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2009年01月31日(土)
「これ、日本語ついてますか?」

『ビロウな話で恐縮です日記』(三浦しをん著・太田出版)より。

(「字幕か吹き替えか」という項から)

【友人Kと近所で飲む。
 Kは最近、DVDの販売をしている。その店での経験によれば、大学生ぐらいの若者はほとんど全員、洋画のDVDを買うとき、
「これ、日本語ついてますか?」
 と聞くのだそうだ。Kは最初、どういう意味なのかわからなかったのだが、つまり、若者は字幕ではなく吹き替えで映画を見るらしい。理由は「読むのが面倒だから」。
 へえ、と思った。私は基本的に、日本語以外の映画は日本語の字幕で見る。『ロード・オブ・ザ・リング』は、映画館において字幕でも吹き替えでも見たけれど。しかも複数回ずつ。そのときに、「吹き替えっていうのも楽しいものだな」と思いはしたが、やはり映画館に行って、字幕と吹き替えと両方ある場合だと、これまでの習慣から字幕のほうを選んでしまう。だいたい、吹き替えがつくのって大作系が多いじゃないか。そうじゃない作品を見るときはどうするのだ。見ないのか。そうか……。
 習慣はゆるやかに変化していく。弁士が消えていってしまったように、字幕もいつかなくなってしまうのかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読んで、「そういえば、近所の某TSUTAYAで借りたDVDにも『日本語吹き替えは付いてません』ってシールが貼られていたのを思い出しました。そのときは、「そんなのわざわざ断らなくてもいいんじゃない?吹き替えがなければ字幕で見るだろうし」と感じたのですが、「吹き替えが無ければ観ない」という人が、けっこういるということなのでしょうね。

 僕も三浦さんと同じように「基本的に日本語以外の映画は日本語の字幕で見る」ようにしています。やっぱり、「なるべく元の『音』をそのまま聞きたい」ので。「字幕派」としては、「読むのが面倒」なら、「観るのはもっと面倒」だろ!とか言いたくもなるのです。
 でも、英語をそのまま聞き取れるのならともかく、字幕を追うことにばかり気をとられて、映像を隅々まで観ることができていないのかもしれない、とも思うんですよね。
 どちらかというと、字幕で観るのは「なんとなくそのほうが正しい映画の観かただ」とか、「字幕で観たほうがカッコいいんじゃないか」というような思い込みの部分が強いのかもしれません。
 字幕と吹き替えと両方観てみれば良いのでしょうが、同じ映画を二度観るというのも、なんだかちょっと時間が勿体ないような気がするし。

 そういえば、先日観た『WALL・E/ウォーリー』というアニメ映画は、僕の地元の映画館では「吹き替え版」しか上映されていなかったので、「ポリシーに反して吹き替え版を観ることになるとは!字幕版を上映しているところを探したほうがいいかな……」と少し悩んでしまいました。
 いや、観てみたら、もともとセリフが少ない作品でもあり、絵をじっくり観るためには、吹き替え版のほうがいいのかな、とも思ったんですけど。

 慣れてみれば吹き替えのほうがよっぽどラクでしょうし、海外では「字幕で映画を観る習慣そのものが無い」という話も耳にします。
 「字幕大国」「映画通は字幕で観るものだ」というイメージがある日本では、すぐに字幕が無くなってしまうことはないのでしょうが、いずれは「日本語字幕は付いていません」というシールがDVDに貼られる日が来るかもしれませんね。



2009年01月27日(火)
内田樹先生が「子育てで得た最大のもの」


『YouTubeにまつわるスゴイ数字』へはこちらからどうぞ。


『悪党の金言』(足立倫行著・集英社新書)より。

(内田樹さん(神戸女学院大学教授・フランス文学研究者・エッセイスト)に足立倫行さん(ノンフィクション作家)がインタビューしたものの一部です。内田さんの一人娘・るんさんに関する話題から)

【足立倫行:るんちゃんと暮らしている頃、料理や洗濯は全部内田さんが?

内田樹:そりゃそうです。小さいから。

足立:いや、中学生、高校生になれば。

内田:「お父さん代わろうか」と言ってくれる日がいつか来るだろうと思って待っていたけれど、ついに来なかった(笑)。でも僕は、娘と二人で暮らして、初めて自分が「人間なんだ」と思い知らされました。

足立:と言うと?

内田:それまで僕は、自分を軽佻浮薄な現代人の典型と思っていたんです。薄情で、計算高くて、利己的で。けれど日々娘の面倒を見ていると、少しずつ献身的になってきて、自分の私利私欲なんてどうでもよくなってきた。自分のことよりも子どものこと。子どものためなら、いつでも死ねると思っている。そんな自分にびっくりしました。「俺はノーマル」というか、太古の、人間が初めて集団を作った時以来の普通の人間的な感覚が自分の中に脈々と生きていることを実感して。これは自分にとって大きな自信になりましたね。病弱な子どもとしてスタートした時から僕は、自分のことをでき損ないというか、戦後日本が作り出した畸形的な精神の一つだと思ってきた。だから、そういうフェイクな人間として時代の先端を浮遊するんだろう、と。でも、子育てを通じて、「いやけっこう地に足のついたまっとうな人間かもしれない、俺は」と思い直したんです。子育てで得たものの中で、それが最大のものですね。だから、「子育て嫌い!」と言う世間の人が信じられない。子どものおかげで今日の僕があるんですから。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この内田先生の話、父親生活3ヶ月目の僕にとっては、なんだかものすごく心に染みるものでした。
 僕も「自分が子どもの親になること」に不安がありましたし、「自分の子どもだからといって、身代わりに死んでもいいと思えるくらいの愛情を抱けるだろうか?」と疑問だったのですが、息子と一緒にお風呂に入って、正面から顔を見つめていると、「まあ、僕が生きられるのはだいたいあと30年、お前はあと70年。今、どっちかが死ななきゃならないとしたら、お前が生き残るべきだろうな」というようなことを考えるようになりました。しょうがないから、そのときはお前に譲ってやるよ、と。
「自分の子ども」だと意識しているからなのだろうけど、やっぱり「他人とは思えない」のだよなあ。

 僕もいままで自分のことを「薄情で、計算高くて、利己的な現代人」だと感じていて、「人間らしい自己犠牲の精神に欠けている」という劣等感を拭い去ることができなかったのです。
 でも、自分で子どもを持ってみると、本当に「自分が何の変哲も無い普通の(ある意味「まっとうな」)人間のひとり」であることを実感せずにはいられませんでした。
 ただ、「俺はノーマル」って認めるのは、それはそれで、「自信」になるのと同時に、ちょっとせつない気分でもあります。

 僕の場合は、夜泣きされるとイライラしてしまうし、本を読んだりDVDを観たりするのが制限されたり中断されたりするのは辛いし、「子育て嫌い!」という世間の人の気持ちもよくわかるので、まだまだ、内田先生の境地にはほど遠いところにいるのですけどね。



2009年01月25日(日)
YouTubeにまつわるスゴイ数字

『BRUTUS (ブルータス)』2008年 12/15号(マガジンハウス)の特集記事「I ♡YouTube」より。

(コラム「YouTubeにまつわるスゴイ数字、教えます」から)

【世界のネット人口は約10億人。その中でYouTubeを利用しているユーザーは2億8000万人、うちアメリカが7700万人、日本は1980万人。日本でのページビューは数は1か月で約15億。ユーザー数こそアメリカに負けるものの、月間1人あたりの利用時間はアメリカの51分を大きく上回り、日本は平均1時間14分13秒。日本は世界一のYouTube大国なのだ。ニールセンオンラインによると1回のアクセスにおける滞在時間は13分59秒と、Yahoo!の9分52秒と比べても約4分も長い。創業から14ヶ月でユーザー数1000万人到達という記録を持つYouTubeだが、収益や従業員数は現在非公開。唯一分かっているのは、トップの動画広告の価格。1日掲載して果たしておいくら? 360万円也。意外と安い? 創業から1年でGoogleに約2000億円で売却したITベンチャーのお手本企業。今後どのようなビジネス展開をしていくのか。ちなみに日本のGoogleはyYouTube買収以降、順調な成長を続け、現在利用者ランキング2位まで昇りつめた。】

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 ちなみに、【世界で1分間にアップロードされる動画は約13時間分。今あるすべての動画を見るには、約2000年かかる。】のだそうです。
 こうしている間にも、どんどん動画は投稿され、YouTubeの世界は広がっていっているのです。
 僕自身は見るだけで自分で動画を投稿したことは無いですし、「投稿経験アリ」という人は周囲にいないのですが(本人が黙っているだけ、という可能性もありますけど)、多くの人が、直接お金になるわけでも宣伝になるわけでもないのに、動画を投稿しつづけています。
 いわゆる「著作権違反の動画」についてかなり厳しい対応がなされるようになった際には、「これでYouTubeも(日本では)ダメになるのでは」という声もありましたが、実際は、(グレーゾーンの動画がたくさん残っているにせよ)YouTubeの「ひとり勝ち」状態が続いているようです。
 これらのデータを見てみると、日本人にもYouTubeを含む「動画サイト」好きが多いのだということがよくわかります。使用人口と平均利用時間をアメリカに比べると、コアなユーザーが長時間使っている、という状況なのかもしれません。僕はかなりいろんなものを観ているのですが、ちょっと高齢の人や日頃検索とメールしか使わない女性には、「YouTubeって何?」なんて聞かれることもありますしね。Amazonの便利さの話をしていて、「Amazonって何ですか?ジャングルの?」と怪訝な顔をされたこともったなあ。

 YouTubeの試験的サービスが開始されたのが2005年5月21日だそうですから、ここまで昇りつめるのに、わずか3年半しかかかっていません。
 一昔前の『Flash文化』を知る人間としては、「実写映像が(短時間でも)流せるYoutube」というのは、夢のようでもあり、なんでもそのまま流せてしまうので、かえって制作者の工夫や想像力が見えなくなって面白くない」と感じるところもあるのですけどね。



2009年01月22日(木)
テレビの世界での「放送禁止用語」の真実

『アナウンサーの話し方教室』(テレビ朝日アナウンス部・角川oneテーマ21)より。

(「真の意味の『放送禁止用語』とは?」という項から)

【テレビの世界には「放送禁止用語」というものがあると思っている人がいるかもしれませんが、実際にはそうした規定はありません。ただ、差別表現やワイセツな表現などは、放送上好ましくない言葉として留意しています。
 たとえば、ニュースなどで「辺鄙(へんぴ)なところで事件が起きました」と話したとしたなら、これは間違いなく配慮を欠いた表現です。「辺鄙」という単語は一般的な日本語ですが、人が住んでいる地域をそうした言葉で表現していいのかという問題になってきます。
 また、かなり以前のことでしたが、赤ちゃんが生まれたとき、あるアナウンサーが「はかない命の誕生です」と言ってしまって、周囲の者が青ざめたことがありました。本人にしてみれば、小さな命の尊さを表現したかったのでしょうが、「はかない」というのは、”あわくて消えやすい”という意味です。これでは、生まれたばかりの子供が間もなく亡くなることを予言しているようにも聞こえてしまいます。
 つまり、一般に言われる放送禁止用語に当たるかどうかということではなく、言葉の選択方法に問題があるわけです。
 たとえば私たちが「百姓」と言えば、お叱りを受けることもありますが、テレビに出演いただいた農家の方が、自分たちのことを「百姓」と言ってもそれは、その人たち自身にとって自然な言葉遣いであると同時に、自分の立場を謙虚に表現していることにもつながり、問題ないでしょう。しかし、そうではない第三者が同じ言葉を使った場合は、その立場にある人たちの気持ちを逆撫でしてしまいかねません。結局、誰かが傷ついたり、誰かが嫌な思いをするかどうか」ということにもっとも注意しなければなりません。
 そういうことを考えてみても、話している対象(相手や話題)に誠実な気持ちを持っていたなら、こうした問題は減らしていけるはずです。
 もちろん、誤解を生みやすい表現を使うのは避けるべきです。

 また、差別表現として取り上げられることが多い言葉に「片手落ち」がありますが、そうした障害を持つ人に対して使わなければ差別表現ではありません。「片手落ち」というのは”片方に対する配慮が欠けていること、えこひいき”を意味します。この言葉の語源は、人間ではなく「天秤」で、もともと差別的な発想はありません。従って、何かの事件に対する判断が公平であったかどうかを問うようなときに「片手落ち」と表現することに問題はありません。
 それでも、その言葉を聞いて気分を害する人がいるかもしれませんし、「アナウンサーのくせに差別用語を使っている」と思う人がいるかもしれません。そうしたことまで考えたならば、「公平な措置とはいえないですね」と言ったほうが無難です。

 放送にふさわしくない言葉かどうかというよりも、結局、そうした言葉を使った人の立場と気持ちが問われます。これは日常会話においても同様で、同じ言葉を口にするにしても、それがどういう気持ちで発せられたかによって、失言になるときもならないときもあるわけです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 こんなふうに「テレビ朝日アナウンス部」の名前が冠されている新書に書かれていても、「本当は『放送禁止用語マニュアル」みたいなものがあるんじゃないかな……」と僕は想像せずにはいられません。

 まあ、そういうものが「マニュアル」として存在するかどうかはさておき、ここに書かれている「放送禁止用語の基準」というのは、考えようによっては、「●●●●はダメ!」って指定されているよりも、よっぽど基準が曖昧で厳しいようにも感じます。
 「辺鄙なところ」も「はかない命」も、要するに「それで傷つく人がいるかもしれないから」という理由で、特定の場所や人に対して使用すると「放送禁止用語」に入ってしまうようなのですが、それをつきつめていくと、公共の放送で何かを言うというのは、ものすごく窮屈なものになっていくでしょう。
 「背が高いですね」とか「頭いいんですね」なんていう表現だって、傷つく人が日本のどこかにいるかもしれないし。

 「片手落ち」の語源が、「天秤」だったとは僕は知りませんでしたし、それならば、「片手がない人に対する『差別表現』として言葉狩りの標的になるのはおかしいのではないか、とは思います。
 でも、「語源はそうかもしれないが、みんなそこまで言葉についての知識はないだろうし、そもそも、その言葉で傷つく人がいるかもしれないじゃないか!」と批判された場合、「元来、そういう意味の言葉じゃないんです」と弁解しても、受け入れられるのはなかなか難しいでしょうね。
 結局、公共の場での「表現」というのは、どんどん無難なほうへ向かっていかざるをえなくなるのです。
 それは、日本語という文化にとっては、すごく悲しいことのような気がします。
 「差別表現」や「ワイセツ表現」の境界というのは、そう簡単に線引きできるようなものではないですよね。そして、「卑猥な単語」「下品な言葉」だけが人を傷つけるとは限らない。

 「羊水腐ってる」発言で大ブーイングを浴びたアーティストがいましたが、世間にはあの発言を批判しながらも、柔らかい言葉で内容的にはもっと失礼なことを言っている人もたくさんいたわけで、あのバッシングも、「片手落ち」だったのかもしれません。



2009年01月20日(火)
あなたにとって「お肉」とは牛肉? 豚肉?

『天ぷらにソースをかけますか?―ニッポン食文化の境界線―』(野瀬泰申著・新潮文庫)より。

(日本国内でのさまざまな食べ物の「地域性」をネットでのアンケートで調べた『NIKKEI NET』の連載記事をまとめた本の一部です。

あなたにとって「お肉」とは牛肉? 豚肉? それとも……。

という設問について。)

【今回は「お肉」について考える。設問にある通り、あなたにとってお肉といえばどんな肉を指すかということであり、地域分布とその理由を考察するのが今回の目的である。

(中略)

 西の牛、東の豚ということが漠然と言われる。それに関する声から聞いていこう。
 まず「兵庫県出身女性昭和生まれ」さんは「肉といえば牛肉。塊でドンとあるのが理想です。牛肉→国産→但馬牛→塊肉→ヘレ1本」と簡潔かつ明快に答えてきた。
「大阪では肉といえば牛がデフォルトです、豚はブタ、鶏はかしわかトリ。肉ジャガなら牛肉でしょう。肉うどんなら牛肉でしょう。焼肉と聞いて焼いた鶏肉を思い浮かべませんね、まず」と「大阪生まれ新宿区在住の小島」さんも言い切る。

(中略)

「愛媛生まれ神奈川在住」さんの文章には笑ってしまった。「大阪出身の友達がダイエットするとき『肉絶ち』を宣言しました。しかし言った当日に豚肉を食しているので聞いたら、彼女の常識は肉=牛。豚肉は豚、鶏肉は鶏で、扱い的には魚と同じだそうな。そんな彼女は肉ジャガにも牛肉を使っていました。彼女が豚肉を使うのはギョウザのときのみでした。彼女は『肉星人』を名乗っていました」。

(中略)

「私の実家(福島)で肉といったら豚肉で……父親の干支が酉で『共食いは避ける』といった変な主義もあり、鶏もあまり食卓には上りませんでした。ちなみに実家で焼き肉といったらラム肉(!)&豚肉でした」(ドナ・ドナの娘さん)

(中略)

 ここまでですでに西の牛、東の豚が十分に明らかだが、この違いが微妙な認識のゆらぎを生む。ときに「文明の衝突」に発展することも。

「生まれも育ちも長野県ながら『付き合った相手が兵庫』の時代が数年あった私が感じたことは、地元で肉はやはり豚だったこと。それと関西では肉は牛肉であることです。前に『肉が食べたい』と言われ私が豚肉料理を作ったら『こんなもん肉ちゃうわ』と散々怒られました。そんなに怒らなくてもいいのにと思いましたが、非常に重要なことだったようです」(CATBOXさん)という事態さえ招く。「福井県在住二十七歳兼業主婦」さんも似たような体験を報告してきた。
「主人はすき焼きはもちろん、カレーや焼きそば、豚キムチまで牛肉を使います。新潟出身の私はお肉といえば豚肉だと思っているので福井出身の彼とは夕食を巡りしばしば意見が対立することもありました。最近は私は妥協しつつありますが、やっぱり牛キムチより豚キムチのほうがおいしいと思います」
「広島県在住。昭和30年代は小学校低学年」さんからは「学生時代を大阪で過ごしましたが、アルバイト先の料理屋でお昼のまかないに豚肉が出たとき『やった! 今日は肉や』と言った瞬間、『違うで、これは豚や』と言われて、一瞬何のことやらわからず絶句しました」という体験談をいただいた。
 お読みいただいいているように関西人の肉=牛へのこだわりは、東日本勢の声を掻き消す勢いがある。そのパワーは「牛カツ」にも及ぶ。
「関西人です。関東の肉屋さんの総菜コーナーには牛カツ(ぎゅうかつ。厚さ5ミリ程度の牛肉のフライ、ビフカツとは別)が存在しないと聞きましたが本当でしょうか・東京の人間にビフカツと言って笑われたことがあります。ビーフカツと言うらしい。またテキ(ビフテキのこと)が通じなかったこともあります」(わたなべさん)。

(中略)

 お肉問題のVOTE速報値が届いた。数字をざっと眺めただけで「うわー」となった。西の牛、東の豚という従来言われていた傾向がはっきり出ているのである。予想以上の鮮明さに驚いている。
「お肉といえば牛」という回答が多かった上位十地域を順に並べる(数字は%)。奈良・徳島・高知(100)、京都・兵庫(89)、滋賀(88)、山口(87)、和歌山(85)、愛媛・大阪(82)。
「お肉といえば豚」の上位十地域は群馬(86)、福島(82)、新潟(70)、宮城(68)、茨城(67)、青森(61)、岩手(60)、栃木・山形・沖縄(56)
「お肉といえば鶏」が20%を超えたのが鳥取・宮崎(33)、島根・沖縄・山梨(22)、岐阜・佐賀(20)、だった。北海道で「羊」が15%となったのはジンギスカンとの関連でよくわかる。】

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 この本には、日本地図を実際に色分けしたものが載せられているのですが、これが見事に新潟・長野・静岡以東は「豚」がトップ、富山・岐阜・愛知以西は「牛」がトップになっているのです(なぜか、東日本でも東京・埼玉・神奈川だけは牛がトップなのですが)。

 西の牛・東の豚、という言葉は僕も耳にしたことことがあります。
 でも、ここまで明確に日本の東西で色分けされているとは、思ってもみませんでした。

 僕は物心がついてから広島県に小学校まで在住、それ以降は九州にずっと住んでいます。
 「肉」といえばこれ!みたいなこだわりはとくになく、「牛肉」「豚肉」「鶏肉」みんなそれぞれ「肉」。「焼き肉は牛、トンカツは豚、から揚げは鶏だろ」というくらいのものです。「今日はお肉よ〜」と言われて、出てくる肉が牛・豚・鶏のどれでも、「こんなの肉じゃない!」ということにはなりませんでした。
 そういえば、子供のころは、「牛肉は御馳走」というイメージがあって、吉野家の牛丼も、「牛肉がこんな値段で食べられるなんて!」と驚いた記憶があります。

 ここで紹介されているさまざまなアンケートの答えを読んでいると、僕がいままで「当たり前」だと思っていた「肉」というものへの概念は、けっして「日本全国にあてはまるもの」ではないということがよくわかりました。
 なかでも驚いたのは関西(とくに大阪)の人たちの「肉=牛」というこだわりのすごさ(もちろん、大阪の人はみんなこんな感じ、というわけではないのでしょうが)。
「豚肉は豚、鶏肉は鶏で、扱い的には魚と同じ」とか「『肉が食べたい』と言われ私が豚肉料理を作ったら『こんなもん肉ちゃうわ』と散々怒られました」とか「アルバイト先の料理屋でお昼のまかないに豚肉が出たとき『やった! 今日は肉や』と言った瞬間、『違うで、これは豚や』と言われた」とかいうようなエピソードを読むと、「大阪っていうのは同じ日本なのか?」と思わずにはいられませんでした。それにしても、関西人はそんなに豚肉が嫌いなんでしょうか。

 松坂牛、但馬牛のような「ブランド牛」は西日本に多いようですし、「おいしい牛肉が食べられるから」なのかもしれませんが、この「『肉』に関するギャップ」のことだけを考えても、生活習慣が違う地域の人たちと一緒に生活するというのは、けっこうストレスになりそうです。夫婦であれば、いつもお互い別々のものを食べるわけにもいかないはず。「牛肉の豚キムチ」なんて、僕はけっこう辛いなあ……

 「そうやってお互いの良いところを摂り入れてきた」面もあるのでしょうけど、日本というのは、僕が考えているよりも広い国なのだなあ、ということをあらためて思い知らされるエピソードの数々でした。
 



2009年01月15日(木)
気まぐれな「経営の神様」

『ジョブズ VS. 松下幸之助』 (竹内一正著・アスキー新書)より。

【幸之助と妻むめの、さらにその弟・井植歳男の3人で第一歩を踏み出した松下電器にはその後、井植の弟の薫も参加し、一緒に働き始める。
 ランプ・アイロンと新製品を出し、事業規模が拡大してくると、それまでの工場は手狭となり、増築をする必要が出てきた。当時、工場といえば木造が一般的だったが、鉄筋で建てる工法が新たに導入され始めていた。しかし、鉄筋の工場建設はコストがとても高い。その一方で、強度的には木造よりも優れているので、柱を少なくすることができた。柱が少ないということは、倉庫スペースをより広く使えるわけで、それだけ多くの製品在庫を置くことができるのだ。
 そこで薫は、次は鉄筋で工場を新築するべきだと幸之助に進言する。人の話をよく聞く幸之助だが、この時は建設コストが高いことを嫌がって、「鉄筋は、ダメだ!」と一蹴してしまう。
「今日は(幸之助の)機嫌が悪かったからダメと言ったのだろう」と考え、別の機会を待った。しばらくたって、機嫌が良さそうだと見定めた薫は、幸之助に近づき、「工場を、鉄筋で建てたいのですが」と言ってみた。しかし今回も、「ダメだ!」と2度目の拒絶にあう。
 それでも井植薫はくじけなかった。3度目の正直を狙って、機嫌の良さそうな幸之助に「工場を鉄筋で」と言ったところ、顔色を変えた幸之助が「何度言うたらわかるんや!」と怒鳴りつけた。ついに薫はあきらめて、幸之助の指示通り木造で工場を建設することにした。
 さて、幸之助ができあがった木造の新工場を見にきたときのことだ。
「なんやこれ、柱ばっかりで、倉庫の役にたたんやないか」と幸之助は文句を言い出した。揚げ句に、「何で鉄筋にせんかったんや」と薫を責め始めたのだ。
 薫は憤慨し、「3度も提案しました」と抗弁したが、幸之助は「それを説得するんが、君らの仕事やないか」と言い放った。こうなれば、もはや返す言葉はない。同じような体験をしたことのある読者も多いだろう。上司に反論できないのは、どこでも同じなのだ。

 ところでこのエピソードには続きがある。
 井植薫に理不尽なダメ出しをした幸之助だったが、その後、新築工事の外に出て少し歩くと、急にニッコリ笑ってまわりに「いや、みんなご苦労さんやったな」と労をねぎらってみせた。それだけで終わらず、「これからは鉄筋にしような」と言ったのだった。
 無茶を言った後で、「あれは無茶だった」とわかっても、部下に謝るのは簡単ではない。怒鳴った後に、「あれは言い過ぎだった」と感じても、口に出すことはなかなかできない。
 当時は、「オヤジ(幸之助のこと)に叱られたら一人前」と松下電器の社内では言われていた。幸之助は叱る時は、論理的ではなく、感情的になって怒鳴っている。ところが、次の日には手のひらを返したような口調で、「元気か?」と声をかけるのだった。
 これができる経営者はそうはいない。人間は感情の動物である。一度怒ってしまうと、いつまでもそのムードを引きずってその人間に対応してしまう。怒鳴られたほうも、いつまでもそのムードのままである。
 ”演技”とは、意識して行うものだ。だから、怒る、怒鳴るは演技でするものではなく、感情から出てくるものだ。だが、その後のフォローは感情に流されっぱなしではダメで、意識しないとできない。人のやる気を起こすには、”演技”が必要なのだ。】

参考リンク:スティーブ・ジョブズの「3分間で100億円を生むプレゼン」と「ホワイトボードへの異常な執着」(『活字中毒R。』3008年8月18日)

〜〜〜〜〜〜〜

 松下幸之助さんといえば、「経営の神様」と呼ばれるほどの名経営者なのですが、そんな「神様」にもこんなエピソードがあったんですね。
 いや、この本を読んでいると、松下幸之助さんは、必ずしも「完璧な人格者」ではなくて、よく言えば「人間的」、悪くいえば「理不尽」な周囲への要求もあったようです。
 参考リンクでは、現在の「世界を代表する経営者」のひとりであるアップルのスティーブ・ジョブズの「乱行」の数々を紹介しているのですが、この二人の歴史的な経営者のさまざまなエピソードを読んでいくと、経営者というのは、必ずしも「完璧な人格者」である必要はないのだなあ、ということを感じます。

 僕がこの松下幸之助さんの「木造と鉄筋の話」を読んで最初に思ったのは、「なんて気まぐれな人なんだ、こんな人の下で働いたらたまらないだろうな……」ということでした。3度も部下の進言を断っておきながら、完成した途端に「それでも俺を説得するのが、お前の仕事だ!」なんて。
 僕だったら、もし自分の実力に自信があれば、その瞬間に辞表を提出してしまうかもしれません。たぶん、井植薫さんも「たまんねえなあ……」と思ったのではないかと思います。この話をずっと覚えておられるくらいですから。

 ただ、このエピソードには、やはり、学ぶべき点もあるんですよね。
 ひとつは、松下幸之助さんの「率直さ」。あれだけ自分が「木造にしろ」って言っていれば、いくら一目見ただけで「鉄筋にすればよかった……」と後悔しても、それを表に出すのはためらわれるのではないでしょうか。
 それを即座に「鉄筋のほうがよかった」と認めてしまえるのは、けっこうすごいことなのかもしれません。
 そして、もうひとつは、「切り替えの早さ」。
 人間関係の難しさというのは、一度それが壊れてしまうと、なかなか修復ができないところにあるのです。
 ちょっとしたことで誰かと言い争いをしたり、気まずくなってしまうと、お互いに敬遠しあって、さらに関係をこじらせてしまうというのはよくあることです。
 その人が自分にとって大事な人であっても、一度喧嘩をすると、なんとなく声をかけずらくなってしまいますよね。
 喧嘩した翌朝に、「昨日は悪かった」と一声かけることができさえすれば、「いや、こっちも言いすぎた」なんて水に流せることでも、「向こうが先に謝るべきだ」「昨日あんなに言い争っていたのに、一晩経ったくらいで急に態度を変えるのは気恥ずかしい」というような理由で、なかなかわだかまりは解消できず、謝るタイミングを逸してしまいがち。そうこうしているうちに、「あいつは自分を嫌って、避けているのではないか」という不信感が増してくるのです。避けているのは自分のほうであっても。

 「気まぐれ」「気分屋」のようにしか思えないこのエピソードなのですが、少なくとも、松下幸之助さんの「人間関係における切り替えの早さ」はたいしたものです。
 これだけアッサリ切り替えられたら、「なんなんだこの人は……」と拍子抜けしつつも、許してしまうしかなさそう。「わだかまり」の芽は、早めに摘むに限るのです。
 まあ、頭ではわかっていてもなかなか実行できないのが、僕のような凡人の宿命ではあります。
 ある意味「気分屋で、分からない人」ではあるのですが、こういう人は、たしかに周囲からすれば「謹厳実直な人格者」よりも面白く感じられることも多いんですよね。
 もちろん、松下幸之助さんの場合には、「従業員思いの経営者」という「基盤」があるからこそ許されるのでしょうけど。

 こういう経営者像というのが、2009年の日本でも受け入れられるのかどうかはなんとも言えませんが、こういう「人間関係における切り替えの早さ」っていうのは、いつの時代でも有効なのではないかなあ。



2009年01月12日(月)
「たとえば面接官や会社の上司は、あなたの字のどこを見ると思いますか?」

『ダ・ヴィンチ』2009年1月号(メディアファクトリー)の記事「走れ!トロイカ学習帳」(文・北尾トロ)より。

【「たとえば面接官や会社の上司は、あなたの字のどこを見るか。うまいヘタもあるでしょう。読みやすさも大切です。でも、もっとも注目するのはていねいさです」
 こう言い切るのはリクルートエージェントのキャリアアドバイザー・細井智彦さん。履歴書であれば、漢字の止めやハネの部分までしっかり神経が行き届いているか、時間をかけた字なのかどうかこそがポイントらしい。スキマだらけの字や走り書きは、いい加減に思われ減点対象になってしまうそうだ。
「もちろん、美しい字は気持ちがいいし評価も高い。しかし、それがすべてではありません。字にはおのずと個性があるわけで、それぞれ違っていていいと思うんです。ぼくは書体見本のような字がいいとは思わない。逆に、それほどうまいと思わなくても、わかりやすくて伸びやかな、魅力的な字もあります。肝心なことは、気持ちを込めることなんです」(細井さん)
 どうしても採用されたい。そう思う人が乱雑な字を書くだろうか。否である。心からのお詫びの気持ちがあったら殴り書きするだろうか。否である、何のために書くのかを意識するだけでも、直筆文は数段ていねいになり、そこに込めた気持ちが相手に伝わるものだと細井さんは言う。これはなぐさめではなく、ビジネス現場の実感だそうだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ここで話をされている細井智彦さんは、キャリアアドバイザーとして、過去5万人以上が受講している「面接力向上セミナー」の講師をつとめておられるのだそうです。

 僕も自分の字の汚さに自分で呆れてしまうことが多くて、いまのパソコン時代に生まれてきて本当によかったなあ、といつも思っているのですが、それでも、世の中には「手書が要求される状況」というのがあるのです。
 披露宴の受付で名前を書くときにはいつも緊張してしまいますし、仕事でいえば診断書はまだほとんど手書きです。仕事の書類っていうのは、「どうして23時にこんなに何通も書かなきゃいけないんだ……」というような状況で書いていることが多いので、やっぱり乱雑になりがちだよなあ、とこれを読みながら反省しています。
 「どうせ僕の字は汚いんだから、雑に書いても変わりないだろ」などと自分に言い訳するのですが、たしかに「気をつけて丁寧に書く」ようにすれば、「美しい字」は無理でも、「全然読めない字」にはならないでしょうし。
【どうしても採用されたい。そう思う人が乱雑な字を書くだろうか。否である。心からのお詫びの気持ちがあったら殴り書きするだろうか。否である】
 そう言われてみると、本当にその通りなんですよね。
 たかが履歴書一枚でも、「それを書く理由」が切実なものであれば、少なくとも「殴り書き」にはならないはず。企業の採用担当者というのは、字の美しさそのものではなく、その字に込められた「熱意」みたいなものを見ている、ということなのでしょう。

 しかし、「止め」や「ハネ」って、実際のところ、それなりに習字をやったことがなければ、「どう意識していいのか、よくわからない」ような気もします。
 ですから、「丁寧に書けば習字なんて無意味」っていうわけじゃなくて、習字というのは、「手早く仕上げても丁寧に書かれているように見せる技術」だという考えかたもできるのかもしれません。
 まあ、だからといって就職活動直前に習字教室に行っても間に合わないでしょうから、せめて、「大事な書類は、『字が汚いから』と投げやりにならずに、とにかく丁寧に書く」ことは意識しておいたほうがよさそうです。



2009年01月10日(土)
”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”を「翻訳」することの難しさ

『翻訳のココロ』 (鴻巣友季子著・ポプラ文庫)より。

(翻訳家・鴻巣友季子さんが名作『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ著)を訳したときのエピソードです)

【じつは、『嵐が丘』を訳し始めてすぐ気になっていた「ワイン問題」がある。
「ジョウゼフ。ロックウッドさんの馬をつないだら、wineを持ってこい」
 と、家主のヒースクリフが老下男に言いつける場面が冒頭近くにあるのだが、ここをどう訳すか、ということ。折々に考えながら、まだ決めかねていた。フランスへはワインの取材に来たのだから、いっとき翻訳のことは忘れればよさそうなものだが、これがトジ者の業というか性というか、ワインを見ればつらつら考えてしまう。

(中略)

 先に挙げた『嵐が丘』のくだりだが、岩波文庫版では「ワインを持ってこい」ではなく、「酒を持ってこい」と訳されていますねと、指摘してくれた人がいて、えっ、そうだったっけと思ったのが事の発端だった。
 もちろん、いまの日本では、wineはワインだし、強いて日本語にするとすれば「ぶどう酒」だろうか。既訳の『嵐が丘』では、この箇所はどう訳されているか。
手に入りやすい文庫版をいくつかあたってみると……。

「ロックウッドさんの馬をあずかれ。酒をもってこい」
(阿部知二訳 岩波文庫 1960年)

「ロックウッドさんのお馬を連れて行け。それから葡萄酒を持ってこい」
(田中西二郎訳 新潮文庫 1961年)

「ロックウッドさんの馬を連れて行け。そしてブドウ酒でも持って来い」
(大和資雄訳 角川文庫 1963年)

「ロックウッドさんの馬をあずかって、それからぶどう酒をもってこい」
(中村佐喜子訳 旺文社文庫 1967年)

「ロックウッドさんの馬をつれて行け。それからぶどう酒を持ってこい」
(河野一郎訳 中公文庫 1973年)

 翻訳者のことばの好みやポリシーもあると思うが、60年代、70年代初めまでに出版されたこれらの訳書では、「ワイン」という訳語が見られないのに注目したい。あの時代はまだ「ぶどう酒」が幅をきかせていたのか。ちなみに80年代に出た、麻井宇介の『ブドウ酒と食卓のあいだ』なる著をひもとけば、「ほんのひと昔まえ、われわれ(日本人)は、生葡萄酒という言葉をもっていた」とある。キブドウシュと読む。「甘口葡萄酒」に相対することばだ。当時はぶどう酒というと庶民レベルでは、赤玉ポートワインのような甘みを加えた滋養ワインを指すことが多かったから、それと区別するために、なにも添加しない本来のワインに「生」をつけた。生一本の「キ」だ。なるほど、70年代には、まだそういう”ぶどう酒ライフ”を日本人は送っていたということか。それが10年後のバブル期には、「世界一早くボジョレー・ヌーヴォが飲める国」と言って浮かれるわけだが。
 30年前に較べれば日常感覚になったとはいえ、いまでも、お客さんにワインを持ってこいと日本語で言うと、ちょっと「晴れの日の」お酒でもてなしてやりなさい、というニュアンスを含む気がするが、どうだろうか。
 なら、『嵐が丘』の舞台になる19世紀の初葉、イギリスではワインはどういう位置にあったかというと……いわば、「舶来品」だろうか(高価とは限らないにせよ)。イングランドのほとんどの地域は気候的にワイン用のぶどう栽培には向かないし、16世紀半ばごろまでは国王や貴族が持っていた数少ないぶどう園も、それ以降は衰退の道をたどった。まあ、フランスからの輸入経路も確立していることだし、わざわざ苦労して作らなくても、ということで、ワインといえば輸入もの、となったようだ。一般の家庭で飲まれていたのは、ビールとそれより安価なジン。ワインはやや「高級な」「特別な」お酒だったのだろう。自家製を密造しようにもできないのだし。
 とはいえ、挨拶にきた店子のロックウッドを、大家のヒースクリフが、勢い込んでとっておきの酒で歓待しようとしているような「晴れがましい力み」は、原文の調子からつゆも感じられない。「いそいそともてなすヒースクリフ」の像では、本来のイメージとはほとんど正反対になって離れてしまう……。
 だからこそ、wineがまだ日本の家庭にまるで浸透していなかった当時、阿部知二はこれを「葡萄酒」とは訳さず、あえて「酒」としたのだと思う。原文にどことなく漂う日常感が喪われてしまうことを危惧し、価値の妙なインフレを避けた。翻訳するさいのこういう取捨選択は、ビシッと腹をくくらないとできないものだ。wineという原語のもつ「情報」を訳者の裁量で捨てるのは、勇気がいる。阿部氏はここで、ディテールの「情報」よりも、全体から見た「トーン」を採ったのだろう。

(中略)

 さて、うっかり飲みすぎる前に、『嵐が丘』の「ワイン問題」にもどる。
 人嫌いの大家ヒースクリフが、挨拶にきた年下の店子ロックウッドに出すお酒はなんと訳せばいいのか? 原文では、”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”となっている。

 岩波版の「酒持ってこい」は前項で書いたとおり、名案だと思う。とはいえ、いま現在こう訳したとすると、いささか「日常感」が出すぎだろうかとまた思い悩む。ここでの「酒持ってこい」は、アイルランドで酒といったらビター、鹿児島だったら焼酎に決まっている、という意味での「酒持ってこい」である。十九世紀の北イングランド・ヨークシャーの家庭でワインがそほど浸透していたか、日常感覚を獲得していたか、いまひとつ疑問だ。
 実際、『嵐が丘』の終わりのほうで、舞い戻ってきたロックウッドを歓待するお手伝いのネリーは、「どうぞうちのオールド・エールでも飲んでいってください」と、すかさずエール(ラガーより強くて苦い”ビール”)を勧めるのである。やっぱり、その当時の普段着の飲み物はビールだったろうか。
 と、訳文を順繰りに見ていったところで、「ブドウ酒でも持って来い」という角川版の翻訳に、がぜん目が釘付けになる。この「ブドウ酒でも」の「でも」は「とりあえずビールでも飲むか」の「でも」である。いやいや、ぶどう酒というと仰々しいが、うちの蔵にあるやつだ、たいしたもんじゃないよ、とりあえずってことでね、という軽くいなすニュアンスが絶妙に漂ってくるではないか。「とりあえずビール」の日本的精神が折りこまれているではないか、副助詞の「でも」ひとつ入れるだけで。
 こういう小さな日本語は偉大な役割をはたすなあ、とあらためて感心する。
 このたった二文字は、「ワイン」と書いても「葡萄酒」と書いても失われてしまう原文の微妙な呼吸を、さらりと酌んでいる。
 品詞と構文ばかり訳しそろえることが「正しい直訳」と信じられがちだけれど、そうした翻訳の、なんと窮屈なことか。
 かつての翻訳で、wineを「ぶどう酒」と訳したのは、「ワイン」という語がまだ目慣れないことを思うと、親切な訳だった。時代が下って「ワイン」と訳すのは、ちょっと新しくてお洒落だったかもしれない。でも、半世紀近く前に、wineを「酒」とあえて訳した人がいたことを、わたしは忘れないようにしたい。翻訳がつねにリアルタイムであるためにも。
 たかが、wine、されど、wine。問題の箇所のwineをなんと訳すべきか、ヒントがおぼろげに見えてきた気がする。

(中略)

 しかし、こうして冒頭の「ワイン問題」を考えているうちに、もうひとついいことに気がついた。
 原文の”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”は、前半と後半の文のあいだにセミコロンが入っている。これがポイントだ。日本語読者からすると、ピリオドとコロンとセミコロンとカンマの役割の違いってなんなの、と思ってしまうが、この箇所はピリオド(句点)でもコロンでもカンマ(読点)でもない。仮にピリオドを全休符とすると、コロンからセミコロン、カンマへの順で、ブレスが軽く(短く)なっていく。だから、「おい、馬をつないでおけ」(全休符)「それから、ぶどう酒を持ってくるんだ」ではないし、最初からいっきに、「馬をつないで、ぶどう酒を持ってこい」とブレスなしで繋がるのもちょっと違う。後者だと、いかにも勢い込んで歓待している感じがする。もう少し鷹揚な感じがほしい。
 おそらく最初、ヒースクリフの頭には「馬をつないでこい」という命令しかなかった。ひと呼吸おいて、ちょっと思いだしたように「(客も来たことだし、)ぶどう酒でも」となるのではないか。「ちょっと思いだした」という気持ちを引き受けているのが、セミコロンと接続詞のandだ。ここがかなめか。
 うーん、では、これでどうだろう?
「ジョウゼフ、ロックウッドさんの馬をつないでおけ。そうそう、ぶどう酒でもお持ちしろ」
 ああ、やっと決まった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読むと、「翻訳」っていうのは本当に大変な仕事なんだなあ、ということがよくわかります。
”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”を訳せ、という問題が高校の英語の授業で出題されたとしたら、多くの人は、「難問」だとは思わないはずです。たぶん、「ジョーゼフ、ロックウッドさんの馬をつないで、ワインを持ってきなさい」くらいに訳して、すぐ次の問題にとりかかるはず。
 前後の文脈がわからない状態でいきなりこの文だけ抽出されたら、ちょっと戸惑うかもしれませんけど。

 ところが、こんな「なんでもない一文」にこだわり抜くのが、「プロの翻訳家」なんですね。
 僕たちは、そこにwineと書いてあれば、それは「ワイン」(あるいは「ブドウ酒」)以外の何物でもないだろう、と思ってしまうのですが、確かに、現在と30年前の日本では同じ「ワイン」という飲み物でも、それが読む人に与えるイメージはかなり異なるはずです。
 日本でも、いわゆる「焼酎ブーム」以前とその後では、同じ「焼酎」に人々が受けるイメージが大きく変わってしまったように。以前の「焼酎」は、「酒好きが飲む、酔っ払うための安い酒」であり、いまのような「お洒落」で通好み、というようなニュアンスはありませんでした。

 1960年の岩波文庫版での翻訳を担当した阿部さんも「wine=ブドウ酒」であることは当然承知していたはずなのですが、それでも、(1960年の)「日本の読者がこの場面を思い浮かべたときに、原文に最も近い雰囲気を出すには「酒」のほうが良いだろう、という解釈をしたわけです。もちろん、それが「正解」かどうかというのは難しいし、「結果として読み手が受けるニュアンスは近くても、物質としては別物なのではないか?それでは、『誤訳』なのではないか?」と批判される場合もあるでしょう。
 たぶん、現在の日本で『嵐が丘』の新訳を出すとすれば、そのまま「ワイン」で十分通用するでしょうし、多くの訳者はそうするはず。
 原文は変わらないのに、翻訳では時代によって「よりニュアンスが近い訳」というのが変化していくのです。
 たしかに、同じ作品の翻訳でも古い時代に訳されたもののほうが、いま読むと「違和感」があることが多いですよね。
 そして、『嵐が丘』が発表された時代の人が"wine"に感じるニュアンスと、2009年の日本人が「ワイン」に感じるニュアンスだって、おそらく「別物」なのです。
 "wine"そのものは変わらないのだとしても。

 さらに、同じ言葉でも「葡萄酒」「ブドウ酒」「ぶどう酒」と「もってこい」「持ってこい」「持って来い」のそれぞれ3種類の表記のしかたがあります。「そんなに違うのか?」と僕も思うけれど、「そんなに違わないけど、言葉としての外観は明らかに違う」ので、これらのうちのどれを選ぶかというのも、なかなか難しい問題のように思われます。
 「ピリオドとコロンとセミコロンとカンマの役割」っていうのも、そういえば英語の文法の時間に少し習ったような気もするけれど、それを日本語に反映させるとなると、ここまでいろんなことを考えないといけないんですね。

 「翻訳」というのは、他人が書いたものを「ただ、訳すだけ」と思われがちだけれど、こうして実例を教えてもらうと、突きつめていけばキリがない、大変な仕事なのだということが切実に伝わってきます。



2009年01月07日(水)
通信カラオケの楽曲は、誰がどこでどうやって作っているのか?

『カラオケ秘史』(烏賀陽弘道著・新潮新書)より。

(「カラオケ音楽」の制作現場について)

【カラオケ音楽を聞いたことがない、という人は少ないだろう。が、あの音楽は誰がどこでどうやって作っているのか。そんなことを不思議に思ったことのある人は、ほとんどいないのではないだろうか。
 一番よくある誤解は「歌手がレコーディングをするときに、歌抜きのバック演奏だけを録音しておく。それをレコード会社がカラオケ会社に提供している」という「回答」だ。実際にそうした「歌抜き、伴奏だけのカラオケバージョン」がボーナストラック(おまけ)として収録されているCDもごく普通に店頭に並んでいるので、そう誤解されるのも無理はない。が、本書をここまで読んだ人は、それが誤解であることにすでにお気づきだろう。
 前の章で述べた通り、現行の通信カラオケでは、光ファイバーやADSLよりはるかに通信速度の遅いアナログ電話回線で楽曲を送信できるよう、楽譜データだけを「MIDI」というコンピュータの「言語」に「翻訳」し、通信データを小さくしてから電話回線に乗せている。つまりどこかで誰かが楽曲をパソコンでMIDIに変換するという作業をしている、ということだ(2008年3月現在、音楽を自動的にMIDIに変換するソフトウェアは存在するが、まだカラオケ産業の制作現場に普及するほどの性能ではない)。
 カラオケは音楽を売る宣伝にもなるのだから、きっとレコード会社がMIDIデータか、せめて楽譜くらいはカラオケ会社に提供するのだろう。カラオケ会社はMIDIデータをカラオケ用に加工したり、譜面を見ながらMIDIデータ化したりしてカラオケ音楽を生産していくのだろう。筆者もそんなふうに予想していた。
 では、実際はどうなのか。カラオケ音楽制作の最前線を取材したい。筆者は大手カラオケメーカーである「第一興商」にそう依頼してみた。

 細かい経過は省略するが、何人かの紹介を経て、結局筆者は東京駅から1時間半高速バスに揺られ、茨城県つくば市に向かうことになった。指定されたバス亭でおりると、そこは幹線道路沿いに公園と県営住宅が広がる、夕暮れの住宅街。どこにも工場や作業場はおろか、オフィスらしきものすら見えない。
 バス停で待っていると、短髪痩身の青年は迎えに来た。電話で約束していた直井未明(1973〜)だった。
「(カラオケの打ち込みは)孤独な仕事なんです。わが家にはあまり来客がないものですから、お客さんはうれしいです。遊牧民が羊をつぶして客を歓迎する気持ちがわかりますね」
 何と、カラオケ音楽制作の「工場」は、直井の自宅マンションだった。直井は、リビングで筆者を和菓子と日本茶で丁寧に歓待してくれたあと、隣室、六畳の日本間に案内してくれた。ここがカラオケ音楽の工房、直井の仕事部屋である。襖をはずした押し入れに、コンピューターやディスプレイ、モニタースピーカーやシンセサイザーが階段状に組み上げられ、まるで木工職人の作業台のようだ。
 直井はここで、レコード会社からカラオケ音源制作会社を経由して届けた原曲を聞きながら、ドラム、ベース、ピアノ、ギター、ボーカル、コーラスその他効果音と、すべての楽器パート別に耳で音程を聞き取り、コンピューターのキーボードを叩いて手作業でリズムやメロディ、和音をMIDI信号に入力していく。
 つまり楽器の音符を一音一音「耳コピー」して、パソコンにMIDIデータを手で「打ち込んで」いくのだ。
 実は、こうした作業をしているのは直井一人ではない。通信カラオケの音楽はすべて、直井のようなオペレーターがこつこつと耳ですべての楽器の音程を聞き取り、コンピュータにMIDI信号の形で打ち込んでつくられるのだ。すべて人間の音感と手作業が頼り。意外なことに、楽譜すらレコード会社は出さない。実に地味で、膨大な作業である。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読むまでは、あのカラオケ音楽がこんなふうにして作られているとは想像もしていませんでした。僕もCDシングルによく収録されている「カラオケバージョン(歌抜きで録音したもの)」を加工して配信している」ものだとばかり思っていましたから。
 考えてみれば、実際に聞き比べてみるまでもなく、「カラオケバージョン」の音色と通信カラオケの音色は「全然違う」のですけどね。

 そして、僕がもうひとつ驚いたのは、「レコード会社はカラオケ音源制作会社に楽譜すら提供しない」ということです。
 レコード会社にとってみれば、現在ではカラオケは大事なプロモーションの場でもありますし、自分たちでデータを制作して配るくらいの意気込みなのかと思いきや、ただ「原曲を提供するだけ」なんですね。
 
 ここで登場する「打ち込み職人」の直井さんの音感のすごさ、僕にはちょっと想像もつきません。
 完成している曲を楽器パート別に聞き分けて、それを一音一音「耳コピー」していくというのは、ものすごい作業量。
 普通の耳しか持たない人間には、そもそも「聞き分ける」ことが無理です。
 ちなみに、【1曲完成させるまでにかかる時間は平均で30時間。月産だいたい5〜6曲。1曲の報酬は4万5千円】なのだとか。
 機材を揃えれば、そんなに経費がかかる仕事ではないのでしょうが、これだけの特殊技能に対する報酬としては、けっして高くはありません。音感だけじゃなくて、ある程度コンピューターも扱えないとダメなはず。
 それでも、毎週通信カラオケに配信される「新譜」の数を考えると、直井さんのような「職人」が、日本にはまだたくさんいるのでしょう(著者の烏賀陽さんによると、2008年現在、日本の通信カラオケには8〜9万曲あるそうです)。
 韓国や中国のメーカーからも10分の1の価格でカラオケ音楽制作の売り込みがあるそうなのですが、いまのところ「クオリティが段違い。日本人がつくったほうが圧倒的に良いので、安くても頼めない」のだとか。
 日本の場合、歌う側も「カラオケ音楽の質」には、けっこう敏感ですしね。
 ただ、こういう「職人芸」が今後も日本で生き残っていけるかどうかは、なんともいえないような気もします。
 通信環境が改善されてしまえば、それこそ「CDのカラオケバージョン」をそのまま配信することだって可能でしょう。
 ただ、それをバックに歌っても、「何か違う」のかもしれません。あのMIDIの音が「カラオケらしさ」ではあるのだよなあ。



2009年01月04日(日)
『ジャンプ放送局』が終了した「本当の理由」

『ジャンプ放送局 帰ってきたジャンプ放送局!!の巻』 (SHUEISHA JUMP REMIX) より。

(連載当時のスタッフが『ジャンプ放送局』を振り返る対談記事『13年ぶりのジャンプ放送局』の一部です。参加者はさくまあきらさん、横山智佐さん、土居孝幸さん、榎本55歳(榎本一夫)さんの4名です。文中のJBSは「Jump Broadcasting Station=ジャンプ放送局」の略)

【――ハガキは毎週どのくらい来てたんですか?

さくまあきら:最初の半年は苦労したね。でもそこからは1年で3万通に達して、そこから4万通くらいいって。JBSクエストの時は10万通越えたからね。ほんと視力落ちたもん。それと手にインクがついちゃう。

榎本55歳:そうなのねん。指紋がなくなっちゃうよって。

さくま:えのクンがね、「悪いから手伝いますよ」って言って、200枚で根を上げてる(笑)。

榎本:「お先なのねん」って(笑)。

さくま:言うだけ。バカヤロー、オレは毎週やってんだ(笑)。

(中略)

榎本:えのさんは事実の言いっぱなしだったのよん。貧乏人の子だくさんとかね。

さくま:ある時、優勝者の子をつかまえて、「えのサンは家なき子って呼ばれてるんだ。家を買ってないかあ」って(笑)。元祖ホームレスおじさん(笑)。

横山智佐:ホームレス社長(笑)。

さくま:ホームレス社長、おもしろいな(笑)!

榎本:でもあの頃は「貧乏」とか「チチショー(乳小)!」とか。

土居孝幸:やりたい放題でしたね。

さくま:今やったら大問題だよな、きっと(笑)。横山クン、お母さんが「そんなに悩んでるんだったら手術する?」って言ったらしいね。豊胸手術を。

横山:ありました(笑)。

さくま:あれはネタなんだからね(笑)。

(中略)

土居:まあでも、マンガと戦わなきゃいけなかったのが一番つらかったね。

さくま:編集から電話がかかってきて、よく「マンガを抜いた」って言ってきてたから、イヤだなって。すぐ抜くとやめさせちゃうから、またうち新しい敵と戦わなきゃいけないって(笑)。抜いても抜いても新しい敵と戦わなきゃいけない。一番ジャンプ的だったのはオレたちだよ。

――アンケートでJBSに抜かれたマンガは終了したんですね。

さくま:でも終了はジャンプ的にはいいだろうけど、オレたちは困るよ。また次の敵が出てきたらJBSの順位が下がるわけ。また抜いてくれって言われるし。

榎本:ごぼう抜きにしたことがあったのよん。

さくま:速報で3位というのがあった。ドラゴンボール特集の時に。『ドラゴンボール』人気に乗っただけあんだけど(笑)。

土居:フリーザの時じゃないかな。『ドラゴンボール』すごい人気だったもんね。

さくま:そのときに『ドラゴンボール』特集やって(笑)。『ドラゴンボール』が1位で、JBSが3位だったんだよ。2位は何だったんだろう(笑)?

土居:気になりますね。

(中略)

――じゃあみなさん、学生時代からのつながりなんですか。

土居:そうそう。えのサンとはそうですよね。

榎本:さくちゃんとは学生時代からなのねん。

さくま:青木澄江さんがオレの漫研の後輩、立教の。えのクンは駒沢の漫研にいて、土居ちゃんが早稲田で。

土居:堀井さんの後輩だったから、堀井さんのつながりでさくまさんを紹介してもらって。

さくま:堀井雄二くんとオレが仲良しだったんで、一つ後輩の土居ちゃんと知り合いになった。

榎本:『ドラゴンクエスト』のロゴ作れたのも、堀井さんつながりで頼まれてやったのねん。ラッキーだったのよん。

さくま:『ドラクエ』のロゴをえのクンがデザインしたというのは意外とみんなに知られないし広まらないんだな。『桃鉄』も作ってるのにね。これも広まらないんだな(笑)。

榎本:ほんとなのねん(笑)! 今回の20周年のロゴもえのサンが作ったのに!

(中略)

――そんな人気絶頂のJBSが終了した理由というのは?

さくま:本当のこと言うと、はからずもゲームが当たってしまって、札幌のハドソンに通わなきゃいけなくて。それでへばっちゃって、体力的に。それと4万通のハガキを見るのがすごく体力的にきつくあって、打ち合わせを2週間に1度にしたんだけど、それでもきつくて、もうやばいな、という時だったね。

(中略)

榎本:さくちゃん、その時はゲームと両方やってたからねー。

さくま:札幌に電車で通ってたからきつかった。それも当時専門学校の先生をやってたから、授業をやってそのまま電車で札幌に行って、次の学校の授業までに帰ってこあきゃならなくて、完璧にへばっちゃった。

土居:忙しかったですね。

さくま:ほんとに忙しかった。1週間に8時間しか寝れなくて倒れちゃったんだから。1日8時間じゃなくて、1週間で8時間。もう寝れないんだよ、完璧に忙しすぎて。】

〜〜〜〜〜〜〜

 『ジャンプ放送局』が集英社の「週刊少年ジャンプ」に連載されていたのは、1982年10月から1995年12月まで。13年以上続いていたんですね。
 この13年間というのは、まさに『ジャンプ』の全盛期であり、僕にとっても、いちばん『ジャンプ』を熱心に読んでいた時期でした。当時はインターネットなんて無かった時代ですから、スポーツに疎くてものを書いたり面白いことを考えたりするのが好きな学生たちは、オールナイトニッポンの「ハガキ職人」になるか、『ジャンプ放送局』のメジャーな投稿戦士を目指していたものです。そういえば、僕も何度か投稿したことがあるんだよなあ。結局、一度も採用されることはなかったのだけれども。
 まあ、この「1週間で3万〜4万通」という話を読むと、「そりゃあ、そう簡単には採用されないよねえ」と今になってようやく納得できたような気がします。
 以前、人気放送作家の北本かつらさんが、『ジャンプ放送局』史上唯一の連覇を達成した「竜王は生きていた」だったという話を聞いて驚いたのですが、漫画家の八神健さんも優勝経験者ですし、その他の常連投稿者にも作家・放送作家・漫画家などとして活躍している人がたくさんいるのです。
 今から考えると、当時の『ジャンプ放送局』は、まさに「文系クリエイターの登竜門」だったんですね。

 それにしても、当時の『ジャンプ』の人気投票システムが、『ジャンプ放送局』にまで適用されていたというのには驚きました。しかも「『ジャンプ放送局』に負けたマンガは連載終了」というルールだったとは。読者投稿欄とマンガの「人気」を比較することそのものがおかしいのではないかという気がするのですが、当時の『ジャンプ』は、それが受け入れられる時代だったのでしょうね。描いていたマンガ家たちにとっては、つらい時代だったのではないかなあ。もちろん「当たればデカかった」のだろうけど。

 僕は『ジャンプ放送局』が終わった理由は、ハガキによる投稿文化が下火になったこと、マンネリ化したことにより「人気が落ちたから」だとずっと思っていたのですが、この対談を読んでいると、最大の要因は「さくまあきらさんの体力的な限界」だったようです。
 半分趣味のような形ではじめた『桃太郎電鉄』シリーズが人気となり、ゲームデザイナーとしての仕事が忙しくなったため、というのは、あの堀井雄二さんと同じパターン。僕は堀井さんが『OUT』(注:ここは初稿では『ファンロード』と誤記していました。申し訳ありません)という雑誌の読者投稿のページを担当するライターだった時代(あるいは、ジャンプのファミコン記事を紹介する「ゆう帝」の時代)を知っているのですが、あの人がこんなに有名なゲームデザイナーになるなんて、今でもちょっと信じられないような気がします。
 そして、あの『ドラゴンクエスト』のロゴをつくったのが『桃鉄』の貧乏神のモデルとして知られる榎本さんだったとは……

 しかし、「貧乏」とか「貧乳」とか、今の時代だったらけっこうクレームが来るのではないかと思われる言葉が、当時は週に何百万部も売れている雑誌で乱発されていたんですよね。
 それが良いことなのか悪いことなのかはさておき、そういうおおらかさが「投稿文化」を支えていたのかもしれないな、とは思います。
 あと、横山智佐さんがまだ独身だったのは、嬉しいような、ちょっとせつないような……