diary of radio pollution
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| 2010年11月30日(火) |
アメリカ横断ウルトラクイズ |
早く来い来い木曜日。
先日、会話の最中にチェックポイントという言葉が出てきた。瞬時に頭に浮かんだのは、ウルトラクイズのこと。
小さい頃、ウルトラクイズに挑戦するのが夢で、一年に一度の放送を楽しみにしていた。しかし、出場資格年齢に達することなく番組は終了。そして運の悪いことに、出場条件を満たしていたにもかかわらず、98年の復活大会の開催を知らず、ただテレビの前で悔しい思いをしながら眺めて、儚く砕け散る。
知力、体力、時の運。すでに、応募以前から時の運がなかった、と諦めるしかない。
あれほど、ワクワクするアメリカを見せつけられると、幼少時には、すでにアメリカ好きに洗脳されていたのかもしれない。
大人になり改めて映像を見ても、やはり豪華で強烈なインパクトだった。さすが、世界で最も制作費のかかったクイズ番組。
もう二度と実現不可能だろうな。
koji
これが一般公開か。
先日、仕事が早く終わったので買い物に出かけたら、御所の辺りが異常に込んでいた。少し考えて、秋だから一般公開しているのだと気付き、そのまま買い物へ。
帰り道、紅葉が鮮やかだったので誘われるように御所へふらふら入ってみた。そこで思い出す、一般公開のこと。
御所の敷地内は、さらに人が多かった。記憶を遡ってみてもこんなに混雑している御所は見たことはないし、もちろん一般公開に参加したこともなかった。人を辿っていくと、入り口に辿り着く。初めての御所見学。
入り口でパンフレットを貰い中へ。それにしても人がドンドン押し寄せてくる。慌しくうごめく人々の波から少し外れて、遠くから眺めることにした。 それでも時折、立札に書いてある建物の解説を読みに前へと行ってみるが、人込みに少しうんざり。しかも、眼鏡を持参していなかったので、とにかく近くに寄らないと見えない。
新御車寄を過ぎて視界が開ける。電線、ビル等の近代的な物体が何も目に飛び込まない。市のど真ん中なのに、なんとも不思議で異様な雰囲気。しかし、土産物店の出張販売が、そんな気分から簡単に引き戻してくれる。そして、群がる人々。これが現実か。
その後も途切れない人の列。ゆっくりと自分のペースで見て回る。途中、知った人に似ている姿に出くわすが、違ったようだ。
庭や建物を眺めていて感じたのは、贅沢なことだが一人で静かに観賞してみたい、ということ。まぁ一庶民には、不可能な戯言だろう。
終始、テーマパークにいる様な気分だった。
koji
踏みしめる足元の音。
もみじ狩りの語源が気になり調べてみると、どうやら平安時代にまで遡るようで、日々、京都の紅葉を近くに感じることは、今さらながら歴史と贅沢さを覚える。
観光客も多くなるこの季節、今年はゆっくりと愛でる暇も日中にはなく、枯れ落ちるのを道すがら眺めるだけで終わりそう。都を取り囲む山々の装いも、明るくなってきているのに残念だ。
また、この季節になると、夜間ライトアップのポスター等を見かけるが、昔から、これにはどうも引っかかる。植物の一日のサイクルを乱し、成長に影響がありそうな気がしてならない。派手な人口光源に頼らない自然な陰影の中にこそ、京の美しさは存在していたのではないだろうか。
落葉した木々の下から見上げる秋空に迫る冬を想う。
koji
滋賀遠征。
先週末、今年最後の連休なのでゆっくり過ごそうと考えていたが、予定変更で友人と登山へ行くことにする。行き先は、幾度も天候に阻まれた伊吹山。
前夜に確認した明日の天気予報は、晴れ。前日は少し雨が降った様子だが問題もなさそうなので、決行。
午前四時半起床、おにぎりを握る。支度をして車で友人宅へ。二時間程のドライブ。湖岸を北上し彦根へ。いつもは電車から見るヤンマー社、そして米原駅を通り過ぎる。
麓へ到着後、駐車場へ。そこのおじさんに、以前にも来られましたよね?と聞かれるが、そんなことはない初伊吹山。どうやら、同じ車で京都ナンバーだったよう。そして、おじさんと小話していると、毎週登山客にトラブルが発生していて、救出活動等で地元民は大変だと聞かされる。登山は慎重に。
さすが千メートル級は、佇まいに迫力を感じる。一合目からの景色で驚いていたが、先へ進むにつれ益々そびえる姿に魅了される。
高山植物と岩の間を抜けて歩む。普段、登る京都の山にはない光景と、振り返り眼下に広がる湖東の景色、快晴であれば、より楽しめたであろうが、昨日からの黄砂の影響か、少し霞んで見える。見上げる頂上は遠い。
昼頃、登頂。比叡山の時のようにドライブウェイがあるため、登山と一般の装いが混在している異様な空間。やはり週末登山は、人が多いので苦手だ。岐阜方面が見渡せる芝の上に陣取り、昼ご飯。さらにグレードがアップした味噌汁が友人から振舞われる。冷えた身体に染渡る。
下山は休憩もほどほどに、一気に下る。降りても降りても下界は遠い。三時過ぎ、無事に駐車場へ。
帰路は、湖北を回り京都へ。晩御飯にと立ち寄ったうどん屋で、疲れた身体に温かい麺を流し込む。
これで今年の登り納めか、いやいやまだもう一つ残している。
koji
近江八幡にて。
先月のこと。秋晴れの日、仕事先の社長の計らいで、近江八幡水郷めぐりへと繰り出す。時代劇好きの齢七十を越えた社長の提案だった。
個性のぶつかり合いなファッションの集団は、この渋い観光地では浮いていた。傍から見ていて、まったく何の集団なのかわからなかっただろう。
船は二時間の貸切コースで、すき焼き付き。何とも優雅な時間か。人力の船の速度というのは、とても心地良い。しかし、座ったポジションの関係で、すき焼き鍋奉行に任命されてしまう。忙しなく勤めを果たしつつ、時折、葦を眺めたり。
この集団、見た目だけではない各々の知識もバラエティに富み深く、普段の会話も飽きることはない。だけど、楽しい時間も、やがて終わりはやって来る。
手元に、その日写した集合写真がある。改めて見ても、やはり奇妙な一団だが、良い一枚だと思う。
koji
百年以上も前の言葉の力。
先日、長距離列車の指定席に座って本を読んでいた。折しも窓の外は嵐で、蛍光灯で照らされた車内とは対照的に、雨が薄暗さを叩きつけていた。
旅のお供に、と携えた詩集を鞄から一冊取り出す。十九世紀米国の詩人。残念ながら原書ではないが、訳者は心から信頼のおける作家。昭和二十二年発行。黄ばんではいるが、かび臭くもなく状態は良い。
前日からの続きでページを捲る。終盤に近づくにつれ、時代も国も異なる著者の声が響く。久方ぶりに涙腺が緩む。
隣に座っていた人に気付かれぬよう、流れそうな涙を堪えていたが、次には鼻を伝って降りてくる。やむ終えず席を立ち、デッキで鼻をかみ、顔を洗う。改めて席に戻り、続きを読む。
しばらくすると、停車した駅で隣の客は降りていった。その間も泣けてくるのを堪えて読み進めた。時折通りかかる車掌の視線を気にしつつ。
読後、空を眺めていると、暗雲の切れ間に差し掛かった。様々な空の色彩が一つの光景の中に存在し、終末的な印象を受け、再度涙腺が緩む。本当に感情的だったと思う。
百年先の誰かの心に届く詩を。
koji
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