山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2008年12月28日(日) 痕跡

昼の食事の時のことである。

大きなトレイの左側にあたたかいもの、そして右側に冷たいものが分けて並べられてある。最近の病院食は搬送用のコンテナにそれぞれ冷めたり温まったりしないような工夫がされてあるらしく、手元に届くまでそれぞれ温かかったり冷たいままだったりする。

今日の昼は暖かいほうはご飯とトン汁とそしておかずはと見たら、大きなお皿に一枚のサラダ菜が敷かれ、その脇に3センチ四方ぐらいの具入りの玉子焼きが二切れ微妙に重なっていた。

メインのおかずにしてはなんか少ない気がする。その玉子焼きはしかも広げたサラダ菜の隅っこに並んでいた上に薄い。よく見るとそのサラダ菜の中央付近は一度熱を受けたごとくしんなりと変質している。これは何か熱いものが載せられていた証拠に相違ない。例えばハンバーグとか熱いものが一度この葉っぱの上に載っていたのではないか。それが何らかの理由で一旦取り除かれ、もう一度載せられる前に蓋をされてしまい、誰も気がつかないうちに、完成しないままの御膳が運ばれてきたのではないだろか。

きっとそうに違いない。と考えているうちに、全部食べてしまったので、なんの証拠も無くなってしまった。誰に訴えたらよかろうと悩んだ末、日記に書くことで満足を得ることとした。


2008年12月22日(月) クリスマス・コンサート

午後3時ごろ館内放送で、3時半からクリスマスのフルート・コンサートをエントランス・ホールで開催するということが知らされた。ちょうど妻が自宅へ戻っていたので下へ下がることがでできなかった。

ちょうど3時半を過ぎた頃、何かあるんだろうか、と言いながら妻が戻ってきた。エントランスでは見に行った患者たちが寒がって病室へ戻る姿が見られたということだ。

そうなんだ。エントランス・ホールはそもそも入り口なのだから、夏ならいざ知らず今日みたいな日は風が入り寒い。患者にはかなりつらいのではないか。

病室へ一人の看護師がコンサートの案内に来たが、6階のデイ・ルームでもやるのだそうだ。それを聞いてはわざわざ寒いエントランスへ行くことはない。そっちへ行くことにした。

そもそも今日のコンサートを知らせたのが始まる30分前だ。どうしてもっと早くあらかじめ教えてくれないのだろう。数日前に知っていれば付き添いも段取りを組んで対応できるのに。こないだ八戸高専合唱愛好会のコンサートもやはり3時半の開始30分前の館内放送で知った。この時も妻が不在でチャンスを逃した。高専の合唱愛好会なんてどんなやつらがやっているのかはなはだ興味があったのだが残念だった。

で、デイ・ルームでは、片峰さんという八戸ジュニア・オーケストラの育ての親だそうだが、彼のフルートが若い女性の電子ピアノに合わせて演奏された。室内はクリスマスらしく飾り付けをして、とてもよい雰囲気になっていた。ただ曲目は「お正月」、「名月赤城山」、「津軽海峡冬景色」など、およそクリスマスとは無縁のものばかりだったが、患者の年齢層がほとんど高齢者だったので、これでよかったのだろう。


2008年12月16日(火) 気さくな看護師さん

今日でおしまいの見習い実習生と会話していたときに、いつも気軽にやってくる我々と同年輩の看護師さんの話題が出ていたので、

「キミエさんという名字は珍しいよね。」

と話したら、

「キミエさんというんですか。ワカエさんとばかり思っていました。」

と言われた。ところでどっこい、自分はしっかりと確かめたわけではない。いつも彼女のめネームプレートが見づらかったので、ちらっと見ただけで「キミエ」さんと思い込んでいただけだった。夕方やってきた彼女の名札をよく見たら「若江」さんで、読み方も「WAKAE」と確認できた。これまで本人の前で間違った呼び方をしていなかったのは幸いだった。実習生と話さない限り気がつかないところだった。

ところでこの若江さん、年も近いからかとても親近感を持つ。夜眠れないときのことを話題にしたら、私は「ラジオ深夜便」を取り上げたら、かの女はすかさず「オールナイト・ニッポン」だった。若い頃はよく聞いたそうだ。とても気さくでこまめに部屋に来て状況を観察していく。ベテランらしい気配りが見える。実習生たちにはこんなところも見習っていってほしいものだ。

今月1日から2週間以上付き合ったその実習生もとうとう今日で終わりだ。年も二十歳前後でまるで自分の娘のような存在でもあった。血圧を測ったり血中酸素量を測ったりするときはいかにも看護師さんであるが、体を拭いてもらったり足を洗ってもらったりしたときには、なんとなく娘からされているようでちょっと照れくさい気もした。

会話の中で、二つの薬がお互いの副作用を打ち消す、と言う意味で
「相殺(そうさい)」
という言葉を用いたら、妻も実習生も
「そうさつ」
としか知らなかった。そこで私は「そうさつ」は間違いだとして電子辞書を取り出し「そうさい」を引いて見せた。納得してもらったついでに「そうさつ」も引いてみたらこれも見出しにでていた。間違いではない。これも使うらしい。(デジタル大辞泉<小学館>)

そこで広辞苑第四版も引いてみると、「そうさつ」は
「ソウサイの慣用読み」
と出ていた。自分は「そうさつ」は間違いだ習ったような記憶があるのだが、記憶違いだったのか、それとも時代と共に変化したのだろうか。以前にも似たような経験があったので、こんなことを指摘しようとするときは気をつけないといけないと思った。


2008年12月13日(土) 同級生その二

昨日同級生のH間氏から電話があった。こっちは病室内なので相手の調子に少々とまどった。他の同級生の消息をたずねるものだった。

彼には同級生の中でも人一倍世話になっている。昭和63年に八幡の自宅を建築してもらった。当時階上町のH間建設は彼の父親との二人三脚でやっていた。ある同級生の結婚披露宴に出席していたときに、酔った勢いでもないだろうが彼から、

「おい、家を建てるときは俺に声を掛けろ。建ててやる。」
と言われ、
「おう、そのときは頼む。」
と答えた。

売り言葉に買い言葉のようなこのやり取りを覚えていた私は彼に電話して、

「おい、家を経ててけろ。」
と言った私に返ってきた言葉は。
「えっ、本気だど?」
であった。

本当に住宅建築の依頼をしてくるとは思わなかったらしい。というのも会社としては町営住宅などをやっていて、個人の一般住宅を扱っていなかったからだ。

でも社長の父親と相談の上快く請け負ってくれた。二人で材木屋へ下見に行ったり、住宅展示会やら水周りの設備の買い付けなどに行ったりした。給排水や電気設備のほうに気をとられる私に彼はもっと木に金をかけたらどうかと言った。見かたの違いがあって面白いものだと思ったが、今にして考えると、二人の考えは更新できるものとそいうでないものと分かれたような気がした。

建築から20年が経った。最初の基礎工事から全て彼の仕事だ。平成6年12月には三陸はるか沖地震、そして翌年1月にはその余震を直撃したにもかかわらず、基礎にも建物にも痛んだところはない。母屋に併設した車庫兼物置も同様である。

その間、石油給湯器は20年持ちこたえたが最近とうとう更新した。キッチンのサーモ付き蛇口は使用頻度が高いためか何度か交換した。浴室のサーモも一度取り替えた。リビングのFF式石油暖房機は交替した。天井の蛍光灯は数え切れないくらい取り替えた。これは交換がもっと簡単な機種をつければ良かった。

でも建物そのものはなんともない。しっかり建っている。建具にも隙間がない。房間建設素晴らしい!
(ちなみに同時に設置した浄化槽もきちっと定期的に検査を受け機能している。)

学生の頃の彼は、確か当時アイドル路線で売り出し中の石川さゆりのファンだったと記憶している。しかし彼女が出演する映画の中でレイプシーンがあったといっては心を痛めている純情なやつだった。

そのうち幼馴染の同級生の名前が頻繁に出てくるようになった。許嫁のような関係だったのだろうか。結婚したのは卒業後すぐ一番か二番だった。


2008年12月10日(水) 薬の影響

8日月曜日に2回目のベルケイドを打ってデカドロンを飲んだら、さすがに午後あたりから体がだるくなりぐったりしてしまった。

夜は寝汗をかいて12時前に目を覚まし、ナースコールをして着替えをさせてもらった。そしてさらに午前3時ごろやはり冷たくて目を覚まし、またまた着替えをした。午前6時に朝の検温のため放送がかかるが、やはり汗をかいていた。この時にはもうすぐ妻が付き添いにやってくると思い、ナースは呼ばずに妻が来るまで待った。こんなにデカドロンの影響があるとはまいった。

9日火曜日は注射はなくデカドロンの服用だけであったが、やはり夜中の寝汗はかいた。朝までに2回の着替えが必要だった。一日中だるかったので本も読めずテレビも見なかった。こんなときはただ寝ているに限る。

そして今日は薬はお休みなので、午後からちょっと気分が良くなってきた。パソコンに向かって日記を書く気分にもなった。

夕方には二人の娘たちが家族を連れて来てくれた。付き添いの妻は孫たちを売店へ連れて行くのを楽しみにしている。きたときにはいつも真っ先に売店へ行こうと誘う。みんな喜んで着いていくのだ。そして戻ってきたあとは個室がとっても賑やかになる。

今夜はそろそろゆっくり眠れるといいな。


2008年12月06日(土) ベルケイドとデカドロン

今日から本格的治療開始である。(もちろんこれまでの3週間も治療の一部ではあるのだが・・・)

午前の看護師の回診の時に、注射器が数本セットされた。が、医師の先生がなかなかやってこない。看護師に聞くと肝心の薬がまだ用意されていないのだ。昼に近くなってからやっと準備が出来た。

まず点滴をするときのように血管を確保する。3本の注射器を経て、初めて「ベルケイド」という薬が投与された。2本目のほんの少しの量だった。

これと同時に飲み薬として、あのいやな「デカドロン」の服用が始まった。この薬は以前にものんだことがあるが、ちょっとした副作用がある。気分が高揚したり眠れなくなったりする。さらにはじっとりと汗ばんだり、とても気分が悪くなることがある。

今回の服用量は前回の半分だけなので少しはそれらも軽減されるだろう。なるべく気持ちよく過ごしたいものだ。


2008年12月03日(水) 教えてくれてありがとう

同級生の名簿を連ねて、どうしても一人が思い出せないと書いたら、3人から教えてもらった。

旧姓今、現在は佐藤になっている。今日偶然同窓会名簿が送付され、それでも確認できた。弘前市の水道部に勤務されている。落としてしまって大変失礼した。

この日記も2003年6月から始めて5年にもなった。その間退院後はどうしても間隔が空いたりしたが、なんとか続けてきた。そして今回のようなことを書いてみると、まだまだお付き合いして下さっている方々がいることを知りとても心強く思った。これからも継続していきたいものだ。

なお、同じ内容の日記を八戸地域のSNS内でブログに掲載している。登録制になっているので、八戸にゆかりの方や興味のある方はそちらの会員になっていただき、ご覧いただければと思う。

こちらのブログではそれぞれの日記にコメントができるので便利ではある。八戸の情報満載!はちのへの人たちと友だちになれる。

人と人とがつながる はちのへ地域SNS
http://sns.city.hachinohe.aomori.jp/


2008年12月01日(月) 研修生

月が変わった今日から、この病棟に看護学校の研修生がやってきた。

私も数日前看護師長から研修生を付けてもいいか打診されOKをしていた。以前入院したときにも着いたし、岩手医大でもついたことがある。

今日の担当看護師と看護学校の教師に連れられて女の子がやってきてきた。いろいろ説明をしながら口頭ではなく、説明書や同意書にサインし置いていった。後々面倒が起きたときのためにドキュメントにしておくのだろう。

割と背の高い丸顔のかわいい女の子で、初見からあの「よしこ」ちゃんに似ていると思った。

津軽地方の出身だそうだ。看護師になるために八戸にきて一人暮らしをしている。ハキハキしていい子だ。

比較的背が大きいと思い、何かスポーツはと聞いたら、バスケットボールをやっていたそうで、こちら八戸に来てもやりたいという気持ちはあるようだが、八戸地域にはあまり女子のチームはないと思っていたらしい。ナイターチームや市総合のときの各地区のチームがあるということを教えてあげたら、少しやってみたくなったらしい。

彼女の初日の緊張を和らげてあげるべく病気と関係のない話ばかりしていたらつい話し込んで、担当の先生が心配して迎えに来た。

彼女が帰った後、やはり「よしこ」ちゃんに良く似ていると妻と私と二人でそう思った。


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