山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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今日の日曜日に同級生のI舘氏が来てくれた。久しぶりと言いながら近況を話してくれた。ここのところプライベートのほうが忙しく大変だったそうだ。ハウスハズバンド状態だそうだ。
以前聞いてたギターにはだいぶ入れ込んでいるらしい。一度見せてもらいたいものだ。私がネット・オークションで入手したウクレレとは大違いで、その顛末を話して大笑いになった。ただきっと今でも書いているであろう小説はその後どんな様子か話題にしなかったのが悔やまれる。いつかのデーリー東北のコンクールに入選していたのまでは覚えているのだが・・・
秋田・秋田・浅水・有馬・石倉・入澤・岩舘・蛯名・大久保・大森・・・・
22日の日記でジュリーの話を書いて同級生のことを思い出したときに、口をついて出てきたのがこの出席名簿だ。
五十音順に並んで37名、私は後ろから2番目。秋田から始まり最初に「あ行」がいきなり10名も出てくる。多感な16歳から二十歳までの5年間、毎日同じ名前を聞いて過ごしたので自然に覚えた。三十年以上経ったいまでもすらすら出てくる。と思ったのだが、並べてみたら何か一人足りないみたい。どうしても思い出さない。手元に同窓会名簿がないので確認できない。もしご覧の同窓生でお気づきの向きはご指摘願いたい。
では、
秋田・秋田・浅水・有馬・石倉・入澤・岩舘・蛯名・大久保・大森
菊池・櫛引・熊谷・佐々木・佐藤・佐藤・澤田・下沢・鈴木
高橋・高橋・高松・竹ケ原・竹島・田中・千代谷・中島・中村・夏目
新井山・房間・堀越・松舘・山崎・山村・横山
やっぱり足りない・・・
以前在職中、最後にいた職場の同僚の磯島君が病室まで見舞ってくれた。特別に秘密にしていたわけではないがこの日記でも見て再入院を知ったようだ。比較的元気にしているので安心してくれたように思う。
職場を去ってからもう既に5年が過ぎており、誰がどこの部署にいるのか全く判然としない。彼さえ教育委員会に異動していたのを改めて認識した。新たな職場でのびのびやっていそうだ。話す話題も楽しいもの楽しいものがほとんどだ。
確か平成8年に彼が港湾振興対策室に採用になったときに、入れ替わりのように私がそこを出て開発指導課に異動した。その後平成15年に政策推進室がスタートしたときに一緒に異動になった。
ところがその年の6月に私が急きょ入院し、残念ながら戻ることはできなかった。
仕事上の付き合いは結局短かったが、彼は機会をみて顔を見せてくれる。仕事の情報をくれたり、他の同僚たちの動向も教えてくれたりしてうれしかった。
また今日は、同じく政策推進室の同僚だった故山本さんの思い出を語る会の映像を届けてくれた。先ほど妻と一緒に謹んで拝見した。 ご冥福をお祈りします。
2008年11月28日(金) |
検査機器は進化しているのだろう |
今日は朝から二つの検査が入った。
午前9時30分、呼吸器の検査に呼ばれた。
2階の検査室に入ると中年の女性技師が検査機器の前まで車椅子を引き寄せてくれた。モニターを見ながらこれから4種類の検査をすることを説明し機械に真新しいマウスピースを取り付けた。やはりこの頃はこんなプラスチック製品は再利用なんかせずに新品を使うんだろう。口に入るものだから感染予防のためもあるのか、再利用するための消毒なんかのコストを考えるとやはり新しいほうが有利なのかと考えてみた。
「最初は、普通に吐いて吸って吐いて吸って、そしたら大きくずーと吐いて、限界まで吐いたら今度は大きく吸って、ずーと吸って限界まで吸う。そしたら次は大きく吐く、限度まで吐く。」これを4回繰り返す。
最初の検査はこんな調子手で数分で記録が取れた。脇のモニターにサインカーブのような振動の曲線グラフが写し出された。その脇の表にはそれぞれの数値が並んでいる。肺活量とかそんなのが表示されているのだろう。
「次には普通の呼吸を4分間続けてから大きく吐いて大きく吸うを繰り返す・・・」 女性技師の指示により検査は進んだ。全部で10分もかかったろうか。でも一生懸命に吐いたり吸ったりしたものでじっとりと汗ばんだ。
終了してからその女性技師は、 「若いから早く終わりました。これでお年寄りだと30分もかかるんですよ。」 などと言っていた。こんな力の入る検査は初めてだった。
11時30分からはCT検査に呼ばれた。1回にCT検査室がある。今日は胸の部分だけの検査だから短時間で済んだ。ベッドに横になって、あの釜の中に入り、スキャンする。この1回のスキャンの時間がたったの数秒で、それを2回ばかり繰り返した。
これで終わり。なんともあっけない検査であった。以前もCTやMRIに入ったことがあったが、そのときはそれぞれ数十分かかった気がした。
今日は昼食にも間に合った。
どうも最近3日に一度の頻度で眠れない日がやってくる。今日はその日にあたる。
よく考えてみると、痛み止めの薬を新しく貼りかえる日にぴったりと一致する。この薬のせいで眠れないのだろいうか。もう4年も続けて使っているのに、こんな症状が出てきたのは今年になってからなのだ。
昨夜はうつらうつらしていたら、なんとなくお腹が空いてきた。そして突然に「一品香」という店の湯麺(タンメン)の味を思い出してしまった。売市水門下の道路沿いにあった小さな少し汚い店。あの親父と息子のわけのわからないハングルか何かのやりとり。元気の良い母ちゃん。
大鍋に具材が入って油が注がれると大きな音と共に炎が天井まで燃え上がる。初めて来たカウンターの客は驚いて腰を浮かせる。
「熱いから気をつけてね。」
といってカウンター越しにタンメンが出来上がってくる。あの透明でスパイシーなスープの中に、野菜と喉越しの良い細めんが泳いでいる。
スープを一口すすっただけで、これまで経験したことない味わいが胃の仲間で到達する。とにかくこのスープが絶妙なのである。
同窓の先輩の巻さんが道路建設課に配属され、連日の歓迎会でお疲れ気味のところ、お昼に初めてタンメンを味わってもらったら、あの巻さんにして「これは二日酔いの特効薬だ。」と言わしめた。
そんなに美味しかった。その味を、さっき夜中に思い出し、こんな時間に日記を書き出してしまった。
「タンメン 食いたい!」
そして「一品香」を思い出したら、かつて市役所周辺にあった食べ物やさんを思い浮かべてみた。現在のテニスコートがあるところに以前は土木港湾課が管理する失業対策事業のための労務者詰め所にしていたプレハブ小屋があった。道路を挟んでそのちょうど向かい側に「竹松屋」という食堂があり、けっこう繁盛していた。我々は旧庁舎2階からよく出前をたのんだ。安くてボリュームがあるのが特徴で、焼きそばが思い出深い。普通盛でも皿からはみ出してくるが、大盛りを注文するとそばの山が富士山のようにとんがっていた。満足したものだ。
その他にも、岩岡さんが「そば定食」をよく注文していた「はしや」というお店。きれいな奥さんが人気のとんかつの店「とん広」。
蕎麦以外にも他人丼や開花丼などのメニューが楽しめる「やぶ春」や中華が中心の「正華」、蕎麦専門の「おきな」などは健在ようだ。
「ああ、どうしても一品香のタンメンが食べたくなった。」
午前7時過ぎに、朝の検温のため若い看護師が部屋に入ってきたとたん、猛烈にサイレンの音がけたたましく鳴り響いた。
彼女は「なんだろう?」と怪訝そうな表情をしていたが、私は即座に消防のサイレンだと確信した。
「窓の外をのぞいてごらん。音からいって割りと近くじゃないのかな。」 といってその看護師からカーテンを開けて外を確認してもらうと、なんとほとんど目の前の住宅地からもうもうと煙が上がっているではないか。
彼女は驚いたらしく、「わーっ」と一声出し、私を放り出したままスタッフ・ステーションへ駆け込んでいった。
私も急いで確認したかったが、何しろベッドに横になったままの状態であったため、数分後に看護師が戻るまでやきもきして煙だけ眺めていた。なにしろコルセットをつけないと立ち上がることができないのだ。
やっとのことで起き上がりその現場を見ると、煙だけではなくめらめらと赤く大きな炎が上がっているではないか。急いで携帯を取り出し撮影した。
慌てたものだから、ちょっとした落とし穴があった。どうもズームが効かないのだ。落ち着いて確認してやっと2枚目ではズームインできた。普段使い慣れていないとこんなことになる。
現場は国道104号に面したあたりと思われたので、ちょうど付き添いに来てくれる妻に連絡し、国道は交通規制が布かれる可能性があるから、部落内に旧来からあるいわゆる「下道(したみち)」を通ってくるよう知らせた。
午後になって周りの患者や看護師たちからきいたら、やはり国道沿いの住宅だったようだ。急に寒くなったから暖房器具などの取り扱いに細心の注意を払いたい。
昨夜NHKBSでジュリーこと沢田研二の特集をみた。今月に入って二度目のことである。
自分は誰にはばかろう、ジュリーの大ファンである。あの声が素敵だし、あの気障さが恥ずかしくない。
映像では過去の紅白歌合戦などの様子から印象的なシーンを抜粋して放送していた。ベッドの上で一緒に口ずさんでしまった。21時の消灯後なかなか寝付かれなかった。
学生のときによく遊んでいた仲間に浅水という同級生がいた。彼はジュリーの追っかけだった。自分はその頃ジュリーの気障が鼻について嫌いだったが、彼にジュリーのことを詳しく聞かされるうちだんだん心が動いていった。そして卒業してからは宴会のたび「勝手にしやがれ」を歌いまくるようになった。(当時はまだカラオケが普及していなかった。)
「思いっきり気障な人生」 1枚のジュリーのアルバムのタイトルである。これに苦い思い出がある。
あるときちょっと思い入れのあった女の子の自宅に初めてお邪魔したときのことだった。彼女が1枚のアルバムを取り出してみせてくれた。そのタイトルが「思い切り気障な人生」だった。
そのとき何気なく「気障」を「キママ」と読んでしまったのだ。すぐに気がついて次回からは「キザ」と読んだのだが、あのとき彼女は何も言わなかったが、私が間違えたことに気がついたに違いない。汗が飛び出したのはいうまでもない。その後彼女と何の話をしたがよく覚えていない。
帰り際に彼女はそのレコードを私にくれた。嬉しかった。そのおかげでジュリーファンに拍車がかかりそのアルバムの曲は全部歌えるようになった。今でも歌えるぞ!K子ちゃん。その後青森にお嫁に行っちゃったらしい。
昨日は一日中雪がふり、市内はすっかり冬化粧してしまった。
6階の窓から西の方向を見ると遠く名久井岳を見ることができる。白と黒のコントラストが美しい。
今朝は快晴なのでとても良い眺めだ。地元のお百姓さんたちは、岳の見え方で天気を占っていたのを覚えている。
例えば、岳が見えなくなってきたら天気は下り坂とか、雨が降っていても岳が見えていたら天気は回復する、といった具合だ。
意外と生活に密着していたりするんだなあ。
NHKのみんなのうたで、アンジェラ・アキが作詞作曲した「手紙」という歌が放送されている。今年度のNHK学校音楽コンクールの中学校の合唱課題曲になった曲だ。先日この曲を仕上げていく中学校の合唱部の様子を追ったドキュメンタリーが放送されていた。
私は合唱部ではなかったが、校内で行われたクラス対抗の合唱コンクールを思い出した。各クラスとも同学年では一番になろうと必死になって練習した記憶がある。
また娘たちの中学校でも文化祭のときに合唱大会があり、私たち父兄も聴衆となり審査員になったつもりで子どもたちの合唱に聞き入ったものだ。
ところでこの「みんなのうた」との出会いはもちろん子供の頃である。この番組は1961年に「おお牧場はみどり」から始まっている。今までにとてもたくさんの歌が紹介されまた作られたりしてきた。
そんな中で私の記憶に最初に登場する曲は1967年中山千夏が歌った「もえあがれ雪たち」という曲だ。 「もえあがれ雪たち あおい炎のいろに」 というサビのフレーズが印象的で忘れられない。映像はアニメーションだった気がする。
そしてもう一曲は「モルゲンローテ」。朝焼けという意味だが、その朝焼けの映像が素晴らしかったように記憶している。(でもよく考えると白黒テレビだったはずなのに。)
娘たちが生まれてからはその娘たちに見せたくて毎月欠かさず全曲録画した。二月ごとに曲が入れ替わるので、一回分は30分テープにちょうど収まった。子どもが小さいうち4・5年続いたからテープは数十本になった。
それを今度は孫に見せている。20年以上経過していても充分見ていて面白い。母親と一緒に歓んでいる。孫は新鮮な気持ちで、母親は懐かしい気持ちでそれぞれ鑑賞しているようだ。とっておいてよかった。
先日1985年分をDVDにまとめてあげた。一苦労だった。
先週の火曜日「骨髄穿刺(こつずいせんし)」のため八戸赤十字病院の血液内科へ午前9時に向かった。」骨髄穿刺とは胸の骨に針を刺して骨髄液を採取する作業だ。4年前の入院中にも何度か経験している。中でも岩手医大の若い医者がやったのはへたくそだった。
・上半身裸になる。 ・胸骨中心付近を消毒する。 ・直径10センチメートルほどの円形の穴の開いた紙をかぶせる。 ・注射器で胸骨に麻酔を打つ。初めは表面から。3度目ぐらいが深くなり最も痛い。その後痛みはなくなる。 ・「はい、麻酔が効きました。」といって、何かの器具を設置する。(たぶん骨の中心部まで針を刺してる。) ・「それでは引きます。」注射器で骨髄液を吸い上げる。 この時胸全体を引き上げられるような激痛が襲う。 ・「ハイ、終わりました。」
骨髄液を吸い上げられるときの激痛はほんの短い間だが、その痛みを知っているだけに身構えてしまう。終わってから30分は安静が必要だ。
すべて終わってから診察を受けた。この日の採血の結果IgGの値が増加しており入院加療が必要になった。来週13日から約2ヶ月間の予定である。これまではサリドマイドが効いていたのだが、4年以上服用しているため効きがにぶくなったか。 入院前半は抗癌剤の投与で、後半は新薬ベルケイドを試してみるとのことだ。
さっそく妻が入院の手続きをしてきたが、八戸赤十字病院では最近病院内にLANを敷設したそうでネットに接続できるらしい。是非利用したい。(以前はPHS通信を利用した。)
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