2002年12月24日(火)

 目が覚めて時間も経たないはずなのに、外は真夜中。
 この部屋で、いつから眠っていたのだろう、考えながらベッドを這い出る。真四角の間取りに斜めに差し込む光が、板敷きの床に模様を作っていた。斜めの光、今は何時だろう、壁を見上げる、真四角の部屋に円い時計。右肩左肩等しい面積、針に体を切り分けられている。六時。
 朝なのか、夕方なのか、ともかく真夜中、ではない。
 ぼんやり、床に腰を下ろして数分、そして気付く。右耳のイヤホンをむしる。アルバムの曲は等しく流れ順繰りに回り元に返る。目が覚めて時間も経たないはずなのに外は真夜中。
 外に出よう、と思った。ぐるりと部屋の四つの角に目を走らせる。昨日脱いだ服が落ちている。
 立ち上がって歩く。両足のうらに床がある。冷たい。服を着ていないのはなぜか。この部屋で、いつから眠っていたのだろう。拾い上げた服を広げる。青灰の薄い布地の袖口と裾が濡れていた。玄関に傘を干した、と記憶している。雨が降った日はいつだったろう、けれどその日から眠っていたのだ。濡れたから脱いだのだ。雨が降ったのは昨日か今日か。
 転移と圧縮を考える。僕は街の中にいた。濡れた袖口が風に冷たく、その割に陽が暖かく、六時を確かに検めた、あれは朝だったのか、と考えた、けれど目の前で店が次々と閉まっていく。まるで自分のひと足ごとにひとつの看板が下りるようなので、この街は大丈夫なのかと訊ねたくなった。さて、しかし質問する対象をどこへ求めよう。街に在る意思を持った生物は、実のところ僕の他は猫だけなのだ。歩く猫。しゃがむ猫。立ち食いでそばを食べる猫。右手の店でさきほどから大きな看板と取っ組み合っているのも猫である。僕は猫とは話せない。
 仕方なく、僕は来た道を引き返すことに決めた。後ろを振り向くと街がある。看板にはたくさんの猫の足あとが綴られている。ふふん、と鼻で笑ってみる。背を伸ばして歩きやがって、猫め。
 気付くと、僕は傘を手にしているのである。転移を考える。傘は何を、猫は何を表しているだろう。降ってくるのは水の塊だけれども、それは実は水では無くとも良いものだ。着ている青灰の服の、袖口と裾が水に侵される。一枚布の切れ目の無い服で、切れ目の無い時間の中を泳ぐように移動する。時々脱ぐ。圧縮のことを考える。果たして僕はどこに居るのか。
 次の瞬間のことを考える。てかてかと一瞬間に変わっていく光景は美しい。
 果たして僕は部屋に居た。真夜中、真四角の部屋の中央に、電飾の色があふれていた。

     Butterfly's Head
     2002年12月05日(木)

「あたしのことが、好き?」
 ベッドにうつぶせに寝転がったまま、僕に向かって彼女は尋ねる。
 シーツを手繰り寄せるように十字に組んだ腕に顎を乗せ、少女のように訊くその唇は、地平線の際に浮かぶ出始めの月のよう。おぞましいくらい不純で、紅い。
「好きだよ」
 もう何度となくくり返された問いと答え。ぼんやりと涙を見つめる。
 長いまつげが思わせぶりに伏せられ、また持ち上がる。ついさっきの皮膚感覚が甦った。軽い瞬きと頬に触れたまつげの先。触れている唇とは別のところで起きる接触に、胸がざわめいた。

 蝶が止まって僕を離れる。



   Butterfly's Head


 唇の裏側を噛む癖がある。
 一度気になりだしたら止まらない他人の噂みたいに、唇のささくれが僕の神経に触ってくる。

 淡く滲み香る朱(あか)。
 けれどもそれは涙(るい)の唇の紅に容易く打ち消え、肌にわずかに残滓を残すのみ。
 涙の手首と、耳の裏側、
 傷口のさまよった首筋、胸元、
 僕の血のあしあとが、せめて君の纏う唯一の香りであるように。



 クロゼットの中を覗き込む涙の背中を、今度は僕がベッドの上で眺めている。
 彼女がしたようにうつぶせに転がり、シーツを両腕の下にたくし込んで見つめてみる、けれども涙は僕を見ない。
 今僕が声をかけたところで、その言葉は涙に届くのだろうか、

「ねえ、緑(みどり)、ちょっと見てくれない?」

 ベッドの横には作り付けのガラステーブル、乗せられているのは小さな陶器のスタンドと煙草。
 部屋の中にはクィーンサイズのベッドと大きなクロゼット、それから大きめのシャンパングラス。
 今は涙の手の中に、そしていつもはテーブルの上に。
 たまに思い出したように帰って寝る、衣装を取り出すために寄って来る、そんなときにしか主を内に認めないこの部屋に、唯一置かれた食器のようなもの。
 大抵空のまま部屋のどこかに忘れられたように置き去られているその薄い硝子の代物は、ときに円い淵から溢れさせるようにして花を湛える。

 涙が、愛の言葉と賛辞とともに手にし受け入れてくるもの。

 部屋に入れば涙はたちどころに花を根元から摘み取り水を張ったグラスに押し込む。
 そしてその花びらの中水の中、ためらいも無く煙草の灰を落とすのだ。どうせすぐに枯れるもの。
 翌日には窓の外を流れる川に浮かんでいるたくさんの花びら。


「服をね、新調したの」

 上機嫌のときの笑顔で振り向いた涙の手には、一枚の薄布のドレス。
 夕焼け空の薄暗い蒼を集めたような紺。光の加減で緑の彩りを帯びる。
 息が詰まりそうに密度の高い藍。


                    足をつけた床の冷たさが僕の血の熱さを証していた、



「ね、綺麗でしょ?」

 ふたたびクロゼットと向き合う涙の背後から、腕をまわして涙の腰をかき寄せる。涙は特に動揺も見せず、僕を振り返りもしないままくすくすと笑う。
 夕闇の中を泳ぐようにドレスを纏って歩く涙を想像しただけで、体中の血管が焼き切れそうになる。
 涙は涙だけのものであって、僕を含めた誰か他の人間のものではありえない、

 そんなこと知ってる。


 とん、と軽く体重を預けてくる涙の首筋に、後ろから顔を埋めてみる。
 体温を感じる距離で見つめても、涙の肌には傷も痕も無い。ついさっきまで、僕が確かに触れていたことを証明するものは無い、何も、何も。
 流しつけていた髪が落ちて、くすぐったそうに涙が笑った。
 唇の触れた細い鎖骨からかすかにさびた匂いを感じて、突然に安心しそうになった自分をいぶかしむ。

 涙が泳いでいくのは男達の間。
 何処にも、誰にもとらわれずに歩く涙の足元に、幾筋も落ち行くものは男達の血と精気。
 涙に食べこぼされて泣く一群、ひそやかにため息をついて牽制しあうたくさんの群れ。

 高座で輝く女神のような歌姫。
 涙。

 独占できているなどと、幻想を抱くにもほどがある。



 体を離す。
 テーブルの上に置かれた煙草を拾い上げ、銘柄も検めず口元に運んだ。

 手の中から解放したのは僕の方であるのに、涙はふふと笑うだけで常に僕の上に立ってしまう。
 するりと身をかわして、逃げたのは自分の方だとでも言いたげに。


                        火をともした煙草から慣れぬ舌ざわりの香りがして、



「それね、このあいだ横浜に行ったときに見つけたのよ」

 舌に残るものはだるく甘くはしたないくらいの身持ちの悪さ、海に流されても染まらぬ涙とは程遠く、けれどもどこかに共通性を感じて嫌な気がした。
 パッケージを今更ながらにしげしげと眺める。

  ”ecstacy”

「合法ドラッグ?」

「喫煙ハーブよ」

 箱の表面には緑の蝶。




「似てるね」




 するり


 白い背中が闇の中に呑まれた。

 振り返り、何も知らない生娘のように首を傾げてみせる、その微笑が憎くて。
 憎くて、引き裂いてしまいたくて、ねじ伏せてやりたくて、
 いっそ。


 いとおしくて。




「ねえ、知ってる?」

 何を言葉にしたところで伝えられるわけもないのだから。




「衣装を新調したいとき、蝶の頭を噛み切ると望みが叶うってジンクス」




「はじめて聞くわ」



 きらきら、ひらひら、
 ただ舞うだけ、
 緑の闇を翅(はね)に代え、
 気まぐれに止まる花を選んで。

 いっそ花蕾の中に閉じ込めてしまおうか?


 するり、
 壁にもたれて座り込んだ僕の、投げ出した両足の間に、蝶が舞い込んだ。

「あたしのことが好き?」

 間近で目を合わせた一瞬、挑発の色が瞳の上を流れて揺れた。
 移ろいやすい恋人をここから逃さないための方法を考えあぐねている。
 鎖などこの体のどこに繋ぎ得るだろう。


 唇から取り上げられた煙草がグラスの中の花びらに押し付けられる様を幻視した。
 共有する甘さとだるさに眩暈を起こすのはきっと、独りだけ。
 瞼を閉じた一方で、唇に触れた涙が微笑う、漏れた声に血の匂いを想う。

 まつげが頬に触れる。
 翅のはためきが闇の向こうに見えた。

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