文
- 密集
2002年06月30日(日)
最後の授業が終わって部屋に帰ると、いつも玄関の真中、汚れた硬い床の上に座り込んでしまいたくなる。 ここは汚い。柔らかなカーペットの上がいい。 ほこりや泥が隅の方にかたまっている。掃除しなきゃ、掃除、掃除。 蹴るように靴を脱ぎ捨てて、部屋の真中まで歩いて行けば、座れる。 布団の上は駄目。カーペットの上がいい。 正座の足を両側に無理に崩して上半身を前倒しに屈み込む。窮屈で息苦しい、でもそれが心地良い。 楽になってしまいたいなら、その前に少し苦しい思いをしなきゃならない。
しばらくしたら、体を起こす。 縮こまった体を伸ばしてまっすぐつまさき立ちをして、そしてまた座り込む。 心臓が口から飛び出してきそう。立ち上がっただけで動悸が激しいだなんて、まるで年寄りみたいだ。脳みその周りの血管が焼けそうだ、痛い。 こうして毎日生きていることを確認していれば、いつかこの違和感にも慣れるのかもしれない。
部屋の中の空気が重たい。湿ってる、じめじめしてる。 一日一日を生の確認で刻み込んでいく。一週間は七日、一ヶ月は三十日くらい。一年は三百六十五日。季節はどうやって分けただろう。今は春、それとも初夏か。 窓を開けようと触れた硝子はひんやりしていて、けれども冬の最中のような氷の温度ではなくて。これはイミテーションのプラスチック。 二つある窓を開けて、換気扇も回して、空気の流れを肌で感じる。
この匂いは去年も嗅いだ。
草の匂いなのか水の匂いなのか、あるいはもっと別なものなのか。 何かは分からないけれど、これは生きているものの匂い。
密集して生きるものの匂い。夜の匂い。
流しの片付けをした、昼のことを思い出す。排水溝の中を覗き込んだときに顔をしかめたのは、密集した水かびの群れを嫌悪してしまったから。 そんなにしてまで生きなければならないのか、殖えていかなければならないのか。 水に流されて散っていく様子は、まるで櫻の花のよう。
殖えていくということ。生きていくということ。 自分が「生きる者」として在るかぎり、それは絶対で真実なのか。 棄ててしまったらどうなるんだろう。 その垣根を飛び越えてしまったら、その先は何があるんだろう。 でも、私はまだここに居る。
夏だった。 生きるものが周りにひしめいてひしめて、匂う。息がつまるほど。 去年も、確かに、これは夏の匂いだった。
- RUNNIN' STAR
2002年06月20日(木)
頭上に広がった雲があまりにも重そうで、手ぶらで歩いているにもかかわらず僕はひどくのろのろとその家へ向かっていた。天気がもっと良ければよかった、そしたらもっと楽な気持ちになれたかもしれないのに。 たとえ、これから会うひとがもう僕を見てくれなくても。抱きしめてくれなくても。
彼女に出会ったのは三週間ほど前のことだった。それまで追いかけていた事件が一応の終決を迎えて、自分の家に帰って眠れる喜びを、僕はかみしめていた。 空はよく晴れていて、真夜中の田舎道からはたくさんの星が見られた。一仕事終えた、という開放感と安堵に背中を押されて、家のある二つも手前の駅に僕は降り立った。 見上げると、一面が宇宙だった。つかみとれそうなほどに近く、名前も知らない星の群れが僕を見ていた。
「キレイ」
その時、無人だと思っていたその駅のホームに、自分以外の人間がいることに気付いた。その姿をみとめて、まず最初に訪れた感情は「驚き」だった。彼女は、正確にいえばホームにいたのではない。 線路の上に寝転んでいたのだ。
「流れ星を見たわ、」
独り言だったのかもしれない、今でもそう思う。けれども、彼女の次の言葉が僕の方へ向かって発せられたものであるのは確実だった。
「あなたが、願いを叶えてくれるの?」
線路を拍子抜けした顔のままでのぞきこむ僕と。 何も疑う余地などないのだと瞳で語る彼女と。 それが出会いだった。
三週間、をふりかえってみる。けれども、彼女と過ごした時間の中、間におきた細かい出来事のひとつひとつ、そのどれをとってみても、僕が彼女の願いを叶えてあげられたとは思えなかった。願いを叶える人間は、僕では役者不足だったのだ――今でもそう思う。 確実に冬が近づいているのだろう、あたりが暗いのは雲のせいばかりではない。 冬に生まれた彼女は、どうしても誕生日までに成就させたいの、と言っていた。 その相手が僕でよかったのかどうか。自信を持ってこれで良かったと言い切ることはできない。けれども。 僕は、僕だけは――少なくとも彼女が好きだった。
彼女は二週間前に死んでいる。
ずっと一緒にいられたら。離れることなく誰かの一部になってしまえたら。 彼女の願いを理解することは容易ではなかった。今でもきっちり自分の中の常識と折り合いをつけることができたわけではない。加えて、僕は刑事だから。認めることはできなかった。それでも。 その信念を曲げてしまってもかまわないくらい。 自分が狂ってしまってもかまわないくらい。 彼女のことを想い愛し彼女の理想を、願いを受け入れてみせようと思った。 彼女は僕の中にいる。 ようやく家の前へたどりついた。彼女の家はひどく静かだった。主がいないせいではない。彼女がいた時だって、この家はまったく生きている者の存在を認めてはいなかった。 廊下を歩く。その現場は、この先につづく台所だ。 かすかに金木犀の香りがした。空気は、肌寒いというほどではなく、でも涼しいというよりずっと冷ややかで。 彼女の声がした。僕の中に同化した彼女が至福だと言っている。 君が幸せなら、僕は何も言うことはない。君の流星になれたことが、僕の人生で一番の幸せだ。 君の柔らかな腕も。かすかに笑った口元も。足も、胸も、指も瞳も。 すべて少しずつ、僕の中にある。僕の一部になっているよ。
意外すぎるくらいに冷静な自分に、僕は満足していた。現場を見てとりみだすようでは、彼女の望む流星にはなりきれていないということなのだから。僕は彼女の願いを、しっかり叶えられたのだろう。やっと僕は確信することができた。
一仕事終えた、と心の中でつぶやく。安堵の笑みが口元に及ぶ。
たとえ部分になったとしても、君の体はまだ美しい。 生きた君の魂は、僕の中に同化され。 自分の行く末がわからなくても、僕と君が離れることはありえないから。
部下の一人が持ってきた凶器は大きな牛刀で。 僕と君の同化を見守った、僕の仕事を晴ればれと証してくれるだろう。
- 光と自然と草仁
2002年06月10日(月)
居酒屋の隣のなんだかよくわからない店の看板では、一秒ごとに左右のライトが点滅している。 ぴかぴかぴかぴか、うるさいくらいで意識にひっかかる。気に障るというほどではないのだけれど。 振り返って、向こうに見える山は原色。草も木も花も、彩度が高すぎてくらくらする。 眼鏡をなくして、かえって目に入るものの存在感に圧されている気がする。命のある物はこんなに自己主張をするんだったか、自分の目にこれまで入っていたものは、それじゃあ生き物のほんとうの姿ではなかったんだろ、草仁はしばしばと何度かまばたきを繰り返した。目を閉じてもあの看板のライトがまぶたを透かす。白・赤・白・赤。まわりの景色、原色のまち。ストロボとひとコマの絵のくりかえし。 眼鏡をかけていた」ころの視界はどんなのだっただろう、つい一週間前のことなのにうまく思い出せない。
空を見上げてみると、その色だけはあまり変わってもいなかった。少しだけ安心して、けれどもやっぱり空は生きてはいないんだな、と変な理屈で考えた。
家へと続く道にあじさいが咲いている。雨に打たれても褪せない青、青、藍染めの薄い色。 これから紫になるんだろうか、去年見たのはたしか淡いピンク。 紫なんだか朱なんだか、わかりもしないほど褪せてぼろぼろ。
ぶらぶら歩く足元には水たまり、生きない空を映してるだけなのにぴかぴか。とん、とん、とん、びしゃん。跳ねた水がヴィンテージのジーンズに染み込む染み込む。冷たくまとわりついて途端に後悔した。 ぴかぴかのライトはもう無いけれど、網膜に残った赤がまだ黄色くぼんやり浮かんでいる。ぴかぴかぴかぴか、脳みその方が勝手に自分に見せてきている。そんな点滅、覚えたって何にもならない。足までぴかぴかに合わせてはずんでいる。トン、トン、トン、スキップ。 これは僕がはずんでるんじゃない、草仁はまた水たまりに飛びこんでしまって、自分に対してそう言ってみた。
嬉し、嬉しや
感情まで流されそうになっている。いかん、ここまでなんとか一週間耐えてきていたのに。 生き物がみんな精気に満ち満ちているのは不自然なような自然なような、ああレンズが目の前になくなっただけでこんなに違うものなんだ、眼鏡が光を吸い取ってるんだな、ということは。
嬉し、嬉しや、ああ嬉し
このままスキップで帰っちゃおう。草仁はジーンズの裾をたくしあげて笑った。
<< 前 目次 次 >>
初日から日付順 最新
|