女の世紀を旅する
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2008年03月01日(土) |
『夜と霧』 アウシュヴィツ収容所の極限体験(2) |
11 苦悩も生きることの一部
『夜と霧』(フランクル)より
「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。」
苦しみがあるから、楽しみや喜びが、より幸せと思える。 病気やケガをしてみて、健康の幸せに気づけることがある。 別れてから、その人の存在の大きさに気づくこともある。 闘いがあると、平和の幸せがわかる。 幸せがあるから、生(の時間)が、より大切に思える。 不幸があるから、幸せが、より幸せに思える。
苦もあり楽もあり、生があり死がある。幸せもあり不幸もある。 いろいろあるのが人生。どれが欠けても不完全なのかもしれません。 だったら、すべてを受け入れて(「幸せなことは好!好! 不幸なことはハオハオ」と)、生きていけばいいのではないでしょうか。
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12 内面的な勝利
『夜と霧』(フランクル)より
「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた。 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。」
「今に見ていろ」と頑張るのはいいことだと思います。 でも、そのために今を大切にしない、現在の生活をぜんぜん愉しめないというのはよくないと思います。
現実が大きく変わらなければ幸せになれないと考えていたら、いつ幸せになれるかわかりません。 どんな状況でも、内面的な勝利(幸せ)を得ることは可能なのだと思います。
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13 自分の未来を信じる
『夜と霧』(フランクル)より
「自分の未来をもはや信じることができなくなった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。」
精神的に自分を見捨てるということは、人間としていちばん恐ろしいことではないでしょうか。それは、自分を大切にすることをやめてしまうことだと思います。 自分の心や身体の痛みをそのまま放っておく、ひどい場合には自分で傷つけ・痛めつけるようなことをしてしまいます。
私は、自分が幸せになるために努力しない人は自分を大切にしていない、と思います。 実際には、ほとんどの人は無意識に自分を幸せにするために何かをしているのだとは思いますが。
自分を見捨てないで、自分を大切にするためには、まず自分の将来を信じて、希望をもって生きることが大切なのではないでしょうか。
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14 逆転の発想
『夜と霧』(フランクル)より
「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。」
生きる目的・意味を見失い、「生きることに何も期待できない」と、絶望した人は破たんしたそうです。 「生きる」ために生きる目的や意味を求めるのなら、逆に、生きることを前提に、そのために自分が期待されていること、つまり、生きるために自分が何をしたらいいのかが問題なのだと思います。
現在の私たちは、生きることだけなら、それほど難しくはないでしょう。 でも、生きる目的や意味を求める人はたくさんいます。それは、「ただ生きればいい」とは思えないからでしょう。それが見つからなくて絶望してしまう人もいます。 絶望しそうな人は、生きることで何が得られるかではなく、よりよく(幸せに)生きるためには何をしたらいいかを考えればいい、ということなのではないでしょうか。
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15 行動で答えを出す
『夜と霧』(フランクル)より
「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。」 生きる意味をいつまでも考えているだけでは、幸せにはなれません。 今を(よりよく、幸せに)生きるためには、何をどうすればいいかを考え、それを実践し、できれば幸せを感じられることが大切です。
自分の幸せになる方法を考えるのはいいことです。 でも、考えてばかりで実践しなければ、幸せは感じられません。 本当は、自分の幸せになる方法の実践が習慣になって、何も考えなくても幸せに暮らせるようになるのが望ましいのですが。
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16 解放−現実感の無さ
『夜と霧』(フランクル)より
「いよいよ強制収容所の心理学の最後の部分に向き合うことにしよう。収容所を解放された被収容者の心理だ。」 強制収容所から解放された時、人々は歓喜したと思うでしょうが、収容所生活はそのような程度ではなかったようです。 「わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた。 解放された仲間たちが経験したのは、心理学の立場から言えば、強度の離人症だった。すべては非現実で、不確かで、ただの夢のように感じられる。」 「うれしい」ということを忘れる、なんてことがあるのでしょうか。 体験者が言うのですから、間違いなくあるのでしょうが。
離人症は、自分の心を守るために、現実から切り離したのかもしれません。それほど、収容所生活の現実が悲惨だったということなのでしょう。
人が心を閉ざしたり、現実から逃避したりするのは、自分(の心)を守るためなのかもしれません。
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17 どうして耐え忍ぶことができたのか
『夜と霧』(フランクル)より
「解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。」
改めて考えてみると、どうしてかわからないことは、けっこう多いのではないでしょうか。 その時は、ただ夢中だったり、一所懸命だったりして。 また、いろいろ考えていたことも忘れてしまう場合も多いでしょう。 でも、
「強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分が待っていると、つねに思い出させることが重要だった。」 とも書いてあります。
「未来の目的を見つめさせること」は、「希望をもたせること」とも言えるでしょう。 また、「人生が自分を待っている」「だれかが自分が待っている」は、「何かに期待されている(逆に言えば、何かを期待する)」と思えることでしょう。「きっと幸せが待っている」と、自分の将来の幸せを期待できれば、絶望しないですむのではないでしょうか。
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18 高い代償で得られるもの
『夜と霧』(フランクル)より
「収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。」
どんなに不幸な経験があっても、それが去れば、人はいずれ立ち直ることができるのだと思います。
すごく不幸な経験をした人は、ちょっとぐらい不幸なことがあっても「あの時に比べればまだまし」と考えられます。ふつうの時には「あの時に比べれば今は幸せ」と思うこともできるのではないでしょうか。
極限の不幸を経験した人は、生きていく上で、もう何も恐れるものはなくなるのかもしれません。恐れ・不安がなければ、安心して生きられます。
人には、不幸を幸せに変える能力があるのだと思います。 でなければ、不幸な経験でのつらい思いが報われません。 不幸を経験した人は、それだけ幸せになれる可能性が高くなったと考えてもいいのではないでしょうか
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