんて感じてしまった。それでまた自己嫌悪。

 子供の頃「ヘレン・ケラー」の伝記を読んで感動したのと同時に、僕が思ったことがある。
 ヘレン・ケラーは、「見えない」「聞こえない」「話せない」という大きな障害を克服した偉人であり、彼女がやったことというのは、「障害を持つ人々に勇気を与えた」ことになったけれど、彼女ができるようになったことというのは、「普通」の人間にとっては「なんの努力もせずに(というのは言いすぎ?)できること」なのだ。
 さまざまな障害を乗り越えた末の彼女にとってのゴールですら、「普通の人」のスタートにすら達していない。
 そんなふうに考えると、ヘレンの「偉大なる人生」は、なんだかとても虚しくて哀しいようにも感じられるのだ。
 
 「ジロジロ見ないで」は、すごく良い本だと思う。
 でも、これを読んでも、僕はどうしたらいいのか、全然わからない。

 「普通に接する」ことって、本当に難しいよなあ…


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綿矢りさ「蹴りたい背中」を読んでみた(軽度ネタバレあり)。 - 2004年01月19日(月)

 とりあえず綿矢りさ「蹴りたい背中」を読んでみた。
 「19歳の芥川賞作家」のことをあれこれ書いてみたけれど、やっぱり読まないで小説家の批評をするなんておこがましいと思ったからだ。

 僕はこの本をTSUTAYAで購入したのだが、正直言って驚いた。紀伊国屋のような大型書店ならともかく、どう考えても本を買うことを目的に来る人の率が低そうなTSUTAYAで、僕がそのあたりを逍遥しているわずか10分か15分くらいのあいだに、少なくとも10人近くの人(しかも外見上は、あまり本を読まなさそうな雰囲気の20歳くらいの若者が多かった)が、この「蹴りたい背中」を手に取っていたのだ。
 実際に買った人は、その時間帯にはいなかったのだが、それにしても、TSUTAYAでこんなに単行本を次から次にいろんな人が手に取るのを初めて見た。
 今回の芥川賞の選考は、そういう意味ではすでに「成功」しているのかもしれない。
 実際、彼女がこんなふうに賞を取ったおかげで、あの装丁をみただけで敬遠していた僕のような30男も「話の種に」と手に取りやすくなったし、レジにも持っていきやすくなったわけだし。
 こんな機会(芥川賞受賞)でもないと、エロ本とかよりもレジに持っていくのが恥ずかしいんじゃないだろうか?
 そういうのが、自意識過剰なのかもしれないが。

 さて、肝心の「蹴りたい背中」の中身なのだけれど、140ページで1000円というのはコストパフォーマンスに劣るような気はしたが、「そんなに悪くないな」という感じだ。僕はキライじゃない。
 少なくとも、辻仁成の「海峡の光」を読んだときの衝撃には遠くおよばない。あれは本当に、酷かった。小説としてより、日本語として酷かった。

 僕は「蹴りたい背中」を読み始めた時点で、ある種の「既読感」を持った。もちろん綿矢作品を読んだのははじめてだったんだけど、その感覚は、3分の1くらいのところで、確信に変わった。
 「そうだ、これは村上春樹だ」
 別に、綿矢さんが村上春樹をパクった、というわけじゃない。でも、この「蹴りたい背中」という作品には、村上春樹作品、とくに「ノルウェイの森」あたりと同じ香りがする(ちなみに、綿矢さん自身も、インタビューで好きな作家として村上春樹の名を挙げている。
 現実と折り合えない(と本人は感じている)主人公と、主人公の周りの「現実に適応しているように(主人公からは)見える人たち」、そして、「根本的に現実社会に染まることができない人たち」が、作中には登場してくる。
 「蹴りたい背中」の「現実に染まることができない人たち」=にな川は、「ノルウェイの森」の直子やキズキほど深刻なものではないし、作品の中で、彼は「現実への適応の兆候」を見せるのだが。

 村上春樹の小説というのは、「一部の感応する読者に『これは自分のことが書かれた小説だ』というインパクトを与える」と言われている。確かに、僕も村上作品の主人公に、自分との共通点を見出して嵌っていったのだ。
 しかしそれは、あくまでも「自分のことが書いてあると思わせる小説」であって、この世界に「自分のことだと思いこんでいる人が何十万人もいる」というのが現実なんだけど。
 そして僕たちは、自分という存在が、「俗世間に染まった人々」と、「本当に社会と適合できない人々」のボーダーラインに浮かんでいて、その2つの世界のパイプであるというような錯覚を抱いてしまう。
 つまり、そういうちょっと自意識過剰な主人公=ワタナベ君=ハツ(「蹴りたい背中」の主人公)=自分、というような。
 だから、綿矢りさの紡ぎ出す世界に感応して「自分のことが書いてある」と思ってしまう同世代人というのは、なんとなく理解できるような気がする。ちょうど、僕が村上春樹に感応してしまったように。

 ところで、文章家としての綿矢さんの力量なのだが、こちらの方も書かれているように、正直ムダな修飾語や、しっくりこない比喩が多く、「、」がたくさんありすぎるし、ちょっと興醒めな面もあった。なんとなく、クロード・シモンの「フランドルへの道」っぽいな、なんて。 

 ただ、この読んでいるほうがもどかしくなるような文体は、考えてみれば、「綿矢りさ」という作家にとってはひとつの武器なのかもしれない。少なくとも、この「読んでいてもどかしくなる、まわりくどくて気が利いた比喩をいちいち探しているような文体」は、「蹴りたい背中」で描かれている「自意識過剰なもどかしさ」というのに非常に合っているのだ。

 そして、やっぱり「キャラクターの魅力」というのは否定できまい。
 とはいっても、登場人物というより、作家「綿矢りさ」本人の。
 もしこの作品を40代くらいの作家が書いていたら、正直僕は最後まで読めなかったと思う。
 でも、19歳の綿矢りさというカワイイ作家志望の女の子が、「こんなふうに書いたらサマになるかな…」なんて、たどたどしく悩みながら書いた文章だと思うと、けっこう楽しく最後まで読めてしまう。評価するという観点からは失格なのだが、そういうのは、消すことのできない読者としての自然な感情なのだ。
 WEBサイトでも同じなのかもしれないが、「作品は作品、作者は作者」なんてクリアカットに分けて考えられる人は、そんなにいないはず。
 「檸檬」の梶井基次郎の写真に驚愕したり、ガンダムのシャアの声が大工の棟梁みたいなオジサンによって出されていることに落胆したりした人は、僕だけではないのでは。

 ストーリーは、「知らない異性の同級生の家にいきなりついていく」というシチュエーションが、ものすごくファンタジーだと思う。もちろん褒めてるんじゃなくて、「そんなことありえない」という意味で。「半落ち」のことを渡辺淳一が「あんな行動をとるなんてリアルじゃない」とけなしていたのだが、僕にとっては、この「ほとんど面識のない同級生の男の家に一人であがりこむ」という状況のほうが、よほど「リアルじゃない」ような気がする。もちろん、僕は渡辺さんのようにリアルだけが正義だなんてさらさら思ってはいないが、「ありえねえ」とちょっと興醒めだったのは確かだ。

 「蹴りたい背中」が芥川賞に値する作品かは、なんともいえない。ただ、「綿矢りさ」という作家を「先物買い」したいという理由は、よく判るような気がする。おそらく、彼女の作品は一部の読者には、確実に「自分のために書かれた小説」として歓迎されるもので、彼女はそれを無意識のうちに理解しているのはないか、と思うのだ。
 そしてそういうのは、職業作家にとって「天性の才能」なのだろうと思う。簡単そうにみえて、そういうバランス感覚なんて、誰にでもあるものじゃない。
 日本に100人じゃ商売にならないし、全員に好かれようとすると、結局誰の心にも響かない。

 「誰も読まない小説」というのは、所詮「小説としては無価値」であって、少なくとも誰かが手に取って「面白い」とか「つまらない」なんていう評価のまな板の上に載ることができた時点で、綿矢りさは勝ち組だ。
 「つまらない」は「読もうとも思わない」に比べれば、極上のコメントなのだ。

 いずれにしても「そういえば綿矢りさ、って作家がいたよねえ」と後世言われるか、「そういえば綿矢りさって、『蹴りたい背中』なんてのも書いてたよねえ」と後世言われるようになるか、その答えが出るのには、もう少し時間がかかるだろう。
 なんとなく、「あんまり巧くなりすぎたら、面白くないだろうなあ」なんて思ってみたりもするのだけれど。
 


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活字帝国の逆襲 - 2004年01月16日(金)

それにしても、いい時代になったものだと思う。
僕のように、「書くことは好きだけど、目立ったり自己主張したりするのが苦手」な人間にとっては、こんなふうに(一応)匿名でネット上に文章を書いて、世界のどこかからリアクションをもらえることがある(まあ、カウンターが1つ回るのだって、リアクションのうちには違いあるまい)なんて、信じられないことだ。
一昔前なら、「自分で書いた文章を他人に読んでもらう」ためには、地域の文芸サークルに入ったり、知り合いに読んでもらったり、雑誌に投稿して運良く賞でもとったりしなければムリだった。そのために、「他人に読んでもらうためにプロの作家になる」というモチベーションすら存在したくらいで。
ところが、今はそれこそ仕事の合間に、「誰か不特定少数の読者」を対象に書くことができるわけで、そういうのは僕のような「中途半端な文章書き」にとって、ありがたいことこの上ないのだ。

だいたい、ネットというやつは、本当に便利な代物だ。
ニュースやスポーツの結果がリアルタイムでわかるし、専門知識だってゴロゴロしている。ウソも多いが、それを見抜く楽しみだってある。
他人の生活をちょっと覗き見することだってできる。

しかし、僕はネットの限界みたいなものを感じることがある。
ネットというのは、今のところはあくまでも試食のためのツールでしかないのではないか、なんて。
ネット上ではいろんな作品が公開されているのだが、そんなに「当たり」なんて引けるわけもない。
ニュースだって、多くの人は「これで十分」と思っているのかもしれないが、新聞の紙面をちゃんと読んでみれば、ネット上でタダで閲覧できる情報が、いかに端折られたものであるかというのがわかる。
 偏ったメディア批判をしている人(僕も含めて)の文章だって、ずっと眺めていれば「偏りのある批判」になっていることが殆どなのだ。
 もっとも、100%中立な姿勢というのがあるのなら、それはそれで「風見鶏」という非難にさらされることだろうが。
 人間は、口伝されてきた「知識」をより多く、より正確に伝えるために「文字」という文化を創造してきた。グーテンベルクの活版印刷術がプロテスタントの発展に寄与したように、活字という媒体が、知識の広範な伝播に果たした役割は大きい。

ネット上の情報の多くは、いわば、最近流行の「名作文学あらすじ集」みたいな印象がある。応用が利かない、歴史年表の暗記のようなものだ。歴史を学ぼうとすれば、むしろ数字より人間のドラマを記憶していくほうが有益だろうと思う。
もちろん、これからネット上の情報が整備されてくれば、その情報はどんどん「有益な」ものになっていくだろう。
まあ、「混沌」がネットの根源的な魅力ではあるので、そう簡単に折り目正しくなるとも考えがたいが。

僕は、活字は必ず復権してくる、という予感がしているのだ。
現に、今年の芥川賞作家2人は、あの若さで「作家になること」を目指していたのだし、僕も最近、「ネット上で有益な情報を拾い集めていくこと」にちょっと疲れ始めているのだ。
少なくとも、活字媒体の多くには選ばれた書き手がいて、編集者がチェックを入れている。読者からの反響だってあるだろう。
どんなにわれわれが朝日新聞をバカにしたって、あの媒体は1日1千万人くらいの人が(もちろん全ページを詳細になんて見てない。僕の知る限り、いちばん新聞を熱心に読む人は、病院に入院中の患者さんだと思う)目を通している。僕たちが書いているものなんて、あの「侍魂」でさえ通算1億カウントを突破したことが大ニュースになったくらいなのに。

まだまだ、「活字」はバカにはできない。
おそらくこれからは、ネットがテレビで、本は映画のような位置関係になってくるのでは、と僕は考えているのだが、少なくとも、うわべだけでない知識を手に入れようと思ったら、本も読むべきだと思う。
ネットだけで世の中がわかったような気になるのは、「目撃!ドキュン」を観て人生がわかったような気になるようなものだ。

とにかく、まだまだネット上の情報は洗練されたものではない。
もちろん、活字の世界にだって「トンデモ本」というのは存在するのだが、それでも、当たりを引ける可能性は、まだまだ活字媒体のほうが高いような気がするのだ。

ただし、本だけ読んでれば世の中のすべてが理解できるというわけでもないのだけれど。



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運転免許の更新に行って考えたこと。 - 2004年01月14日(水)

バイトとバイトの合間に、運転免許の更新に行った。
この免許更新というやつは、かかる時間はそんなに長くもない(ような記憶があった)のに、5年に1回という中途半端な間隔であることもあいまって、非常に気が重くなるイベントだ。
実は、今回は駐車禁止で一度違反切符を切られていたのだが、ちょうど更新が「優良」に決まったあとだったみたいで、ギリギリセーフだったらしい。
やれやれ、僕もときには悪運が強い。

それで、型通りに「交通安全協会」とやらの協力費を払い(しかし、どうしても必要な費用なら全員から徴収すればいいし、任意の割にはほとんど義務的に払わされている。何故?と毎回思うが3年〜5年すれば忘れる)、書類チェック、かったるそうな職員の人の視力検査、写真撮影(今回は、比較的マシだったような気がする。いつも緊張してとんでもない写真を持ち歩くことになってしまうからなあ)を済ませて、2階にある教室へ。

そこでは、例のごとく「思い込み」の危険性を訴えるビデオ鑑賞。
「止まってくれるだろう」という思い込み、「このくらい呑んでも大丈夫」という思い込み、「居眠りなんてしない」という思い込み…
それは確かにその通りなんだけど、どうもワイドショーチックな作りがなあ…
まあ、いきなり「死ねばよかったのに」とかいう手垢にまみれたネタが一発目で、怖いというよりうざったい子供の叫び声がこだまする「本当にあった怖い話」よりは、はるかにマシかもしれないが。

そのあと、やたらと慇懃な「先生」が出てきて、たぶん一日に何度も同じことを言っているのであろう、耳にタコができそうな講義を30分程度。
「取締りを厳しくすれば、交通事故は減る。そんなのでは情けないので、もっと自覚して安全運転をやってもらいたい」

……ああ、もうダメだ。
取締りをすれば、本当に交通事故がなくなるの?
それは、本当に統計学的有意なのか?
確かに、飲酒運転の罰則強化は当然の流れだ。
というか、ああいうのは刃物を振りかざして襲ってくる人と同じなのだから、今までの罪が軽すぎたのだ。
そして、罰則強化は確実に意識改革につながっていると思う。

しかし、その一方で、「明らかにスピードが出てしまう道」でのスピード違反の取締りや「誰かに迷惑をかけているとは思えないような場所」での駐車違反の取締りに、「罰金稼ぎ」以外の意味を見出すのは、僕には困難なのだが。

僕は、水を打ったように静まり返っている、その優良運転者講習の教室で思った。よくみんな、こんなに退屈かつ独善的で、講師にも熱意が全く感じられないような話を黙って聞いていられるな、と。
でも、結局僕も黙って席について、その話を内心ムカつきながら聞いていた。

やっぱり、免許が無いと困るからさ。

成人式で暴れる若者はバカだが、大人が暴れないのは、モラルが高いというより、みんな必要なものを得るためにガマンしているだけなのだと断言できる。
どんなバカだって暴走族だって、免許センターの講習中に暴れたりは(たぶん)しない。
モラルが高いわけじゃなくて、免許が欲しいからだ。

逆に言えば、大概の人間は、自分にとって大事なものが係っていれば、大人の対応をせざるを得ないのだ。
「黙って聞かないと殺すぞ!」と銃をつきつけられて言われれば、誰だって黙って聞くくらいのことはするだろうしね。

大人はモラルが高いわけじゃなくて、大事なものが多すぎるだけなのかな、なんて思った免許更新だった。
しかし、この免許ビジネス、なんとかならないものか。
唯一意味がありそうなのは視力検査くらいだったが、あんなに適当でいいのか、なんて自分が更新直後なので憤ってみたり。
動体視力とか、ちゃんと調べたほうがいいんじゃない?




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「愚かなる新成人たち」に捧ぐ。 - 2004年01月13日(火)

参考リンク:<成人式>式批判やユニークな催しも(毎日新聞)

成人式というのが、また今年も槍玉に上がっていて、僕の周囲の大人たちも、「何であんなやつらのために成人式とかやらないといけないんだ」とか言っているのですが。

でも、「普通の成人式」というのがメディアで取り上げられなくなっただけで、大部分の成人は、多少行儀が悪いながらもごく普通に新成人になっているものだと僕は思うのです。
バカな野球ファンが川に飛び込んだからって、野球をやめるなんてことが取りざたされることがないように、成人式は成人式でメリットもあるのではないか、と。少なくとも、昔の知り合いとかに会える機会があるっていうのは、悪いことじゃないし。
 正直なところ、ああいうバカ新成人たちを批判するのにももう疲れた、って感じもするんですよ。例の「妨害福男」にしても、これだけメディアで叩かれた時点で、今年の「福男」どころじゃないわけだし。

 ところで、上のリンクにある、「議員の紹介の長さ」を批判した新成人代表を別室で「どうけじめをつけてくれるんだ」と恫喝する議員たち、というのは、この新成人以上にみっともないと思います。ヤクザかお前ら。
「選挙の票のため」というのが図星だったから腹立ったのかな。

 新成人の諸君。つまらない大人の話を聞いたふりできるくらいに、早く大人になってくれ。集団の力に頼らずに自分の意見を落ち着いて言えるくらいに大人になってくれ。大人になんかなりたくないと思うかもしれないが、安心してくれ。君がどんなに大人になりたくなくても、君の周りはいつの間にか自分よりガキだらけになっちまう。そんなもんだ。

 今日のニュースで一番印象に残ったのは、自衛隊員の成人式だ。みんな一様にいい顔をしていた。それは、見る側の感傷なのかもしれないけれど。
 最近どうも、自衛隊員が偉く見えて仕方がない自分に驚くことが多い。



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メールの返信ができない理由(というか言い訳) - 2004年01月11日(日)

『最北医学生の日常』「(1/10)不在が意味するものを想像する。」
を読んで、心がズキズキ痛みましたよ僕は。
ほんとうに、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

えーっと、最近のメール返信率は、たぶん「虎の穴」にさらわれた少年が、生き残ってリングに立てる確率と同じくらいだと思います。
では、なぜメールの返信が書けないのでしょうか?
せっかく連休の中日という誰も読んでなさそうな時間帯で、しかも僕は仕事場で完全に煮詰まっておりますので、いい機会だから書きたいと思います。

(1)時間が無い

 物理的に忙しい、っていうのはあると思うんですよやっぱり。


(2)内容的に書きにくい<1>

 俗に言う「誹謗中傷メール」ってやつです。「お前は間違っている!」というのは素晴らしいのですが、せめてどこがどう間違っているのか書いてくれないと、全部のログを洗いなおすなんて不可能です。僕のサイトは「呂氏春秋」じゃありませんし。


(3)内容的に書きにくい<2>

 病気の相談や恋愛相談は、ちょっと厳しいです。
 病気相談なんかは、本人を診ないと診断つけられませんし、何かの際に「この先生がこんなことメールに書いていたから…」なんていうことでオールレンジ攻撃とかされたら、非常に困ります。
 「医者に行きたくない」のは、気持ちとしてはわかるんですが、医者に行きたくて行く人なんていませんって。
 恋愛相談については…あの…僕のサイトをみて、恋愛経験豊富な人間だと思いますか?それに、恋愛というのは基本的に職業より(相手が「ゴルゴ13」みたいな特殊な人なら別として)お互いの個性がものを言うものです。
 冷たいのは百も承知の上でいいますが、僕に聞くくらいなら、直接本人にきいてくださいな。


(4)ごめんなさい(土下座)

 でも、大部分のメールは、もらって非常に嬉しいですし、やっぱりリアクションがあるというのは、やりがいのひとつではあるのです。
 「では、なぜお前はメールに返信しないんだ?」
 ひとつは、(1)のように、純粋に「忙しくてできない」ということ。
 そして、素晴らしいメールをいただいて、「これはちゃんと返信しなくては!」と固く決意をしながらできないことだってあるのです。本当だよ。

 「ちゃんとしたメール」に「ちゃんとした返事」をするというのは、実は僕にとっては結構悩ましいことなのです。
 自分のサイトに書いたことなら「嫌なら来なきゃいいじゃん!」と開き直れるのですが、メールというのは、僕から特定の「誰か」に対して送るものです。
 だから、そこには当然「特定の相手」がいるわけで。
 そして、「誰か」に対してメールを書くときには、失礼がないように、それぞれ考えなければならないこともあります。
 だって、自分あてに失礼なメールが来たら、「差出人の自分に対する悪意」を感じるのが当然ですよね?
 まあ「特定の対象を意識していない文章」なのに、「私のこと?」なんて誤解されがちなのが、WEBの世界ではあるのですが。
 相手の年齢は?ものの考え方は?送られてきたメールに対する答えになっている?
 そんなことを考えながらメールを書く作業というのは、調子のいいときはけっこう楽しい作業なのですが、時間に追われてときは、ついつい後回しになってしまいます。「もっと余裕のあるときに、ちゃんと書こう」って。
 「嬉しいメール」に対して「ちゃんとした返事」を書くのは、ヘタしたら1時間くらいかかりますし、「それなら先に日記を書いておこう」とかやっている間に、もう寝る時間になってしまうのです。

 「あんなにサイトに書いてるくらいヒマなら、返信しろよ!」
 ごもっともです。僕もそう思います。
 しかしながら、僕が自分で納得できるような、「誰かに対するメール」を書くには、サイト更新の何倍も時間がかかってしまうのです。
 そんなにメールそのものがたくさん来るわけではないのですが…
 でも、やっぱり、まずはたくさんの人が見てくれるほうから、なんて理由を自分勝手につけて、「更新優先」になってしまうのです。本当にすみません。

 掲示板のレスなどを見ていただければわかると思いますが、僕は書くとなるとけっこうキチンとやらないとすまない性分で、「ありがとうございまーす、またきてねー(絵文字)」みたいなのは嫌なのです。
 その一方で、オール・オア・ナッシング、つまり「適当に返信するくらいなら、しないほうがいいよね」などとも考えてしまいがちで。
(本当は、「絶対レスするぞ!」⇒でも忙しいから今度⇒さすがにもう、今から返信しても失礼だよね…、の繰り返しが多い)

 そしてまた、たまにちゃんとした返信をして、心のこもった返事などをいただくと、それはそれで「また返信しなくちゃな…」などと、プレッシャーになったりもするのです。そのキャッチボールを続けていくと、メルトモがすぐ10人くらいになってしまいますし。だんだん、「キャッチボールをしていくこと」が怖くなってくる。あまりに即レスが続いたりすると、かえって「気を遣わせてるのかな?」とか思うこともあるのです。

 というわけで、僕の場合はとくに戦略や選り好みがあるわけじゃなくて、「レスの欠如」の原因の99%は時間不足と怠惰です。いつも「返信しなくてごめんなさい」と西を向き、東を向いては拝んでおります。

 でも、メールをいただけるのは、(「困るメール」でなければ)すごく嬉しいので、返信希望の方は、その旨書いていただければ、いつか必ず返信したいと思います(←今年の目標)
 メールしてくれる人のほうだって、僕と同じような「メールに対する敷居の高さ」を感じているのに、あえて僕のところに送ってきてくださっているのだし(そんなにヘビーなものではないのかなあ、どうなんだろう?)

 ああでも本当に、僕は「恋愛論は得意だけど、恋愛は苦手」ってタイプですので、あまり期待はしないでください。けっこう口だけ、猫灰だらけ。

 もっと肩の力を抜いてやれればいいなあ、なんて自分では思っているのですけど。

 




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「もうひとつのセックス」幻想 - 2004年01月10日(土)

今日の話は、この参考リンクを(そして、できれば「ノルウェイの森」も)読んでいただかないことには始まらないのです。制約が多くてすみません。

参考リンク:『われ思ふ ゆえに…』・1月9日「もうひとつのセックス(後編)」


 たぶん、この世界のどこかに「もうひとつのセックス」というのがあるのだと僕も思っていました。
 それは、生きている寂しさを埋めてくれるもので、あたたかくて、せつなくて、後腐れのない。
 最初にあの場面を読んだとき(僕は高校生で、確かに「ノルウェイの森」は、ひどくせつないポルノ小説だったような印象があります)、僕もあの場面で心がざわざわしました。
 恋人と戦友(みたいなものだよね)を失った2人がレイコさんのギターで「お葬式」をする光景は、見たこともないにもかかわらず、今でもこの眼で見たことがあるような気がします。

 大学生になったら、あの小説のようなことが僕にも起こるのだろうか?
 そんなことも考えていました。
 ある先輩は、「夜の街のバーのカウンターで飲んでたら、そんなことも時々あるさ」と僕に言いました。
 ある後輩は同級生の彼女である後輩の家に勉強を教えに行ったとき、「その場の勢いで」コトに及んだそうです。
 残念ながら、僕にはその手の「ゆきずりの寂しさを埋めあうセックス」の経験ってやつがなくて、そういうのはオトコにとっては意外とコンプレックスだったりもするのですが。

 「ノルウェイの森」のあの場面、主人公のワタナベ君とレイコさんが「あれ」をやったシーンについて、高校生の僕は、「ワタナベ、恋人の『葬式』のあとに、他の女と寝るのか!」とムカつきましたし、レイコさんの節操のなさもちょっと許せませんでした。
 まあ、当時から「直子のお葬式」が終わったあと「じゃあ」と2人がガッチリ握手して別れればいいのか?と自問してみると、それもなんとなくおさまりが悪いなあ、とは感じていましたが。

 今では、「あの2人は、それしかなかったのかな」なんて納得できる気はします。
 でも、その一方で、そういう「もうひとつのセックス幻想」みたいなもので、どれだけたくさんの人が傷つけあったり、「違うなあ…」と落胆したりしているのだろうか、とも思うのです。
 そして、そういう「もうひとつのセックス幻想」で、性病やエイズをうつされたり、子供ができたりしてしまう例のほうが、本物の「もうひとつのセックス」よりはるかに多いのではないでしょうか?

 「ノルウェイの森」では、「子供ができたら恥ずかしいから」と言いながらレイコさんは避妊しませんが、もし本当に子供ができたり、性病がうつっていたりしたら、本当に安いポルノ小説だしね。
 残念ながら、現実というのは、どちらかというと「安いポルノ小説寄り」なのですが。

 ところで、「愛のないセックスは、気持ちよくない」と思いますか?
 確かに、「愛のないセックス」そのものは、「愛があるセックス」より、気持ちよくはないかもしれません。
 でもね、人間は「愛のないセックスをしてしまうワタシ」に心地よく酔うことだってできるのです(こういうのは、人それぞれだろうけどさ)。

 「もうひとつのセックス」なんて、たぶん虚構の中にしかないのです。
 現実というやつは、翌朝になって「妊娠してないかな?」という不安だってあるし、いろいろ後腐れだってあるかもしれません。行為の翌朝に化粧の剥がれた女の子の顔やオトコの鼾の音に幻滅することだってあるでしょう。 双方にとって完璧な「もうひとつのセックス」なんて、ありえないんじゃないかな、なんて。


 ほんとはね、「じゃあ、『本来のセックス』って何だろう?」という気もするんですよ。
 単に、物理的な性器の交合によって、快感を感じる脳内物質を放出しているだけなのかもしれない。

 セックスに意味を見出すことなんて、人間の幻想。
 寂しいと感じることも、寂しさを埋めようとすることも、人間の幻想。
 生きることに意味を見出すことなんて、人間の幻想。


 それでも、この幻想から離れられない。



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「女の化粧の意味」について、男の立場から考える。 - 2004年01月07日(水)

最近、「メイク」について書いた文章をたて続けに読んだので。

参考リンク:
・最北医学生の日常(2003.12/26)「化粧がケバいと男が言うとき」
・えむじょSTATION(2003.12/28)「メイク論・女の子って楽しい!」
・淡々としていなくもない日常(2004.1/6)「変身願望に取り憑かれる。」

基本的に、男の子の多くは、「化粧臭いオンナ」が好きじゃないと思う。
僕も子供のころは、化粧をベタベタ塗った女性に良いイメージを持っていなかった。
けっこう香りもキツイし、ケバケバシイ印象があるから。

でも、今ではバッチリメイクをしている女性は、キライじゃない。
これから書くのは、僕が化粧というものの意味について考えさせられた話だ。

6年くらい前の話。
その日は、もうすぐクリスマスというあわただしい年末の1日だっだ。
僕の母親は当時病院に入院していた。
それは、現代の医学では治らない病気で、もう母の意識はほとんど無く、話しかけても返事も無く、何か見えているか、何か聞こえているかもわからないような状態。

そんなある日、彼女が「お見舞いをさせて」と言ってきた。
もうこんな状態だから、ということを説明して、「たぶんもうわからないから、来なくていいよ」と話したのだけど、「それでもいいから」ということで、彼女は病室にやってきたのだ。

その顔を見て、僕はビックリした。
もともとほとんどスッピンに近い状態で生活をしている人なのに、その夜の彼女は、僕が一目見てビックリするくらいのバッチリメイクだったのだ。
いや、バッチリ、というよりは、明らかに過剰なメイクで、率直なところ「塗りすぎ」なのだけど(もともとそういう顔を見慣れていない、というのは差し引いても)。

でも、僕はその顔を見て笑い出しそうになったのと同時に、泣きそうになった。
彼女が死にゆく人に何を伝えたかったのかは、僕にはわからない。
もちろん、母親は何の反応も示すことはなかったが、たぶん「何か」をふたりは話していたんじゃないかな。
女同士の話、ってやつだったのだろうか。

今、この話を思い返すと、あのとき、母親もメイクしてあげれば良かったかな、なんて考えてみたり。

僕は相変わらず「化粧臭いオンナ」は苦手だが、「化粧をしようという気持ち」に対しては、素直にありがたいな、と思うのです。




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「好戦的な宿命」について考える。 - 2004年01月04日(日)

最近の格闘技ブームを観ていて思う。
僕たちは、人と人が闘い、血を流すのが好きなのだろうか?と

今から10年位前、あるゲーム雑誌にこんな投稿記事が載っていた。
「戦争ゲームは、子供の教育上よくないのではないか?」
その投稿者の女性は、ゲームの中で「人間の命が数値化される」ということを危惧していて、そういう「ゲームでの人名軽視の思想」が、子供たちにを好戦的にし、悪影響を与えているのではないか、と主張していた。
(光栄というメーカーの太平洋戦争のゲーム「提督の決断」が槍玉に挙げられていた。)
 それに対しての意見は「僕たちはゲームによって、自分の好戦的な気持ちを『ガス抜き』しているんだ」というものや「ゲームは現実とは別物だ」というもの、そして「ゲームで数値化された『人の死』を体験することによって、かえって戦争の恐さを知ることができる」というものだった。

僕はゲームが好きだ。でも、その一方で、「ある種のゲーム(たとえば、「GTA3」や「三国無双」など)は、あまり人間の行動にいい影響を与えないだろうなあ」とも思う。しかし、こういう、ある種背徳的なゲームは面白いのだ。「現実ではできないから、ゲームでやるんだ」というのは、やっぱり一面の真実なのだと思う。
その証拠に、グラフィックやサウンドの進化は、どんどんゲームを残酷にすることに利用されているじゃないか。

結局、多くの人は好戦的なのではないか、と思う。
好戦的という言葉が危険であれば、「自分が傷つかない争いが好き」と言ってもいい。
ほんと、曙とサップのどちらが強かろうが、自分の人生には何の関係もないことなのに。

戦争を避けようとするならば、「自分が曙やサップと闘わされる状況」を想像するしかない。
僕たちは戦争を想像するときはアムロやシャアの役なのに、実戦ではジムとかボールで「邪魔だ!」とかいって一発でやられる役なんだろうけどなあ。

しかし、何故だかわからないけど、格闘技とか戦争ゲームって、やっぱり面白いのです。


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坂本竜馬を市川染五郎に演らせたのは誰だ? - 2004年01月02日(金)

 少しだけ、テレビ東京の「竜馬がゆく」を観ていた。
 でも、全然ダメだったなこれ。
 テレビ東京の長時間時代劇といえば、「壬生義士伝」(渡辺謙主演)という傑作があるだけに、ひょっとしたら、とちょっとだけ期待していたのだけれど。
 どうしてこんなダメダメドラマに松たか子や松本幸四郎が出ているんだろう?とエンディングのキャストを観ながら思ったくらいだ。
(身内の染五郎が主演だからなんですね、きっと)

 僕の坂本竜馬に対する知識というのは、多くの日本人と同様に、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に拠るものなのだが、あの作品を読んでいて感じるのは、坂本竜馬という人間の想像もつかないような「人間の大きさ」なのだ。言葉にするのは難しいんだけど、「何も考えていないような人」であり、「この人のために何かしてあげたいと思ってしまうような人」、というような。
 日本の歴史上の夭折した人物で、「この人がもう少し長生きしていたら、歴史が変わったかもしれない人」を挙げるとすれば、織田信長と坂本竜馬なのではないかと僕は思っているのだ。

 しかし、市川染五郎の竜馬は、あまりに「軽い」竜馬だ。ミスキャストも甚だしい
 最後まで、「この人が坂本竜馬?」という違和感を拭い去ることができなかった。切れ切れにしか僕は観ていないとはいえ、10時間もやっていたドラマなのに。
 なんというか、「器の広さ」とか「得体の知れない感じ」が染五郎竜馬には、全然感じられないのだ。いつもイライラしているみたいだったし、何かに追われているようだった。大仰な割には、迫力が全然ない。要するに「小人物」なのだ。
 全然ダメ!

 最後の暗殺のシーン、司馬遼太郎は、「歴史上の出来事」として記録しているだけで、アッサリしすぎるくらいに簡単になぞって筆を置いている。
 でも、このドラマでは、結末をつけないと、ということなのだろうけど、中途半端に触れてしまって、かえって「尻切れトンボ感」を増す効果を出している。あんなのなら、描かないほうがマシだろう。
 「何で竜馬は刀を抜かなかったんでしょう?」って、「油断してたから」だとしか判断しようがないんですけど、あの描き方だと。

 歴史を描くことは難しい。最近では、この間の「秀吉」といい、北野武監督の「座頭市」といい、現代劇的なアプローチが試みられているような印象がある。確かに、歴史上の人物も、当時は「現代人」だったわけだから、あまりに歴史的習俗にこだわるより、「人物を描くこと」を重視したほうがいいのかもしれない。
 でも、今日のはちょっと酷かったな、あまりにも中途半端。
 これを10時間全部観た人なんて、いるんだろうか?

 まあ、そう簡単に役者に演じられるようなら、信長でも竜馬でもないわけだが、それにしても今日の市川染五郎は酷かった…

 さて、「新撰組」はどうなんだろう?
 三谷幸喜は、「竜馬におまかせ!」の失敗を生かせるだろうか。



 
 


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