文
- プリズム。
2002年03月15日(金)
全身の血が、重力に逆らって駆け上がってくるのを感じた。 肩から眉間からあたまのてっぺんから、ぼくのとげが皮膚を突き抜けて飛んでいきそうな気がして、思わず鼻と口を右手で覆ってうつむいた。見上げろ。下を向くな、見上げろ。ぼくは見なくちゃならない。 見も知らないたくさんのぼくと同い年の男、女、息をのむこえ、舌打ち、涙、涙、…、 あたまががんがんするこれは耳鳴りだ、呼吸を忘れてる自分で鼻も口も塞いでるから、 らしくもなく眠れなかったせいで目がしばしばして痛い、充血してるかな、 ぐりっと動かして見上げた教室の窓に、張り出された数字の列、
焼鏝をあてたように刻まれたぼくの数字。
そのとき、ぼくは、自分がひょこっと抜け出してしまったことを知った。 ぼくを今まで包んでいた、いろいろの世界から。
プリズム。
ぼくの住んでいる日常は1日1日の連続から出来ている。 そのことをはじめて実感として知ったのは、最近になってやっとのこと。 模試の日、進路相談の日、入試の日、合格発表の日、卒業の日。 今年に入ってから急にめまぐるしく動くようになった毎日が、本当は去年までだってきちんと1日1日に刻まれていたことを、ぼくはきちんと知っているようでわかっていなかった。 「で、どうだった?」 いつものように学校へ来て、いつものように昇降口で友達を待っている今日は、ぼくの普通の日。 でも今日は、合格発表の日だった昨日からつづいている日。 張り紙の上の自分の受験番号に、まだ現実味を覚えることができない頭のまま、ぼくはそんなことを考えていた。 「受かった」 「お――しッ。レモン牛乳げっと」 「……人の受験で賭けしてたわけ?」 朝の挨拶もしないまま、唐突に質問だけを突きつけてきたオミは、自分の履いていた運動靴を乱暴に靴箱に突っ込んでから、にぃと笑ってぼくの顔を見上げた。 「いいじゃん、どうせ、サカエなら私立落っこったって余裕だろ、東一高」 悪びれた様子も卑屈さも無い言葉。けれどもそれには答えず、肩をぶつけてオミを退かせる。 「窪井」「小松」で上下に並んだぼくとオミの靴箱は、8段に組まれたうちの最下段で、平均身長のぼくたちにですら使いづらい。ひとつひとつにしっかりした蓋と留め金がついているせいで、足で開けることもできず、いちいち昇降口にしゃがみこまなければならないのが面倒だった。 「待ってる間に靴履き替えとけばいいのに」 「上履きじゃ寒いじゃん」 「かかとつぶしてっからだよ」 ペタ、ペタと、磨り減ったゴム底が濡れたような音を立てる。教室のある棟に続く人気のない渡り廊下は、高い天井に音がよく響いた。まだ朝が早い。推薦で合格が内定している奉仕活動組も、まだ早朝清掃をはじめていない。 「なんか、今日、いつもより静かじゃない?」 しんとした空気の肌触りが、どことなく柔らかい気がする。あたりの雰囲気に耳を澄ましても、跳ね返ってくるものが欠片もない。沈黙が際限なく胸の下に溜まっていくような感じがした。 学校はもっと騒がしいものだと思ってた。 それは、人がいるとかいないとかに関係なく。 「そう?同じだろ」 オミは興味も無さそうに短く言った。
教室の席順は、最後の学年末試験以来、ずっと出席番号順に並べられたままになっている。だから、ここでもぼくとオミは前後に隣り合わせている。 「サカエ、これ、ここ、答えは?」 「ちっと待って。えーと、2分の3プラス√5」 中3の夏休み明けの頃から、途端に熱心な受験生になった周りの友達に合わせるようにして、ぼくとオミも朝早く学校に来て勉強するようになった。けれども、ぼくら以外の友達はみんな続かなくなって、ひとり減りふたり減り、気がついたら、毎朝昇降口で顔をあわせるのはオミだけになっていた。 「誰も来ねえなー」 「まだ始業にはだいぶ早いしなあ」 オミが、ぼくの机の上にシャープペンシルを転がした。そのまま頭の後ろで両腕を組んで伸びをする。 「静かだなあ」 今更気付いたように、オミはぽつりと呟いた。 「どこのクラスにも、俺らみたいに朝勉強してる奴、いるんかな」 「俺、覗いたことある。1組から4組まで、どこも大体5,6人は来てた」 「マジで?なんだよーうちのクラス意識低いんじゃねえの?」 「今更だろ」 「県立入試まで1週間も無いのになあ」 「……そうだな」 オミがぼくの顔を覗き込んで、にぃと笑った。 「サカエにはもう関係無いけどな?」 からからと教室の扉が引かれる音がした。遠かったから、きっと隣のクラスだろう。 ぼくはひとつため息をついた。 「楽しいかよ」 「うん」 オミは、こうしてときどきぼくを突っつく。 「受け答えは冷静なのに、顔だけ思いっきりムっとしてんの」 「性格曲がってる」 「今更だろ」 ニヤニヤしながらシャーペンを取り直す。机の上に開きっぱなしになった問題集は、去年の県立入試問題。もう何度も解き方をさらって、問題から答えまで自然に覚えてしまっていた。 「去年の今頃って、何してたっけな」 「まだ部活があったからなー、陸上の朝練に出てたかな」 「……俺は毎朝遅刻してきてた気がするなあ」 「ああそうそう」 「2年次の年間遅刻日数20日とか書かれてたような」 「生活態度って受験に関わってこないものなんですかネー。」 「他人はどうか知らんが俺は受かってる」 「根性悪」 「今更だろ。ていうか飽きたこの台詞」 受験はするけど行く気はない。 ぼくが東一高に対して取っている姿勢は、同じ高校を第一志望としているオミにとって、気分のいいものではないだろうと思う。 けれども、オミの態度は昨日までと何も変わっていない。 変わったのはぼくの方だ。 「陸上部、まだ顔出したりしてんの、」 「んー。たまにねー。」 論理立てて説明して数式の列をそろえて、「受かる」答案作りの手順をひとつひとつ埋めていくオミは、ノートと問題集から目を上げることもない。場をつなげるために発したぼくの質問など見透かされているような気がした。 急に、目の前に座っているオミが、見も知らない他人のように思えてくる。
自分と自分以外の人間が、ひとりひとりまったく別のものだという実感が、じわりと湧き上がってきた。 昨日からずっと、どこか何かが違ってしまっている。 今までぼんやりとしか見えていなかったいろいろのものが、突然はっきりした輪郭を持ったようで、――要するにぼくは戸惑っているのだ。自分と他のものの距離感はどう掴めばよかったのか、うまく思い出せなくなっている。 「サカエは?」 オミが顔を上げた。口元には人の悪い笑みが浮かんでいる。 「美術室、最近行ってんの?」
先々週、ぼくの最後の進路相談の日のことを、オミは偶然知っている。 それも、出席番号がぼくの次だったからだ。 「おいおい大丈夫かよ?魂でも奪われた?」 ぼくより5分後れで進路相談室から出て来たオミは、階段の踊り場に呆けたように立ち尽くすぼくを見てそう言った。 「ていうか、今階段駆け上ってったの、ヒロちゃんだろ?お前何したんだよ」 オミの口から彼女の名前が出たことで、ぼくの中にやっと現実の身体感覚が戻ってきた。自分の周り、足元を見回す。橙、黄色、空色に茶、それに赤。これは、美術室で今日見たあの粘土の…イモムシ。 「ハート。だな。」 両手をズボンのポケットに突っ込んだまま階段を下りてきたオミが、ぼくの視線を辿った先に散らばる粘土細工を定義付けた。 「泣いてた?」 「そこまで見てねえよ」 足元にしゃがみこんで、小さなハートをひとつひとつ拾いはじめたオミを見て、ぼくも慌ててそれに倣う。まだ、脳と体の神経回路がうまく繋がっていないような気がした。 「……ヒロ、ちゃんて」 「ああ、だから、さっきの子って、須々木祐だろ?美術部の2年の。志麻と仲良いから知ってんの」 オミの妹も、そういえば同じ美術部だったっけ。妹といっても、三つ子のひとりだから同い年なのだけれど。 「これで全部だな。ほら、落とすなよ」 「サンキュ、」 「良かったねえ、チョコだったらもうこれ食えないとこ」 「今日ってさ」 「2月の14日」 「どういう意味かな」 「そういう意味だろ。」 拾い上げたたくさんの粘土の粒は、まだ半乾きの状態で、しっとりと少し重かった。
その日からも、何度か美術室には行っていた。 けれども、そこに彼女の姿はなかった。
正直、ぼくは困っていた。 彼女のことが嫌いなわけではなくて、仲も悪かったわけではなくむしろよくしゃべってた方だし、それに、それに。 けれども、そうして思いつく限りの彼女への感情を並べてみても、ぼんやりと答えは出ていた。
ぼくは彼女に対して恋愛感情を抱いていない。
わからなかったのは、ぼくからそう彼女に言うべきなのか、このまま放っておくべきなのかということで。
「まあ、どうするにしても、卒業式までには何か考えとけよ」 もうすぐ始業5分前の予鈴が鳴る。教室の中にもだんだんと人が増えてきた。 「卒業式って」 「3月14日。ホワイトデー。だろ。」
予鈴が鳴っている。ぼくはきっとまた、オミの期待した通りの表情をしているに違いない。 目の前のアドバイザーは、ぼくの力になると言うよりは、ぼくが困っているのを見ておもしろがっているだけなのだ。 「……楽しいかよ」 「うん。とっても。」 オミのニヤニヤ笑いには、心底腹が立つ。
1日1日が、飛ぶように過ぎていく。 時間が経つのが速いっていうのも、最近になってようやく感じ始めたこと。 受験の直前の時だって、こんなに焦った気持ちになったことはなかったのに。
卒業までに残された時間は、本当に残りわずかで。
ぼくの中には、それを名残り惜しむ気持ちと、終わりが来るのを焦がれる気持ちが混在していた。
県立高校の入試が終わり、卒業式の練習がぼちぼち日課に組み込まれるようになって、一気に学校中が卒業を意識し始める。 ぼくは、有名無実気味の授業の合間や休み時間のあいだに、学校の中のいろいろな場所を見に行くようになった。 図書室、理科室、音楽室、職員室に進路相談室。まあ、見に行ったところでほとんど何の感慨も起きなかった。ついこの間まで普通に授業や進路相談で行っていたのだから当たり前なのだけれど。 そして、美術室。 結局3年間も美術部に在籍していたけれど、ぼくは何ひとつまともな作品を作った記憶がなかった。そもそもの入部動機すら今では覚えていないほどに、部活動はぼくにとって大した意味を持たないものだったのだ。顧問の先生もいるようでいつもいないし、部員同士でなんの干渉をすることもない部で、放課後の1,2時間を美術室の後ろの方で眠るだけで、いつもつぶしていた。 彼女――須々木祐は、そんな無為なぼくの部活態度の唯一の賛同者だった。 まあ、他の部員だって別にぼくを非難するようなことはなかったのだけれど。
教室のカーテンは開け放されていて、真南よりも少し西へ傾いた太陽の光が教室中に氾濫していた。昼休みの清掃のあとで、教室の机は綺麗に列をそろえて並べられて、乱れのひとつも無い。 ぼくは、とりあえずいつも座っていた机のそばの椅子に腰掛けた。 美術室の机は、一般の教室にある勉強机とは違って、やたら大きくて重い。ところどころに彫刻刀で出来た傷や絵の具の汚れがついている。ぼくが使っていたこの机もずいぶん昔から使われてきたもののようで、木の表面はもうニスがはがれてがさがさだし、机の表面の板のふちや裏の落書きにも年季が入っている。昭和60年卒の卒業生の記念落書きの隣には平成元年のもの、その隣には平成2年、平成7年、平成11年。どれも美術部の生徒が彫ったもののようだった。 ぼくは椅子から降りて準備室に入り、彫刻刀を持ち出して、元の机の下にもぐりこんだ。唐突に、ぼくもこの落書きの列に連なりたいと思った。年度は飛び飛びだけれども、気付いた部員がこっそりつなげていった隠れた伝統を、この机を3年間使っていたぼくが受け継がないでどうする。 「平成15年卒 美術部 窪井秀」 「美術部」の隣に「腰掛け部員」と入れるべきかと一瞬迷ったけれど、あまり意味が無さそうなのでやめた。
教室の床に座り込んだまま上を見上げると、掃除のあとの埃が、窓からの太陽の光を受けてちらちらと舞っていた。 埃の匂い。油の匂い。太陽の匂い。 ぼくは、この教室が好きだったんだ、となんとなく思った。 卒業しても、この教室だけは忘れない気がする。 学校中でいちばん、太陽が集まる部屋だった。
ぼくはよくよく美術部員に向いていなかったと思う。 別に美術の成績がよかったわけでもないし、芸術にそんなに興味も無い。 だから、3年間もやめずに続けていたのは、きっと。
卒業式の朝は、雨の入学式・雨の遠足・雨の体育祭が普通だったぼくにとってはひどく珍しく、雲ひとつ無い快晴だった。 「明日の合格発表、お前、見に行く?」 体育館での長い式を終えて、在校生見送りの元、卒業生は正門までを列を作って歩く。 真後ろから肩をぶつけるようにして隣に並んだオミは、ぼくの目を覗き込みながら、いつものようににぃと笑った。途中で在校生から握手を求められたり記念写真を求められたりしているのに、それをことごとく無視している。 「行かね」 「そ、か。なんだ、お前と俺が受かってるかどうか賭けようと思ったのに」 「合格してても入らないんだから、意味ないだろ」 「やっぱ、東京行くの?」 「冗談だと思ってたのかよ」 「んん、いや。もう会わないかも知れねえなー」 オミの目を見る。何を考えているかはわからなかった。 いつも、口元と目元でうまく笑って見せているけれど、心までは許していない。 今になって、オミのそんなところに気付いた。 「……ああ。お前もな。…合格してるといいな」 「俺は受かるよ」 最後に、またいつもの人の悪い笑顔で自信いっぱいに言い切って、オミはぼくの背中を小突いた。 「お前はお前でうまくやんなさい」 4,5メートルほど先の在校生の列に、彼女がいた。
中学校は、ひどく狭い世界だった。 地区で決められた小学校からほとんど持ち上がったままの友達関係で、うまくいけば9年間も変わらない環境の中に浸かっていられる。 だから、気付かないんだ。 自分の周りの世界が、本当はもっと途方も無く大きいものだということ。 卒業して二度と会えなくなる人がいるなんて、考えもつかなかった。
北校舎と南校舎の間には、すごく狭いけれども、ちゃんと中庭が造られている。 小さな池は藻で緑色に濁ってるし、花壇は花より雑草のほうが3倍くらい多いけれども、日当たりだけなら美術室とそう変わらないくらい明るくて暖かかった。 送る側と送られる側の列をそれぞれ離れて、ここまで歩いてきたものの、相変わらずぼくには言葉を切りだす方法が見つからなかった。 軽口なら、今までだってずっと部活の時間に叩いてこられたのに。
「……卒業、おめでとうございます」 結局、先に言葉を口にしたのは彼女の方だった。 「ん、…ありがとう、」
ぼくが美術室に惹かれていたのは、あの教室が、中学校までのぼくの日常を凝縮したような空間だったから。 閉鎖されて、暖かくて、いつも守られている。 ひどく狭い社会の中で、世界の中で、いつまでも子供の夢を見ていられるような気がしたから。
ぼくはこの土地を離れて外に出て行く。 大人になる時間には逆らえないことを知ってしまっている。
君の目には、まだ世界は虹よりもとりどりの色に見えているのかな。
「これ、さ」 ぼくは制服の胸ポケットの中を探った。 彼女がぎこちなく、でも少しの期待を込めてぼくの方を見るのがわかった。
君にとって、「憧れる先輩」は別にぼくでなくてもよかったんだ。 安全な世界の中で、優しくてそばにいてくれる先輩なら誰でも同じだったんだ。 そのことになんとなく気付いてしまったぼくの方が、逆に悔しい気持ちになる。 ぼくはぼくでしかないのに。
けれども、ぼくは、彼女の目から見た世界の色をもう1度見てみたいと思っている。 安全で満たされた世界にいたころの視界に憧れて、だからこそ壊さないでいてあげたいと思う。
「ありがと、な。受験に持ってったんだ」 赤い小さなハート。 彼女の目が見開かれた。 手をとって、手のひらの中にハートを置いて、握らせる。 「高校、受かった。来月からは東京だ」
小学校の頃から知り合っていたわけでもなく、学年が違うからクラスも違うし。 ただ、部活が2年間一緒だった、部活以外では会うことも話すことも無かった。
ぼくが君の世界の中でどんな位置にいたのか、実際のところは何もわからないけれど。
「東京…か。残念、県内だったら追いかけてたのに、」 ぼくの顔を見上げる彼女の、祐の下まつげの上にのった光の珠。 美術室の窓硝子と埃臭い空気。 陽光が通り抜けて生まれるいくつもの色、色、
「追いかけて来なよ」
言葉の意味を考えるようにじっとぼくの目を見つめたあと、ふぅ、と眉根を寄せて祐は苦笑した。頬を、太陽の欠片が転がり落ちる。
夢を見させて。 ぼくに原色の世界を見せて。
「元気でな」 「窪井先輩も。…大好き、でした」
きっとぼくは今笑っている。
「美術室の俺の席、お前に譲る」
ぼくが一歩抜け出してしまった狭くて暖かい部屋。 締め出された外側から見てはじめて存在を知ったたくさんの色。
戻ることはできない、でも。 君を通せば、ほら、ぼくにも虹が見える。
「ありがとう」
いつかまた、という言葉に代えて、君と、日常のすべてに。
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