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2011年09月28日(水)
「おしりだって、洗ってほしい。」

『世界一のトイレ ウォシュレット開発物語』(林良祐著・朝日新書)より。

【発売当初、ウォシュレットは体験者の口コミで少しずつ広まっていった。
 飲食店やデパート、ホテルや公共施設にウォシュレットを納入して、利用者の拡大を図った。どこで体験できるかを記した、ウォシュレットの設置があるトイレの案内地図が作られた。
 そのウォシュレットの認知度が、1982年、一気に上がった。
 そう、タレントの戸川純さんを起用した、あの「おしりだって、洗ってほしい。」のテレビCMの登場である。
 1981年12月、開発チームはソニーのウォークマンや、サントリーのウイスキーなど、数々の名作コピーを手がけていたコピーライター、仲畑貴志氏のもとを訪れ、コピーを依頼した。説明を聞いた仲畑氏は「商品価値がピンときません」と厳しい。そこで立ち上がったのが、トイレで一番長い時間実験をしてきた技術者だった。彼は青い絵の具を自分の手のひらに塗り付けて、「紙で拭いてください」と仲畑氏に告げる。仲畑氏は紙で絵の具を拭いたが、きれいには落ちなかった。
「おしりだって同じです。水で洗えばきれいになります。これは常識への挑戦なんです」
 技術者の言葉に動かされた仲畑氏は承諾した。このときのエピソードが、そのまま青い絵の具を使ったCMのビジュアルにつながった。

 それまで、新聞や雑誌にトイレの広告を載せるのはタブーとされていた。「トイレ=ご不浄」というイメージで、「掲載すると、品位が落ちる」とまで言われた。テレビで、「おしり」の3文字を発するなど、考えられないことだった。
 そんな常識を、打ち破る。しかも、初めて放送されたのが、一家団らんの時間であるゴールデンタイムの夜7時。あえてこの時間を狙ったのだ。
 仲畑氏は、「これは、ソニーのウォークマンやニコンのカメラなどの商品に負けない技術です。堂々と勝負しましょう」と関係者を鼓舞したという。
 初回オンエアの日。キュートで不思議な雰囲気の戸川さんがおしりを向けるポーズをとりながら「おしりだって、洗ってほしい。」と訴えるCMがお茶の間に流れた。
 衝撃的だった。さっそく宣伝を担当する部署には「食事時に便所の宣伝とは何ごとだ!」と抗議の電話が殺到した。
 担当者は「みなさんは、今、食事をされています。それと同じくらい排泄も尊い行為です。ウォシュレットは暮らしを快適にする商品です。自信と誇りを持って作っています」と説明をした。1か月後には、CMに関するクレームはほとんどなくなったっという。
 CMは評判となり「おしりの気持ちも、わかってほしい。」「人の、おしりを洗いたい。」など次々と作られていった。】

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 「ウォシュレット」が完成したのは、1980年6月。
 「ウォシュレット」という名前は、「『これからは洗う時代です。洗いましょう』と呼びかける『レッツ・ウォッシュ』を逆さにしたもの」なのだそうです。
 言われてみれば、けっこうシンプルなネーミングだったんですね。

 この「ウォシュレット」のCM、いちばん最初に放送されたときではないのかもしれませんが、僕も小学生の頃、観て驚いた記憶があります。
 当時は、いまみたいに「家族ひとりにテレビ1台」という時代ではありませんでしたから、テレビの前に集まっていた家族の前で「おしり」という言葉が放送されたときは、けっこう微妙な空気になったものです。
 戸川純さんが、いきなりこっちにおしりを向けてきて、「おしりだって、洗ってほしい」ですからねえ。
 「おしり……いま、テレビで、『おしり』って言ったよね……」
 これと同じくらいのインパクトがあったのは、のちにテレビで鈴木保奈美さんが「カンチ、セックスしよ!」と言ったシーンくらいです。
(あのときも、えっ、いま、鈴木さん、「セックス」って言いましたよねっ!)と狼狽してしまいました)

 いまとなっては、「ウォッシュレット」のCMが食事どきに流れても、多少の違和感はあっても、抗議の電話をかける人はまずいないでしょう。
 「ウォシュレット」は、便器の革命であるのと同時に、「排泄」という行為について、おおっぴらに語ることができるようになったきっかけになった、とも言えます。
 「日本初の偉大な発明」として、高い評価を受けてもいますしね。

 あれから30年、本当に「便器」そのものも変わったし、「よりよい排泄への意識」も変わりました。
 僕を30年前に唖然とさせた「おしりだって、洗ってほしい。」は、その大きなきっかけだったのです。
 この30年間で、「おしり」だけは、ほとんど変わってはいないのかもしれないけれども。



2011年09月22日(木)
「死にたいという気持ちをもっと詳しく言ってください」

『言葉の誕生を科学する』(小川洋子・岡ノ谷一夫共著/河出書房新社)より。

(「言葉の誕生」というテーマについての、作家の小川洋子さんと動物学者の岡ノ谷一夫さんの対談をまとめた本より)

【小川洋子:先日、テレビで統合失調症の人のリハビリについてやっていたのですが、言葉の問題の面からたいへん意味深いものを感じました。患者さんが、いつも「死にたい」と言って苦しんでいるので、専門家が、「死にたいという気持ちをもっと詳しく言ってください」とアドバイスする。するとその人はすごく悩んで一生懸命考えて、「うーん、じゃあさびしい」とか、「人とつながりたい」とか、少しずつ語数を増やしていくんです。それがリハビリになっていくんですね。ある程度回復した段階で過去の自分を振り返ると、「死にたい」と言っていたときの自分は他人に対して「魔球」を投げていた、と言うようになるんです。もっと緩やかな直球を投げればいいのに、わざわざ「死にたい」という大リーグボール何号みたいな言葉にして投げていた。それに気づくことで回復していくんです。短いセンテンス、短い言葉一つに安易に凝縮させるというのは、非常に危険な側面を持っていると思いました。同じことがメールにも当てはまると思うのですが、言葉の種類の貧弱さが、ニュアンスまでをも貧弱にしている。

岡ノ谷:「うざい」とか「かわいい」とかね。「死にたい」っていうの、何かもやもやした感情を、単に表す術がないものだから、もっとも近い表現として「死にたい」を選んじゃうってことですよね。

小川:手っ取り早く言っちゃうわけですね。

岡ノ谷:それをよく分析してみると、本当は「死にたい」ということではなく表現できないいくつもの成分を含んでいて、その一個一個を見ていくと実は解決可能なことだったんだと。

小川:実は「死にたくない」んだということになるんです(笑)。

岡ノ谷:「むしろ死にたくない」そういうことですね。だからそういう場合に、言語が言語として用いられなくなってしまうんだと思うんですよ。

(中略)

小川:前、『声に出して読みたい日本語』という本を出した齋藤孝さんとお話したのですが、子どもたちが気に食わない目ざわりな子を「うざい」とか「むかつく」と言っちゃうんですよね。ひとことで他者をくくってしまう、限定してしまう。

岡ノ谷:「ラベル付け」ですよ。

小川:言葉が態度や情を制限してしまうんだと思うんです。たぶん「うざい」「むかつく」という言葉だってもっとゆっくりいろいろ解きほぐしてみると、相手に対して違う見方ができるかもしれない。それはやはり言語能力の問題なんだというふうにおっしゃっていましたね。

岡ノ谷:そう、言葉を解きほぐす技術がないといけないですからね。

小川:「うざい」とか「むかつく」って、そう考えると非常に便利な言葉ですね(笑)。

岡ノ谷:便利ですよね。非常に簡単な線引きをしてしまう言葉ですよね。自分の仲間とそれ以外をはっきり分けちゃいますからね。「あいつうざい」というたったひとことで内と外を即座に決めちゃう。

小川:じゃあそういう学級の中で先生が何をやっていくかというと、相手を「さん」付けで呼ぶことから始めるんです。うざかろうが何だろうがとにかく相手をちゃんと「さん」付けで呼ぶことから始めて、少しずつ言葉を丁寧にしていくことで、そのとんがった気持ちを抑えられるらしいのです。

岡ノ谷:ある種の認知行動療法ってやつですね。形式から直していくんですね。まあそういうレベルからやらなければいけないのかな。それだけでは本当に仲良くはなれないと思うんですけど、ただいじめられている子が死んじゃったりするようなことは避けられると思いますよね。】

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 この「統合失調症の患者さんのリハビリの話」と「子供たちのあいだでの『うざい』問題」、いずれも「言葉の力」について、すごく考えさせられる話でした。
 もちろん、「言葉」だけですべてが解決させるわけではなく、前者では薬物療法にプラスして、「言葉を解きほぐす」ことを行っていくのでしょうけど。
 「死にたい」、そして、「うざい」「むかつく」というのは、非常に強い言葉で、その威力に周囲の人たちは圧倒されてしまいます。
 でも、この対談を読んでいると、こういう言葉って、本人たちも、正確にその意味や力を認識しないまま、「便利だから」使っているという面もありそうです。
 「死にたい」という言葉を聴いた周囲の人たちは、とにかく、「死なせないためには、どうすればいいのか?」と考えこみ、振り回されてしまいがちです。
 実際は、「漠然とした寂しさ」が「死にたい」という言葉になって表出されているだけなのかもしれないのに。
 そして、その「死にたい」の「本当の意味」は、解決可能なものかもしれないのに。

 「うざい」なんていうのもそうですよね。
 そんなふうに「自分は生理的にあなたが不快である」と言われた相手は、どうすればいいのかさっぱりわからない。
 しかしながら、「うざい」という感覚は、なんとなく、いまの子供たちには共有されているのです。
 「うざい」存在は、「排除」すべきものだと認識されています。
 そういう漠然としたイメージが、あるひとりの人間に貼られた「ラベル」になってしまうと、「うざいことに、はっきりとした理由が無い」だけに、被害者はどうして良いのかわからない。
 周りの子供たちも、その「うざい、というラベル」が自分に貼られるのはイヤだから、その「イジメ」に加担してしまう。

 「子供の言葉遣いに、そんなに神経質にならなくても……」と、僕はずっと思っていました。
 でも、このお二人の話を読んでいると、「言葉の乱れが、心の乱れ」なんていう、学生時代に嫌いだった生活指導の先生のお説教を思い出さずにはいられなかったのです。
 やっぱり「言葉にする」って、大事なんだよなあ。
 そして、「言葉を変える」ことは、「行動を変える」ことに繋がっていくのです。



2011年09月13日(火)
20年前と今の『はじめてのおつかい』の変化

『いつだって大変な時代』(堀井憲一郎著・講談社現代文庫)より。

【「はじめてのおつかい」という番組がある。
 年二回ほど放送されている。日本テレビの番組だ。小さい子供が一人でおつかいに行くさまを放映している。1991年から始まっているのですでに20年続いている番組だ。ときに過去の「おつかい」が放映されることがある。90年代の前半の映像には、いまと違う特徴がある。それは「カメラマンが映り込んでいない」ということである。3歳くらいの子供が1キロほどの行程を一人で歩くのだ。それなりに危ない。だからかなりの数のカメラマンが地元民に変装し、また監視役のスタッフも変装して見守っているのだけれど、いまの放映では必ずスタッフが映り込んでいる。カメラマンが先回りしようとして不自然に通り過ぎるところや、慌てて隠れるカメラマンなどが何回も映し出される。最初のころはそういうものは映り込んでいなかった。
 日本テレビのディレクターと一緒に「はじめてのおつかい」映像を見てるときに「昔のはきれいだなあ」とぼそっと言ったのが印象的だった。なに、と聞くと、昔はほんとうに子供が一人でおつかいに行ってる心情に沿って映像が作られていて、そりゃそう作るのが当然のことなんだけれど、スタッフが慌てふためいているところや、ぞろぞろ動いているところなどは一切映ってないんだよ、と説明してくれた。
 どうも視聴者からクレームがついたらしい。
 つまり、かつてのような「ほんとうに子供が一人きりでおつかいに行ってる映像」では、大変危ないではないか、という抗議がいくつか来たらしいのだ。テレビ局はクレームがくるとけっこう対処してしまう。そこで、子どもは本当は一人ではない、複数の大人によって守られているのだ、ということを「わかりやすく」映像に映し出すことにしたのだ。
 映像を作るディレクターの心情としては、昔の、大人が映っていない映像のほうが美しかった、とおもうわけである。テレビ局の人間としては「そんなの大人が守ってるに決まってるだろう」ということなのだけれど、たしかにまあ、それは一生懸命にテレビを見てる田舎のおばあちゃんにはわからないだろう。
 ただ放映されているかぎりは事故はないに決まっているし、それぐらいのことを想像する力はあるはずである。それを想像しないというのは、必死で想像しないようにしているだけだ。スタッフが映り込んでいる姿まで映さないと、放映できない、という状況に、いろんなわれわれの心情が反映されていると思う。
 この場合のクレームは、子供を心配してのことではない。クレームの方向は「子供のことを心配してしまう私の心労をどうにかしろ」ということである。子供の危険を心配している体を装ってるぶん、かなり暴力的なクレームである。要は、テレビを見ていて余計な心配をさせるな、もっと安心して見られるものを提供しろ、という要求でしかないわけだから。
 ポイントは「安心できるものを提供する義務があるだろう」とおもう、その心根にある。この考えは間違っていない、と信じているところにクレーマーの問題はあるし、それはクレーマーだけの問題ではなく、多くの人にも同じ心根が潜んでいるという問題でもある。でないとテレビ局もそうそう対処するわけではない。あまりに特殊なクレームの場合は対処しないが、こういう「このクレーマーのうしろには似たような感情を持った人がそこそこいるだろう」と想像できるものに対しては、番組内容を変えていくものである。
 安心できるものが常に提供されているべきだ、という不思議なおもいこみがわれわれには根付いている。それを声高に主張するのはいいことだ、とどこかでおもいこんでいる。
 これは考えてみると、ちょっと不思議である。】

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 僕はこれを読んでいて、嘉門達夫さんの『ゆけ!ゆけ!川口浩!!』という歌を思い出してしまいました。

 ♪川口浩が〜 洞窟にはーいる〜 カメラマンと 照明さんのお〜 あとにはいーる〜

 まあ、そういうのって、テレビの世界では「お約束」ではあるんですよね。
 とはいえ、それをみんなが理解しているわけではないし、ああいうのは、「半信半疑」くらいがいちばん「面白い」のでしょう。
 僕も子どもの頃は、「川口浩探検隊は、あんなに『世紀の大発見』ばかりしているのに、なんで新聞に載らないのだろう?」って疑問に思っていましたし。

 この『はじめてのおつかい』の話、僕自身はこの番組をあまり観ないので、「そんな変化が起こっているのか……」と思いながら読みました。
 『はじめてのおつかい』という企画そのものが、「大人の都合」というか、「テレビで放送されているかぎりは、何らかの演出や大人の保護下で行われているバラエティ」だと思うので、あまり興味がわかないんですよ。
 いまは自分の息子と比べてみる、ということができるので、以前よりは面白く観ることができそうな気もしますけど。

 ここで堀井さんが書かれているように、「テレビで放映されている以上、出てくる子どもが途中で車に轢かれたり、転んで大けがをしたり、道に迷って行方不明になるなんて結末はありえない」はずです。
 もしそんなことが起こって、そのまま放映したら、それこそ「えらいこと」になってしまう。

 こういう話を読んでいると、テレビ局をはじめとするメディアの側も、いろいろと気を遣って大変なのだな、と思わずにはいられません。
 「子供のことを心配してしまう私の心労をどうにかしろ」と言われても、「それなら観なきゃいいのに」と言いたいのをグッとおさえて、わざと「スタッフを映し込む」。
 クレームに対して、「言い訳」ができるように。
 大部分の視聴者からみれば、「安心する」というよりは、「邪魔なものが映っている」ようにしか見えなくても。

 最近(には限らないのでしょうが)のメディアに対するクレームには、こういう「私を心配させるな」というのを「子どもにもしものことがあったらどうするんだ」「被害者が見たら不快に思うかもしれないだろう」という「他人への心配」にすり替えて、「一般化」したものが多いようです。
 太宰治的にいえば、「(それは世間が、ゆるさない) (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)」

 こうして、「安全であることを、目に見える形で証明しなければならない」「誰にも『不快感』を与えてはならない」というプレッシャーをかけられる一方で、「最近のテレビは同じような番組ばかり」「安易な企画が並んでいる」と批判されるのですから、テレビ局も大変でしょうね。
 



2011年09月06日(火)
グーグルやフェイスブックのトップページが「素っ気ない」理由

『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?』(安西洋之、中林鉄太郎共著:日経BP社)より。

【フィンランド発のチャットコミュニティ「Habbo Hotel(ハボホテル)」は、架空のホテルを舞台にチャットやゲームができる人気サイトだ。これがフィンランド国外に進出した時、ブラジルオフィスからクレームがついた。なぜか?
 ウェブサイトにあるホテルは、もともと人気の少ない海岸沿いにポツンと建物があった。フィンランドでは静かなホテルが好まれる。ところが、これがブラジルでは「人気がなく、寂しい、犯罪でも起きそうで怖い」となってしまった。
「人影もない場所なんて、恐ろしくて行けるか!」という価値観は、のんびりとしたバカンスを好むフィンランド人からすると驚きだった。そこで、ブラジル向けには、海岸に寝そべる人がいて、ホテルの周囲には並木を配し、庭の噴水からは威勢よく水が飛び出し、建物の壁面も装飾的にした。
 国によって、色が持つイメージも違う。白色はヨーロッパでは中立をイメージするが、日本では死を連想させることがある。このように視覚的な表示はグローバリゼーションを想定するとき、かなりやっかいな懸案事項になる。「Habbo Hotel」で生じたように、それぞれの地域に合わせた仕様を用意しておかないといけないためだ。
 この煩雑さを回避する策はないのだろうか。「デザインはできるだけ簡素にし、言語表現のみを目指す。イラストなどの視覚表現を減らす傾向が最近のグローバルサイトでは見られる。そうしたニュートラルなデザインで国際化し、各地域でイラストを付加してローカライズする。代表的なのは米グーグルや米フェイスブックのトップページだ」と永島氏は解説する。そう言われてみると、グーグルのサイトって、素っ気ない。】

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「言語の翻訳からはじまって、コンテンツやソフトウェアのローカリゼーション(世界各地域の合ったかたちに適応させること)を主な業務とする「ローカリゼーション産業」というのがあるのだそうです。
 ここに登場する永島氏は、その大手翻訳事務所のひとつ、ライオンブリッジテクノロジーズに勤務されています。

 僕はこれを読んで、「国民性」っていうのは難しいものなのだな、と思うのと同時に、『Habbo Hotel』のような、ネット上のバーチャルな場所にまで、人は「自分の常識」をあてはめてしまうものなのだなあ、と感じました。
 デザインとかイメージって確かに大事なのでしょうけど、どんな場所に建っているという設定になっていても、内容は同じなのにねえ。
 このような「イメージ」だけではなくて、国や民族によって、禁忌や不快感を与えるものは異なるはずです。
 ネットの世界では、「世界中どこからでもアクセスできる」だけに、グローバルに展開しようとしているサイトの場合には、トップページをつくるのにも、すごく気を遣わざるをえないのでしょう。
 いまは、「どうせ日本語サイトは日本人しか見ないだろう」と思っていても、「日本語ができる外国人」あるいは「外国語ができる日本人」が、それを翻訳して世界中に広めてしまう可能性があります。
 もし、グーグルのスワヒリ語のトップページに日本人を差別するようなイラストが描かれていたら、グーグルへの日本人の信頼は大きく揺らぐはず。

 僕は「ヤフーやグーグル、フェイスブックのトップページって、あんなに巨大なサイトなのに素っ気ないなあ」と、常々思っていました。
 「ネット環境が悪くて、通信速度が遅い国でも使えるように」シンプルにされているのだろうと想像していたのですが、理由は、それだけではなさそうです。
 「規模が大きくなればなるほど、おとなしくしていなければならない」というのは、ちょっと寂しい気もしますが、これはもう、しょうがないんだろうなあ。