奇跡を信じて〜あれから〜
R



 冬の花火

冬の花火
素敵ですね〜*

昨年の今日
2001年12月31日
朝起きて携帯を確認すると
「激痛、目が覚めたらこっちまで来て」と
Hからメールが届いていた
慌てて用意し車に乗ってから電話をする
「そっちへ向ってるからね
痛かったらいつでも来てって病院の先生言ってたよ」
私はそう言ったが
「少し治まったみたい ありがとう」とHは言ったが
「取りあえず行くから待ってて」と私は言い
車を走らせた
Hの自宅へ着き2Fの部屋へ行く
痛みは鈍痛が続いている様子で湿布を貼るのを手伝った
夜中に痛みで目が覚めた様だ
痛み止めの坐薬を入れても
痛くて眠れないかったらしく
メールを送信した後にワインを飲んで寝たたとか(^^;
医師の話では熱がないのが不思議だと言われていた
痛みにも波がある様子で
激痛が始まると息もできないくらいに痛いらしい

「スタンドへ行って洗車してくるね」
私が言うと
「乗せてって欲しい所があるから」とHは言った
が数分なのに同じ姿勢で車に乗っていた事が
苦痛だったのか
スタンドに着き急に激痛が始まった
スタンドに洗車をお願いしタクシーを呼んで
病院へ向った
車イスにHを乗せ時間外受付けへ診察券を出した
注射を打ち終わってからHの弟に電話を入れ
迎えに来てもらった

午後から少し痛みが和らいだ様で
「お母さんにコーヒーメーカー買いたいから」と
Hの買物に付き合った
エレベーターから外を眺めると雪が舞ってました
「こんな景色を昔も見たよね」Hがそう言った

予想以上に雪は降りHの家に泊まる事になった
「もう階段は登れないから」と1階の居間でHは眠り
私は2階のHの部屋で眠った

そして新年をHの自宅で迎えた
「今年は初詣にはいけないから留守番してるね
代わりにお守り買っておみくじ引いて来て」と
言われ皆と出掛けた
初めて初詣に一緒に行かなかった

一生、一緒に行く事はなくなってしまった

私には古くから付き合っている友人が多い
きっと他の誰かが病気になった時でも
Hに対して私がしていた事と
同じ様に看護をする事でしょう

私の問題は私だから乗り越えられる
大切な友人を亡くした事のない人には
その寂しさはやってこない
社長でない人のところには
社長としての問題はやってこない
私に乗り越えられる問題しか
私のところへはやってこないのだと思う

あと今年も残り僅かとなりました
今年のテーマは「基本に戻ること」でした
来年は
少し進み「一歩」です

2002年12月31日(火)



 コメントは「奇跡が起こらなかった後のアクセス数は激減」

昨年の今日
2001年12月29日

必要になると思っていたわけではなかったが
昨年の12月
クリスマス様にオーダーしたキャンドルの中に
「癒しの手」と名付けられたキャンドルが入っていた
それは手を合わせた形になっている物だった

昨年の今日
「祈って!」とHが珍しい事を言った
何かに依存する事やサポートさえも必要としないHが
祈ってと私に言った

時々、商品が届いた後に気付く
「どうしてこんな物オーダーしたのだろう」って
特にアメリカにオーダーした物に限っては
到着するまでに数日要するわけで
届けられた頃には
「どうして」と思う様な物も入っている
しかも必要性に応じて
届けられた物は何かの役に立つ事が多い

例えば
先日はペット用にエッセンスが届いた
もちろん私がオーダーしたからなのだが
どうして、それをオーダーしたのかは覚えていない
ある日クライアントが飼っているペットが病気になったと聞き
そのエッセンスが必要とされてる気がしてプレゼントした

そんな偶然を幾つか経験してきた

奇跡の水も偶然にやってくるのかもしれない
そんな事を昨年の年末は考えていた

アクセス解析を拝見
私の日記について、ある方のコメントを発見
「奇跡が起こらなかった後のアクセス数は激減」と
書かれていた

2002年12月29日(日)



 不死身のはず

昨年の今日
2001年12月28日

この日の午前
Hはガリウムシンチ
堅いベッドの上で背中や腰を痛そうにしていた
私は外から検査室の中を見ていた

次は翌月の4日に骨シンチの検査が入っていた

私は午後から仕事に向った
仕事中はクライアントの事だけを考えようとしても
出来る限り早く仕事を終え
Hの手となり足となりたいと思っていた

Hの背中と腰は激痛のサイクルがある様で
少しづつ短縮されている気がした
はっきりとした結果が出るまでは
坐薬の挿入と鎮痛剤を飲む事以外はなかった
その他に
「硬膜外神経ブロック」を整形外科で行った

湿布を貼ると少しは痛みが和らぐ気がする様で
1日に何度も貼り変えていた
湿布は冷たいので上からホカロンを貼るといった
奇妙な事をHはしていた

本人は自覚していなかったが
既に左の肺は潰されていて機能していなかった

それでも私は
まだ
何かの間違いであってほしい
そう思っていた

例え
癌に侵されていてもHは不死身だ
奇跡は起こるに違いない
ある日、医師から
「あれっ?腫瘍は何処へいっちゃったんでしょうねぇ」などと
言われる日が来る事を切に望んでいた

2002年12月28日(土)



 この日を忘れないために

昨年の今日
2001年12月27日

その日、Hの検査は午後からだった
私は仕事を終えた後、病院へ向い
Hは造影剤を入れ胸部のレントゲンを撮った

年内の検査は翌日で終わった

Hは何も言わないが
孤独感や不安感を抱いているに違いない
出来る限り手の届く範囲内にいたいと思った

2002年12月27日(金)



 私の元を去ったクライアント

昨年の今日
2001年12月26日

「来週の私の診察日まで待て」と
M先生に指示したI教授の診察日でした
午前、I教授が外科に連絡をし
Hの左腕の腫瘍を摘出する様に指示した
外科の診察室までHを送った後
私はI教授の元に戻った
細胞診の結果は年を越してからでないと判らないが
最後の望みとして
「リンパ腫である方が予後が良い」との事

腫瘍の摘出は午後になった
私の仕事も午後からだったが
とてもHを一人病院に残して行ける状況ではなかった
スタッフに連絡をし仕事を任せた
後に、その事がクライアントの心の傷となった

更に腫瘍の摘出は遅れ午後3時を過ぎた
日に日に腫瘍が増え
一番新しい腫瘍を摘出する事になった

スタッフに連絡をし
「今日は行けそうにない事をクライアントに伝えて
その際、理由は伝えなくて良いから」そう指示した

Hの病気の事はHが伝えたい人だけに
自分の口から伝える事が望ましいと感じた

腫瘍の摘出が終わり
遅めの昼食を軽く取り
夕方には腹部CTの検査を終えた

スタッフに連絡をすると
ずっと「先生はまだ来ないの」と訪ねられたとか
「先生はカウンセリングをしてくれなかった」と
話していた事も報告を受けた
その気持ちがエスカレートし
「先生が予約を受けた癖に
スタッフにカウンセリングをさせるなんて詐欺よ」
と言われてしまった
しかしクライアントは私の前ではとても良い子なのである
しかし私がカウンセリングできなかった事情を
話さなかった事が彼女には気に障った様で
相当な怒りだったと周囲の人から聞いた

その後、何度かお会いしたが
1度私がカウンセリングをしなかった事が
彼女の心の傷として残った

そして私の元を去って行った

数ヵ月後
Hの通夜の準備をしている最中に
彼女から携帯に連絡が入った
「すみません お通夜の準備をしている所なので
電話を切らせて頂きます」と私は言った
私の元を去って行った人を
再び受け入れる事が出来る程
私は暇ではなくなっていた

そして何度もメールを頂いたが
私から返信する事は1度もなかった

2002年12月26日(木)



 クリスマスの朝

昨年のクリスマスの午前中
28日に行うガリウムシンチの検査の為に
Hは注射を打った
私はHの車イスを押しながらアイソトープの部屋へ入った

当時、私は
「私が出来る事全ての事をする」そう決めていた

2002年12月25日(水)



 この日は忘れたくない

昨年の今日
2001年12月24日
自分の車を売る為にトランクの中を整理した
翌日には車屋が取りに来る事になっていた

昨年のクリスマスイブは自分の車に別れを告げた
とても気に入っていたけれど
未練はなかった
それよりも1つでもHの気に入っている物を残す事の方が
私には大切で、それをする事が出来て良かったと思った

車の代金は年末には振り込まれ
「何かの足しになるから」とHに渡したが
「Rの通帳に入れておいて
それから預かっておいて欲しい物がある」と
Hの通帳とキャッシュカードを私は預かった

当時はHが望む事全てを受け入れようとする事に一生懸命で
気付かないでいたが
私はHに信頼されていたのだと思う

2002年12月24日(火)



 この日も忘れられない

昨年の今日
2001年12月22日

Hは言った
「死は怖くないよ
ただ、残された人の事を考えるとね
それを思うと
病気と戦い生きていきたい」

残された検査を受ける前から
Hは覚悟している様でした

「車、売ろうかな
入院したら乗れないし、入院費も沢山いりそうだし」
そんな事をHは言いはじめた
「何言ってるの 
とても大切にしている物を売る必要ないよ
それに退院してから同じ物を買う方が大変そう」
私がそう言うと
「でも運転できないし」
もう手放す覚悟は出来ている様だった
「わかった
じゃあ 退院するまで私が預かっておくって事でどう?
私は自分の車を売るから
そしてHが退院した後に新しいの買うから良いよ」
私がそう言うとHは嬉しそうだった

偶然なのかもしれないが
私の車は2001年12月22日
車検切れ2日前
2001年12月24日で車検が切れる
私は自分の車をとても気に入っていたし
車検の予約も入れてあった
そんな事はどうでも良くて
ただ、Hの大切な物を残しておきたかった

2002年12月22日(日)



 この日は忘れられない

昨年の今日
2001年12月21日
M先生からの紹介状を受付けの女性が用意し
他科まで案内して下さった
その間にもHの腰痛は激しく
椅子に座ってはいられない状態
診察室に通され
レントゲンやCTの画像を見ながら
O医師は
「肺癌の疑いがあります」はっきりおっしゃった
Hは
「小細胞癌ですか?」そう聞いた
「それは検査してみないとわかりません」
O医師は淡々と検査の予約を入力していった
Hは
「入院が長期になるのであれば
片付けておきたい仕事があります」そう告げると
「一刻を争うんです」O医師が言った

一刻を争う

この言葉を聞く度に心が苦しくなる
私以上にHは苦しかったと思う

この日、私は午後から仕事
どの様な状態の時でも感情に波があってはならない

「癌センターへ行く気はない?」そう聞いてみた
「調べておいて」とHに言われた

何かの間違いでありますように
そう願った

2002年12月21日(土)



 この日も忘れない

昨年の今日
2001年12月20日
この日のHの検査予定は
午前中に胃カメラ、午後は甲状腺の検査でした
Hの話ではI教授は胃カメラを入れ
「あるあるココに。サルコイドーシス間違いないな」と言われたとか
検査室から出て来たHは
「こんな苦しい検査二度と嫌」と涙目になっていた
私は
「まだサルコイドーシスで良かったじゃない
自然に小さくなり消失するって医学書にも書いてあったし」
そう私は言った

そして午後の検査までに時間があった為
私はHの自宅で待機した
電話が鳴りHの母が出て
「Rさん○○病院から」と私に変わる
嫌な予感
電話の相手はI教授ではなく午後の検査医のM先生
「今、肺のレントゲンを見せて頂きましたが
これから緊急CTの予約を入れます
出来る限り早くお越し下さい」こうおっしゃられました

病院に着くと看護婦さんに
「M先生が緊急でCTの予約を入れて下さったから」
そう言われ
その必要性を考え想像していく

時の流れがスローモーションになっていった
現実を受けとめたくない時
こう言った現象を起こす事が私にはある

そしてCTの後、診察室に移動し
M先生が緊急CTを行った必要性について
話し始めた

「肺腫瘍の疑いがあります」

そう言われた後M先生はI教授に連絡を取った
「私は○○(専門用語)だと思います」
電話の向こう側でI教授は否定している様で
「来週の私の診察日まで待て」と指示があったとか
M先生は
「一刻を争いますので
紹介状を書き他の医師に見て頂きます」
そう答えていた

そして
「I教授に私は後から叱られるかもしれませんが
これから他科の先生へ紹介状を書きますので
明日、もう一度来て下さい」そうM先生はおっしゃった

一刻を争う

一刻を争う程の病気
サルコイドーシスは?

そして予定通り甲状腺の検査を行った
首に針を刺し細胞組織を採取した
結果は来週

医学書を開き
Hは「これ」と小細胞癌を指差した
そこには無治療の場合、死亡まで数ヶ月である事
発見時にすでに全身へ転移していることが多い事などが
書かれていた
「まだわからないじゃない」私がそう言うと
「これしかないよ」
Hの表情は当然の事ながら重かった

翌日はM先生からの紹介で
他科を受診する事になっていた

何かの間違いでありますように
そう願うしかなかった

2002年12月20日(金)



 今頃、昨年は

こちらに日記を書き始めて1年

昨年の今日
2001年12月19日
腰痛よりも外側に出来ている腫瘍をHは気にしていた
尿検査、血液検査、肺単純X線、心電図を終え
私の主治医が言った事は
「サルコイドーシスだなぁ〜」でした
悪性腫瘍も一応は疑ってみると言われました

サルコイドーシスとは
全身に小さな肉のかたまり(肉芽腫)の様なものができ
原因は不明
肉芽腫ができるのは、肺、眼、皮膚などが多く
約70%は自然に小さくなり、消失する病気です

自然に小さくなり消失する病気
そうであれば良かったのに

それでも翌日の午前は胃カメラ
午後には甲状腺の検査
年末にはガリウムシンチの検査予約が入った

この日、午後から私は仕事をした

その日の夜
一瞬、嫌な気はしたが
そんなはずはないと、その考えを振り切った

2002年12月19日(木)



 この日は忘れない

2001年12月18日は
Hが私の自宅に来た最後の日

あれから1年

昨年の今日は
何を食べたかは忘れたけれど
私の自宅で夕食を食べて帰って行ったよ
その日が最後の日となるなんて私は思っていなかった

母は「もしかしたら」って思ったらしい

私の母は変な所を感じる人で
この最後の日
Hが「腰が痛い」と言うと
「私の知ってる人が腰が痛いって言いながら
3ヶ月で逝っちゃったのよ〜肺癌だったわ」と母は言った
「脅かさないで下さいよ〜」とHも笑ってた

まさか

そのままじゃん

その事を後に医師に伝えると
「Rさんのお母さんは占い師みたいな人ですねぇ
医者でも気付かなかったのに」と言われました

そうです
腰が痛いと言いはじめたのは昨年の11月
「坐骨神経痛」と診断され
「年寄りみたいでいやだなぁ」って言ってました

しかし
好きな事だけやって好きな様に生きたHの人生
最後までHらしかったな

2002年12月18日(水)



 時間と空間

私が大切にしている事は一人で過ごす時間と空間

自分の気持ちを押し付けてくる人は苦手
束縛される事も苦手
気持ちが重くなるばかりか逃げ出したくなります
先日、ストーカー化したクライアント(男性)に
怯えて過ごしていました
頂くメールには「僕の大切なRちゃん」と書かれていたり
1日中電話が鳴る事もありました
何でも自分の答えが全て正しいと思い込んでいる人です
最近では「僕のRちゃん」ではない事に
やっと気付いた様でストーカーから解放されました

昨年Hは異様にグリーンを好みました
グリーンはハート(心臓)、肺、細胞の色
Hにとってグリーン色が必要だったのだと思います

2002年12月17日(火)



 出逢い

数年前の今日、私はHと出逢った

2002年12月11日(水)



 出逢いの季節

出逢いと言えば春
別れと言えば冬のイメージがありますが

Hと私の出逢いは冬 
別れは春でした
別れと言っても私達が決めた事ではありません

平和の内に神様がHを呼び戻したのでしょう

2002年12月08日(日)
初日 最新 目次 MAIL


My追加