気ままな日記
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と、気分が変わるというのは本当である。 年の瀬らしく、窓拭き、サッシの桟みがき、廃屋のごとき破れかぶれになった障子貼りを終えたところ、そうとうくたびれ果てているものの気分は良い。 最初は、どれもこれも、気分を盛り上げるには余りにも、面倒この上ない作業に思えた。 日差しを背中に浴びてせっせと窓をみがく、古く黄ばんだ障子紙をバリバリに破いて、その上からするすると巻紙のごとく真っ新な紙を貼り付けていく。 雑巾の並縫いもまっすぐにできないほどぶきっちょで大雑把な私、仕上がりはどうなることかと思ったがなかなかどうして、一応それらしく貼れているではないの。部屋の中も明るくなったような気がする。思わず、障子貼りの名人!と自画自賛。 そういうわけで、成果をはっきりと感じられる作業は、たとえ気乗りがしなくても、やってみれば気持ちが盛り上がるものである。 いい気分のまま終わらせるコツは、あれもこれもと手を出さず、余力を残して終了させることであるのは言うまでもない。
2005年12月27日(火) |
『仕事納めイブ』に思う |
今年の業務も明日限り。今回の年末年始の休みも、前回同様6日しかないのだが、「年がかわる」というだけで、なんとなく今年のことは今年のうちにやっておかなくてはいけないような気がしてしまう。 昨年と、その前の年の日記を見ると、年がかわっても、わたしの過ごし方って変わらないなあ、のひとこと。 さっさと終わらせてしまいたいばかりに「ガシガシとこなして」いたり、先々のことを不安がってあらかじめ手をうっておこうとしたり。 先日読んだ本に書いてあった。 「他ならぬ脳において 喜びや 楽しみや 笑いや気晴らしや グリーフや 落胆や 悲哀が起こることを 知るべきだ」 ヒポクラテス「神聖なる病について」より
実際に周りで起きていることをどうとらえるかで、同じことでも全然違って感じられるということなのかしら。 確かに、わたしの頭の中でさまざまな感情は「勝手に」おきているのである。 このようにすっぱりと割り切って考えられたらさぞかし楽だろうに。
昨日は休暇をとって、用事を済ませがてら繁華街を散策した。 今はクリスマスモード一色。飾り付けのせいか、なんてことのない代物も、なんだか素敵な商品に見える。 そういえば20年ほど前、「クリスマスケーキ」という言葉がはやった。24歳までに結婚しないと価値が下がるみたいな失礼ないわれ方がまかり通っていたのだ。そしてそれに振り回されていたわたしたち。 24歳なんて、今思えばまだまだまだ若いではないの。 当時の日記を読んでみても、この年過ぎたらまるで腐ってしまうみたいにあせっている。なんてもったいない話。 職場の廊下で、同期の人々から花束を贈られて、ちょっとした優越感を感じながら結婚退職の花道を歩むのが、お茶汲みOLの道筋でした。 ま、一応歩んだものの、その結果がどうなったかということはさておき^^;、 全くあてにならない時代の風潮だか流行だかにあんまり惑わされないようになったのは、この余韻をひきずっているのかもしれません。
大して心ときめく相手もいないのに、胸がドキドキするので病院に行ったら、バセドウ病の再発がわかった。 薬無しで過ごし続けて1年8ヶ月。一応2年経てば、「治癒」と見なされるんだそうで、惜しい! これは自分の体の中で、自分の細胞を攻撃する物質を作り出す病ということらしく、なんだかなるべくしてなったような気がする。 この1年随分と余裕がなかったり、綱渡り状態だったから。体のほうが、「無理しないでくれ〜」と、限界を訴えたのかもしれない。 ところで、せっかくだから、この病気についてネットで検索してみたら、あるわあるわ。『バセドウクラブ』という同病者同士の情報交換をするホームページまである。 同じ問題や病気を抱えた者同士のコミュニティがあるということは、心強いことである。 もともとカフェインをとると動悸がしやすいたちなので、大好きな珈琲も、しばらくはお預け。 風邪ひとつひいたときも思うことだけど、健康は、なくしてから、しみじみとそのありがたみがわかるもの。
2005年12月10日(土) |
変わらないもの・休日のひととき |
近所の(といっても電車一駅分あるのだけど)、珈琲館に出かける。 ここのホットケーキはお気に入りである。なんとなく落ち着く場所。騒々しい音楽も流れていないし、大きな窓越しに、往来を眺めることができるというのもいい。 ここのスタッフの方々の”声かけ”がユニーク。 注文をとったウエイトレスさんが、カウンターの中にいる、調理するスタッフに向かって、 「ホットケーキとアメリカン、ちょうだいしました」 と大きな声で言い、それを聞いた調理する人は、 「ホットケーキとアメリカン、承知しました」というふうに、そのオーダーを鸚鵡返しに反復するのだ。 きっとこれはここのチェーン店のマニュアルなのだろう。最初に聞いた時はなぜかこちらが照れ臭くなってしまった。そんなに大層な注文をしたわけではないんです、といった感じ。 それでも何度も聞くうち、いつもと変わらないこのやりとりに、ホッとするような気分になっているから不思議である。
暖か〜い布団から出るのが一層つらい今日この頃。 気がつくと朝になっている。 さっき布団にはいったばかりだというのに。 そういえば、いっつも通勤電車に乗っているような気がする。 毎日同じことの繰り返し。 今年ほど早く過ぎ去っていくように感じた年は、ない。
先々のことばっかり案じて暮らしている。 今更ながら、人生は一度きり。やりたいことをやらずにいてどうする?? 来年からなんて言わずに、今この瞬間から、もうちょっと余裕をもって過ごしたいものです。
2005年12月04日(日) |
『母のいる場所』を読んで。 |
久田恵さんの書かれた、『母のいる場所』を読み終わった。 長年にわたる、在宅と老人施設でのお母様の介護記録である。 ふとはいった本屋で偶然目にしたこの本を買う気になったのは、先日、母親と実にささいなことで言い争いになり、お互いにキレてしまい、その余韻をひきずっていたからかもしれない。 母親の前で、無力なわたしにもどってしまった自己嫌悪から逃れたかったのかもしれない。 ある方が、『怒りの対象になる人には直接向かい合わないこと。感情が先走って、肝心のことが伝えられないからです』と、ブログに書かれていたが、まさにそのとおり。ひと波乱あったあとに残ったのは、本当に言いたかったことを伝えることができなかったという無力感と、感情的になってしまっという自己嫌悪。 そしてその現場を16歳の息子に目撃されたこと。 「全くいい年して、なにやってんだ」という冷めた彼の視線。 なんてバツの悪いことだろう。
濃い感情を持つ相手への葛藤が本当に良く伝わってくる本だった。 両親も70歳と67歳。この本に登場する老人施設に入居している人々と同世代。体力や外見の上では、わたしの方が「いいおとな」であり、彼らの保護者としてふるまわなくてはならないのだろう。 しかし、なにかのはずみで、わたしの中に眠る「子供としての感情」が、湧きあがってきておさまりがつかなくなることがあるのだ。
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