マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

旅行準備の優先順位 - 2003年08月31日(日)

 旅行に行くときに何を一番最初に準備するか?
 それによって、その人が普段の生活において、何をいちばん重視しているかが、わかるかもしれない。
 で、僕の場合、旅行に行くときに一番先に用意するものは、ちょっと前までは、本とかCDだった。服なんてのは、時間ギリギリになって、その辺にあるのを放り込んでいく、みたいなことばかりで。
 最近では、パソコンとAir−H”が最初、ということになるかな。

 しかしながら、実際に旅に出てみると、「普段読めないから」という理由で抱えていった大河小説なんてのは「読むと疲れる」という理由で、飛行機の中では「ホテルに着いたら読もう」ということになり、空港で買った手軽なエッセイなどを読んでいる。それはそれで、あまりにすぐ読み終わってしまって、「もう終わり?」なんて悪態をついてみたり。

 最近はさすがに、前ほど余計な荷物を持っていくことはなくなったけど、一番最初に「持っていくもの」として考えたのは、ゲームボーイアドバンスSPの「どのゲームを持っていくか?」ということだった。
 街全体がゲーセンみたいなところに行くのだから、必要ないような気がするんだけど、やっぱり、なんだか不安になるのだ。
 そして、荷物はどんどん増えていく。

 それでも、「何でそんなに荷物が多いの?ゲームなんてジャマなだけじゃない!」なんて言われると、ちょっとムカつく。
 この鞄の半分を占めているのは、あなたが飛行機の中で使うと言ってきかない、「枕」なんだけどねえ…


 というわけで、旅に出ます。
 一週間くらい留守にしますので、ご心配なく。

 しかし、出発直前の状況でこれ書いてること自体、中毒だなあ、と自分であきれる。

 




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上戸彩の視聴率3%とメディアの底力。 - 2003年08月30日(土)

 上戸彩主演のTBSドラマ「ひと夏のパパへ」が、視聴率3%台という数字を叩き出し、1話早い打ち切りが決まったらしい。
 まあ、いくらドラマの視聴率不振が叫ばれる昨今で、他局のドラマと時間帯が重なるなどという不幸があったとしても、3%というのは、かなり衝撃的な数字ではある。テレビ東京じゃない、キー局の22時からのドラマなわけですし。

 実際、僕もこの話を耳にしたときは、3%か、そりゃひどいなあ、と思ったものだ。残念ながら、肝心のドラマの内容については、一度もみたことがないので論評できないんだけどさ。

 しかし、よく考えてみると、視聴率3%というのは、けっこうすごい数字なのだ。
 わかりやすいように、日本の人口を約1億人として考えると、3%って、300万人ということになる。悪夢の低視聴率ドラマだって、実際は、それだけの人間が観ているわけだ。
 1日300万ヒットのサイトが、さて、いくつあるだろうか?
 あの「侍魂」の1億アクセスだって、33日で達成できてしまう数字。
 まあ、個人サイトでは、想像もつかない数だ。

 もちろん、テレビというメディアとサイトの根本的な規模が違うことは百も承知だが、やっぱり、ネットの力なんてのは、まだまだ微々たるものなんだなあ、と思わざるをえない。
 「ニュースステーション」の平均視聴率が10〜15%だそうだから、こちらは1000万人単位の人間が観ていることになる。
 マスコミの報道姿勢について、僕は疑問に思うことが多いのだけれど、新聞の1千万部とかいう発行部数も考えると、やっぱりメディアの力は強大だなあ、と思う。
 一般的に、個人サイトは、1日100人の人が観てくれたら御の字だと思うのだが(まあ、普通の人が、100人の人を前に自分の意見を聞いてもらえる機会なんて、そんなにあるもんじゃないよね)、1日100人というのは、視聴率にすれば0.0001%になる。もちろん、100人から、ある種の「世論」をつくり出すことだって、絶対に不可能ではないかもしれないけれど。

 まだ、ネットというのは、「完全には無視できない程度」の情報伝達手段なのだ。もちろん、これから先はどうなるかわかんないんだけど。
 要するに、既存のメディアは、まだまだ侮れない、というか、強大な力を持っている、ということなのです。
 侮れないどころか、向こうは「ネットで批判されたって、蚊に刺されたようなもの」なのかもしれない。
 それにしても、0.0001%、かあ…

 


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ダ・ヴィンチ「糸車の聖母」の本当の価値 - 2003年08月29日(金)

 時価2500万ポンド(日本円で、約46億円)のダ・ヴィンチの絵「糸車の聖母」が、スコットランドの富豪の古城から盗まれたということだ。
 46億円、というのは、もうまさに信じられないような金額で、競馬のミラクルおじさんが20回、年末ジャンボが、一等・前後賞あわせて15回、クイズ・ミリオネアで460回優勝しないと買えないような値段なわけだ。

 僕は絵画を鑑賞するのは大好きだけど(というか、あの美術館の静かな緊張感が好きなのだと思う。それに、実物というのは写真と違って、いろんな角度から眺められるものだから。絵を真横から見ると、絵の具ってこんなに分厚く塗られているんだなあ、と感心してしまうのだ)、ダ・ヴィンチの絵に46億円の価値があるかといわれると、なんだか考え込んでしまう。
 それ以前に、そんな金はどこを振っても出てこないが。

 この盗んだ人は、キャッツ・アイでもない限り、このダ・ヴィンチの絵を誰かに転売するのだろうけど、それを買う人というのは、どんな人なのだろうか?
 これだけの名画だと、盗まれた作品だということは、好事家にとっては、常識と化してしまうだろう。ということは、これを裏で買った美術マニアは、誰にも見せびらかせずに、こっそりと地下室かなんかで、ウヒヒヒヒ…とか言いながら、この「糸車の聖母」を毎夜眺める、ということになるだろう。
 しかし、そのために46億円、というのは、ちょっとなあ、と僕は思うのだ。
 実は、46億円のうち45億円くらいは、「自分がダ・ヴィンチの名画を所有していると他人に自慢できる権利」の値段なのではないかなあ。
 美術館で言えば、入場料収入に直結している部分もあるだろうけど、こんなすごい絵を所蔵している、という美術館自信のステータスみたいなもの。
 
 ブランド、というのは、えてしてそういうもので、シャネルのバックというのは、おそらく、機能的にはノーブランドの平均的な商品と、値段の格差ほどの違いはないのではないだろうか?
 とかいいながら、僕だって、3Dゲームで遊びまくるわけでもないのに、CPUは、1GHzくらいは最低なくちゃねえ、とか思い込んでいたりするわけなので、偉そうなことは言えませんが。

 要するに、ものの価値、というのは、それに対する思い込みやイメージ、もっとつきつめれば、「いかに他人に自慢できるか?」という要素が大きいのではないかなあ、と思う。とくにそれが、生活必需品でない場合には。
 
 他人に自慢できない「糸車の聖母」に、どのくらいの価値があるのかは、僕にはよくわからないが、少なくとも、46億円は高すぎるような気がする。46億円というのは、「見せびらかせる価値も含めて」の値段だ。
 
 かわいい彼女やカッコいい彼氏、なんてのは、「他人に自慢できる」というメリットがあるので、より素晴らしいわけだ。
 でもそれは、自慢したくもなりますよね。
 そこで自慢しないと、「カッコいい彼がいるのに自慢しない、謙虚な女性」というやっかみ半分の特典がついてくることもあるけど。
 まあ、愛っていうのは、ときには生活必需品なので、自慢できるかどうか、なんて言ってられない場合もままあるでしょうし。

 自分にとっての「ものの価値」を判断するときに、「他人に自慢できる分」の値段がどのくらいを占めているか、考えてみてもいいかもしれませんね。
 
 しかし、よく「人間は顔や職業じゃない、中身だ」とか言いますけど、「中身」っていったい何なのだろう?

 



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ネット上のこんな文章が苦手だ!! - 2003年08月28日(木)

注・苦手度は、星の数(低★〜★★★高)で示します。
  僕の個人的な好みなので、いちいちケンカ売られても買いません。
  悪い予感がする人は、最初から読まないように。

(1)日記の最初に「こんにちは○○です。」って書いてあるやつ(★★)
 
  挨拶されても、あなたのことなど知りません。


(2)顔文字百烈拳(★★★)

  僕は文章を読みたいのであって、あなたの「私ってカワイイ?面白い?」ってアピールを見にきたのではありません。


(3)「アタシ」って一人称(★)

  何もそんなに水商売風のオンナを演じてみせなくても。
  椎名林檎も、最近人生大変みたいですし。


(4)恋人=「相方」という二人称(★★)

  彼なら「彼」、夫なら「夫」でいいんじゃないのかなあ。
  寿司屋で「アガリ」とか「オアイソ」とか言って通ぶってる人みたい。
  お笑いコンビじゃないんだから(意識してるんだろうけど)普通の日本語での人間関係をあらわす言葉じゃダメなんですか?


(5)「このサイトに来た人は、必ず掲示板に書き込んでください」(★★★)

  拉致監禁だな。
  「遊びに来ました。いいサイトですね。また来ま〜す」とか心にもなく、内容もないコメントをみんなに書かれても、レスするのがかったるいだけだと思うのだが。


(6)詩(★)
 
  というより、作文だろそれは、と思うこと多し。


(7)「毒舌」(★★)

  と「誹謗中傷」の違いについて考えたほうがいい人が多いような。
  基本的に、他人の悪口を読んで心躍る人は少ないでしょうから。


(8)リストカット(★★★)

  するのは個人の自由なのかもしれませんが、別にサイトに書いたり、画像を載せなくても。
  Coccoはリスカするから評価されているのではなくて、大部分の人は、彼女の楽曲を評価しているのです。中島らもが大麻やってたからって、大麻をやればらもさんになれる、ってわけじゃない。


(9)ただの「絵日記」(★)

  もう、絵が描いてあれば良い、という時代じゃないです。
  絵にも「芸」がなければ、ね。


(10)宣伝(★★)
  
  二言めには「私のサイトにも遊びに来てください」


(11)ランキング(★★)

  あんまり「投票して」って言われると、したくなくなるのが人情


(12)身内の悪口・不倫常習(★★)

  読んでるほうが悲しくなる。
 BBSで「何があってもあなたの味方です」なんて書いてる人は、実社会では何の役にも立ちません。というか、知り合いでもないのに、一方だけの言い分じゃ判断できないよな普通。


(13)「笑える日記」(★★)

 (自然に)「微笑ましくなる(笑える)」日記というのは、子供と動物の話くらいです。
 (技術で)「笑わせる」つもりじゃないと、フォントだけ大きくしてもムダ。
  どうしてこの部分が大きくなってるんだろう?なんて、笑うどころか逆に悩ましい。


(14)ネタがないときのWEB世界言及(★★★)

  要するに、↑のような内容の日記です。
  結局、「エロ」「WEB世界」「ネットバトル」というのは、常に需要が大きいネタではあるんですよね。



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あの「揚げたてコロッケ」は、もう二度と食べられない。 - 2003年08月27日(水)

 バイト帰りに横を通り過ぎたスーパーの片隅に、「揚げたてコロッケ」という小さな出店があった。
 僕は、車のハンドルを切って、その店の前に横付けし、「コロッケ!」と叫びたい気持ちになったのだけど、結局、その衝動は一瞬だけのものだった。昼ごはん食べたばっかりだったし。
 
 小さな頃のこんな光景を覚えている。
 近所のスーパーへ、夕飯の買い物に行く母親についていく僕。
 踏み切りを渡ったところに、そのスーパーはあって、店先では、いつも揚げたてのコロッケが売られていた。漂ってくる、ラードの香り。
 何人かの短い列にならんで、家族の人数+αの数のコロッケを買う母親。
 僕は、その揚げたてのコロッケを一個もらって、その場でかぶりつく。
 サクッとした食感と口いっぱいにひろがるじゃがいもの味。
 その様子をを嬉しそうに見ている、まだ若かった母親。

 それは、幼い頃の僕にとっては、至福の楽しみだったのだ。
 好き嫌いが激しくて肉も魚もほとんど食べられなかった僕にとっては(というか、肉も魚も「かわいそう」だったのだ。今から考えると自分でも信じられない話なのだけど。でも、今でも魚の目を見るとダメだ。高級和牛とかでも、生き造りとかあったら、食えないと思う)、その「ほとんど肉が入っていないけど、じゃがいもが詰まっていて、ホコホコのコロッケは、何者にも替え難いごちそうだった。
 
 今でもたぶん、スーパーに行って、惣菜売り場でコロッケを買い、かぶりつくことは可能だろう。
 でも、それはたぶん、今の僕にとっては、美しい記憶を墨で塗りつぶすような行為だと、自分でもわかるのだ。
 カニクリームコロッケとかに慣れきった僕にとっては、何の変哲もない食べ物だろうし、母親も、もうこの世にはいない。
 それでも、僕は、あのころのじゃがいもコロッケが懐かしくて仕方がない。
 もう、二度とあのコロッケは食べられないに違いない。
 それはたぶん、追憶の味。

 外がすっかり暗くなる時間、ひとりで住宅街を歩いていると、どこかの家からカレーのにおいが漂ってくる。
 そんなとき、僕は無性にどこかに帰りたくなる。

 でも、帰るべき場所が思いつかなくて、なんだかとてもとても、寂しくなるのだ。



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安倍官房副長官出演の「おしゃれカンケイ」を観て感じた、日本の階級社会。 - 2003年08月26日(火)

 このあいだの日曜日の「おしゃれカンケイ」に安倍晋三内閣官房副長官が出演していた。本当は、「おしゃれカンケイ」なんて僕の趣味じゃなくて、山田花子の110キロマラソンのゴールシーン(ワープしなかったみたいですね。遅れたことで信憑性が増すなんて、皮肉な話だ。あの時間にゴールしたのは、時間調整が行われたのかもしれないけどさ)の後に、放送されていたから、なんとなく続けて観ていただけなんだけど。
 僕のイメージの安倍副長官というのは、現代の政治家としては、比較的スマートなイメージの人、というものなのだが、この番組で語られた彼の家庭や生活ぶりを観て、僕はなんだか行き場のない虚しさを感じてしまった。
 日本にも、「貴族」はいるんだな、って。
 池田貴族さんが肝臓癌で亡くなられて以来、日本には貴族はいなくなったとばっかり思っていたよ。
 代々政治家の家系で、父は首相目前で落命、祖父は岸信介元首相。奥さんとは今でも仲が良くて、お互いに愛し合っている(らしい)。海外留学後父の秘書から後継者となり、国会議員に当選したあと、内閣官房副長官として、北朝鮮の拉致問題で頭角をあらわし、国民の人気も高い。まあ、こんなところかな。
 しかし、安倍さんの血統や幸せな家庭生活を聞かされるにつれ、僕の心に、なんとなく納得できないものが積もっていくのだ。
 それは、「西田ひかると会食」というあたりで、ピークを迎えた。
 同じ日本人でありながら、プロダクションの社長が奥さんの知り合いとかいう理由で、お気に入りの(元?)人気アイドルと、気軽に「お食事でも」と言える階層の人が、現代日本にも存在している。
 ああ、自由と平等の国、ニッポン!

 もちろん、安倍さんだって、そういう家系に生まれた苦悩もたくさんあるのだと思うし、同じく「自由の国」を標榜するアメリカだって、実際に社会を牛耳っているのは、ごく一部のエリートなのは間違いない。いまだに、シュワルツネッガーの奥さんはケネディ家の…とか言っているくらいだから。
 なんだか、自由とか平等とか思い込んでいるのは下々の者どもだけで、上流階級の人々は、「ま、キミたちは、自分たちは自由だと思い込んでればいいよ、ハハハ」とか蔑んでいるんじゃないかなあ、という気もしなくはない。

 それでも、日本という国は、世界レベルで言えば、まだ下々の者が成り上がれる可能性がある方の国だったりするから、人間というのは、いかに不平等なものか、ということなんだろうなあ。

 そういうふうに考えていくと、どうして日本人に田中角栄が根強い人気があるのか、わかるような気がする。豊臣秀吉と同じ、なんて言うけれど、要するに、彼は生まれつきの貴族ではなかったから、なのだ。
 みんな気づかないふりをしているけれど、日本だって、眼に見えない階級社会であり、それを打ち破った田中角栄は、「庶民の希望の星」であり続けるだろう。
 実際、角栄という人は、最近再評価されつつあるような気がしてならないし、もっと時代が経てば、偉人化されていく可能性が高いと思う。彼の政治家としての手腕は別として。
 彼が総理になったこと自体が「革命」だったのだから。
 そういう「成り上がり」タイプの人間は、得てして自分の欲望が先に立ってしまいがちなのは確かなんだけど。

 しかし、お気に入りのアイドルと気軽に「お食事でも」と言えるような人が、「庶民の立場で政治を」なんて言っても、そりゃムリだよね。「庶民」になんか、なったことないんだもの。
 「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言って、フランス国民の怒りを一身に浴びたマリー・アントワネットは、イヤミでそんなことを言ったわけじゃないのだ。

 あっ、別に僕は西田ひかるさんのファンじゃないですから、念のため。


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常総学院・木内監督の起こした「奇跡」 - 2003年08月24日(日)

この文章(kobさんの「ゴミ箱くん」8/24)を読んで考えた。 
僕も今回の常総学院の優勝は、出来すぎだなあと思いながら、「甲子園は最高の教育の場」という名将・木内監督のインタビューをラジオで聴いていたのだ。
 そのあとのキャプテンと好投した2番手投手の涙のインタビューも、すごく心に染みた。もちろん、僕が高校生のときに同じ光景が目の前にあれば「ケッ」とかいって、テレビのスイッチを即切りしていたかもしれないが。
 僕は基本的に、高校野球の「神聖さ」なんて、信じてはいない。
 あの「さわやかな若者」たちの多くは、授業中には殆ど居眠りをしていたり、後輩を苛めたりしているのではないかと思う。テレビで解説者が「高校生らしい」なんていう度に、「あなたたちが定義しているような『高校生らしい高校生』なんて、もう絶滅してるよ…」と言いたい気分だった。
 男からみた「女らしい女性」が希少種になってしまったのと同様に。

 そんな虚像の青春群像である甲子園なのだが、今回の木内監督勇退の大会での優勝は、決勝戦が好投手ダルビッシュのいる話題の東北高校(北海道・東北勢の夏の大会初優勝がかかっていたらしい。でも、ダルビッシュは大阪出身らしいけどね。甲子園のための越境入学なんてのは、昨今当たり前の話なんだけどさ)との対戦ということもあって、甲子園は超満員で、凄い歓声だった。まさに、ドラマの舞台は整っていたわけだ。

 木内常総の優勝が「出来すぎ」だというkobさんの感想はよくわかる。僕も「出来すぎ」だと思う。
 まあ、「ブック(やらせ)」だとかは思わないけどさ。もちろん、kobさんだって、本気でそう思って書いているわけじゃないんだけど。

 ただ、こういう出来すぎの結末を見せられてしまうと、「ヤラセだ!」とか思ってしまう人間っていうのは、けっこういるわけで。
 例えば、オグリキャップの引退レースの有馬記念なんかも「ヤラセだ!」と言っていた人たちがけっこういたものだ。
 僕も、「これは怪しい!」とそのときは思ったし。

 でも、30年も生きていると、こういう「出来すぎの結末」というのが、いかに稀有な事例であるかということがわかるのだ。
 有終の美を飾るはずの引退レースでボロ負けしてしまう名馬。
 なけなしの金で一発逆転のギャンブルに出て、やっぱり失敗してしまう人。
 成功率がほとんどない手術にかけたものの、やっぱりうまくいかなかった患者さん。
 どんなに死力を尽くしても、現実は、そんなのばっかりなんだよ。

 実は、「木内監督のような立場にありながら、甲子園に出ることすらできなかった名監督」なんてのは、たくさんいるのだ。
 それは、語られなかっただけのことで。
 むしろ、こういう「ドラマチックな結末」が成立することは、ごくごく稀なこと。
 何百倍、何千倍という「ドラマチックじゃない結末」の中に、蜃気楼のようにあらわれるドラマ。
 だから、それを人々は「奇跡」と呼んで、語り継ぐのだろう。

 木内監督の陰には、たくさんの木内監督になれなかった人がいて、オグリキャップの陰には、無数のオグリになれなかった馬がいる。

 だから、僕は今回の奇跡に、正直に感動してみることにした。
 たとえそれがテレビで報道されているような「神聖な」ものでないとしても。
 全部「ヤラセ」だと決め付けてしまうよりは、多少は建設的なはず。
 
 まあ、本当にヤラセの場合もけっこうあるとは思うんだけどさ。

 というわけで、木内監督、常総学院の選手のみなさん、おめでとうございます。
 ところで、インタビュー中、72歳の木内監督が「人生の幸運を使い果たしたみたいで、これからの人生が心配だね」と言っていたのは、笑うところだったのかな?



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「王監督便器事件」にみる、フジテレビの傲慢な計算 - 2003年08月20日(水)

僕は巨人が嫌いだ。
日本には軍隊はないはずなのに、なぜ共産党は「巨人軍」の存在を許しているのか!と叫びたいくらいだ。
でも、こう書いただけで、このサイトをマイ日記から外す人が3人くらい出てくるわけで、とかく野球ネタというのは難しい。
まあいいや、隠居だし。

で、ダイエーの王監督のことなのだ。
僕は、個人的に王監督のファンではない。元巨人の選手だというだけでもうダメなのだ。今はダイエーの監督として、ダイエーに骨を埋めるつもりらしいが、僕は九州人であるにもかかわらず、ダイエーはどうでもいい。
興味が無い。もちろん、一社会人として、タクシーで運転手に話しかけられたら「今年のダイエーは強いねえ」くらいの心にもない言葉が口をついて出るくらいの社会性は所有していますが。
もちろん、雨後の筍のごとく昨今出現してきている、阪神ファンでもない。
「阪神が優勝すれば、経済効果いくら」なんて、そんなの野球の勝負と関係ないだろまったく。

フジテレビの「ワンナイ」のネタ「じゃぱネットはかた」で、王監督の顔の模型が入った便器がコントで使用され、フジテレビ側と王監督、ダイエー側にトラブルが発生しているのだが、僕は先週、この番組を観ていた。

感想:つまんないコント…笑ってるのはスタッフだけじゃないの?

「偉大なる野球人である王監督への侮辱」はもちろんなのだけれど(個人的な好き嫌いと、野球人としての偉大さを測る尺度は、僕は当然別だと考えている。王選手が偉大なプレイヤーであり、たくさんの人々に夢を与えた存在であったことは、言うまでもないだろう。好きじゃないが、評価はしている)、それより何より、「人間の顔を便器にする」というのがコントとして成立すると考えているこの番組は、いったい何なのだろうか?
 王選手の、ということばかりクローズアップされているが、もし自分の顔が便器にされたら、どう思う?

 相手が有名人だからこれも有名税だとかいうのは、お門違い。
 王監督が、ダイエーの采配についてファンから酒場で文句を言われるのは「有名税」だ。それは仕方が無い。監督とはそういう商売だからだ。
 でも、あんなコントに使われるのは、単なる「侮辱」だ。
 
 当直の曜日と重なるものだから、僕は「ワンナイ」をほぼ毎週観ていたのだが、正直なところ、最近のこの番組は、楽屋オチと差別的なネタばっかりで、全然面白いとは思えなくなっていた。
 ゴリエって、面白いの?毎回ムチャクチャ不愉快なんだけど。
 貢ぐ女(?)と貢がせる男、ゴリエが「不細工」だからこそ成り立つ世界。
 僕に「笑い」のセンスがないのかなあ…
 「『笑い』と差別とは切っても切れない」と有名な作家が昔言っていた。
 確かに、コメディというのは「コイツ馬鹿だなあ」というような感情が、笑いを生むことが多いのは否定できない。
 それにしても、あの「ジャパネットはかた」のように、特定の人物を侮辱するのは失礼だ。
 相手が有名だろうが、無名だろうが、関係ない。
 誰だって、怒るよそんなの。
 プロなら、もっとまともな芸で笑わせてくれ。

 とはいえ、たぶん長嶋さんだったら、きっとあんなネタにはしなかっただろうということだけは確かなんだよなあ。
 そんなところにも、テレビ局の傲慢な計算が見え隠れして、嫌な感じがするのです。
 日本シリーズが中継できなくなるから謝罪するんだろ、どうせ。
 だいたい、フジテレビが謝るのは、王監督に対してだけでいいんですか?

 


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大黒摩季が、「リアルタイム」だった頃。 - 2003年08月19日(火)

 大黒摩季が、昨日テレビに出ていたそうだ。
 僕らの世代(現在30代前半)にとっては、大黒摩季 というのは、一時期「覆面アーティスト」なんじゃないかと噂されていて、実は、バックコーラスの人が歌っているとか言われていたものだった。最近はステージにも立つし、ラジオやテレビにまで出演しているのだが、以前ほど売れなくなってからそんなふうに露出するようになったのは皮肉なものだ(「売れなくなったから」なのかな、本当は)。
 僕にとっての大黒摩季のピークは、「ら・ら・ら」前後、ということになるだろう。当時の彼女の歌詞は、当時20歳を過ぎたくらいの僕にとってはものすごくインパクトがあった。
 「冗談じゃない、同情のセックス」(曲名忘れた)なんて、歌詞が出てきたら、驚愕したんだよ当時は。部活の後輩(男)と車に乗っているときにカーステレオから流れてくるこの歌に、顔を見合わせたこともあったっけ。
 「今、セ、セックス、って、言ったよなあ?」って。
 「親も年だし、あなたしかいないし」(たしかこれは「ら・ら・ら」だった)には、「なんてあからさまな歌詞なんだ…」と絶句した。
 当時は、純愛や希望や絶望や退廃を歌った歌はあっても、現実を歌った人は、あんまりいなかったし。ユニコーンくらいかな、思い出せるのは。
 まあ、今となっては、それも懐かしい記憶でしかなくて、大黒摩季にも以前ほどの神通力はなくなってしまったような気がする。

 彼女の芸風はあんまり変わってないみたいだし、現在では、その程度の歌詞は珍しくないだろうから(いや、けっこう珍しいかな、やっぱり)。
 それでも、僕にはあのときのインパクトは残っているし、今、これを書きながら「ら・ら・ら」を聴きたくなってしょうがないくらいなのだ。
 そういうのは、あの若いお姉さん(大黒摩季 )の本音をまだ若かった僕らが聴いた、っていうピンポイントの邂逅、なのかもしれないけれど。

 例えば、モーニング娘。の福田明日香の「抱いてHold On Me!」を聴いても、この年(当時14歳)の女の子に「抱いて!」なんて歌われてもねえ…とか思ってしまっていたのは、僕だけかなあ。

 それが、時代のリアルだ、と言われてしまえば、それまでなんですが。



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ついつい「そっちは危ないよ!」と言いたくなる日記。 - 2003年08月17日(日)

 隠居の身として、いろんな人の日記を読んでいる。
 しかしながら、自分も日記書きであるという立場で読んでいたときとは、若干、感じ方が変わってきているような気がするのだ。

 僕が好きな日記というのは、ネタ系よりも日常を真摯に語っているものの割合が多いのだけれど、最近、そんな日記を読んでいて「それは危ないよ…」と感じることが多くなっている。
 それは、書いてある行為の内容の「危うさ」ではなくて、そういう内容の文章をWEB上に公開してしまう「危うさ」なのだ。
 もし、それを同じ職場の人なり、批判されている対象の人なりが読んでいたら、とんでもないことになるんじゃないかなあ、と。
 僕もそうだったのだけれど、そういう不満であるとかを誰かに聞いてほしくて日記に書くことってありますよね、実際。
 でも、WEB上に公開しているかぎり、会員制にでもしなければ、誰が読んでいるかわからないのだ。
 もちろん、テキストサイトや日記サイトの読者の数はまだまだ微々たるもので、教育テレビの朝の4時の番組に出演するより遥かに世間に認知される危険性は低いわけだけれど…

 具体的に言えば、自分の同僚や上司の批判、職場での出来事への不満などをWEB上に公開するというのは、非常に危険な行為だ。
 昔、ある作家が「身内に恨まれるようになって(そのくらいいろんなことを赤裸々に書けるようになって)初めて作家としては一流だ」と言ったそうだが、残念なことに、僕たちは文筆で口に糊しているわけではないので、デメリットこそあれ、メリットはほとんどない、ということになる。
 もちろん、日記を公開することによって、共感してくれる人も現れ、精神的にストレス解消や癒しになることもあるのだが、「共感してくれるような近い立場の人間に読んでもらえる」というくらいメジャーなサイトになれば、「身内(あるいは批判している対象)にも読まれてしまうリスクが高くなる」ということだ。
 医療行為などでは、ヘタしたら医療ミスの証拠なんかにされかないし、ちょっと前には、「大学の不正を告発する」と称して、患者のカルテを公開して逮捕された医師の例もある。
 諸刃の剣、どころか、刃は、自分のほうにしかついていなかったりもするわけだ。

 そこまで深刻な話にはならなくても、自分の悪口がWEB上で垂れ流されていることに対して、不快感を抱かない人間はまずいないだろう。
 とはいえ、身内誉めみたいな日記は、誰も読まないんだけどさ。
 芸能人のファンサイトじゃあるまいし。

 書き手からしたら「表現欲のあらわれ」かもしれないけれど、ひとりの閲覧者の立場になると「どうして、こんなことをわざわざネット上に書くんだろう?」と思うことが多い。
 書いている本人にとっては、家の日記帳に書いているようなつもりでも、書かれているほうにとっては、自分の悪口を書いたビラが、世界中にばら撒かれているようなものなのだ(とはいえ、現実的には、日本語サイトを読める人は外国の人には少ないだろうから、日本中、ということになるだろうが)。それは、ネット上の文章に対する、典型的な読み手と書き手の乖離。
 
 ご隠居たる僕としては、自分が共感できる、リアルな職場の文章を眼にするたびに、危険を感じて仕方がない昨今なのだ。
 ついつい、「そっちは危ないよ!」と言いたい衝動にかられてしまう。
 しかしながら、家の秘密の日記帳に書いても、サイトに書くことに慣れてしまった人間にとっては、物足りないのも事実なわけで。

 
 
 


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何かを「伝える」ってことは、本当に難しい。 - 2003年08月16日(土)

 何かを伝えるってことは、本当に難しい。
 たとえば、僕の虫歯の痛みをあなたに伝えようとしたとしようか。
 もちろん、痛みそのものを感じることはできないから、僕は言葉で(あるいは体の動きで)その痛みを伝えるために努力することになる。
 「頭の芯に響くように痛む」とか、床を転げまわってみたり、とか。
 しかし、残念なことに、その痛みというのは、絶対に100%の形では伝わらない。そもそも、虫歯の痛みを体験したことがない人だっているはず。

 自分が38度の熱に苦しみながら仕事しているのに、周りの人間は(自分から考えると)冷淡に「頑張ってね」とか「だいじょうぶ」と形式的な言葉をかけるくらいのことしかしてくれなかった、なんて経験は、たぶん誰にでもあるはずだ。
 もちろん、そういう痛みの感覚が、まったく減衰することなしにこの世界を伝播していくようなことがあれば、まさにこの世は地獄だと思うけどさ。

 そういえば、他人に何かを相談するのが好きな人、というのがいる。
 僕は、あんまり誰かに何かを相談しようとは思わない。
 所詮、「伝わらない」し「相手も迷惑なんじゃないだろうか」と思うからだ。ひょっとしたら、世界の大部分の人々は、僕よりはるかに感情移入の能力が秀でているのかもしれないが。
 消費者金融のCMに「みんなお金の話になると、相談に乗ってくれないのよねえ〜」ってのがある。
 あれを見て思うのは、むしろお金の話のほうが、相談に乗りようがあるんじゃないかと感じるときもある。
 「貸す(もっとも、ああいうタイプの人間に「貸す」というのは、返ってくることを期待すべきではない)」か「貸さない」か?
 それは、クリアカットに結論が出せる。

 8月15日は、58回目の終戦記念日だった。
 多くの人が、戦争のことを伝えようとしてきた。
 でも、その戦争の痛みも、きっとこの世界でどんどん減衰していっているのだろう。
 そもそも、人間は「痛み」を知ってはじめて「痛くない」という状態を認識するようなところがあって、「戦争」を映画や文学の世界で体験したことのない僕らが、「平和」というものを認識しているかどうかは、非常に怪しいものだ。
 それでも、世界には戦争の悲惨さを伝えようとしている人たちが、まだまだ沢山いる。

 最近テレビを観ていて、驚いたことがある。
 アメリカの空爆で足を失くしてしまったイラクの若者が、取材に来たテレビのクルーに向かって、「俺をしっかり撮ってくれ!」と言った場面に。
 障害を持った自分の体を他人に晒すなんて…と正直、思った。

 でも、それはきっと、「伝えようとする」人間の姿だったんだろうなあ、と今は感じている。それは、彼自身の戦争やアメリカへの憤りなのかもしれないし、多くのものを失った人間のせめてもの自己表現の手段なのかもしれない。
 いずれにしても、彼は、何かを伝えようとしたのだ。
 自分のボロボロになった姿をさらして。
 テレビを観ていた人たちに、彼が伝えたかったことが、どのくらい正確に伝わったかは、僕にはわからないけれど。

 これだけ「コミュニケーションの重要性」というのが語られるのは、逆説的に言えば、人間が常にコミュニケーション能力にトラブルを抱え続けている生き物だということなのだろう。
 伝わらない、でも伝えたい。
 言葉じゃ伝わらないけれど、他の手段を自分は持っていない。
 そんなジレンマを誰もが抱えながら誰もが生きている。
 「それでも伝えようとすること」が、たぶん、「生きること」なんだろうと思う。

 しかし、こういうふうに書きながら、きっとこの内容も、僕の思ったことは伝わっていないだろうなあ、という気がする。
 それは、仕方がないことなのだ。
 告白して振られたほうが、まだ気持ちの整理はつく(ことが多い)。
 その一方、こんな偉そうなことを書いている自分と現実の自分のギャップに、ものすごく恥ずかしくなってしまったりすることもあるんだよなあ。

 何かを「伝えようとする」ってことは、本当に難しくて恥ずかしい。


 
 

 
 


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甲子園の「大番狂わせ」に思う。 - 2003年08月14日(木)

 昨日の昼間、エアポケットみたいに空いた時間に、高校野球を観ていた。
 鳥栖商業vs愛工大名電の試合。
 正確には、途中から車で移動していたので、「観たり聴いたりしていた」のだが。

 この試合の戦前の予想としては、地元九州勢という贔屓目を含めて、
「勝負になるといいなあ」という感じだった。
 勝ち負けというより、まともな試合になるかなあ?と
 あのイチローの母校であり、激戦区愛知を力強く勝ち抜いてきた愛工大名電と高校野球では比較的過疎地である佐賀代表の試合では、ワンサイドゲームを予測するのが妥当なのではあるまいか。
 昼間に医局で新聞を読んでいると、院長が入ってきていきなりテレビの電源を入れた。
 5回表、2対0で、鳥栖商業2点のリード。
 鳥栖商業のピッチャーは、小柄でストレートも120kmくらいしか出ていない。
 愛工大名電の選手にとっては、全部スローボールに感じていたくらいなのではないだろうか?
 たぶん、予選で彼らが試合をしていたチームには(少なくとも県大会のベスト16以降の試合では)、こんなに遅いストレートのピッチャーはいなかっただろうと思う。
 鳥栖のエースは、素晴らしいコントロールでストレートを左打者の外角にビシッと決めていく。
 6回の裏が終わって、まだ2対0。
 それでも、まだ大部分の人たちは、愛工大名電の逆転を予測していたと思う。

 この時点でも、僕は車に乗り込んだ。
 そして、この試合の経過がなんとなく気になって、久々にラジオで高校野球を聴きながら帰ることにしたのだ。
 7回の裏、試合が動いた。
 愛工大名電の先頭打者がヒットを打った後、送りバントエラーとフォアボールで、無死満塁。
 ラジオを聴きながら、僕は、「ああ、こんなもんだよな、やっぱり」と感じていた。
 まあ、鳥栖商業の選手は、よくやった。
 あの愛工大名電をここまで苦しめたんだもんな。
 ここで逆転されてしまうのが、弱小チームの悲しい性なのだ。
 ヒット1本で同点の状況。
 鳥栖商業の打者たちは、次第に調子を上げてきた愛工大名電の投手を打てなくなってきていたし、ここで逆転されないまでも、追いつかれたら、もうこの試合は愛工大名電のものだろう、そう予測していた。
 おそらく、7回まできて、疲労もあるだろうし、なんといっても「かなうはずがない」強豪校に対して「勝てるかもしれない」という意識が芽生えたことも、彼らのこのピンチを招いたのだろう。
 弱者は、「勝てるかもしれない」という状況に溺れてしまい、そこに隙が生じることが多いのだ。 
 しかし、勝負のアヤというのは微妙なもの。
 この絶体絶命すぎるピンチは、逆に鳥栖を開き直らせたのかもしれない。
 逆に、2アウト1塁2塁とかだったら、「抑えなければ」という意識で、鳥栖商業はがんじがらめになってしまったのかもしれないが。

 無死満塁。バッターは9番。スクイズもあるかと思ったが、結果は強行策でショートフライ。ワンアウト。まだまだ、これから。
 1死満塁。トップバッターは、3塁側のファールグラウンドにフライを打ち上げた。
 鳥栖商のサードは、懸命に追いかけて、このフライをキャッチしたが、勢い余って転倒。
 その間に、3塁ランナーはタッチアップしてホームイン。2対1だ。あと1点。
 このシーン、僕はラジオで聴きながら、「よく取った!」と車の中で独り叫んでいた。
 あえてムリして捕らなければ、1死満塁の状況でもう一度勝負となるわけで、ひょっとしたら1点も取られないですんだかもしれない。でも、この状況では、「とにかく1つアウトを取る」ということが、すごく大事な気がしたのだ。
 それでも、2死1塁2塁。まだ油断できない。
 そう思っていたら、愛工大名電の2番バッターは、ライトにフライを打ち上げて万事休す。
 「死地に生あり」という言葉をなんとなく思い出した。
 むしろ、無死満塁という絶対的な状況だったからこそ、鳥栖商には開き直りが、愛工大名電には油断が生じたのかもしれない。

 再度、風向きは変わった。
 鳥栖商は、最終回、1点追加のチャンスでのホームタッチアウトがありながらも、結局、2対1で逃げ切った。
 強豪、愛工大名電に勝ったのだ。
 試合が終わる瞬間まで、僕はなんとなく狐につままれたような心境だった。

 試合後、プロも注目しているという愛工大名電の4番バッターは、インタビューにこんなふうに答えていた。
 「実感がわかない。負けた気がしない」
 それは、勝つことが当然だと予測されていた(そして、自身も「ここは勝てるはず」と口にはしなくても内心思っていたはずだ)彼らにとっては、本音であったに違いない。
 「もう1回やったら、負けるわけがない」と。
 僕もそう思う。たぶん、鳥栖商業が勝つ確率は、10試合に1回、いや、それも贔屓目くらいだろう。

 地元が勝ってよかった!などと、僕はあまり思うことはない。
 もともと、引越しばかりだったし、地元意識に乏しい人間だし。
 でも、この試合には、なんだかとても心惹かれるものがあった。
 勝負のアヤ、お互いの心の動きなどが、すごく伝わってきた気がした。
 投手力、打撃力、守備力、すべてにおいて、たぶん愛工大名電のほうが上だろう。
 それでも、勝ったのは鳥栖商だった。
 120kmの投手は、1失点で強豪校を抑えきったのだ。
 番狂わせというのは、こういうふうにして起こるのだなあ。

 野村監督が以前「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
という言葉を頻繁に口にしていた。
 鳥栖商業の勝因というより、愛工大名電の油断にこそ、番狂わせの要因を求めるべきなのかもしれない。
 番狂わせを起こすより、起こされるほうが、おそらく簡単なことだろうし。
 まあ、それで高校生を責めるのもあんまりだけどさ。

 なれど、弱者、かくして強者に勝てり。
 それは、偶然の仕業ではなくて。


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原爆を許せる、ものわかりのいい日本人たちへの手紙 - 2003年08月09日(土)

 今日、8月9日は、長崎の「原爆の日」だ。
 終戦直前に広島、長崎に相次いで落とされた原子爆弾は、両都市を合わせて40万人を超える犠牲者を出した。
 それから、もう58年が経つ。

 僕が広島に住んでいたのは(とはいえ、実際に住んでいたのは、直接原爆が投下された広島市内ではなく、西側の岡山寄りの街だった)、もう20年くらい前のことだ。
 当時の広島県内の小中学校では(たぶん今もそうなんじゃないかな)、8月6日は登校日で、全校生徒は講堂に集められて、原爆に関する映画を観せられたり、被爆者の方の話を聞かされたりしたものだ。
 それは、子供心にものすごく怖かったし、眼をそむけたくなる歴史だった。
 たぶん、当時の僕を含む大部分の小学生にとっては、ただでさえ暑い広島の夏の盛りに、夏休み中にもかかわらず集められて、そんな恐ろしい話を聞かされるのはあまり歓迎すべきことではなかったと思う(不躾な言葉を使えば、「かったるいなあ」という感じだ)。
 そして、みんなで講堂で「ああゆるす〜まじ原爆を〜」とか「あおい〜そらは〜あおい〜ままで〜こども〜らにつたえたい〜」とかいう辛気臭い「原爆の歌」を歌わされるのは、心底苦痛だった。
 でも、この年までそんなことを覚えているということは、それなりに教育効果があったのかな、という気もしているのだが。

 中学校のとき、九州に引っ越してきて、同級生と図書館で本を読んでいたとき、僕は「原爆写真集」というのを手にとった。
 小さい頃に広島の原爆資料館で見たはずのそれらの写真は、僕の心に大雨を降らせた。
 爆風で人間の影だけが焼き付けられて残った階段。
 体中焼け爛れた少女。
 趣味の悪いオブジェのように、積み重ねされた人間の骸骨。
 
 僕は悲しくなり、そして腹が立った。
 そして、近くの同級生に言ったのだ。
 「こんなひどいことが許されていいのか!」と。
 同級生の解答は明確だった。
 「でも、原爆のおかげで戦争が早く終わって、結果的には犠牲者の数が少なくなったのかもしれないし、仕方がないんじゃない?」
 かなり衝撃を受けた。
 しかし、この考えは、たぶん多くの現在の日本人が共有するところなのだろう。
 
 実は、僕の親に同じことを聞いたことがある。
 そのときには、親も同じように答えたあと、こんなことを付け加えた。
 「それで戦争が終わってくれたおかげで、俺も生き残れたのかもしれないしな」
 そのときは、なんとなく卑怯だと思ったのだが、今ではその言葉の意味もわからなくはない。
 たぶん、人間をそういう思考に至らせるのが、戦争の罪というものなのだ。

 しかし、リアルタイムで生きた人間はともかく、その子孫たちまでが、「原爆のおかげで戦争が早く終わって良かった」なんて、自嘲気味に語るのが、正しいことなのだろうか?
 ifの世界として、原爆投下がなくて日本人が皆殺しになっていれば、僕たちは生まれてこなかったのかもしれないが。
 しかし、歴史的には、原爆投下がなくても早晩日本は降伏していただろうし(実際に、そのための交渉も行われていたのだから)、何よりも、原爆は、非戦闘員を問答無用で皆殺しにする、非人道的な兵器なのだ(もちろん、人道的な兵器なんてのが存在するのか?というのは、大いなる疑問ではある)。
 僕は戦争は嫌いだが、人間というのは、何かを守るために戦わなければならないこともある、ということは理解できる。方法はともかくとして。
 でも、原爆というのは、その守るべきものも含めて、すべてを破壊しつくす兵器であり、戦うことの意味すら喪失させてしまう兵器だ。

 ヒロシマ、ナガサキ、そして第5福竜丸。
 この58年間、世界が核兵器を保有していながらそれを使用することをためらってきたのは、愚かな実験に利用された、これらの人々の犠牲が、人類の負の行為のモデルケースとして語り継がれているからだと思う。
 しかし、唯一の被爆国である日本が、その悲劇をアピールすることを忘れようとしているのは、嘆かわしいかぎりだ。

 「アメリカの国民感情に配慮して」原爆展が中止されたことがあった。
 確かに、自分たちの上の世代の罪は見たくないだろうな、と思う。
 でも、それはアメリカ人だからどうとかいう問題じゃなくて、人間なら見ておくべきものだ。原爆は、愚かなる人間の罪なのだ。

 58年前、人々は戦時中でも「暑いなあ」とブツブツ言いながら仕事をし、子供たちは遊んでいたのだろう。戦時中にだって、日常がないわけじゃない。
 でも、彼らの未来は、自分の力ではどうしようもない大きな力で、閉ざされた。
 
 「人間、自分の道は自分で切り開け」という考え方がある。
 でも、アフリカで食料もなく飢えて死んでしまう赤ん坊は、どうやって自分の道を切り開くことができる?
 原爆で未来を閉ざされた人々は、別に努力が足りなかったわけじゃないだろう?
 そういうふうに、理不尽に未来を閉ざされる、ということが、僕は怖くて仕方がないのだ。
 もちろん、どんな生き方をしたって、その可能性はゼロじゃない。
 それにしても、回避できるリスクは、回避したいのだ。

 「被爆の語り部」となるべき人たちは、どんどん少なくなっていく。
 当たり前だ、あれから58年も経ったのだから。
 日本も核武装すべきだ、という人がいる。
 平和公園の折鶴に火をつける人もいる。
 
 僕たちは、何もしなければ平和だと思っている。
 たぶん、そんなに甘いものじゃない。
 
 戦争になったら真っ先に核シェルターに逃げるような人たちの言うことを信用しちゃダメだ。
 ターミネ−ターは、僕たちを助けになんか来てくれないよ。

 平和とは、戦いなのだと思う。
 争いや功名心を求める自分の心との戦い。

 僕は、「あなたたちが死んでくれたおかげで、戦争が早く終わってよかった」
なんて誰かに言われたくない。
 それは、原爆によって命を落とした40万人の人々だって、きっとそうだと思う。

 もう、戦後は終わった、確かにそうかもしれない。
 でも、それはひょっとして、「また次の戦前になった」ということなのかもしれない。そんな気がする。
 
 「ものわかりのいい日本人」っていうのは、バカにされてるんだって、どうしてみんな、気がついてくれないんだろう?


 
 
 

 


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それは、恋だったのかもしれない。 - 2003年08月06日(水)

 閉鎖してから、3日が経ちました。
 もともとあまりリアクションがない弱小サイトだったし、読んでくれる人々にリアクションを強要するような姿勢だけは避けようと思っていたので、閉鎖してもそんなにリアクションはないはずだろう、と予測していました。
 
 正直、意外なくらいたくさんのメールやリアクションを戴いて、嬉しい反面、ちょっと当惑もしています。
 昔、ここに「サイトを閉鎖してみたいというのは、自分の葬式を見てみたい、という願望に近い」と書いたことがあるのです。
 僕の予想以上に故サイトを贔屓にしてくださっていた方が多かったのだなあ、と感慨深いです。立派な葬儀を営んでいただき、感謝感激。
 本当にありがとうございました。
 いやしかし、閉鎖してちょっと勿体なかったかなあ、とも。
 とはいえ、惜しまれて消えるのもネットの華。

 こうしていても、今日は原爆の日だし、書きたいことはたくさん思いつくのです。
 むしろ、書かないように努力している、という状況でしょうか。
 ほんの3日間ですが、僕にとっては、本当に長く感じました。

 昔、ある女性の先輩が、僕にこんなことを話してくれました。
 「あのね、彼に振られてから、なんだか時計の針が進んでくれないのよ。忘れようと思って本を読んでも内容が頭に入らなくって、それでもちょっとは時間が過ぎたかな、って時計を見直してみても、5分も進んでないんだよ。とにかく、何をやっても時間が過ぎないのが辛くって…」
 それと同じことを僕は7年前(だったかな?)にずっと好きだった女の子に振られたときに感じたものです。ああ、こんな感じなんだな、って。
 
 今の気持ちを何かにたとえると、ちょうどそんな感じ。
 なんだか、ずっと他の人の書いた文章を眺めながら、自分だったらこう書く、とか思ってみたり、メールチェックをやたらと頻回にやってみたり。
 それでも、時計の針はなかなか進んでくれないんだよなあ。
 そう、この2年間、僕は書くことに、恋をしていたのかもしれません。
 どんなに書いても書いても、先が見えない、満足できない、永遠の片想い。
 それはときに僕をとても幸せな気持ちにしてくれましたし、僕を不安に陥れることもありました。
 いつかの失恋のように、いつしか時計の針は正常の速度を取り戻し、僕はかつて自分が何かを書くのが好きだった人間だということすら、忘れてしまうかもしれません。
 でも、ひょっとしたらまた、新しい恋がはじまるかもしれないし、ね。

 しかし、たった3日でこれだからなあ…
(まだ3日だからこれなのか?)
 ちょっと自分が心配です。
 
 とりあえず、元気にやってます。サイトバレのことも、閉鎖して以降は問題も沈静化しているようです(まだわかりませんが)。
 メールもありがたく拝読しています(お返事はちょっと時間がかかります。ごめんなさい)

 今年の夏が、皆様にとって良い季節でありますように。

 またいつか、どこかでお会いできることを期待しつつ。



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どうする、ラスカル? - 2003年08月03日(日)

 昨日某コンビニに行って、レジで会計をしているときに、あるものが眼に入ってきた。
 それは、見覚えのあるキャラクターの絵皿が貰える、というものだった。
 僕はだいたい、そういうキャンペーングッズみたいなものに興味はないのだが、そのプレゼントだけは「欲しい!」と思ってしまったのだ。
 そのキャラクターとは、「あらいぐまラスカル」。あのハウス食品「世界名作劇場」シリーズの「ラスカル」だ。
 ちなみに、一ヶ月ごとにキャラクターのラインナップは変わっていき、「フランダースの犬」とかもあるらしい。
 これを貰うためには、そのコンビニの弁当とかデザートなど、指定商品を100円1点で25点分(つまり2500円分)買わないといけないのだが、2500円払うから直接売ってくれないかなあ、というくらいの勢いなのだが。
 
 その話をしていたら、若者に「ところで、『ラスカル』って、どんな話でしたっけ?」と訊かれた。
 それはね、と話し始めて、実際に僕が記憶しているのは、ラスカルが角砂糖を洗ってしまって、角砂糖が溶けて無くなってしまうシーンとラスカルと主人公の悲しい別れのシーンだけ、ということに気が付いた。
けっこう長い間やっていたから、たぶん途中にはいろいろ紆余曲折があったはずなんだけどなあ。
 しかし、それはそれで「ラスカル絵皿」はいいとこついてるなあ、と思う雄。
 あの主人公とラスカルとの別れは悲しい場面だけど、あくまでもお互いの「旅立ち」だから。
 「フランダースの犬絵皿」は、見ると泣いてしまいそうなので、欲しいような、欲しくないような心境なのだが。



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「まいっちんぐマチコ先生」に隠された、オトナの事情? - 2003年08月02日(土)

今度、マチコ先生のパチンコ台が出るらしい。

「マチコ先生のボインにタ〜ッチ!」

「イヤ〜ン」

 いやーん、どころじゃ済まんだろうそれは、と当時小学生だった僕だって思ったくらいのこのセクハラアニメ、真面目な子供だった僕としては、さりげなく「勉強に集中してたら、いつのまにか『マチコ先生』になってました!」というような雰囲気を醸し出しつつ、顔を隠した指と指の間から観ていたわけなのですが。

 しかし、このマチコ先生というドラマをあらためて考えると、小学校とかの女性の先生って、大変だなあ、という気がします。
 子供の「性の目覚め」の時期に、まさに「最も身近なオトナの女性」として立ちはだからないといけないわけだから。
 相手が生徒(しかも小学生)じゃ、セクハラとかいって訴えるわけにもいかないだろうしねえ。

 ところで、この「まいっちんぐマチコ先生」で、僕はオトナの社会の矛盾をひとつ知りました。
 このアニメ、提供はなんと「学研」だったのです。
 学研といえば学習研究社、参考書とか真面目な本のはずの学研!
 お前らは、子供に勉強を押し付ける裏で、こんなエロ番組を…
 子供心に、なんだか裏切られたような心境だったのをよく覚えています。
 オトナってウソツキだなあ、ってさ。

 まさか、「性教育のための番組」だったのかなあ?
 


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試験問題作成者の憂鬱。 - 2003年08月01日(金)

今、講義に行っている専門学校の試験問題作成中。
ちなみに、作っているのは、5つの選択肢の中から、ひとつの正解を選ぶっていうタイプの問題。

(1)問題を作るのは、「正しいものを選べ」よりも「間違っているものを選べ」のほうが、圧倒的にラクだ。だって、「間違っているもの」を選ばせるにはひとつ間違いを作ればいいが、「正しいもの」を選ばせるには、4つも間違いを作らないといけない。

(2)「なるべく簡単に」作ろうと思うのだが、なかなか難しい。
 「簡単に」作るのも、勉強してれば確実に解ける問題、とか、勉強してなくても言葉遣いやニュアンスで当てられる問題、とか、いろいろあるのだ。

(3)僕は貧乏性だ。
 せっかく選択肢を作ったので、やっぱり正解を5つのうちの1番目や2番目(とくに1番目)にするには、ちょっと勇気がいる。

(4)問題の最後を「選べ」にするか「選んでください」にしようかと迷っていて、ふと「かかってきなさい」にしてみたいなあ、と思ったのは秘密。

(5)しかし、自分で問題作ると、誤字脱字がないかとか、出題ミスがないかとかすごく気になるなあ。「必ず」がつく選択肢は×とか、「〜のこともある」は○とかいう受験必勝法も、裏を返せば出題者の自身の無さなのだな。

(6)「〜について書け」という記述式だったら、問題作るのラクだよなあ、と思ったけど、採点するのがものすごくきつそうなので、やっぱりマルチプルチョイスでいいです。



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