文
- ニジイロナミダ。
2002年02月14日(木)
太陽の光を見ると、くしゃみが出るんだってだれかが言ってた。 そのときは、ただ埃が入ったんじゃないの、ってそっけなく言い返した。 私たちが、暇さえあれば入り浸っている美術室。南向きの日当たりのいい教室は、いつだってお日様と絵の具の油のぬめった匂いに満ちている。教室の中の美術作品は、日に当たるといけないからっていつも先生に怒られるのだけれど、私はカーテンをぜんぶ開け放して、埃臭い太陽の真ん中で居眠りするのが好きだった。 先輩も同じ。 部活の時間中、ほとんど何もすることなく、私たちは太陽の膝元に座り込んで眠っていた。夢を見ていた。 覚めなければいいのに、と思っていた。 そう思っていたのは、でも、もしかしなくても私1人だけで。
「何それ。イモムシ?」 唐突に頭上から降ってきた耳触りのいい声にも、犬のようにいちいち反応しないだけの耐性を、私はすでに持っていた。顔を上げなくても、先輩がどんな表情をしているのかわかる。 「ゼリービーンズ、くらい言えないんですか?」 一心不乱に、油絵の具で色をつけたパンド粘土をこねくりまわす私の視界に、骨ばった指がひらりと現れ、消えた。色とりどりの粘土の粒の中、さらわれた粒のあった場所だけにぽっかりと陽が落ちる。 「あいにく、俺はそんなに想像力たくましくないもんでね。どう見たって、コレ、赤いイモムシ」 「あーやだやだ、ロマンのない人は。それでよく3年間も美術部員なんてやってられましたね」 空気が動いて、先輩が目の前の椅子に座るのがわかった。机の上の粘土の群れに目を落とす。色、色、色。タイルのように敷き詰められた粒はたしかに色とりどりで乱雑で美しくて、――でも、それ以上に、ただ視界の隅に映っているだけの先輩の制服のただの紺や、背もたれの上についていた肘を覆う、冬用セーターの無愛想な灰色にばかり気を取られてしまう。悔しい。 「お前だって人のこと言えないだろ、2年間一緒の部だったけど、真面目に部活動してるところなんて見たことないぜ。いつも、遊んでるか寝てばっか、」 一緒の部、だった。過去形になっているのは意識していないんだろうけど。 「腰掛け部員なのは先輩だけですよ。私はちゃんと、夏明けの作品展に出品しましたもん」 「結果は?」 「……何にも、入りませんでしたけど」 「腰掛けの実力なんて、そんなもんですー」 「うるさいなっ」 先輩はけらけらと笑いながら、横座りにしていた体を私の真向かいに動かして座りなおした。 「でも、まあ、たしかにお前は俺よりは真面目だったよ。結局、俺がこの部に来て覚えたのなんて、墜落睡眠のやり方と、出ないときのくしゃみの出し方くらいだもんな」 「……あ、」 先輩が言ったんだ、あれ。何もかも忘れないでいようと思ったのに、こんな所からどんどんと記憶がこぼれていくなんて。 「俺、お前のお遊びで作ってるオモチャ、結構好きだよ」 思わず、顔を上げてしまった。美術室の窓というフィルターを通して、埃臭い太陽の陽が先輩の曇りない笑顔を照らす。 そのとたん、私はまた、現実を切り離して夢の中へ逃げ込んでしまいそうな気分になった。何度思っても、叶わないユメ。 「ホラ、返すよ。赤いイモムシ」 だめだ、私。 美術室の太陽の中から先輩の笑顔を見ると、心がむずむずする。
「で?で、チョコレート、ちゃんと作ってきたんでしょ?」 進路相談のために美術室を出ていった先輩と入れ替わるようにやって来たのは、同じ部の友達の女の子だった。 「作ってないよ、そんなもん」 ちぎっては丸め、ちぎっては丸めていた粘土の塊が、机からこぼれ落ちんばかりの数になっている。私はひとつため息をついて、ばらばらに置かれていたたくさんの粘土粒を、その色ごとにソートしはじめた。 「はあ?何よ、今日が何の日だかわかってないわけじゃないんでしょ?」 「先輩の卒業一ヶ月前記念日」 「……それも正しいけどさ。わかってるのにわざとはぐらかすんじゃないわよ、今日はバレンタインデーでしょうが。今日言わなくていつ言うってのよ、」 「別に、チョコレートをあげなきゃいけない決まりなんてないじゃん」 それに、そういう形式ばったことをするには、もう馴れ合いすぎてしまっている。 ブラウンから赤に順に並べられた粒つぶを、ひとつ手に取り、「く」の字に曲げる。 く。 く。 「先輩さあ、東一高に行くんでしょ。男子高じゃん、追いかけることもできないんだよ?」 く。 「もし私が男だったとしても入れやしないけどね、どうせ。レベルが違うもん」 ありきたりな方法で、普通すぎる方法で、先輩に「おもしろくない」だなんて思われたくない。 だからこそ、今まで言えないできた。私は、普通すぎて。平凡すぎて。
く。 く。
机の上に並んでいく、たくさんの粘土粒。 このすべてを、「く」の字に曲げ終えたら、私の願いが叶うかどうか。 考えるだけで馬鹿らしくなる。おまじないやジンクス、そんなことに力を注いで頼ったって、相手に向かう力でない限りただの無駄でしかないのに。
でも、それでも。
一番、手元の近くに置いてあった、最後の赤い粒を手に取る。 先輩から手渡された、赤い小さなイモムシ。 綺麗に「く」の字の角をとがらせて、丁寧に形を整えたあと、小さなハートのタイル張りになった机の真ん中に置いてみる。 このすべてのハートが私の気持ちだと言ったら、あなたは私に気持ちを返してくれますか? こんな粘土細工より、ちっぽけな物でも構わないのですが。
先輩の進路相談は、やけに長い時間がかかっていた。 進路相談室のある2階と3階の間の踊り場に座り込んで、私はただぼんやりと、先輩が階段へ出てくるのを待っていた。 背を向けている出窓から差し込む陽が、赤い。2階の廊下のスピーカーから、下校時刻を知らせるメロディが揺らぎながら流れてくる。 私の日常。毎日、決められた制服を着て、決められた学校に通う。住んでいる地区で割り振られた中学と、自分で選んで進んでいく高校。進む道を決めてしまった先輩は、私にはやけに遠く、大人の人に思えた。そうでなくても、私たちにとって1年の差は大きい。いつまでも、追いかけても手の届かない人のような気がして切なくて、どうしたって離れていくということがひどく理不尽だと腹を立てた。1年の差はひどく大きい。窓からの光が赤くて痛い。美術室でもないのに、目の前に先輩の笑顔があるわけでもないのに、胸がむずむずした。 けれども、こぼれてくるのはやはり涙で。
「なんだよ、どうした?泣いてんの?」 ふいに、階下から声がした。 「……夕日が、目にしみたからー」 「はあ?お前、いつから詩人になったんだよ」 苦笑した先輩は、けれども優しい目をしていると思った。
馬鹿みたいだけど、馬鹿かもしれないけど、それでも。 言わなきゃならないこと。伝えたいと思う気持ち。 耳を塞がないで。どうか。
「俺さ、高校、県外かもしれんわ」 ――口から出かけた声は、先輩の言葉に押し戻された。 「県外……、て、……」 「私立、受けんの。東京の」 先輩のところまで降りようとした私の足は、止まってしまった。動かない。動けない。 先輩は、階段の下りはじめの位置に腰を下ろし、1階の踊り場の窓から外を見ていた。
私のことは、もう目に入っていない。
届かない。届かない。
制服のポケットにぎりぎりまで詰めたハートの粒が、さっきまでお守りのように握り締めていたハートの粒が、ひどく軽くたよりのない物に思えた。 こんなオモチャをいくつ並べてみたとしても、先輩のところまで届かない。 遠くへ行かないで置いて行かないで。そんな気持ちは意味を持たない。言葉にして突きつけない限り、相手に知られることもない。気持ちはただの気持ちのまま、想っていれば叶うなんて幻想だ、なんて馬鹿なんだ。
けれども、そうわかっていても、声を出すことができない。怖い。怖い。
この人には届かない。
色とりどりのハートの雨は、ばららという軽い音を立てて、砕けるように四方八方に飛び散った。とっさに頭と顔をかばった両腕を下ろして、先輩はようやっと私を見上げてくれた。……違う。こんな風に見て欲しかったんじゃない。
「……先輩、なんか」
――――――――――大好き、です。
届かないから反発して。手に入らないから傷つけたくて。
違う違う間違ってる。でもだったらどうすれば距離を埋められるの?
「さっさと卒業しちゃってよ、」
シアン、ローズ、タイガー、ブラウン、そして深紅。
飛び散り砕けた小さなハートは先輩のまわりをカラースプレーのように飾っていた。 ううん、そんな綺麗なものじゃない。あれはただの、「く」の字にゆがめられたイモムシ。
綺麗に想った私の気持ちなんかじゃない、あれはただの、粘土のオモチャ。 子供でしかいられない私のエゴ。
ごめんなさい先輩大好きです でも、
その日から、私は美術室の陽光に夢を見ることはなくなった。
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