2002年05月18日(土)

 サイはドロップスの缶にかたつむりを入れて持ち歩いている。
 
 それがいつの頃からだったか正確には岳(たけと)にも思い出すことはできなかったけれども、……いや、岳のいちばん古い記憶は、水溜りに落ちた自分を笑うサイの、大きく開いた口の中の虫歯だった。日を背にして立っていたサイの顔は逆光で暗く、まして口の奥など光の当たるはずが無いのに、そのずらりと並んだ歯の最奥、右の奥歯の表面をびっしりと埋め尽くした黒い塊が、岳の目にひどく異質に見えた。よく知る幼馴染の一部だとは思えなかった。手のひらの下の日に温んだ水と地面と、下着の中にまで染み上ってくる冷たさのあまりの違いに肌が粟立ち、目をそらせないサイの口の中の異物に怖気が立った。
 前後の記憶はうつろにも残ってはおらず、黒い歯だけが年を追い記憶を辿るごとに凶悪になり、岳の中ではそれはすでに、サイとは切り離された別のもののように感じられていた。
 サイの歯は、今では前歯と両脇の犬歯を残してすべてに銀がかぶせられている。これから抜け替わることを考えても、ひどいありさまだと思う。岳は自分の左奥の歯の隣を舌で触った。新しい臼歯が頭を出そうとしている。めくれた歯肉が自分のものではない感覚で気持ちが悪い。樹脂製のおもちゃのような弾力で、表面がつるつるしている。違和感を覚えて仕方が無くて、気がつくとつい構ってしまっている。
「タケちゃん、飴、食べる?」
 サイはいつもそうして声をかけてくる。初めて会ったときから、この言葉だけは変わったことがない。「遊んでくれる?」という意味の、岳とサイ二人だけの合言葉だった。

 岳とサイの家は、狭い通りをいっぽん挟んだ、ちょうど真向かいに建てられている。誕生日は一週間半違い、母親同士も幼馴染で、黒い歯の記憶ができるずいぶん前から二人は一緒にすごしていた。
 サイは一日に百円の小遣いを貰っている。岳とサイの年からすれば、それは少し多すぎるとよく岳の父親が言っていた。岳とサイは今年で七つ、春から近所の学校へ通うようになっていた。

「ねえ、タケちゃん、飴、食べる?」
 二度目にサイの呼びかける声が聞こえたとき、岳はようやっと振り向いてやった。足元のぬかるんだ泥の上に、けんけんぱの丸のように飛び飛びに連なる敷石。そのさらに上を、かたつむりが数匹のそのそと這っていた。ぬめった体液が線を引き、岳の視界のそこらじゅうにまで白い残像を残すようだった。
「ううん、朝ごはんでおなかいっぱいだから、」
 おはよう、さようなら、そういった挨拶は二人の間には交わされない。夕に別れて朝に会う、それは当たり前のことであり、夜の間の顔を合わせぬ時間など、岳の感覚のどこにも感じられはしなかった。サイもきっと同じだろう。
 サイは小遣いを二日分ためて、一日おきにドロップスを買う。
 岳は勧められるドロップスを、二回に一回断るようにしていた。父親からきつく言われている。岳はあまり歯並びがよくない。間がつまって生えているので、虫歯になりやすいのだ。
 サイの歯は、岳とはまったく違い綺麗にまっすぐ前を向いて並んでいる。サイの得意な笑顔のように、口をあまり開かずにふふふ、と笑えば、銀がこぼれず白い歯並びだけが目に触れる。岳は、それが少しだけ憎らしかった。昔みたいに大口開けて笑えばいいのに、いつも一緒にいるのにサイだけが得をしているような気にさせられる。
 サイはまたふふふ、と笑って、岳がずっと視線を落としていた敷石の上にかがんだ。かたつむりは相変わらずその上で、ちっとも危機感の無い様子で伸びている。
「ああ、今日もまただいぶつぶれちゃってるのね、」
 学校へ行く道はこのあたりだとこのいっぽん、もうだいぶ多くの児童が歩いていった後だった。雨上がりの道の上にはいつもたくさんのかたつむり、死んでるの、生きてるの。
 サイは飴ががらがら音を立てる缶を背負ったかばんの中に入れ、代わりに別の缶を取り出した。缶の側面に数字がカッターで刻んである。「305」、確か昨日までサイが持っていた缶だ。
「もう食べちゃったの、」
 いつものことながら、岳は確認するように今日も訊いた。サイはふふふ、と笑うだけだった。
 サイの指の爪はとても小さい。かたつむりの殻を人差しと親指でつまむときには、いつも目がいってしまう。中指、薬指、小指の三本はぴんと伸ばして、缶の底の飴玉を拾うのと同じように、楽しそうにかたつむりを石からはがしていく。そして、飴が無くなった缶の中はふたたびかたつむりで満たされていくのだ。
 缶の底に消えたかたつむりは、いったいどこへ行くのだろう。

 雨が降った次の日は、校庭がびしょぬれで体育の授業ができなくなる。週に三度しかない体育は、この雨続きの季節に週一度まで減る。山の中に建てられた学校の周りには、平らで広い場所など校庭しか無く、それが使えないとあらば体育はたちまち読書の時間にならざるを得なかった。サイも岳も、かばんの中にいつも本を住まわせている。
 きっと今日もキックベースなんてできない、岳はいくらかがっかりしながら、かばんの中の冒険書のことを考えた。もう今月に入ってから何度同じ話を読んだだろう。特別好きな本というわけでなく、ただ父親が珍しく買い与えてくれたから持ってきているだけだ。男なら誰でも勇者や魔法使いが好きだなんて思わないで欲しい。
 古い水はけの悪い校庭は、砂泥の海になっていた。

「タケ、タケ、この話知ってる?」
教卓の上にうつぶせて高いびきをかく先生を尻目に、クラスメートのひとりがそっと顔を寄せて訊いてきた。そうして内緒の話のかたちをとったくせに、声は回りに聞こえるように高くしている。見知った文字を追うのにもいいかげん飽きていた岳は、「何」と体をそちらへ向けた。
「向こうの林に、人喰いが出るんだぜ!」
 とたんにざわざわと教室に波がよる。岳は急に、体の周りの空気の重さが嫌に感じた。子供がひとりで開け閉めするにはひどく大きすぎる窓が、今日は珍しくいっぱいに開かれている。そこから見える校庭は、昼をすぎていまだ鏡のように空の色を跳ね返して、ああ、あそこからこの気持ち悪さが登りたって来てるんだ。白木に、空の青に染めた木を組み合わせた洋風窓はサイのお気に入り、けれどあそこから嫌なのが来る、締め切ってやりたい。
「何言ってんだ、人喰いなんているわけないだろ、」
 夏の祭が二ヶ月飛ばしで来たように顔をほころばせるクラスメートから目をそらし、岳は静かに周りを見回した。四方の窓の光で照らされた教室の中にサイの姿は無い。
「だって、おれ見たんだ。女の人喰いが女を喰ってた!」
 女の子たちの間から、短い悲鳴が一斉にあがった。勢いで木製のいすを倒してしまった女子が有り、教室中がはっとなって教師の方を見た。が、相変わらず教師は世の平らかなるを疑いもしない様子で眠りこけていた。
「なあ、おれたちでその人喰いを捕まえたら、きっとすごいことじゃないか」
 岳はそっと席から立ち上がった。最初に話し掛けてきたクラスメートも、すでに岳から注意はそれていた。男子はみなその「人喰いを捕まえる」方法を話し合うことに夢中になっていて、一方で女子は怖がりながらも面白がっている。人喰いがいようといまいと関係ない、岳は思った。違う、きっと人喰いなんていない、きっと違う。

 教室を出てすぐのところに、二階へ続く階段がある。
 幅は狭く、段は高く、天井が低い。幅と天井は、子供が使うにはまず不便に感じることはないとしても、段の高さは問題だった。毎年、必ず駆け下りるのに失敗して転がる子供がいる。
 サイは、その階段から二階へ抜けてすぐのところ、歴代の校長の写真が額で飾ってある小さな部屋にいた。これもお気に入りの小さなオルガンに、体半分を持たせかけて眠っている。古くなって使われなくなったそのオルガンは、四オクターブまでしか鍵盤が続かない。踏み板も鍵盤もすべてが木でできていて、ぼろぼろのニスは懐かしい匂いがする。音楽室の縦型ピアノの、とろけるように甘い音も好きだけれど、踏み板を踏むと呼吸をするように風の歌を鳴らすこの小さな楽器は、岳にとっても安心して心を傾けられるものの一つだった。
「サイちゃん、起きて。もうチャイムが鳴るよ、帰る時間だ」
 肩をゆすると、足音さえも吸い込む木の床で、がちゃんと大きな音がした。サイが手に持っていた、ドロップスの缶。岳は胸の芯が冷えるのを感じた。恐る恐る手にとって見ると、番号は「306」。
「なあに、今の音、」
 サイがびっくりした顔で目をこする。岳は慌てて缶を拾い、まだ三割ほどは夢の中にいるような目つきのサイに渡した。
「サイちゃん、涎、出てる」
 袖口でぬぐってやると、サイはふふふ、と笑った。汗で湿った頬や白いセーラーの襟に、うっすら茶色のニスの染みができている。衣替えはもうすぐそこで、サイの口元は日焼けしそうに熱い陽の匂いがした。

 帰り道、岳は久しぶりにサイの家へ寄った。
 そう、久しぶりだった。考えてみると変な気がする、と岳は思った。そういえば、真正面から向かい合って建てられた二つの家の間、その間に、岳とサイ、互いの母親同士の交流はあるけれど、父親同士はどうだっただろうか。岳はサイの父親の顔を思い浮かべようとした。けれども、人の像はぼんやりとさえ岳の目の裏には結ばれなかった。
けれども、サイの部屋の様子は記憶にちゃんと残っていた。
最後に二人で部屋の中で遊んだのは、5歳の中ごろ、ちょうどサイが缶に通し番号を振り始めたころだった。そのころは、サイは空にした缶をひとつずつ大切に洗って押入れの中に並べていた。今はどうなのだろう。今の缶の前305個も、全部同じように取っておいてあるんだろうか。
 玄関で、サイの母親、ちょうど出かけるところの美慧子(みえこ)と顔を合わせた。
「タケちゃん、久しぶりね。ゆっくりしていってね、」
 そう言い、美慧子はうふふ、と笑った。
「さあさ、佐衣子ちゃんタケちゃん、二階で遊んでらっしゃい。おばさんはこれからそこまでお出かけしてくるから、」
「また、今日も遅くなるの?」
 サイが階段を上りながら振り返って美慧子に声をかけた。
「ええ、お父さんには言ってあるわ。だから、佐衣子は心配をしないで、きちんと宿題をやっていい子にしてるのよ」
 はあい、と物分りよく返事をして、サイはとたとたと二階へ上がっていった。岳は階段の半ば辺りから下の、硝子戸の玄関を出て行く美慧子の背中をぼんやりと見下ろしていた。

 サイの部屋は片付いていた。押入れに入れたとして、305個…いや、持ち歩いている缶は305と306、だから総て304個のドロップス缶など溢れ出しているだろうと思っていた岳は、サイが缶を取り置いていなかったことに意外な気持ちがした。
 壁には夏用の白いセーラーが、もう出して掛けてあった。
「美慧子おばさん、どこへ行くって、」
 学校から帰ってくる途中で買ったアイスキャンディーをなめながら、岳は何気ないつもりで訊いてみた。
「知らない。お母さん、教えてくれないもの」
「ねえ、もしかして、昨日もおばさん出掛けてなかった?」
「そうね、たしかそうだったわ、帰ってきたのは十時くらいよ」
 関心は主に目の前の冷たい甘い塊に奪われていて、どうしてそんなことを訊くのかという疑問はサイの頭に浮かんでこなかったようだった。
 窓を開けると、家の前の通りから光が差し込んで、やはり空気は生ぬるかった。けれども、家の裏手はすぐ林になっている。だから、サイの家の後ろ半分は、いつもどこかひんやりとしていた。
 自分の考えていることが、馬鹿らしいことだと岳は思おうとした。けれどもそうすればするほど、落ち着かないものが胸の奥にたまっていく。
 人喰いを、
 人喰いを捕まえに行く計画に、どうして自分も乗る羽目になってしまったのだろう。


 そこにいるのは人喰いなどではないのだ。


「ねえ、タケちゃん、今日はいつまでうちにいるの、」
 アイスキャンディーの最後の一滴、平べったい木の棒にしみこんだ甘みを噛み締めながら、サイは楽しそうに訊いた。
 いつまで、という言葉に軽い違和感を覚えながら、岳は八時まで、と答えた。窓の外ではホトトギス、陽が落ち始めていた。
 八時になったら、すぐ裏の林の入り口まで、クラスの男子の何人か、自称の勇者がやってくる。
 ただ家が近いから、林のことを知っているからといって、岳は先頭を切って林の中を歩かなければならなくなった。嫌な気はまだ続いていた、けれどもそれを引き受けたのは岳自身だ。
 どうして、と訊く自分が本物なのだとしたら、
 そうすれば楽になると思う自分は誰だろう。


 夜中に出歩いて帰りが遅いのは、岳の母親も同様だった。



「やだ、なんでそんなに早くに帰っちゃうの、」
 上機嫌だったサイの顔が、さっと曇って不信そうな色をにじませた。サイは、知っているのだろうか。美慧子が家を空けているのが、岳の母親と会うためだということを。
 サイの家には、岳とサイ以外には誰もいなかった。サイの父親は、しばらく前からこの家には帰ってきていない、たしかそう聞いている。岳の家もサイの家も、父親は婿として家に入っている。この家はかつて美慧子の家であって、そして自分の家はかつて自分の母親の家であって、
 きっと、今の自分とサイのように、

 二人でいることが当たり前で、


 どうしようもなく離れがたく、



 互いを喰らい尽くそうとするまで、




 気が付くと、部屋の中はすっかり暗く影の中に落ちていた。
 気を失っていた時間はどのくらいだったのだろう、そもそもどうして気を失うようなことになったのか、思い出せなかった。
 ぼんやりと、壁にかかった時計を見上げる。通りの街灯のおぼろげな明かりを頼りに目を凝らすと、ちょうど八時を五分すぎたところだった。出なければ。早く、早く人に伝えてしまわなければ、一刻も早く。
 自分の気が違ってしまう前に。

 サイの姿は部屋の中に無かった。アイスキャンディーの棒が床に二本、散らばっているのを足の裏に感じた。
 階段を手探りで下りる。思えば、サイの家の電灯のスイッチがどこにあるのかを岳は知らなかった。ここによく遊びに来ていたのは、まだ背が階段の手すりを越えるか越えないかくらいのときなのだ。
 一階の廊下に降り立つと、奥にぼんやりと明かりがともっているのに気がついた。サイがいるのかもしれない、後ろ髪を引かれる思いがしたけれど、今、サイに会ってみても、何をどう説明したらいいのかわからない。何も言わずに出て行くのがいちばんだろう、岳はそう思って玄関の戸に手を掛けた、

「タケちゃん、飴、食べる?」
 振り返ると、サイが居た。

 手にはドロップス缶、口元はいつも通りの笑顔で、サイはそこに立っていた。ただ、その手にした缶を上下にかしゃかしゃと振っている。
「何、それ、中身、」
「ドロップスよ。でもね、今日、学校で缶落としちゃったでしょ、タケちゃん。飴ね、みんな砕けちゃってたから、ドロップ水にしようと思って、」
 缶の音に、たしかに水の揺れる音も混じっている。サイはふ
ふふ、と笑ってみせた。
「サイちゃん、いつも拾ってるかたつむり、どうしてるの?」
「知らない、その辺にほうっておいてるわ、缶のまま」
 閉じ込めたまま。空間を切り取って、時間を止めて。

 サイは知っているのだ、唐突に岳は思った。

 美慧子と岳の母は、流れる時間を拒んだのだ、
 互いが互い以外の人間を求めることを当然として許すことができなくて、
 それでもそのまま朽ちていつかどこにも無くなってしまう己の身の代わりとして、
 岳とサイに自分たちの時間を引き継がせて、永く、永く、

 岳が男子であったことが、岳の母と美慧子にとって幸であったか不幸であったかはわからない。けれども。
 岳は、微笑み続けるサイの顔から目をそらすことができないまま、瞼の裏に自分の父親の顔を思い浮かべた。
 どこかよそよそしく、岳の素行に口うるさく、愛していると言い訳のように本を買ってよこした父は、常識に外れた母を軽蔑していただろうか、母は別れようとしない父に何を思っただろうか、それに、美慧子は。
「ねえ、タケちゃん、かたつむり好きだったでしょう?」
 ふと鮮明に思い出されるのは、水溜りに落ちた遠い日の記憶。
 竹で作られた垣根の上を這う無数のかたつむりに、小さかった岳は手を伸ばしても届かなくて。後ろからねえタケちゃん、ねえタケちゃん飴あげるから、と何度も何度も焦れたように繰り返すサイの声、それを聞こえないふりで無心に背伸びをして竹垣に手を伸ばした、つま先、竹垣の下、水溜り。

 背中に触れた金属缶のつめたさ、サイの手のひらの熱さ。

「タケちゃんの好きなものはサイだけでいいの、タケちゃんはほかのものを見なくたって別にいいの、ねえ、ここにいるでしょう?」
 急激に体中の感覚が戻ってきた。岳はそこではじめて、額の皮につっぱるような感じが残っているのに気づいた。廊下の照明はひとつも点けられてはおらず、手をやったあとでその手を濡らしたものを見ることはかなわなかったけれど、じくじくと鈍い痛みが断続的に遠くから近くへ、胸の奥の重い塊がだんだんとふくらみ内側を圧し、気づいたときには岳は叫んでいた。
 ひとつ、美慧子と岳の母にとって不幸だったことは、岳が岳の父親の息子であったことなのだ。
 振り上げられたドロップスの缶は、岳のこめかみを払い飛ばすようにかすめて闇の中へ消えた。勢いでサイの手から飛び出し、廊下のどこかへ落ちたのだろう、遠くでがこん、と鈍い音、それからからからと軽い音。缶の側面の番号は見えなかった、どちらでももうとにかく岳にはどうでもよかった、蓋が外れた缶からこぼれる水の中、そこにいるのが砕けた飴でもへしゃげたかたつむりでも。サイはいつでも二個の缶を持っていた、飴の缶とかたつむりの缶と。まだ来る、また殴られる、けれども足がすくんで動かなかった。
 そのとき、玄関の乱れ硝子の向こうから、唐突に光が廊下へと差し込んだ。玄関に背を向けて立っていた岳を通り越し、光はサイの顔の上を一瞬だけ通過し、また消えた。
 圧迫する恐怖感に、岳の胸が断末魔をあげた。

「わ、タケ! どうしたんだよ、なにやってたんだ」
 玄関を転がるように出てきた岳に、クラスメートのひとりが声をかけた。なかなか待ち合わせにやってこない岳に苛立ち、けれども勝手を知らない林の中に入る勇気ももたず、サイの家の周りをうろうろしていたのだった。それぞれが手に懐中電灯を持っていた。たまたま玄関に入った光はこれだった。
 クラスメートたちは岳の顔を明かりの元に見るや、絶叫して散り散りに逃げていった。
 岳もまた走った。家にはきっと母親もいない、父親にもすがれない、そしてサイは、もう、サイは。
 何が正気で何が狂気かがわからなくなっていた、サイは狂(きちがい)だったのか、それとも気が違ったのは自分だったのか、母は、美慧子は。人喰いを退治しようとしたクラスメートは、人喰いの話を怖がる振りで面白がったクラスメートは、この空は。この雨は。

 廊下の暗がりの中、ばっくりと闇に口を開いたサイの奥、
 銀に光る歯の並びは記憶よりも暗く昏く、

 恍惚としたその満面の笑顔は、
 いっそ思い出のどれよりも愛らしかった。

<<  前      目次     次  >>
初日から日付順
最新



My追加