マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

オンライン文学の可能性を声を大にして語ってみたり。 - 2003年10月31日(金)

「やっぱり、本はあの重みがいいよね」

とか、僕を含む本好きは、みんな思っているに違いない。
文庫本は、ややポケットからはみだしつつもなんとか携帯できるし、新刊書(僕はとくに、歴史小説とかの分厚い本が大好きだ)には、値段相応の重みがある。
好きな作品のハードカバーは、たぶんもう読まないと思っても「記念買い」してしまうこともある。

しかし、今日論文の検索をしていたら、僕が読みたい論文は、「オンラインで読んでください」ということで、アッサリと書架から姿を消していた。
それで、PDFファイルからプリントアウトして、今論文を読んでいるわけなのですが。

オンライン書籍の可能性は、初期にはいろいろかところで語られていた。
作者から読者へダイレクトに発信することが可能になるとか、中間マージンが発生しないので安くなるとか、何より、場所をとらないだとか。
 新聞などは、ネットで済ますという人は多いはず。でも、たまに新聞を手にとってみると、ネット上に載せられているのって新聞全体の情報量のほんの一部なんですね。まあ、ネットで得られる情報の範囲で不自由していないというのも事実なのですが。
 でも、まだ大部分の小説や雑誌は、なんとか生き延びているわけです。

 今回は小説に限って話をしてみたいのですが、オンライン小説って、読んだことありますか?
 ネット上には、けっこうたくさんの創作小説があるのですが、普通のテキストサイトの一日分の更新量くらい(まあ、慣れてないところなら原稿用紙2〜3枚(1000字くらい)、行きつけなら原稿用紙10枚くらいまでなら、読めないことは無いと思うけど、本格的なものを読み通しタコとがあるという人は、少ないのではないでしょうか。

 その原因として
  1)ディスプレイは長時間見つめていると、かなり眼が疲れます。
  2)編集者などの第3者のチェック機能が働いていないので、レイアウトや改行などが練れておらず、ストレス。誤字脱字・
  3)パソコンの前にいないと読めない。
  4)読むときに、パソコンの電源を入れ、さらにサイトなりファイルなりをクリックするのがめんどうくさい。
  5)有料の場合、金額がたいしたことなくても、個人情報とかカードの番号を入力するのは、手間がかかるし不安。
  6)ネット上の創作小説は、完結する可能性が低い(人のことは言えませんが、「小説」であるかぎりは、完結しなければ価値は半減以下だと思います。途中で著者が亡くなったため止まってしまった小説を読むのって、寂しいですよね)。
 いっそのこと、完結させてから発表していけばいいのに、といつも思います。

 偉そうに、とか思われるかもしれないけど、読者というのは基本的にワガママなのだよ。

 でも、オンライン小説っていうのは、大きな可能性も持っていると思うのです。
 ます、上の(2)の裏返しなのですが、やはり、生の言葉を届けられるというのは、一つの魅力になるでしょう。出版社だって企業ですから、広告主を怒らせたくないとか、いろんな思惑もあるでしょうし。
 それに、昔筒井さんがやっていましたが、読者のリアクションをリアルタイムに反映させるような実験的な作品だって可能です。
 同じ作品に、どんどん手を入れていくことだってできるでしょうし。
 邪道だ、と思われるかもしれないけど、音や絵だって使えます。
 本格的なやつは個人の力では難しいかもしれないけど、ちょっとした一枚の絵や短い音楽でも、使い方によっては非常に効果的。

 でも、僕がいちばんオンライン文学のメリットだと思うのは、「あと何ページあるのかわからないこと」なんですよね。
 本好きの方は解っていただけると思うのですが、本を読んでいると、どんな大事件が途中で起こっても、「まだ150ページくらいあるから、こいつが犯人じゃないな」とか、「なんか全然話がまとまってないんだけど、あと50ページくらいだから、そろそろまとめに入るんだろうな…」とか無意識のうちに考えてしまいませんか?
 やっぱり、残りのページ数って、気になるんですよね。
 面白い本であればなおさら。

 しかし、オンライン文学の場合は、明示されていなければ、いつ終わるか判断する手段がないわけです(わかる人には、ファイルのバイト数とかでわかるかもしれないけど)。
 それって、いままでの活字媒体での文学が超えられなかった大きな壁だと思います。
 
 まあ、「オンライン文学の特徴を生かす!」とか言いながら、尻切れトンボで終わってしまったり、うんざりするほど続く作品ばかりでは、どうしようもないでしょうけど。

〜〜〜〜〜〜〜 

そうそう、昨日のお題(?)「タランティーノはアメリカではどういうふうに呼ばれているか?」
なのですが、こちらの方に教えていただきました。
「現地の大学生たちは、『タランティーノと呼び捨て』」だそうです。
もし、「うちの地域では違う!」とか「みんな『クエ』とか『タラちゃん』って呼んでるよ!」とか追加情報がありましたらぜひ。



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「キューティー、キューティ!」 - 2003年10月30日(木)

 「QTは、昔の日本映画に精通していて…」
 これを読んで、「QTって、何?」と思わない人がいるだろうか?
 まあ、これが載っているのが、映画「キル・ビル」のパンフレットだという前提条件があれば、多くの人は、これがクエンティン・タランティーノの略だということが理解できるのだろうけど。
 でも、僕は最初にこの文章を読んで、「Quick Timeのこと?」と思ってしまったわけなのだが。
 ちなみに、タランティーノ監督は名前が長いばっかりに、他のところでは「タラ」は、とか、魚もしくはサザエさんのキャラよばわりされている。どうも、タランティーノ監督の名前の略し方は、日本では決まった基準はないようだ。
 でも、「タラ氏は」っていうのは、いくらなんでもヘンじゃないかい?

 こういう略語というのは、ときにものすごく違和感をばらまくことになる。巨人のぺタジーニ選手は、「ぺタ」などと略されると、全然打てなさそうだし。

 僕の人生で、いちばん違和感のある略称をばらまいていたのは、かのアーティスト・稲垣潤一氏だ(「ドラマティック・レイン」とか「クリスマスキャロルの頃には」を歌っていた人)。
 彼は、アーティスティックな雰囲気を出すためか、ご自分のことを「J.Iはね…」などと言っていた。一人称が「J.I」(ジェイ・アイ)なのだ。
 ちなみにこれは、ジャミロクワイの「J・K」よりも遥かに昔のことだ。
 そのインタビューを読んだ中学生くらいの僕は、思わず唖然としてしまった。
 もろ日本人のオジサンが、自分で「ジェイ・アイは…」だもんなあ。

 略語もあまりひとりよがりにならないように気をつけたほうがいいですよ、本当に。
 本人はカッコいいつもりでも、周りからみたらヘンってことは、けっこうありがちなので。

 略語といえば、医者の世界には、独自の略語が多い。
 ファミコン雑誌で「GB」(ゲームボーイ)を見るたびに、「胆嚢」(gall bladder)とか思ったりするし、「PV」(プロモーションビデオ)は、門脈(portal vein)だ。
そんな違和感を感じることが多いから、こんなふうに略語にこだわってしまうのかもしれないが。

それにしても、「QT」連発はちょっとおかしいよなあ。
筆者は「よく知ってる」つもりで使っているのかもしれないが。
せめて、最初にクエンティン・タランティーノ(以下QT)とか書いといてくれたらいいのに。

 しかし、アメリカ人は、あの長い名前をいったいどうしてるんだろうか。
 やっぱり「QT」って呼んでるの?
 「タラ」じゃないとは思うけど。



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バルーンフェスタのススメ - 2003年10月29日(水)

明日から、佐賀市で「バルーンフェスタ」というイベントがはじまるのです。
それで、このバルーンフェスタっていうのは、空をプカプカと飛んでいる熱気球をみんなで眺めようというイベントなのですが、田舎の中の田舎と呼ばれる佐賀にはうってつけのイベント。
高い建物もないし、飛行機もそんなに飛んでないし。
まあ、地元民はほとんど使わない飛行場ができたせいで、バルーンが飛べる範囲が狭くなったらしいのですが。

それで、この「バルーンフェスタ」なのですが、最近は全国的にそれなりに有名なイベントになってきたのだけれど、昔は地元民ですら「何それ?」というようなイベントでした。
全国的に有名になったのは、たぶん10年くらい前に、「あの中島悟がF1マシンで河川敷の臨時サーキットを走る!」という今から考えたら無謀極まりないイベントが大会中に開催された頃からでしょうか。

今では、数十万人に人が来る、佐賀の秋の風物詩になっているのです。

しかし、このバルーンフェスタ、僕も何度か足を運んでみたのですが、実はあんまり面白くない。
見せ場といえば、たくさんの熱気球が一斉に空に飛び上がる瞬間なのですが、競技の都合上、それはかなりの早朝。
昼間に行くと、ボケーっと空を見上げて、たまに飛んでくる気球を「あれはデザインが面白い」とか、批評するくらいしか楽しみがありません。
まあ、のんびり空を見上げてみる機会なんてめったにないし、「あんなに広い空があるだけ凄いよ」という都会の人もいるわけですが。

まあ、昼間に行っても、人は多いし、やることといえば物産展で買い物をするくらいしかないし(買い物が楽しみ、とかステージが楽しみって言う人は、けっこういるのです)、僕にとっては面白くもなんともないんだけど。

そうそう、期間中、暗くなってから行われる「モンゴルフィエ・ノクチューン」は、けっこうオススメです。
さまざまな気球が、音楽にあわせてライトアップされるイベント。

そういえば、僕はこのイベントに思い出があって、ダブルデートみたいな感じでこれを観にいって、結局、もう一組は結婚までいったんですよね。
最初に誘ったのは、僕だったのになあ。

このイベントの難点は、地元の人がみんな来ているので、「見たくもないシーン」を目撃してしまうことでしょうか。
好きだった子が知り合いの男と仲良く歩いているのをみて、やたらとブルーになりながらみんなで気球を見ていたら、なんだか涙がこぼれそうで下を向けなかったっけ。

でもまあ、一度は観てみるのも良いと思いますよ、何事も経験だし。

と、たまには主張もオチも無い話を書いてみたり。



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筋を通せなかった星野阪神と空気を読めない王ダイエー - 2003年10月28日(火)

ダイエーホークス日本一!
どのメディアも本音は言わないが、世間の流れとしては「阪神日本一で、星野監督男の花道」というシナリオを期待していたのだと思う。
しかし、現実はそんな期待に冷水をぶっかけるようなダイエーの快勝。
まあ、現実とはえてしてこんなもので、以前同率首位の両チームの最終決戦になった巨人vs中日も、巨人が一方的に打ちまくって勝った。
こういうドラマチックな舞台装置では、意外とワンサイドになってしまったりするのだ。

それにしても、今日の星野監督は、どうも浮き足立っていた。
昨日伊良部を先発させたなら、今日の先発は井川だろう、と思ったのに。
それが、筋を通す星野流なのではないか。
確かに、第3戦でムーアはダイエー打線を抑えたが、この最終戦は、やはりエースにすべてを託すべきではなかったのだろうか?
今日ムーアを投げさせるつもりなら、昨日ムーアで勝負に行くべきだった。

今日の試合の継投にしても、ピッチャーは全員使っていいのだから、あそこまでムーアを引っ張る必要性はまったくなかった。
ムーアが危ないと思ったらすぐ他のピッチャーに変えて、それでもダメなら次、でも良かったのに。
2番手のリガンも、ごく普通の継投だが、あの状況で負けていれば、あそこで井川でも良かった。
井川は中継ぎ向きではなかったかもしれないが、少なくとも選手たちに「逆転するんだ、という執念」を感じさせることはできたはずだ。

1回の攻防がすべてだったのかもしれない。
この大事な試合で先取点を取れたおかげで、ダイエーはずいぶんラクになった。
対する阪神打線が、「早く追いつかなければ」というプレッシャーでどんどん金縛りにあっていったのとは対照的に。

確かに、ダイエーは強いチームだ。
100打点カルテットも凄い。
ただし、7戦勝負のシリーズ向きのチームであることも事実で、実はアテになる先発投手は、斉藤・杉内・和田(+故障がなければ新垣)しかいない。中継ぎ・抑えは手薄なくらいだ。
でも、数年前のシリーズで、R.ジョンソンとシリングの大車輪の活躍でワールドチャンピオンになったダイヤモンドバックスのように、柱になるピッチャーがいるチームのほうが、傑出した選手は少なくても駒が揃っているチームよりも短期決戦向きなのだ。
だから、阪神がダイエーより弱いというより、阪神はむしろ長丁場で力を発揮するチーム編成だった、ただそれだけのことなのだ。
ビリーヴとヒシミラクルのどっちが強い?なんて質問は、舞台が違えば結果も違うのだから、あまり意味がない。

星野監督は、これで勇退するということ。
とりあえず、お疲れさまでした。
僕は星野監督の計算高い熱血漢ぶりが大嫌いで(おまけに親友のチームの4番を平気で引き抜くような男だから)、負けろ負けろと念じてきたのだが、実際に負けてしまうとけっこう寂しいものだ。
もちろん、勝たれていたらそれはそれで辛かったが。

阪神にとっては、相手がダイエーだったのが不運なシリーズだった。
たぶん、相手がダイエー以外のパリーグのチームだったら、今年の阪神の勢いなら、ビジターの試合でもプチ甲子園のようなムードにできたはずだ。
唯一、それが不可能だた相手が福岡ダイエーホークスだった。

結局、ホームゲームの多いほうが勝った。
ただ、それだけのことなのかもしれない。

しかし、日本一のビールかけは楽しそうだったなあ。
リーグ優勝のときは、「まだシリーズがある」って感じだけど、これは本当の「勝利の美酒」だ。

胴上げとビールかけって、現代に遺された数少ない男のロマンのような気がする。

たいがいの女性には、「ビールがもったいない」って言われるものだけど。


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今年の日本シリーズが好試合になった理由 - 2003年10月26日(日)

日本シリーズは、10年ぶりに第7戦が行われることになった。
テレビ東京大喜び!
それにしても、今回のシリーズでは6戦ともホームのチームが勝っているうように、応援の力というのは凄いものだと思う。
もちろん、アメリカではヤンキースがホームで負けているから、絶対的なものとはいえないけれど。

福岡ドームに戻ってきて、ダイエーは自分たちの野球ができるようになったし、阪神はなんとなく噛み合っていなかった。
応援もなのだが、DH制の有無は、両チームにとってけっこう大きいようだ。
正直、DHのないダイエー打線は、なんとなく迫力不足に思えた。とくに下位打線。7番村松(柴原)・8番鳥越・9番投手の打線だと、ちょっとここで点数が取れそうな感じはしないもんなあ。
逆に、阪神打線は、DHの選手のところで繋がらなかった印象があるので、いつもと同じ9番に投手が入る打線のほうが、粘っこい感じがした。
数字的にはあまり打てていないのだが、チャンスはなんとかモノにして、勝利に結び付けていたし。

ここまでの印象としては、とにかく、いい左投手というのはなかなか打てないものだなあ、ということだ。
とくにダイエーは、あれだけの打線だけれど、今期ののパリーグにはダイエー以外にあまり良い先発完投型のサウスポーがいなかったこともあり(実は、セリーグにも阪神以外にはあんまりいないのだが)、吉野やムーアを全然打てていない。
やっぱり左は有利だなあ。

明日は井川vs和田ということになるのだろうが、蓋を開けてみるまでよくわからない。
ホームとDHがある分だけダイエー有利のような気もする一方、井川もそろそろいいピッチングをしてくるだろう、という気もする。何より、今年の阪神は逆境に強いチームだし、日本全国のムードとしては、阪神の優勝を望んでいそうだ。

今年の日本シリーズでとくに感慨深いのは、両監督が「正攻法」にこだわっていることなのだ。
王監督が、3戦目で和田を早めに交代させたことには異論が多かったが、僕が思うに、王監督は、2000年のシリーズで巨人に2つ続けて完勝したあと、逆に勝つことを意識しすぎて守りの姿勢になって4連敗したことを覚えていて、常に「自分から先手を取って動く。それで負けたら仕方ない」という姿勢でこのシリーズに臨んでいるのだと思う。
その姿勢は、6戦目まで変わっていない。

逆に、星野監督が今日伊良部を先発させてきたことに、僕は感動した。
結果としては打たれまくったわけだけど。
「シーズン中あれだけ頑張ってくれたんだから、投げさせないわけにはいかんだろ」と言っていたそうだが、試合には負けたけど、選手はみんな、星野監督の「情」の部分に信頼感を持ったと思う。
目先のイメージにとらわれずに、ちゃんと日頃の貢献をみていてくれる人だ、と。

両監督が、策に溺れず、自分のやりかたを貫き通して闘った6戦。
久々に、いい日本シリーズだ。
どちらのチームのファンでもない僕としては、明日は、いい試合になって欲しいなあ、と思うばかり。

でも、ファンの後押しの凄さはもうわかったから、第7戦は、観客ナシとかで決着つけてもらいたいような気がするのは、僕だけですか?

それにしても、ワイルドカードからチャンピオンって、なんか納得できん。




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本日公開!「キル・ビル」雑感集(ごく軽度ネタバレあり) - 2003年10月25日(土)

(1)観てる最中、何度も「ウイークエンダー」を思い出してしまった。

(2)栗山千明さんのへっぴり腰がベリーキュート!

(3)それにしても「ゴーゴー夕張」って、「カントリー娘。」の仲間かと思った。

(4)あの武器、「ゴーゴー・ボール」って言うらしいです。

(5)「エアーオキナワ」は、セキュリティチェック激甘。テロリスト御用達。

(6)サニー千葉、サニ千葉、ソニー千葉、本物はどれだ?

(7)わざわざ池(?)のあるところでやるのがスゴイ。

(8)あの庭園は、バビロンの空中庭園?

(9)まさか、「史記」の呂后と戚夫人のエピソードまで網羅しているとは。

(10)その人、もう死んでるだろ、いくらなんでも。

(11)その刀、切れすぎです。

(12)ビルさん、気が強い女性がお好みのようですね。

(13)脅威の回復力!猪木もビックリ!

(14)僕らの間では、女弁護士ソフィはリサ・スティッグマイヤーが演じている説が流れていました。日本語喋れるフランス人っぽい人は、みんなリサさんに見えます。

(15)一緒に観た女性の感想は「何これ?途中で飽きた。vol.2なんて、絶対に観ない!」

(16)↑を聞いて、「さすがタランティーノ!」とかえって嬉しくなってしまった僕。

<番外>トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」の予告編、以前は「侍魂」と画面に大映しになるシーンがあって失笑させられていたのですが、今回は「侍の魂」になってました。
 たぶん、誰かテキストサイトフリークが指摘したに違いない。



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僕がネットに文章を書き続ける理由。 - 2003年10月23日(木)

 最近どうも煮詰まっている。
 少なくとも、この2003年に、世界を変えるような医学的研究なんて、できるわけがないじゃないか。
 だいたい、僕がやっている仕事には、厳然とした基準もないし、やればやるほど自分の土台の脆さを感じるばかり。

 そんなふうに落ちこんでいたら、同僚の先生がこんなことを話してくれた。

 「こうやって英語の論文とか苦労して書いたらさ、ひょっとして、何年とか何十年(僕たちが今やっている仕事というのは、比較的旧くなりにくいジャンルなのだ)くらいしてから、世界のどこか自分の知らない場所で、自分の論文を検索して見つけた人が、『ああ、自分の前にこんなことやってた人がいたんだなあ…』って感じてくれるんじゃないかな、って思うんだよね。今は、そういうのを想像することが、論文を書くいちばんの愉しみ、かな」

 まるで、瓶に入れた手紙を海に流すような愉しみかもしれないけど、そういうのは、確かにロマンチックだ。
 そして僕は、今日も論文を書くためにあがき続けている。

 たぶん、こうして毎日誰にあてているわけでもない文章を書き続けているのも、同じ理由なんだろうと思う。




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憂鬱からひとつかみ<日本の政界篇> - 2003年10月22日(水)

(1)小泉首相のテレビCM「国民ひとりひとりが個性を活かせる社会に」

 だから、具体的にはどうするんですか?中学生の弁論大会か…


(2)公明党のCM「そうはいカンザキ!」

 そんな駄洒落CMで有権者の心を掴むわけにもいカンザキ!


(3)田中真紀子氏、自民党を離党しての出馬を民主党大歓迎。

 敵の敵は味方、っていうけど、旧自由党とか民主党の出発点の新進党って、「田中金権政治からの脱却」がテーマなんじゃなかったっけ?
 さすがにそれはポリシーなさすぎ。


(4)でも、ニュース番組で、街頭演説をしていて誰にも見向きもされない候補者はちょっと可哀相。


(5)藤井総裁

 この人は、悪役商会の俳優なんじゃないだろうか?と思えて仕方がない。
 本物の総裁なんだろうか。


<以下、上とは関係ない愚痴トーク>

 僕はどうも、最近の「多様な価値観」というのが、自分の周りを危険にしてしまっているような気がしてならない。
 「援助交際?売る人と買う人がいるから、仕方ないよ」
 「幼女趣味?いいんじゃない、犯罪につながらなければ」
 「18歳高校生と27歳の母親との交際?個人の自由だろ」

 「それも個性なんじゃない?」とか「それも個人の自由なんじゃない?」とみんなが許容する範囲が広くなりすぎて、「なんでもあり」になってしまっているのではないだろうか?

 その一方、みんな「正しい基準」を求めて、小林よしのりの本を読んでみたりするわけだ。

 規制すればいいってものじゃないけど、絶対に悪いものは悪い、と大人は自信を持って言わないといけないと思う。難しいことだけど。





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ホーク・ウォーリアーの死と「強く見せること」の悲劇 - 2003年10月21日(火)

ホーク・ウォリアーさんが亡くなられた。
しかし、こういうふうに、亡くなったときだけ敬語っていうのもヘンな話だ。
プロレスをやっている最中に「出た〜ホークさんのラリアット!」なんて言うわけもなく、プロレスラーというのは呼び捨てもリングネームのうちのような気もするので、以下は全部呼び捨てにさせていただく。
ロード・ウォーリアーズは、僕がプロレスを一生懸命観ていた時代からは、ちょっと新しい存在だった。
僕にとってのプロレスのピークはタイガーマスク〜長州力の維新軍という、まさに新日本プロレスの黄金時代で、金曜日の8時には、いつもテレビの前に座って古館節に酔っていたものだった。
もっとも、古館アナは、辞める直前には自分に泥酔していたみたいだったけど。
そういえば、「キン肉マン」が大ブームになったのもこの頃だった。

その頃は、「週刊プロレス」なんて雑誌も買っていたし、「プロレススーパースター列伝」というマンガも欠かさずに買っていた。
今から考えたらトンデモないエピソード満載のプロレスラーの武勇伝(アンドレ・ザ・ジャイアントが移動中に乗っていた飛行機の食料を全部食べつくしたとか、ファンク兄弟が、所有する牧場で牛にスピニング・トーホールドをかけていたとか、そんな話)で、世界は満たされていたのだ。

一度だけプロレスを会場で観たこともある。
「信じられないほどデカイ!」と思ったアンドレ・ザ・ジャイアントは、出てきたと思ったら3分で反則負けになってアッサリ帰ってしまい、客席ははなんとも言えない溜息と罵声に満たされていたけれど。

中学校くらいから、僕のプロレス熱は抜けてしまった。
金曜夜の新日本プロレス中継が終了してしまったこともあり、僕とプロレスは疎遠になった。
それに、ちょっとオトナになれば、本気で闘うのであれば、卍固めなんてまどろっこしい技をかける余裕なんてないってことはよくわかる。

「プロレスは八百長だ」
今から考えれば、それは失礼な物言いなのだと思う。
本気で、殺し合いをあればいいって問題じゃないし、「お約束」の範疇でいかに見るものを熱くさせるかというパフォーマンスなのだ、プロレスっていうのは。

脱線しすぎた。話を元に戻そう。
あの屈強な肉体を持つレスラーたちは、「殺しても死なない」ような存在だと思っていた。
でも、僕は今までにたくさんのレスラーたちの訃報を耳にしている。
しかもそれは、いささか若すぎる死が多すぎる。

アンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーザー・ブロディ、ジャンボ鶴田、ヨコヅナ、冬木弘道、古くは力道山…死に急いでしまったツワモノたちの系譜。
プロレスラーではないが、アンディ・フグやフロレンス・ジョイナーなども、僕のイメージとしてはこの系譜に含まれている。
ジャイアント馬場や鉄人ルー・テーズは、早逝というよりは、ある程度寿命かな、という印象もあったのだが。
そういえば、猪木ももう60歳。
30代前半の僕にとっては、しばらくは「喪失の時代」が続くことになるのだろう。
もちろん、自分が生きていたらだけど。

美しい肉体というのは、もともと「健康的」なものだったのだと思う。
でも、それが行き着いてしまうと、より美しい体、高い運動能力を極めるために、むしろ危険なトレーニングやステロイドの使用などに奔ってしまう。
もちろん、天寿をまっとうした人もたくさんいる(というか、これからもたくさん出てくる)だろうけど、強かったイメージが残っているだけに、早過ぎる死は、なんだかあっけなく、寂しいものだ。

なんでもやりすぎは良くないよなあ、などと思いつつ、他人と違う人生を歩むために自ら危険な道を選んでいった人たちのことを考えてみる。
不思議なものだ、僕たちは健康的すぎるものに「強さ」をあまりイメージできない。
そのかわり、彼らの酒豪ぶりや警官隊をノックアウト、といった負の武勇伝のほうに「強さ」を感じてしまう。
他人に「強くみせる」というのは、大変なことだ。

長生きするためには、何事も程々にってことなんだろうけどさ。



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愛すべき「暴力教師」と子供が苦手な理由 - 2003年10月20日(月)

参考リンク:「さいきんのわたくし」(10/20・「暴力教師とわたくし」)

 僕が小学生や中学生をやっていたのは、もう20年くらい前の話ですし、子供もいませんから、今の教育現場がどうなっているのか、というのは実感できないところがあるのですが。

 僕が中学生のころ、クラスの担任の先生に「暴力教師」がいたんですよね。
 宿題忘れると定規の角で頭をコツンとやられましたし、耳たぶを引っ張られたり、掃除中にホウキでホッケーをやっていてビンタを食らったりしたこともあります。
 でも、その先生のことが、僕はけっこう好きでしたし。クラスでも「あのやろ〜」とかみんな言いながらも、頼りにしていたような気がします。

 その先生は、贔屓をしない人でしたし、理不尽なことで殴られることはなかったですから。
 もっとも、僕は比較的悪いことはしない生徒だったから、なのかもしれません。

 「先生が生徒に暴力をふるうのは良くない」「話せばわかる」これはもう、正論には違いありません。
 でも、言葉だけではなくて、痛みという感覚によって教えられることも、子供から大人の過程では、あるような気もするのです。
 赤ん坊に「話せばわかる」なんて考えている大人はいないでしょうし、大人に「暴力でわからせる」のは不毛です。
 では、その過渡期においては、いきなり「言葉で相手の理性に訴える」という方法だけでうまくいくのかどうか?

 僕の子供時代の記憶からすれば、もちろん過剰な暴力は困りますが、体罰よりも特定の生徒を贔屓したりする先生のほうが、遥かに印象が悪かった気がします。
 「これは悪いことだ」と自分で理解している状況での体罰は、もちろん痛いし嫌ですが、そんなに恨めしくはない。

 多くの場合、体罰は悪い教師がいたいけな子供を虐待する、なんてものじゃなくて、オトナになりきれない子供と冷静になりきれない大人である先生の間に起こるものです。
 それは、普通の人間対人間のぶつかり合いなわけで。
 
 もちろん、学校内では、先生のほうが基本的には強い立場にあるわけですから、職権濫用で自分のストレスをぶつけてはいけないでしょうが、僕は体罰よりも贔屓のほうが、よっぽど子供に悪影響を与えるのではないかと思うのです。
 まあ、体罰だって無いに越したことはないけれど、僕をそのとき怒ってくれた先生には、今ではけっこう感謝してるんですよね。たぶん、そこには愛情みたいなものがあったから。
 「体罰はよくない」とヒステリックに叫ぶ大人をみるたびに、「体罰が行われた理由」を考えたことがあるんだろうか?と、つい考えてしまいます。
 それこそ死刑囚が行ったことについて考えもせずに、「死刑はよくない!」って言っている人みたいなもので。
 そんなの誰だって、死刑がいいことだなんて思っちゃいないって。
 
 僕たちのクラスが合唱コンテストで優勝したときに、僕が用事があって職員室に行くと、その「暴力教師」がニコニコしながら自分の机の上に置いたトロフィーを眺めていたのを思い出します。それは、なぜか僕にとってもすごく嬉しい光景でした。

 こばやしさんが書かれているように、子供には子供なりの打算や邪念というのがあります。
 「子供は純真」なんて言い切る人をみるたびに、「この人は、産まれたときから大人だったのか、それとも、記憶を失ってしまっているのだろうか?」と僕は疑問になってしまうのです。
 もちろん、その邪念レベルが、大人の基準からみたらカワイイものだったとしても。
 
 というわけで、僕のイメージする「いい先生」っていうのは、「子供を子供扱いしない人」なのです。
 しかし、子供って、「子供扱い」できないとものすごく付き合いづらい存在ではあるんですよね、実際のところ。
 だから、僕は「子供が苦手」なんだよなあ。


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ありがとう、スティルインラブ。 - 2003年10月19日(日)

 スティルインラブ、牝馬三冠達成!!

 僕がこの馬に惚れたのは、桜花賞のトライアルレース、チューリップ賞だった。
 このレースで、一番人気に推されたスティルは、最後の直線で前を塞がれてしまったのだ。
 なんとかコースの外側に持ち出してから、すごい伸びを見せたが時既に遅く、結局、オースミハルカの2着に終わっった。
 しかし、僕はこのレースを見て、「この馬は強い!」と確信した。
 外に出してからの圧倒的な差し脚と、なんといっても、一度狭いところに押し込められて失速してからの再加速。
 馬というのは繊細な動物だから、一度不利を受けると、そこから気持ちを切り替えてもうひと伸び、というのはなかなか難しい。まさに、この馬の勝負根性に痺れたのだ。
 (そういえば、皐月賞でネオユニヴァースが直線の内側の狭いところをこじ開けて伸びてきたのも凄かった)
 走るのが速いというだけじゃない、前の馬を抜こうとする気力。
 全盛期のナリタブライアンみたいに、普通に走れば絶対能力で他の馬をぶっちぎれるような馬ならともかく、名馬を名馬たらしめているのは、こういう勝利への意思の力が大きいと思う。

 もちろん僕は、桜花賞ではスティルを本命にした。
 スティルは、先行して直線突き放すという強い競馬で、一冠目を獲得。
 僕には、ここは確勝という自信があった。
 2着は穴馬だったのだけれど、僕は枠連を買っていたため、なんとか的中。

 そして、オークス。
 僕はスティルを信じられなかった。
 ビックバイアモンの妹、ということもあり、府中の2400mはいかにも長いだろう、という先入観を持っていたのだ。桜花賞のレースぶりも、前に行きたがっている馬に最後にゴーサインを出す、というレースだったし。
 そして、アドマイヤグルーヴの三代制覇に浮気してしまったのだ。
 
 しかし、結果はスティルの快勝。
 中段後方に控えて、長い直線でキッチリ差し切る、という強い競馬だった。
 2着は、またも人気薄のチューニー。
 一番人気のアドマイヤグルーヴは、出遅れから直線最後方になってしまい、少し差を詰めはしたものの見せ場のない7着。
 アドマイヤとチューニーの馬券を持っていた僕としては、この浮気は高くついたような気がした。

 そして、今回の秋華賞。
 トライアルで、マイペースで先行するヤマカツリリーをきっちり差し切ち勝ちという強い競馬を見せたアドマイヤグルーヴと+22キロと入れ込みで、不完全燃焼の5着に終わってしまったスティル。
 でも、僕はスティルインラブを信じることにしたのだ。

 ひとつは、「Number」のこんな記事を読んだから。

(直線前が詰まって負けたチューリップ賞の後のエピソード)

【幸「ゴールに入った瞬間、降ろされる(次のレースから、他の騎手に替えられる)ことを覚悟しました。先生(調教師)はカンカンに怒っているだろうし、できることならこのまま馬とどこかへ逃げてしまいたいって……」
 けれども、検量室の前で人馬を出迎えた松元(スティルインラブを管理する調教師)は、全然怒っていなかった。それどころか笑みさえ浮かべて、「この経験を次に生かしてくれればいいから」というのだ。すぐに電話をかけてきたオーナーも、責めの言葉を口にするかわりに「本番(桜花賞)で頑張ってくれよ」と励ましてくれたという。打ちのめされていた幸は、2人の温情に身が震えるような感激を覚えた。】

 あのレースを観ていた僕でさえ、「あ〜あ、やっちゃった…」と思うような騎乗だったのですから、乗っていた本人の落胆は大きかったでしょう。
 でも、それを温かく許してくれた周りの人々の情が、この人馬を強くしたような気がするのです。もちろん、その失敗がトライアルレースだったから、という面もあるでしょうけど、1着と2着では、一千万以上の賞金の差があるわけですから。

 そして、もうひとつは、僕の身辺に起こった出来事。
 要するに、別れるかどうか?という岐路で、がんばってみる、という選択をした直後に、僕の好きなこの馬を応援しようと思ったのです。
 それはもう、勝手な思い入れでしかないのだけれど。

 レースは、4コーナーでのやや強引とさえ思えるような幸騎手の仕掛けに応えたスティルインラブが、直線で粘るマイネサマンサをとらえ、迫るアドマイヤグルーヴ以下を振り切って、見事にメジロラモーヌ以来17年ぶりの牝馬三冠を達成しました。

 僕にとっても、ナリタブライアン以来のリアルタイムでの三冠馬、牝馬では初めてです。
 
 おめでとう、スティルインラブ。キミに会えてよかった。
 ときどき、現実に裏切られることの多さに、寂しくなることがあります。
 でも、競馬は、ごくたまにだけど、信じることの素晴らしさを教えてくれるのです。

 まあ、競馬以外のところで学べ、って気もしなくはないですけどね。



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「最高の敗者」ボストン・レッドソックスへの賛辞 - 2003年10月18日(土)

メジャーリーグのリーグチャンピオンシップで、松井秀喜選手が在籍するニューヨーク・ヤンキースが、劇的な逆転勝ちでワールドシリーズ進出を決めた。
同じ日本人である松井の活躍と彼が在籍するチームの勝利は嬉しいことなのだけれど、今日の新聞でこんな記事を見た。

【あと1歩届かなかった。エースのペドロ・マルティネスを立て、8回途中まで3点をリード。Wシリーズまであと「5アウト」まで迫りながら、夢はついえた。

 試合後、静まり返ったロッカー室。今季途中から報道陣と接触しなかったペドロ(ボストン・レッドソックスのエース、ペドロ・マルチネス)が、取り囲んだカメラの前で少しずつ重い口を開いた。「オレはチームのエース。球数なんか考えてなかった。勝つためにできる限りのことをしようとしただけだ」。1点を失い、なお8回1死一塁の場面。この時点で球数は115球。だが、マウンドに来たリトル監督に、ペドロは続投を志願した。「彼は我々にとって誰よりもマウンドにいてほしい投手なんだ」。リトル監督が下した決断は、「ペドロと心中」だった。

 だが、結果は松井、ポサダに連打を浴びて同点。息を吹き返したヤ軍の勢いは止まらなかった。延長11回裏、中2日で登板したウェークフィールドの魔球ナックルが左翼席へ消えて、すべては終わった。「調子は良かった。できるだけ長く投げるつもりだったが、不運なことが起こってしまった」。目を真っ赤にした敗戦投手は、声を震わせながら試合を振り返った。

 1918年以来、世界一から遠ざかってきた「ベーブ・ルースの呪い(のろい)」は、またも振り払えなかった。それでも、ペドロは言った。「誰かを指さしたければオレを指せばいい。点を取られたのはオレ。のろいをかけたければ、オレにかければいい。投球と決断の責任はオレにある」。球史に残る激戦には敗れた。だが、野球の妙味を示したレ軍の伝統が、色あせることはない。】

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 ヤンキースに敗れた、ボストン・レッドソックスは、ヤンキースと同じ東海岸に本拠地を置くチームで、ヤンキースとは宿命のライバルと呼ばれてきました。
 しかし、上の記事にもあるように、レッドソックスは、1918年以来ワールドシリーズ優勝はなし。
 なぜ、それが「ルースの呪い」と呼ばれているかというと、1918年当時にレッドソックスに在籍し、チームのワールドシリーズ優勝に貢献したベーブ・ルースが、1920年1月に金銭トレードでにヤンキースに放出されて以来、レッドソックスがワールドシリーズ制覇を成し遂げていないからなのです。

 ちなみに、ベーブ・ルースを獲得したあとのヤンキースは、急速に力をつけ、それまで一度のリーグ制覇もなかったのに、ルースの在籍中に7度のリーグ優勝と4度のワールドシリーズ制覇を果たしたのです。

 それにしても、ヤンキースを応援している人間にとっては「奇跡の大逆転勝ち!」だった昨日の試合は、レッドソックスファンにとっては、「悪夢の逆転負け…」だったわけですよね。
 あの試合展開では、レッドソックスファンの多くは、勝利を信じて疑わなかったでしょうし。
 上の記事でのエースのP.マルチネスやサヨナラホームランを打たれたウェークフィールドのコメントは、読んでいて痛々しい限りです。

 松井選手の存在を除けば、僕はボストンに行ったこともあるし、日本で言えば「巨人軍」のような、なりふり構わない大型補強を続ける金満球団、常勝ヤンキースよりも、レッドソックスのほうにシンパシーを感じてしまうのです。本当に、惜しかったなあ、と。

 松井選手が戦犯になることを免れたのはいいことではありましたが、今回のシリーズで、レッドソックスが見せてくれた意地を僕は記憶にとどめておきたいと思うのです。
 あなたたちは、間違いなく最高の敗者だった、と。

 よくやった、レッドソックス!!




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フジ子・へミングのピアノの「芸術としての」評価 - 2003年10月16日(木)

 ピアニストのフジ子・へミングさんの自伝がドラマ化されるということで、今朝の「めざましテレビ」で、彼女の半生が取り上げられていた。
 フジ子さんとドラマでフジ子役をやる菅野美穂との対談でフジ子さんが菅野さんに向かって、「あなたがわたしの役をやてくれて嬉しい。でも、私はあなたほど可愛くはなかったけど」と言っていたのには、ちょっと笑ってしまった。まあ、僕は若い頃の彼女の姿を見たことがないのですが。

 「シャイン」という映画を御存知だろうか?
 デビッド・ヘルフゴットという、心を病んでしまった天才ピアニストを描いた映画なのだが、この映画でも、彼は奇跡的な復活を遂げる。

 ”病を克服して”(というよりは、むしろ病と上手につきあえるようになって、なのかもしれないが)

 彼らのエピソードを知るにつれ、僕はその演奏に興味を持つのだけれど、その一方、ちょっとした疑念を抱かずにはいられない。
 「それで、フジ子さんのショパンは、そんなに素晴らしいの?」って。

 残念ながら、僕は音楽の技術的な面には全然詳しくない。
 フジ子・へミングが弾くショパンが上手いのはわかる。
 しかしながら、「じゃあ、どのくらい凄いの?」と問われたときに、うまく返事をすることができないのだ。
 たとえば、野球にあまり詳しくない人なら、近くの公園の草野球で松井とどこかの球団の2軍選手が同じユニフォームでプレーしていれば、「どっちも凄く野球が上手い人」というようにしか評価できないのではないだろうか?まあ、これはやや極端な例えかもしれないが。
 芸術というやつは、野球みたいに「結果が出る競技」よりも、基礎知識がない人にとって、「どれが凄い作品か?」を判定するのは難しいと思われる。その判断基準は、受け手の感性に委ねられているものだからだ。
 
 「だって、フジ子は、耳がほとんど聴こえなかったのに、ピアニストとして活躍してるんだよ」
 こういう先入観が無ければ、彼らの演奏はどのくらい評価されるものなのだろうか?
 もちろん、彼らは自分の身に起きたトラブルを売り物にしているわけではない。
 だが、プロモーターとしては、興行的成功のためには、そういうサイドストーリーを前面に打ち出すことだってあるはず。

 「障害を克服して」とか「不幸な家庭環境に負けずに」とか「有名な画家の30億円の絵」とか、芸術というのは、そういう先入観から逃れられない運命にあるのだろうか?

 「フジ子のショパンは素晴らしい」とか「ゴッホのひまわりに感動した」っていうんじゃなくって、「素晴らしい演奏だと思ったら、フジ子・へミングが弾いていたショパンだった」とか、「感動した絵の作者を調べたら、ゴッホだった」なんていうような感性が自分にあれば、といつも思うのです。
 しかし、現代社会では、「まず情報ありき」なので、そういう感性を育てるのは難しい。
 もちろん、物理的には、昔よりはるかにいろんなものを聴ける機会は増えているはずなのですが。

 ひょっとしたら、僕が知らないだけで、フジ子よりももっと素晴らしい演奏家だけど「ドラマ性がなくて売れない人」とか、大勢いるんじゃないかなあ。


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ドンパッチ伝説&子供は忘れてくれない - 2003年10月15日(水)

今日、車でFMを聴いていたら、昔懐かしいお菓子の話がでていた。

DJ「ほら、昔、口の中でパチパチって、爆発するお菓子があったじゃないですか、ほら!」

それを聴いた僕は、「そんなことも覚えてないの?」と内心思っていたのだが、そのあと、送られてきたリスナーのFAXに頷くDJに驚愕してしまった。
「それって、シュワシュワパンチ」ですよね。
「うん、そうそう」

えっ、それって「ドンパッチ」じゃないの??

「はじけるキャンディ、ドンパッチ」といえば、僕が小学生の頃、一世を風靡したお菓子だったのだ。海外ものらしい、その毒々しいパッケージに、袋を開けたとたんに「バチバチッ」と跳ねているキャンディの粒。

 なんだか、あからさまに「これ、食ってもだいじょうぶ?」
 と誰かに尋ねたくなるような食べ物だった。

 だって、口に入れてもバチバチ跳ねてたし。

 当時は、「ドンパッチを食べて胃が破裂して子供が死んだ!」
とか「電車の中で寝ている人の口の中にドンパッチを入れるイタズラが流行っている」とか、さまざまなドンパッチ伝説が流れていたのに。

 シュワシュワパンチ、なんて全然知らなかった、ショックだ…

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 ところで、駄菓子屋のことで、思い出したことを一緒に書いておこう。
 僕が小学校1年くらいのとき、いつも行っている駄菓子屋で、10円の綿菓子を買った。
 そのとき、ちょうど100円玉一枚しか持ってなくて、僕はそれを出したのだけど、そこの店番のおばあちゃんが、その時僕に、「100円出して10円なんて、めんどうだねえ」と言ったのだ。
 もちろん、普通にお釣りをくれたのだけど。

 僕は、その一軒以来その店に行くのがいやになり、友達に誘われたりしない限り寄り付かなくなった。

 「相手は子供だから」なんて思っちゃいけない。
 小さなことだからこそ、子供は、忘れてくれない。
 

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もし、世界が明日で終わりだとしても。 - 2003年10月14日(火)

「もし、明日で世界が終わっちゃうとしたらどうする?」

「そうだなあ…う〜ん、思いっきり美味しいものを食べる!」

確かにそれはいいアイディアだ。
でも、待ってくれ。
君が美味しいものを食べるためには、誰かがそれを作らなくちゃならない。
もちろん、レンジで温められるようなインスタント食品なら…
あっ、発電所の人も仕事なんかしてないかもしれないな。
自分で作るしかない、ってことか?

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たぶん、本当に明日が世界の終わりでも、いつもと同じように鍋を振ったり、
灯りをともし続けるために働く人たちがいる。
彼らは、最後の日に自分の料理を食べてくれる人々のために、腕を奮うはずだ。
そういう「終わりかた」を望む人は、確実に存在すると思う。
もちろん、少数派だろうけど。

実は、世界なんて明日滅びないとしても、いつもそうやって回っているのだ。
どっちが得とか損とかじゃなくてさ。


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秋の夜のながながし憂鬱<激鬱篇> - 2003年10月13日(月)

(1)書けないときには、書かない勇気だって必要だ。

(2)部屋に積み上げられている本を見ながら、自分の頭の中には、これだけの量の知識も入っていないのかと寂しくなる。

(3)夜の暗闇の本質は、たぶん、原始時代から今まで変わりない。

(4)「いいよねえ、あなたは幸せそうで」と他人に言えるくらい幸せな人間に、一度はなってみたいものだ。

(5)人生に最も必要なものは、「慣れ」なのかもしれない。

(6)ネットがあれば、意外と寂しくない。
   だが、逆にそれが問題なのかもしれない。

(7)急所を突くのが勇者じゃない、急所をワザと少しだけ外してやるのが真の勇者なんだ。

(8)ソニンの「合コン後のファミレスにて」が妙に心に突き刺さる31歳の秋。
 

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「正しいこと」の牢獄。 - 2003年10月12日(日)

「私の言うこと、何か間違ってる?」

 そう、君の言うことは、常に正しい。
 僕は休日だからといって惰眠を貪っているし、そのわりには肝心な仕事も遅々として進んでいない。
 おまけに僕はギャンブル好きで、いつも結果的には負けるとわかっている賭け事に身を委ねるし、部屋の掃除だって苦手だ。

 そう、君の僕に対する意見は、常に正しい。
 さすがに長年の付き合いだけあって、よく当たっているよ。

 最近、僕は君がいないと気がラクになるんだ。
 嬉々としてパソコンの電源を入れてネットをやったり、君が嫌いなカレーライスを大盛りで食べたりするんだ。

 そう、確かに君の言うことは正しい。
 僕はもっと勉強すべきだし、君を構ってあげるべきだ。
 偉そうにネットで匿名で能書きなんて垂れてる場合じゃないよね。

 
 でも、今日、僕は気がついたんだ。
 僕が間違っていたことに。
 確かに、君の言うことは正しい。それも完膚なきまでに。
 でもね、僕は君に聞きたいことがあるんだ。

 君は、「正しさ」の怖さを知っているかい?って。

 そりゃ、理不尽な感情論やイヤミだって勘弁してほしいさ。
 でも、それに対して僕は、「どうせ八つ当たりなんだから」と心をガードすることができる。
 でも、「正しいこと」は違うんだ。
 それは、どこまでもどこまでも追いかけてきて、僕の心に容赦なく突き刺さる。
 そして僕は、その「正しさ」で埋め尽くされた牢獄で、窒息しそうになる。
 「正しさ」に追い詰められることは、本当に辛いんだよ。
 だって、逃げ場がないんだから。
 
 僕は、どうしようもない人間だけど、これだけはわかる。
 「完璧に正しいこと」ほど、他人を傷つけるものはない。
 でも、君は僕に「正しいこと」を振りかざし続けている。

 僕は少しだけオトナになったから、正しいことがすべてを解決しないことを知っている。

 君はいつか、僕に凄く残酷なことをしていたことに、気がつくのかな? 
 



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都会暮らしの憂鬱、田舎暮らしの憂鬱。 - 2003年10月11日(土)

長年の友人が、専門学校を卒業して東京に就職するという。
彼女は、大学卒業後東京で働いていたが、資格をとるために一度地元に戻って学校に通い、そしてまた来年から、東京で働くことにしたということだ。

僕は都会暮らしの経験がないものだから、都会のよさというのはよくわからない。
ときどき九州人にとっての都会である博多の街に行ったりすると、
あまりに人が多いし、通りにはいろんなものを配る人がいて、
それを無視して歩くだけでもけっこう疲れる。
車の運転をしていると、タクシーやバスの強引さや車線変更の煩わしさに閉口する。

そんな話を友人にしていたら、友人は、こんなふうに答えた。
「そうですねえ、煩わしいことも多いし、物価も高いけど、
電車での移動は慣れれば便利だし、それに、いろんな選択肢が広いんですよね」

「選択肢、って?」

「たとえば、勤務の関係で、平日にひとりで休みになったりしますよね。
田舎では、女ひとりで平日にできることって、買い物とか家事くらいしかないでしょう?でも、東京だと、単館ものの映画を観に行ったり、名画座で旧い映画をひとりで観てもいいし、展覧会に行ってもいい。お昼ごはんに女ひとりでそのへんの店に入っても、全然違和感がないんですよね。」

 映画館やレストランなら、田舎にだってある。
 でも、確かに、そこに女の子がひとりでいることには、やっぱり違和感を感じてしまうのだ。そこに、人々はなんらかの「理由」を求めてしまう。

 東京というのは、選択肢が広い街だと、この間研究会で行ったときに思った。
 さまざまなコンサート、演劇、展覧会や個性的な店。
 電車の中吊り広告を見ているだけでも、そんな気がしてくる。

 でも、そういう物理的な面だけじゃなくて、精神的にも、選択肢の広さの要因があるのだろう。

 そういうふうに考えると、都会人=孤独、というような考え方って、偏見だなあと思う。隣近所の評判に縛られる田舎暮らしにだって、いやなことはたくさんある。
 「うちは代々家老をしておりまして…」

 それで、いったい僕に何をどうしろというのか?
 田舎は、テレビ局のクルーには優しいが、余所者には冷たい。

 結局、孤独も自由も、どこにでもあるものなのかもしれないし、どこにもないものなのかもしれない。
 僕のような転勤族の子供で、今も転勤ばかりしている人間にとっては、なんとなく、どこに行っても自分がはみ出してしまったような気がするだけで。

 田舎をバカにする都会人も、都会を敬遠する田舎者も根は同じ。
 一見自分の環境にプライドを持っているようで、実は自信が持てない。
 せめて自慢でもしないと、やってられないのだ。
 
 そういうのって、威張ってばかりいる医者みたいだな、とふと思った。

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「あなたにとって、個人サイトとは何ですか?」 - 2003年10月10日(金)

「あなたにとって、宇宙とはなんですか?」

一昨日の夜観ていたテレビ番組の最後に、インタビュアーは尋ねた。
尋ねた相手は、宇宙への夢を追って、NASAで働き続け、アポロ11号の月面着陸に唯一スタッフとして関わった経歴を持つ日本人。

 もちろん、この科学者は、この質問に対して宇宙への想いを真摯に語っていたのだけど。

 この手の「あなたにとって、○○とは何ですか?」という質問が流行り始めたのは、いつごろからなのだろうか?
 たぶん、最初に誰かがこの質問形式を思いついたときは、すごく斬新な発想だったのだと思われる。
 それまでのインタビューというのは、「おそらく読者(あるいは視聴者)がこの人に聞きたいであろうこと」をインタビュアーが考えて、それを相手から聞き出す、というのが通常のインタビュー形式だったから(今でも基本はそうなのだけれど)。
 でも、最近の風潮だと、この「あなたにとって、○○とは何ですか?」という質問は、「ここからは、フリートークなので、面白いこと言ってね!」というようにしか僕には思えない。
 以前、明石屋さんまが、番組の台本に「(ここから10分、さんまのフリートーク、会場と楽しいおしゃべり)としか書いてないことがあった」ということをボヤいていたが、彼のようなトークの達人ならともかく、普通の人間に面白いことがいきなり言えるわけがないではないか。

 というわけで「あなたにとって…」という質問が出るたびに、僕はインタビュアーの怠慢を感じてしまい、思わずチャンネルを変えたくなるのだ。
 それは、プロの仕事じゃないだろう?って。

 僕も「あなたにとって、個人サイトとは何ですか?」という質問をされることがある(ごくたまにですけど)。
 たしかに、積極的にリアルでのコミュニケーションを求めているわけでもないし、何かを声高に主張しているわけでもない。広告でお金が儲かるわけでもない。
 でもね、僕にとっては、「積極的にコミュニケーションをとらなくてもいい」とか「何も声高に主張しなくてもいい」し「別にお金を儲けるためにあくせくしなくていい」というのが、個人サイトの良いところなんですよ。
 そう言っても、100%の人が理解してくれるわけもないんだけどさ。

 僕の価値観を誰かに強要しようとは思わないし、誰かの価値観をそのまま受け入れようとも思わない。
 僕にとって、サイトというものは、「ただ、そこにあるもの」でしかないのです。
 そこから派生してくるものは、単なるオマケ。

 というわけで、僕はあらためて問うてみたい。
 
 「あなたはどういう意図で、『あなたにとってサイトとは何ですか?』とか聞くのですか?」って。
 
 そういうふうに手抜きをしているにもかかわらず、自分は気のきいた質問をしている、と思い込んでいる人というのは、けっこう多いような気がします。


<蛇足>
 そうそう、昔、中島らも氏が、こういう手抜き質問に対する必勝法を編み出していた。
 それは「人生固め」というのだが、用法は次の通り。

 Q「彼女に振られちゃったけど、どうすればいいかな?」
 A「それが人生だよ」

 Q「あなたは、どうしてサイトをやっているのですか?」
 A「それが人生だからです」

 ちなみに、「青春固め」というのもあるそうです。

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憂鬱からひとつかみ<テレビ雑感篇(2)> - 2003年10月08日(水)

(1)原さんと星野さん

 甲子園での原監督の最終戦のあと、星野さんは自ら花束を渡して、原監督をねぎらった、という美談。
 うーん、僕が原さんなら、こんなことされたら悔しくて眠れないと思うよ。だって、今シーズン自分を負かした相手なんだから。
 「憐れまれてる」って感じだよなあ。原さん、それでいいの?
 そんなパフォーマンスやらなくても試合前に一言「おつかれさん」っていえば済む話じゃないのかなあ、
 僕は、星野さんのこういう半無意識的な「戦略性」が苦手です。
 ま、親友だからといって、あんなに酷い目に合わされてる星野監督や田淵コーチとシーズン中に遠征先で飯食ってるらしい某山本浩二なんて恥知らずな人もいますけどね。


(2)シュワ氏、カリフォルニア州知事当選

 昔、「名前が長い」とかいって、ハリウッドでバカにされていたそうです。
 しかし、この人の映画って、良く考えてみれば「コナン・ザ・グレート」と「ターミネーター」くらいしかないのでは。
 まあ、多くの有名俳優も、そんなに代表作がたくさんあるわけじゃないけれど。


(3)F1日本グランプリ今度の日曜日開催

 楽しみにしていると、Yahooのトップに結果が書いてあるのが偶然目に入ってしまうトラップ。逃れたつもりで、「テキスト庵」とかのタイトルで見せられてしまうダブルトラップ。


(4)深田恭子さん

 どうしてずっとドラマに出続けているのかよくわからない。
 それは内山理名さんもそうなのですが。
 ひょっとして、20歳くらいの女優さんって、層がうすいのかな…


(5)秦の始皇帝

 って、けっこう凄い。
 国を統一したこともだが、文字や度量衡(重さや長さの基準)を統一するという発想がすごい。
 まあ、実際に恩恵を受けたのは、秦の後を受けた漢だったりするわけだが。


(6)恋文

 きっと、もうすぐこの言葉も死語になる。
 →LOVEメール、なんて勘弁して欲しいなあ。


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”Magicians of The Century” - 2003年10月07日(火)

 今回は、何はともあれ、こちらのサイト「しんつま日記 in ベイエリア(10/6)」を先にごらんください。

 シークフリート&ロイ(SIEGFRIED & ROY, シークフリートなのか、ジークフリートなのか、いつも迷います)という2人組のマジシャン(というより、イリュージョニストと言ったほうが良いのかもしれません)を御存知でしょうか?
 彼らはたぶん、世界中で最も有名なマジシャンのうちの1組で、13年間もラスベガスを代表する巨大ホテルのひとつ「ミラージュ」で、週6回のマジックショーを続けてきました。
 日本円で1回1万円を超える価格でありながら、そのチケットは、シルク・ドゥ・ソレイユ(日本では、今「キダム」を公演中)の「O(オー)」が始まるまでは、長年「ラスベガスで最もチケットが取りにくいショー」として君臨しており、今なお非常に人気が高いショーなのです。

 でも、たぶん一部の好事家を除く多くの日本人にとって、「シークフリード&ロイ」は、あまりメジャーな存在ではないと思います。
 僕も、つい最近まで、ラスベガスに有名なマジックショーがある、というくらいの認識しか持っていませんでしたから。
 
 先日(約1ヶ月前)ラスベガスに旅行した際に、僕は彼らのショーを観る機会がありました。
 率直に言うと、彼らのことをよく知っていたわけではなくて、「ラスベガスで人気のショーだから」という理由で観に行ったのです。
 そこで、彼らはアメリカの人々に本当に愛されているんだな、と僕は感じたのです。
 僕のようなひねくれた人間は、彼らのすごいマジック(象が消えたり、ホワイトタイガーを入れた箱から人が出てきたり、とにかくスケールが大きい)を見て、まず「どんなトリックなんだろう?」と考えます。
 でも、多くのアメリカ人は「象が消えるなんてすげー!(歓声・拍手)、ところで、あれって、どういう仕掛けなんだろう?」というようなリアクションをとっているのを感じました。
 そういう、ものの考え方の違いみたいなのも、マジックとともに刺激的だったことを覚えています。

 今回、ステージ上でロイに起きたアクシデントは、本当に悲劇的なものでした。
 ホワイトタイガーは彼らの代名詞であり、彼らに大きな成功をもたらした友人だったのに。
 実際のステージでも、ホワイトタイガーが登場すると、観客の反応は明らかに他の場面より大きかったですし。
 そして、シークフリート&ロイは、絶滅に瀕するホワイトタイガーの保護のために、これまで莫大な援助を続けてきたのです。
 ステージ上で、たくさんのタイガーたちとともに「自然保護の大切さ」を訴える2人。
 ただ、そのとき僕は内心「タイガーの前に、イラク人をなんとかしてやれよ…」とか思っていたことも告白しておきます。

 今回のアクシデントで「飼い虎に頚を咬まれるなんて…」と悪趣味な言葉も一瞬僕の頭をよぎったのですが、上のリンク先で読んだロイの言葉で、僕はなんだか涙が出そうになりました。
 彼らがステージの上で言った、「僕たちのマジックなんて、ほんのささいなもの。"Nature"と”Life”こそ、本当のマジックなんだよ」という言葉を思い出して。

 たとえば、事故にあった人や事件に巻き込まれた人などは、「ああ、あの飛行機事故で亡くなった方ですね」というように語られてしまうことが多いですよね。
 でも、僕はそれはすごく悲しいことだと思います。

 もし僕が不慮の事故で死ぬことがあったら(念のために言っておきますが、僕はロイが死ぬなんて思っていませんので)、僕のことを知っている人には、「事故で死んだこと」よりも、「生きている間に一緒に過ごした楽しい記憶」を覚えていてもらいたい。
 だから僕は「シークフリート&ロイ」のショーを「ロイがタイガーに咬まれたショー」ではなくて、「13年間も世界中の人々を楽しませ続けている、偉大なショー」として記憶していたいと思うのです。
 一度でも、その場に居合わせた人間の特権として。

 今回のアクシデントで、ラスベガスの顔であった「シークフリート&ロイ」(ラスベガスの街に行くと、これでもかというくらい、彼らの顔があちこちで見られます、本当に)は、終演になってしまう可能性が高いそうです。
 ロイの容態も、けっして楽観できるものではないそうですし。

 でもね、僕は彼らがまた、ステージに立つ日が来る予感がするのです。

 そう、彼らは、たくさんの奇跡を起こしてきた
”Magicians of The Century”なのですから。
 

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「窪塚発言は意味不明」だと思いますか? - 2003年10月06日(月)

それにしても、最近の窪塚バッシングは凄い。
「記者が蹴られた」とかいうマスコミは、まさに目の敵にしてるし。

【4日にも、パパになった喜びについて「ピースな愛のバイブスでポジティブな感じでお願いします」と意味不明の発言をしていた。】

という件を今日の記事で読んだのだけれど、僕は別にこれって「意味不明」だとは思わないのだけれど。
いや、どうしてこんな言いまわしなんだろう?とは思うけど、言いたいことは「すごく嬉しくて、愛情いっぱいの気持ち」ということなんじゃないのかなあ。
たぶん、そんなに外れてないと思う。

確かに、最近の窪塚洋介はヘンだ。
ある意味イっちゃってるところもある。
だからといって、子供が産まれて喜んでいるところに、こんなふうに「変人報道」されることもないんじゃないかなあ。

記者が蹴られた伏線には、奥さんが通院していた病院で、他の通院者にいろいろ聞いて回ったりしていたかららしいし。
そりゃ、そんなことされたら、肩身も狭くなるってものですよね。
だいたい、通院の様子なんて、いちいち取材する必要があるの?
病院に行っている人たちだって、そんな場所で声とかかけられたくないだろうに。

「窪塚語録」っていうのは、今の若い人には、それなりに理解できるものだと僕は思うし、別にわかりやすい内容である必要もないのだ。彼個人の感情を表す言葉なんだから、別にいいんじゃない?

 僕は別に窪塚ファンではないけど、最近の彼への興味本位の報道は、ちょっとひどすぎるような気がする。


 ところで、マスコミは、「意味不明な窪塚語」とか言いながら、「マニフェスト」とかいう言葉を多発しているのだけれど、これについて、彼らは「国民は、『マニフェスト』くらいの単語は覚えていて当然だ」と思っているのだろうか?
 少なくとも、僕は管さんがこの言葉をわざわざ濫発する理由がわからないし、「カッコつけてる」だけのような気がしてならない。日本の政党なんだから、わかりやすい日本語訳をつければいいのに、と思えて仕方がないのだ。
 その時点で、「理解してもらう努力」を放棄しているんじゃないかなあ。

 本当は、日本人の多くの人々にとって、「窪塚語」より「永田町用語」のほうが「意味不明」であるということを彼らは考えたことがあるのだろうか?
 国会の答弁を聞いていると、薄い内容を小難しい言い回しで喋って、堂々巡りしているだけなのに。

 まあ、政治面と芸能面とでは、担当部署が違うから仕方ないのかもしれないけど。 

 僕は、小泉人気の原点は、「小泉さんは、日本語を喋っている」と多くの国民が認知しているところにあると思うのだ。
 政治手法云々はわからなくても、あの人の言葉はすくなくとも大部分の日本人にとって「何を喋っているか」理解はできる。

 政治家もメディアも、「どうせみんなわかってないんだから」と思っているかもしれないけど、少なくとも、みんなわかってるよ、「あなたたちが、わからせるための努力を最初から放棄している」ってことくらいはね。


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本当はあまり覚えていない「世界名作劇場」の話 - 2003年10月05日(日)

 今、セブンイレブンで「世界名作劇場」の絵皿プレゼントをやっているのを御存知の方も多いのではないだろうか?
10月は、「いよいよ最終回!」ってことで、「フランダースの犬」なんだけど、この2種類の絵皿、とくにネロとパトラッシュのツーショットの絵皿をセブンイレブンのレジで見かけるたびに、僕は涙が溢れてきそうになって、思わず眼をそらしてしまうのだ。

僕にとっては、まさに子供時代に観て感動した(というか、「フランダースの犬」なんてのは、むしろその終わりのあまりの悲惨さに腹が立ったのだが。あの話に教育的な面があるとしたら、「正直者はバカを見る」ということを子供に理解させること以外の何者でもないと思う)作品たちだ。
いやほんと、忘れられないよなあ…

というような話を年下の彼女にしていたら、「じゃあ、『あらいぐまラスカル』って、どんな話だったの?」と問われた。
僕が、「そうだねえ…あらいぐまのラスカルがスターリングという少年に拾われて、角砂糖を洗って溶かしちゃって、そして少年とラスカルは悲しい別れをするんだよ」と答えたら、「何それ?」と言われてショックを受けた。こうして文字にしてみると、確かに「何これ?」としか言いようが無い。でも、それ以上のことは、困ったことに思い出せないんだよなあ…
だいたい、主人公の少年はスターリンだったかな…とか悩んでしまったのだが、なんかスターリンだと粛清されそうだし。

ちなみに、「アルプスの少女ハイジ」は、「ハイジとペーターが出てきて、『白いパンを!』で眠そうな老犬が出てきて、ロッテンマイヤーさんにいじめられつつも、クララが立つ話」だ。

では、「フランダースの犬」はというと、貧乏なおじいちゃんとネロといつも重そうな牛乳を運ばされているパトラッシュとお金持ちの娘アロアが出てきて、ネロは時に利あらず、おじいちゃんも死に、家も追い出され、アロアのお父さんのお金を拾ったものの正直に届けたおかげで教会でパトラッシュと一緒に死んでしまうが、最後に風で憧れのルーベンスの絵が見られる」という話だったと思う。
書いていてまた腹が立ってきた。ほんとにあのルーベンスの絵なんて、死にそうなんだから自力でカーテンめくればいいのに、なんて。

まあ、要するに、「アノ感動の名作」なんていう作品も、実はそんなにしっかり記憶しているわけじゃなくて、覚えているのはごく一部のシーンだけ、ということなんです。
人間の記憶なんて、所詮そんなもの、なんだよなあ。

しかし、「フランダースの犬」って、ほんとに「教育的」じゃない話ですよね。
子供にはトラウマになりそう。


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if〜もしあなたのサイトが超人気ニュースサイトに取り上げられたら? - 2003年10月04日(土)

(♪オープニングテーマ)

 あなたは、1日のアクセス数が200前後のテキストサイト管理人です。
 サイトをはじめて約1年。ようやく、サイト運営にも慣れてきました。
 しかし、それはある意味マンネリの日々。
 毎日サイトを更新していても、アクセス数は頭打ち、「アクセスアップ指南サイト」を読んでも、ほとんどやりつくしたことばかり。
 「自分のサイトを宣伝したい人」ばかりで、「面白いサイトを探したい人」はほとんど誰も読んでいないメールマガジンだけが受信トレイにたまっていきます。

 そんなある日のこと…

 ???
 朝6時に目を覚まして、何気なくつけっぱなで寝てしまったパソコンで、自分のサイトをチェックすると、カウンターの数字がちょっとヘン。
 「3500?昨日寝る前より、えらく増えてるような気がするな」
 不審に思ったあなたは、すぐにアクセス解析を見に行きます。
 するとそこには…

 「http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/」から、300人も来てる。
 このアドレスって、ひょっとして…

 そう、そのアドレスは、かの有名な超人気ニュースサイト「「かとゆー家断絶」だったのです。
 あなたは、驚きつつもリンク先を確認しに行きます。
 するとそこには、あなたが4日前に書いたテキストが、リンクされているではありませんか!!

(注1:僕が書いたのは、上から71番目トピックでした。ひとつ上のトピックは「カエル解剖キット」ひとつ下のトピックは、「クジラが減れば、アザラシも減る」というもの。特別大きく取り扱われていたわけではありません)

 まさか、俺のテキストが、あの「かとゆー家断絶」にリンクされているなんて…
 あなたは驚きつつも、自分のサイトをリロードしてみます。
 すると、カウンターの数字が、一挙に増加しているではありませんか!
 好奇心を抑えられずに、一度深呼吸をしてから再度(10秒くらいの間隔で)リロードすると、カウンターの数字は、もう20くらい上がっているのです。
 「す、すごい…『侍魂』になったような気分だ…」
 あなたは、驚愕しつつも出勤するのです。今後のアクセスアップに胸躍らせつつ…

(注2・ちなみに、「かとゆー家断絶」さんにとりあげていただいたのは、おそらく「憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチ」さん経由だと思われます。いくらなんでも、僕のサイトくらいの規模のところを直接チェックされているわけではないでしょうし、「かとゆー家断絶」さんの前に取り上げてくださったサイトは、僕の知る限り素光さんのところだけなので)

 12時になりました。
 サイトのことが気になってしかたがないあなたは、昼の休憩時間になるやいなや、同僚の目を盗んで、自分のサイトにアクセスします。

 12:00の時点でのカウンター:5500

 「朝から、5時間で2000アクセスだって?」

 もう腰を抜かさんばかりです。
 内訳は、「かよゆー家断絶」のTOPとミラーサイトから、約1500アクセス!
 この解析のカウント数って、千の位まであるんだなあ…
 あなたは、妙なところに感心してみたりするのです。

 そして、アクセス解析をみると、また新しい事実をあなたは発見します。
 「あっ、なんだか見たことがないサイトから、たくさんのアクセスが…」
 そしてあなたは、それらのサイトを見に行くのです。
 すろとそこには、「参照元・『かとゆー家断絶』)ということで、あなたの書いたテキストがリンクされています。
 しかも、10以上のサイトから。

(注3・大きなニュースサイトからリンクされるというのは、それと同時に、「その超人気ニュースサイトを情報源にしている他のニュースサイトからもリンクされる可能性がある」ということのようです。そして、それらのサイトの中にも、100アクセス以上、訪問者を連れてきてくれたサイトもありました。)

 1時間の休憩終了直前の13時に、あなたは、もう一度カウンターを見ます。

 13:00の時点でのカウンター:5751

 ちょうど昼休みの時間帯とはいえ、日中の1時間で、約251もカウンターが回っていることに、さらに驚くあなたなのでした。

 さらに時間は流れていきます。
 仕事が一段落ついたあなたが、再度自分のサイトを確認しに行くと、

 19:00の時点でのカウンター:7170

 6時間で、約1400アクセス。相変わらず、200/時間のアクセスです。

 21:00の時点では、7638

 24:00の時点では、8592

 (この間に、「かとゆー家断絶」更新)

 翌2:00の時点では、8721
 
 翌11時の時点では、9400

 そして、この時間あたり200アクセスのペースは、「かとゆー家断絶」が更新されるまで続き、結局、約5000人が、1日であなたのサイトにやってきたのでした(そのうち「かとゆー家断絶が約3800)。
 ちなみに、「かとゆー家断然」が更新されてしまったあとは、アクセス数は激減してしまいます。
 そりゃ、昨日の新聞を読みたい人は少ないでしょうし。
 それでも、日頃のあなたのサイトのアクセス数からいえば、驚くべき数なのですが。

 こうして、嵐の1日は終わりました。
 まさに、宝くじに当たったような1日だったのです。

 では、このモンスター・アクセスは、あなたに何をもたらしたのでしょうか?
 賞賛のメールや叩きメールが来てないだろうか、と心配になりつつも、あなたはメールをチェックします。

 しかし…
 何もありません。そう、褒められもしなければ、叩かれもしません。
 (注4・ついでに、リンク先のメインサイトに来てくれる人もそんなに多くはなかったです)
 新聞の記事を読んでも、いちいち編集部に投書しようという人が少ないのと同様に、カウンターの数字が驚異的に増加した以外には、あっけないくらい反応はないのです。
 アンテナ登録数が増えるわけでもなければ、「エンピツ」の投票数が激増するわけでもありません。BBSの書き込みが増えるわけでもありません。
 むしろ、そのノーリアクションっぷりは、薄気味悪いくらい。
 
 もちろん、長い目でみれば、ブックマークしてくれたり、再来してくれる人もいるのではないかと思いますが(願望込み)。

 というわけで、今回の「if〜もしもあなたのサイトが超人気ニュースサイトに取り上げられたら〜」を終わります。CMの後で、おまけがあるよ!

(CM)

(注5・正直なところ、他人が書いたものを「と学会」の人たちが引用し、さらに僕がそれを引用した話なので、かなり気恥ずかしいです。
 他人の褌で相撲をとった力士の褌をさらに借りて相撲をとったような感じ)

 「かとゆー家断絶」さま、ネタにしちゃってすみませんでした。


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ひとりでできるもん(2)。 - 2003年10月03日(金)

 昨日は、「ひとりでできること、できないこと」について書いたのだが、ひとりできる、できないが明確に分かれる代表格が「ひとり旅」だろう。
 そういえば、僕はあまりひとり旅の経験がない(仕事関係の出張は除く)。

 もともと出不精なので、誰かと一緒に行く旅行ですら、出発前日には「家でゴロゴロしてたほうが良かったかなあ…」なんて思い悩む性質だし、やっぱり、旅先でトラブルでもあったら面倒くさい、という気持ちもある。
 それでいて、帰ってきたら、いくぶんかのリップサービスも含めて、周囲の人に旅行自慢をしてみたりもするのだが。

 しかし、そんな僕でも、大学時代に一度だけ「ひとり旅」をしてみたことがある。
 まあ、バックパッカーなどに言わせれば、「そんなの旅じゃない」かもしれないけどね。

 行き先は北陸。石川県(というか金沢)と福井。
 しかし、ひとりで特急の座席に座っていると、妙に隣の人が気になる。
 正確には、「隣の人が自分をどう見ているか」が気になってくるのだ。
 これが、誰かと一緒だと、視点は基本的に一緒に旅してる人たち中心になる。
 
 金沢に着いて、兼六園を巡っていると、外国人の人などに声をかけられた。
 やたらと、「写真を撮ってくれ」と頼まれるのだ。
 
 ひとりでホテルの近くの定食屋に入ってみたりもした。
 さして美味しくもないラーメンとチャーハンだったが、妙に大人の味がした。
 地元の人が、カウンターの奥のほうで野球を観ながら酒を呑んでいた。

 翌日は東尋坊に行ったのだが、ここでは、自殺志願者に見られていないか、なんだか視線がやたらと気になった。自殺の名所らしいし。

 そして、閉館時間間際の水族館に入ったのだが、「魚に見られている感じ」というのをものすごく味わった。
 併設されていた動物園の檻の中を掃除していた飼育係の女の子は、僕に向かって微笑んでくれたような気がして、ちょっとドキッとした。
 本当にただ、それだけのことだったのだけれど。
 ひとりで旅行すると、他人の顔がよく見える。

 ひとりで旅をすると、自分が見えるというか、自分を客観視できるような気がする。それに自分の都合でスケジュールを動かせるというのは、開き直ってしまえばけっこう気楽なものなのだ。
 ひとりたびの魅力が、なんとなくわかったような気がした。

 とはいえ、それ以降、僕はひとり旅には出ていない。
 結局、面倒だから、というのが先に立ってしまうのだ。
 やってみたら、意外とラクだし、すごく自由になった気がする。

 というわけで、一度だけでもひとりで旅行してみてよかったと思う。
 やればできる、という妙な自信にもなったし。

 ただ、旅の記憶を誰かと共有できないというのは、旅先での寂しさ以上の問題なのかもしれないけれど。




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ひとりでできるもん。 - 2003年10月02日(木)

「今週のスプリンターズS、馬券一緒に買いにいきましょう」
そう言われて、ちょっと困惑してしまった。
率直に言えば、「どうやって断ろうか」と考えていたのだけれど。

世間には、何でも他人と一緒にやりたがる人というのがいるものだ。
まあ、中学生の頃の「連れション体験」なんてのは、おそらく大部分の人が持っているのではないだろうか。
あれも今から考えたら「愚の骨頂」という感じのものなのだが、まあ、当時はそれなりに意味があったものなんだろうな、きっと。
とりあえず、恥ずかしい場面を共有することによる連帯感、みたいなものはできるのかもしれない。

僕は基本的に、馴れ馴れしくするのもされるのも苦手だ。
とはいっても、別に僕自身は独立心旺盛で、「そんなこともひとりでできないのか?」とリュックひとつで世界を放浪するような人間なのではなく、正確には、「他人に馴れ馴れしくされたときに、その馴れ馴れしい態度になんとか馴れ馴れしく応えようとしてしまう自分がイヤ」なのだ。ただでさえ気を遣った上に、自己嫌悪に陥るなんて割に合わない。
 だから、女の子がとなりに座るクラブなんてのは苦手。
 隣の席の女の子に、「この子、僕なんかについて退屈じゃないかな?」とか考え込んでしまう。どっちがホステスなのか、よくわからない。
 もちろん、そのあたりの機微をうまく察知してくれる女の子だっているわけだけど、それでも、対費用効果を考えると、ゲームでも買ったほうがいいや、という結論になってしまう。

僕は、基本的にギャンブルはひとりでやるものだと思う。
大人数で行くほど勝てなくなるし。

仮に、僕と彼女がパチンコに行ったとしよう。
勝率はそれぞれ50%(まあ、わかりやすくするために)。
それで、結果はどうなるかというと、
(この場合、便宜的に「トントンの収支」という状況は考えないことにする)

(1)2人とも勝ち〜25%
(2)どちらか一方が負け、一方が勝ち〜50%
(3)2人とも負け〜25%

の3パターンが、結果としてありえる状況だろう。
(1)は文句なしの勝ち、(3)は文句なしの負けだ。
これに異存がある人は少ないだろうと思う。

問題は、50%の確率で起こりうる(2)の状況だ。
こういうところに、人間の考え方の方向性というのは顕れる。

要するに、自分が勝てば彼女が負けてもいいやと思う人、自分が負けても彼女だけでも勝てばいいやと思う人、そして、自分が負けるのはもちろんイヤだし、彼女だけ負けても彼女に気を遣うからイヤだ、と思う人に分かれるのだ。

僕はもちろん最後のパターンなので、1人で行くと勝率50%でも、2人で行けば実質勝率は25%に低下することになる。
もちろん、自分が10万勝ち(現在のパチンコで、短時間軽く打つ程度でこんなに出ることはまずありえないが、ものの例えとして)で、彼女が1万円負けとかなら、「勝ち」にしてしまってもいいのだけれど。
それに、誰かと一緒にいると、負けて不機嫌でも、新聞をゴミ箱に投げつけたりできなくなるのでストレスが蓄積するし。

というわけで、僕は誰かとギャンブルに行くのは苦手だ。
馬券を買うときに、「そろそろ帰ろうか」なんて、急かされるのもイヤだし、急かすのもイヤ。
僕が競馬場好きなのは、適度に考え事をしながらボーっとできる場所だからなのです。

しかし、よく考えてみたら、深津絵里が「競馬、行こうよ」と僕に言ってくれたら、「行く!」と即答するだろうから、単純に「誘ってくれた相手が苦手」ということに尽きるのかもしれないなあ、協調性なくてゴメン。

まあ、基本的にギャンブルは1人でやるものだ。
もちろん、最初は誰でもひとりでは行きにくいから、誰かに連れてってもらうのは構わないけれど、その場合は「損して当然」という意識で行かないとダメです。
そして、本当に競馬が好きかどうかは、「ひとりで行けるか?」という点に尽きるのではないか、という気もするなあ。

ところで、「ひとりでも行ける場所と行けない場所」といえば、僕の友人(男)に以前、「男ひとりでファミレスにはよく行くけど、近所のラーメン屋には入れない」という話を聞いて驚いたことがある(彼は、別にラーメンが嫌いなわけじゃない)。
「小さなラーメン屋は、雰囲気が殺伐としていて入りにくい」と、彼は言うのだけれど、僕のイメージとしては、男1人でファミレスのほうが、よっぽど入りにくいと思うのだけれど。

考えてみれば、店の雰囲気の明るさや空間の広さ、メニューの豊富さは、ファミレスのほうが勝っているような気がする。

でも、グループで来ている人が大多数の空間にひとりでいる気恥ずかしさ、みたいなのが僕の自意識にとっては辛いのですよね。


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