文
- 蜚ばず鳴かず
2002年11月30日(土)
実家の居間に、大きな戸棚がある。小さい頃には、その棚のガラス戸の、彫り込まれた桟に足をかけてよじ登っていた。棚の上に乗って、うんと背すじと手を伸ばすと、天井ぎわの壁にかかっている烏天狗の面に手が届く。 どうにかして、それを取ってこわしてしまおうと思っていた。
言いつけに従わないでぐずるようなことがあると、いつも抱え上げられて天狗の面と顔を突きつけ合わされた。ほれ、天狗さまが怒ってるぞ。悪い子供は食べられてしまうぞ。 天狗さまに手を伸ばしても、触ることはできるのにいつもどうしても壁からはがすことができなかった。怒ったように目玉をひんむいた顔が怖くて、間近に見るといつも泣き出していた。
そんなことを思い出したのは、実家の祖母が亡くなったという報を聞いたからである。 家を出て三年になる。自立は相変わらず出来ていない。アルバイトは続けているものの、生活はほとんど母からの仕送りで成り立っている。 電話がかかってきたのは三日前だ。いつものように母の話は恨み言から始まって、就職はどうするとか恋人はいないのかと長々続き、最後に思い出したような口ぶりで、そう、おばあちゃんがね、と切り出した。 そう、おばあちゃんがね、昨日、亡くなったのよ。
自分はというと、通夜にも告別式にも帰りはしなかった。だから、今もここにいる。 祖母の想い出と言えば、その天狗のこと、大きな体をゆすって家中を歩いていた後姿の恐ろしいほどでかい尻とか、動けなくなってもどっかり居間の安楽椅子に陣取って、昼も夜も母や父に愚痴をこぼしていたこと、安楽椅子のそばに寄ると、ゆるく反り返った硬い木の脚に、足の甲をいやというほど踏まれること、……挙げていけばきりがないことも、たった今思い出した。 世間的に、自分は祖母想いの孫として見られていた。下校する度に一番に祖母に挨拶をした。大学に入ったとき、出たとき、報告の電話口には必ず祖母を出してもらった。自分は祖母の自慢であった。自ら動くことのできなかった祖母は、人を家に呼びつけるたび孫である自分の話ばかりを繰り返していた。実家に住んでいたころは、客のいる居間に自分も呼び出されていた。賢そうに見える笑い方は得意だった。 家を出て、三年になる。
一週間ほどして、実家から天狗の面が送られてきた。記憶よりも大分色褪せて、白かったひげは黄色に変わっていた。父の煙草か、母のか。 自分は家を出てから、家の金をたよりに文を書きはじめた。大成するはずもないことを、信じるでもなく馬鹿にするでもなく、ただ続けている。 祖母にしてみれば、作家など、優秀な自分の血を受けた孫の進むはずのない職であっただろう。 わかっていて、それの為めに、自分は今、ここに居る。
面を手にとり、漆の塗られていない裏面を撫でる。からからに乾燥していた。 縁に指をはわせ、力を込めると、面はあっけなく割れた。
ひいちゃん、と呼ぶ声が、どんな調子だったか、もう思い出すことはない。
- 箱庭
2002年11月12日(火)
箱庭作りが趣味になったのは最近のことだ。 そもそもは心理学にかぶれた大学の友人に勧められ(半ば強制されて)作ったのが初めてだった。ものすごくエキサイティングだとか、幽玄の中に自分を見失うほど奥が深いとか、そんな魅力はまったく無いけど、ひたすら地味に面白かった。もともと、こつこつと時間をかけて何かを作るのは好きなたちだ。 集中を解いて、ふう、と一息つく。下宿の庭から見た日は、もう傾きかけている。芝生の上に土台と腰を落ち着けてから、四時間ほどは経っているだろう。立ち上がって思い切り伸びをしたら、かちこちになっていた体中の筋が嬉しそうに悲鳴をあげた。 工作用セメントのビルは割とよく出来たかな、少し重くて安定が悪いけれど、まあ動かさなければ大丈夫だろう。水を張る前に、少し補強しておこうか。そんなことをつらつら考えながら、下宿の大家さんが三時に置いていってくれたお茶とお菓子をいただいた。濡れ縁に座って石の上に両足を投げ出す。お茶は冷め切っていたけれど、疲れて熱をもった頭にはかえって嬉しい涼やかさだった。 ぼんやり眺めた遠くの山の縁が橙に染まりだした。本格的に日が落ちてくるまであと少しだろう。暗くなる前に完成させたいなあ、そう思って立ち上がり、濡れ縁から一歩前に出た瞬間、
僕は箱庭の中に落ちていた。
ふる、ふる、と頭を振ってみた。髪から雫が跳ね飛ばされて、胸から下の、途方もないかなたまでに広がる水面の上に落ちた。小さな王冠と波紋を形作る。夢じゃないのかもしれない。 ここは僕が作っていた箱庭の――廃墟の群れのど真ん中だ。 間違えようも無い。実際の作業に取り掛かる前に完成図を自分で描いた。あのビルは先週の休みに下宿の大家さんと一緒にセメントにまみれて作った。腰の後から背中の後を、ゆるく怖気さが駆け上った。水が冷たいせいではない。ここはどこだ。 頭上をたくさんの紙飛行機が舞っていた。どこから飛んできたかなど考えもつかない。廃墟に舞う姿が滑稽で空々しくて、けれども体に纏わりつく温んだ水と同じくらいぼくの狂気をそそった。 下宿から見えるはずの山は水平線のどこにも見当たらない。箱庭の世界はただただ空と水に空間を切り分けられている。水際の空が紅い、紅い、 ぼくは焦って手を空に伸ばした。紙飛行機が舞っていた。青と橙を切り刻む鋭利な輪郭が、視界のあちこちを飛び交っている。くるくる回って視界を割き、水面に突き刺さる。水に濡れ溶け落ちそうないくつか。落ちるな、落ちないでくれ、どうか。 逃げるように掠めてゆく飛行機のひとつにようやく手が届いて、ぼくは夢中で両手に掴みこんだ、
「と、まあそんな感じの内容だったかな」 「ちょっと。最初の方に出てきた心理学かぶれって、わたし?」 「実際、そうだろ。夢から他人の精神分析なんかして、楽しい?」 「楽しいわよ。それに、いいじゃない、夢を話したところで別に何か損するわけじゃないでしょ? 分析内容がヤバそうだったらちゃんと警告してあげるし」 「まあ、いいけどさ、……で、どうなの? 何かわかった?」 「んん、そうね、きっとその紙飛行機ってあなたの大切なものすべての象徴なんじゃない? 必死に掴もうとしてたのって、守りたかったからなんでしょ」 「そう、かもね。……なんかそれ聞いて安心したかも」 「何よ」 「実はその夢、まだ続いててさ。 その紙飛行機、広げて中を覗いたら、
君の名前が書いてあったんだ」
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