ぶつ草



東山紀之になる

 私の腹筋の限界は20回です。しかしそれは中学校時代、部活でテニスをやっていたときのことで、今はきっと10回出来れば上等だと思います。

 で。

 今日久々に部活に顔を出しました。「運動着を持ってきて」と言われていたのでテニスウエアを持って。この10月の公演は他大学との合同公演で、練習量も半端じゃなかったそうです(まあ、うちの部がそもそもへなちょこなもので)。そのときの基礎練習(基礎練習って言葉自体縁がないような部ですから・・・)をこれからも続けていこうという話らしく、早速挑戦したわけですが。十分すぎるほどの柔軟からいよいよ筋トレ、なんですけど・・・

いきなり腹筋80回ってどーゆーことですかっ?

「ムリだったら止めてもらって結構ですから」というお言葉に甘えて46回でリタイア。65回目から復帰(おいおい)。その後も片足上げて16回とかそう言うのが続いてトータルで144回。まあ、普通これくらいはして当たり前だぞ、と言われてしまえばおしまいなのですが、へなちょこな皆がこれを2ヶ月間やって来たと思うと・・・参加しなくてよかったと・・・

 すっかり時代に乗り遅れてしまった気分でした。

 すでにお腹が痛いです。うっすら割れています。来年の3月までにはヒガシになるかもしれません。

2001年10月31日(水)

おじいちゃん

 誰の言葉だったか忘れてしまったのですが、「親を背負ったらあまりにも軽くて、涙が出て3歩も歩けなかった」みたいなのがありました。(あれ、俳句だったっけ?)

 今日、バイトに出かけるほんの数分前、自宅で祖父が転倒しました。もう80歳で足元もおぼつかないような祖父だったのですが家の中を歩く分には不自由はしていませんでした。そんな、祖父が。

 廊下でへたってしまい、立つことすらできない。痛いという。トイレに向かう途中で転んだため、トイレに行きたいと言う。でも、立てない。ダダをこねる。母に八つ当たりする。

 そんな一連のやりとりを見ていたり、父が帰ってくるまでの間、救急車がくるまでの間、祖父の側に居たのですが、その体の小さいこと。思わず涙が出そうでした。

 祖父とは私が生まれたときからずっと一緒に住んでいて、だから小さいときに会社に出かける時にほっぺにキスをしたりしてお見送りしていたのは今でも鮮明に覚えています。私が中学生の時、祖母が亡くなりました。その時初めて私は祖父の涙を見ました。棺桶を見ている背中がすごく小さく見えました。イギリス短期留学に行かせてくれたのも、祖父です。帰ってきたとき泣いて喜んでくれました。成人式の時も、振り袖を着た私を見て泣いていました。

 そんな祖父の手がとても小さく、気力無く廊下にへたっている姿は認めたくありませんし、涙が出てきてしまいます。

 救急車の回転灯が遠く小さくなっていくのを見て、ふと、そんなことを考えました。

2001年10月29日(月)

好きなんだもん

 今日は待ちに待ったカミコンに行って参りました。

行きの道中に転倒して膝を痛めました。(おいおい)

しかしそれは嵐の前の静けさにしか過ぎなかった・・・!

なんとっ。

帰った矢先に「ジャニーズ禁止令」が発令されたのだ!

コンサートは今後一切行くな、と言うもの。テレビとCDで抑えろ、と。

これを発した母はコンサート自体「金の無駄」と考えている人なのでいつかは言われるだろうと思っていたのですけれども・・・

 うーん。彼女は「なまもの」がどれだけ良いかって知らないんだよね。

確かに遠くて小さくて、テレビで見た方がずっと良いとは思いますけど。ああいうライブで、同じ空気を吸っているんだっていう興奮は味わってみないと分からないんですよ。

 決定的だったのが同じ大阪カミコンに知り合いの娘さん(中3)も行くってことで、もう母の中では「ジャニーズ=幼い」っていう図式が完璧に成り立ったみたいですね。だって「恥ずかしい」とまで言われましたから(怒)。

 まだテレビとかCDまで規制されなくて良かったとは思います。



 とりあえずほとぼりが冷めるまでコンサートは止めようと思います。これ以上規制が強くなったらそれこそ狂い死にしそうですから。



 でも、「好きなこと」を否定されるのってこんなにショックなこととは思いませんでした。

2001年10月27日(土)

寿司

 集合が15時だった。

まあどこかで喋ってから食べに行くんだろうと思っていたのに、一時間くらいで全員が揃うと

「さ、食べに行こうか。もうお腹減ってたまらんわ。」

と宣う食欲魔人が一名。しかも皆それに賛同するし。



ちょっと待て!今日は夕飯を食べるんちゃうんか?

まだおやつの時間やん、それ。




ダダをこねて結局17時まで粘る。

そこからガッコから歩いて15分くらいの所にある回転寿司へ。

解散、18時。

・・・は、早い・・・

家に着いたときには我が家は夕食の時間だった・・・

何故か虚しかった。

2001年10月24日(水)

まずは一段落?

 すっぽり開けていた一週間の間に、色々とネタはあったのですが。

書く気力が起こらないのでもうこの一日だけにします。



 前々から言っていた初級シスアドの試験、本日うけてまいりました。

朝6時半起きで。

・・・あのねー、私ガッコ行くときでもそんなに早く起きないんですよね。妹は起きてますけど。

いやはや、ガッコが近いとこんなもんですよー。定期券いらずの親孝行者。ちなみに就職先も徒歩圏やしねー。

っと。それはおいといて。

会場は短大だったせいなのか否か、受験する女の人わしゃわしゃ。

田舎者の私はそれだけで気分が悪くなり(^^; 「はあ、世の中にはこんなにも女っちゅーもんが存在しとるのねぇ」としみじみしてしまっていたという。


 で、問題の出来具合なんですが。

・・・4月に頑張ります。はい。



 午前、午後と別れていてそれぞれ約70%の正答率がないと合格できないんだそうです。まあ、午前の部門は大丈夫でしょうけど・・・午後が・・・玉砕で・・・わかんなかった・・・

「あ、桜が散ったなぁ・・・」と一人でしみじみしておりました。



やっぱり世の中甘くないんですね。うん。

多分前日に友人から「DSU、DFS、DNA、DNS、DHC、DFDのちがいを言え」なーんてメールで大混乱に陥ったせいだろうね。うん。









ちなみに

    DSU・・・デジタル伝送用の回線終端装置

    DFS・・・免税店

    DNA・・・ディオキシリボ核酸

    DNS・・・ドメイン名とIPアドレスを関連付けるプロトコル

    DHC・・・化粧品

    DFD・・・データフローダイアグラムの略称

                            でございます。


2001年10月21日(日)

とりあえずは・・・

 読み終わることは終わったんですよね>卒論題材の本

でもねー

ぜーんぜんっ、感想が無いんですよ。これが面白かったとかなんとか、っていう。

やっぱりこれが「自分から読む」のと「仕方なく読む」ことの差なんでしょうかねぇ。

あーもうっ。

絶対11月中に書き上げてやるっ。シスアドの試験終わったら山籠もりよ山籠もり。

(↑無茶)

2001年10月12日(金)

やる気が失せる時

 そもそも、卒論の資料が無くて困っているこのご時世。

(もっと大きな図書館に行くなり領事館に行け、という話だが腰が重いために動かない)

 しかも卒論のテーマにする人が、デザイナーとしての方が有名だったり。そんな私は相も変わらず苦戦しております。それでも17日に少しでも書いて提出しなくてはいけないので頑張っているのですよ。

 今日も授業の空き時間を使ってネットせずに懸命に探していたのですよ、資料を。

 で、見つかったのは良いのですが。



英文の百科事典やしー、ページ15ページぎっしり英文やしー


とりあえずないよりはマシやろ、ってことでコピー取ってたんですけどね。

なんか・・・

段々悲しくなってきちゃって・・・これを訳した上で必要なトコだけ探さなあかんねんな、って。

で、苦労しても結局使えるのがなかったりあっても1,2行やったりするんよな、って。



あー・・・かなすぃー・・・

あ。

そういえば今日はナガノヒロシさんのはぴばすでーなのねー・・・

おめーでとぉー   いえーっ。ひゅーひゅーっ。(←空元気)

2001年10月09日(火)

天高く、妹肥ゆる、秋

 今日は午後からオトモダチが所属する劇団の公演を見て参りました。

感想はそのうち「TRASH2」にあげたいと思います。



 ああ、はやく私も芝居したい・・・観るばっかじゃヤだよなぁ・・・

2001年10月07日(日)

事の顛末

 昨日、追試試験の時間割発表があった。

今日、追試だった。

約24時間の間にいろんな出来事があった。

飛び交う深夜のメール。行き交うファックス用紙。交錯する「もう間に合わへん」という悲鳴。

それでも試験はやって来る。

私は昼に食べたダブルチーズバーガーとぶどうシェイクと紫いもパイとポテトによる満腹感が引き起こす眠気と、一気に食べた事による胸のもたつきと闘っていた。

通常授業から追試まで幸いにも4時間のブランクがある。

夜のうちに引っ張り出したプリントの山を全て覚えるには十分な時間である。

しかし。

気が付いたら図書室の奥で眠っていた。

だって静かなんだもの。

友達に引きずられて試験会場である教室に入る。

席配置見てびっくり。なんと監督管の鼻息が聞こえそうなほどの正面の最前席。

目が覚めた。

脳味噌も活性化された。

結果は如何に、それは卒業時に私が日本語教育課程終了証明書を手にするか否かで決まるのである。

2001年10月05日(金)

「やらない」「やってない」も「やってる」のうち

 「卒論やってる?」

「やってないよー」

そんな会話は7月も10月も変わることなく交わされている。

・・・はずだった。

いや、事実、あの瞬間までは交わされていたのだ。

本日後期授業始まってから初めてのゼミ。担当の先生が卒論の進行状況を尋ねたときに全ての化けの皮ははがされる。



なんだよ、ちゃんとやってるぢゃないのさ。

(↑少しも着手していない人)

2001年10月03日(水)

納得

 「学校へ行こうSP」。

 8月頭にうちの母上が関空で坂本・森田氏を。妹の友達が留学先のバンコクで井ノ原・岡田氏を目撃しているんですよね。結局「見た」ってだけで何をしていたのかは分からずじまいだったので、恒例の「どこいくんですか?ゲーム」にしちゃあ規模がでかいなぁ、と思っていたんですが。ほんとにワールドワイドな「どこいくんですか」が繰り広げられていて、「なるほど」と納得してしまいました。

2001年10月02日(火)

132段の悲劇

 朝から大阪はかなりの雨でした。

この日は夕方からの授業なので、ま、雨も止むでしょうとのほほんと午前10時に通販で買ったジャスミンティーをすすりつつ構えておりました。お陰で午後には雨も止み、私が出かけるころには時折陽もさすまでに回復していました。

 ま、そういうわけで本日2杯目のジャスミンティーをすすってから出かけたわけです。

 うちの大学は山にあるせいなのかなんなのか、校門をくぐってからすぐ132段の階段があります。これがまた段の幅が狭くて延々と続くんですよね。駅から大学バスを使う人は上まで連れて行ってくれるので殆ど階段を「登る」ことはないのです。(帰るときに「下る」人は多いですけどね)「登る」のは専ら路線バスか徒歩か自転車か(バイクか自動車 ←一応禁止されていますので)で通学するひとで。でも最近は少し歩けばエレベータなんて文明の利器があるので、大半はそちらを利用するんです。

 ちょっと長々と説明してしまいましたね。

 そんな132段の階段、私は毎日登るようにしています。まあ演劇部公演が近いと部員全員がこの階段で上り下りすることが義務付けられていて、そのまま習慣になってしまっただけなんですけど。この日もその132段を登って授業に向かおうとしたんです。

 でもね。

 午後からの授業・・・全部休講だったんです・・・

 というのもほら、午前中はすごい雨だったって言いましたよね?大雨警報が出ていたんです。うちの大学って大雨警報が出たらその出た時間によって休講になっちゃうらしいんですよね。で、休み。



 なんだったんだろね、なんとなーくだけど気合い入ってガッコ言ったのにさ・・・

2001年10月01日(月)




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