Deckard's Movie Diary
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2006年03月24日(金)  クラッシュ メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

本年度アカデミー賞作品賞受賞『クラッシュ』。これは紛れも無い傑作です!誰が何と言おうと傑作です。この脚本は素晴らしいし、演出も素晴らしい!何が素晴らしい!って、この映画を観た後、人間というモノを信じたくなるような気分にさせてくれるのが最高に素晴らしいです。人間って言うのは自分勝手だし、だらしないし、いい加減だし、出来損ないのくせにプライドだけは高く、そのプライドが傷つくようなコトがあれば、逆切れだってしかねない、まるでオダギリ・ジョーの可愛い後輩のような生き物です。それでも、人間は愛すべき存在だと信じたいです。何故なら、出来損ないの人間は助け合わないと生きていけません。だから、不器用ながらも、その時がくれば何とかしたい!と思うのではないでしょうか?まぁ、甘っちょろい性善説かもしれないですけど、たまには良いコトもしたいじゃないですか!先日、息子と話した時に彼が言った言葉は「人助けすると、良い気分になるよ・・・」でした。彼の発した言葉は、ある意味、自分を優位に置いた言葉かもしれません。だけど、彼の言葉はオイラの耳に心地よかったです。だから、「だったら、気持ち良くなるコトはたく・u桙ウんしようぜ!」と言ったのですが、「まぁ、余力があったらね」と返されてしまいました(苦笑)。話しが逸れましたが、一番好きなシーンはマット・ディロンとサンディー・ニュートンが二度目に絡む場面です。あの場面は忘れられないシーンになりそうです。凄いシーンを観た!という印象が残りました。生死を前にして、個人的な感情なんて取るに足らないモノなんだよ!というコトを現代社会の中で如実に表現したシーンでした。言い方を変えれば、普段あーでもない!こーでもない!と不満ばっかりこぼしていても、そんなモノはある程度の生活基盤があるから言える愚痴なんですよ。そして、この映画の辛らつなシーン・・・例え、良い人でも、良い行いをしていても、不幸な出来事は突然襲って来るという理不尽さ!です。何一つ良いコトが無く死んでいく人間が居るように、命の値段はピンきりですし、天は人の上にも下にも人を作ったのです。だからこそ!多少なりとも余裕があるなら人間同士、垣根を越えて仲良くしたいですね。で、チンピラ警官役のマット・ディロンですが、アカデミー助演男優賞に匹敵する存在感を放っていました。


トミー・リー・ジョーンズが『アモーレス・ペロス』『21g』の脚本家ギジェルモ・アリアガの脚本を演出した『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』をです。う〜ん、個人的にはイマイチでした(苦笑)。この手の映画って苦手なんですよねぇ。観客に内容の把握を強いるというか、委ねるというか、曖昧に描く?ぶっきら棒に描く?みたいな手法が苦手なんですね。だって、こういう描き方って簡単だと思うんですよね(恐れ多いなぁ・・・ヂブン(自爆))。 ある意味、『クラッシュ』のような映画とは対極に在る映画ですね。今を遡ること30数年前、ハリウッドで“ニュー・シネマ”と呼ばれるムーブメントが起きたんですが、数多制作された中には 何処までも泥臭く不器用で地味な作品がありました。そんな作品を個人的に“遅れてきたニューシネマ”(実際は遅れてなくて同時期です)と勝手に呼んでいるんですが、この映画はまさにそんな印象を残す作品です。いつまで経っても口の中に無骨とい小石が転がっている感じで、何処かでバーボンをショットグラスで飲ませてくれよ!と言いたくなります。まぁ、この渇いた感じも嫌いじゃないんですけどね(苦笑)。昔だったら、ウォーレン・オーツ辺りが演じてたんですかね。どちらにせよ、上記に挙げた作品と同じように苦手!悲し過ぎる・・・っつーか、枯れすぎてる感じかな・・・ギジェルモ・アリアガとの相性は悪いかもね。


2006年03月15日(水)  ヒストリー・オブ・バイオレンス

クローネンバーグの新作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』。およそ、クローネンバーグらしくない?分かり易い作りです。出だしのシークエンスから、静かな演出で“暴力”という行為を淡々とスクリーンに映し出し、弱肉強食の世界を端的に描いていきます。そして、出会い頭の交通事故のように、暴力が支配する世界に否応無く巻き込まれる一般市民・・・その結果、新たな、暴力が支配する世界が生まれ・・・、ここまでは実に明快に暴力が暴力を生み出す過程が的確に表現されています。傑作を予感させるに十分な展開です。ところが、物語は「おいおい、そっちに行くのかよ!」と突っ込みを入れたくなるような安直な方向へ進みます。そっちに行っちゃったら、もう、何でもありでしょ!個人的には正当防衛とは言え、図らずも暴力で英雄になってしまった悲劇を描いて欲しかったと思います。暴力は憎むべき行為ですが、キレイごとは言ってられません。とにかくアッチ方面に行ってしまった展開にガッカリでした。ただ、もう少し深く考えてみると、これはある意味「暴力をふるう人間とふるえない人間との違いは、その因子にある!」というコトなのかもしれません。つまり、ヴィゴ・モーテンセン扮するトムにはその因子があり、当然その息子にもあり、逆に、その息子の母親には無いのでしょう。暴力をふるうことが出来る人間は、多少の躊躇はあったとしても、暴力を肯定的(前向き?)に受け入れるワケです。片や、暴力をふるえない人間にとっては、暴力なんて憎むべきモノでしかありません。しかし、その両者がこの世に存在する限り、お互いを受け入れなければならないのでしょう。この映画のラストがそれを暗示しています。まぁ、いろいろ考えさせられる映画であるのは間違いないでしょう。


2006年03月10日(金)  ジャーヘッド ミュンヘン

最終日に観てきました。予告編から相当気になっていた『ジャーヘッド』です。う〜ん、ちょっと肩透かしでしたね(苦笑)。戦争の狂気を描いた今までの映画とは一線を画していると思っていたのですが、結局は同じでした。まぁ、同じだからと言って、悪いってワケじゃないんですが、今回は今までで一番不可解な戦争が舞台だっただけに、その狂気の描き方も違うのかなぁ・・・と、思っていたものですから。つまり、殺人マシーンとして鍛えられ、戦地に赴いたはいいが、殺す相手が居ない・・・となったら、そりゃ、どーなっちゃうの?おれ?って感じでしょ!そして、結局は最後まで敵を殺すコトが出来なかった・・・せいぜいラクダを撃った程度で、イきそうでイけなかった・・・半立ち人生なワケですよ。個人的には、敵とは言え、生身の人間を殺すことが出来なくて良かったのか?悪かったのか?という観点も加味して欲しかったんですよね。「おれ達に殺させてくれ!」と叫んだトロイは最後までジャーヘッドのまま、自分を殺すコトになってしまうんですが、この内容では今までの戦争の狂気と大して変わらないような気もします。結局は、殺しても殺さなくても、とてつもない狂気の塊である戦争の前では大同小異ってコトなのかもしれません。ただねぇ・・・殺すことが無かった幸せってのは無いんでしょうか?幸せってのはオカシイか・・・なんだろ、「殺す気満々だったけど、そういう状況にならなくて良かったよ・・」みたいなね。まぁ、こんなことを言ってるオイラが理解出来てないんだろうな。




スピルバーグの『ミュンヘン』。とても硬派な小説を読んでいる気分にさせられました。硬い文体がほとんどなのに、全10巻(まぁ、そんなイメージです)最後まで放り出すことなく読めました。それなりに面白かったし、さすがにスピルバーグだけあって、スピ的嫌らしさも健在です(笑)。で、結局は何が言いたかったのでしょうか?“9・11同時多発テロ事件”から中東平和の為と言い、イラクを先制攻撃したブッシュ。と、“ブラックセプテンバー事件”があり、中東平和の為と言いながら、ジェフリー・ラッシュに復讐を命じるゴルダ・メイアを重ね合わせたのは明白ですが、だからぁ?なんです。テロも復讐も結局は同じ穴の狢ですし、果てしない殺し合いは、やがて女子供も巻き込んで行き、何処まで行っても恐怖は無くならないし、逆に大きく育ってくだけ!という、誰が考えても当たり前のコトを止められない人間の愚行を描いて見せ、真の平和を世界に問う!と言われてもなぁ・・・。例によって銃撃戦での綿密な描写や、ヒッチコックの反省を踏まえた娘の電話シーンなど、それぞれの場面は極上の仕上がりですが、明快な主張は見えて来ません。結局は、アヴナーの個人的な生活に焦点を当て、ラストのカットバックへ繋がるんでしょうけど、なんだか肩透かしを食った印象が残りました。アヴナーなのか、組織なのか、事件なのか・・・どれもこれもが中途半端のような気がします。逆に言えば、ラストのカットバックが台無しにしたような気もするんですけど・・・どうでしょうか?


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