マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

サイトを閉じるとき。 - 2003年02月28日(金)

 僕の今住んでいる家から、車で10分くらいのところに、カレー屋があった。そのカレー屋は、もう10年以上続いており、僕がまだ大学生だった頃から、そこに存在していた。
 けっこう広い国道沿いで、かなり良い立地であるように傍目には見えたのだが、そのカレー屋に客がいるところを僕は数度しか目にしたことがなく、「よくつぶれないもんだなあ」と思っていたものだった。
 一週間前、バイト帰りにその道を通りかかったとき、いつの間にかその店が、中古車買取センターに変貌したことに気がついた。なんだか、とても寂しかった。

 よく考えてみれば、たとえば7年ほど前、大学時代に住んでいた街に、ひょっこり帰ってみれば、誰もが「ああ、懐かしい店だ」というのを発見するのと同時に、「あの店、いつの間にか無くなってる…」という感慨に浸ることもあるはずだ。
 もし自分が子供のころ住んでいた街に25年ぶりくらいに戻ってみたとしたら、きっと、知っている店なんて、どこにも残っていないと思う。
 僕は引越し族だったから、なおさら、それを確認しに行くのは辛いと感じる。

 つまり、街というのは、変わらないようでいて、常に少しずつ新陳代謝を繰り返しているということだ。
 3年前に使っていたパソコンを起動して、「お気に入り」を見てみたら、そのうち、今も巡回しているサイトって、いくつくらいあるだろうか?今も閉鎖されていないサイトって、何割くらいあるだろうか?

 たぶん、明日もいつも通りに更新するだろう。
 おそらく、明後日も。そして、一週間後も。

 それでも、閉店の時期は、きっと来るのだ。
 
 ひょっとしたら、あのカレー屋も、ずっと火の車の状態で葛藤していたのかもしれないな、と閉店して初めて思った。


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「新撰組!」のキャスティングへの違和感。 - 2003年02月27日(木)

 来年のNHK大河ドラマ「新撰組!」の主役にSMAPの香取慎吾が決定したらしい。
 沖田総司役には、藤原竜也の名前が挙がっているのだとか。
 この「新撰組!」は、三谷幸喜脚本で、幕末の新撰組を「立身を目指した若者たちの青春群像」という切り口で描こうというものらしい。
 確かに、当時の隊士たちは、みんな現代の感覚でいえば若者で、局長の近藤勇ですら、最後に斬首されたのが35歳であるといわれているくらいだ(もちろん、近藤より年嵩の隊士もいたけれども)。
 歴史の正邪というのは、その後の時代の流れによって決められる面が強いから、新撰組も薩長も、歴史を自分の手で変えてみたいという幻想に捕らわれた人々(あるものは、生活のためだったかもしれない)であったという点には、あまり差異はないような気がする。

 しかし、藤原=沖田は頷けるけれど、近藤=香取は、ちょっと違うんじゃないだろうか?
 もちろん、その違和感を狙ってのキャスティングだということはわかるけれど、三谷さんの個人的な好みが反映されている部分が多いのだろう。
 同じ違和感でも、「壬生義士伝」の斉藤一=竹中直人は、意外にも、「えたいのしれない感じ」が伝わってきて良かったのだけれど。

 いや、僕が一番心配しているのは、ダウンタウンの浜ちゃんが坂本竜馬役で主演し、鳴り物入りで始まってコケた、「竜馬におまかせ!」の二の舞を大河ドラマでやってしまうんじゃないかなあ、ということなんだけれど。
 キャスティングというのは、「自分が好きな役者を使う」でいいのだろうか?
 
 それに、藤原竜也が香取慎吾の手下には、どうしても見えん…
 (藤原のほうが偉そう…)


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「よくそんなに長く付き合っていられますね?」 - 2003年02月26日(水)

 「よく6年も7年も付き合っていられるよね〜」とよく言われる。
 自分でもそう思うことがある。
 しかし、よく考えてみると、僕は極度の面倒くさがりなので、習慣を変えるということが苦手なのだ(柳沢教授ほどではないです、念のため)。
 外食で居酒屋に行っても、たいがい頼むメニューは一緒だし、そもそも、外食で行くところ自体に、あんまり新しいところを開拓しようという意識もないしなあ。床屋だって、細かく説明するのが厭なので、ずっと同じ店に行っているくらいだ。

 そういえば、友達も少ないが、みんなけっこう長いつきあいの連中だ。

 人間には大まかにいって2つのタイプがあり、ひとつは、付き合いが長くなると、新鮮さがないことにストレスを感じてしまうタイプ。もうひとつは、付き合いが長くなると、説明しなくていいことに喜びを感じるタイプ。
 僕は、明らかに後者のタイプだ。
 だから「よく6年も7年も」というのは、実は当たっていなくって、3年つきあっているから、6年、7年と付き合っているのだ、たぶん。
 こういうのを「腐れ縁」というのかもしれないが。

 しかし、実際は「短期型」と「長期型」の典型的な2タイプに別れるわけじゃないし、僕だって、明日になったら「もう飽きた…」と思うかもしれない。
 結局、「先のことは、誰にもわからない」としか、言いようがない。


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「心と心の繋がり」を実感できないオトコ。 - 2003年02月25日(火)

 ある編集者の有名な言葉に、こんなものがある。
「エッセイなんてのは、何が書いてあるかが重要なんじゃなくて、誰が書いたかが重要なんだ」
 もちろん、これは極論だ。だが、一面の真実ではある。
 今年の芥川賞候補に高校生・島本理生さんの「リトル・バイ・リトル」が挙がった。
 何年か前、「日蝕」という現役京大生の作品が受賞したときも感じたのだが、やっぱり、読み手というのは、「誰が書いたのか?」という面を無視して、作品の世界に没頭することは難しいのかもしれない。
 高校生なのに凄い!というのは、文藝春秋の営業的な面も考えると、必然的な感慨なのかもしれないけれど。率直なところ、彼らの作品が、現時点でそんなに素晴らしいとは、僕には思えなかったのだ。

 僕だって、他人の日記を読むときには「どんな人が書いているか?」ということは、やはり気になる。姿かたちというより、もっと漠然とした印象みたいなもの。

 子供のころ、社会的地位や職業、容姿で恋愛をすることに、すごく嫌悪感を感じていた。
「そういう、見た目だとかお金だとかを一切省いた、心と心のつながり」が、真の恋愛だと思っていた。医者や弁護士だからといって、寄ってくるような女など、最悪。なんて。
 まあ、当時から誰も寄ってはこなかったけどね。
 そうだな、言ってみれば、目をつぶって、黙って繋いだ手と手の温もり、みたいな恋愛。
 そんなイメージを抱いていた。

 でも、今の僕は薄汚れてしまったから、そんな恋愛の存在は信じられない。
 お見合いの釣書みたいに条件重視なわけではないけれど、顔とか、体とか、職業とか、財産とか、言葉とか…そんなものをすべて失ってしまったら、人間には何が残るだろう?
 自分の置かれた状況を全く無視して、何かを100%客観的事実として考える、ということは、果たして可能なのだろうか?

 心と心だけの繋がりなんてのが、もし存在するとすれば、それはお互いが相手のことを愛しているのではなく、お互いが自己愛に溺れている場合だけではないだろうか?

 結局、人間は「自分を飾るもの」から、逃れることはできない。
 このインターネットの世界では、すべての人に平等なのではないか、と最初はみんな思い込んでいた。
 でも、ネット上でも、やっぱり「自分を飾るもの」から逃れることはできない。
 オンラインゲームのキャラクターのように、この世界だけで通用するアイテムで装備を固めることは可能でも。

 それにしても、「心」というのは、いったい何なのだろうか?
 この年になっても、まだサッパリ解らない。



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1994年のピンボールゲーム。 - 2003年02月24日(月)

 研究室の大掃除を手伝っていたら、昔からある(らしい)棚に
「Loony Labyrinth PINBALL」というゲームを見つけた。
パッケージには「Macintosh 256 color」との文字が。
 画面写真も載っていて、まあ、何の変哲もないピンボールゲームだ。
 宣伝文句によると、アメリカのゲームの賞をとったらしい。

 まあ、今なら1000円、あるいは500円で買えるような感じ。

 パッケージの中には、大事そうに包まれた、一枚のディスクが。
 この中に、ゲームが入っているんだろう、今でも動くかな…
 しかし、僕が今ここで使っているのは、WINDOWSなのだ。
 
 ちなみに、このゲーム、定価12000円。
 ただのピンボールゲームが、だ。
 
 昔(とはいっても、20年くらい前の話、まあ、ファミコン以前と考えていただきたい)は、ゲームというのは、驚きに満ち溢れていた。
 テレビ画面上のキャラを自分で操作できるというだけでも感動したし、PSGのピーピーという音で作られたサウンドに魅せられていたものだ。
 僕たちは、ゲームというものに触れているだけで幸せだったし、その進化の過程と共に年をとってきたのだ。
 
 今の子供たちはきっと、ゲームで面白いと感じることはあっても、ゲームで「凄い!」と感動することなんて、ないんじゃないかなあ。
 それを考えると、僕は少しだけ優越感を感じてしまうのです。
 
 しかし、このゲーム、パッケージを見たら1994年産らしいよ…
 う〜ん、9年前って、意外と最近のような気がするのは、僕が年取ったからでしょうね。

 それにしても、昔のゲームは、ほんとに高価だったよなあ。
 光栄(当時は漢字)の「三國志」の第一作なんて、定価14800円で、
「このゲーム1本で、ファミコンが買える…」と僕らは悶絶したものだったのに。

 まあ、「三國志」については、元は充分取れたと思うけれど。


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静かなるドン… - 2003年02月23日(日)

負けたよ、また負けた…
2003年最初の中央競馬のG1、フェブラリーS。
僕の本命は、藤田騎乗のアドマイヤドン。
さあ、ゲートが開いて、各馬きれいなスタート…

じゃないだろう、大外でアドマイヤドンが躓いてるよ、なんだそりゃ!
でも、ひょっとしたら、ここから巻き返してくれる、といいなあ…
あっ、ゴールドアリュールいい手応え、超ハイペースで先行馬総崩れ、のはずなのに、はず、なのに………

というわけで、去年のエリザベス女王胚(それもショボ勝ち)以来の連敗記録は、2003年になっても継続中。もうそろそろ、勘弁してくれ。
僕にとっては、競馬の負けは鬱モードへのトリガーになるので、危険なんだって。

 いや、アドマイヤドン、パドックをテレビで観たときに、危ないと思いはしたのだ。もう馬券は買ったあとだったのだが。
 内側をトボトボ歩くドンと外側を堂々と踏みしめるゴールドアリュール。
 さらに、レースも僕が思っていたような超ハイペースにはならず、時計も速かった…要するに、全部が裏目裏目に出ているんだよなあ。
 
 冷静に考えれば、3ヶ月の休み明けで、しかも過去の実績からもあまり休養明けのレースは期待できず、さらに小回り中山の大外枠、というドンに不利な条件は、たくさんあったのだ。
 でも僕は、「ハイペースで先行馬不利」「同じコースのJCダートでは2着」「中央のダート重賞未勝利(これは、ドンもそうだったんだよなあ…)」というマイナスの要素ばかりを加味して、ゴールドアリュールは、ドンとの馬券だけを抑える、という結論に達してしまったわけだ。
 ちなみに、ドンからはビワシンセイキもイーグルも買っていたのだが。
 (あと、リージェントブラフなんてのも買っていた。今から考えたら、人気ないねえ、ラッキーとか思いながら。バカ大爆発。)
 
 予想というのは、ほんとうに難しい。
 競馬をやるときには、いつもそう思う。そういえば、去年のJCダートのあと、上位入線馬がみんな真ん中から内だったのをみて、「中山のダート1800mは、内枠有利なんだな」と頭にインプットしたはずだったのに、すっかり忘れていた。

 でも本当に、考えないといけないよなあ。
 本当に勝てる予想というのは、いろんな要素を公平に考えて、しかも人気と配当のバランスも考慮に入れていないと意味がないのに。
 
 どうしても、僕は、今目の前のこのレースで儲けようとしてしまうから、こうして、その場限りの負けを繰り返してしまうのだ。
 去年は、休み明けで、ドバイへの叩き台だから危ない、と思って軽視していたアグネスデジタルが圧勝したものだから、個体として異なる馬であるアドマイヤドンも大丈夫だと、思い込んでしまったのだ。

 毎回、同じことの繰り返し。
 たぶん、本当に勝てる人は「休み明けの馬は、G1では買わない」と決めたら、どんな状況でもそれを貫くはずだ。そうして危険な人気馬を除外していければ、もちろん負けることもあるだろうけれど、トータルではプラスになるはず。

 僕は、自分が目先のことにしか目が行かない人間であるということを痛感して、夜の当直室で、またひとり考え込む。

 でも、今日もまた言わせて欲しい。
「僕の予想が悪いんじゃない、結果が悪いだけだ!!」と。
スマートボーイ、なんで捨て身で行ってハイペースにしないんだ、嘘つき!
 


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サイトのアクセス数から学ぶ、パチンコ必勝法。 - 2003年02月22日(土)

 僕は、アクセス解析というやつを一日に一度くらいは見るのだが、昨日は、何故か本家のほうには来訪してくれるお客様が少なかった。
 1年半もサイト運営をやっていると、人々のアクセスの仕方にも、いろんな法則があるんだなあ、ということがわかる。
 もともと総アクセス数という母集団があまり大きくないから、統計学的優位ではないのかもしれないが。
 もう、言い尽くされていることなのかもしれないが、基本的に、アクセス数は、月曜日が一番多くて、土日は2〜3割は減る。祝日も土日同様。僕の解析では、アクセスしてくれた時間帯と総アクセス数、ユニークアクセス数くらいしか情報が得られないのだが、やはり、ネットに触る時間帯(とくに、うちみたいに、何か実生活の役に立つわけではないサイトの場合)というのは、朝一番とお昼休み、夜間にピークがあるようだ。
 そして、ワールドカップの日本代表戦とか、「千と千尋」テレビ初放映とか、大きなイベントがある時間帯には、アクセス数は激減する。
 「ああ、みんなテレビ観てるんだなあ」と思うし、金曜日の夜なんかは「みんな呑んでるんだろうなあ、ちぇっ」とか、孤独感を噛み締めてみたりする。
 
 長い前置きだったんだけど、僕が昨日の夜、雨の音を聴きながら思いついた結論というのは「サイトのアクセス数というのは、パチンコ屋の釘の開け具と同じ傾向がある」ということだ。月曜日に少しアケられて、週末にはシメられる。
 だから、アクセスが多い日にパチンコ屋に行くと、たぶん出るんじゃないだろうか?
 結果が出るころには、パチンコ屋はもう閉店寸前だったりするわけですが。
 


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ある無気力医師の肖像。 - 2003年02月21日(金)

(1)定義:医者とは、目の前に死にそうな人がいるよりも、目の前に死体があったほうが気が楽な人々だ。

(2)「アンタ、それでも医者かよっ!」
   「…」(お前のほうこそ、それで病人なのかよ…)

(3)患者さんには「無理せずに、ゆっくり休んでくださいね」と優しくアドバイスするのだが、医者が外来を病欠すると、「無責任だ!」という罵倒にさらされる。

(4)患者さん「先生、この生命保険の書類、早く書いてくださいね」
   事務の人「患者さん待ってますよ、早く書いてください」
   (山のような書類を前に)「こんなに書いても、ギャラはおんなじ…」

(5)当直室の電話は、さすがにもう終わりだろうと思って寝付き、α派が出はじめた時間帯に必ず鳴る。

(6)医者だから変な人なんじゃない、変な人が医者になっただけ。


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国民的バカップル、谷・ヤワラを見せられる憂鬱。 - 2003年02月20日(木)

オリックスの谷選手と柔道の田村亮子選手のカップルを見て、みんなどう思っているんだろうか?仲がよさそうで、理想の2人?

僕はもう、あの2人をあんまり観たくないのだ。
見た目がどうこう、っていうんじゃなくて、なんとなく薄汚れたものを感じるからだ。
もちろんそれは、2人のせいじゃない。
今日、オリックスのキャンプに、田村選手が遊びに来て、キャンプの休日デートを楽しんだということだ。それはそれでいい。

でも、他のオリックスの選手は、奥さんや恋人をキャンプ地に呼んではいないだろう?こんな不公平では、チームの結束なんてお笑い種だ。

たぶんそれは、谷選手や田村選手の意思じゃない。
谷選手だって、たぶん「チームメイトに悪いなあ」と思いつつも、貧乏&不人気球団の露出とイメージアップのために、こんな茶番をやらされているのだ。
若いころから「国民的英雄」だった田村選手は、今ひとつピンときていないんだろうか?そんなことはないと思いたいが。

どうせなら、選手みんなに家族・恋人帯同を許可してやればいいのに。
それならキチンと筋は通っているのだが。
こんなチームでは、他の選手も谷選手もかわいそうだ。
田村選手も、なんで来るのかねえ、まったく。


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ハッピーエンド vs アンハッピーエンド - 2003年02月19日(水)

 ハッピーエンドとアンハッピーエンド、どちらが好きか?
 と尋ねられたら、ハッピーエンド、と答える人が多いのではないだろうか。
 でも、実際に僕たちの心に残るドラマは、必ずしもハッピーエンドばかりではない。
 むしろ、映画や本などは、アンハッピーエンドの割合が多いのではないだろうか?

 でも、創作を書いていると「ハッピーエンドが好き」とか「読後感が良い」というような感想をいただくことがある。だからといって、完璧にハッピーな話というのも、それはそれで嘘臭くなってしまいがちなものなんだけれども。

 もう20年くらい前だろうか「アスピック」というRPGがあった。このゲーム、当時はまずまず売れたのだけれど、たぶん今の人はほとんど記憶にないだろう。
 このゲームは、いわゆるウィザードリー系のダンジョンRPGなのだけれど、なかなか難易度の高いゲームで、クリアするのに何十時間もかかるのだ。もちろん、当時のゲームとしては平均的なものなんだけれども。
 さて、このゲームのエンディングには、とんでもない仕掛けがある。

<以下ネタバレなので、これから「アスピック」をやる予定がある人は注意!(いないか…)>

 大ボスである、不死身の蛇王アスピックを倒した主人公は、意気揚々と城に引きあげる。
 ところが、王は、約束であった姫との結婚も認めてくれず、主人公を邪険に扱う。
 そこで、怒った主人公は、城を荒らし、もともとアスピックが住んでいたダンジョンに立てこもるのだ。
 そして、気がついたら、いつのまにか主人公はアスピックになっていた…
 
 まあ、当時のゲームのストーリーとしては、よくできた話なのではないかと思う。
 しかしながら、このエンディングは、当時のゲーマーからはすこぶる評判が悪かった。
 「なんで、何十時間も苦労した挙句に、俺がアスピックにならんといかんのだ!」と。
 そりゃまあ、そうだよねえ。

 そんなふうに考えていくと、どうも、人間というのは、自分が苦労するほど「ハッピーエンド」を求める、という傾向がありそうだ。もちろん、その作品に対する愛着というのもあるのだろうけれど、映画や書物よりも、時間と手間のかかるゲームや「自分からわざわざ探して読んだ」ネット上の文章に対してのほうが、ハッピーエンド欲求率が高そうだ。ただ「観ているだけ」でいい映画では、哀しい話でも十分許容できるのに。

 人間というのは、あまり自分に関係なかったり、感情移入できない悲劇に対しては、けっこう淡白なものなのかもしれない。
 他の国で事故で知らない人が100人亡くなることよりも、自分の飼い犬の病気のほうが哀しいし、それは、生きていくための自然な感情なんだろうから。


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「ハリー・ポッター」と「ロード・オブ・ザ・リング」と「ロードス島戦記」 - 2003年02月18日(火)

 日本国内での2002年度の映画興行収入ランキング(日本映画製作者連盟発表)

第1位:ハリー・ポッターと賢者の石   203億円
第2位:ハリー・ポッターと秘密の部屋  180億円
第3位:モンスターズ・インク       94億円
第4位:スターウォーズ・エピソード2   94億円
第5位:ロード・オブ・ザ・リング     91億円

 ちなみに、以下はスパイダーマン、オーシャンズ11、猫の恩返しと続きます。
 
 このランキングを観て思ったのは、「スター・ウォーズ」が「モンスターズ・インク」に負けたのか!ということと、僕としては昨年一番好きだった「ロード・オブ・ザ・リング」が、「ハリー・ポッター」にダブルスコアで負けてるということでしょうか。まさか、字幕がヘンだったから、というわけではないでしょうが。

 僕は、正直なところ「ハリー・ポッター」が、どうしてあんなにヒットしているのか、よくわかりません。なんとなく「子供が読むものじゃないの?」という意識が拭えないんですよね。「ロード・オブ・ザ・リング」の圧倒的な世界観と映像美に比べたら、チープな印象も拭えないし。

 そんなことを考えていたら、僕が中学生のころのことを思い出しました。
 当時、既に「ファンタジー小説の原点」といわれていた「指輪物語」を僕はまともに読んだことがなかったのです。
 それでいながら「あんなのは歴史的遺物だ」とか思い込んで、「ロードス島戦記」とかを熱心に読んでいたわけで。ほんと、本末転倒というか…
 「ロードス島戦記」は、当時の僕にもわかるほど文章そのものは安っぽかったのですが、キャラクターが凄く魅力的で。
 当時、もうちょっと「指輪物語」をキチンと読んでおけば良かったなあ。
 でも、その頃「『指輪』も読まないヤツは、人間失格!」みたいなことを言うファンタジーマニアがけっこういて、すごく作品に対する印象が悪かったんですよねえ。
 
 それから15年くらいたって、僕も「やっぱり『指輪物語』だ!」とか言っているわけですから、ひょっとしたら、あと15年後には「やっぱり『ハリー・ポッター』は凄かった!」とか言ってるような気もします。


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恩知らずなドイツと恩着せがましいアメリカ。 - 2003年02月17日(月)

 イラク攻撃に反対しているドイツとフランスに対する、アメリカの国民(というより、ブッシュ政権のかな)感情が急速に悪化してきているらしい。
 5万人のドイツ駐留アメリカ軍の撤退も検討事項に入っているし、フランスについては、ミネラルウォーターの「エビアン」やフランス産高級ワインの輸入制限なども検討されているらしい。
 なかでも、第二次大戦後、アメリカの忠実な同盟国であるドイツへの反発は強いらしく、今月10日に、ドイツがロシア・フランスとともに出した。査察継続を求める共同宣言後、ブッシュ大統領は「失望している」と批判し、ハンター米下院軍事委員長は「ドイツの自由のために米国が払った犠牲に対する、ドイツの感謝の涙はあっという間に枯れた」とののしった、ということだ。

 しかし、この「ドイツの自由のために」というのが、第2次大戦でのナチスからの解放ということを意味しているのであれば、この発言はドイツ国民にとって、あまり気持ちのいいものではないだろう。
 日本だって「アメリカ軍は、日本を戦前の軍国主義から解放した」という名目になっているが、アメリカ軍が「日本やドイツの自由のため」に戦ったのではないということは、僕にだってよくわかる。
 アメリカだって、自分の身を守るために戦ったのだ。
 そして、ドイツ人は「ナチス」というエイリアンに侵略されていたわけではなく、ごく普通の市民が、ナチスに投票し、ナチズムを支持し、ナチストになっていたのだ。
 「ナチス」というのは、誰にでもある心の闇が、群集心理に増幅されて出現した怪物のようなもの。
 ドイツには、戦争で身内を失ったものもいただろうし、中には、アメリカ軍と戦って命を落としたものもいただろう。家では、よき夫、よき父親であっても。そういう歴史を考えると「アメリカさん、自由にしてくれてありがとう!」と素直には言えないのではないだろうか?
 もちろん、戦後の復興に対するアメリカの貢献は、日本・ドイツともに測り知れないものがあるのだが、それも、アメリカの国情による部分が大きい。
 
 あまりに恩着せがましく言われると、かえって「日本を復興したのは日本人だし、ドイツを復興したのはドイツ人だ」と言い返したくなる。

 友人の誤りをキチンと指摘する者と友人だからどこまでもついていくと盲従する者。
 どちらが正しいとか、簡単に言い切れるものではないと思うけれど。


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日ペンの美子ちゃん! - 2003年02月16日(日)

 今朝、連れが少女漫画の分厚い雑誌を買ってきたのだが(コンビニで売っている、コロコロコミックを1.5倍くらいの厚さにしたようなやつ)、それをちらっと眺めて、僕はある変化に気がついた。

「裏表紙に、『日ペンの美子ちゃん』が無いっ!」

知らない人のために解説しておくと、今から20年くらい前の少女漫画の裏表紙には、必ずこの4コママンガというか、広告が載っていたものだ。
この「美子ちゃん」は、食べ物ですべての問題が解決してしまう「美味しんぼ」と同じように、字が綺麗なだけで、憧れの彼に告白され、学校で人気者になってしまう女の子のストーリー。要するに、ペン習字講座を習いましょう、という話なんだけどさ。
 確かに、今のメール、ワープロ全盛の時代では、ペン習字が役立つ機会は少なくなってきているだろうし、ペン習字が流行らないのも仕方がない面もあるのだろうなあ。
 今頃、「美子ちゃん」は、どうしていうんだろうか?押入れにペン習字のセットをしまって、メール打ったりしてるんだろうか?

 追記:昔から疑問だったんだけど、彼女の名前は「ビコ」?「ミコ」?
それとも、「ヨシコ」?


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新人騎手の見果てぬ夢。 - 2003年02月15日(土)

昨日、JRAの新人騎手および新規調教師の合格発表が行われた。
で、今日のお昼の競馬中継で、合格者の紹介が行われていたのだが、
その番組中で、新人騎手(まだ高校卒業したてくらいの若者たちだ)の初々しいインタビューが流されていた。
新人騎手A「目標は武豊騎手です」
新人騎手B「誰にも負けません!」
新人騎手C「G1レースにいつも乗れるような騎手になりたいです」
新人騎手D「今年の有馬記念に絶対出走します!!」

お前は、馬か!
(いやたぶん、「出走馬に騎乗します」ということなんだろうけどさ。
万が一、キミが出走しても、未勝利馬にも勝てんと思うぞ…)




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もらって嫌なチョコレートNo.1 - 2003年02月14日(金)

バレンタインデーも、そろそろ半ばを迎える。
ということで、バレンタイン関係の話をここでまとめて。

(1)もらって嫌なチョコレートNo.1は、「ツインシュート」だ。

「あっ、これ、A美と私、2人からの分だから」
これは困る。明らかに義理だ。しかし、「後輩一同からです!」というものならこちらも、3月14日に「これ、お返しだからみんなで食べて」というふうにまとめられるのだが、相手が2人だとそうはいかない。結局、2人分のお返しをしないといけなくなってしまう。
 というかさ、男というやつはたぶん、1000円のチョコを「2人まとめて」もらうよりも、500円のチョコをひとりずつから2人に手渡しされるほうが、はるかに嬉しい生き物なのだ。「義理」ということをよっぽどアピールしたいんだろうけどさ。あっ、大きな紙袋の中から「あっ、先生のはこれ」とか、全く同じ種類のチョコレートを取り出してくるのも止めてくれ。

(2)自分で渡せ!

何年か前に、職場の女の子に「はい、チョコレート」と渡されたあと、
「これ、他の医局の先生にも渡しといてください」とチョコレートの束を渡されたことがある。
「だって、恥ずかしいじゃないですか…」って、どういう意味だよ…
女友達ならともかく、そういう趣味がなければ、男からチョコレートをもらうほど、そして、男にチョコレートをあげるほどお互いに哀しいことはないんだって。
バレンタインは、モノじゃなくて「ちょっと恥ずかしそうな女の子からチョコをもらう」というシチュエーション重視のイベントなのだ。
 友達に頼むな。ましてや、男にことづけるな!頼むよホントに。

(3)過度の義理は辛い。

去年はちょうどバイト先の病院に出張の日で、病院中を回診して廻ったのだが、5階ある病棟のナースステーションの各階ごとに「バレンタインだから」とチョコを渡された。最後のほうの階では、「またこの階でも…」と、まるで年貢を徴収しに来た悪代官のような気分になってとても嫌だった。義理にも程がある。

(4)ところで女性は…

 今日、エレベーターで新婚の同僚(女性)に会ったとき、毎年ダンナがたくさんチョコもらってくるから、太っちゃって困る、という話をしていた(ダンナは甘いものを食べない、らしい)。
 実際、夫や彼がいる女性にとっては、他の女からチョコをもらってくる自分のパートナーは、いったいどんなふうにうつっているのだろう?
 たくさん持って帰ったら「怪しい!」と思うだろうし、さりとて、一個も持って帰って来なかったら、別の意味で怪しむか、「そんなにモテナイ人だったのか…」と悩みそうな気もする。

(5)というわけで、今年の僕は苦戦中なのですが

 だいたい、本命・対抗クラスのチョコレートは、夕方から夜間と相場が決まっているので、まだあきらめるのは早いですよね、きっと…

(6)「生きろ!」

 今夜「もののけ姫」を放映するのは、ひょっとして、僕たちを励まそうとしてくれているんですか、日本テレビさん…


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バレンタインデーって、都市伝説じゃないの? - 2003年02月13日(木)

 えっ、ヴァン・アレン帯?
 ああ、ニューヨーク・メッツの監督のこと?
 なんて哀しいボケが、全国各地で繰り広げられていると予想される2月13日。
 
 ちなみに、「ヴァン・アレン帯」とは、地球を取り巻く放射線帯のことだ。
 ヴァン・アレンは、アメリカの物理学者の名前。以上トリビア。

 バレンタインデー、というのは、メディア的にはかなり大々的に取り上げられるイベントなのだが、僕自身は、あんまりその恩恵に与ったことがない。
 なぜかと言うと、モテナイからだ。

 しかし、毎年思うのだが、2月14日に、いきなり「好きです!チョコもらってください!」なんて告白された経験がある男子って、何%くらいいるんだろうか?
 少なくとも僕の周りには(高校が全寮男子校だったせいかもしれないが)ほとんどいないような気がする。
 もちろんこれは、元々つきあっている彼女や女友達からの義理チョコは含まれない。「告白+チョコ」のシチュエーション限定だ。
 「チョコレートとともに告白」なんてのは、マンガの中のことで、単なる都市伝説ではないのか。そうだと言ってくれ。
 もし現実にあるとすれば、こういうのって、一部男子のもとに集中しちゃってたんだろうなあ。愛のマイクロソフト。

 もう30を超えた今となっては、急に告白とかされたら面倒だな、というくらいにしか感じないし、彼女からのチョコは、明らかに「自分が食べたいチョコ」が選択されているんだけどさ。

 でも、一回くらいは「告白+チョコ」を経験してみたかった気も…
 いや、人生経験のひとつとしてだって、本当だってば!


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『せんじょうのピアニスト』 - 2003年02月12日(水)

僕「今度、『戦場のピアニスト』観にいこうよ。いい映画らしいから」
彼女「『戦場のピアニスト』って映画、前にもなかったっけ?
 同じ人を描いた映画なの?」
僕「いや、ピアニストって、『海の上のピアニスト』とかはあったけどさ、全然違う映画だって」
彼女「でも、同じ人を描いた映画なんじゃないの?どう違うの?」
僕「えっ?」
彼女「だって、ずっと船の上にいた人の話なんでしょ?『船上のピアニスト』」
僕「いや、同じ『せんじょう』でも、バトルフィールドのほう…」

しかし、そう考えてみると
『船上にかける橋」なんて不安定だし、
『船上のメリークリスマス』なんて、単なる船上パーティーだな…


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ボラ!ボラ!ボラ! - 2003年02月11日(火)

 立会川にボラの大群、というニュースを見て、小学校のころ友達と釣りにいったときのことを思い出した。
 そのときは堤防釣りをしていたのだけれど、絶望的なくらいに釣れなくて、文字通り竿を巻いて自転車で帰路についたのだけれど、帰り道の途中の川で、妙に魚影が沢山見える川があって、僕と友人は、そこで竿を垂れてみることにした。
 するともう、まさに入れ食い。餌をつける暇もないくらい。
 でも、最大の難点は、釣れた魚がみんな、ナマズの細長いやつみたいな、あまり見栄えがしない魚だったことだ。
 そうやって釣っているうちに、クーラーが一杯になってきて、さらに上流から蛇が流れてくるという衝撃の事件が起こり、僕らは自転車を全力でこいで家に帰ってきた。
 そして、僕はその釣果を家で疲労したのだけれど、母親は「この魚、気持ち悪い…食べられるのかなあ」と悩んだ挙句、知り合いの寿司屋に持って行ったのだが、寿司屋の大将は、「この魚、皮が硬いし、食べるのは難しいんですよねえ。でも、なんとかしてみますよ」と言って引き取ってくれたらしい。「煮ても焼いてもゴリゴリ」なんだとか。捨てられちゃったんじゃないかなあ、きっと。

 その魚が「ボラ」だったのだ。
 だから、このニュースを聞くと、なんだかそのときのことを思い出して、ボラに申し訳ないような気がしてならなかった。
 あんまり釣れすぎる釣りには、ロクなことがない。


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「書くことがない」なんて、嘘。 - 2003年02月10日(月)

「書くことがない」という書き出しから、いかに書くネタがないかをつらつらと書き連ねる技法は、直木賞作家(僕にとっては、競馬好き、オンナ好きのオジサン、というほうが通りがいいのだけれど)高橋源一郎によって極められたとされている。そしてそれ以降は、いわゆる
 僕は、書くことがない、という悩みを抱えたことはあまりないのだけれど、ときどき、うまく書けない、とか、書きようがない、というように感じることがある。
 今日なんかは、まさにその典型であるわけで。
 たとえば、休みの日で1日ゴロゴロしていた、とか、風邪で寝込んでいた、なんて日は、「書くことがない」し、好きな歌手のコンサートに行った日は、「書くことがたくさんある」と考えるのが、一般的だと思う。
 でも、僕はけっこう長く日記を書いてきて、最近思うことがある。
「書くことがある日の日記は、実は、あんまり書き手にとっては面白くない」
 何故かというと、ただ事実を羅列するだけで、終わってしまうことが多いからだ。
 何時何分に家を出て、何時何分に会場着。憧れのナントカちゃんは一曲目に何を歌い…
 
 実は、こういうのは書いていてもなんだかやっつけ仕事をしているみたいで、あんまり面白くない。報告書作成、って感じで。
 逆に、イベントがない日は、いかにその日常のルーチンワークから話を広げていくか、という楽しみがある。なんか訳わかんないところに話が飛んで行ったりもするのだが、そういうのもまた良し。
 読んでるほうは、「何じゃこりゃ!」と思ってるかもしれないけれど。

 でも、ほんとうに書けないときが、ごくたまにあるんだよなあ…
 それは、書くことがないんじゃなくて、書く気力が起きない日、です。
 
 今日は、そんな日。


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魚肉ソーセージは生きている! - 2003年02月09日(日)

 新聞で読んだのだが、「魚肉ソーセージ」が発売50周年を迎えたとのことだ。
 最近めっきりお目にかかることがないと思っていた魚肉ソーセージ(そういえばこの間、パチンコ屋の余り玉でもらったな)だが、僕が小学生の頃は、ソーセージといえば、この先端の銀色の輪っかがついている袋に入った、ピンク色の魚肉ソーセージだったのだ。
 そのほかに、お弁当には、小指の先くらいの大きさで肌色の「パルキー」なんてのが、ときどき入っていることがあったっけ。
 現在主流の「ジャウエッセン」みたいな本格的ソーセージは、フレンチドックの中でしかお目にかかることはなかった(いや、あれもでかいパルキーみたいなものだったのかな)。

 ちなみに、魚肉ソーセージの生産量は、ピーク時の1972年が18万トンで、現在は約6万トン。生産量は3分の1になっているのだが、実際に口にする機会は3分の1よりもはるかに少なくなったような気がする。

 本格ソーセージは確かに美味しいけれど、ときどき無性に魚肉ソーセージが食べたくなるのは、なぜなんだろう?懐かしいから?
 一口食べたら、なんとなく納得して「もういいや」と思うだけなんだけどさ。

 


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イラク非難の証拠としての音声と映像への疑問 - 2003年02月08日(土)

たとえば、僕が彼女の浮気を疑っていたとしようか。
浮気に気がつくのには、いくつかの段階が通常あるだろう。

(1)最近連絡が少ない(忙しいのかな。でも、まさか他の男と!)
(2)着信履歴を見たら、他の男からの着信が頻繁に!(この男?)
(3)2人が仲良く街を歩いていたところを見た、という友人の証言(まさか…)
(4)2人がホテルから出てくるところを実際に目撃(確定!)

といったところだろうか、もちろん(1)〜(4)は、すべて順番どおりにいくわけはないし、(3)と(4)の間に、探偵を使って証拠写真を撮る人だっているだろう。

 さて、一般的にどの時点で浮気が確定するかというと、まあ、(4)は絶対的だが、(3)では「単なる男友達」という可能性もある(いや、そこで既に浮気だと思う人も当然いるだろう)。おそらく(3)と(4)の間くらいに、決定的なポイントは存在しているのだ。
 (1)は想像、(2)は推測、(3)は伝聞、(4)は体験。と言い換えられる。

 さて、今回の国連安保理でのイラク問題なのだが、アメリカが提示した証拠は、おおよそ(3)と(4)の間、しかも(3)に近いもの。要するに「状況証拠」なのだ。
 僕は、報道されている証拠のごく一部しか知らないのだけれど、イラクの兵士の会話を傍受したという「神経物質…」のテープを聴きながら、この兵士たちが英語で喋りだしたら面白いだろうなあ、と思っていた。
 だいたい、各国の代表の大部分は、イラクで常用されている言葉を解しないと思うし、喋っている人物に面識もなければその人の声のデータもないんだから、「吹き替え版」でも、わかんないんじゃないだろうか?
 字幕読んで「なるほど…」とか言ってもねえ…字幕がウソの可能性だってあるだろうし。
 やろうと思えば、ルーカスフィルム製作の「イラク化学兵器工場の映像」とかだって、できなくはないだろう。これはさすがにあんまりか…
 
 僕は、イラクは何か隠しているだろうし、国連の査察を邪魔しているとも思う。
 でも、イラク的には、攻めてくるかもしれない連中に手の内を全部さらけ出すわけにもいかないんじゃないかなあ。

 こういうことで、絶対的な証拠なんてのを出すことは不可能に近いことなのかもしれないけれど、あまりに先走って結論に持っていこうとすると、彼女と別れたあとで後悔するようなことにもなりかねない。

 ただ、アメリカにとっては、(4)の体験というのは、自分たちが化学兵器を使われる、という悲惨な状況もありうるわけだから、やられる前にやれ!という発想も仕方がない気もする。

 でもなあ、「浮気してるよ」といくらみんなに言われても、疑り深い僕のような人間は、やっぱり「はいそうですか」と、すぐには信じられないんだよなあ。

 今、イラク側は、「いったいどうすれば戦争を回避できるんだろうなあ…」すごく悩んでるような気がする。

 それでも「(俺はお前と別れたいから)お前は浮気しているはずだ!」
という様相じゃ、別れるしかないのか?




 
 




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テキストの価値を決めるもの。 - 2003年02月07日(金)

 読売新聞の記事で、洋画家・中川一政氏のコレクションで、オークションに「作者不詳・落札予定価格1〜2万円」として出品される予定だった油絵「婦人像」が、巨匠ゴッホの初期作品だとわかった、というのがあった。
 ちなみに、ゴッホの作品ということなら、だいぶ損傷が激しいこの絵でも、価格は3000万円、とのことだ。
 僕は、この記事を読んで、絵画の値段というのは作品の内容によって決まるんじゃない、ということをあらためて痛感した。
 もちろん、ゴッホの作品の中でもランクがあって、3000万円というのは、彼の作品の中では最低ラインに近いものだと思うのだが。
 それにしても、作者不詳なら1万円の作品が、「ゴッホの絵」だとわかったとたんに3000倍の価値を持つとは。
 その「絵」そのものは、作者が誰であろうと全く同じものなのに。

 サイトをやっていて、この広いネットの世界には、たぶん僕の知らない素晴らしい文章がたくさん埋まっているんだろうなあ、と感じることがある。
 でも、僕が持っているそれを見つけ出すための術は、あまりにも拙いし、探すための時間だって限られている。
 
 全く同じことを書いても「誰が書いたか」によって、影響力が変わってくるのは、ネットの中でも同じなのだ。ものの価値というのは、基本的には買い手が決めるもの。もちろん、自己満足、というのはひとつの結論ではあるが。

 良いものを書いていたら、必ず誰かに届く、というのは、確信めいていて、実は幻想にすぎないのかもしれない。
 これは、ゴッホに責任があるわけじゃないし、彼の生前の画家としての評価は、アクセスがほとんどない零細サイトの管理人みたいなものだったのだけれど。


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中島らも氏に、一度だけ会ったことがある。 - 2003年02月06日(木)

 中島らもさんに、一度だけ会ったことがある。

 いや「会った」といっても、僕の一方的な感情で、彼からすれば、僕は単なる多数の中のひとりでしかなかったのだろうけれど。
 数年前、中島さんが以前に主催していた劇団「リリパット・アーミー」の福岡公演に行ったときのこと、日本の多くの劇団の慣習に従って、その公演でも終了後、プログラムに出演者たちがサインをする、というイベントが行われたのだ。
 そのときは、リリパット・アーミーの結成何周年かで、中島らも前座長とわかぎゑふさんが、並んでサインをしてくれていたのだ。
 僕はそのとき、僕と同じく、らもさんの大ファンである同い年の女性とその公演を観にいっていて、2人でサインをもらいに行くことにしたのだ。
 行列に並んで、いよいよ僕の番。
 向かって左手にわかぎさんがいて、右手にらもさん。
 そのとき、僕はただひたすら緊張していた。
 わかぎさんが香道の達人という話も聞いたことがあったので、自分は変な臭いがしてないかなあ、などと思ったり。
 僕の前に並んでいた同級生は、ニッコリ笑ってわかぎさんと言葉を交わしたりしていたのだが、僕はただ「ありがとうございます」というのが精一杯だった。
 わかぎさんは、活力のカタマリみたいな人で、トレードマークの黒いテンガロンハットを被っていたらもさんは、サインをし終わった後、鋭い目つきで僕のほうをギロッと睨んだような気がした。正直、彼を包む巨大な殻みたいなものを僕は感じたのだ。そしてそのあと、らもさんは照れくさそうに顔を緩め、隣のわかぎさんに何か耳打ちしていた。
 ちなみに、同級生の印象は「すべてを受け入れるというか、包容力がありそうな人」だった。
 同じ人間にほとんど同じ時間に会ったのに、個人個人の受け止め方というのは、ここまで違うものなのだ。

 僕は、今でもそのときのサインを大事にしているのだけれど、中島らもという人は、その時はそうでもなかったけれど、あとから思い出してみると、とても印象に残っている人だ。
 
 大きすぎる創造性と依存心と慢性躁鬱。
彼は、麻薬の類を「日本国内では、絶対やらない」と公言していた。
 大麻に溺れるなんて、人間として情けない、という意見もあるだろうし、大麻に頼らないとならないくらい、厳しい心の闇を抱えていたんだろうか?という気もする。
 それもたぶん、その人の受け止め方しだい。

 実際、本人にも何故だかわからないんじゃないかなあ。
 
 ひとつだけ言えることがある。
 「中島らもが大麻をやっていた」ということでファンを止める人は、少ないだろう。
 たぶん、彼が「大麻は二度とやらない」と宣言したときに減るファンの数と比べると圧倒的に。

 ある人からいただいたメールで考えたのだけれど、今回の逮捕は、らもさん自信にとっては、薬物依存から逃れるためのリハビリ施設への入所みたいなものかもしれない、とりあえずそう思うことにしよう。

 出版社も、どうせあとで「獄中記」とか手のひらを返したように依頼してくるなら、あんまり責めないほうがいいような気もするが。


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平井堅が「大きな古時計」で犯した罪。 - 2003年02月05日(水)

 最近の仕事場でのBGMは、平井堅の「Life is…」だ。
このアルバムの最後には「大きな古時計」だ入っている。
それで、何度もこの「古時計」を聴いているうちに、昔のことを思いだした。
 それは、「てんご〜くへの〜ぼるおじいさん」というフレーズ。
 
 僕の小学校のころ、この歌を音楽の時間に歌わされたとき、
同級生の「昇くん」は、毎回おじいさんにされて、天国に行かされていたのだ。てんご〜くへ「のぼる」おじいさん…

 たぶん今回またこの歌がクローズアップされたせいで、全国の「のぼるくん」が天国に行かされて、平井堅を恨んでいるんだろうなあ。
 
 もし「平井堅」じゃなくて、彼の名前が「平井昇」だったら、絶対にこの歌をカヴァーしなかったはず。



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『サルの歌』 - 2003年02月04日(火)

橘いずみ、というアーティストをご記憶だろうか?
僕がまだ(かろうじて)20代前半くらいの頃、一時的に売れていた人だ。
尾崎豊と同じプロデューサーで、「女尾崎」とか言われていたっけ。

ここ数日、僕の頭の中で、彼女の歌がリフレインしている。
曲名は「サルの歌」

♪寂しくなんかないんだよって、泣いてるのが子供
 寂しい…と呟いて、涙隠す大人

と最初のフレーズを引用すれば、「あの歌か?」と想い出してくれる人もいるかもしれない。

僕は当時、今から考えたらまったく見込みの無い恋をしていて(いや、もし万が一、彼女とつきあえていたら、かえって僕の人生はボロボロになっていたかもしれない、と想像できるくらいだ)、相手の女の子は、かわいくて、傷つきやすくて、そして、他の男に恋をしていた。喜怒哀楽の激しい子だった。

彼女に橘いずみのCDを貸したとき、「この歌が好き」と教えてくれたのが、この「サルの歌」だったのだ。
「自分は人と違う」と無理に思い込もうとして、結局、「みんなと同じような他人と違うこと」をしてしまっていた、という内容の歌詞は、僕らの心に突き刺さってきた。それは、当時の僕たちそのものだった。
 
 他人と同じだということが理由もなく許せなかった時代の話。

♪爪を立てて引っかいたら 頭を撫でられ 
 素直になれと あのひとは 笑う

 このフレーズを思い出すと、今でもとても切なくなる。
 行き場も無い、投げつけても跳ね返ってすら来ない、そんな感情をもてあましていた頃。

 彼女が、今どうしているのかは全然知らない。
 僕は、自分がまだサルなんじゃないかと、ときどき思う。



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パイロットは、地味な仕事なの? - 2003年02月03日(月)

 昨日飛行機に乗ったら、何故かスチュワーデスさん(以下CAさん)のシートと向かい合わせの席だった(いわゆる「出入り口の近くの席」)。
 こういう状況だと、いつもは目のやり場に困るのだけれど、昨日のCAさんは気さくな人で、着陸前に僕の隣のK先生と話しこんでいたので、少しだけ仲間に入れてもらった。
 その航空会社は、キムタクの「Good Luck!!」に全面協力しているところなのだが、僕が「あれ観てると、パイロットになっておけばよかったかなあ、て思います」と言うと、嬉しそうに微笑みながら
「でも、そんなにカッコいいばっかりの仕事じゃないんですよ、実際。狭いコックピットの中に、操縦士と副操縦士2人きりでずっといないといけないし、実際は、ドラマみたいにいろんなトラブルが起こるわけではないから、長いときは十数時間も集中力を切らさないようにするのが大変みたい。」
と教えてくれた。

 そうなんだよなあ、「いい仕事」なんていうけれど、実際はそういう仕事は何でも、カッコイイ瞬間よりも、地味な努力や準備期間のほうが長かったりするわけだ。
 医者だって、外科医は24時間を越える手術なんてのがあったりするが、内科医を眠れなくさせているのは、カンファレンスの準備やカルテの記載、患者さんの生命保険の診断書の記入などの事務仕事だったりするわけだ。
 野球選手だって、試合より練習している時間のほうが、はるかに長いわけで。
 
 楽で、カッコよくて、収入がいい仕事なんて、そうそうあるわけないもんなあ。



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「テキスト庵」さま、ごめんなさい。 - 2003年02月02日(日)

かなりびっくりした。

何に驚愕したかというと「アクセス庵」の結果に。
僕の表サイトのほうは、一昨年8月にオープンし、作って4ヶ月半で、ようやく合計1000アクセスに達した、まさに典型的個人零細サイトだ。
たぶん、1000のうち500は自分だったと思う。

その当時はアクセス解析なんてつけていなかったし、
「READ ME」なんて、存在すら知らなかった。
それなりに読んでくださる方が増えたのは、たぶん去年の1月に、日常日記を「さるさるマガジン」で紹介してもらったのと、春くらいにもうひとつの読書日記(今では、半分くらいニュースサイト化していて、実はちょっと申し訳なく思っている)を「テキスト庵」の「テキスト風聞帖」で紹介してもらったのがキッカケだと思う。
 あとは、リンクしてくださったサイトの皆様のおかげと、去年の後半の「テキストコンテスト」参戦だろう。
 こうしてテキストサイト化への道を進んだ表サイトなのだが、その過程では、僕にとってのさまざまなストレスがあった。
 日常日記には、あまりサイトの話は書きたくなかったし、読書日記にも、サイト運営経験上の話はいいが、他サイトに対する言及とか、ネット界での愚痴なんかは、書くべきではないと思っていた。
 そういったことに対する言及は、上記2つの文章を読む人をしらけさせてしまうのではないかと思ったからだ。
 少なくとも、ネットバトルで人を呼ぶような運営は、絶対にやりたくなかったし。

 でも、サイトをやっていると、どうしてもどこかに書きとどめておきたいことも出てくる。サイト運営上感じたことやネットへの言及、もしくは、上記2つの日記のカテゴリーに入りきれないものなど。

 この「マニアックな憂鬱」は、そういった「こぼれおちるもの」を書いて、僕のストレスを発散するために存在している。
 最初(昨年3月)はライコスダイアリーだったんだけれど、うちのネット環境で接続トラブルが続いたので、去年の秋口にエンピツに移した。

 僕の中では「こんなサイト、読んでる人はいないよね、きっと」というのが本音だったし、昔のライコス版なんて、今読んでも「これは、けっこう面白いんじゃないかなあ」と自分で思うようなやつもあれば、競馬で負けた恨みを延々と語っているような、できれば消去したいものもある。
 でも、意外と今読んでみると面白かったりもする。

 エンピツの「アクセス解析」は時々見ていたんだけれど、今回の「アクセス庵」の結果には正直驚いた。
 
 けっこう、みんなここを観てたんですね…
 表からのリンクもないってことで、ここは、みんな知らないはずだと思っていてのだけれど、風呂に入って気持ちよく出てきたら、まわりがマジックミラーだということを知らされたような気分だ。

 嬉しくもあり、「『マニアックな憂鬱』の憂鬱」をどこかでこっそりやろうかな、などと思ったりもする。
 しかし僕も、自分の愚痴すら更新報告してしまうなんて、因果な人間だな、まったく。

 いやほんと、テキスト庵には、足を向けて寝られません。
 
 それにしてもまさか「当直日誌」より上だとは、夢にも思わなかったよ…
 このサイトは「テキスト庵の読者の興味を特異的に引く」文章なんだろうか?1日の総アクセス数は、表の2つにはとうていかなわないのに。

 正直、こんなに人が来てくれていたなんて、申し訳ないです。
 テキスト庵に陳謝。



 
 



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