マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

気持ちの「捨て場」としてのネット(注意!読むと暗い気分になります) - 2003年11月30日(日)

ジャパンカップは痛恨の外れだし、気分はやたらと落ち込んでいるしで(また、そういうときにしつこく電話とかかけてくる奴がいるのだ)、いかんともしがたい状況が続いている。さりとて、「どうしてザッツザプレンティが2着に来るんだ!」なんて話をリアル知り合いに延々とグチグチ言い続けるわけにもいかず、家で不貞寝でもするしかない。しかし、こういうときにインターネットというのはものすごく便利なのだ。某巨大掲示板の競馬板に行けば、僕と同じ境遇の人が延々といまさら結果が変わりようもないレースについて語り合っている。そして、一緒になってブチブチ書き込んでいると、なんとなく気持ちがスッキリしてくるのだ。というわけで、最近競馬に負けたときは、そういうふうにしていることが多い。しかし、サイトなんてのをやっていると、あんまり暗い話やグチが喜ばれないということは重々理解しているし、それなりの数の人が見ていると思うとこういう話を書くのには引け目を感じたりもするのだ。こうしているとネットというのは僕にとってポジティブな要素はあまりなくて、ネガティブな思考を捨てているだけの場所のような気がしてならない。そんなのってどうかな、とは思うのだけど、きっと、そういうものなのだろう。演じるのがイヤでこうして書き始めたはずなのに、誰かに読んでもらいたいという気持ちが捨てきれず、そしてまたここでも演じ続けているのだ。一介の「名無しさん」になって言いたいことを言ってみるのは、すごくストレス解消になることだなあ、と思う。こういうネガティブなネットの使用法というのはとてもとてもネットに申し訳ないのだが、それはそれでいいのではないかと思うと同時に、そうやってネガティブ思考をネット上に捨ててしまうことによって、現実世界とどんどん乖離していってしまうのではないかという危惧も禁じえない。だって、ネット上にはたいがいのマニアックな話を聞いてくれる人がいるし、同情してくれたり、構ってくれる人がいるわけだから。でも、そうやってネット上にいろんなものを投げ込んでいっても、現実世界ではなんの解決にもならないし、時間が失われていくだけなのだ。それでも、こういうネガティブ・ループから抜けられないのが、ひどく情けなくて悲しい。人生がだんだんオンラインゲームになってしまっているような気分だ。現実と闘おうにも闘うべき現実すらない、というのは、ほんとうに虚しい。「逃げ場」があることが幸福なのか不幸なのかと考えると、僕はまたひどく落ち込んでしまう。どんなに逃げ回っても「死」からは逃げられないしな。こういうときは寝てしまうのがいちばんだ。だいたいの悩み事は、時間さえ経てば解決はしないがどうでも良くなってしまうものだから。こんなの書いて公開するのもどうかと思うのだが、別に自殺したりしないので御心配なく。ちょっと疲れているだけです。暗い気持ちにさせてごめんなさい。


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毎日が「フォーン・ブース」! - 2003年11月28日(金)

最近、「フォーン・ブース」という映画のCMをよく観る。
率直に言って、「わざわざ映画館に足を運ぶほどの映画じゃなさそうだな」
という印象なのだが、でも、なんとなく気になるんだよなあ。

僕のような電話嫌いが、ああいうシチュエーションに陥ったら大変だろうなあ、なんて。

『われ思ふ ゆえに…』11月10日「鈍い男」を読んで思ったのだが、僕が電話を嫌う理由のひとつに、「電話を切るタイミングがわからない」というのがある。
 もっとつきつめて言えば、「自分から電話を切るのは相手を拒絶しているみたいでイヤだが、さりとて、相手からいきなり切られるとそれはそれで『自分は何か失礼なことでも言っただろうか?』と心配になる」ということなのだ。
 そして、相手の不毛な長電話に、「うんうん」と頷きながら、片手で「ダービースタリオン」をやっていたりしたものだ。それでも、なかなか切れないんだよ、電話って。

 あるとき、同じように「電話が苦手」だという友人の女性と電話する機会があったのだが、彼女はなかなか電話を切ってくれない。「じゃあ、そろそろ…」とお互いに言いつつも、最後の「切」のボタンが押せないのだ。
 そして、いつも「それじゃ、1、2、3、でお互いに切ろう!」とかいうことにして、それでも一度目はお互いに電話を切れなかったりするのだ。
 彼女に言わせると、「受話器を切る音が、ギャチャーンと強い調子だったりすると、それだけで考え込んでしまう」らしい。

 僕は自分で話すより、他人が話しているのを聞くほうが好きなのだが(というより、自分のことを話すのが苦手なんですよ、ほんとうは)、長電話というのは本当に苦手だ。
 しかも、長電話好きな人の話は、「自分の話」がやたら多い。
 さらに、電話を切れなくて長電話になってしまったりすると、そんな「愛想のいい自分」に余計に落ちこんだりする。

 しかし、こうして考えてみると、お互いになかなか電話を切れずに長電話になってしまった人とはうまくいかず、今みたいに「じゃあ切るね」と言ってアッサリ「切」のボタンを押せてしまうような関係のほうが長続きしているのは、象徴的な気もする。
 やっぱり、「自分を出せない関係」というのは、長続きしないものではあるんだろう。

 でも、僕はちょっとだけ小町さんとの電話を切れなかった男の子(だと思う)にちょっと同情する。
 だって、20歳くらいの男って、そんなに親しくないけど好感を持っている女の子と電話で話す機会があったら(だいたい、電話をかけるということ自体が一大イベントだし、今みたいに、携帯でメモリーから一発、ってわかにはいかないのですし)、今度はいつ話せるかわからないから、切りたくない!って思うのも自然なことかな、なんて。

 そういう意味でも、「妻帯者がモテる」というのは、わかる気がする。
 だって、気配りっていうのは、余裕がないとなかなかできないからさ。
 



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「自殺する権利」についての考察 - 2003年11月27日(木)

『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記』〜「自殺する権利は認められないのか」を読んで。

 最初に断っておきますが、Yasさんは、僕も「病に苦しむ高齢者の自殺」について書かれています。そして、僕がこれから書こうというのは、必ずしも「病に苦しむ高齢者」に限定しません。
 もっとも、そうすると話はどんどん抽象的で、ややこしくなってしまうのですが。

 最初に結論を書いてしまうと、「自殺する権利はある」と僕は考えています。
 というより、「本当に死にたいという意志があって、自分でその能力がある(例えばロープを結べるとか、手首を動脈まで切れるとか)という人は、権利があろうがなかろうが自殺してしまう」というのが現実でしょう。

 多くの場合、自殺しようという精神状態そのものがすでに常軌を逸しているものですから、一部の宗教的な観念に強く束縛されている人々を除けば、「権利の有無なんて、関係ない」はずです。
 仮に「権利がない」ということに対して罪に問われたとしても、当人にとっては「死んでしまえばどうしようもない」でしょうから。

 しかし「自殺する権利」がある一方で、「自殺をさせない権利」というのもあるのではないかなあ、と僕は思っています。
 「自殺」というのは、本人だけの問題ではないのだから。
 例えば、「自殺するためにビルから飛び降りて、関係ない通行人を巻き添えにする」というような死に方でも、「自殺する権利があるんだから、いいじゃないか!」と主張できるでしょうか?
 大部分の人は、「そんな迷惑なことするな!」と思いますよね、きっと。

 上に挙げたのは極端な例かもしれませんが「誰かが自殺する」というのは、単に、「ひとりの人間がいなくなる」ということではないのです。
 その「自殺した人間」は死んでしまってスッキリするのかもしれませんが、周りの人間はそうはいきません。
 みんながみんな「アイツは弱いから自殺した」なんて割り切れる人間ならいいのかもしれませんが、多くの関係者は「どうして自殺してしまったのだろう?」「自分にできることは、何かなかったのだろうか?」「あのとき、ああしていれば…」と悩むことになるでしょう。
 そして、その問いには答えがないのです。
 答えを出してくれるはずの人は、もうこの世にいないわけですから。

 「身内や知り合いに自殺されてしまう」というのは、かなり大きな心の傷になるものです。
 そしてそれは、「その人が自殺した理由」というのが理解困難であるほど、大きくなっていきます。
 「末期癌に対する安楽死」などというのは、客観的にみると「死ぬ理由」というのが比較的クリアカットなはずなのに、まだ人類としては、「それが妥当な選択肢である」という結論には達していないのですから、若者の「悩みによる死」というのが、いかに周囲の人々の心の重石になるかというのは、想像に難くないと思うのです。
 生きている人は、これからも生きて、悩んでいかなければならないのですから。

 ということで、僕は「自殺する権利はある」とは思いますが、今のところは、「自殺を許さない権利」のほうが「自殺権」より優位であると考えています。
 実際、「安楽死」とか言うけど、それを仕事としてやらされるのは、医者だってみんなイヤに決まってますし、家族だってそのボタンを押したくはないはずです。
 将来的に、「それは罪ではない」という共通認識が確立されれば、たぶん、それはひとつの選択肢になりうるとは思うのですが。

 「後に残る者のために、キツイかもしれないけど生きてくれ」というのは、ある意味残酷なのかもしれません。
 でも、やっぱり自殺されるとイヤなんだよ…

 僕の先輩は、外来で診ていた患者さんが自殺してしまったときのことを「絶対に忘れられない」と言っていました。その先生の治療とその患者さんの自殺の理由には、何の因果関係もなかったのに、です。
 人間には、「自分を不幸にするもの」を拒絶する権利があるはず。

 実際は、大部分の人間は、「自殺する権利があろうがなかろうが、ギリギリまで生に執着する」ものですしね。


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「紅白歌合戦」の正しくない愉しみ方 - 2003年11月26日(水)

今日、年末恒例の「紅白歌合戦」の出場歌手が発表された。

参考リンク:「初出場は倉木麻衣さんら13組…紅白歌合戦(読売新聞)」

 まあ、いまさら紅白歌合戦の出場歌手にクレームをつける人はあんまりいないと思うのだが(もともと、選考基準が不明瞭なものだからさ)、現実問題として、「FNS歌謡祭のほうが『紅白』だよな」と思っている人はけっこう多いのではないかと思う。

 だって、FNSは、「ミスチル復活!」に「女子十二楽坊、初の歌番組登場!」だよ(紅白にも出るけど)。

 僕はここ数年はずっとひとり暮らしなので、毎年大晦日って、年賀状を書きながらテレビを観たりしていることが多い(とりあえず年賀状って、たとえ元日にでも受け取る前に投函してしまうと安心するのだ。今年はもうちょっと早く書こうと毎年思うのだが)ので、紅白なんてただ流れているだけのことが多い。去年は「猪木祭り」だったし。
 だいたい「紅白」って、なぜか1年でこのときしか見ない歌手が出ていたりするし、NHKへの貢献度とか言われても観てるほうにとっては「なぜこの人?」という感じがするし。
 それに、あのNHKのガタガタカメラワークは、観ていて疲れる。
 全然改善される気配もないし。

 しかし、あれだけ「歌」が流れる番組って、現在では他にはないのは事実だけど。

 それにしても、今年の「目玉」が、倉木麻衣と長渕剛とは…
 いや、百歩譲って倉木麻衣は許そう、でも長渕が目玉ですか?

 この人、前回出場のときは「ベルリンの壁」から生中継で15分にわたって熱唱し、大ベテラン五木ひろしに「僕なんか20年連続で出場しても5分も歌わせてもらえないのに、彼は凄いねえ〜」なんて、あからさまな厭味を言われたものだったのに。
 僕も観ていたのだが、あの時間帯は確かに大晦日の日本にとって、アナザー・ワールドだった。
 まあ、僕が個人的に長渕師を嫌い、ということもあるのですが。

 しかし、現実問題として、いま、「長渕剛が出るから紅白観よう」なんて人がそんなにたくさんいるとは思えない。大物だと思っているのは、一部のファンとNHKと本人だけじゃないかなあ…
 去年の中島みゆきにくらべたら、インパクト弱すぎ…

 でも、「紅白」の愉しみって、生中継で起こるアクシデントにあったりもするんですよね。加山雄三の「仮面、ライダー!」なんて、観ていて笑い死にしそうだったし、「ミソラ〜」のときも悶絶した。
 みんな「大舞台だ」と思っているからこそ、とんでもないことが起こるのだ。

 実は「目玉」って、毎年トラブルを起こしそうな人を選んでたりして…
 去年の中島みゆきさんは「伝説の歌詞忘れ」そして今年の長渕剛は…
 
 ひょっとして、暴れるんじゃないかなあ、なんて期待したりして。


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『ノルウェイの森』と僕の中の「村上春樹的なもの」 - 2003年11月23日(日)

 最近なぜか、村上春樹の『ノルウェイの森』のことをずっと考えている。
 何度か書いてきたのだが、僕が高校生のときに大ヒットしたこの小説をはじめて読んだとき、「女の子にモテる」ということ以外は、多分に僕的なものが含まれた小説だという印象があった。
 そこには、本当に「世界に適応できていない」人たちにとっては、「現実世界との繋がり」のようなものであり、「世界に適応できている」人たちにとっては、「ちょっと場にそぐわない存在」である僕が居た。
 もちろん、今から考えると、そんな「現実に適応できていないという自覚」ですらも、けっしてマイナーなキャラクターではなかったのだが。

 以前、『ノルウェイの森』の感想について、同級生の女の子(という年じゃないね、お互いに)と話したことがあったのだが、僕はこの作品に「喪失」を感じたと言い、彼女はこの作品に「再生」を感じたと言った。
 僕が村上春樹に「再生」を感じたのは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』からだったので、そういう意味では、僕の人生においては、「喪失」の割合のほうが高いのかもしれない。

 20代の前半『ノルウェイの森』は、僕にとってのひとつの「人生指南」だった。バカバカしい話だが、僕は何か行動を起こすときに自分で自分の行動を頭の中で描写し、気の利いたセリフまでつけてみせた。
 そして、実際には、その行動を起こさない理由ばかりが増え、何も変わらなかった。
 ただ、失うことが怖かったのかもしれないし、もっと正直に言えば、自分には「失ってしまうもの」すら無い、というのを実感するのが怖かった。
 そう、所詮そんなものだ。

 そんなことを考える一方、僕は、「忙しい」という理由のもとに昔からの友人と連絡をとらなくなったり、自分の仕事を中途半端にやってきたりした。
 自分だけが傷ついているわけじゃなくて、いろんなものを傷つけているのだ。
 それは、「お互い様」なのかもしれないけど。
 「人間なんて、そんなものさ」確かにその通りなのだけど、それを認めてしまうのは、すごく悲しい。
 それを悲しいと思ううちは、僕の人生はまだこれからなのかもしれないし、それを乗り越えなければ前に進めないのかもしれない。

 ある酒の席での話。
 「どうして、結婚しないんですか?」って。
 「うーん、うちの家は、あんまりうまくいってなかったから、それでかな…」と答えたら、相手はこんなことをさらりと僕に教えてくれた。
 「そうですか…でも、うちは、親が違う5人兄弟ですよ。」
 返す言葉がなかった。
 それを「5人くらい…」と笑い飛ばせるような人間であればいいのか、それとも、「それは大変だね」と真摯に同情できるような人間になれればいいのか。

 どちらでもない、と思いつつ、結局何も言えなくなってしまうのだ。

 世間には「村上春樹的なもの」と「村上春樹的なものと対立するもの」とが存在すると、昔は思ってた。
 でも、実は世界を満たしているのは、「村上春樹的なものとは、無関係なもの」なのだ。

 画面の向こうで汗をしたたらせるバレーボールの選手たちを横目で観ながら、僕は、自分の居場所をずっと考えている。
 


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どうしてそんなに、他人のことが気になるんだろう? - 2003年11月20日(木)

 どうしてそんなに、他人のことが気になるんだろう?
 そういうふうに思うことってありませんか?

 例えば、昼休みに弁当を食べながら雑談をしていると「えっ、それ誰の話?」って、必ず聞いてくる人。
 例えば、パチンコ屋でボーっとしながら玉を弾いていると、「それ当たるよ」とか「残念だったね〜」とか話しかけてくる人(こういう人は、本当にこちらが当たりまくると、黙り込んでしまうことが多い)。

 サイトなんてものをやっていると、いろんなリアクションをいただくことがある。
 嬉しいものもあれば、意味不明なものもある。
 「あなたは間違っている!」と言ってくる人もいる。
 どこが間違っているか具体的に書いておいてくれれば修正しようもあるのだが、ただ「間違っている」だけじゃ、対処しようもない。

 僕だって、他人の書いたものに憤りを感じることはあるが、だからといってわざわざ批判メールを送ったり、掲示板に非難の書き込みをすることはない(ごめん、正確には「無くなった」です。以前は「そういう考え方はどうでしょうか?」みたいなメールを送ったこともあります)。
 なぜかというと、この広い世界で、自分の観点からみて「間違った考えを持っている人」に対して直接攻撃を仕掛けることには、センティネルの大群に水鉄砲で向かっていくくらいの効果しかないからだ。
 人間をひとり説得して、考え方を変えてもらうためには、どのくらいの時間が必要だろうか?
 他人の考え方を変えさせることができるかどうか?ということそのものが問題なわけだけれど。
 少なくとも僕は、誰かがネットのどこかの個人サイトでひどいことを書いていても、それをいちいち訂正してまわるような気力はなくなった。
 そんなに苦労をして、誰かひとりの考えを変えても、コストに比べてメリットが少なすぎる。そこまでして自分の正しさを証明したいのなら、もっと広い世界に対して発信すればいいのに。
 僕は宣教師じゃないし、そんなどうでもいい人の考えを変えるのに使う時間があれば、新しい何かを書いたほうがマシだ。
 ただし、自分のサイトは別だ。僕の家を荒らされては困るので守る。
 
 それにしても、「他人のことが気になる人」が、世間にはどうしてこんなに多いのだろうか?
 いや、気になるくらいならいいのですが、矯正しようというのは、思い上がりであり、よけいなお世話です。

 要するに、「文句を言いたくなるようなサイトは、いちいち相手にせずに、スルーしたほうがいいですよ」ということだ。
 たぶん、そんな時間があったら、他にコミュニケーションをとっておくべき相手がいるはずだからさ。

 …とか書いたら、「私のことですか?」とか思う人が出てきて困ったりするわけなのですが。
 僕のような小心者は、「悪口言ってもいいから、聴こえないように言って」と願うばかりです。


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男と女のドラフト会議 - 2003年11月19日(水)

 今日はプロ野球のドラフト会議だったのだが、野球の話はもういい。
というか、僕のカープは「ドラフト負け組」以前に「ドラフト逃げ組」だったので、思い出したくもないのです。

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 僕は、ときどきこんな妄想に浸ってみたりする。
 ドラフト会議というものを「決められた基準内で、人間を取り合う」を考えた場合、「男と女のドラフト会議」というのがあったら、どうなるだろう?なんて。
 僕は男なのですが、自分が女性に指名される側だとしたら、いろいろ考えると思うんですよね。
 (もちろんこれは、「完全ウェーバー」であるわけがないのです)
 例えば、僕がモテ男で、希望女子が僕のことを「自由枠指名(この場合は基本的に1枠のみ)してくれれば、それはそれで問題ないわけです。
 ああ、いいドラフトだったなあ、と。
 しかし、そんなに甘いものではなく、現実のドラフトと同じように、自分で一番の希望女子を選べる男はそんなに多くはないはず。
 野球でいえば、「巨人にしか行かない」っていう高校生みたいなものですね。
 多くの男は、「希望女子に選んでもらえればいいけど、相手がいるだけでも…」というような、極めて現実的な判断をするわけです。
 異性というのは、相手を選ばなければプロ野球の選手枠ほど狭き門ではないにしろ、本当に「理想の相手」に指名してもらうのは難しい。
 
 また、人気女子を「どうしても」と希望した場合は、「指名してもいいけど、5巡目くらいね」という扱いを受ける場合もあるわけだ。
 「たまに付き合ってあげるから、他の女のところに行かないでね」なんて、囲い込まれることもあるかもしれない。
 自分がいつか「一番」になれるかどうかわからないし(この場合、上位の男は強力であることが予想される)、他女子から横槍が入るかもしれない。 そういう場合に「飼い殺しにされても希望女子にこだわるか、自分の手が届く(1位で指名してくれる)相手で妥協するか?」ということになる。
 こういう判断というのは、非常に難しいものだと思われる。

 さらに現実には「自分には勿体無いほど良い相手なんだけど、偶然のタイミングで枠が開いていた(補強ポイント(「優しい」とか「金」とか)に合致していた)」とか、「希望相手で、相思相愛なんだけど、既に他の男の自由枠指名が確定」なんて場合も数多くあるわけで、結局、悩みは尽きないのだ。
 何年かしたらFA権獲得、ってわけにもいかないしねえ。
 まあ、プロ野球のチームでもそうなんだろうけど、たぶん「意中の相手とはちょっと違うかな」と思ってもどんどん愛着が湧いてきたり、逆に意中の相手であってもメジャーに挑戦したくなったりするものなんだろうなあ…

 でも、一度は鳥谷選手になってみたいよね。
  


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いま、このひとに謝りたい! - 2003年11月14日(金)

(1)バレーボール日本代表の皆様へ

今日のバレーボールの結果を伝える日刊スポーツの記事

【日本はキューバに3−2で逆転勝利を挙げた。7勝3敗で、15日に日本が中国に勝ち、イタリア、米国がともに敗れた場合、日本のアテネ五輪出場が決まる。】

を読んで、
1)日本が首位の中国に負ける、
2)イタリアが勝つ
3)アメリカが勝つ
以上の1)〜3)のいずれかが成立すれば、日本女子は今大会でオリンピック出場権を得られないわけだな、それはムリだ…
と思ってしまいました。

 ごめんなさい。


(2)森繁久弥さま

 今夜筑紫哲也さんと対談だったんですね。
 「NEWS23」で、あなたのお名前が耳に入ってきたとき、つい、「Xデーが来たか…」とパソコンからテレビに視線を移してしまいました。

 ごめんなさい。


(3)宮里藍さま

 すみません、実力は凄いと思うのですが、あなたがどうしてあんなに人気があるのか、僕には理解不能です。

 ごめんなさい。


(4)広島カープのキャンプ地で自殺した人へ

 いろいろ大変だったのでしょうが、よりによってカープのキャンプ地でというのはあんまりです。つい「これが最近の広島絡みでは最大の話題か…」とか思ってしまいました。

 ごめんなさい。


(5)木村佳乃さま

 どうして最近そんなにたくさんテレビに出ておられるのでしょうか?と最近よく思います。

 ごめんなさい。


(6)福島瑞穂さま

 あなたが社民党の次期委員長と聞いて、「結局同じキャラで、しかもスケールダウンじゃん」とか思ってしまいました。
 ジュディマリがヒスブルになったような感じです。

 ごめんなさい。


(7)「パーフェクト・ストーム」さま

 なるほど、DVDが最初から安かったわけだ、と納得してしまいました。

 ごめんなさい。


(8)松浦亜弥さま

 ちょっと飽きてきました。

 ごめんなさい。







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面倒な社員旅行に行かなくて済む方法。 - 2003年11月13日(木)

毎日新聞の記事より。

【プロ野球・ダイエーの松中選手会長が12日、リハビリを兼ねて訪れていたグアムから帰国。選手会としてボイコットを打ち出している優勝旅行について、台湾遠征中に選手として話し合って結論を出す考えを示した。松中は「楽しみにしている裏方さんもいる。13日に話し合って決めたい」と、参加も有り得ることを示唆した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「ダイエー選手会、小久保無償放出に怒りのV旅行ボイコット!」
 この記事を読んで、僕は最初は「せっかくの優勝旅行をボイコットするなんて、選手たちの怒りは激しいんだなあ…」と思ったのですが。
 しかし、考えてみると「球団不信」=「V旅行ボイコット」という因果関係は、ちょっとおかしいような気もするんですよね。

 「優勝旅行」=「優勝のごほうび」と言えば聞こえはいいですが、これは、ある意味「ダイエーホークス」という企業の社員旅行みたいなもの。
 もしあなたが「会社の行事だから」ということで、せっかくの休みを潰されて、社員旅行に一緒に行くことを強要されたら、どうですか?
 もちろん、団体行動大好きの人や、せっかくタダで海外旅行に行けるのに…と思う人も多いでしょう。
 でも、「せっかくの休みくらい、会社の行事から解放してもらいたい」と思う人もけっこう多いのではないでしょうか?少なくとも僕はそうです。

 社員旅行なんてのは、行ったら行ったで温泉にでも浸かって、「のんびりできるねえ」なんてくつろいでみたりするものですが、少なくとも予定の段階では「面倒くさいなあ」という気持ちになる人もいますよね、きっと。
 下っ端は、けっこう気も遣うし。
 楽しみにしているのは、偉い人ばかり、なんてことも。

 しかも、「せっかくの海外」とは言うけれど、ダイエーの主力選手の多くは、「海外旅行に自分で行けるくらいのお金」はもらっている人がほとんどですから、なおさら「みんなと優勝旅行なんて、かったるいなあ…」と思っているのではないでしょうか?「休みをくれたら、自分で行くよ」という感じなのでは。
 それに、こういう優勝旅行なんてのは、TV局がついてきたりして、あんまり、のんびりできそうにないし。

 というわけで、「優勝旅行ボイコット」は、むしろ、騒動に乗じて面倒なイベントを止めよう、という「便乗ボイコット」のような気がします。
 「旅行を楽しめない」んじゃなくて、「もともと楽しくない」のではないかなあ、って。
 まあ、主力選手たちとほぼ同世代の僕としては、そういう気持ちはよくわかるんですけどね。

 でも、もし選手たちがボイコットしても、シーズン中に頑張った裏方さんたちの希望者は、ぜひハワイに連れて行ってあげてもらいたいと思います。
 彼らは選手に比べて収入も少ないし、日頃叩かれないかわりに、報われることだって少ないはずですから。


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20歳からの10年間で変わったこと<行動・思考編> - 2003年11月12日(水)

今日床屋に行った帰りに、ふと思った。
僕は、散髪とかするのが(いま、「三発」とか変換された。「シティーハンター」×3)、昔からものすごくめんどくさくて嫌だったのだが、最近は割合と早目に髪を切るようになった。
しかも、あまり「今日は髪を切るぞ!」とか気合を入れることなしに、スッと床屋に入って「適当に」とか言えるようになったのだ。
自分では20歳のころとあまり気持ちの上では変わっていないつもりなのだが、10年も経てば、人間というのは、知らず知らずのうちに変化する生き物なのだろう。
少なくとも10歳→20歳のような肉体的な変化はないとしても。

具体的に、この10年で変わったと思うこと(行動・思考編)

(1)風呂に毎日キチンと入り、髪を洗って身体を洗うようになった。

 学生の頃のほうが、はるかに新陳代謝も激しかっただろうに、むしろ5年前くらいから、風呂に入らないとなんとなく落ち着かなくて寝つきが悪くなってしまった。もっとも、研修医時代は、肉体的にキツくて「風呂より寝る!」という優先順位だったからかもしれない。
 しかし、子供の頃は、ただひたすら「風呂なんてめんどくさい」と思っていたものだったが。


(2)部屋を真っ暗にして眠るようになった。

 前は、真っ暗だと落ち着かなかったのだが。


(3)野菜を食べたい、と思うときが増えた。

 葉っぱを食べるなんて、青虫じゃあるまいし!とか言ってたのに。


(4)ひとりで外食できるようになった。

 前は、部活の仲間と外食か、弁当を買いに行っていたのに。
 でも、相変わらずファミレスにはなんとなく入り辛い。


(5)子供を見て、「かわいい」と思うようになった。

 実に不思議だ。前は子供苦手だったのに。


(6)本は、小説より雑学・エッセイなどを好むようになった。

 それを自覚しているので、村上春樹訳の「ライ麦畑…」を買ったのですが、まだ全然読んでません。


(7)ゲームセンターに入りづらくなった。

 その代わり、パチンコ屋には入りやすくなりましたけど。


(8)晩酌をたまにするようになった。

 もともと酒好きの素質はあると思っていたので、家では飲まないようにしてたのに。


(9)自分のことが、昔ほどキライじゃなくなった。

 というよりは、自分のことなんか、どうでもよくなったのかもしれない。


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完全ネタバレ!「マトリックス・レボリューションズ」感想SP(本当に激しくネタバレです、要注意!) - 2003年11月11日(火)

『Pinnie−the−Wooh』からお越しの方は、こちらへどうぞ。

以下は、11月5日より公開中の「マトリックス・レボリューションズ」の感想です。激しくネタバレしていますので、また未見の方で、これから観ようと考えられている方は、読まないでください。お願いします。


本当にネタバレですよ。


先日の日曜日にこの映画を観に行ったのですが、感想としては、良くも悪くも「これで終わりか…」という感じでした。他の観客も、みな一様に「うーん」という顔をして出てきたのが象徴的。

 いきなりオチの話になってしまって何なのですが、要するに「機械」(=アーキテクト)という圧倒的な神に対して、救世主ネオが慈悲を求めに行って(作品中では「取引」と言っていますが、僕の印象では、公平な取引というよりは、「闘ってみせるから、自由にしてくれ!」というような闘技場の剣闘士みたいに見えました)、エージェント・スミスと戦い、スミスを倒して(ネオがスミスを「倒した」のかどうかは微妙な気もしますが)、その「献身を認めた」機械サマが、「じゃ、今回は人間たちを勘弁してやるか」ということで手を引いてくださった、という感じにしか思えなかったのです。
 僕はこれでも人間ですから、やっぱりそういうオチだとムカつくんですよね。最後に予定調和的に出てくる、アーキテクトがオラクルに「危険な賭けをしたな」なんていうシーンでは、「ネオやトリニティは、所詮『駒』だったのかよ!」と脱力してしまいました。
 セラフが生き残っていたのが嬉しくて、内心「嘉門さん、お帰りなさい」とか思っていましたけど。

 結局、「マトリックス」って、人間を「駒」にしたゲームを見せられていたようなものかよ!って。

 とりあえず、「レボリューションズ」への不満を並べてみましょう。

(1)主役はミフネ?

 ネオはなんだか迷ってばかりで、なぜか最後にマシンシティに突撃します。昔観た、「さよなら宇宙戦鑑ヤマト」を思い出しましたよまったく。
 ボロボロになったヤマトが、白色彗星に突入していくシーン。
 で、やることが機械神さまに慈悲を求めに行くことだっていうんだから…
 今作でいちばんキャラが立っていたのは、なんと言ってもミフネでしょう。圧倒的な物量の敵を前に仁王立ち、カッコいい!とにかくあのセンティネルの数は、観ている僕のほうも絶望しました。こりゃムリだろ…って。
 でも、センティネルは意外と優しいというか、その気になればすぐ壊滅できそうなAPU(ミフネたちが搭乗していた戦闘用ロボット)をほとんど無視していた。まあ、雑魚はいちいち相手にするな、というプログラムだったのかもしれないが。

(2)ノーガードなAPU

 それにしても、あのAPUというのは、どう考えても前面の装甲が弱すぎる(というか、ほぼ裸同然)と思う。パイロットのことももうちょっと考えてやれよ。
 それでも、ミフネ船長はカッコよかったんだけど、どう考えても「マトリックス」に必要なエピソードとは思えない。ああいうのがやりたかったら、別のSF映画を1本撮ればいいのに。しかもそのシーンが激烈に長いし。前作のザイオンでの踊りのシーンといい、クドイ演出が好きな監督なのかもしれないし、それが記憶に残るのも確かなんだけど。
 いかにも「衝突寸前でドアが開きます」という展開で、ベタにそれをやってみられると、ちょっと拍子抜け。激突⇒即死、っていうわけにはいかないんだろうけどねえ。

(3)「ネオ!助けてくれるんだったら、早くしてくれ!」

 あと、ネオがマシンシティに行くときに、トリニティが死んでしまうシーンでも、僕は今ひとつ感情移入できなかった。トリニティの死に悲しむネオを観ながら、「トリニティはもう死んでるんだから、早くザイオンの人たちをなんとかしてやるために行動しろよ!」とか思ってしまったし。
 ああやって悲しんでいる間に、たぶん何百人かはよけいに、ザイオンの一般市民は死んでたんじゃないだろうか。
 同じ理由で、「もっとシャキシャキ歩けよ」とも。
 映画の中で「ネオ、助けるんならなるべく早くしてくれ!」というセリフには、思わず苦笑。確かにその通り。あの状況であれば、ネオはもっと焦って然るべき。

(4)中途半端なキャラクターたち

 最初の駅のシーンは、「要らん!」という意見も多いみたいだけど、僕はけっこう好きだ。ああいうわけのわからない「哲学」みたいなのが「マトリックス・ワールド」なんだと思う。むしろ観終わった後、「あのへんがレボリューションズの中ではいちばん『マトリックス』らしかったな」と思えてきただけなのですが。でも、考えてみたら中途半端にメロビンジアンとかパーセフォニーとかを出して、「マトリックス的な格闘」をやってみせるためだけのシーンなのかもしれない。
 モーフィアス出番ほとんどなし、トリニティ殉職刑事役。スミスに乗り移られた人は、限りなくターミネーター。
 そしてネオは、限りなく弱体化。
 キャラが沢山出てきて、それぞれ見せ場をつくろうとしているために、かえってそれぞれが目立たなくなってしまっているのだ。
 なんか、最後に唐突にネオが出てきてスミスと勝負。いつのまにそんなに偉くなったんだスミス。そして、神への忠誠の証として、スミスとの御前勝負を行うネオ。
 いやもう、いっそのこと、放っておけばザイオンも滅亡するけどマシンもやられるんじゃないかとか、スミスと共闘できないものか、とか思ってしまった。
 もっとも、スミスというのは「ネオが天敵」というプログラム(ウイルス?)みたいだから、そううまくはいかないのかもしれないけどさ。
 スミスがやられるシーンも納得できない(スミス=ウイルス、ネオ=アンチウイルウスソフト説やスミスはネオを倒すのが「目的」だから、倒してしまって「目的」を失ったプログラムであるスミスは存在意義を失ってしまった説、など諸説あり)。
 それに、あれだけたくさんスミスがいるのに、みんな背景かよ!とも。
 
(5)根本的には

 思想は「マトリックス」だけど、映画的には普通のSFじゃないか!ということです。とくにザイオン絡みのシーン。

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 しかしながら、けなすばっかりじゃあんまりなので、以下擁護してみたり。

<1>結末について

 では、もし「レボリューションズ」の最後が、「救世主ネオが、機械をうちやぶって、人間の自由を回復した!」とかいうオチだったら、それこそ「マトリックスらしくない」と思われること必定。まあ、もうちょっとフラストレーションを減少させるようなまとめ方もあったような気はするけれど。

<2>ザイオン

 すくなくとも映像表現上は、あのセンティネルの大群が観客に与える絶望感は凄い。
 ちなみに僕は、編隊を組んでやってくるセンティネルをみて「ギャラガみたい」とか思ってました。

<3>ネオ

 は結局、「機械と人間との共存」への端緒をつけるための犠牲になったと考えればいいのかもしれない。少なくとも機械は人間を「見直した」のだし「機械は人間と違って嘘をつかない」らしいしね。「望む人間には自由を与える」ということは、エージェントによる自由人狩りなんかもなくなるわけだ。まあ、単にエージェントに懲りただけなのかもしれないし、どっちにしても人間側の野心で、この束の間の平和は破られそうな気もするが。

<4>世界観

 「愛なんて、プログラムされた『目的』にすぎない」と、この世界的に大ヒットが見込める映画で言うのは、なかなか勇気がいると思う。そのあとで、ネオとトリニティの愛のシーンが流れるのは、ひょっとしてものすごい皮肉なのではないだろうか?
 僕たちが、感情だと思っているものは、プログラムされた必然にすぎない、つまり、人間も機械なんだ、ということ。それは、ある意味真実だと思う。今のところ、「人間」というプログラムは、人間自身の手に余っているだけで。

<5>でも、楽しかったよ。

 なんのかんの言って、これほど続編を楽しみにできた映画はなかなかなかったし、その「待つ楽しみ」を与えてもらっただけでも感謝すべきなのかもしれない。
 続編のオープニングでこんなにワクワクしたのは久しぶりだもんな。あとはスターウォーズくらい。
 今でも、こうやって謎解きの楽しみを与えてくれるわけだし。
 だいたいのSF映画なんて、ここまでツッコミを入れてみようなんて気にもならないし、議論になることも無いだろうと思う。「レボリューションズ」そのものについては不満はたくさんあるけど、「レボリューションズ」が存在してくれるということには、楽しみがあったわけで。
 少なくても、僕にとっては2003年の映画の中でいちばん「公開を楽しみにできた作品」(面白かったとは別だが)なので、「マトリックス」の無い時代よりは、ある時代に生きられて良かったと思うのです。
 まあ、言い換えてみれば「3連敗でもワールドカップに出られただけよかった」とか、そういう心境なのかなあ。

 


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日記書きには、公共心に富んだ人が多いのだなあ… - 2003年11月10日(月)

 自分でさんざん選挙ネタを書いておいてどうかと思うのだけど。

 こうやってWEB日記巡りをしていると、日々テキストを書いているような人たちは、「民度」というか、本当に社会情勢に対する意識が高いのだなあ、と感心してしまいます。

 もっと正直なところを述べてしまうと「選挙は国民の義務だ」なんて声高に言われると、「ああ、やる気のない国民でごめんなさい」とかComplexが刺激されまくってしまうわけですね。
 ああ、Be my baby !

 僕は政治とか選挙とかいうのが基本的に大嫌いなのです。選挙運動は煩いだけだし、マニフェストなんて、どうせ守るわけないと思っています。
 本当に政治をやる気があるのなら、当選した時点じゃなくて、任期が終わってから万歳しろよ。
 「選挙に立候補するような人」とか「候補者を一生懸命応援するような人」というのは、僕がもっとも苦手とするタイプの人間がほとんどです。
 「少しでも自分の意志を示せ」とか「投票してから文句を言え」とか言われても、「投票する」というのはポジティブな意思表示だと思うので、「巨人と阪神、どっちが好きか投票しろ」なんて言われても困るのです。だって、どっちも大嫌いなんだもの。
 甘いものキライって言ってるのに、「ケーキか饅頭か、絶対にどっちか食え!」って言われたらイヤじゃない?
 マシな方を選んでしまったがために、万が一当選してしまって後ろめたい思いをしたくはないんです。

 僕にとっては、投票日だからって近所の人たちに見張られに行くよりは、家で本読んでいるほうが楽しいし、論文でも読んでいたほうが有益です。

 すみません、本当は「マトリックス・レボリューションズ」観に行ってました。けっこう空いてましたよ、たぶん選挙のせいだけではないと思うのですが。

 というわけで、いろんなサイトを読みにいって、ひそかに自分の「民度」の低さに悲しくなってしまいました。
 でも、よっぽど気が向かないと、今後も投票所に足を運ぶことは無いと思います。
 もし、自分の選挙区に田中真紀子さんとか菅源太郎さんみたいなメガトン級のトンデモ候補がいたら、彼らを「当選させないために」投票所に行くことはあるかもしれませんが。

 大声で言うのはかなり気が引けるので、ここで小声で。
 昨日の選挙は、「棄権」させていただきました。

 「普通選挙」が実施されるまでの先人の労苦を思うと、申し訳ないんですけどね、いやまったく。


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11.9衆院選の夜の憂鬱 - 2003年11月09日(日)

(1)誰に入れても後悔しそうな選挙だ。

(2)なんとなく「民主党を勝たせよう」というより、「自民党を勝たせすぎてはいけない」という意識が感じられる。

(3)テレビ東京の選挙速報を観てる人っているんだろうか?

(4)社民党はもうダメだね。土井さんを見ると「北朝鮮の手先」って、どうしても思えてしまう。

(5)毎回不思議で仕方ないんだけど、「後援会」の人って、どうしてあんなに一生懸命になれるんだろう?

(6)踊らされてます、衆議院選挙。フジテレビは遊んでるなあ。

(7)正直、「地元テレビ局からの選挙区の開票速報」ほどつまらないものはない。

(8)「全て私の責任です」と言う共産党の候補をみたことがない。それ以前にインタビューが出ることすらないのか。

(9)田中真紀子当選に悶絶。なぜあの人に入れるのか理解不能。

(10)結局、選挙って「プチ戦争」なんだよな。「敗戦」とか言ってるし。

(11)本当は、選挙速報より「PRIDE」を中継してほしかったなあ…まさかミルコがねえ…


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「自分のための人生」って何だろう? - 2003年11月08日(土)

 こうやって、毎日お年寄りの血圧を測ったり、繰り返される思い出話を聞かされたり、研究室で顕微鏡を覗いたりしていると、ときどき、無性にやるせなくなるのです。
 ああ、僕の人生って、いったい何なのだろうな…って。
 こういうことを繰り返しているうちに、あっという間に40歳になり、50歳になり、60歳になり、まだ命があれば、今度は介護される立場になって死んでいく…
 そういう予想をなんとなくしてみると、人生なんて虚しいばかり。
 「誰かのためじゃなくて、自分のために生きてみたい!」なんて青臭いことを考えてみたりもするわけです。
 でも、「自分のために生きる」っていうのが、具体的にどういうものなのか、僕には思いつかないのです。
 「自分らしく生きる」とか言って、海外を放浪したり、定職につかずにフリーターをやってることが「自分のために生きている」ということかと問われたら、僕にとってはそうではないと思う。

 どうすれば自分のための人生を送ることができるのか思いつかないまま、毎日は続いていくのです。
 「好きなことをやる人生」=「自分のための人生」と思い込めたらいいのになあ、とか思うことはあるんですけどね。
 たぶん、毎日ゲームしたり、ネットばっかりやってても「自分のための人生」なんて感じられないだろうし。
 逆に、マザー・テレサみたいに、「誰かのための人生」=「自分のための人生」と考えられるような人間でもないしなあ。

 結局、そういう曖昧なところで、生き続けるしかないのかもしれないけれど。




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ダイエーホークスと移り気な人々。 - 2003年11月07日(金)

人間ってのは、現金なものだ。

福岡ダイエーホークスの中内オーナーが、選手たちに無視されたという話を読んだ。
「僕たちのリーダーだった小久保さん」を放出したから、だそうだ。
さらに、球団事務所には、1000件を超える抗議電話が。

 僕も、小久保を(しかも巨人に!)無償で放出するなんてヒドイ話だと思っていたのだけれど、考えてみれば、ダイエーは福岡の人にとっては恩人なのではないだろうか?
 ダイエーという企業が、大阪が本拠地だった南海ホークスを買収して、福岡に本拠地を移転した。そして、それまで使われていた平和台球場の替わりに、新しい本拠地として福岡ドームを建設した。
 そして、金と人脈を駆使してドラフトとFAで有力選手を集め、ついに日本有数の人気&実力球団となったのだ。

 「ダイエーホークス」が福岡に根付いたのは少なくとも福岡ドームが完成してしばらく後のこと。最初は、西武ファンのほうが多かった土地柄なのだ。
 1999年の優勝以来、福岡にはダイエーファンが激増し、今では「福岡県民」=「ダイエーファン」に近い状況になった。
 それも、ダイエーが福岡に移転して以来、湯水のように投資をしてきたダイエーの力なしではありえなかっただろう。
 実際、ダイエーの球団経営は、単年度では黒字でも、莫大な有利子負債を抱えているのだから、ここまで畑を耕してきたという事実には驚嘆すべきだろう。

 今回の「無償トレード」で、ダイエーホークスがここまで幻滅されている、という事実について、僕は人間の心の身勝手さを思わずにはいられない。
 俺たちのチームが優勝するために、お前たちはどんどん金を遣え!というのはファンからしたら正論でも、経営陣としてはたまったものではないだろう。
 「もっとお金のある企業に」とか言っても、弱い時代から「ダイエー」というチームにとって不毛の地であった福岡を開拓してきたダイエーを、用済みになったら不買運動では、あまりにも移り気ってものじゃないだろうか?
 それに、「ちょっと弱くなったり、ちょっと問題が起こったら不買運動」なんてチーム、怖くて買えないよ。

 巨人がどうして球団経営に金をかけられるかというと、あの企業は、球団運営自体が、「広告」の範囲を超えた、企業活動の一部なのだ。
 「あくまでも広告」ということなら、広告費の範疇を超えた投資なんてできなくて当たり前だと思う。この競争は、最初から不公平なのだ。

 なんのかんの言っても、また来シーズンになれば、みんなダイエーホークス(いつまで「ダイエー」なのかはわからないが)の応援をするんだろうけどさ。

 本当に、人間ってやつは、10年の恩も3日で忘れてしまう生き物だね。



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「恋愛モノ」って、苦手なんだよなあ… - 2003年11月06日(木)

「世界の中心で、愛をさけぶ」って、もう100万部も売れてるんですね。びっくり。
これだけ書店に行っている僕の視界には、全然入ってこない本でした。
今日、Yahooでこの本のタイトルを見たときの感想は、「18禁ゲームにこんなタイトルのやつがあったような気がする…」でしたから。
(ちなみに、そのゲームのタイトルは、「この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO」でした。かなり頑張って調べたよ本当に。僕は残念ながら、このゲーム一度もやったことはないのですが)

 率直なところ、もともと、恋愛物は苦手なのです。
 恋愛映画なんて観ても面白いと思えないし、「ゴースト」とか、「シティ・オブ・エンジェル」とか、ああいう作品のあまりの御都合主義ぶりには、いつも困惑します。
 SF映画には、多少荒唐無稽さがあってもOKですが、恋愛なんて身近なことだから、かえって感情移入できない。
 僕はブラッド・ピットでもないし、僕の恋愛対象もメグ・ライアンじゃない。
 現実的には、あんなにいいタイミングで偶然出会ったりもしませんし、2人がうまくいきそうなときに限って、恋のライバルが出現したりしません。
外国人の女優さんにあんまり惹かれない、というのも原因のひとつかもしれない。
(でも、最近は、レニー・ゼルヴィガーがちょっと好き)
とはいえ、日本の「恋愛映画」は、あまりに文芸過ぎますし。

 僕にとっては、「恋愛小説」や「恋愛映画」よりも、歴史モノとかドキュメンタリーとかに、どうしても興味がいってしまうのです。
だって、恋愛映画って、「面白かった」「つまらなかった」「共感できた」 「できなかった」という以外に何の結論もないことが多い。
ああいう映画とか小説とかに、感情移入できる人が本当に羨ましいかぎりです。

 それにしても、「世界がもし100人の村だったら」とか「チーズはどこに消えた」とか今回の「世界の…」なんてのが売れまくるのをみると、「いいものは売れる(はず)。でも、本当にいいものは爆発的には売れない」ような気もしなくはありません。



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「マトリックス・レボリューション」勝手に結末予想(ネタバレじゃないです)。 - 2003年11月05日(水)

というわけで、本日公開の「マトリックス・レボリューションズ」当直で観に行けないので、勝手に結末を予測します。

(1)ネオとトリニティーが抱き合ったまま凍死。志の間際にカーテンが風でめくれてルーベンスの絵が…

(2)ネオが急にハクション星に還らないといけなくなり、必死に阻止しようとするトリニティ、でも、いつの間にかトリニティは眠ってしまい…

(3)未来に帰らなくてはならなくなったネオ。自分ひとりでスミスを倒し、ネオに心配をかけまいとするトリニティ。
 翌朝目覚めたトリニティへネオからの置き土産の箱が。
 それを飲んだネオが「全然うれしくな〜い、これで人類は滅亡する〜」と言うと、人類はなぜか助かる。そう、箱の中身は「ウソ800」。

(4)無事スミスを倒し、人類を救ったネオ。
 しかし、喜びもつかのま、トリニティがレッドアリーマーにさらわれ、2周目スタート。

(5)北野武監督のヘタな似顔絵が出てきて「えらいっ」の一言でおわり。

(6)人類は核ミサイルで滅んでしまい、ネオとトリニティは核シェルターの中で生き延びる。しかし、頼みの用心棒は政界に転身。

(7)ネオに「勇者ロト」の称号が授けられる。

(8)小さくなってしまったトリニティを一生懸命世話したネオだが、トリニティの命の灯がつきてしまう。
 少しだけオトナになったネオは、バイクであてのない旅に。

(9)スミスがネオの父親であることが判明し、スミスは改心して創造主を倒してハッピーエンド。

(10)最後に巨大な手が出てきて、リセットボタンを押して終了。


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「全国一斉 IQテスト」に参加しなかった理由 - 2003年11月04日(火)

 昨日、「全国一斉IQテスト」という番組をやっていたらしい。
 古館伊知郎の声で、番組宣伝がかなり頻繁に流れていたこともあって、存在自体は知っていたのだが、僕はその番組に興味が持てなかった。
 「自分のことを知りたい」という欲求はなきにしもあらずだが、30男が自分のIQを知ることに意義を見出すことができなかったので。

 もし仮に、僕がそのテストを受けて、結果が悪かったとしよう。
 それはそれで、たぶんものすごく悔しいと思う。
 自信喪失してしまうかもしれない。

 でも、むしろイヤなのは、点数が良かった場合だ。
 僕は多分、その結果を喜ぶに決まっている。
 「オレは本当は頭がいいんだぞ」って。

 でも、それで何が変わるというのだろうか?
 「オレはこんなに頭がいい」と自慢するくらいにしか役に立たないのではないだろうか?
 子供のIQテストというのは、たぶん、一部の「特殊な人間」をスクリーニングするために使われるのだろう。
 多くの人間にとっては無意味だが、まあ、社会的にみれば、有用な面もあるに違いない。
 でも、大人のIQテストの意味付けは難しい。
「IQが高い」というのは、TOEICのような努力を必要とする要素ではない。
 いい大人なら、「自分には才能がある」「やればできる」なんてずっと口にしながら、結局何もできない人間がたくさんいるということを知っているはずだ。
 「原石」は、どんなにすばらしくても磨かれなければ無価値だ。

 本当は、観ないようにしようと最初から決めていた。
 やれば、それなりの点数を出せる自信はある。
 もちろん、テスト勉強ばっかりしていた頃にはかなわないとしても。
 
 でもね、そこでいい点数をとって、「こんなにIQが高いのに、現実世界で報われない自分」という幻想に溺れるのがイヤだったんだ。
 そうやって、「自分が他人より優れているところ」を再確認して、自分を慰めてしまうのが怖かったんだ。
 そういうのは、「めざまし占いで今日のイチバンだった!」とかいうのより、「実力」なだけに、もっと哀しいことなんじゃないだろうか?

 いやまあ、アクタ共和国の将軍にはなれるかもしれないけどさ。
 「IQなんと1300!」


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ピラミッドを造った人たちと歴史的な「正しさ」 - 2003年11月03日(月)

 今日の昼間、半分仕事をしながら、TBSの「ピラミッドの謎」という番組を観ていた。なかなか興味深い番組だったのだが、なかでも白眉だったのは、「ピラミッドを造っていたのは、『奴隷』ではなかった」というところだった。
 この番組によると、ピラミッド建設に関わっていたのは、農閑期の地方の農民たちを基盤とした職人集団で、彼らは、「無理やり働かされていた」わけではなかったらしい。
 まあ、徴用されてはいたみたいだが、少なくともムチで追われてひどい生活を余儀なくされていたわけではないみたい。
 彼らは、働きに応じてパンやビールや肉なども与えられ、外科手術まで行われていたというから、僕たちがイメージするような「奴隷」じゃない。
 また、ピラミッド建設には、農閑期の公共事業と土木技術の地方への伝播という役割もあったらしいし(現場で技術を覚えた職人たちが、故郷に帰って技術を伝えていく)。

 歴史というのに対して、僕たちは、現在の視点で語りがちだ。
 大昔に、あんなデカイ建物を造ったのは、奴隷に違いない、って最初から思ってしまうんだよなあ。
 しかし、あれが公共事業だと考えれば、あれだけたくさんのピラミッドが継続的に造られていったのも理解できるというものだ。
 逆に、奴隷や市民を酷使しまくった秦は、15年で滅亡している。

 「ヒトラーは最悪の独裁者だ」というのは、現代では一部の信者を除く人類全体のコンセンサスなわけだが、当時の不景気にあえいでいたドイツ国民の多くは、ヒトラーを「演説の面白いオッサン」くらいには考えていたとしても、「人類史上最悪の独裁者」だとは思っていなかったはずだ。
 だからこそ、あれだけ支持されていたわけで。
 オウム信者にしても、「いかがわしい」と今の僕らは思うけれど、リアルタイムでは、あの教えに「救い」を求めた人がたくさんいたのだ。

 僕たちが、現在「正しい」と思っていることが歴史的に「正しい」かどうか判断するのは、本当に難しい。金正日総書記だって、ある意味、プチ始皇帝(むしろ胡亥か?)なわけだし。
 実際、「正しくないことをやろう」と思っている民衆なんて、そんなにいないはずだからなあ。
 結局、「運」と「思いやり」なのかなあ、などと考えてみる。

P.S.フジテレビのバレーボール中継は、わけのわからない煽りマイクの人が、まるでパチンコ屋みたいで不愉快です。

 



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秋の天皇賞プレイバックSP - 2003年11月02日(日)

 秋の天皇賞(以下秋天)、で思い出したこと。
 順番は、一部バラバラです。

 このレース、とにかくいろんなドラマというか、とんでもないことがあったのだ。

(1)あっと驚くギャロップダイナ!

 皇帝シンボリルドルフ、休みあけとはいえどこの誰だかわかんなにような馬にゴール直前で差し切られて敗北。

(2)メジロマックイーン降着…

 G1レース最初にして唯一の1着降着。武さん、JRAのCMでは言ってなかったけど、いちばんのこのレースがいちばんの「サプライズ!」でした…

(3)トウカイテイオー復活ならず…

 春の天皇賞でメジロマックイーンに敗れたあと、骨折休養を経て復活したテイオー、でも直線一度は先頭に立ったものの7着に敗北。
 まさか、ジャパンカップであんなに劇的に復活するとはねえ…

(4)ビワハヤヒデ伸びず…

 それまで、2着を外したことのない超堅実派ビワハヤヒデ、最後の直線で伸びきれず5着。レース直後に岡部が下馬し、故障発生でこのレースで引退。「真面目に走りすぎる馬だったから…」:岡部談
 後輩が「お父さんが泣いてた」って言ってました。

(5)ナリタブライアン!

 復活して、一番人気にはなったものの、全然延びずに2桁着順。
 個人的には、マイシンザンが取り消して仕方なく替わりに買ったジェニュインが来てビックリ。

(6)エアジハード

 この馬が安田記念以来のぶっつけで3着に来ていたのを覚えていたので、今年の馬券を少しだけ当てられた気がする…

(7)サイレンススズカ

 夜中に競馬友達からの涙声の電話で悲劇を知りました。
 あの年のレースだけは、サイレンススズカが止まった時点でレースは終わった感じがしたなあ。
 「でも、種牡馬にはなれるよねっ!」と言われて口ごもってしまった。

(8)デンジャラス・スペシャルウイーク

 知り合いに馬券頼まれてたんですが、PATの調子が悪くてつながらず、買えなかったら来たんだよなあ、スペシャルウイーク。2着がステイゴールで助かりました。自分の馬券は惨敗。

(9)オペドト伝説

 結局、この年は、秋天・JC・有馬とG1で3つ続けてオペドト。
 翌年の秋は、またオペドトと思ったら、一度もきませんでした。

(10)デジタル!?

 「こいつのせいで、クロフネもプレストンも出られない!ダート馬のくせに」とみんなで文句言ってたら、大外からものすごい脚で差し切り勝ち。
 ほんと、「新聞読む馬」だよねえこいつは。
 しかし、もしクロフネがこの秋天に出てたら、その後のダートでの活躍はなかったかもしれず。

(11)ト、トップロード…?

 「中山苦手」をさんざん指摘されながらも、なぜか2着に差してきたトップロード。クリスエスとサンペガたくさん持ってたのに…
 これを見て、「中山でも大丈夫だな」と思ったら、ジャパンカップでも有馬記念でも見事に来なかった…嫌がらせか?

(12)後藤vs吉田!

 まさか秋天でやるとは…
 それにしても、競馬ってのは、大外、休み明けでクリスエス不利!とかみんな思ってるとかえって来るもんですね。過信も禁物だけど、逆境も重なると開き直れるのかもしれない。
 しかし、これからはもう、トライアルレースは要らない時代なのかな。





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