ふうこの英国留学日記-その後

2003年07月28日(月) 理由はいくらでも。。


勉強が進まない! 体調の悪さを理由にしていたが、今は体調もJoyと会う最後の日が目前にせまってきてそうも言ってられなくなった。
それでも、4日で2000wordは書いたから、1日500wordは書いている計算だ。
しかし、それじゃあ、君、全然間に合わんのだよ。トホホ。

でも、一日1000wordも書けば、頭痛くなるし、ちょっと疲れると喘息気味になってゼーゼー言うし。なんでいきなり、こんなに弱くなった?と思っていたが、わかった。これがストレスというものか。土曜の夜はアルベルトの家に晩御飯を食べに行く約束も。。。具合が悪くて行けないと断わったものの、日曜の午後、私がつまづいている「詩的散文の翻訳」について、彼が本をまるまる一冊コピーして大学まで持ってきてくれたので、図書館で会うことになった。
彼も苦い顔をしていた。。。どうしたの? 大丈夫?
昨日、来なくて良かったよ。僕も具合悪くて、熱があって、口内炎がひどくてパスタも食べられなかったから。今も口内炎が痛くて食べられないし、熱っぽいし。
これは、ストレスだよ。去年彼女と別れときも、ひどい口内炎になったんだ。
うーむ、私だけではないのだ。彼も苦しんでいる。

彼も今年の夏、30歳を迎え、自分のキャリア、PhDを続けるか仕事を探すか、についてとても悩んでいる。

私たちは、確認しあった、そうだよね。要するに論文だけじゃなくて、今、考えなくちゃいけないことがたくさんあって、ストレスになってるんだよね。と。

猫好きで占い好きの時々除く楽しみにしているミャ−ミャ-占い http://www.blvc.net/msn/

を何気にのぞいてみたら、今週の私の占いのタイトルが
「からだがもつ範囲でがんばって」とあるではないか?
なるほど。。。
「自己の体力の限界を承知してがんばれば、いろいろと結果出る。寒い場所は凶。」だって。。。うむむ。
私の体調の悪さは、ストレスを除けばこの急激に寒くなったイギリスの気候に原因するのは明らかなのだ。(日中の気温18度)寒い場所は凶って言われても、寒いところに住んでる場合はどうすりゃいいのよ。

というわけで、今日も、生姜にネギを食し、首と腰には温湿布。
体を温めることに躍起になるワタクシでした。



2003年07月24日(木) ロシアの箱舟

ソクーロフ監督の「エルミタージュ幻想」(原題 Russian Ark)を観た。

豪華絢爛な衣装や舞台装置が目をひく映画だが、この映画の面白さは案内役の
二人の掛け合いと映し出される名画たちにある。19世紀のフランス人外交官、キュースチンという設定の白髪の案内役の男性と、キャメラを目とする姿無き声(ソクーロフ監督自身の声)のやりとりはヨーロッパとロシアのインテリのロシア文化に対する批判と、愛情に満ちている。

キュースチンはエルミタージュ美術館の回廊でつぶやく。
それに姿無き声が応える。

素晴らしい。。。ここはバチカンか?
ここにはイタリアンアートの素晴らしいコレクションがある。
だが、ラファエロはロシアにふさわしくはない。
ラファエロはイタリアのものだ。もっと温かい国のものだ。
ロシア人はコピーする才には長けている。

素晴らしいオーケストラだ。演奏しているのはヨーロッパ人だろう。
-いや彼らはロシア人だ。

美しいメロディーだ。作曲家は誰だ。
-XXだ。
ドイツ人か?
-ロシア人だ。
音楽家はすべてドイツ人のはずだ。
-すべての音楽がドイツ人だって?

エル・グレコの名画「聖ペテロと聖パウロ」の絵にとりつかれたように
見入る青年にキュースチンが話しかける。
君はクリスチャンか?
いいえ。
青年はいつか人々が彼らのようになれる日が来ると言う。
キュースチンは彼に詰めよる。
どうしてそんなことがわかるののだ?
福音書も読まない君に、彼らの苦悩がわかるといえるのか?
人々がどうなっていくか、どうして君にわかる?
青年はおびえる。。。だって、彼らの手を見て。。
彼らの手が美しいからか?

映画の終盤、19世紀ロシア帝国の宮廷舞踏会は終わりを告げ、
宮殿の出口に向かった姿泣き声は、エルミタージュ宮殿の
ドアの外にグレーにけぶる荒れた海を見る。
我々はここからどこへもいけないのか?
私たちの見ていたのはエルミタージュの
中だけしか見れない失われた夢だったのか?
ロシア帝国の幻影は永遠にこの宮殿に取り残され、現実の私たちは、ロシアの箱舟がどこへ向かっていくのか見えないでいる。





2003年07月23日(水) ありがとう


誕生日おめでとうメールをくれた方々ありがとう。
おかげさまで、体調不良にも関わらず嬉しい気分を満喫しました。
イギリスにいる友人たちからは本、CD、ウェジウッドのネックレス、シャンペン、箱入りのチョコレート、箱入りの紅茶、写真たてなどをプレゼントにもらいました。ウキキ。

誕生日の日に着ていた、「素敵な洋服」というのも日本にいる母からの
プレゼントで、普段ジーパン・Tシャツの私がそのワンピースを着ているだけで
「どこにおでかけ?」と顔見知りに聞かれたので、
「ちょっとそこまで。。。」
「なんか、おしゃれしてー。」
「いやー、今日誕生日でー実は」
「あ、そうなんだ。。。おめでとう(とハッピーバースデーの歌を道端で歌いだす彼ら)ちょうど、デジカメ持ってるから、写真撮ろう!」
とそこで、いきなりパシャ!という展開に。

週末と週明け、微熱があったものの、本日、水曜日ようやく回復し、
今日から再び勉強するぞモードへ。

明日、法律を勉強してたドイツ人の友人がドイツへ帰ってしまう。
彼はなんと、この8月からドイツ南部地域の地方裁判所の裁判官になることに
決まった。黒いガウンを着て、判決を下すんだって。

9月末には彼のホームタウン、ミュンスターでビール祭りがあるから
良かったらおいでと言っていたが(彼の実家は大邸宅らしい。客室が何個もあるそうな)、そのころ私はどこでどうしているのやら?

今晩は、ソクーロフの映画、「エルミタージュ幻想」を観に行く予定。
ああ、映画が観たい。狂うほど観たい、でも、勉強しなくっちゃ。

昨日、悶々とPCに向かいながら、プレゼントにもらったチョコを半箱一気に食べてしまったら、今朝ほっぺに大きなニキビ。30歳になっても、この子供っぽい行動パターンは変わりそうもない。。。



2003年07月19日(土) 希望と、そして。。。


私は自分は現実的で、悲観的な人間だと思っていたが。。。
今日友達から私から、希望というか、世界を肯定的に信じることへの
エネルギーをを感じたというようなことを言われて驚いた。

この数日、急激な気温差により、久々に体調を崩し、
自分の誕生日(今日はなんと私の30歳の誕生日なのです。)を祝って
あつまってくれた友達にもいまいち、フルパワーで応えることができなかった。
そんな弱っていたときに、私よりもずっと逞しく、頼もしく思っていた友達が
私に見えないところで、支えられているといってくれた。
意外に思うと同時に、とても嬉しかった。
体に力が入らず、頭痛に苦しむ中でそんなことを言われて不思議に思った。
そして、自分をもっと信じられるような気がした。

私は単にお人よしなのかもしれないが、人の悪い噂を聞くと、
やっぱりと思うよりも、そんな悪い人じゃないはずという思いが先立つことが多いい。そんなに汚いはずはない、そんなに悪意に満ちているはずはないと思う。
信じたくないのだ。

恐ろしいことや、嫌なことは探さなくてもいっぱいあるだろう、
できるだけ物事の良い面に目を向けて、やっていくことしか
私たちにはできない気がする。

私にとって、私という人間がどう生きるかというのは
とんでもない大問題だけど、世界の中で私は本当にちっぽけな存在で、
私がどうするかなど、どうでもいいことなのだ。
でも、その世界の中ではどうでもいい自分の行動の一つ一つに対して、私は苦しんだり、眠れぬ夜を過ごしたりする。この落差。

こんなに脆弱な肉体の中で、人はどうしてこんなに様々な感情や思いを抱えるのだろう。世界の果てに思いをめぐらせたりするのだろう。それに何の意味があるというのだろう。
それでも、私は信じているのだと思った。友達の言うように、私は信じているのだ。生きていくもののひたむきなエネルギーを、世界の美しさを、そして自分が生きていくことを。

私は幸せだと思う。素敵な洋服を着て、気心のしれた友達と笑いあう夜。
今まで出会って、私にいろいろな影響を与えてくれた人々みんな感謝したい。
きっと、これからもいろんな人と出会うだろう。
そして、いろんなことがあるだろう。辛いことも、悲しいことも、嬉しいことも、楽しいことも。

この夜の中で思う。
たとえ短くても、この夜が多くの人にとって安らぎをもたらしますように。







2003年07月10日(木) secret of happy life


先日友達から送られてきた、幸運のチェーンメールの中になるほどと思うことが
いくつかあったので、それについて書きたいと思う。

まず、一つ目は他人が自分に望んでいるレベル以上応えること

あとは、会話を楽しめる相手と結婚すること。。年をとったら相手との関係の
中で会話の楽しみ以上に大事なものはない。ということ。

最近、「Hi Fidelity」という数年前に公開された映画をようやく見た。
その中で、最愛の彼女が別れたいと言って出て行ったあと、主人公の男性が、
僕が彼女を恋しがる3っつの理由をあげるシーンがある。

1.ユーモアのセンス- 深刻なときも、ふざけているときもいつも冴えたユーモア
            を持っている
2.彼女のキャラクター 人に対していつも誠実、弁護士という職業柄かもしれないが
3.彼女の匂い -これはどうしようもない。。。

この3っつ、すごくわかる気がする。もちろん、映画の中の彼女は美しく
外見的には何の問題もないのだが、彼女のサバサバした振る舞いや物言い、繊細な
表情から彼女の真面目さや、ユーモアのセンスは感じられる。

しばらく付き合っていた相手と別れたとき、私にとっても恋しく思うのは
この3つかもしれない。何か面白いことがあったとき、それを報告したいと思う。
私が好きになるような人はたいてい、面白いと思うことが似ていると思うから。
二つ目、安心して付き合えるタイプの人間かどうかというのは大きいと思う。
相手のキャラクターの魅力は、失ってみないとわからない。自分が当たり前に
思っていたような相手の反応が、他の他人との関係からは得られないものであることを知る。これが、別れのつらいところだ。
そして匂い。。。これは個人によって本当に違うので、慣れ親しんだ匂いを失うのはつらい。それは、その相手以外誰ももっていないから。香水でさえ、人の肌に触れればその人独自の匂いとまざって微妙にその香りを変える。匂いは記憶を呼び起こす。

まあ、ともかく、世の中にはいろんな恋愛指南があるが、会話の楽しい相手との
関係をもっとも大事にすべきというのは、一つの指標になると思う。
力のある、美しい言葉を話しあえる相手が理想かも。。。





2003年07月09日(水) むすぶこと、ほどくこと


相変わらず、修士論文を書くのに四苦八苦しております。
で、日記を書く余裕も感じられずついついさぼりがちになっております。

最近、先のことを考えていろいろナイーブになっており、
思ったことは(使い古されてる言い方だけど)

未来を憂う暇があったら、今を生きることを大事にしたほうが良い
充実した現在だけが良い未来を作ることができる

である。そして友達から聞いた言葉で

間違った船に乗るくらいなら、乗らないほうがいい
(これはちょっとネガティブ、離婚経験者の言葉)

というものがあった。最近、周囲に結婚の話と離婚の話が両方多くていろいろ
考えさせられた。

あと、今日なるほどと思った文章として田口ランディの晶文社のHPの
コラム「勉強しながら君のことを想った」をあげたい。
そこに書いてあった、アメリカはユダヤ人に
とっての約束の土地だったという西垣通の説になるほどと膝をうった。

現在のアメリカはもはや多様化していて、ユダヤ人文化はその重複構造の
一つにすぎないだろうが、アメリカ社会の構造の根底に大きな力をもつものだと思われる。
今年、私はジェノバでコロンブス生家を訪れて、何か違和感を感じた。
私は彼をスペイン人だと思っていたが、世界はそうシンプルではないんだなと
いう実感だった。イタリアとスペインとユダヤ人社会。。。
今日、コロンブスがユダヤ人だったという仮説を聞いて、なるほどと思いあたった。
ジェノバやベニスという海運と通商でにぎわっていた共和国では、経済発展を
優先して、金融や計算に強いユダヤ人に対し他のカソリックのエリアに比べて
差別がゆるかったということを以前本で読んだ。その結果、ベニスやジェノヴァといった海運国に大勢のユダヤ人が移住してきて、彼らの多くは普遍的な能力として、金融業、通商実務や外国語に秀でていたから、外商の場では有利であったし、航海人としても、商人としても優れた人材を輩出したであろう。(多くの人が知っての通り、ベニスの商人に出てくるシャイロックはユダヤ人の高利貸しである)

Globalizationというのは近代の言葉だが、その発想はすでにローマ
時代に生まれていたのだと感じる。(ローマ化するという言葉がCivilizedという
意味で使われてきたというヨーロッパの文脈は、アメリカナイズという言葉が
Globalizeと近似の関係にあることと似ている気がする。)

アメリカにおけるユダヤ人社会の存在感の大きさは、アメリカがなぜ他国に対してこうまでも好戦的なのか。。。ということを説明できる材料だろう。

そして、ふらっと読んだ同じく晶文社のサイトの「我々は「救済」にすら値しない」の、

快楽とは自分から貪欲に求めて手に入れるものというよりは、相手(他者)への涙ぐましいまでの努力への保証のない見返りとしてやってくるものであり、我々がこの報酬をこの上ない貴重なものとして尊び慈しむことができるのも実はそのためである。

という一文にまたまたなるほどと思った。

「ベニスの商人」に次のような一文がある。

慈悲は義務によって強制されるものではない、天より
降りきたっておのずから大地をうるおす恵の雨のようなものだ。

このフレーズの慈悲は、快楽、そして愛情にもおきかえられるのではないかと思う。我々は愛を乞うことはできない。愛とは貪欲に求めて手に入るものでもないし、強制して得られるものでもない。ただあるところにはある、湧き出す泉の
水のようだと思う。そして、快楽はいつふるかわからない雨のようなものかもしれない。

人とは因果な生き物だと思う。他者から与えられる快楽が大きくなければ、
自己完結的快楽の中で過ごすだけで、社会に貢献しようとはしないだろう。
人は弱体化すると、自己完結的快楽を好むようになる気がする。ひきこもり
というのはその自然な結果じゃないかと思う。
社会はより強い快楽をもたらす可能性と同時に試練をも人に課すだろう。ひきこもっても生きていられるかぎり、外部的な快楽を欲する人間でなければ、その過酷さに身を投じてまで、社会の中で生きようとは思わないのかもしれない。

こうやって、書いていると人間社会ってなんなんだ?と思う。
肉食動物は自分の命を保つために、他の動物を狩る。
私たちは自分の命を保つために、社会に参加しなければならないのだろうか?


晶文社のサイト http://www.shobunsha.co.jp/



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