気ままな日記
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日曜日の夕方。「笑点」の馴染みの曲がテレビから聞こえてくる。 何十年間も何の気なしに聞き続けてきた曲。 オープニングで、客席の中に座って開演の挨拶をする円楽さんの両隣に座っているお客さんは、カメラを意識し過ぎ。大抵笑顔が張り付いて固まっている。
明日からまた新しい一週間が始まる。 2年近くも通っていると、特に意識しなくとも、自然に足が職場に向かってすすむ。 最寄の駅で下車し、歩道橋を渡り終わったった付近で、いつもの同僚と出会い、「また月曜日が来ちゃいましたね」と言い合うことだろう。
もうすぐ3月。 春先の風は少し憂うつ。
父は今年71歳になる。 パソコンを操作していて、ローマ字入力のはずが、はずみで設定が変わりひらがな入力になってしまったというような、ありがちなトラブルに見舞われると、私にお呼びがかかる。 それぐらいのことなら、機械オンチの私でもわかるので、ちょっとエラそうに、さも何でもないような風を装って操作の説明をしてみせる。 こんな時彼と会話しながらふと感じるのが「老い」。 脳の反応と、手の動きと、返事が微妙にかみあわないのである。これは私たちにだって時々あることだけど、反射的に返事はしたものの、実は頭が理解していないというようなこと。 70歳を越えたら当然のことかもしれない。でも実際に目のあたりにすると、こちらの頭の中に薄ら寒い風が吹く。 形ばかりの団欒からすっかり「いち抜け」した私は、現実の彼と接する機会が最近あまりない。そのせいか、私の頭の中にいまだに定着している父親像は、ネクタイを結び、背広を着てしゃんと背筋を伸ばし、行進するみたいにシャキシャキ歩いて出勤する姿なのだ。 だからそのイメージと現実のギャップに愕然とするのかもしれない。 一方、耳の遠い父に合わせてテレビのボリューム全開にした居間で、どういうわけか受験勉強している私の息子。彼の方がむしろ、祖父と祖母の織り成す、ちょっとかみあわず、滑稽ささえ漂う会話を日々見聞することによって、正確に彼らの本当の姿や、老いるということを肌で感じながら過ごしているのかも知れない。
市営地下鉄に乗る。休日の正午をややまわった時刻、車内はポツポツと座席があいている程度の混み具合。 この地下鉄の全席が優先席になったのはいつのことだったか。 朝夕のラッシュ時を除けば、優先席はなぜか敬遠される。あいていても座らない。他の席があいていればそちらを選ぶ。 何も知らない子供が乗り込むやいなや、あ、ここあいてる!とすばやく座ろうとすると、お母さんが 悪いものを見つけてしまったかのように、「あ、そこは優先席だからダメ」と小声で子供を諭し、別の場所に連れて行ったりする。 その名残だろうか、「全席優先席」のシールが全部のシートの背後に貼られているのに関わらず、以前の名残で、グレーに色分けされたままのシートには、なぜだかひと気がないのである。
先週は長い1週間だった。5日間フルに出勤したのも、今年初めて。 今月は日にちがなかなか前に進まない気がする。 ひとつには息子の受験。受かるかどうかというより、手続きをちゃんとできるかどうかという不安が頭をよぎる。 彼に持たせる受験料、きちんと封筒に入れたかどうか、どうにも気になって、お札を何度も出したり入れたりして確認。 そういえば、お弁当にお箸をいれたかどうか気になって、箸箱のフタを何度も開けたり閉めたりして確認してしまうことも多々あり。 職場での金庫の施錠チェックにいたっては言うに及ばず。そんなにしたらかえって取っ手が引きちぎれるんじゃないかというほどガチャガチャと引っ張って、確かめてしまう。 このちょとバカげた確認癖。以前居た医事課で、金庫の鍵をうっかりポケットに入れたまま飲みに行ってしまった同僚が、赤い顔したまま病院に連れ戻され、散々ののしられているのを見て以来、又、その昔、数学の解答用紙に、名前を書き忘れたかもしれないという、確信に満ちた絶望感を味わって以来、折に触れ、ひょっこり顔を出すのである。
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