2003年06月29日(日) |
女の手をとる男、女を犯す男 |
大学から私の住む学生寮へと続く道を歩いていたアジア系の女子大学院生が先週レイプされるという事件があった。当日、彼女が襲われた二時間前に私はその道を1人で歩いていたし、さらに、彼女が襲われたと推定される時間の前後に私はそこを通った数少ない人間の1人だった。 警察の犯行推定時刻は11:30pmとなっており、私が友人と三人でおしゃべりしながらその道を通ったのが11:20pm前後だったのだ。
私と友人たちは、その時間帯に犯行現場を通った参考人として警官のインタビューを受け、その日どんな服装をしていたかなどを詳しく聞かれた。
襲われた女性は、道を歩いている途中、薬物をかがされた上、顔面をひどく殴られ、裸にされレイプされたという。保護された後は、ショックと怪我で話すこともできなかったらしい。事件はBBCのニュースでも報道され、私の住む寮の女子学生たちは夜間は1人で外出しないようにとの注意を受けた。
そんな中で、日本の学生たちの集団レイプ事件のニュースを聞いた。 私の大学でレイプ事件があったのは18日の深夜、その六本木のロアビルで(私は彼らが飲んでいたこの甘太郎で何度も飲んだことがある)で事件があったのは19日の夜、翌日のことである。
昨日、レイプ事件のあった夜と同じメンバーの女友達と食事をしたあと、その日と同じように学内を一緒に散歩しながら、事件について話をした。 私にはレイプする男の気持ちがやはりわからない。どうしてもセックスがしたいなら他の方法があるだろうに、暴力的に嫌がる女性をレイプすることに魅力を感じるのは病気としか思えない。 世の中にはセックスしたくてもチャンスがない人もいっぱいいるだろう。 でも、だからといってレイプは決して許されることではない。それは心と体を取り返しのつかないほど傷つけ、他人の人生をめちゃめちゃにする。
それだけならまだしも、その後日本からのニュースで自民党の太田誠一議員の「プロポーズする勇気のない男性より、集団レイプ犯の方が元気でいい」という発言を読んで、PCの前で思わず何か叫んでしまった。私は、集団レイプは個人でやるよりももっとタチが悪いと思う。集団レイプをするような男たちはそれこそ最低だ。 そんな人間は自分のアイデンティティをもっていないから、自分が何をしているのかもわかっていないのだろう。そして、リーダー格の人間のいわれるままに従い、自分は責任から逃れようとする。
私の男友達は私の寮の目の前であったレイプ事件に対し、同じ男として本当に許せない。レイプ犯は去勢される罰をうけるべき、精巣片方だけでもを撤去してしまえばいいのだ。なんて過激なことを言っていた。 でも、レイプされた女性のことを考えれば、それくらいの罪はあると思う。 女性はレイプされたことにより、妊娠の可能性を失うこともあるのだから。
男女関わらず私は他人の心や体を犯すことに対して、平気な人間にはなりたくないと、そういう人ではいたくないと強く思う。 私たちの人生には選択の余地のないことも多いが、その中で、最低限持っている個人の選択を他人が脅かすことは許されてはいけないと思う。
2003年06月28日(土) |
Sex and the City |
こんなに長く日記をサボっていたのも久しぶりだ。 自分の心の中でいろいろな出来事があって、ネガティブになっていたので 日記を書くことが出来なかった。
ネガティブなことだったら書けたかもしれないが、そういうことは はっきり文章にしてしまうと肯定されてしまう気がして嫌だったのだと思う。
下らないことで悩み、煩わされる私を救ってくれたもの、 それは小説とTVドラマだった。 一つは「グレイト・ギャツビー」、そしてドラマとは「Sex and the city」 である。
共通点は両者ともNY近辺が舞台であることだけだが、きらびやかな都市生活の中で着飾ってパーティに集まる人々。そこで繰り広げられる友人、恋人との関係など、何か時代が変わっても変わらぬものがある気もする。
Sex and the City のほうは、今年30代に突入する自分を登場人物の30代で独身で働いている女性たちにかなり重ねてしまうところがあり、ドラマの中の独身女性4人の友情を羨ましく思いながら見ていた。 今年は、最も親しい友達の1人が海外で結婚してしまったこともあり、独身の友達が減って、今までのように一緒に過ごしたりできなくなると悲しいな と思ったり。
ドラマを観て充実した独身生活には信用できる女友達が何よりも必要だとひしひしと感じた。そして、男性に関しては奔放なサマンサが病気になったときにキャリーにこんなことを言っていたのをなるほどと思った。 「世の中の男は二通りしかいない、女とセックスしたがる男と、女と手をつなごうとする男。私には、後者の男がいないのよ。」 セックスだけしたがる男は病気になった彼女の見舞いは来ない。。。
手をつなぐことは、二人の関係がおおっぴらで、しかも、それが周囲に恥じないもので、愛情を示すことに対して、モチベーションがないとできないのでは、と思う。私は、手をつないで歩ける男の人が自分にもできたらいいなと思った。
グレイト・ギャツビーの方は、男の女に関して抱く幻想に関して考えさせられた。 ギャツビーの愛したデイズィは、5年(!!)という彼女の不在の間に実際のディズィという女性からかけ離れたものになっていたと思う。だから、彼の恋が成就しないのは当たり前なのだ。彼の恋する女性像を現実の女性ディズィに重ねていたにすぎないのだから。
去年から私は恋愛は幻想だと思うようになった。。。 熱狂的な情熱はいつかは冷める。その情熱が冷めたときに、何が残るかが相手との 関係を決めるのだと思う。sex and the city の中にも、友情の方が恋愛より太く長く続くし、それを考えたら友達と結婚する方がいいのかも。。。ということをキャリーが考える回があった。自分の親や兄弟でない誰かと一緒に暮らすこと。。。 それが自分が心から恋する相手であったら嬉しいと思う、だが、同時に疲れるだろうなと思う。そして、恋に終わりにびくびくしてしまう自分に嫌気がさしてしまうかもしれない。
親友と一緒に暮らすこと。。。。を考えて見ると悪くはないなと思う。嬉しいこと、辛いこと、何かあったとき、家に帰って心許せて話せる相手がいる。料理が美味しく出来たら、それを分ける相手がいる。もし、それが気の合う異性だったら。。。きっとさらに楽しいと思う。でもそれは恋愛とは呼べないだろう。
私の中では友情も恋愛も結婚も今はよくわからない。どこまでがどっちで、どう関係しあうのか?
こんなことばかり考えてないで、勉強しなくては。
2003年06月17日(火) |
1人で生きていくこと |
大人になるということは、一人で生きていけるようになるってことなのだろうか。 もちろん、私は1人で生きているわけではない。日々大勢の人に助けられて生きている。しかし、経済的・精神的自立をしなければいけないというプレッシャーは常に感じている。大人なら当たり前のことなのかもしれないが、私は自分がそれをできるのかとても不安に感じる。
自分が身を置いている社会の中で、適切な人間関係を保つには常に何かしら 緊張を強いられる。普段は当たり前にやっていることでも、時々人に気を使ったり 距離をとったりすることに疲れてしまう。
緊張感のない関係を欲してしまう。 幼いころ母親に甘えたように、どっぷりと何かに甘えて心を許してみたい。 しかし、もう大人と言われる年齢になった私にそういうことができる場所は ないように感じる。
私は甘えが強いのだろうか? それとも、内心誰もが思い切り、甘えたり、泣いたりできる場所が欲しいと 思っているのだろうか。
Pureという映画を観た。
2003年06月09日(月) |
1人の贅沢、二人の幸福 |
昨日の日曜日、友達4人と車一台を動員して引越しを無事終了しました。 手伝ってくれた友人達に感謝。おかげであっという間に終わりました。
仲の良かったフラットメイトと離れてしまったのは悲しいが、このフラットはフレンドリーな感じの女性だけで、とても静かで、まず嫌な思いはしないで済みそう。 何よりも静かで、3階で(東京に住んでいるとたったの3階と思うかもしれないが、高層ビルの少ないイギリスのこの大学の寮は3階といえば最上階なのである)眺めも良い。
この寮でのはじめての食事を終えたあと、部屋の壁にお気に入りの絵画と写真のポスターを貼り、窓際にはベニスで買ったガラス細工の魚を飾り、遅い夕暮れの空を窓から眺めながら、グレングールドを聞き、この日記を書いている。
この静かさ、平和さ、窓の外の空の青。。。。幸せである。 それと同時にいつも人の気配のあるフラットに長く住んでいたせいか、少し淋しい。この平和で美しい空間をシェアできる相手がいないのが辛い。
人生ってなんなんだろう。金銭的な苦労や、衣食住の環境が悪いと愛する人がそばにいてくれても、不満を感じたり、ストレスが溜まったりしてしまう。愛だけでは生きていけないのだと思う。 しかし、こうやって、1人心やすらぐ環境に身を置き、幸福を感じていると、この幸福感をわけあえる人がいなければ、贅沢な環境も意味がないなと思ってしまう。
人生は短く、私のエネルギーは限られていて、できることはすくない。 何かをまっとうしようと思ったら、私は他のことを犠牲にしないとまずできない。 あれもこれもと言っていられるのは若い間だけで、もうすぐ30歳になる私は、もう、自分はどう生きるのか、何をするのか、決めなくてはいけない時期を終えようとしている。もう遅いくらいなのだ。
いつか私は今日のことを思い出すと思う。 30歳になる夏を控えた6月の夕暮れに、自分には幸せを分かち合える誰かが必要だと実感したこと。そして、自分がどう生きていくのか、とうとう決めなくてはと思ったこと。
人は愛だけでも、パンだけでも生きていけない。 私に必要なのは、自分が愛した人に、愛情以外の何かを与えることができるようになることだと留学前痛いほど思った。そして、そのためには留学して何かを得たいと思った。私は、好きな人に愛情以外の何かを提供することができるようになれるのだろうか? それは自分では考えたくないし、わからない。きっといつか、わかるだろう。
いよいよ引越しが決まり、昨日荷物を3分の1ぐらい運んだ。数人の友達が手伝いに来てくれ、荷物を運ぶ前にツナとオリーブとトマトのパスタを作って振舞った。我ながら、今日は美味しく出来たと思ったパスタを、アルベルトは「このパスタはすっごーく、すごーく、crap(クソ、クズ)だよ!」と言って喜んで食べていた。彼はこういうオーバーな表現を良くするので、(おなかがへって死にそうだとか、今日の荷物は三トンだとか、)私は、しょっちゅう真に受けて疲れていたが、最近慣れてきた。彼曰く、こういう大げさな冗談や下品な表現はイタリアの言語文化だという。そうそう、先日アルベルトが美味しいんだよ!といって持ってきてくれたホワイトワインが本当にフルーティーでありながら、軽くもなく、重くもなく、しっかりと香りと芯の通ったような味があり、とても気に入ったので、銘柄をここに紹介。高いものではないので、ぜひ見つけたらトライしてみてください。 その銘柄とは、Verdicchio dei Castelli Di Jesi (ヴェルディッキオ・デイ・カステッリ・ディ・イエージ)、ヴェルディッキオ種の故郷として古くから知られるカステッリ・ディ・イエージ地域のワインということ。年によって差はあると思われるが、基本的に喉越しが柔らかく、口の中にフワ-と芳醇な香りが広がるのが特徴で、万人受けすると思う。
ところで、私はアルベルトが人間としては好きだし、周りの人には付き合ってるの?と誤解されるぐらい仲はいいのだが、私と彼の間に恋愛感情はない。彼を好きになれたら、毎日が楽しいかもなと思う。しかし、幸か不幸か、私と彼は恋には落ちていない。恋は抗えないものだが、友情は理性の範囲で深めていくことができ、比較的予測可能である。友達であるほうが意味もなく傷つくこともなく、関係は心地よく、対等で安定している。
人はどうして恋に落ちてしまうのだろう。狂おしいほど誰かを求めてしまうことはそれ自体がすでにもう絶望的だ。恋は暴力的だ。突然やってきて、人の心を掴んでしまう。私は今はもう、新しい恋に落ちるのが怖い。しかし、怖いもの見たさとはよく言ったもので、またいつか誰かと恋に落ちたらどうしようと。。。ハラハラしていることをどこかで楽しんでいることもある。
今日読んでいた翻訳に関する論文の中に、翻訳者がしてはいけない考え方として、原作者はこう言いたいのだと自分で決め付けて解釈してしまうことだと書いてあった。 翻訳とはコミュニケーションの一つの過程であり、そこではまず最初に原文を正しく理解することが何よりも重要である。そして、その解釈において、原文の意味を自分の考えの範囲で安易に限定してしまうことは、間違った解釈につながる可能性が高いので避けなければならない。翻訳者はいつも多様な解釈の可能性を感じながらも、一つ一つ不確実性の中で翻訳文にふさわしい表現を選んでいくしかない。 正しい翻訳というものは存在しない。翻訳という作業は、これでいいのだろうか?という不確実性といつもともにあり、翻訳者は自分のしている作業の不確実性と実際に限定された表現を選ばざるをえないというジレンマの間にいる。何が正しいのか、自分の決断や行動が本当に正しいかなんてわからない。それは、私たちが人生の不確実性の中でも、何かを選んだり、諦めたりしなくてはいけないことと似ている気がする。
この翻訳に関する考え方は、人間関係にも当てはまると思った。人は他人の行動や言動を自分の価値基準のなかでしか判断できない。だから、そこでは、自分の価値基準が限定されたものであり、物事をそこに照らし合わせて測ることは、単に自分個人の見解に過ぎず、普遍的に正しい見解ではないということを認識することが必要だ。 特定のものに対して、一般的に、普通に、と判断をすることは極めて危険で、何かに対して不快な思いをしたとき、私はこういうことは嫌いだが、、、他の人はそうでない可能性もある。。ということをいつも頭に置いておくといろいろなことが理解できるようになると思う。
まあ、そんなこと言っても、頭に来ることもあるし、呆れてしまうようなこともあり、愚痴もこぼしたくなる。そんなときは美味しいパスタでもおなか一杯食べて眠りましょう。
2003年06月03日(火) |
Beautiful June |
日本にいたとき、私は梅雨が嫌いだった、日本の美しい四季の中でも唯一苦手な時期だった。なにもかもがじめじめしてかびが生えてしまうような梅雨が来ると、何か重苦しいような、気持ちになり鬱陶しく思った。
イギリスは冬は長く雨も多いが、日本の雨のように一日中降りつづけるということはないのであまり気にならない。何より、湿度がもともと低いので、何か濡れてもすぐに乾いてしまうのが良い。
イギリスで一番気持ちのいい季節は6月から7月の前半だと思う。日本列島が梅雨前線になやまされるその頃、イギリスは1年のうち最も美しい季節を迎える。日は長く、風は爽やかで、緑はまぶしく輝く。どこまでも広がる緑の芝、さらさらと茂る木々、花は咲き、人々は待ってましたとばかりにビーチにいるような装いで、芝生の上に寝転がったり、バーベキューをしたりしながらその貴重な日差しを楽しむ。
そんな日は、とりたてて何はなくとも、自分も芝生に寝転びながら、なんて幸せなんだろうと思う。緑と風と少しの食べ物と、語り合える友達がいれば何にもいらないと思う。でも、人生はそうはいかない。
日本のニュースを見るたびに、30代のリストラだとか、自殺だとか、悪いニュースばかり目に付く。この社会の中に私は戻っていくのだと思うと不安でたまらなくなる。私はどこへいけばいいのだろう。どこに私の居場所を作ることができるのだろう。私に何ができるだろう。
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