観能雑感
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2003年10月23日(木) |
Every cloud has a silver lining |
本人の意図とは関係なく、プレゼント応募の際記入した感想及び実名その他の個人情報を『DEN』誌上に掲載された事に対する抗議を行ってから2ヶ月後。最新号が郵送されてきた。「二度とこのような事はないとお約束しますのでご寛恕下さい」との文面とともに。誌面には確かにこちらが要求した通り、感想および個人情報を許可なく掲載した事に対する謝罪文が載せられていた。個人情報の二次使用という事実は消せないが、誠意ある対応であることは確かである。 しかし。 プレゼント欄にはこれまでどおり、住所、氏名、職業、年齢および意見、感想を記入の上応募する胸記されているのみで、これらが紙面に掲載される可能性の有無については全く触れられていない。ということは、掲載したいと思った意見、感想の筆者には個々に連絡を取るということなのだろうか。 個人情報をどう扱うかはその所有者が決定し、第三者が集めた個人情報の二次使用は禁止されている。大げさだと感じる人もいるだろうが、抗議するべきであると思ったので実行に移した。して良かったと思っている。 どのように対応するかは編集部次第であるが、二度とこのようなことはしないと約束するのは私個人ではなく、読者全員に対してであってほしい
国立能楽堂定例公演 PM6:30〜
『忠度』は未見であり、シテもぜひ観てみたい方だったので迷わずチケット購入。 補助席も出る盛況振り、中正面脇正面側の中央通路寄りに着席。
狂言 「仏師」(大蔵流) シテ 大蔵 吉次郎 アド 大蔵 弥太郎
仏堂を建立した田舎者が安置する仏像を求めて都にやって来る。すっぱは自分は仏師であると偽り自ら仏像の振りをして騙そうとするが、印相が気に入らないと何度も直されているうちに露見。 弥太郎師の田舎者がまず登場。もともと上ずり気味の声がさらに擦れ気味でやや聴き難い。やがてすっぱの吉次郎師が登場。しかし着席した直後から眠気に襲われていてその後ウトウトしてしまう。はっきり覚醒した時には印相を直させているところであった。一週間分の疲労が蓄積した金曜夜の公演の、厳しいところである。やり直させられる度に取るすっぱの格好が滑稽で、笑いを誘う。 自らが仏像に化けるのは、元手は掛らないがばれる可能性が高い。効率の良い詐欺とはとても思えず、そんなすっぱの間抜け振りも滑稽である。
能 「忠度」(観世流) シテ 梅若 万三郎 ワキ 殿田 謙吉 ワキツレ 則久 英志、御厨 誠吾 アイ 大蔵 千太郎 笛 寺井 宏明(森) 小鼓 観世 新九郎(観) 大鼓 柿原 崇志(高) 地頭 伊藤 嘉章
「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花ぞ今宵の主ならまし」という歌を主題に据え、薩摩守忠度の生と死を描く、詩情溢れた作品。世阿弥作。ワキの着きゼリフ、修羅能につき物のカケリがない。 ワキ、ワキツレの道行きがどことなく不揃いで情景が浮かんでこない。 一声でシテ登場。藍色熨斗目着流し、鳶色絓水衣、面は笑尉、背負った薪に花を差し、杖を突いている。橋掛りでしばらくシテ謡が続くのだが、声量がそもそもあまりないのか、言葉が不明瞭でほとんど聞き取れず、一向に世界が立ち上ってこない。立ち姿、所作は美しいが、身体に充満するものが感じられない。囃子が入らない時の謡はまだ聞き取れたが、アシライが入ると一気に聴き辛くなった。せっかくの美しい詞章も聞こえてこそである。世界が形成されないまま中入。 間語り、懸命さは覗われるが、じっくり耳を傾けたくなるほどの力はない。 後シテは、白地半切、紅葉柄厚板、紺地法被肩脱ぎと大変優美な色合わせ。詞章では錦の直垂を着用しているが、平家物語では紺とあり、その両方を上手く組合せている。装束合わせの良さに定評があるこの方らしい。面は中将。箙には短冊がのぞく。 後場で少しは持ち直す事を期待したが、世界は見えてこないまま。実際の舞台よりも詞章を読んでいた時の方が情景が浮かんで来たのはどういう訳か。面の表情は全く変化せず。未消化のまま終曲。 地謡は銕仙会から西村師が加わった他は万三郎家門下。例えて言えば楽譜通り間違えないで演奏できたという態で、場を形成する力を持たなかった。総合力では劣るとされる梅若系だが、なるほどと納得。 笛の宏明師は父上よりもずっと良い。派手さはないが堅実。予想していたよりもはるかに良い演奏だった。 万三郎師、批評によると波が激しいそうなので、今日は不調な日だったのだろうか。来月『砧』を観に行くのだが、その時は満足できる舞台を見せていただきたいものである。 舞台全体が物語りを形成する力を持たず、味のない食べ物のごとくであった。残念。
留めの「花は根に帰る」というところ、花=忠度、根=根の国で、再び死者の国に帰るという暗喩であろうか。忠度は清盛の末弟だが、母親の身分が低く、一族の中では陰に隠れた存在だったらしい。だからこそ、名を残す数少ない機会として歌道に没頭したのだろうか。
再び狂斎の「釣狐」を見に行ったが、衣は水色というよりは灰色であった。かように、記憶とは当てにならないものである。
本日の発見。檜書店のご店主は左利きである。
2003年10月12日(日) |
第74回 粟谷能の会 |
第74回 粟谷能の会 国立能楽堂PM12:00〜
本日は観世九皐会別会、宝生流月並能と会が目白押し。宝生流月並能とこちらのどちらを選択するか非常に悩んだ。申込んだ後もまだ迷うほど。金井勇資師の『橋弁慶』(当初は父上である章師の予定だったが今年春に他界)に高橋章師の『井筒』と来れば悩むのも当然であろう。菊生師の『大江山』はこれが最後だろうとこちらにしたものの、不吉な物言いではあるが高橋師の『井筒』とてもう観る機会が無いのかもしれない。無理なかけもちはしたくないのでこれも縁だと無理やり自分を納得させる。 本日ロビーに出店している書店は能楽書林。檜書店は国立主催の催しの時のみなのだろうか。 見所は満員。これはいつもの事である。中正面の正面席寄りに着席。 さて、今回は観賞する上で非常に辛い状況であった。すぐ隣の男性は大きく足を開いて座りこちらに越境してくるほど。演能中に謡曲集のコピーらしきもの音を立ててめくり、パンフレットを何度もポケットから出し入れする際にも音を立てる。さらに鼻をすするというのだろうか、ズルズルというのではなくもっと乾いた音なのだがこれを終始繰り返しつづける。髭をこすってジョリジョリと音を立てる。ただでさえこんな人物と数時間隣合せになるのは御免被りたいが、能楽堂の中ではその悲惨さはいや増す。さらに前列の男性は挙動不審としか言い様がなかった。その人物の周りの席は空席で、身体は動かし放題。舞台よりも見所を見ているのではないかと思うほど意味不明な笑みを浮かべながら振り返って周囲を見渡す。何度も腕を上げて頭を掻き毟り、腕を高く振り上げて腕時計を見る。私の視界はそのたびに遮られた。このように落着きなく動き続ける人物が前列にいるのは、それだけでも集中力を削がれ不快極まりない。番組が進むにつれて周囲の席が若干埋まったので動きは徐々に少なくなったが、一番目の時は酷かった。三番目が終了した時は隣の男性による不快な騒音から開放される事を先ず喜んだ程。鬱陶しい観客は近くに一人でもたくさんだが、二人となると悲惨としか言い様が無い。これもめぐり合わせで仕方ないが、やはり宝生にすれば良かったかと思わせたのは事実である。観劇のマナーは大切である。無神経な行為が他者の観劇を台無しにしているかもしれないのだ。自戒も込めて、注意せねばなるまい。
能 「藤戸」子方出 シテ 粟谷 能夫 子方 高林 昌司 ワキ 森 常好 ワキツレ 舘田 善博、森 常太郎 アイ 野村 与十郎 笛 一噌 隆之(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 佃 良勝(高) 太鼓 助川 治(観) 地頭 粟谷 幸雄
子方出の小書は東京では40年振りだそうである。番組を見た時からその効果の程を疑問視していたのだが、さて、実際はどうだったか。 ワキ方の出は通常どおり。常太郎師というのは常好師の息子さんなのだろうか。まだ舞台にいること事体に不慣れなのか、落着きがなく、視線が動いてしまう。ワキ方は安定感が重要なので今後の課題だろう。 常の形ならば盛綱の下人であるアドが訴訟ある者は申し出るようにと呼ばわるのだが、今回はアドはまだ舞台上におらず、子方を先頭に母親が登場する。橋掛りで両者の短いやり取りあり。子方は少女の出立。観世流とは異なり地声のまま。 番組には漁師の遺児が出る事で家族の痛みが際立つというよな事が記載されていたが、ドラマとして我が子を殺された母親の哀しみに焦点を当てた方が、やり場の無いその想いが一層強く感じられると思う。どうにも視点が分散してしまった感あり。常の形では母親が訴え出てから盛綱が気付くのだが、今回は盛綱の方からあそこに訴訟有り気な女人がいると母の抗議を促したため、非常さが若干和らいでいるのも哀しみを際立たせるという効果を疑問視するところ。 その後はほぼ常の通りに進行。息子と同じ目に合わせてくれと詰めよる場面は哀しみよりも怒りをまず感じた。下人に促されて帰って行く際、祖母の腕にそっと手をかけた少女の動きは確かに哀れさが漂う。 アドの送りこみは庶民ゆえの哀しみと、武人ゆえの非常さ両方を理解する立場として、下人が息子を失った母親に語りかける重要な場面であるが、与十郎師のセリフ、あまり心から出た言葉のようには響かなかった。この役の難しいところだろう。年輪を経てどう変わるのか。 下掛りでは後シテは出端により登場。能夫師は立ち姿が端正で美しいのだが、前シテ同様、端正過ぎて亡霊という雰囲気には若干欠ける。恨みを抱えているようには見えないのだ。盛綱に襲いかかろうとして思い直し成仏するところの変化が表出しない。本曲のような演劇的な曲には物足りなさを覚えた。 地謡はやや不揃い。とりあえずこんなところといった風。 北村師、やはり不調のようである。太鼓の音が低く感じた。
能 「釆女」佐々浪之伝 シテ 粟谷 明生 ワキ 宝生 欣哉 ワキツレ 梅村 昌功、御厨 誠悟 アド 野村 万之丞 笛 一噌 幸弘(噌) 小鼓 大倉 源次郎(大) 大鼓 亀井 広忠(葛) 地頭 友枝 昭世
本曲は初見。詞章を読むと春日大社縁起に入水自殺した釆女の様子、後場ではさらに釆女の職掌に行幸の折の活躍と盛り沢山な内容。そこで入水した釆女に焦点を当てた演出が観世流の小書、美奈保之伝。今回は同様の意図で喜多実師により初演されたものをさらに再構成したもの。研究公演で試みて未消化な部分を改めたそうで、序ノ舞は新趣向とのこと。 水死体は悲惨な様相を呈するものであるが、ここはロセッティの描くオフィーリアのごとき優美な様を想起したいものである。春の春日野に水から現れ、またそこに消えて行く美しい女性の姿はいかにも幻想的で、想像力を刺激する。 名乗り笛でワキ、ワキツレ登場。程なく猿沢の池へ向かおうとする。そこへアシライ出でシテ登場。入紅唐織、面は増か。手には数珠を持つ。常座で「吾妹子が寝ぐたれ髪を〜」の歌を口ずさむ。ちょっと近よりがたいような、冷たい美しさを湛えていて結構なのだが、怪しさが前面に出過ぎている感あり。最初からこれでは後の展開が見えるようでつまらない。謡はやや重過ぎるか。面使いは巧みで猿沢の池が眼前に広がった。肩が前に落ちてどことなく力なく見えるのが惜しい。 女は帝の寵を失った事を嘆き入水した釆女であると告げ、供養を頼んで水の中へ消えて行く。回転して身体を落とし、水没した態。 アドの里人が常の形で曲の中に含まれる春日大社縁起、釆女の役割等を独り言という態で手短に告げ、僧の求めに応じて入水した釆女の事を語る。この間語は研究公演の際万之丞師に作成を依頼したそうで、本日の配役は順当。長袴の裾捌きがやはり美しくない。 僧の読経に応じて後シテ登場。面は同じ、緋大口に水浅葱の長絹、金で草の文様入り。自分は既に釆女ではなく変成男子であると告げ、成仏できる喜びを舞う。この舞、通常の序ノ舞とは若干形を変えたとのことだが、序の部分が常とは大分異なって聞こえた。舞い始める前に佇んでいる時間が妙に長い。基本となる旋律は序ノ舞と一緒。脇正で袖を被くところは斜め前を向いたり(見所側、猿沢の池を眺めていた方向)、正先で跪いて扇を広げるなど常には無い型が散見。この舞だけを独立して扱えば美しく見事なものだが、全体のバランスから考えると重過ぎる。前場は『半蔀』のごとくあっさりしていたのに、ここにきてなぜこれほど重量感のある舞が必要なのか。この釆女は主君を恨んでいるわけではなく、入水したのは早計だったと考え直し、今は成仏できるのだという喜びが先に立つはずで、情念と言う生々しい感情とは無縁と思われる。演者側として力を注ぎたいところだというのは分かるが、それも全体の構成を考えねば想いだけが突出し歪になる。 舞が連続したまま橋掛りへ行き、幕前で再び水底へ沈む態で終曲。 曲の構成そのものは大変良く出来ており、何度も勤める内にさらに洗練されたものになるであろう。惜しむらくはこの曲の持つ祝言性にやや欠けたところか。舞の位は再考が必要ではないか。 囃子方は気の揃った充実した演奏を聞かせてくれた。久々に源次郎師の美麗な手を拝めて祝着である。ご本人のサイトで指の調子が良くない旨書かれていたが、大事にして頂きたい。チの音が美しく響いた。 地謡は一番目に比べると雲泥の差。シテの意を汲み取った見事なものだった。
狂言 「酢薑」(和泉流) シテ 野村 万之丞 アド 野村 祐丞
酢売りと薑(生姜)売りが互いの商売物の優劣を競い、系図を比べ秀句を応酬する。つまりは言葉遊び。二人とも競うというよりはこの遊びを楽しんでいて、勝敗を決せぬまま終曲するところが爽やかで良い。万之丞師の声が裏返り気味なのは相変らず。祐丞師の飄々とした明るさは嫌味がなくて結構。このような言葉遊びを扱った曲は好きなので楽しめたが、後列のご婦人方のお喋りが非常に耳障りだった。
能 「大江山」 シテ 粟谷 菊生 ワキ 宝生 閑 ワキツレ 宝生 欣哉、大日方 寛、野口 能弘、舘田 善博、御厨 誠吾 オモアイ 野村 祐丞 アドアイ 住吉 講(?) 地頭 粟谷 能夫
番組上ではオモアイの剛力が住吉師、洗濯女が祐丞師となっていた。 御伽草子の酒呑童子から取材した曲。作者は宮増か。 折口説では童子とは有髪の下級聖職者が落魄した姿らしい。また赤い色と山に住み、肉食であるという特徴から産鉄民であることが想起される。「まつろわぬ民」を鬼として扱った事例のひとつ。退治する側の頼光配下の四天王も農耕民ではないようで、鬼は鬼に退治させるという朝廷の巧みな戦略が見て取れる…というような事は追及し出すとキリがないのでこれくらいにしておく。ただ、詞章を読んでも騙し討ちであることは明白で、童子が気の毒。 頼光役の閑師を先頭に山伏に扮した一行が登場。道行はシテ方のそれとは異なり力強い。欣哉師が独武者役。まず剛力に偵察させ、洗濯女から情報収集を行う。 洗濯女の呼掛けに幕が上がり姿を見せるシテ。短いやり取りの後幕は降り、一行が童子の住処にやって来てから改めて登場。声の力が少し薄れているように感じた。 山伏一行の来訪を喜び、己の境遇を語る童子。住む場所無く追われ続けた様子が露となり哀感を誘う。酒を飲み興に乗って舞う姿は面が童子であるせいか無邪気さえ感じられ、この後の展開が一層辛い。ワキをじっと見込む姿は迫力十分。 童子は寝室に入り、一行も闘いの準備のため下がる。中入の間は狂言方二人のコミカルなやり取りで場を繋ぐ。このアイが終了してからしばし空白の時間ができてしまった。 作り物が運び込まれ、武装した頼光一行が寝ている童子を襲う。頼光は松明を持って一行を先導、そのまま橋掛りに残る。何と言っても1対6なので童子の劣勢は明らか。健闘しつつも弱って行く様が哀れである。最後は頼光が止めを刺して意気揚揚と都に凱旋する。 菊生師、面使い、身体の在り様、ハコビはさすがだが、やはり衰えは隠せない様子。本曲はワキ方の活躍が目立つ曲だが、それだけに切り組みの際、もっと若いシテだったら…と思ってしまったのも事実である。まだまだ舞台の数は多いようだが、くれぐれも無理なさらないでいただきたい。 歴史は支配者が作るものだ。平安時代、「人」だったのは五位以上の貴人のみだったそうである。そして朝廷の支配を受け入れない者達は、さまざまな蔑称で呼ばれ、蔑まれた。五位以上の貴族など全人口から見れば水の一滴に等しい数であろう。日本はまさに「鬼の国」だったのだ。
展示室では国立能楽堂が収集した能楽関連の書画が展示されていた。その中でもっとも目を引いたのが川鍋狂斎の「釣狐」。荒野に杖をつき佇む白蔵主を描いたものである。衣の水色以外ほとんど色彩がなく、すぐ想起する狂斎の画風とは随分雰囲気を異にした作品だが、物思う様子の白蔵主や荒野に吹く風までが感じられる程で、いくら見ても飽きないくらいだった。最悪と言っても良い観賞条件にうんざりしていた中、この絵は正に清涼剤となった。
国立能楽堂定例公演 PM1:00〜
国立能楽堂の本年度年間予定表を見た時、真っ先に目が行ったのが今日の演目。九郎右衛門師の井筒とあらば、万難廃して馳せ参じるしかあるまい。 アンケートを配布していて回答すると先の20周年記念の際に渡されたクリアファイルをもらえた。既に手元にあるものとは違うデザインだった。 前日の夜は疲れている筈なのに良く眠れず、能を観るには甚だ不都合。しかし気にしてはいられない。柱が邪魔にならない中正面後列に着席。見所は平日昼間にもかかわらず補助席が出る盛況振り。GS席も埋まっていた。
狂言 「文荷」(和泉流) シテ 佐藤 友彦 アド 野村 又三郎 小アド 井上 祐一
この曲は和泉、大蔵各流儀で一度ずつ観た事がある。本日は共同社と又三郎家との共演。又三郎師が主人役。 台本上の最も顕著な違いは文の相手が若衆であり、個人名が明示されるところ。文の使いを命じられた太郎冠者、次郎冠者が主人を諌めるところも他では見られない。文を担いでの道行きが短く、勝手に読み始めてしまうまでの時間が短かった。結末は異同なし。 不自然な表情、力みがなく、淡々と進行。個人的にはこういう流れは好ましい。所作も丁寧。惜しむらくは劇の筋よりも早く友彦師が又三郎師を視界に入れてしまい、その後の展開に不自然さが生じてしまったこと。全体しては柔らかな空気が漂い気持ちの良い時間だった。
能 「井筒」(観世流) シテ 片山 九郎右衛門 ワキ 宝生 欣哉 アイ 野村 又三郎 笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 安福 健雄(高) 地頭 大槻 文蔵
本曲を観るのは3回目だが、上掛りでは初めて。 井筒の作り物は低め、薄は向かって右側に付いている。 ワキの出、相変らずの風雅な僧振り。静かな秋の風情が漂う。次第でシテ登場。この「暁ごとの閼伽の水、暁ごとの閼伽の水、月も心や澄ますらん」というシテ次第は数ある謡曲の中で最も美しい部類だろう。ごく単純な中に風景、心情が織り込まれ、シテの心とともに冴えた夜明けの大気までをも感じ取ることができる。淡萌黄の地がごく僅かしか見えない程に秋草文様が織り込まれた唐織、面は小面。内に力の込められた謡、実体感のある身体で、美しいけれど怪しむべきところのない普通の女性といった様子。途中少しシテ謡が苦しそうに思えるところもあったが淡々と進行。下居は少々辛そうだった。表出しないけれども内に湛えているものが変成し、女は姿を消す。こちらの状態があまり良くないので、半覚醒状態なところも。 アイの又三郎師、前場で作られた雰囲気を壊す事無くごく自然に状況に溶け込んで登場。アイの登場の折り、舞台が暗転したかのように全く異なった空気を感じる事も多い中、真に結構な出方。気持ち良く語りを聞いていたが、「較べ越し振り分け髪も〜」のところで絶句。一呼吸おいて恐らく地頭により付句され、後は事なきを得た。このような現場を目の当たりにすると、間語がいかに綱渡り的な芸であるかを痛感する。場内に響くものは己の声だけであり、その声のみで世界を形成せねばならず、僅かな隙でその世界は容易に崩壊するのだ。 後シテ、紅葉柄の摺箔に薄色地に同じく紅葉をあしらった紗長絹。業平菱でないので女性が男装している感がより強まる。他の物は目に入らぬがごとく、井筒に吸い寄せられるように登場。一声の後序ノ舞。動きは極度に抑制され、舞台を半分程度しか使っていないように見えた。段が進むごとにに己の内側に深く沈殿して行くがごとき舞振り。そこには月の浮かんだ秋の美しい風情も、前場で明らかになった業平との物語も感じられず、ただ己の内にある想いのみに身を任せる女がいるだけであった。 ネット上で目にした能の感想に、井筒の女が何ゆえこの世に未練を残しているのか解り難いというような内容のものがあり、確かにそうだと頷いた。『野宮』や『定家』ではその執心の在り様が他者に知覚されやすく、あの難解な『芭蕉』でさえ、結縁という目的意識が感じられる。しかしこの『井筒』では、一応想いも遂げられこれほどの執着心をおこさせる要因が欠しく思える。自分なりに考えてみたところ、この女は「待つこと」を完遂できなかったからこうして今ださ迷っているのだという結論に達した。中世における『伊勢物語』の理解では、「人待つ女」と呼ばれた紀有常の娘は苦難を乗り越え業平と結ばれるが、二条の后との艶聞が露見し東下りを余儀なくされた夫とまたも離れ離れになる。3年間桜とともに待ち続けるが、ちょうど3年目のある日、新たな夫を迎え入れる(当時は3年間夫の訪れがないと自動的に離婚が成立した)。しかしその夜業平が帰って来て、歌を詠み置いて去る。女は男を追いかけるが、追いつく事無く息絶える。最後まで待ち続けていられなかった、その後悔の念が長い時を経てなお女をこの世に留まらせているのだろう。待つという行為は一見受動的だが、強固な意思の下においてのみ実行される。そしてその行為を成さしめるものは、捨てたくとも絶ち切れない想いなどと異なり、他者には理解し難いものである。女の内面世界でのみ完成する行為なのだ。 実はこの序ノ舞を観ている時、これまで経験したことのない物を観ているという感が付きまとい、何と表現したらよいのか解らなかった。こちらの想像力を喚起する類のものではなく、ある種の拒絶、「所詮私の気持ちはあなた方には解らないのだ」と言い放たれているようでもあり、自分の中でどう処理してよいのかと当惑すらした。考えがまとまりだしたのは能楽堂を後にしてから、そしてさらに日数が経過してからである。 僅かな動きに想像力を刺激され、様々な景色を思い描くのも確かに能の重要な楽しみ方ではあるが、このように他者を拒絶し、表面的な解釈を拒むのも能の在り方のひとつではないか。時間が経つごとに鮮やかになる印象というのもまた、得難いものである。 井戸を覗きこむところは、水面の奥深くまで身を乗り出す大きな動き。ここは感興の頂点であると同時に女の昂ぶりが一気に冷めるところでもある。それまで一体化していると思っていた業平の姿を見ることは相手を他者として認識することであり、所詮ひとつの存在にはなれないという現実を付きつけられるところなのだ。キリで扇をかざし脇正で俯く所作は業平に対する尽きせぬ思慕、叶わない同一化、それでもそれを希求してしまう己へのやるせなさ、恥ずかしさ、それらが凝縮し、ここへ来てやっと己の外へ目を向けた女の姿を感じ取った場面であった。今日の舞台で唯一、可憐さを感じた部分。 夜が明け女は消えるが、きっと永遠に待ちつづけ、己の叶わぬ願望に翻弄され続けるのだろう。次第の一句はこの絶ち難い連鎖から解き放たれたい、そんな女のもうひとつの願いなのだ。 後場で女の姿を静かに見守っているワキの存在は重要だが、これほど美しく座れるものかと思うほど、端正な姿だった。舞台の床についた装束の線までもが効果的。 前列は全員東京勢の若手に後列に関西勢が混じった地謡、芯がなくどことなく及び腰で物足りなかった。後見は片山清司師と味方玄師。やはり味方師の所作はきれいだった。 元来、能は同じ舞台でもその評価が大きく分かれる場合が多い。それだけ能を観るという行為は個人的体験なのだろう。本日の舞台はその振幅が殊の外大きいように感じられた。正直、どのように感想をまとめるべきかここまでここまで悩んだのは初めてである。だからこそ能は面白く、興味が尽きないのだ。 禅竹作品に比べると仏教色や難解な用語が少ない世阿弥作品であるが、この奥行きの深さ、多様性はどうであろう。一筋縄では行かないというのが、偽らざる感想である。世阿弥は凄い。
帰りの電車の中で国立劇場関連の催し物の予定が掲載された小冊子をめくる。その中にいとしこいしご両人の名前を見つけ、不覚にも目頭が熱くなった。私にとってこのお二方は安心して戻って来られる場所のような存在であった。探せば必ずどこかに居てくれるものと、都合良く信じていたのかもしれない。もうあの品の良い芸を記録以外で目にすることは二度とないのだ。世は斯くの如く無常である。
こぎつね丸
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