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りょうちんのひとりごと
りょうちん
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2005年03月29日(火)
Vol.559 思い立ったが吉日

おはようございます。りょうちんです。

マラソン大会が終わった日曜の夜、俺はふと思いついた。週が明けた火曜と水曜、俺には連休が待っている。今月の休みの調整分として、マラソンで疲れた体を癒そうとあえて連休を入れたのだ。なのに、せっかく連休にしたにもかかわらず何の予定も立ててなかった俺。しかもマラソンをした割には、カラダもそんなに疲れていない。そこで俺は思いついたのだ。
そうだ、甲子園へ行こう。まさにちょうど今、センバツ大会の真っ最中。甲子園では、熱い戦いが繰り広げられている。甲子園は以前から行きたくて行きたくて仕方なかった俺。地元の大会にはしょっちゅう顔を出していろんな球場に出向く俺なのに、甲子園へはずっと来ることができないまま。仕事のスケジュールが合わなかったり、なんだかんだで機会を逃していたのだが、これは絶好のチャンス。仮に甲子園へ行くとすれば、俺は5年ぶり2度目の甲子園になる。しかも5年前は夏の選手権の時だったから、センバツ大会を生で見るのは初めてなのだ。よし、今こそ甲子園に行く時が来たようだ。
思い立ったが吉日。俺はあわてて仕事のスケジュールの確認をして休みが取れることを確実にすると、甲子園行きを実行に移しはじめた。こういうことは勢いが大切。迷っている時間なんてない。急いで新幹線や夜行バスの手配を済ませ、流れに任せて甲子園行きのスケジュールを無理やり進めていく。あまりに急な展開で気持ちがちゃんとついてこないのだが、躊躇はしてられない。行くなら行く、そしてあとは楽しむだけだ。
そして今、俺は大阪にいる。今朝早く家を出てのぞみに乗り、昼前には甲子園に着いて第2試合からの3試合をたっぷり7時間半かけて観戦してきた。行き当たりばったりの企画としては今のところ上々で、突然の甲子園観戦ツアーを心底楽しんでいる。明日も甲子園で3試合を観戦したあと、夜行バスに乗って千葉へと戻る予定でいる俺。うん、こういうのもありだよね〜。



2005年03月27日(日)
Vol.558 俺もランナー

おはようございます。りょうちんです。

ホノルルマラソン完走3ヵ年計画に向けて、今年から走り始めてきた俺の初舞台、市内で行われるマラソン大会に参加した日曜日。朝から風も穏やかで暖かく、春本番といえる絶好の天気に恵まれた。会場になっている運動公園へ向かうと、駅からの無料送迎バスを待つ人は長蛇の列。こんなにも参加者がいるのかと思うとちょっとびびった俺だけど、無事エントリーを済ませてあとはスタートの時間を待った。
俺が参加するのは10kmの部。開会式やちびっこの部、フルマラソンの部がスタートしている間、俺らは準備をしつつ公園内をくまなく散策。遠くで開会式に呼ばれていた小出監督の声を聞きながら、栄養補給としていただいたパンやお茶を食したり、健康測定のテントで血圧を測ってもらったり、マラソンシシューズの試履会に参加したり。なんだかんだであっという間にスタートの時間になってしまった。
いよいよスタート。スターターはQちゃんこと高橋尚子さん。彼女の応援を胸に受けて、走り出すその時が来た。競技場を出て最初の急な下り坂まで、渋滞気味の前を走る人たちのせいで自分のペースがつかめずちょっと不安になったけど。1kmも過ぎたあたりから沿道で旗を振りながら応援してくれる人たちに見守られながら、徐々に気持ち良く走れるようになってきた。いつもと同じように走り続ける俺。でもいつもと違うのは、まわりには俺と同じようにゼッケンをつけて走っている人がたくさんいるということ。みんなランナー、そして俺もランナーなのだ。それがとても励みになった。抜いたり抜かれたり、でもみんながんばって走っている。春のひざしはとても暑くて最高気温が18℃を記録したこの日、半袖にハーフパンツ姿で挑んだ俺はすぐに汗だくになったけれど、かなり良いペースで走ることができた。
そしてついに10km完走。タイムは1時間01分24秒とめざしていた1時間を切るまではあと少しだったけど、そんなことはどうでもいい。第一の目標だった、気持ち良く完走することは100%クリアできたのだから。こうして俺のマラソンデビュー戦は大成功したわけだが、ホノルルマラソン完走への道はまだ始まったばかりなのだ。



2005年03月25日(金)
Vol.557 もう春なんだなぁ

おはようございます。りょうちんです。

料理で大根やにんじんの頭の部分が残ると、そこだけを切り落として台所の窓のところで水栽培をしてる俺。緑色の葉がすくすく成長していくのを、それとなく楽しみにしてるんだけどさ。ここ最近、大根の葉っぱがみるみるうちにぐんぐん大きく伸びて、先端につぼみをつけたと思ったらきれいな淡い薄紫色の花が咲きました。
まだまだ寒い冬のど真ん中、早く春にならないかなぁなんて気でいたら、カレンダーはすでに3月も下旬。楽しみにしていたセンバツも始まっているなんてニュースを聞いて、唖然としちゃった俺。うそ〜? 冬だと思っていたら、いつのまにか季節はとっくに春だったのね。そりゃ、大根の花が咲いたっておかしくないっちゅうねん。ひと雨ごとに春の足音が近づいてくるなんて言うけれど、そういやここんとこなんとなく暖かくなって布団から出るのも幾分楽になった気がするし。外に出れば梅の花も満開で、どこからともなく沈丁花のほのかな香りもしてくるし、数日後には桜の開花も待っているに違いない。もう春なんだなぁってカラダで感じることはできても、あまりの時間の速さに頭がついてこなくて、季節の切り替えさえも上手にできないままだったよ。あぁ、忙しさにかまけてぼんやりしていたら、危うく俺だけ春から取り残されるところだったかも。
ってことはだ。桜が咲く季節になると、俺の誕生日もやってくるわけで。数えてみたら、誕生日まであと10日もないわけで。やばい、これはやばすぎる。33歳を迎えちゃうっていう危機感よりも、春になる前にやらなくちゃと思っていたことが今の俺には大量に残っている。今になってあわてても仕方ないんだけれど、うっかり忘れてましたじゃ済まないよな。よし、そろそろエンジンをフル稼働させて、俺のテンションも春の本気モードに切り替えなくっちゃ。



2005年03月22日(火)
Vol.556 マラソンなんて大嫌い

おはようございます。りょうちんです。

カラダを動かすのは大好きな俺だが、昔からどうしても好きになれないスポーツがあった。それは、マラソン。マラソンは、見るのもやるのも好きじゃない。時々TVでマラソンの中継をやってるけれど、スタートの時やゴールの瞬間は興味があっても、それ以外は見ていてもあんまり変化がなくてすぐに飽きちゃうし。ましてそれを自分がやるとなると、長時間ただ走るだけという苦しくてつらいことをなぜに楽しめるのかと、いつも疑問に思っていた。
学生の頃、体育の授業や部活などでマラソンをすることがあったが、いつだって俺はいかにズルをして楽をするかばかりを考えて走っていた。10周走らなきゃならないのにごまかして8周しか走らなかったり、近道を見つけて女子のコースに紛れこんだり。そんなズルが見つかるたびに、体育教師や部活の顧問に怒られたりした。
社会人になってから、長距離を走ることなんてなくなっちゃったけれど。マラソンなんて大嫌いだった俺が、なんと今年に入ってからそのマラソンを始めている。実はふとした思いつきから、ホノルルマラソンで完走してみたいと思ったのだ。ついにこの場で公表しちゃったからにはもう後戻りはできないのだが、42kmもの長い距離を走りきる体力をつける準備期間として、3年後の大会を今は目標にしている。そのために、休日にはなるだけ時間を見つけて走ることに決めたのだ。
まずは、慣れること。タイムや誰かと競うなんてことは気にかけず、自分のペースで走り続ける。今日も春風の中、10kmの道のりを1時間あまりかけて走ってみた。あの頃の体育教師や部活の顧問がこんな今の俺を知ったら驚くだろうが、気持ちに余裕がある分、思っていたよりも快適に走ることができる。
そういうわけで今度の日曜日、俺は市内で催されるマラソン大会に出場する。初めての大会でいきなりフルマラソンを走るのはまだ到底無理なので、10kmの部に参加することにした。目標はタイムでも順位でもなく、気持ち良く完走すること。俺、がんばれるかな。



2005年03月18日(金)
Vol.555 厚い人の情け

おはようございます。りょうちんです。

去年はさまざまな災害が各地で起こった。災害で家を失った人たちは、もちろん住む場所さえ失ってしまうということなのだが、今からちょうど7年前に俺の実家が全焼した時も、俺の家族は住む場所さえ失ってしまった。家が焼けました、それじゃすぐに建て直しましょう、なんて簡単にいくはずがない。当たり前だが、家を建て直すのには時間もお金もたくさん必要なのだ。途方にくれた両親は、当初県外に住んでいた俺の元にとりあえず一家総出で来ることも考えたのだが、結局頼りになったのは親戚や近所の人たちや店の常連のお客さんたちの厚い厚い情けだった。
火事の知らせを聞きつけた人たちは次々と俺らの元へやってきて、火事の見舞い金とともに古着だの食べ物だのいろんなものを持ってきてくれた。火事の片付けをしながら、そうやってわざわざ訪れてくれる人が見えるたびに俺らは頭を下げた。そして数日間のうちに、むしろ余ってしまうほどのたくさんのものが集まったのだ。また、新しい家ができるまでの約束で、歩いて10分ほどの叔母の家に俺の家族は身を寄せることになった。けして広くはない家なのに、突然4人も人が押しかけて一緒に住むことになったのだが、叔母の家族の誰もがイヤな顔ひとつせずに歓迎してくれた。こちらからお願いをしてるわけじゃないのに、気がつけばそうやっていろんな人の情けを受けてコトが進んでいき、もう俺らは感謝するしかなかった。
父と母で営んでいた店まできれいに燃えてしまったので、家を失うと同時に両親は職も失ってしまった。父が仕事を再開したのが、火事になってから2ヶ月後の5月。ハサミやクシなど必要最低限の仕事道具だけを揃えて、要請があったお客さんのところへこちらから赴いて散髪をしにいった。完璧な仕事ができないとはいえ、昔からの常連さんが声をかけてくれることに、父はこの仕事をやってきてホントに良かったと思ったそうだ。結局新しい家が新築されて、家族がそこに住むようになったのは火事になってから約半年後の10月。あれから7年、そして今に至る。
だから俺らは、絶対に忘れちゃいけない。俺らを助けてくれた、厚い人の情けを。



2005年03月15日(火)
Vol.554 右足を失った彼

おはようございます。りょうちんです。

朝になると、街中が一面の銀世界に変わっていた。そしてまだまだ絶え間なく空から降りてくる雪。この冬何度目の雪かはわからないが、積もったのは初めてだ。
彼はその朝も、いつもと変わらずに出勤をする。バイクのエンジンをかけ、いつもと同じ道を職場へと急いでいた。ただいつもと違っていたのは、降りしきる雪が積もっていたことだけ。そしてその2時間後、誰も予想だにしていなかった一本の電話が、彼の実家へと鳴り響いた。彼の乗っていたバイクが雪道でスリップし、交通事故に遭って病院に運ばれたという知らせ。
電話を取った彼の母は、目の前が真っ暗になったという。取るものも取らずに病院へと出向くと、ベッドに横たわった彼はうわごとのように、「仕事に行かなくちゃ…」と言っていたそうだ。こんなカラダじゃ仕事なんて100%無理なのに、昔から人一倍責任感が強かった彼。診断の結果、右足の粉砕骨折。バイクがめちゃめちゃに大破してしまったにもかかわらず、ヘルメットをちゃんとかぶっていたせいで頭に異常が認められなかったのは幸いだったのだが、右足の切断は避けることができないと医師から告げられた。
昔から彼はやんちゃだった。俺の記憶では子供だった頃の彼はいつだってかけずり回っていて、体力には誰にも負けなかった彼はそのままカラダを動かす仕事に就いた。でも、右足を失った彼はもう今の仕事はできないかもしれない。それだけじゃなく、右足がないというハンデはこの先の人生に大きく影響してくるに違いない。
事故から少しして。俺は彼の入院している病院へお見舞いに行った。ベッドで静かにしている彼はたくましかった昔の彼とは違って見えたが、思ったよりも元気そうだった。彼には右足を失ったハンデの厳しさがこれから始まるのだろうが、そんなことは関係ないというように持ち前の明るさで笑ってくれた。俺は彼に、がんばれとエールを送った。



2005年03月13日(日)
Vol.553 意味のない悔し涙

おはようございます。りょうちんです。

「もう大丈夫ですから…」。そう答える受話器からの彼の声は今にも消え入りそうで、全然大丈夫なんかじゃないことは明らかだった。真夜中過ぎにかかってきた友人からの電話。今までにもこうやって彼から相談事を持ちかけられたことは何度かあったけれど、こんなにまで意気消沈していることはなかった。
友達として、俺はどうしても彼の力になりたいと思った。しかし俺の頭でどんなに考えてみても、解決策を見出すことは難しかった。それならばと落ち込んでいる彼を元気づけるコトバをいくつも並べてみたのだけれど、彼の悩みはとてつもなく大きくて、受話器の向こうでそんなコトバがくるくると空回りするばかりだった。そして最後に言った彼の一言。大丈夫なんかじゃないのに、大丈夫だと言った彼の強がり。
何の解決もできないまま電話を切ったあと、彼の元へ車を出そうと俺は真剣に考えていた。電話越しじゃなく、直接彼に会って話を聞けば少しは進展があるかもしれない、そう思ったのだ。しかし、夜になって降り始めた雨が夜半過ぎには雪に変わる予報が出ていたこと、翌朝に俺は絶対にはずせない仕事が待っていたこと、という理由で彼の元へと行くことをあきらめたのだった。
悔しかった。ココロの底から悔しかった。俺は彼の友達なのに、何ひとつしてあげられない自分に腹が立ってどうしようもなかった。行き場のないもどかしさから逃れようと頭から布団をすっぽりとかぶって眠ろうとしたけれど、眠れるはずなんてなかった。そして彼のことを考えていると、涙がどんどんあふれてきた。彼は今もっと苦しんで、涙を流しているに違いないのに。俺が泣いたってどうしようもないことはわかっているのだけれど、意味のない悔し涙を止めることはできなかった。
窓の外から聞こえていた雨音が静かになった。どうやら予報通り、いつのまにか雨は雪に変わったようだ。



2005年03月10日(木)
Vol.552 魚屋さんの消息

おはようございます。りょうちんです。

俺が小学生だった頃のこと。週に一度、近所に移動式の魚屋さんが来ていた。銚子だかどこだかの魚市場で仕入れた魚をそのまま軽トラックに乗せて、朝早く家の近所にやってきて売るというもの。威勢のいい魚屋のおじさんの声が聞こえると俺の母も飛び出していって、手に入れた新鮮な魚がその日の夕食のおかずとして食卓に並ぶこともよくあった。近所のおばさんたちが集まる風景を横目で見ながら、そして俺も学校へと向かったものだった。
しかしある日を最後に、魚屋さんは来なくなった。最後にやってきた日、母は魚屋さんからこんなことを聞いたという。「検査のために入院することになった。検査入院だから安心しろとみんな言ってくれるのだが、でもなんだかイヤな予感がする。俺はもっと悪い病気にかかっているに違いない。入院している間は来れなくなるが、もしもこのまま俺がずっと来なかったら死んでしまったと思ってくれ…」と。そしてその日以来本当にやってこなくなった魚屋さんに、「やっぱり亡くなっちゃったのかもしれないね…」と、母は言うのだ。事実はどうなのか誰も知らないが、母も俺も魚屋さんの消息はずっと気になったままだった。
どうしてこんな話を思い出したかというと。先月の初め、俺は毎年恒例の健康診断を受けた。そしてその結果が返ってきたのだが、検査結果には「要精密検査」の文字が。どうやら俺のカラダに異常が見つかったようだ。このカラダ、どこかおかしいらしい。すこぶる健康だと思っていた俺は、あわてて病院へ行き指示通り精密検査を受けてきた。
例えば、コンスタントに書き続けているこのひとりごとが、何の予告もなくある日突然更新されなくなったら。俺は何かの病気で死んでしまったと思ってほしい。そう、あの魚屋さんのように。こんな話、あとになって笑い話にできればいいのだけれど。精密検査の結果が出る来週まで、俺には不安を抱えた日々が続いていく。



2005年03月07日(月)
Vol.551 うっかりするということ

おはようございます。りょうちんです。

HPの自己紹介で、好きなことは「うっかりすること」だという俺の友人がいる。彼の憎めない性格やちょっとおとぼけのキャラを、彼自身が自分でそうやって表現しているのだと俺はずっと思っていた。しかし、実はそれは違う意味だったのかもしれないと最近考えるようになってきた。
今年に入って俺は、何かと仕事がかなり忙しい。特に正月やこの前の北海道旅行の前後など、日程的にも仕事量もかなりいっぱいいっぱいな時もあった。まぁ無理にスケジュールを組みこんだ俺が悪いのだが。でもそんな目も回るほどの忙しさの中で俺は、効率良く仕事をこなし、なおかつ自分がオーバーヒートしないための裏ワザをいつのまにか見つけ出したのだ。それが、うっかりするということ。
本当ならば、常に100%の力で仕事に励むのが望ましい。しかしそれをずっと続けていると、そのうち肉体的にも精神的にも限界がきて自分の持っている力を完全に発揮できなくなってしまう。だからそうなってしまう前に、わざとうっかりしてみるのだ。例えば10の仕事が目の前にあるとする。でもその全部をこなすとかなり披露困憊になることが予測される。ならばそのうちの3つくらいは、わざとうっかり忘れてみるのだ。もちろんすごく大事な仕事だったり緊急を要するものならすぐに取り組まなければならないのだが、時間がたってからでも大丈夫なものならば、それをわざわざあわててやる必要はない。まだ終わっていない仕事を万が一上司からとがめられたとしても、「うっかり忘れてました…」ということにしちゃえばいいのだ。明日できることを、今日やらない。そうやって自分に余裕の幅を持たせることによって、結果的には効率良く仕事をこなすことができるのかもしれない。
さて、冒頭で書いた友人だが。彼はいつだって忙しそうに仕事でかけ回っている。もしも、俺の考えている意味で彼が「うっかりすること」が好きだと言うのなら、彼はすごい男だと思う。HPではあんなキャラで通しているけれど、本当は賢くて奥が深い彼だから十分に考えられる。よし、今度真相を聞いてみなくては。



2005年03月04日(金)
Vol.550 オホーツクの思い出・後編

おはようございます。りょうちんです。

昨日の続き、オホーツクの思い出・後編。
最終日の思い出、いろいろ。再びの早朝散歩。オホーツク海越しに網走市街が見えた朝の露天風呂。まちがえて用を足しちゃった女子トイレ。念願だった流氷ウォーク。そこで仲良くなった大阪から来た女の子たち。俺だけおなかにしわができてカッコ悪かったドライスーツ。持って行った練乳をかけて食べた新雪と流氷のかけら。前日に降ったパウダースノーに埋めて作った俺の顔型。なめてもしょっぱくなかった流氷。うっかり落ちてみた流氷の隙間。流氷の隙間から探して見つけたかわいいクリオネ。太陽の光がさして眩しくてきれいだった一面真っ白なオホーツク海。青く透き通った流氷の山。まとめて差し出したら驚かれた2000円札。あきらめた流氷砕氷船。オロンコ岩で見た流氷自然公園の流氷神社と森繁久弥の碑。凍らずに勢い良く落ちていたオシンコシンの滝。たまたま入ったら結構充実していた知床博物館。たどり着くまでの道が険しかったフレトイ展望台。そこから見たオホーツク海と濤沸湖と知床連山。快適に運転できた国道244号線。いかにも北国の駅らしい感じがした北浜駅。ドライブインで見かけたインチキ巨大ニポポ。団体観光客に紛れて試食し放題だったおみやげ屋さん。やっぱり悔しくて行っちゃったおーろら号のターミナル。やっぱり宅急便で送ることに決めた新巻鮭とわかざぎとひらめ。カーラジオをチューニングしたら聞こえてきたロシア語放送。厳格な造りだった網走刑務所の赤レンガ。特大ニポポを屋根に乗せた電話ボックス。おみやげ屋さんで買った流氷キャンディとクリオネグミ。女満別空港で食べた鮭のちゃんちゃん焼き。救命胴衣のつけ方をマネしていたら「お上手でしたよ!」と誉めてくれた客室乗務員のお姉さん。羽田に着いて地下鉄を降りたら降っていた東京の雪。
3日間があっという間で、楽しいことがてんこ盛りのオホーツクの旅だった。風や天候のせいで計画が狂ったりあきらめざるを得なかったイベントもあったけれど。きっといつかまた、もう一度オホーツクの旅をしてみたいと強く思っている。



2005年03月03日(木)
Vol.549 オホーツクの思い出・前編

おはようございます。りょうちんです。

初日の思い出、いろいろ。飛行機から見た鮮やかな富士山。絵葉書を3枚くれた客室乗務員のお姉さん。おかわり5杯のりんごジュース。りすの森で食べたハスカップとハマナスのジェラート。南風のせいで沖まで行っちゃった流氷。乗れなかったガリンコ号。行けなかったサロマ湖と紋別。見れなかったとっかりセンター。すし安のうにいくら丼と海鮮ランチ。流氷館の氷点下18℃の部屋。かわいいフウセンウオ。望遠鏡でのぞいても流氷なんて全然見えなかったオホーツク海。タイヤチューブで滑り降りた天都山の雪の滑り台。民族衣装がカッコ良かった北方民族資料館。後半は猛ダッシュで見て回った網走監獄。予想以上の料理に大満足のホテルの食事。あったか網走のかまくら。風が強くて乗れなかった熱気球。速かった氷の滑り台。新巻鮭が当たったカーリング。札幌ラーメンが当たったじゃんけん大会。爽快だったスノーモービルと四輪バギー。雪の上に寝転んで見上げたオリオン。温度差100℃のサウナと露天風呂。
2日目の思い出、いろいろ。午前6時の早朝散歩。これでもかというほどに着込んだ完全防寒の服。氷点下18℃にまで下がった温度計。振り回さなくてもカチカチに凍った濡れタオル。乗れなかったおーろら号。1時間半で15匹も釣れた網走湖の氷上わかさぎ釣り。ひらめが釣れてびびった相方の釣り技。北海道の道に妙にマッチした松山千春と北島三郎と北の国からのBGM。初めて見ることができた流氷。何十回も転んだ初めてのクロスカントリー。後ろ前にはいちゃったヤッケ。静寂の中の雪山探検と雲がかかっていた知床連山。絶景だったフレペの滝。上空を優雅に飛ぶオオワシ。つぶらな瞳で見つめていた野生のエゾシカ。全種類食べ切れなかった夕食バイキング。猛吹雪になったウトロの夜。今期初の中止にがっかりしたオーロラファンタジー。吹雪の露天風呂で剣山のように鋭く凍った俺の髪。
オホーツクの思い出・前編はこれにて終わり。後編へと旅はまだまだ続く。



2005年03月01日(火)
Vol.548 流氷を追いかけて

おはようございます。りょうちんです。

目的は、何が何でも流氷だった。冬の北海道に行くにあたって楽しみはもっと他にもあったのだが、どうしても流氷だけははずせなかった。風の向きや強さで、流氷はどんどん流されてしまう。昨日までは何もなかった海が、一晩明けたら一面流氷に覆われていることだってよくあるらしいのだ。
女満別空港へと着陸体制に入った飛行機からのぞいた朝のオホーツク海は、一面の青い海原。網走湖や能取湖は真っ白く凍っているのが確認できるのに、肝心の海は波立っているように見えた。まさか? 飛行機を降りるとすぐに、俺はその日に予約を入れていたガリンコ号へと問い合わせてみる。流氷砕氷船は紋別のガリンコ号と網走のおーろら号があって、あえて俺が遠い紋別のガリンコ号に乗りたいと思ったのは、ドリルで豪快に氷を砕きながら進むガリンコ号に魅力を感じたからだ。しかし、「今日は流氷を確認できないため観光船としての運行になります」との答え。関東地方にも春一番をもたらした発達した低気圧のせいで、流氷はどんどん沖へと流されてしまったという。俺は泣く泣く予約をキャンセルし、速攻で翌日のおーろら号の予約を入れることにした。午後、流氷館の展望台から見たオホーツク海に、流氷なんてまったくなかった。遥かに見える水平線は九十九里のそれと変わりなく、一瞬流氷と勘違いした白い塊は沖を進む船だった。
翌朝、おーろら号に確認の電話を入れてみたが、またもや流氷は来ていないとのこと。仕方なくキャンセルし、流氷を追いかけて俺は知床半島の中央部、ウトロへ向かう。海沿いの道を進むにつれて、徐々に海の中に氷の塊が見えてきた。プユニ岬から見る海はところどころ隙間が見えるものの、その7割が流氷に覆われていた。
最終日、流氷の上を歩く流氷ウォークに参加した俺。専用のドライスーツを着て、水平線に向かって流氷の上を歩き始めた。念願だった流氷の上に、やっと俺は立てたのだ。流氷を触り、流氷を口に含んでみた。すべてが感激だった。結局流氷砕氷船には乗れなかったけれど、俺はこうして流氷に出会うことができたのだった。