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2012年05月25日(金)
「モテるって特別になるより、変なことが少なくなることじゃないですか」

『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』(みうらじゅん・リリー・フランキー共著/扶桑社)より。

(みうらさんとリリーさんの対談本から。「結婚・離婚・浮気とは?」という項の一部です)

【リリー:前に夕方のニュースで婚活している女性の特集をやってて、婚活パーティに頻繁に通っている女の人2人に焦点を当ててたんです。
 一人は「この女の人、自分のこと綺麗だと思ってるんだろうな」っていう感じの、そうでもない人で。その人が、女性のほうが参加費の高い「男性は医者限定」っていうパーティに行くんだけど、やっぱりモテてない。それでもその人は、「理想っていうのは、ある程度高いところから始めないと、どうせ目減りするんだから」って言うわけですよ。年収に関しても「高い男から当たっていかないとダメなんだ」みたいなことばかり言って、要は自分をどれだけ高く売るかばかり考えてる。この人がモテない理由はちょっと救いようがないじゃないですか。
 で、もう一人の女の人は、ちんちくりんのメガネの女の人なんですけど、この人がモテない理由っていうのは、とにかく理屈っぽくなってるからなんです。本当は暗い人なんだろうけど、そういうところに行ったらしゃべらなきゃと思って、相手がしゃべる暇ないぐらいしゃべってるんですよ。相手が何か言ったら「あ、今ツッコまなきゃ」みたいに。『アタック25』でやり慣れていない人のガッツポーズを見た感じ。で、その人は家ではいつもメガネをかけてるのに、パーティではかけてないんです。歯の矯正にも行ってるし、ちゃんと女磨きをしてるんでけど、その前にメガネを外すとすごい視力が悪いみたいで、相手の前でその男の人のアンケートを顔にくっつけるようにして読んでるんですよ。棟方志功みたいに。その様子を見た男は「なんだこの人!?」ってちょっと引いてる。ほかにも、綺麗な恰好をしてきてるんですけど、お化粧するときもメガネを外してるから、眉毛が福笑いみたいになってて(笑)。ああいうの見ると、なんでもっとラクに考えられないのかなって不思議になりますよね。歯の矯正もして、お洒落もし、一生懸命自分を磨いてるんだけど……。「まずコンタクト買えば?」って(笑)。でも、こっちの人のほうがまだ、未来を感じました。

みうら:オレも目が悪いからわかるけど、あれ、本人は意外と気づかないってね(笑)。

リリー:コンタクト買えば、アンケートも近付けなくても読めるし、眉毛ももうちょっとマシに描けるはずなのに。簡単なことがぼっこり欠落してて。ひとり「あんた、コンタクトにすれば?」っていう友達がいれば、その人モテるようになりますよ。そういう意味でも、モテるって特別になるより、変なことが少なくなることじゃないですか。平凡になるってことですよ。平凡な人間が一番モテる。

みうら:変わってる人がモテるなんて、ないからね。変わってるけどお金があるからモテるとか、ほんの一例だもんね。

リリー:変わっている人のことが好きな人は、性癖として好きなわけで。だって、女の人に対する男の趣味とか好みって平凡じゃないですか。】

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 この二人は、「変わってる人なのにモテている」じゃないか!
 なんて心の中で毒づきながら読んだのですが、「なるほどなあ」と納得せざるをえない話ではあります。

 前者の「要は自分をどれだけ高く売るかばかり考えてる」女性がモテないっていうのはよくわかります。なんか、「妥協してあなたと結婚してあげたんだから」とか言われそうだものね。
 でも、こういう「妥協することを前提として、目標を高く設定するのが『向上心』だと考えている人」って、少なくないですよね。
 これは、恋愛や結婚に限ったことじゃなくて。
 「絶対に医者や弁護士としか結婚しない!」というのなら、それはそれで潔いとは思うのですが。

 後者の女性の話、僕も目が悪いので、なんだか他人事には思えませんでした。たしかに「本人は気づかない」のですよね、自分にとっては、それが当たり前になってしまっているから。
 このひと、ものすごくがんばっているんだけれど、メディアで伝えられているような「お金がかかる、よりハイレベルな自分磨き」にばかり夢中になってしまって、足もとが見えなくなってしまっているのでしょう。
 
 でも、そういうのって、周囲からは一目瞭然なんだけど、本人はよくわからなかったりするものなんですよね。だって、「私はすごくがんばっている」のだから。
「あんた、コンタクトにすれば?」って言ってくれる友達っていうのは、すごく大切なんだけど、そういう友達って、いそうでいないものではあります。
 
 「モテるって特別になるより、変なことが少なくなることじゃないですか」というリリーさんの言葉、僕が20歳のときに読んだら、「そんなことねーよ!」って感じたはずです。
 でも、いま読むと、たしかにそうだよなあ、と。
 芸能人や大金持ちの実業家、プロスポーツ選手などの「特別な世界の人」を除けば、「個性的すぎる人」よりも「どこがいいのかよくわからないけど、困った性癖や問題行動が少ない、安定した人」のほうが、モテるし、結婚相手として選ばれているような気がします。

 しかし、いろんな人を見ていると、人間にとって「平凡になる」というのは、簡単なようで、けっこう難しいことなのだとも感じます。
 マスメディアで伝えられる「平均的な日本人」が身の回りにほとんどいないのと同じように、どんな人にも「変わったところ」ってあるんですよね。もちろんそれは「程度と迷惑度の問題」なのですが。



2012年05月15日(火)
「おまえの言い分はわかった。ただし、名前は書け」

『わたしが子どもだったころ』(NHK「わたしが子どもだったころ」制作グループ編・ポプラ社)より。

(劇画家のさいとう・たかをさんの項から)

【そのころ出会った大人で忘れられないのは、東郷という名の教師です。ある日、東郷先生は、学校でも札付きのワルだったわたしに声をかけてきました。

「斎藤だったかな」
「なんや、新米の教師か。いじめられへんようにおれにあいさつにでも来たんか」
「そんなわけないだろう。ちょっといいかな。東京から来た東郷だ。よろしくな」
「よろしくなやあるかい。なにをすかしとるんじゃ」
「斎藤、なんでおまえは答案用紙を書かないんだ」
「知れとるわ。こんなもん丸暗記したらすぐ解けるクイズやないか。おまえら大人が勝手に決めたルールやろが。だから書かへんのじゃ」
「おまえの言い分はわかった。ただし、名前は書け。白紙で出すという責任をおまえがとらなくちゃいけない。それは大人も子どもも同じだぞ。おまえみたいな生き方をしていると、常に後ろを気にしていなくちゃいけないぞ。ルールは従うものじゃない。守るものだ」

 あっ、人間社会というのはそんなものかと。六法全書を見ても「人を殺してはいけない」とは書いてありません。「人を殺したらこんな目に遭わせますよ」と書いているのであって、つまり善とか悪は約束事なんですね。その約束事からはみ出すなら、自分のなかに基準を持たなきゃいけないということがわかったんです。
 デューク東郷の場合も、善と悪の基準は自分のなかにあり、他者の善悪の観念とは関係がない。彼は人の命を奪ったあと、足下にいる蟻を踏まないようにまたいだりします。つまり、人間の命も蟻の命も同じなんですよ。そういう人間は現実の社会では生きられません。はみ出し者でも生きられたらいいなという感覚で、わたしは『ゴルゴ13』を描いたんでしょうね。】

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 さいとう・たかを先生は、中学時代、かなりの悪童だったそうです。
【仲間とつるんで進駐軍のジープにヤジを飛ばし、カメラ屋を襲撃し、花札をして遊ぶ。けんかに明け暮れて、学校は平気でさぼり、テストは白紙で出す。とにかく悪かった。】
 そんなさいとう先生の「忘れられない大人」のエピソード。

 これを読んで、すごく勉強になりました。
 ああ、「ルール」って、こういうふうに子どもに教えるべきなのかもしれないな、って。
「なぜ、テストを白紙で出してはいけないのか?」
 その問いに関しては、「テストの成績が悪いと、将来困るから」なんて答えざるをえないのかな、と思っていたのですけど、それよりもこの「白紙でも出すのは構わないから、自分の名前は書け」というほうが、なんだかこう、ずっしりくるんですよね。
 「自分の行動には、責任を持たなくてはならない」
 でも、それができる人というのは、けっこう少ないんじゃないかと思うのです。
 僕だって、ネットにものを書くときに、匿名と実名とで、同じことを書けるかどうか、自信がありません。
 たかが名前を書くかどうか、それだけのことのようで、これは、けっこう重いことなのではないかと。
 
 まあ、この言葉の重さを中学時代に理解したさいとう先生も、「自分で責任を持って生きようとしていた人」だったのでしょうね。
 同じ話を聞いても、「じゃあ、名前書いておけばいいんだろ」って、開き直るだけの人も、少なからずいるはず。

 それにしても、言われてみると、たしかに刑法には「人を殺したら、こういう罪になって、量刑はこのくらい」と書いてあるだけなんですよね。
 「殺すな」とは書いてない。
 法律があっても、人が人を殺すことは「可能」ではあるのです。
 それでも、『北斗の拳』みたいな世界にならないのは、「倫理」や「道徳心」があったり、「人を殺すことによって、罪に問われることは割にあわない」ので、それを実行に移す人は、ごく少数です。
 戦争になれば、「敵なら殺すのも正義」になったりするわけですけど。

 「おまえみたいな生き方をしていると、常に後ろを気にしていなくちゃいけないぞ」と言われたさいとう先生が、「俺の後ろに立つな」という決めゼリフの主人公を描き続けている、それもまた、何かの運命だったのかもしれません。



2012年05月08日(火)
「仮にあなたが1980年からゲームを作っていたら、『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』を作れたと思う?」

『桜井正博のゲームを作って思うこと』(桜井正博著・エンターブレイン)より。

(『ファミ通』2010年4月1日号に掲載された桜井さんのコラム「初めの一歩と競争と」の一部です)

【激しい競争原理の中、勝てるわけがないと思う。そう考えるのは、賢いというべきなのかどうか?
 現役の開発者になったとしても、蔑みのような愚痴をあちこちで聞きます。人気作だから売れて当たり前だとか、そうじゃないから自分たちが作るものは売れないとか。売れることがわかっているから、宣伝を多く打ってもらえるとか。
 そういう人たちにこそ言いたい。「仮にあなたが1980年からゲームを作っていたら、『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』を作れたと思う?」と。
 YESとは言えないでしょう。人気シリーズは、最初のオリジナルが独創性を放ち、そのときの”競争”に勝ち抜き、かつファンに支持されたからこそ生き続けていることを忘れてはならないと思います。逆に言えば、どんな人気シリーズであっても、誰かが何もない状態から最初のオリジナルを作ったということ。
 ゲーム作りはどう転んでも競争です。各開発者は選手であって、みずからのワザと互いのチームワークで高みに上っていくわけです。選手だから、隣りの人より優れようとするふだんの努力を忘れてはならない。一方で、隣りの人との協力を大事にしなければならない。勝ち馬に乗ろうとすれば、誰もにも勝つことができません。乗ったものを、勝ち馬にするんです!
 わたしはふだん、競争で物事を計るのは反対なのですが、新社会人や新入生のために書いてみました。いい季節ですしね。】

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 桜井正博さんは、『星のカービィ』シリーズや『大乱闘スマッシュブラザーズ』などの作品を持つ、日本を代表するゲームデザイナーのひとりです。最新作はニンテンドー3DSの『パルテナの鏡』。
 ちなみに、このコラムには、『テトリス』の写真に「これを売ろうとしたのも、当時は相当な冒険だったと思うのですよ」というコメントが添えられています。
 たしかに、いまとなっては、『テトリス』は売れたのが当然というふうに記憶が改変されてしまっているのですが、『テトリス』がはじめて日本で発売されたときには、「こんなシンプルなゲーム、わざわざ家庭用ゲーム機やパソコンでやる必要あるの?お金出して買う人がいるのだろうか?」なんて僕も思いました。
 ところが、『テトリス』はシンプルであるがゆえに多くの人に支持され、大ヒットゲームとなったのです。
 ここで桜井さんが例に挙げておられる『スーパーマリオ』だって、最初に発売されたときにはこんなに面白いゲームで、歴史に残るなんてプレイヤーたちは予想していなかったし(最初に遊んだ時には、背景だと思っていた土管に入れたことに驚きましたが)、『ドラゴンクエスト』も、海外の歴史的RPG『ウルティマ』の劣化コピーのような印象を持っていたものです。

 「歴史的な大ヒットゲーム」の多くも、第一作から順風満帆なわけではありませんでした。
 「シリーズ作品の続編じゃないと売れない」のは市場の事実なのかもしれないけれども、たしかに、どんなシリーズ作品にだって、「最初の作品」があります。
 そして「最初のオリジナルに独創性があった」からこそ、シリーズ化されることのなったのです。
 大部分のゲームデザイナーは、1980年からゲームをつくっていたとしても、『ドラゴンクエスト』をつくることはできなかったはずです。
 逆に、堀井雄二さんがもっと若かったら、この2012年からゲームをつくったとしても、「オリジナリティあふれるゲーム」をつくってみせたのではないかと思います。

 勝ち馬に乗ろうとすれば、競争が激しく、ようやく乗れたと思ったときには、レースが終わっているかもしれません。
 たしかに、大事なのは「乗ったものを、勝ち馬にする」ことなのでしょう。
 どんなに厳しい状況でも。「戦わなければ、勝てるわけがない」のだし。