マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

5つの憂鬱のカケラたち。 - 2003年09月28日(日)

<ひとつめの憂鬱>

 最近君からのメールが来ない。
 たぶん、君も僕からのメールが来ない、と思っているんだろう。
 きっと、そうだと思う。
 でも、そう思って悩む前に、僕は一通のメールを送ってみるべきなのだ。 たとえ、「うざい」と思われていたとしても。

 そんなことを考えているうちに今日は終わってしまう。
 そして、悩みぬいた僕がようやくメールを送ったときには、君にとって僕は「うざい」存在になってしまっているのだ。


<ふたつめの憂鬱>

 法律は弱いものの味方だ、と考える人は、法律を作る人がどんな人たちなのかを考えてみるといい。


<みっつめの憂鬱>

 美味しいものを食べるのも、好きな野球チームを応援するのも、みんな逃避に過ぎない。
 では、逃避じゃないものは何か?と言われると、よくわからない。
 生きるというのは、逃げ回っているようなものなのかな、と思うこともある。


<よっつめの憂鬱>

 原監督の辞任について思うのは、僕たちが「才能」とか「能力」だと思っているものは、けっこう環境と偶然の影響を受けているということだ。
 江戸時代にイチローが生まれていても、メジャーリーガーになれるわけもないし、トンガにブーニンが生まれていたら、ピアニストにはなれなかっただろう。
 だからといって、全部環境のせいにして何もしない、という選択肢は虚しい気もしてしまうのだ。
 それで頑張った結果、原爆をつくって仕舞う可能性もあるわけで。


<いつつめの憂鬱>

 「他人の悪口を書くのは好きじゃない」と書いた時点で、結局、「他人の悪口を書いている人」の悪口を書いているのだということに気がついた。


 



 
 


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「結婚」そのものは、善でも悪でもないのに。 - 2003年09月27日(土)

 弟が結婚する。
 そんな話をしていたら、車の中で、彼女がこんなことを教えてくれた。
 彼女の中学校の担任の先生(女性)は、それまでヒステリックだったのが、離婚したあと、急に優しくて穏やかになったそうだ。
 もちろんそのクラスの生徒たちは離婚したという事実を知っていたけれど、他のクラスの生徒が、その先生の苗字が変わったので「結婚されたんですか?」と先生に聞いてきたときには、ちょっと緊張感が走ったそうだが。

 また、何度もお見合いしてようやく結婚した男の先生は、結婚したあと急にいつもニコニコしているようになったらしいし、逆に、それまで優しくて明朗快活な先生が、結婚してからいつもイライラした感じになったこともあるという。

 よくアンケートで、「結婚の意味」みたいなものが問われているが、そんな話を聞いて考えると、「結婚」とか「離婚」とかいうシステムそのものが「良い」とか「悪い」ものではなくて、きっと「良い結婚」もあれば、「悪い結婚」もあるのだろう。
 もちろん、それは一色に染められるものではなくて、どんな結婚にも「良い面」と「悪い面」があって、どちらが色濃いか、ということなのだ。
 だから、「結婚」が「良い」か「悪い」かなんていう抽象的な質問には、実はあまり意味がない。
 「結婚したいですか?」という質問にも「いい(面が多い)結婚であればしたいし、悪い(面が多い)結婚であればしたくない」というのが大部分の人の考えではないだろうか?

 そう考えると、僕たちは、あまり意味のない善悪の判断をさせられる機会がけっこうあるような気がする。
 「結婚」そのものは善でも悪でもない。
 でも、「いい結婚」もあれば「悪い結婚」もありうる。

 もちろん、これは「結婚」についての話だけではない。

 たぶん、この世界を構成するものの大部分は、「良くもなれば、悪くもなりうるもの」なのだ。

 


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鈴木あみ再生計画! - 2003年09月25日(木)

 鈴木あみ活動再開!
 このニュースに、胸を躍らせたファンも多いだろう。
 って、多くない、かな…

 一般的に、芸能人、とくに歌手の旬というのは短い。
 いわゆる「アイドル系」ならなおさらだ。
もともと鈴木あみ自体も、初期の頃はともかく、干される直前などは「どう考えても歌いこなせていない」ようなラップ調の歌や高すぎるキーの曲をあてがわれて、リストラ寸前みたいな感じだった。
とはいえ、21歳になって、「ラ〜ブアイラ〜ンド」でもないだろうし。
というか、「干される」前に実質「終わって」いたのかもしれない。

 若くしてデビューした歌手は、だいたい恋愛の歌を歌うことになる(まあ、それ以前に、いわゆる歌謡曲の大部分が恋愛の歌なのだが)。
しかし、アイドルにとっての恋愛の歌の旬というのは短くて、実質的には「結婚するまで」ということになるだろう(だいたい、それ以前に売れなくなるけど)。
 結婚するまでは「王道ポップス」で、結婚してからは「恋愛要素薄めのポップス」、離婚したら「子供のことを歌った曲」なんて、しぶとく生き延びる松田聖子のような人は、ほとんどいない。
浜崎あゆみが50歳になって歌っている姿なんて、ちょっと想像しにくいよなあ。
でも、そういえば大先輩にユーミンがいるから、あんな感じでならいけるのかも…

 鈴木あみが「復活」しても、たぶん売れようがない、と思う。
彼女のごく一部のコアなファン以外は、みんな他のアーティストに気が移ってしまっているだろうし、昔のファンは、まだ「懐かしい!」と思うほど年をとってはいない。中学生が「抱いて」とか歌っているこの御時世に、21歳というのは、中途半端な年齢なのだ。

 今回干された原因には、浜崎あゆみとの収入格差を不満としたあみの親が所属CD会社を訴えた、ということがあるらしいのだが、実際、作詞・作曲が自分名義の浜崎あゆみとでは、格差がつくのは当たり前(売り上げそのものもだいぶあったし)という気もしなくはない。

 ただ、今回の一件で、芸能界というのは、古典的な「干す」という方法が、まだ十分に効果的な社会だということは、はっきりしたけれど。

 しかしながら、鈴木あみサイドの「不当な扱いを受けている」という主張と世間一般の「あんなに稼いでたのに」というギャップを当事者は認識していないというのは、なんだか痛々しい感じです。

 というわけで、浜崎あゆみがユーミンなら、いっそのこと、中島みゆきを目指して「うらみます」とか「ひとり上手」とかカヴァーしたらいいんじゃないかなあ、などと思うのですが。ちょっとシャレにならないか…



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「九州新幹線」が与えてくれるもの。 - 2003年09月24日(水)

九州新幹線が、もうそんなにできているとは知らなかった。
来年の春に、熊本県の新八代〜鹿児島中央(現在の西鹿児島)駅間が、部分開業するらしい。
これまで、JRの特急で2時間ちょっとかかっていたのが、約35分にまで短縮されることになるのだ。
九州北部在住の僕にとっては、直接大きな影響はなさそうだが(もともと、同じ九州内とはいえ、鹿児島に行く用事なんてのが、そうそうあるわけでもないし)、ここまで時間が短縮されると、理不尽な気分にすらなる。
旅情は、どこに行ったんだ!って。

僕が子供の頃は、新幹線というのは非常にステータスが高い乗り物で、新幹線が通っているのは都会の証拠だ、というイメージがあった。たとえそれが、「こだま」しか停まらない駅であっても。
その後、新幹線はどんどん速くなり、ちょっとした地方都市には、停まらなくなっていった。
そして、僕は新幹線とは縁のない九州に引っ越して、たまに学会出張の際に乗る程度になった。

 「そんなのあんまり使わないよ」と思っている九州人も多いだろうが、僕だってセブンイレブンが24時間営業になったときは、都会ならともかく、「朝の3時とか4時に開けてたって、客なんかいないだろう」と思っていたのだ。
 不思議なものだ。コンビニが開いていると思えば、夜中にプリンが急に食べたくなることだってある。
 「どうせ開いてない」と思えば今までガマンできていたことでも。

今まで、九州の端から端まで高速道路で約4時間くらいかかっていたわけで、九州新幹線がすべて開通すれば、おそらく1時間半くらい(もっと短い?)で博多と鹿児島は結ばれることになるだろう。
そうなると、鹿児島の人もコンサートを観たり買い物をしに平日に福岡に日帰りで来ることだって可能になるし、たぶん、九州のいろんなものが「博多化」してくるんだろうなあ、とやや寂しい気もしなくはない。
もっとも、新幹線が通ったからといって、長野や山形が「東京化」しているということもないのだろうが。

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「好き」とか「嫌い」が無くなれば、ラクなんだろうな、と思う。 - 2003年09月23日(火)

池脇千鶴さんのヌードの話題は、前回の日記「必然性があれば、脱ぎます!」の「必然性」の謎。」絶賛(ということにしといて)公開中!
でも、あんまり期待されても困ります。



 人間というのは、つくづく、「虎の威を借る」生き物なんだなあ、と思う。
 高速道路で運転していれば、うしろからものすごいスピードの車が後ろからパッシングしながら追い抜いていくし、飲み会に行けば自分の会社の自慢をするやつはいるし、贔屓の野球チームが強いからといって、天下を取ったような顔をするヤツもいる。
 こういうサイトにしたって、アクセスが多ければ、なんとなく偉くなってような気分になるものだ。
 他のサイトの掲示板に書き込んだら「おおっ!○○さん」とか言ってもらっちゃったりして。

 でも、その一方で、僕らは自分の車がフェラーリじゃなかったり、自分の会社が業界第二位だったり、贔屓の野球チームが勝てないことに心を痛めている。自分のサイトよりアクセスの多いサイトには、ちょっとコンプレックスを抱いて、下手に出てみたりする。

 「自分を飾るもの」のつもりで、かえって、そのアクセサリーに支配されてしまっていることって、意外と多いような気がする。
 実際は、どんなに速い車でもレーサーにでもならない限り口に糊することはできないし、会社は僕をリストラするかもしれない。贔屓の野球チームの成績だって、喜ぶより悲しい気分になることが多いだろう。
 サイト運営だって、けっして楽しいことばかりじゃない。

 それでも、人間は何かを好きになったり嫌いになったりすることによって、自分の「個性」を出し、自分を飾ろうとし続ける。

 すべてのものに対する好悪の感情が無くなってしまえば、どんなに生きるのがラクになるだろう、と僕は思いつつ、今日もまた一喜一憂しているのだ。



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「らしくないヌード」とレッテルを貼られる辛さ。 - 2003年09月19日(金)

池脇千鶴さんのヌードの話題は、前回の日記「必然性があれば、脱ぎます!」の「必然性」の謎。」です。
でも、あんまり期待されても困ります。

ところで、前回の日記を書いたとき、「『必然性』という言葉に千鶴ちゃんは騙されてるんじゃないか?」と僕は書いたわけなのですが、ひょっとしたら、それは僕の思い込みなのかもしれません。

この程度の弱小サイトでも、長年やっていると、いつも読みにきてくださるお客様(以後「常連さん」と呼ばせてください)が、いらっしゃるわけなのです。
もちろん、それは非常にありがたい存在なのですが、僕は、ときどき困惑することがあるのです。
僕は文章の中で、いろんなものを褒めたりけなしたりします。
喜んだり落ちこんだりします。
そんな中で、ときどき「そんなの、あなたらしくない」という反応をいただくことがあるのです。
たぶん、僕という人間に対して、ものすごく良いイメージを持ってくださっているんだと思うんですよね、その方々は。それは、ほんとうにありがたいことです。
自分自身でも、「話題になる(生臭く言えば、アクセスを稼ぐ)ために、悪ノリしすぎたかなあ、と反省することも多いのです、実際。
でもね、正直言って、「あなたらしくない」って、「僕が自分で書いているんだから、『らしい』も『らしくない』も無いだろそんなの」と感じることもあるのです。
それなら、あなたが「僕らしい」文章を僕の代わりに書いてくれればいいわけで。
そういう「らしくない」面だって、僕の立派な一面なのです。
こんな小さなサイトで、ごくたまにしかそういう目にあわない僕でさえ、そういうふうにレッテルを貼られるのは、けっこう辛い。なんで自分のことを他人に決められなくちゃいけないんだ!

僕の何万倍も「清純派」とかいうレッテルを他人から貼られている池脇さんなどは、さぞかし辛い思いをしているのではないだろうか?
「私のこと、みんなで勝手なイメージで決め付けないで!」って。
それに対する反抗の方法として「ヌードになる」ことが正しいかどうかはわからないけれど、「らしくない」という周囲の反応は、彼女にとっては、してやったり、なのかもしれない。
僕は画面の向こうの彼女しか知らないけれど、やっぱり、実際の自分と周囲の自分に対するイメージとのギャップに苦しんでいたのかなあ、などと思ってみたり。

まあ、「本当の自分」なんて、自分でもよくわからなかったりするものですけどね。

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「必然性があれば、脱ぎます!」の「必然性」の謎。 - 2003年09月16日(火)

女優・池脇千鶴さんが脱ぐ!ということが、ちょっとした話題になっている。
今秋公開予定の映画で、正真正銘の上半身ヌード・乳首あり(男はよく、「初ヌード!」とか言って、背中だけしか見えないような写真に騙されるのだ。しかも、一度や二度じゃなく)。
既報によると「この作品の中で必然性を感じたので」脱いだ、ということになっているのだが、僕はかねがね、この「必然性があれば、脱ぎます!」の「必然性」というやつを疑問に思っていたのだ。
アダルトビデオみたいに、なんだかわからんけど、とにかく裸になる、みたいなのは厭、というニュアンスは理解できるのだが、「ヌードが必然的な状況」というのは、果たしていかなる状況なんだろうか?
人間が裸になる「必然的な」状況としては、まず、風呂に入るときだろう。しかし、唐突に登場人物が風呂に入っているのも、なんだかヘンな感じだが。
そういえば、高岡早紀がお岩さんの役をやっていた映画で、風呂に入っているシーンでヌードになっていたが、ああいうのは、「風呂に入る必然性」というよりは、観客サービスの要素が強いのではないだろうか。サービスカット!みたいな。

それ以外では、やっぱりセックス・シーンということになるだろう。
あれは、まあ普通の人間は裸でするものだ。
しかし、よくよく考えてみると、性行為のシーンが「必然的」に存在する映画なんていうのは、そんなにないような気もする。けっこう、唐突なサービスシーン的なものが多いのではないだろうか。
僕の記憶のなかで、「必然性」を感じたものといえば、邦画では「失楽園」、洋画では「氷の微笑」くらいのものだ。
まあ、これらは作品としての「必然性」というよりは、そういうエロチックなシーンを見せるための映画という感じでもあったのだけれど。

だいたい、乳首が見えたから文芸的とか、より芸術的なんて、観客の男の大部分は感じるわけもなく、「あっ、出た!」「もう終わり?」「意外と胸ないなあ」とか、物語の本質に関係ないところに、そのヌードシーンのおかげで、彼らの(僕も含めて、ですね)意識はとんでしまうのだ(ファンは、千鶴ちゃんがんばったね、くらいは思うかもしれないが)。
で、終わってみると「ヌードのところしか覚えていない」という状況だったりする。
実際には、池脇千鶴のヌードというのに、「作品としての必然性」がどの程度あるのかは疑問なところだ。
しかしながら、こういう「売り」がないと、地味な日本の文芸映画が興行的に難しいというのも、また現実なのだ。
僕と同じ世代の人(30歳前後)ならば、あの南野陽子が「寒椿」でヌードになったときのことを記憶されている方も多いのではないだろうか?
あのときも、「あのナンノがヌードなんて!」とファンはみんな驚愕していたものだった。彼女としては、女優として生き残るために戦略だったみたいだけれど、結果として、それが彼女の女優生命にどんな影響を与えたかはなんともいえない。
少なくとも、「気合を見せた」というくらいの効果はあったかもしれないが。
それにしても、「寒椿」がどんな話かは覚えていなくても、南野陽子がヌードになった映画だということは、みんな覚えている。そして、地味な文芸映画「寒椿」は、本来なら見向きもしない層の客を呼び、それなりにヒットしたのだ。

別に、乳首が出ても出なくても、作品的に大きな変化はないだろう。
乳首が出たから、主人公の気持ちがより伝わってくる、なんてことはありえない。
逆に、見せない場合に、「そのシーツのかぶさり方はおかしいだろ!」と思うことはあるけれど。
この「作品」にとっては、むしろ、ヌードシーンばかり強調されるのは、マイナスかもしれない。
しかし、映画の興行的な面と行き詰まり気味の池脇さんの「脱皮」のためには、「必然性」があるのだと思う。

それにしても、これだけヌードが氾濫している御時世では、「露骨に必然性の感じられるヌード」なんて、誰もありがたがりはしないのではないだろうか?

「まあ、落ち目だしね」とか「イメージチェンジじゃない」とか言われてからでは、もう遅いのだろう。

そういう意味では、菅野美穂のヌード写真集は最強だったような気がする。
みんな「なんで脱いだんだろう?」「事務所に強要されたんじゃないか?」とか勘繰りながら、争って、その写真集を買い求めていたわけだからねえ。

あの、正直言って、僕はちょっと悲しいのです。
そんな「作品としての必然性」なんて、思い込みなんだって、千鶴ちゃん。
騙されてるんじゃないかなあ…

でも、そんなふうに僕らに思わせてしまうようなヌードじゃないと、興行的には意味ないんだよね、きっと。




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僕はタクシーが苦手だ。 - 2003年09月15日(月)

 僕はタクシーが苦手だ。
 まあ、九州の北の方では、タクシーのマナーの悪さ(というか、ドライバー全体のマナーが悪い)が、よく話題になるところではあるのだけれど。
 もちろん、タクシーの運転手さんが、みんな悪質ドライバーだなんて思ってはいないのだけれど、あの密室に2人っきりになるという状況では、逃れようがないだけに、なおさら辛い。
 乗車拒否とか、ものすごく荒い運転とか、酒くさかったりとか、なんてのはそんなに珍しいことじゃないし…
 正直、「こんなに近いと嫌な顔されるんじゃないか」とか思うと、なんとか他の方法で移動できないかと考えてしまう。

 それに、芸能人や作家などが「タクシーの中でのお喋りが楽しみ」なんてことをエッセイに書いていたりするが、僕にはそんな発想が信じられない。
 そういえば子供のころ、家族でタクシーに1時間くらい乗っていて、運転手の子供の自慢話を延々と聞かされて閉口したことがある。プライベートなことを根掘り葉掘り聞かれるのも嫌だ。関係ないだろう。
 しかし、密室の中で、相手はハンドルを握っているんだから「勘弁してくれ」ともなかなか言いがたいのだ。
 「自分は話がうまい」とか「運転手には話術も必要」なんて思ってやっているのだとしたら、それは勘違いも甚だしい。
 客は、みんな「話したい人」だけじゃないのだ。
 移動するために乗っているんだから、せめて、こっちが話しかけないかぎりは、黙っていてくれないものか。

 「名物タクシー運転手」の話が出ることがある。
 車の中でカラオケとか、自分の創った曲を聴かせるとか。
 頼むから勘弁してくれないだろうか。

 おそらく、「タクシーの中での会話が愉しい」って人も、世間にはたくさんいるのだと思う。というか、僕のようなコミュニケーション苦手族のほうが少ないのかもしれない。
 それならばむしろ、タクシーを「お話タクシー」と「無言タクシー」の2つに分けてはくれないだろうか?
 客が選べるようにしてもらいたい。
 僕はもちろん、「無言タクシー」だ。
 いっそのこと、ロボットカーでもいい。

 しかし、こうやって考えてみると、「客を差別する」とか「運転が荒い」とか「客の気持ちを考えない」なんてのは、「患者さんが病院に行きたがらない理由」と同じような気がしてきた。
 サービス業っていうのは、客にとっては、みんなそんなものなのかもしれない。

 医者もタクシードライバーも、大部分はキチンと仕事をしている人なのになあ。

 


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続いてゆく毎日。 - 2003年09月14日(日)

歴史は繰り返す、なんて言葉がある。
昨日の昼下がり、バイト帰りの車の中でラジオのカウントダウン番組を聴いていた。
そこにランクインしていた、柴田淳という人の「あなたとの日々」という歌を聴いて、「ああ、これは古内東子だ!」と僕は思ったのだ。ちなみに、あとで調べてみたら、画像的なイメージは岡村孝子だった。

続いて出てきたゲストが、SHAKA LABBITS。
ちょっとヤンキーっぽい紅一点のボーカルに、男だらけのバンドメンバー。
こちらはまさに、レベッカ→JUDY AND MARY→ヒステリック・ブルーと続く系譜に属しているバンドのようだ。

昔から芸能界では、「あるタイプのアーティストにはそれに応じた市場があって、一人(あるいは一組)のアーティストが解散したり売れなくなったりすると、入れ替わるように、必ず同じようなアーティストが出てくる」という定説があるのだそうだ。
一時間くらいの間に、その具体例を2つも見せられてしまった、というわけですね。

歴史を学ぶ、ということに対して、「そんな昔のこと、知ったって意味無い」という人は、けっこう多いのだと思う。
でも、人間というのは、一直線に前に進んでいるわけじゃなくって、実はけっこう同じことを繰り返しながら、未来へと少しずつ進んでいるのだ(本当は、進んでいる、と信じたい)。

流行歌の世界では、同じような歌手が短いレンジで世代交代を繰り返しながら、いつのまにか流行の音楽の傾向が変わっていく。
まさに歴史というのは、ああいう感じのものなのだ。

だから、過去を知るというのは、未来を予測するためにも大事なことなのだ。だってさ、付き合っている男が今まで何人もの女の子をとっかえひっかえしていたら、自分だってそうなる可能性が高い、という予測ができるでしょう?
もちろん、そうならない場合もあるし、そういう稀な突然変異例が、全体としての進化に繋がっていくわけなのですが。



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もし、一度公開したサイトを手直しできないとしたら… - 2003年09月12日(金)

 もし仮に、一度公開したサイトの内容を2度と手直しすることができなかったら?
 僕たちはたぶん、書いた内容をUPする前に、もっともっと慎重に言い回しを検討したり、
誤字脱字を無くすために何度も読み返したりするはずだ。
誤解を招くことがないように、わかりやすく書こうと意識するだろう。
もちろん、それでもミスや誤解が100%無くなるなんてことは、あるはずはないのだけれど。

 そう考えたら、一度してしまったことは書き直すことなんて不可能な「人生」なんてものに対して、
僕はどうしてこんなにイイカゲンな向き合い方しかしていないのだろう?と思えてくる。

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個人WEBサイトって、いったい何なのだろう? - 2003年09月11日(木)

 先日、ある小さな病院にアルバイトに行った。
そこは昔ながらの田舎の病院という感じで、小さな待合室と受付、トイレ、検査室、レントゲン室、処置室、そして診察室、という、まさに病院として最低限の設備で運営されていた。
そして、あと1部屋、院長室というのがあった。
院長はまもなく還暦で、今回は体調を崩されて入院中のため、僕は昼休みにその雑然とした部屋(たぶん、急な入院だったのだろう)に通されて、そこで少し豪勢な昼食をいただいた。
おそらくその部屋は、この小さな病院の中で、唯一の「院長先生だけの空間」だったのだろう。
 その部屋には、たくさんの医学書(けっこう年代ものが多くて、現代の医療に対応しているものは、その中の3分の1くらいかな、と僕は思ったのだけれど)と今までに習得してきた資格(「○○専門医」とか、そういうやつだ)の認定書や賞状、そして、その病院の歴史を語る、何十年も前からのスタッフの集合写真が古いものから順に飾られている。
今はもう成人されているはずのお子さんたちの赤ん坊の時の写真。
そして、中国の古い仏像の写真集やゴルフセット。
プレイメイト年鑑、なんていうのも転がっていた。

 その雑然とした部屋の中で僕は、WEBサイトって、この部屋みたいなものなのかもしれないな、と思った。
 自分が好きなものと自分を象徴するものの歴史。
 そして、ちょっとした追憶とプライドと。
 人間には誰しも、「他人には自分をこういうふうにみてもらいたい」という自分のイメージがあるのではないだろうか?
でも、僕はこの部屋で、賞状や認定書には目もくれず、プレイメイトの写真集を発見して、クスリと微笑んでみたりもするわけだ。
 どんなに努力しても、自分から見た自分と他人から見た自分を完全に一致させることは不可能。
 でも、人はそれを飾らずにいられない。

 僕はこういった文章の中で、「他人にこういうふうにみられたい自分」というのを半分意識的に、そして半分は無意識に演出しているのだろう。
 でも、たぶんそれは、僕のイメージ通りには伝わっていかないのだろうし、僕も、他の人の誤ったイメージを受け取りつづけているのだ。

 それでもやっぱり、賞状を張ったり、本棚にはちょっとカッコいい哲学書なんかを並べてみせずにいられない。
 
 WEBサイトというのは、鍵のない自分の部屋のようなものだ。
 それをみられることを想像するのは恥ずかしいけれど、その一方、誰かの目を意識せずにはいられない。
 実際は、僕もベッドの下にエロ本とか隠しているわけで(いや、ものの例えだからね、念のため。さすがに31の男は現実にはそんなことをする必要はないので)。
 まあ、賞状を見てすごいなあ、と思う人もいれば、子供の頃の成績表を見つけて「バカだなあ」と思う人もいる。もちろん、その両方の感情をいっぺんに持つ人がいる、ということなのだろう。

 サイトは、間違いなく僕の一部だけれど、絶対に僕のすべてではない。
 それだけは、確かなことだ。
 たぶん誰もが、心に秘密の部屋を持っている。

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 お知らせ:新しいサイトをつくりました。
 「いやしのつえ」というサイトです。

 隠居中(?)もこちらに足を運んでいただいた方々に、感謝をこめて、ご報告させていただきます。
 相変わらず、こちらから表サイトにはいけますが、表からこちらに来ることはできません。

 ところで、この「マニアックな憂鬱」では、これからも「ふじぽん」が、世間のとりとめもないことを書いていきます。
 こちらも、あらためてよろしくお願いします。
 
 というか、これで心置きなくここでマニアックなことが書ける!

 



 



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「世界のキタノ」に捧げる、谷底のポジティヴ思考。 - 2003年09月09日(火)

 今朝、テレビを観ていてびっくりした。
 いまや「世界のキタノ」である北野武監督が、もう56歳であることに。
 さっき、本を読んでいて愕然とした。
 作家・椎名誠さんが、数え年で59歳であることに。
 
 ビートたけし(ここは、あえてこう呼びたい)は、現在31歳の僕が子供のことからテレビに出演しつづけているし、僕は、椎名さんの書いた作品(「哀愁の街に霧が降るのだ」など)で、椎名さんの若い頃を(もちろんそれは、一面的なものではあるとしても)知っているのだ。
 その人たちが、もう還暦が目の前になってしまった。
 ああ、僕も年をとったものだと寂しかった。

 今日、仕事の進み具合を尋ねる電話がかかってきた。
 正直、やるべき仕事は、全然進んでいない。
 自分が情けなくって、生きているのが辛くなった。
 なんだか、自分がどうしようもない人間のような気がして仕方がない。
 そんなふうに前に進めないことを嘆いてばかりで、もうこんな年になってしまったことは、とても悲しいことだった。
 世界には、こんなに功成り名を遂げた人がいるのになあ…

 でも、今、無理やりに自分を励ましてみる。
 31歳は、まだまだ捨てたものでもない。
 少なくとも31歳のビートたけしは、25年後に自分が映画監督としてこんなに名声を得るなんて想像もつかなかっただろうし、小さな広告業界誌の編集長だった椎名さんが、こんな人気作家になるなんて、本人も予想していなかっただろう。
 彼らにはもちろん、才能があったし、機会にも恵まれた。
 でも、いちばんの原因は、「あきらめなかった」ことだと思う。

 僕はどうしようもない人間だけど、まだ、「何か」になれる可能性はある。
 少なくとも、「もうダメ」と自分であきらめるには、まだ早いだろう。
 
 頑張っても、ダメかもしれない。
 でも、やらなければ、100%ダメだ。
 万馬券だって、買わなければ絶対に当たらない。
 
 しかし、こういうポジティヴ思考無理やりにしているときは、かなり落ち込んでギリギリのときだというのは、まぎれもない事実なのだけど。



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さよならにっぽん - 2003年09月08日(月)

 成田からサンフランシスコに向けて飛んでいる飛行機の中で、なんとなくこのフレーズが浮かんできた。
 大友克洋、という作家との出会いは、僕がまだ中1のときのことで、通っていた塾の先生(眼鏡をかけた、ちょっとインテリっぽいお姉さんだった。たぶん大学を出てすぐくらいだったと思う)が、授業が終わった後に職員室に屯していた僕たちに「この本、知ってる?」と言って、見せてくれたのが「童夢」だったのだ。
 僕たちはその普通のマンガの単行本よりちょっと大きなサイズのページをパラパラとめくりながら、「大人のくせに、マンガなんて読むの?」とかひとしきり、先生をバカにしたのだが、そのリアルというか、いささか執拗なようにすら感じられる(とくに、老人の顔にはインパクトがあった)絵には、かなりの衝撃を受けたことを記憶している。

 それから、僕の周りには、大友克洋がときどき現れるようになった。
 「AKIRA」は、中学校の同級生の家で読んだ。そのとき彼が「カルチャークラブ」をBGMに流してくれたのだが、彼らのビジュアルに驚愕したのも懐かしい記憶だ。

 僕は、そんなに熱心な大友信者ではなかったが、作品は一通り読んだし、映画「AKIRA」も観に行った。実は途中ちょっと寝てたりもしたけれど。
 マンガ家・大友克洋は、「世界のオオトモ」になった。
 
 僕の数少ない女友達には、大友克洋ファン(というより、フリーク)が多い。
 幸か不幸か、彼女は「大友克洋って、誰?ああ、アキラの人」というくらいの認知度だが。
 一風変わっていて、ちょっと理屈っぽくて、本人が意識しているよりは普通の女の子たち。
 まあ、つげ義春の追っかけやってるより、大友フリークのほうがはるかに多数派だろうし。

 もしかしたら、あの塾の先生も、もう少し僕と年が近かったら、友達になってくれたかもしれないな、なんて思ってみたり。
 もう、20年くらい前に結婚されたんだけど、今頃どうしているのだろうか…

 こんなとりとめもない回想に浸りながら、僕は日本を離れたのだった。



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ドラマ「白線流し」の「ここではないどこか」 - 2003年09月07日(日)

 結局、酒井美紀<原沙知絵なのか!
 と、「Love Letter」以来の酒井美紀好きの僕としては、俺もたぶんそうだよなあ、と思いつつ、納得がいかない気分なのです。
 しかしまあ、高校生のときからあまり変わらない(と思っていたにもかかわらず、昔の映像は、さらに若かったけど…)酒井さん。成長しそうで成長しない感じが、魅力なのかもしれません。
 一方、あの年齢にして、既に完成の域に達している(裏を返せば、これ以上の成長は難しいのではないかと思われる)原さん。
 実際には、偶然帰郷してあの川で3人が邂逅するなんてことは、現実にはまずありえないことなわけですが…

 今回のテーマとしては、おそらく、「別離と成長」なのだと思うのです。
 正直、エンディングクレジットが流れている間には、「このあと、渉が帰ってきて園子の前に現れるのではないか?」と僕は予測していたわけですが。
 「お互いに相手のことをいちばん知っているはず」の園子と渉は、今まで、お互いの心の支え。でも、そういう「偶像化されてしまった記憶の恋人」なんていうのほど、美しく、そしてやっかいなものはありません。
 「あの人は自分のことをわかってくれているはず」という信仰は、現実にその相手が自分の身近なところに存在しないことによって成立する概念だからです。
 よく「死んだ奴には勝てないよ…」なんていうのもありますし。
 自分の中でつくりあげられた「虚構」には、現実の人間は、まず勝つことはできません。
 実際にずっと付き合っていれば、所詮他人だよなあ、と感じるところがあるのが当然でしょうし。
 それに、人は変わっていきます。プラスにもマイナスにも。
 別れることによって、永遠になってしまう関係だってあるはず。

 「いちばん好きな人とは結婚できない」なんて言いますよね。
 僕は、「いちばん結婚したい(もしくは、するべきと感じている)人と結婚している」のであって、「いちばん好きな人」とは、別の場合だってあるのかなあ、と思います。
 毎日食べるのなら、焼肉よりオニギリのほうがいい、なんて。

 しかし、この「白線流し」は、フジテレビの思惑としては、「北の国から」みたいな、出演者の実年齢を追っていくような大河ドラマにしたい意向があるみたいなのですが、それもなんだかちょっとなあ、という気もするのです。
 だってねえ、ドラマチックな続きを作ろうとすれば、再開した渉と園子のドロドロの不倫劇とかになる可能性だってあるわけですし。
 そんなの観たくない…
 
 このドラマ、男子高の生徒だった僕にとっては、心のトラウマを引っかきまわされるような(要するに、自分の人生に欠落してしまったものを見せつけられるような)ドラマでした。
 当時ですら、「こんな高校生は、もう絶滅してるよ」なんて言われてはいたのですが。

 まあ、それにしても、「食い足りない」感じがしたのも事実。
 僕がやたらと脂っこくストーリーが詰め込まれている、「刺激的」なドラマに慣れすぎていたせいなのかな。

 それにしても、なんでいつもこんなに不幸なんだ酒井美紀…
 そろそろ幸せに…でも、幸せになってもらいたくない気も…
 「白線流し」には、いくつになっても「ここではないどこか」を求めながらもどこへも行けないっていう、ごく普通の人間のやるせなさを感じるのです。
 とくに園子って、その典型例。

 とかいいつつ、先日ダウンタウンの番組で、酒井美紀さんは、何十万円かの家具を「衝動買いしちゃいましたぁ」なんて喋ってたから、実生活はそんなに不幸じゃないみたいなんですけどね、念のため。



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