マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

「どんな音楽聴くの?」という質問って、意外と困りませんか? - 2003年03月31日(月)

 ついこの間のこと、長年の友人である女性に、こんなことを聞いてみた。
「日頃どんな音楽を聴いてるの?」
 別に、話が突然ジャンプしたわけじゃなくて、彼女のCDウォークマンが壊れた、という話の流れでそういう質問をしてみただけだ。
 でも、彼女の答えは「う〜ん、いろいろですよ」というものだった。
 僕は、なんとなく腑に落ちないような気分になったのだが、よく考えてみれば、僕自身も「どんな音楽聴く?」という質問には、いつも悩まされるのだ。
「 モーニング娘。」とか言ったら、このオッサン何考えてんだとあきれられるかもしれないし、宇多田ヒカルじゃ、あまりにメジャーすぎて何も考えてない人のように思われるかもしれない。ちょっとマイナーなアーティストを挙げたら、通ぶっていうイヤミな人の印象を与えるかもしれない。クラシックなんてのも、お高くとまってると思われそうだしなあ。
 あまり有名じゃない人を挙げて、「それってどんな曲を歌ってるの?」とか尋ねられ、答えに窮してしまったりもするのだ。
 まして、名前を挙げて批判されたりするのもまっぴらごめん。

「何が好き?」って質問は、意外と訊かれるほうとしては大変なのだ。
訊く側は、意外と「好きなこと話させてやるよ」くらいにしか思ってないことが多そうなのだけど。

 まあ、あんまり難しく考えなくても、世間には「何が好き?」と尋ねられると困ってしまう人種とそれを理解できない人種がいるのは、紛れもない事実だ。

 そんなことばかり考えすぎてしまうから、
 見えるものを見えると言えずに今日も眠れない。



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気づかないほうが、幸せなこと。 - 2003年03月29日(土)

僕は最近、車を運転するのが怖い。
いや、アレに乗っていて、「どうしてコレはぶつからないんだろう?」
と考え出すと、もうダメだ。
「ぶつからないのは、運がいいだけだ」
ということに気がついてしまう。

大昔のパソコンのアドベンチャーゲームでは、
(例をあげれば、「デゼニランド」とか「ウィザード&プリンセス」とかなのだが、
たぶんこんな例をあげても、誰もわかんないだろうけど)
「ヒガシ イク」とかいう方向支持のコマンドを入れただけで、
落とし穴に嵌って即死したりしていたのだ。
ああいうのが、ある意味リアルなのかもしれない。
実は、一本列車に乗り遅れたから事故に遭わずにすんだ、とか
寝坊したから、通行人を轢かずにすんだ、なんてちょっとした偶然の積み重ねで、
僕たちの日常というのは維持されているのかもしれない。

気づかないほうが幸せなことって、けっこう一杯あるよなあ。





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弱小サイトで、ごめんなさい。 - 2003年03月28日(金)

今日、プロ野球が開幕する。
どんどん「待ちに待った感」は薄れてきてはいるけれど、それでもやっていないよりは良い様な気はする。

ただし、野球中継がゴールデンタイムを占拠する時期は、各局のドラマの制作費やキャストがやや抑えられるらしい。
確かに、4月スタートのドラマは、1月からのものに比べて全体的に小粒な感は否めない。

しかし、巨人はともかく、阪神はそんなに強いのか?
去年の戦力+伊良部+金本で、優勝候補レベルまでイキナリ行ってしまうとは思えないのだけれど。
最近の野球解説者の芸人ぶりにはホトホトあきれ果てていて、
野球の解説をする前に面白いことを言おうという色気満々で、なんだか聞いてるほうが恥ずかしくなってくる。

というわけで、僕は今年も広島を応援します。
できれば、裏切り者金本が大不振に陥ってくれたりすると、
さらに生きる意欲が湧いてきます。

それにしても、球団間の戦力格差がここまで開いていることに、
みんな何も思わないのだろうか?

そうそう、大手といえば、某所で「テキコンにもっと大手サイトが参入すれば話題になるのに」という内容を見つけた。
悪かったな、弱小サイトで。
というか、弱小サイトにも自己アピールの場があってもいいと思わないの?

最近、テキストサイトウォッチ系と称するサイトが粗製濫造されているようだが、みんなせめて一ヶ月くらい続けてみてもらいたいものだな。
何も作品を書いてみせろなんて言わないし、その必要もないから。
ああそうか、そうやって「大手」と言われるところに尻尾を振ってみせるのも、彼らにとっては自己アピールなわけだよな。


あんまり人が多くってサイトばれすると困るし…
とか言いながら、やっぱり人が来ないと寂しい。
なんだか、自分が情けない。



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「逆境」な人生について考えてみた。 - 2003年03月27日(木)

 僕は現在「テキストコンテスト」というイベントに参加しているのだが、
次のお題は「逆境」なのです。
 毎回、どんなテキストを書こうかなあ、と悩みまくるのだけれど、今回はいつもに増して書けなくて。おまけに締め切りは日曜日の夜なのに、土曜日は昼過ぎから夜までバイト、日曜日はお昼前から翌朝まで当直なのです。
 要するに、ピンチなわけですね。

 というわけで、「逆境」について考えてみたのだけれど、どうもイメージがわかない。
 そこで、歴史上「逆境」をイメージさせる人間の具体例を挙げれば、ヒントになるのではないか、と思うのですね。

 うーん、僕が最初に思いついた逆境人生の人は、徳川家康なんですよね。
 人質になったり、三方が原で武田信玄に大敗したり。本能寺の変のときは、ちょうど堺に来ていて、伊賀越えで身一つになって命からがら脱出したり。
 
 世界レベルでいえば、チンギス=ハーンでしょうか。
 族長であった父親が殺され、一家数人しか味方がいない状態になって、敵に狙われたところを馬(だったっけ?)の腹の中に隠れて生き延びた、という話があります。
 そのテムジンが、草原の覇者になるのですから、これも「逆境」を乗り越えた人と言えるんじゃないかな。
 
 逆境に勝てなかった組としては、諸葛亮孔明(無能な君主と乏しい国力)、鄭成功(漢民族による大陸復帰叶わず)なども挙げられるかな。

 漫画でいえば、次から次にとんでもなく強い超人が出てくる「キン肉マン」や「プレイボール」の谷口タカオなんてのもそうかなあ。

 で、これだけあげて改めて気がついたのは、要するに、頑張ってないヤツには「逆境」って言葉は似合わない、ってこと。
 
 ああ、ということは、僕が今、自分の状況を「逆境」だと感じているのは、マチガイということなのだよなあ。そんなにガンバッテないし。
 「不徳の致すところ」とか言っちゃう女子アナみたいなもんか。



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小泉今日子の「学園天国」が、そんなに昔だったなんて! - 2003年03月26日(水)

 今テレビを観ていたら、キョンキョンこと小泉今日子の80年代ベスト10を発表していた。
 いやそれでビックリしたんだけど、キョンキョンの「学園天国」って、80年代だったんですね、今から十数年も昔かあ…
 そういえば、大学の部活の歓迎コンパで、先輩が歌ってたような記憶がよみがえってきた…
 ちなみに、1位は「迷宮のアンドローラ」で37万枚。
 10位の曲でも20万枚以上で、すごく安定した売り上げだったみたいです。
 固定ファンが多かったんだろうなあ、きっと。

 僕は、「あなたに会えてよかった」以降の曲のほうが印象深いのですが。
 ちなみにマイベストは「優しい雨」。

 



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レクター博士と春の誤算。 - 2003年03月25日(火)

 そういえば、春休みだ。
 とはいえ、社会人デビューしてからは、春休みなんて概念はすっかり無くなってしまい、
たまにテレビの番組表をチェックしたときに、「そういえば最近、なんだか放送される映画が豪華だよなあ」と思うくらいだ。
 これは春休みというよりは、番組改変期だからなのだろうけど。

 そういえば、学生時代は春休みが大好きだった。
 気候もいいし、宿題もない(某進学校時代は残念ながら違ったけれど)。登校日もない。
 お正月のような、鬱陶しい家族行事もない。
 クラス替えで友達と別れるかもしれないという不安に怯えつつも、短い最後の晩餐。
 そういえば、高校野球にも全く興味がなくなった。
 一番最近、リアルタイムで試合を観たのときには、松坂が投げていたような気がする。
 それでも、今年も桜が咲いた。

 ああ、豪華な番組といえば「ハンニバル」は、「GOOD LUCK!!」の裏でかわいそうだった。あっちが37%では…
 けっこう視聴率が稼げそうな映画だったのにね、もったいない。



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さらば、死神博士。 - 2003年03月24日(月)

 天本英世さんが逝ってしまわれた。
 享年77歳と聞いて、「まだそんな年だったの?」と思ったのは僕だけだろうか。
 だって、仮面ライダーで死神博士を演じていたときから、既にかなり高齢の印象があったから。
 死神博士というのは、数ある悪役のなかでも、子供心に「怖い!」と感じた数少ない人物だった。
 なんというか、他の悪者たちは、誰かに操られて悪いことをしているとか、単に人の嫌がることをしたくて悪事を働いている印象だったのだが、死神博士は「悪の論理」を持っているという感じがした。学者が学問に没頭するのと同じようなもので、彼の場合は研究対象が偶然悪事だった、というような。
キャラ的には、レクター博士に近いかも。

記事には「子供たちに親しまれた」なんて書いてあったが、僕が子供時代だったら、街でみかけても絶対に天本さんには近づかなかったと思う。だって怖かったんだもの。

ちなみに、素顔は東大中退のインテリでスペインが大好き。
「日本人は権力者に従順すぎる」と日頃から言っていたという。

生前の写真をネットであらためて眺めていたら、ごくごく普通のおじいちゃんで、そう感じたとき、なぜだか目頭が熱くなった。



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どうせ夢なら、松嶋菜々子。 - 2003年03月23日(日)

 テレビを観ていると、なんだか不思議な気分になる。
 戦時下のイラクの映像のあとに、骨髄バンクへのドナー登録を求める場面になり、その次に、松嶋菜々子が「キスしたことある?」と男の子をからかうCM(いや、僕もからかっていただきたいですけどね)。
 何が現実かなんてわかんなくなってくるし、すべてが夢なんじゃないか、と思うことがある。すべて、フィクション。
 どうせ夢なら、松嶋菜々子。

 僕は「マトリックス」を観て、「楽しい夢なら、別にコンピューターに支配されててもいいんじゃない?」と思う人間。

 
 今日、久々にマックのダブルチーズバーガーを食べたんだけど、昔から大嫌いだったピクルスの酸味が、けっこう美味しいような気がした。
 味覚は変化するし、そこに在るものには、大部分それなりの意味がある。



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「なごり雪」のビロウな聴きかた。 - 2003年03月22日(土)

  移動中の車のラジオから、まさにこの時期にピッタリのイルカの名曲「なごり雪」が流れてきた。
 僕は、昔からこの曲を聴いていると、一箇所ものすごく気になる部分があるのだ。
 「なごーりーゆきーもー ふるーときーをしーりー」
という歌詞のところで、「降るときを知り」が

「ふるーときー おしーりー」

 つまり、「お尻」が印象に残ってしまって、お尻フリフリしてるようなイメージ映像が心に浮かんでしまうのです。
 また、この「おしーりー」が熱唱なんだよ…




 



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「戦争」に対して、モノワカリが良すぎじゃないのか。 - 2003年03月21日(金)

 戦争について、さまざまな言説がネット上で語られているし、僕もいろいろ書いている。
 賛成・反対はともかく「僕たちは無力だから、戦争について語っても仕方がない」というコメントを眼にすると、少し悲しくなる。
 確かに、ネット上で語っても仕方がないし、さまざまな観点からものごとを観ていると、結局何が正しいのかなんて、わからなくなってしまうけれど。
 「どうしようもないから語っても意味がない」とか「こんな時代なんだからしょうがない」
 そうやって、多くの普通のドイツ人はナチスによるユダヤ人迫害に加担し、日本では若者たちが帰還することのない飛行機に乗り込んだ。
 弾圧される以前に、自分たちから言論封鎖してどうするんだろう?

 僕は中学生のとき、学校の図書館で原爆の被害を撮った写真集を見た。
 あまりの恐怖と悲しみにかられ、そのことを同級生に話したら、
「でも、仕方ないんじゃない?おかげで戦争は早く終わって、結果的には被害が少なくて済んだんだから」というのが、同級生の答えだった。
 僕は、ただ悲しくて情けなかった。
 
 そんなにモノワカリがよくて、いいんだろうか?

 今の日本人に「戦争は悪いことだ」と信じている人が大多数なのは、僕たちの親やその上の世代が身をもって体験したことを僕たちに遺してきたからだ。僕たちが「戦争なんてどうでもいい」と思うようになれば、僕たちの子孫は、たぶんそういう意識をもつようになる。
 それはまさに、戦争をしようとする人間たちの思うツボではないのか。
 
 そんなことを考えながら、同じ映像しか流れない戦争報道に、僕は既に飽き始めている。

 人は、同じ過ちを繰り返す。



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僕が戦争を嫌う理由。 - 2003年03月20日(木)

 イラクへの空爆が始まった。

 「僕の生きる道」で、僕は癌で落命するまで行き続けた中村先生に涙したのだけれど、
戦争というのは、若くして癌で余命一年を宣告されて死んでいくよりも、もっとあっけない死を大量生産しているのだ。
 流れ弾に当たって死んでしまう兵士や、誤爆で焼かれる民衆。難民となってしまい、感染症で命を落とす人々。
 これらの死は、中村先生の死よりもはるかに理不尽ではないだろうか?
 自分のことを愛してくれるパートナーもいなければ、生徒たちの尊敬も、医者の手助けもない死に方。
 
 人の価値は平等だというけれど、生まれてすぐ空爆に巻き込まれて死んでしまった赤ん坊は、果たして充実した人生とやらを送ることができたのだろうか?
 普通に病気で死ぬ人間だって、あるものには支えてくれる人もない孤独な死が訪れることだってあるだろうし(いやむしろ、「愛し愛されるパートナー」に恵まれる場合のほうが稀有だろう、違う?)、通り魔に遭って命を落とす人だっている。

ひとりの人間の「がんばって生きようとする」なんて小さな決意も叶わないほどの大きな力に押しつぶされる死が、この世界にはゴロゴロしているのだ。

僕は戦争が嫌いだ。
なぜかというと、戦争は僕に、そういった理不尽な死の実例を多量に提示し、僕自身もそういう理不尽な死に遭う可能性を上昇させるから。
そして、他人の人生を自分がそうやって理不尽に奪っていっているのではないか?
ということを考えさせられてしまうから。
少なくとも、日本という国は、アメリカ軍の巨大スポンサーなわけだしさ。
番組がどんなに評判悪くても、降りられないスポンサーだがね。

「守るべきもののためなら、死んでもいい」と思うことだってある。
 でも、自分が死なないほうがいいに決まっている。

要するに、自分が死にたくないし、他人を殺して厭な思いをしたくないから、
僕は戦争が嫌いなんだ。

 もちろん、普通に生きたって、理不尽な死に捕まる可能性は十分ある。
「死」そのものが人間にとっては、根本的に理不尽なものだし。
 
 「人間の盾」も結構だけど、僕がイラク人なら、「そんな覚悟があって俺たちを守ろうとするのなら、一緒に武器を持って戦ってくれよ」と思うんじゃないかなあ。
 戦場の人間がほんとうに望んでいるのは「生き延びること」であって、「平和」は、そのための手段にしかすぎないのだから。

 
 戦争より平和なほうが大部分の人類にとっては良いことだ。
 それは、平和なほうが「生きる」選択肢が広がるから。
 でも、世界には「戦争になった方が充実した生を過ごせる」と考える人たちもいる。

 結局、「命の価値」なんてものは、平等ではありえないのかもしれない。



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いっちょのこし。 - 2003年03月19日(水)

昼間にラジオのFMを聴いていたら、長野県の人からのメールで、
「長野県民は、大勢で大皿料理を食べるとき、必ず最後の一個が皿に残ってしまいます。
これを地元では、『信州もんの一個残し』と言って、信州人の奥ゆかしさを表している」といわれています」というのがあった。

この投稿を聴いて思い出したのだが、大学に入学した直後、熊本出身の女の先輩が、宴会で皿の上に最後に残った料理を見て、
「こういうのを『肥後のいっちょ残し』っていうんだよ」
と教えてくれたのを思い出した。

ちなみに、ラジオによると、東京人にも同じような傾向があるみたいですね。
結局、全国各地方の誰もがみんな、自分の地域の人たちは奥ゆかしいと思っているのかも。

でも、食べにくいよね、最後の一個ってさ。
マンガなんかでは「イタダキ!」とか元気な女の子が食べて、
恨みを買ったりしてしまうわけですが。


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「伝わっている」という幻想の向こう側。 - 2003年03月18日(火)

 たとえば、僕が彼女に「きみのことが好きだ」と書いた手紙を送ったとしようか。
 彼女は、いったいどう感じるだろうか?
 「ああ、この人は私のことが好きなんだな」と思ってくれるかもしれないし、
 「もっと、気の利いた言い回しはできないの?」と思うかも知れない。
 あるいは、
 「好きだって言ってるけど、『大好き』じゃないのね」かもしれない。
 そんなの考えすぎ、って言われるかもしれないけれど、少なくとも、僕が伝えようとする「好き」と彼女が受け取る「好き」は、全く同一のものではありえない。
 それは、2人が裸で抱き合って愛を囁きあっていたとしても、変わることのない現実。
 「100%伝わっている」というのは、幻想にすぎない。
 
 「僕は、なんでこうして「伝わりもしない」文章を書いているんだろう?」
と最近よく思う。
 誰かに読んでもらいたいから?褒めてもらいたいから?暇つぶし?

 自分でも、よくわからない。
 もちろん、褒めてもらったり、感想をもらったりすると嬉しいけれど。
 ひょっとしたら、この世界のどこかに「伝わっている」のではないか、という希望にとりつかれているだけなのかもしれない。
 
 ほんとうは、大事なことは「信じること」なのかなあ。
 恋人たちが、同じ方向を見ているように感じるのは、お互いを信じている、もしくは信じようとしているからだ。
 ほんとうは、「好き」なんて言葉は、「信じてる」もしくは「信じたい」の言い換えなのかもしれない。

 とかく「伝えること」がコミュニケーションだと僕たちは思ってしまいがちだけれど、実際は「伝えようとすること」もしくは「伝わると信じること」そのものがコミュニケーションなのだ。

 もしもし、聞こえますか?僕はここにいるよ。
 
 僕は、ずっとずっと、「ここ」がどこかを説明し続けている。
 ずっと、ずっと。



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「GOOD LUCK!!」の二律背反。 - 2003年03月16日(日)

 いや、最近年のせいか、すっかり涙腺弱くなっちまった。
 映画やドラマ観て感動するなんて、全然なかったのに。

 それで「GOOD LUCK!!」の話なのですが、このドラマ、今日観ていて思ったのは、やっぱりキムタクは存在感あるなあ、ということと、柴咲コウの眼の力だ。ああいう「泣きそうもない女の子」が、眼を見開いたまま流す涙、というのは、すごく説得力がある。

 ところで、僕にとっての「GOOD LUCK!!」の裏感想は「石黒賢も、大変だろうなあ」ということだ。
 仕事柄「医者の許可が必要」だといって病院に相談に来られる患者さんというのはけっこういるのだけれど、正直「医者として太鼓判を押す」というのは、とても難しい。たとえば、糖尿病でインスリンを使用している患者さんに「車の運転をしてもいいですか?」と言われたら、コントロールがいい人の場合で「保証はできないけれど、自分の判断で」というのが関の山だ。
(低血糖のおそれもあるし、他人の運転に「保証」なんてできないよな、だいたい)

 キムタクががんばって、正常に近いほどの回復をみせたとして、では、医師としてはどうするべきか?というのは、非常に難しいことなのだ。
 患者さんの人生を考えて、職場復帰を許すのか、それとも彼の努力を知りつつも、そういう怪我や手術の既往は、多数の客をのせる大規模交通機関の運転士としては通常の場合よりも明らかにリスクが高いと判断し(少なくとも、プラス材料ではないわな)不適格と判断するか?というののどちらかを選べ、と言われたら、それは悩ましい選択だろう。
 スポーツ選手なら、競技を実際にやってみればいい。
 でも、操縦士はTRY&ERRORでは、許されない。

 というわけで、これはもう、非常に難しい問題なのです。
 「保証人なんかにゃ、なるんじゃないぞ」というのは、いつの世でも真実だと思う。



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オトコの花束。 - 2003年03月14日(金)

 今日はホワイトデーだ。
しかし、このホワイトデーってやつは、気がついたらいつの間にかやってきているから、困ったものだ。
 今年は、彼女1以外は、義理チョコだけだったのでそれなりに返せばいいので気が楽だけど、女の子に何をあげればいいのか?というのは、もうちょっと若かったころの僕にとっては、悩みの種だった。

そこで、雑誌などをパラパラとめくったり、ラジオのDJの声に耳を傾けると、必ず出てくるのが
「やっぱり、女の子は、花をもらうと嬉しい!」ってやつだ。
男的には、花買う金があったら、プレステのゲームの一本でも…と思いもするのだが、僕も一度、花束を渡したことがある。

 実は、仕事で遅くなって店も閉まってしまい、プレゼントを選ぶのが、めんどうくさかったからだったのだけれど。
 しかし、花束というのは、あんまり考えなくていい。
 店にツカツカと入っていき、店番をしている女の子に「5千円で、花束つくってください!」と言えばいい、それだけだ。
 だいたい「どんなふうにしましょうか?」と聞かれるから、「お任せします」もしくは「華やかに見えるように」とか適当に言えばいい。
 
 しかし、この「女性なら誰もが喜ぶ」花束、というのは、嘘だと思う。
 というか、花束を渡して許されるのは、恋人同士(ちょっと倦怠気味の夫婦、なんてのもいいよな)、そして、「恋人になるかどうかの瀬戸際」の男女のみなのではないか。
 僕が大学生のころ、ある男が同級生の女の子の誕生日に、彼女の年の数だけ薔薇の花束を贈った。
 しかし、その話は、翌日には「ストーカーチックなやつの恥ずかしい話」として、クラス中の知るところになった。
 要するに、その女の子にとって彼は「単なる同級生」であり、「花なんて、気持ち悪い…」と思われてしまったのだ。
 (彼の名誉のためにいっておくけれど、彼は客観的にみて顔も性格も良い男だ)
 焼肉の関係、というけれど、花束の関係も、それに近いものがある。
 花束っていうのは、もらう相手によって、ぜんぜん価値が違うアイテムだから、ご用心。「この人が、私のために花束を…」と思ってもらえないと、パチンコ屋の「新装開店」の花輪と同じ位のリアリティしかない。
 下手したら、ナルシスト&ストーカーへの転落の一途。

 ちなみに、僕が贈った花束は、当日、彼女の手に渡ることはなかった…
 
 自分の誕生日に当直に行くなよ、って話なのだが。



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「世界に一つだけの花」は、反戦歌じゃないだろう… - 2003年03月12日(水)

 昨夜の「筑紫哲也のNEWS23」にSMAPが出演していたらしいのだが(僕は残念ながら、その番組を生で観ていない)、その中で、筑紫さんは「『世界に一つだけの花』は、反戦歌とも言える」とコメントしていたらしい。
 僕は、そのコメントを聞いて、なんだか考えこんでしまったのだけれど。
 
 「反戦歌」とは何か?
 たとえば、「さとうきび畑」や「奇跡の地球」、洋モノでは「イマジン」なんてのは、代表的な反戦歌だと思うのだが。
 
 「世界で一つだけの花」は、反戦歌じゃないと思う。
 この曲を創った槙原敬之は、栄光と挫折の中で、「どんな生き方でも、自分は所詮自分以外の何者にもなれない、だから、自分を大事にしていこうよ」というコンセプトでこの歌を創ったのではないだろうか?
 もちろん、戦争を推奨しているわけではないだろうし、自分を大事にする、ということは、話をどんどん広げていけば、「戦争で自分を犠牲にしたくない」ということになるいのかもしれないが。
 
 でも、僕はこんなふうに、あまりにもすべてのことを「戦争」に結びつけて、大上段に語ろうとするのは嫌いだ。「ロード・オブ・ザ・リング〜2つの塔」のヘルム峡谷の砦の戦いは、アメリカでは「軍国主義、独裁主義と戦うアメリカの姿」を想起させる、という論調があったらしい。何だそれは?
 そういうのは、「こじつけ」じゃないのか?あるいは、考えすぎ。

 この「世界で…」の良さというのは、そういう無理な理由づけの無意味さを実感して、自分の足元をしっかり見ていこうという姿勢にあるのではないのかなあ。

 だいたい、アメリカは、イラクが世界に除草剤撒き散らすと思い込んでいるからこそ、戦おうとしているわけなので。

 ところで、この「世界で一つだけの花」って、プレステの「俺の屍を越えてゆけ」のテーマ曲の「花」って歌と、ものすごく似てませんか?


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「週末のキイ・ノート」 - 2003年03月10日(月)

(1)「ラスト・サムライ」の前評判

昨日、映画館で「ロード・オブ・ザ・リング〜2つの塔」を観たのだけれど、その上映前に、スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」の予告編をやっていた。
 で、普通予告編に対する観客のリアクションというのは、ボソボソと「コレ観たいね〜」とか「面白くなさそう」とかいう声が聴こえる程度なのだが、この「ラスト・サムライ」で、トム・クルーズが一心不乱に二刀流の剣を振り回し「2003年12月公開予定!」というテロップが出たとき、劇場中に失笑が沸き起こった。真面目にやっているだけに、かえってその変なところが際立つというか…
 しかし、大丈夫なのか?この映画…真田広之や渡辺謙も出るらしいけど。

(2)ザッツザプレンティ、不完全燃焼…

皐月賞トライアルのG2弥生賞で、大本命ザッツザプレンティ、落鉄+直線で走路が狭くなって6着惨敗。なおさら牡馬クラッシックは混戦に。といいたいところだが、意外とエイシンチャンプが今のところ頭ひとつ抜けたようでもあり。この一叩きでさらに上昇しそう。
 テイエムリキサンは、ほどほどに人気になって、掲示板止まりっぽいな。
 しかし武豊、落鉄とはいえ、「今日はもう仕方がないね」感満載の騎乗っぷり。
 「不完全燃焼でした」って、僕の金は完全焼失してしまったのですが(まあ少額)。

(3)F1第1戦、オーストラリアGP優勝はクルサード。

 しかし、今回のルール偏向(変更というより、こっちのほうが正しいのではないか?)については、なんだか白ける。こういうスポーツというのは、アクシデントはもちろんありうるのだが、あまりに実力差が反映されないようなシステムでは、観ていてバカにされているような気がする。
 レギュレーションの変更ではなくて、強いチームに対して、周りが技術的に少しずつレベルアップしていってそのチームを打倒する、というのが、正しい姿ではないのだろうか?
 いや、ひょっとしてこれは、FIFAのイジメに耐えて、フェラーリがドラマチックにチャンピオンになる、というストーリーの幕開けなのか?

(4)ヤフーBB

 僕がときどき利用する駅で「お試しキット」を最近よく配っているのだが、これから電車に乗ってどこかに出かけようとする人が、あんなデカイ「お試しセット」なんか貰っても邪魔になるだけだ。
 昔、「ファンがレスラーにサインしてもらうには、いつがいいのか?」という質問に、アブドラザ・ブッチャーが著作の中で、次のように答えていた。
 「日本を去るときの飛行場では、快くサインの申し出に答えるようにしているよ。やっぱり、いい想い出を残しておきたいからさ」と。
 というわけで、ヤフーさん、あのキャンペーンは「要らない」だけではなく、「邪魔なものを押し付けようとされて、ウザい」という印象すら与えていると思うので、もうちょっと考えた方が良いのでは。
 


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ネットワークゲームは、失われた理想郷? - 2003年03月09日(日)

 ウルティマ・オンラインの日本での会員数が10万人を超えたらしい。
僕はオンラインゲーム未体験なのだが、その理由は、ネット環境がISDNとかAir−H”だったりするからだ。
 でも、これ以上何かをやる時間というのは、既にないのだが。

 ネットゲームの魅力というのは、普通のRPGのようにキャラクターのレベルを上げて目的を達成していくということのほかに、他のプレイヤーとリアルタイムでコミュニケーションができたり、ゲームの中で別人格になれるという点だろう。
 日常では平凡な生活でも、ネットゲーム上ではヒーロー。それはそれでいいい。スポーツの世界や趣味の世界でも、そんなものだ。

 しかし、ネット全体の傾向として、どんどんメジャーになっていくにつれ「ネットマナー」なんていうのが重視されていくようになる。
 こういうのは、実社会と一緒なのだ。
 それで、やたらと他のキャラを殺しまくったり、協調性のないやつは、ゲームの中でもスポイルされていくのだ。
 
 オウム真理教のときも思ったのだけれど(こんな比較は失礼なんだけどさ)、結局、集う人間の数が多くなると、そこはルールが必要な社会になってしまって、カオスの愉しみはなくなってしまう。

 要するに、現世のしがらみが厭でオウムに入れば、そこはそこで学歴による序列があったように、ネットゲームにも、その階級制度ができてしまいつつあるのではないだろうか。先にはじめたプレイヤーやレベルの高い人によって支配された世界…

 結局、仮想世界の中にすら、理想郷なんていうのは、存在しない…
 まあ、リセットできるだけマシ?


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戦場のカイモニスト。 - 2003年03月08日(土)

 今日の夜の食事の準備のために、近所の生鮮食品を扱うスーパーに行ったのだが、閉店前ということもあって、とにかくすごい人だかり。
 安売りコーナーの周りにむらがるオバちゃんの波に流され、行き場も無く店内を彷徨う僕。
 久々にこんなに混んでいるスーパーに来た…
 いや「いきなり!黄金伝説」に出てくるような戦場みたいなスーパーって、実在するんですね。

 人の流れに翻弄されながら、僕は「戦場のピアニスト」の主人公、シュピルマンのことを思い出していた。
 ああ、僕のこのスーパーでの「場違い感」も、こんなにひどいんだから、彼の感じていた違和感は、ものすごいものだったんだろうなあ…と。

 しかし、閉店間際のスーパーって、怖いよまったく…
 

 


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「人間の盾」と「人間の矛」。 - 2003年03月07日(金)

♪例えば誰かひとりの命とひきかえに世界が救えるとして
 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男
 (「HERO」 by Mr.Children)

 最近、ネットで、イラクで「人間の盾」になろうとしている人たちへのコメントをよく見かける。僕がざっと読んだ印象では、「人間の盾になろうなんて偉い!」というような論調の文章は殆どなく、「イラク政府に利用されるだけの愚行」とか「そんなことをしても何の役にも立たないのに、自意識過剰な連中だ」などという意見が多いような印象がある。

 まあ、彼らが「自分たちがいれば、本当にアメリカ軍は攻撃してこない」と思っているなら話は別だが。
 たぶん実際は、戦争になれば「周りが止めるのに自分から地雷原に踏み込んでいった人々」に対して、もし彼らが攻撃に巻き込まれて死んだとしても、「まあ好きで死ににいったんだから」というのが、一般的な周囲の人々の反応ではないだろうか。

 最近、思うことがある。
 自分は、何かに命を賭けるという行為について、それを「悪」だと断じることによって、己の後ろめたさを隠そうとしているのではないか、と。
「仕事やりすぎて、過労死してもいけないし」
「あんまり彼女につきまとうと、ストーカーみたいだし」
「戦争反対!なんて言っても、どうせ戦争になるんだろうし」

『インディペンス・デイ』というアメリカ映画がある。
この映画のクライマックスでは、年寄りのイカレたパイロットが、敵の宇宙母艦に特攻して破壊するシーンがある。
彼は英雄となり、地球は救われる。めでたしめでたし。
しかし、特攻したパイロットの歴史は、そこで終わってしまう。
どんな賞賛が彼の骸に降り注いでも、彼はたぶん、それを感じることはできない。
「死ぬ」というのは、たぶんそういうことだ。
(いやまあ、宗教的に「殉教したら楽園行き」と信じている人々もいるから、一概にそうは言えないだろうけど)

「死」というのは、他人にとっては感情を揺り動かす現象のひとつ」だが、
本人にとっては”The end”なのだ。

 「自分が死ぬか、それとも核兵器の発射スイッチのボタンを押すか?」
という選択を迫られた場合、「自分はボタンを押さずに死ぬ」と言い切れるだろうか?僕には自信がない。

「人間の命は、地球より重い」という言葉がある。
 でも、多くの人にとっては
「自分の命は、地球より重い」のではないだろうか?
 「地球」という存在を意識できるのも、生きているからなのだから。

 人間を30年もやっていると、「戦争のない人間社会」というのが、少なくとも僕が生きている間に実現する可能性はないだろう、と断言できる。

 それでも、命をかけて「戦争反対」を訴えている人々をそこまで罵るだけの根拠があるとは、僕には思えない。逆に、「そんな、黙ってれば自分には大きな影響がないことに命を賭けられるなんて、すごいなあ」と感じる。
 もちろん、命を賭けているから、何をやってもいいというわけではないし、ここでイラクを叩いておくことが、将来起こりうる、より大きな禍の根を絶つ可能性もあるだろうけれど。

 それにしても、この「人間の盾」は「ものすごく一方的に勝ちそうな国(アメリカ)とそれに目をつけられた国(イラク)」という力関係だからこそ、成り立つような気がするし、おそらく「人間の盾」が、もっとも国際社会にインパクトを与えるのは、彼らがアメリカ軍の攻撃もしくはイラクの人質として命を落とすという事態になった際だと思うのだが。

 要するに、少なくとも他人が命懸けでやっていることを自分の価値基準だけで判断して短絡的にバカにするのは、あまり感心できない、ただそれだけのこと。
 だいたい、善意の「人間の盾」以上に、責められるべきものは、この世界に満ち溢れているんじゃないかい?

 僕は怖いし、自分にメリットもなさそうだから、「人間の盾」にはなりたくないのだが、もし、全人類が「人間の盾」になれば、戦争なんて起きないのにね。

 それこそ、夢物語。


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「雨」に関するテキスト〜『Rain or Shine』 - 2003年03月06日(木)

今日もまた雨。
僕は、けっこう雨が好きだ。
雨の日の朝のけだるい雰囲気も心に馴染むし、
布団で聴く「バラバラバラ」という雨が屋根を叩く音もキライじゃない。

運動はあまり得意じゃないから、運動会やマラソン大会の日の前日の夜は、
「明日は、雨降らないかなあ…」と、ずっと願っていた。
でも、実際に雨が降って中止になってみると、単にそれは、執行猶予になっただけなのだ。その次の日は、また運動会。

大人になったら、少し雨がキライになった。
車は運転しにくいし、泥だらけになって家に帰るわけにもいかない。
競馬場だって、わけのわからないレースが多くなる。
それでも、僕は雨がそんなに嫌いじゃない。
なんとなく沈みがちな自分の心と世界が同調してくれているような気がする。


「私、雨は大キライ」という女の子がいた。
「だって、髪も服も濡れるし、気持ちが沈んじゃうじゃない?」って。
「そうだね」と僕は頷きながら、「この女とは、一生仲良くなれないな」
と確信したものだった。

彼女は、今でも何故か僕の傍にいる。
晴れた日に、僕がなんとなく鬱々としていると、人の気も知らないで
「今日はいい天気で気持ちいいね!」と喜ぶし、
朝から雨が降っていると、
「雨、やだなあ。洗濯もできないし、出かけられないし」と嘆く。
そんなとき、僕は、雨と心をシンクロさせて、リラックスしているのだ。

晴れれば彼女が幸せで、降れば僕がのんびりできる。
けっして噛み合わないけれど、そんな生活も悪くない。

曇りの日は、どうするかって?
そうだな、ひとつの布団で、幸せを半分ずつ持ち寄ろう。



「何ボーっとしてるの!」
あっ、そんなことボンヤリ考えていたら、雷が落ちた…



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「下弦の月」のインパクト。 - 2003年03月05日(水)

 ♪下弦の月が映る、鏡のような水面

 今、大ヒット中のRUI(柴咲コウ)の「月の雫」の一節だ。
 この歌を聴いていると、昔の表現がたくさん耳に入ってくる。
 なんというか、これがすごく心に響くのだ。


 だいたい「下弦の月」なんて言葉、中学校の理科の時間くらいに使って以来なんじゃないだろうか?この歌で最初に引っかかったのが、この言葉なのだ。
 月をあらわす言葉で、日常よく使うものは「満月・新月・三日月」くらいのもの。「みなも」なんて、グッとくるよなあ。

 中学校の頃、吉川英治の「三國志」を読んでいた。
 この作品は戦前に書かれたものだから、当然古い日本語がたくさん使われているし、漢語による部分も多い。
 最初の1巻を読み終わるのには、1週間くらいかかった。
 でも、最後の8巻(孔明が五丈原で落命する件)は、何時間かで読み終わった記憶がある。
 とっつきにくいけれど、古い日本語も悪くない。なんか格調高いような気がするし。
 「オレは中学生なのに、こんな難しい本も読んじゃうんだぜ!」とか、内心いい気分だったのも事実だが。


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「書きたいこと」と「書いていること」 - 2003年03月04日(火)

最近、ちょっと悩んでいる。
 書きたいことと書いていることのギャップに。
 ちょっと前に、三谷幸喜が主催していた「東京サンシャインボーイズ」のことを振り返って、「僕がもうピークを過ぎたと思ってから、劇団はどんどん人気が出て、動員数も急上昇していった」とコメントしていた。
 お笑い芸人も「売れはじめると、ステージの数が増えて、どんどん芸のストックがなくなっていく。しかも、いまはテレビ時代で、何をやっても『観たことある!』という人がいるから、どんどん芸人が消費されていく」と、ある人が言っていた。少なくとも、テレビ時代の前は、同じ芸を劇場で使いまわせていたし、おかげで、その芸はどんどん熟成されていただけだ。
 だから、よくテレビに出ているお笑いの人は、画面の向こうではバラエティー番組の司会をしたり、ドキュメンタリー風の番組作りをしたりで、自分の「芸」そのものをみせることは、ほとんどないだろう?

 僕も「読書日記」を書いていながら、最近殆ど本を読んでいないことに気が付いた。マッチポンプ式というか、ちょっと読んでは書き、の繰り返し。
 
 そろそろ、充電の時期かもしれない。これで食っているわけじゃなし。
 でも、書く内容に自分で納得できなくても、サイトを運営すること自体は、まだまだ面白いのだ。なかなかやめられない。
 正直、ちょっと困っている。



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「僕にはまだ、還れるところがある」なら、いいけれど… - 2003年03月03日(月)

 昨日、映画「戦場のピアニスト」を観たのだけれど、まとまった感想は、またいずれどこかに書くとして、僕はあの映画を観ながら、「自分だったら、ここで『DEAD』だな」と何回も思った。
 強制収容所に送らそうになるシーン、隣人に通報されるシーン、冬に腹ペコで街をさまようシーン、敵兵に見つかるシーン…

 僕たちは、みんな戦争というのを想像するとき、自分が死ぬことを想像することと同時に、自分が奇跡的に生き延びることや「機動戦士ガンダム」のアムロみたいに、何かの間違いで英雄になることも想像してしまう。
 しかし、大部分のユダヤ人は、何もできない、もしくは抵抗も虚しくアッサリ殺されてしまったのだ。
 シャアに、「邪魔だ!」とあっという間にやられるジムやボールだって、ちゃんと乗員がいるのだし、多くの戦闘員の運命は、そういう情けないくらい淡々としたもの。
 
 と、書こうと思ったのだが、実は、モビルスーツに乗れるのだって、けっこうなエリートたちなのだよ。
 僕は、体力にも運動神経にも自信がないし、ピアノも弾けない。有力者に人脈があるわけでもない。
 戦争に行ったら、自分が一番最初に流れ弾に当たって死にそうな気がする…

 でも、何もできずに死せる者の言葉の多くは歴史に残ることがなく、人間は、根拠のない希望の名の元に過ちを繰り返す。
 はたして「まだ還れるところがある」のだろうか?


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親と子のクロス・ロード。 - 2003年03月02日(日)

 名手、河内洋騎手の引退セレモニーで、花束を持ってきたのは、彼の16歳の長男だった。こういう話を聞くたびに、僕は、この子供の方には、何の葛藤もなかったのかなあ、と思う。
 実際は、「え〜っ、お父さんに花束…こっ恥ずかしいなあ」とか内心感じつつも、やってたんじゃないだろうか。美談として語られることでも、それが普通であるわけで。

 僕自身もそうだし、僕の周りの人間にもそういう人が多いような気がするのだが、親という存在は、子供にとっては正直、煙たいものでもあるし、反感を持っていることも多いのではないだろうか?
 テレビに出ている、「友達みたいな親子」なんてのを見ると、「シアワセな人たちだなあ」という気がするし、まあ、羨ましくないこともない。

 でも、僕にはできない。まあ、もう今となっては、どうしようもないのだけれど。

 僕は大人じゃなかったから、親というものを同じ人間として受け入れられなかったのかなあ、と今になって考えることがある。
 
 自分は親とは違う人間だ、と思いつつも、最近ときどき、自分の中に、あれほど忌み嫌っていた親と同じ思考法や行動を自覚して、甘酸っぱい気分になるときがあるのだ。
 
 


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「強者」の孤独、「弱者」の驕り。 - 2003年03月01日(土)

 「中川家」の弟が、女性の頭を殴ったということで警察に取調べを受け、現在活動停止状態になっているそうなのだが、この間マイケル・ジャクソンの番組なんかを観ていて思うに、有名人というのは、いろいろ大変なんだなあ、と思う。

 マイケルが、男の子と一緒にベッドに入った(ほんとうに添い寝程度だったのかどうかは、わからないけれど)というのも、その行為をやったのが、そこらの金も権力もないオッチャンだったら、たぶん、ああいう形で訴えられることはなかったんじゃないだろうか?

 訴えた人たちがすべてクレーマーだとはいわないけれど、こういう目にあっていくうちに、有名人たちは、みんな孤独で、シンパばかりを周りにはべらすようになっていくんだろうなあ…

 WEBサイトにしても、メジャーっていうのは大変なんだろうなあ、と思うことがある。「弱者」を利用する人ほど、扱いにくい存在はないかなさ。


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