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2006年12月31日(日)
「活字中毒R。」〜2006年総集編

本年も、「活字中毒R。」におつきあいいただき、ありがとうございました。
毎年恒例ですが、大晦日ということで、今年僕の記憶に残っていたり、反応が多かったものを10個挙げて、2006年の締めにさせていただきたいと思います。
(番号は便宜的につけたもので、「順位」ではないです)

(1)村上春樹の生原稿を「流出」させた男(3/10)

 「作家」「編集者」という仕事。そして、「立場」による人と人との関係の変化。有名作家と有名編集者、という枠組みを超えて、いろいろ考えさせられる話でした。


(2)「それであなたは何と思ったのかな?」という「文学的指導」の嘘

 「感想」をうまく書けるだけが「国語力」ではないのだ、という話。逆に「情緒が豊か」なだけで「国語が得意」だと思い込んでしまうのも、それはそれで悲劇なのかもな、と最近考えています。


(3)ある老舗ケチャップメーカーを救った、一行のコピー

 これはもう、「発想の転換」の素晴らしさに尽きると思います。こういうのって、なかなかできそうでできないんですよね。


(4)職業翻訳者にとっての「アンフェア」と「ネタバレ」

 「翻訳」という仕事の奥深さについて、大森望さんが書かれた文章から。「ただ日本語に訳すだけ」ではないのです。


(5)『ルパン三世 カリオストロの城』の功罪

 「ルパン3世」というキャラクターにとっての『カリオストロの城』の功罪。モンキー・パンチさんも、複雑な心境でしょうね。


(6)『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』は、なぜ、あんなに売れたのか?

 大ベストセラーを生んだ、さまざまなマーケティングの技術。山田真哉さんは「新書の売りかた」で、もう1冊ベストセラーを書けそうな気がします。


(7) 就職の面接で、「すごくおっぱいが大きいけど、得するの?」と聞かれたら……

 「圧迫面接」について。個人的には、いくら優秀な人材を見抜くためとはいえ、こんな質問を平然としてくる会社には好感は持てませんが……


(8)『エンタの神様』の「人気芸人のつくり方」

 まさに「番組によってつくられている」エンタ芸人たち。これを読むと、まさに「踊らされている」ような気がしてちょっと悔しいです。でもまあ、僕も宴会芸として使わせてもらったりしているんですよね。


(9)『花の慶次』誕生秘話

 名作『花の慶次』誕生にまつわる、作家と編集者の心の交流。マンガって、漫画家の力だけで世に出るものではないのだ、ということをあらためて感じました。


(10) 「黙殺」されている、超人気マンガ原作者の正体

 超人気マンガ原作者・倉科遼さんについて。これもひとつの「職人芸」ではありますよね。みんな、「前衛」を体験するためだけにマンガを読むわけではないのだし。


 2007年も、「活字中毒R。」は続きます。
 少し更新頻度は落ちるかもしれませんが、どうかお付き合いくださいませ。
 「いやしのつえ」のほうも、ひとつよしなに。


 それでは皆様、よいお年を!




2006年12月28日(木)
「代理人」になりたがる人々

「週刊現代」(講談社)2007年1月6・13日合併号の高橋源一郎さんの連載エッセイ「おじさんは白馬に乗って」第30回より。

【「そうか」
 タカハシさんは、手を叩いた。
 代理人というと、プロ野球の契約交渉代理人か、家庭裁判所で離婚調停をする時の夫側・妻側、双方の代理をする弁護士を思い浮かべるのがふつうだ(タカハシさんは、特に、諸般の事情により、そう)。しかし、もっとはっきり、代理人と称している人たちを、我々は知っている。
 先日亡くなった、丹波哲郎さんは、自ら「霊界の代理人」と名乗っていた。
 最近でいえば、江原啓之さんも「霊界の代理人」だし、細木和子さんも、「霊界」というか、それに近い「運命界(?)」といったものの「代理人」だ。
 あるのかないのかはっきりしないものの「代理人」をして、相手(一般大衆であろうか)と交渉を行うのだから、ボラスさんより、さらに自信たっぷりでなければ、とても務まらないだろう。
 確かに、丹波さんや江原さんや細木さん以上に、自信たっぷりな人を、タカハシさんは、見かけたことがないのである。
 あれほど自信に満ちた態度でなければ、代理人が務まらないとするなら、やはり自分には無理だ、とタカハシさんはためいきをついた。
 ヨーロッパでは、ローマ教皇のことを「神の代理人」と呼んだ。まあ、丹波さんたちと同じ種族の人と考えても、それほど間違いはあるまい。
 ブッシュ大統領も、なにか重要な発表を行う時には、「神のご加護を」というのが癖だった。きっと、ブッシュさんは、自分も「神の代理人」だと思いこんでいたのだろう。
 だが、そういう人たちをタカハシさんは、笑うことができない。
「もう二度と悲惨な戦争を繰り返しません」と誓う時、人は、戦死した人たちの「代理人」になるし、「環境破壊を許さない」と抗議するとき、人は、気づかずに、これから生まれて来る人間の「代理人」の役目を務めている。
 ボラスさんたちのように金儲けにはならなくとも、我々もまた、知らないうちに、なにかの「代理人」になっているかもしれないのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このエッセイのなかで高橋さんが書かれているところによると、松坂投手の代理人、スコット・ボラスさんというのは、【何十人もの専門スタッフを雇い、何十台もの衛星放送テレビで情報を集めるそうである。それだけではない。法律の専門家はもちろん、心理学やマーケッティングやトレーニング関係の専門家もいる。要するに、「ボラスさん」という名前の、一つの巨大企業なのである】という方なのだそうです。つまり、「代理人」というよりは、「スコット・ボラス・グループ」というマネージメント会社の代表が、あの人だということなのですね。そうなると、あれだけ高額なマネージメント料を要求し、球団側には、外野からみれば非常識だと感じてしまうくらいの高額契約を要求するのも理解できなくはありません。代理人ビジネスというのも、そんなにラクなものではないのでしょう。
 実際、松坂投手とレッドソックスとの交渉において、ボラスさんは日本の野球ファンにとっては「理不尽な要求を出して松坂の夢を妨げるカネの亡者」のような存在に見えたのですが、彼のおかげで、松坂投手はものすごい高額年俸を貰えるにもかかわらず、「カネへのこだわりよりもメジャー挑戦という夢を選んだ男」というイメージを植えつけることに成功したのですから、「悪者」になってもらえるというだけでも、けっこう代理人には大きな存在意義があるものなのかもしれません。

 先日、江原啓之さんが「事故で死んでしまった子供の言葉を聞く」という企画でテレビ番組に出ておられたのですが、僕はそれを観ながら、結局のところ、この人が言っていることは、「遺された人たちが望んでいる言葉」なのだろうなあ、と感じました。いや、世の中には「全部お前のせいだ、呪ってやる!」というような思念を遺してる人だってけっして少なくはないと思うのですが、江原さんがそのような言葉を伝えることはほとんどありません(もしかしたら、そういうケースもたくさんあるけれど放送されていないだけという可能性もゼロではないのですが)。ただ、江原さんが伝えてくれる言葉によって、「救われる」周囲の人がいるというのは紛れもない事実なわけで、そういうのを「嘘つき!」と全否定するのもおとなげないという気もするし、「それで誰が困っているんだ?」と問われれば言い返しようがないんですよね。人というのは、「自分の信じたいことしか信じない」生き物ですしねえ。
 細木さんにしても、言っていることは「お墓をきちんとしなさい」「夫や舅・姑を立てなさい」という、古くからの日本の伝統的なモラルを繰り返しているばかりです。ただ、僕は自分が30過ぎて思うのですが、お墓とか先祖を大切にしている人というのは、確かに子供のころから家庭や地域社会でしっかりとした教育を受けてきている人が多い、ということは言えるのかもしれません。今の世の中では、なかなかそこまで手が回らないですからね。

 僕も「代理人ビジネス」というのは、人の褌で大儲けできていいなあ、と思うことがあります。ただ、それを相手に信じさせるには、ある種の「カリスマ性」が必要とされるし、「神の代理人」なんて公言していて説得力を伴っていなければ、世間からスポイルされまくること確実なので、かなりリスクが高い仕事ではあるのです。
 しかしながら、ここで高橋さんが書かれているように、人というのは、いろんなシチュエーションで、無自覚に誰かの「代理人」となっていおり、ブログや某巨大掲示板や新聞の投書欄には、こういう「代理人」が溢れています。そして彼らは「僕は」「私は」ではなくて、「日本人は」「社会常識では」という、自分よりもはるかに大きな存在の「代理人」を自認して、他者を攻撃し、ブログを炎上させているのです。そして、他人事みたいに書いてますけど、僕もそんな「代理人」のひとりなんですよね。
「戦争」や「環境問題」を例にとれば、「当事者意識」というのは大切だし、「死者や子孫の代理人となること」は、けっして悪いことではないと思います。でも、「世間に認められない自分」の捌け口として、勝手に誰かの「代理人」として、自分の意見を押し付けてしまっていないかというのは、もう一度、考えてみる必要があるのかもしれません。
 「自分の常識」=「社会常識」であることに何の疑問も持たない「代理人」に、江原さんや細木さんを罵倒する資格があるのでしょうか?



2006年12月27日(水)
「『硫黄島からの手紙』は、日本映画だと思っています」

「日経エンタテインメント!2006.12月号」(日経BP社)の記事「正月映画・大勝負の行方」での『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督)に関する、渡辺謙さんのインタビュー記事の一部です。

【インタビュアー:『硫黄島からの手紙』はハリウッド映画ですが、セリフは日本語だそうですね。

渡辺謙:栗林忠道の過去を回想する場面で少し英語がありますが、99%は日本語です。脚本は英語で書かれており、翻訳する段階で監督やプロデューサーとディスカッションしました。日本語は「てにをは」が変わるだけで、微妙に意味が異なりますから。また、クリント(・イーストウッド監督)は撮影現場で俳優の演技に合わせてセリフを変えていきます。でも、どんな日本語のセリフが適切なのかを決める担当がいなかった。そこで、基本的に僕が9割近く現場にいてチェックさせてもらいました。

インタビュアー:ほかに謙さんのアイデアが映画に取り入れられた点は?

渡辺謙:脚本は、アメリカに残されている硫黄島の資料を基に書かれています。日本の資料を読んだとき、脚本の栗林像とは違う印象を受けました。そこで、僕の中で印象に残るエピソードを10個くらいノートに記入して渡し、脚本にいくつか反映してもらいました。

インタビュアー:『硫黄島からの手紙』は舞台が日本、セリフが日本語なのに監督、スタッフはアメリカ人です。違和感はありませんでしたか。

渡辺謙:僕はこの作品を最初から日本映画だと思っていました。アメリカ人が見た日本ではなく、日本映画をクリントが撮ってくれたと僕は解釈をしていたので、違和感はありませんでした。
 ただし、なぜ彼が撮りたいと思ったのか。期待もするし、不安もある。彼に直接聞いたところ、『父親たちの星条旗』を撮ったときに日本兵の姿が見えなかったと。日本兵が何を考えて、何を感じてこの戦いに挑んだのか、非常に興味があったと。戦争はどちらかがいいとか悪いとかじゃないんだと、非常に明確なビジョンをお持ちだったので、出演することにしました。

インタビュアー:ハリウッドでは、これまで戦争を題材にした映画が数多く作られてきました。『硫黄島からの手紙』は何が一番違いますか。

渡辺謙:先ほど言いましたように、これは日本映画だと思っています。日本映画では、これまで戦争を真正面からなかなか描けなかったんじゃないかと思います。広島を描いたら被害者になり、そうじゃないものは加害者になる。『硫黄島からの手紙』はもっとリアルに、悲惨さを描いている気がします。あらがえない理不尽さみたいな…。

インタビュアー:栗林中将を演じるにあたり、最も気を付けた点は?

渡辺謙:気を付けたというよりは、すごくよく分かる部分がありました。彼はアメリカとカナダに2度留学してアメリカをよく理解していた。僕自身も日米で仕事をしているので、彼が思い悩んだであろうことを理解しやすかったです。

(中略)

インタビュアー:ハリウッドでは俳優マネジメントも異なります。戸惑いはなかったですか。

渡辺謙:基本的にはどちらも同じですよ。日本でも仕事をコントロールしているのは自分だし、アメリカでもそう。確かに、アメリカでは管理の仕方が分業化しています。それぞれの担当者と契約していますが、契約に縛られているわけじゃないんですよ。会って話をして、お互いが気に入れば、明日から仕事をしよう、うまくいかなかったら、もう君とは終わりだね、と。

インタビュアー:信頼関係のなかで仕事をしているわけですね。

渡辺謙:結構狭い世界ですからね。仁義に反すると、すぐはじかれちゃうんですよ。うわさも早いし。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ハリウッドスターのなかには、「仁義に反しても、なかなかはじかれない」ような人もいるような気もするのですが、多くの日本人がイメージしている「アメリカの契約社会」というのは、かなり偏ったイメージのようです。実際にアメリカ人と仕事をしている人に聞いてみると「意外とアバウトに情で繋がっていることのほうが多くて、結局は人と人との関係なんだよ」という答えが返ってくるのです。そういえば、村上春樹さんも、「アメリカ人と仕事をすること」について、こんなことを以前書かれていました。

 ここで紹介しているのは、映画『硫黄島からの手紙』に日本軍の硫黄島守備隊司令官・栗林忠道中将役で出演されている渡辺謙さんのインタビュー記事の一部なのですが、考えてみれば、この仕事は、渡辺さんにとってもひとつの「賭け」だったはずです。クリント・イーストウッド監督のハリウッド映画に主演できるというのはものすごく魅力的なオファーだったのでしょうが、その一方で「戦争映画」というのは、とくに日本においては、ものすごくデリケートな存在の映画でもあります。もし、イーストウッド監督が偏見や思い込みに基づく「ハリウッド的な娯楽重視の戦争映画」を撮る監督であれば、それに「日本代表」として主演した渡辺さんは、アメリカでは嘲笑され、日本の人々からは軽蔑される、ということになりかねません。硫黄島での戦いに関わっていた人たちは、まだ、日本にもアメリカにもたくさん生きていますから。逆に「あまりに日本寄りの作品」になってしまえば、アメリカ国内からのバッシングを受ける可能性もあったはずです。

 幸いにも『硫黄島からの手紙』は日本でもアメリカでも好意的な反応が大部分で、渡辺さんはこの「賭け」に勝った、ということになりそうです。そして、その陰には、「日本語がわからないアメリカ側のスタッフ」に対し、「日本的なるもの」をうまく伝えていった俳優陣の力が大きかったようです。ただし、『SAYURI』のように、ハリウッド映画では、日本や他のアジアを舞台にした国でも、何の説明もなしに登場人物は英語で喋っていることがけっして珍しくないので、これは、日本側スタッフの熱意もさることながら、イーストウッド監督をはじめとするアメリカ側のスタッフの理解も大きかったのではないかと思われます。もしかしたら、イーストウッド監督自身は、「この映画はアメリカでヒットしなくてもいいや」と最初から日本市場を中心に考えていたのかもしれませんけど。

 それにしても、ここで渡辺さんが仰っている【日本映画では、これまで戦争を真正面からなかなか描けなかったんじゃないかと思います。広島を描いたら被害者になり、そうじゃないものは加害者になる】という言葉には、深く考えさせられるところがありました。いままでの「日本の戦争映画」では、周辺諸国から「日本の軍国主義を賞賛している」というクレームがついて問題になるのを恐れて、「天皇陛下ばんざい!」というセリフを入れられなかったりしていたそうですし、「この戦争は日本が悪かった」という視点で描かれることがほとんどでした。実際の戦場は、「どちらが悪い」というようなものではなく、ただ、兵士たちが自分の使命を果たそうと、あるいは生き残ろうとしてお互いに命を削っているだけなのに。日本が「当事者」であったがゆえに、自分の国のことを描くとき、かえって多くの「制約」ができてしまっていたのが、いままでの「日本の戦争映画」だったのです。でも、アメリカ人、クリント・イーストウッドがハリウッドで撮ったこの映画は、そういう制約からかなり解放されています。この映画にだって、アメリカ軍がやられるシーンは非常に少なめだし、日本側の親米的な将校がクローズアップされているという面はあるとしても。

 僕は『硫黄島からの手紙』を観て、「日本の戦争映画とそんなに違わないんじゃないか?」と正直感じました。しかしながら、この作品のいちばん重要な点は、これがハリウッド映画として世界中で公開される、ということなのではないかという気がするのです。「当事者」が作ったという戦争映画というのは、観客にとってもあまり客観的には観られないものではありますから。
 この『硫黄島からの手紙』も、もし全く同じ作品が日本の監督により、日本の映画会社でつくられていたら、周辺諸国からの抗議が殺到していたかもしれません。「日本人は悪者だから、手紙とか書くはずがない!」とかね。



2006年12月26日(火)
『Google』の革命的な福利厚生

「週刊SPA!2006.11/28号」(扶桑社)「SPA!RESEARCH[会社の雑学]大百科」より。

(『Google』の福利厚生についてのレポートです)

【検索サイトだけでなく、メールサービスなどをWebに革命を起こし続けるグーグル。福利厚生も革命的で「食事は全部タダ」だという話がある。グーグル・ジャパンにその真偽を聞いてみた。
「本当です。アメリカでは専属のシェフが調理をしますが、日本では消防法の関係で、オフィス内で火を使った調理はできません。代わりにランチはケータリング、夜はお弁当を好きなだけ食べていいことになっています。朝、果物屋さんから届いたカットフルーツをデザート代わりに食べる社員も多いですね」(広報)
 ランチのケータリングは2社の業者の日替わりで届く。ランチはメイン+サイドディッシュ+付け合わせ+サラダ+スープ+パン・ライスという組み合わせが一般的メニューで、日によっては和食が出ることもある。さらに自販機の飲み物も全部無料で、数十種類のお菓子も取り放題。
 しかし、食事がここまで充実しているということは、食事の時間以外、全て働けということ?
「いいえ(笑)。新しい発想をするため、社内のいろいろな部署と交わる機会をつくるということです。ネット関連企業だからこそ、食事時に顔を合わせて意見交換をするということを大切にしたい」(同)
 とはいえ、世界中に支社があるグーグルでは24時間体制で各国との連絡を取らなければならない。つまり深夜・早朝にかかわらず働くこともあるという。
「あまりに長時間仕事のことばかり考えると、煮詰まってきますよね。生産性を上げるために、オフィス内に、ビデオゲームやビリヤード、マッサージチェアやセグウェイも置いています」
 3食昼寝付きとまではいかなくても、2食+仕事+リフレッシュアイテム付きとは、現代の企業で考えられる理想的な福利厚生なのかもしれない。】

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 「ああ、『Google』で働けばよかった!」と僕はこれを読みながら嘆いてしまいました。現実的には、いまやネット関連企業のなかでもトップランナーである『Google』はものすごく「狭き門」になってしまって、そう簡単に入れるような会社ではないに決まっているのですが。もしかしたら、今の都会の大企業ってみんなこんな感じなの?
 それにしても、仕事場で昼下がりにカップラーメンをすすっていることが多い僕にとっては、なんとも羨ましい話ではあります。昼・夕食がタダで、しかも「食べ放題」とは、すごい太っ腹ですよね。勢いのある企業は違うよなあ。おまけに、オフィスには気分転換のためのビデオゲームまで置いてあるという気配り。そんなもの置いてあっても、みんな真面目に働いているのだろうか?と心配になってしまいます。
 
 しかしながら、この記事を裏読みしてみると、『Google』という会社は、「普通に夕食を摂れるような時間に会社から帰ることができず」「気分転換のために会社でゲームをすることが許されるくらい仕事で追い詰められている」とも考えられるんですよね。傍目でみれば、これほど羨ましい環境はないような気がするのだけれども、実際に長期間働いていれば、「ランチくらいは会社の外に出て自分の好きなものを食べたい」と思う人も少なくないでしょうし、「ゲームをやるんだったら、会社じゃなくて定時に家に帰ってのんびりやりたい」社員だっているでしょう。この文章のなかには、実際の勤務体系や労働時間には触れられていないのですが、たぶん、ものすごく仕事はキツイのではないかなあ。食事がタダなのは嬉しいけれど、じゃあ、そのお金はどこから出ているのか?ということになると、「その分給料に上乗せしてくれたほうが良いでは……」という気もします。

 でもまあ、とりあえず、こういう会社で働いている自分ってスゴイ!って思わせてくれるような福利厚生ではありますよね。結局のところ、多くの企業は、『Google』ほどの福利厚生があるわけでもなく、その分のお金が給料に反映されているということもないのでしょうから。



2006年12月25日(月)
『このミステリーがすごい!』の歴史的変遷

「このミステリーがすごい!2007年版」(宝島社)より。

(「このミステリーがすごい!」の19年間の歴史のなかで、もっとも多くの作品(13作品)がランキング入りしている、大沢在昌さんのインタビュー記事の一部です。構成・文は友清哲さん)

【インタビュアー:今年で作家生活28年目という大ベテランの大沢さんですが、その間の文芸シーンの変遷について、どのような印象をおもちですか?

大沢在昌:それは逆にこちらが訊きたいというのが本音かも。なにしろ我々作家の側は、「『このミス』に載っていて、『このミス』より売れる本はない」と皮肉を言って笑っていたものですから(笑)。

インタビュアー:確かにおかげさまで、毎冬『このミス』フェアを書店さんが組んでくださったり、媒体として得難い知名度をもつに至ったとスタッフ一同感謝しています。

大沢:ある編集者は「『このミス』で1位を獲ることは、文学賞をひとつもらうのと同じくらいの効果がある」と言ってました。実際、あまり知名度のない文学賞を獲るよりも、『このミス』で1位になるほうが間違いなく本は売れると思うんですよ。そういう意味ではミステリーが隆盛を迎えるまでの推進力の中で、『このミス』の存在は大きかったと思う。文学賞の場合は候補になるかどうかという点に運・不運もありますが、『このミス』に関してはそれなりの仕事をすればランキングに入れるし、それがまた本の売り上げとして作家に還元されるという”貢献”があったと思うんですよ。

インタビュアー:作家のかたにそのように認識していただけるのは、本当に嬉しいことです。

大沢:僕の『新宿鮫』にしても、1位になったことでやはり売り上げに大きく貢献してもらったと思ってますから。この作品ではその翌年に賞もいくつかいただいているんですけど、『このミス』がいちばん大きな勲章だったかもしれません。じつは『新宿鮫』には、オビが7種類くらいあるんです。”○○賞受賞作”などと謳ったもので、最初は小さく「『このミステリーがすごい!』第1位」と添えてある程度だったのを、これは逆だろうと、『このミス』の記載のほうを大きくしたバージョンを別にまた作ったりして。『このミス』でトップになったことで大沢在昌がブレイクしたというのは、間違いないと断言できますね。

インタビュアー:大沢さんのキャリアと時を同じくして成長してきた媒体ですから、とても光栄に思います。

大沢:ただ、厳しいことを言わせてもらえば、1位になったすべての作品がブレイクしているかというと、必ずしもそうではないでしょう? 『新宿鮫』のころにはまだ、1位ということであれば無条件に手に取ってもらえるような空気が読者側にあったと思うんです。もちろん、1位になった作品をブレイクさせなければならない縛りが宝島社にあるわけではないけど、1位を獲った作品でも吟味する冷静さが今の読者にはあるのかな、と。

インタビュアー:なるほど。出版点数の増加や国産ミステリーの多様化なども無関係ではないかもしれませんね。

大沢:結局こうしたランキングというのは、すでに1位を獲った経験があったり、作家として相当な認知度をもっている人にとっては、ハンディ戦のようなところがあると思うんですよ。たとえば投票者の間で「今さら宮部みゆきじゃないだろう」という空気があったとしても、それでもやはり『模倣犯』だったら推さざるを得ない、これはまさに横綱相撲です。僕の『新宿鮫』のときはそういうハンディがまだ皆無で、むしろ大沢在昌が頑張ったからここはこいつを推しとこうや、という空気で1位にしてもらった面もあったと思う。】

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 宝島社の『このミステリーがすごい!』という本が、革命的なミステリーのランキング本として最初に世に出てから、もう19年になるのですね。いまの日本のミステリーの隆盛にはこの本の貢献度が非常に大きかったと思いますし、大沢在昌さんも『このミス』で1位になったおかげで、自分がブレイクできた、と仰っておられます。考えてみれば、今から20年前の日本のミステリー界というのは、僕を含む多くの「潜在的読者」にとっては、「読んでみたくても、どの本を手にとってみればいいのかわからない」という状況だったような記憶があります。インターネットも『ダ・ヴィンチ』もなく、『本の雑誌』の存在すら知らない田舎の本好きにとっては、「ミステリー」というジャンルは、興味があっても、かなり敷居が高かったんですよね。本、とくに新刊書って、中高生にとっては、けっして安い買い物ではないですし。

 そんな中、『このミステリーがすごい!』が刊行されたのは、非常に大きな事件でした。「文学賞」はともかくとして、ある一定のジャンルの本を識者が投票し、それを点数化してランキングするという手法には、かなりの反発もあったようです。「小説っていうのは、そんなものじゃない!」って。あるいは、本の紹介をするときに、どうしても一部ネタバレしてしまうところもありますし。でも、「どのミステリーを最初に読んだらいいのかわからない」という読者にとっては、『このミス』が、ひとつの「読んでみる基準」になったのは間違いありません。大沢さんだけでなく、『このミス』で上位にランクインしたおかげでブレイクした作家もたくさんいます。
 ただ、その一方で、『このミス』そのものも、その影響力の大きさによって、変わっていかざるをえない面も出てきているようです。【「『このミス』に載っていて、『このミス』より売れる本はない」】というのは、ごく一部の例外を除いてはまさにその通りなわけで。「作品そのもの」よりも、「作品を紹介し、格付けする本」のほうが売れてしまうというのは、やはり、作家側としてはちょっと腑に落ちないところはあるのかもしれません。まあ、自分の作品が毎回上位で、『このミス』が売り上げに貢献してくれているのならともかく。もっとも、他のジャンルにおいても、『ファミ通』より売れているゲームというのはごく少数だったりもするのですけど。

 ここに書かれているように、ベテラン作家に関しては「この人はこのくらい書けて当たり前」というようなハンディもつけられているような印象もあるんですよね。読者側としても、「いつもの人」よりは「期待の新星」の作品を読みたい、という意識は間違いなくあります。
 最初は「ブレイクスルー」であったはずの『このミス』も、「権威化」してしまうと、逆に「『このミス』で上位にランキングされていないから、駄作なんじゃないか?」と思われたりもしそうです。

 逆に、ここまでミステリーというジャンルが多様化してくると、「1位だから万人ウケするような作品」というわけでもないですしね。ランキングそのものよりも、上位のなかで、自分好みの作品を探す参考書的な使い方をしている人も多いのではないでしょうか。今回1位になった『独白するユニバーサル横メルカトル』(平岡夢明著)なんて、「すごい!」のかもしれないけれど、扱われている内容(ちなみに、スカトロとか人肉食とかが扱われているそうです。うーん)が、「僕はちょっと遠慮させていただきます」という感じですしね。
 



2006年12月24日(日)
「メリークリスマス」が言えない国

asahi.comの記事より。

【「メリークリスマス」と「ハッピーホリデーズ」の対立が続いてきた米国のこの季節に、今年は少し静寂が戻った感がある。店員に「ハッピーホリデーズ」と言うことを奨励してきた大手小売店が「メリークリスマスも認めます」と宣言、柔軟姿勢を示したことなどで対立が見えにくくなったことが背景にある。

 クリスマスを祝う伝統の「メリークリスマス」の代わりに「ハッピーホリデーズ」と言う傾向は90年代からじわじわ広まった。1年のこの時期はキリスト教のクリスマスだけでなく、ユダヤ社会の「ハヌカの祝い」やアフリカ系米国人の「クワンザの祭り」が重なることから、少数者への配慮が「ハッピー」の広まりの背景にあった。しかし、特にここ2、3年はキリスト教右派などがこれをクリスマスに対する攻撃だとして「メリークリスマス」の復権を強く求める運動に出た。

 昨年まで店員に「ハッピーホリデーズ」を奨励した小売り最大手ウォルマートは年末商戦前の11月、クリスマス飾りを売る区画を「ホリデーショップ」から「クリスマスショップ」に改めるなどの方向転換を発表。「クリスマス」表示の商品を60%増やすとした。追随業者も出て、昨年は「メリークリスマス」支持者の不買の動きまで起きた小売業界という最大の衝突前線がなくなった。

 ただ、今年もいくつかの宗教的なあつれきは生じている。シカゴでは市が運営にかかわったマーケットでキリスト生誕物語の映画の宣伝ビデオの上映を許可するかどうかでもめた。クリスマスツリーばかり14本を飾ったシアトルの空港でハヌカのメノラ飾りをユダヤ教の宗教指導者が求め、ツリーの大半が一時撤去される騒ぎもあった。

 「メリークリスマス」復権のため90年代から活動し、宗教ラジオ局で番組のホストを務めるドン・クロウさんは「大手小売店が正しい決断をしたことで、クリスマスをめぐる戦いは収束に向かっているように見えるが、消えたわけではない。政治的な正しさの名の下で宗教に対する攻撃は続くだろう。闘い続けなければならない」と話す。】

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 「メリークリスマス!」の1週間後に神社に初詣に行くのが当たり前の日本人である僕としては、「クリスマスなんて有害な行事ではないのだし、そんなにこだわらなくてもいいのでは?」と、つい考えてしまうのですけど、アメリカでは、この「メリークリスマス問題」は、大きな社会問題となっていたそうです。アメリカは、「クリスマスの本場」のようなイメージがあっただけに、こんなことが起こっているというのは正直意外でした。

 確かに、アメリカには多くの民族や宗教があり、キリスト教を背景にした「クリスマス」というイベントを受け入れられない人々がたくさんいるのでしょうが、逆に、それぞれの宗教の主なイベントをすべて受け入れられなければならないとすれば、アメリカの人が集まる場所は大混乱になってしまうこと請け合いです。【クリスマスツリーばかり14本を飾ったシアトルの空港でハヌカのメノラ飾りをユダヤ教の宗教指導者が求め、ツリーの大半が一時撤去される騒ぎもあった】などというのは、宗教指導者の立場を考えれば当然のアピールなのかもしれませんが、すべての宗教の信者が満足できるようにするなんてことは不可能だろうし、そうなってしまうと、「もう撤去するしかない」という結論もやむをえないものなのかもしれません。まあ、それを「できるかぎり受け入れるようにしてしまう」ところが、アメリカという国の良さであり、難しさでもあるのでしょうけど。

 しかし、「メリークリスマス」のために闘い続ける!なんていうのを聞くと、日本の宗教心のかけらもない、能天気なメリークリスマスも、それはそれで悪くはないんじゃないかな、という気もしてきますね。
 ちなみに僕は有馬記念ハズレちゃったので、憂鬱なイブを過ごしております。



2006年12月22日(金)
「アダルトチルドレン」だった、アメリカの大統領たち

『西原理恵子の人生一年生2号』(小学館)より。

(「西原理恵子のこの人に会いたくない。」という対談記事の一部です。参加者は、西原理恵子さんと松野行秀さん(沢田亜矢子さんの元夫。「お騒がせの人」として、ワイドショーなどで一時期はしきりに取り上げられていました)、小田晋(精神科医)、キャンディ・ミルキィ(女装雑誌編集長)、卯月妙子(漫画家、ライター、AV女優)の5名です。ただし、引用部では、卯月さんは発言されていません。自分を「病んでいる」と自覚する4人が、精神科医の小田先生にアドバイスを求めている部分です)

【松野行秀:西原さん、僕のこと嫌ってません?なんか僕のこと誤解してるでしょ?

西原理恵子:え、ぜんぜん誤解してませんよ。みんなで幸せになろうと。そのために今日小田先生をお迎えしたわけで。精神科医の権威、小田先生にいい方法を聞いて全部解消してしまいましょうと。

小田晋:そんなことできません。できるはずがない。僕はドラえもんでもなければハクション大魔王でもない。分析はできても、全部解消なんてできっこない。

西原:でも、なんかちょっとすっきりしましたよ。

小田:そもそも解消すべきなんでしょうか。皆さん、ひと言で言ってしまえば、アダルト・チルドレンなんです。一時流行語みたいになったんで、最近じゃ、このひと言でみんなわかってしまうけど。じゃあ、そのアダルトチルドレンっていうのができないように、親は手を上げちゃいけないとか、子供にそうしたら親は子供に謝るべきだって言うけど、僕、ちょっと待てよって思うんです。アメリカの大統領でロナルド・レーガンっていたでしょ。

西原:父ブッシュの前の。

小田:そうです。あの人もね、オヤジがアル中なんですよ。で、家庭内暴力。それから典型的なのはビル・クリントン。あの人は母親のおなかの中にいたときにアルコール依存症の実父は交通事故死。で、母親は再婚するんですけど、相手はこれまたアルコール依存症で、家庭内暴力を振るうんですよ。自分の弟や母親を乱暴な父親からかばわなきゃいけないわけですよ。しかも殴り返してかばうわけじゃなくて、まあまあってなだめるようにかばってたんです。だから彼は「14歳のときにオレは40歳ぐらいの気持ちだった。俺はアダルトチルドレンだ」って自評してるんです。

西原:アメリカ大統領の政策にはのらん。死んでもっ。

小田:でもね、その生活のお陰でビル・クリントンは丸く治めるのが特異だったんですよ。それが出世していくのにすごく役に立ったと。

キャンディ・ミルキィ:だからそれ、ただ「悪い」で終わらすものでないと。

小田:そうです。どっちも確かに父親はドメスティックバイオレンスでアルコール依存症です。でも2人とも大統領になったじゃないかと。

西原:とにかく全部依存症とか中毒って名前をつけるべきなんでしょうかねぇ。だってどこからどこまでが、おかしいかなんてわからないじゃないですか。

小田:診断すること自体はまったく問題ないです。でもね、診断名をつけることでは何の解決にもならないです。

西原:そうですよねえ。変なところ、劣っているところをいちいちしらみ潰しにするべきなのかなあ、って思う。】

参考リンク:「アダルトチルドレン」(Wikipedia)

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 ロナルド・レーガン、そしてビル・クリントンという2人の元アメリカ大統領は、クリントンさんの「不適切な関係」事件などいくつかの問題点はあったものの、現在のアメリカでの人気・評価は非常に高いようです。でも、この2人に、こんな「共通点」があったというのは初めて知りました。
 
 この「アダルト・チルドレン」という言葉なのですが、実際はさまざまな解釈があって、明確な「定義」は現在でも確定していないのです。参考リンクの記述によると、【原義は「アルコール依存症の親のもとで育ち、成人した人々」を指す言葉(Adult Children of Alcoholics, ACA, ACoA)である。1970年代、アメリカの社会福祉援助などケースワークの現場の人たちが、自分たちの経験から得た知識で、名づけて呼び始めたもの】だったそうなのですが、現在では【幼少時代から親(血縁上の親とは限らない)から正当な愛情を受けられず、身体的・精神・心理的虐待を受け続けて成人し、社会生活に対する違和感があったり子供時代の心的ダメージに悩み、苦しみをもつ人々の総称】と考えられているようです。そういう意味では、レーガン、クリントン両氏は、原義通りの「古典的な」アダルトチルドレン、ということになるのです。今はもう、とにかく「子供時代に親にイヤなことをされたから、私はアダルト・チルドレン!」みたいな使い方をする人も少なくないようですが、逆に、子供時代に親にイヤなことをされたことが全然無い子供もいないと思いますから、これはもう「程度問題」だとしか言いようがないし、昨今はかなり「濫用」されがちな言葉ではあるんですよね。レーガン、クリントン両氏の場合は、そういう「自称アダルトチルドレン」みたいな生易しいものではなかったみたいですが。

 アメリカの大統領というのは、現在の地球上でもっとも権力を持っている人間のひとりなのですが、あの自信家で豪腕のイメージがあるクリントン前大統の最大の「武器」が子供時代にアルコール依存症の父親の家庭内暴力から他の家族を守るために学んだ「調停能力」だったというのは、すごく意外な気がします。確かに、強気一辺倒では、あの若さで頂点に登りつめることはできなかったのでしょうが、それにしても「悲しい過去」ではありますよね。「そういう子供の頃の経験がプラスになった」という評価に対して、クリントン前大統領本人は、「余計なお世話だ」「もっと明るい少年時代を送れていたら、大統領になんてなれなくても良かった」と思っているかもしれませんけど。
 



2006年12月21日(木)
伝説の高額切手「月に雁」の現在の価値

『PEACE』(みうらじゅん著・角川文庫)より。

(切手収集に関する、みうらさんの思い出。ちなみに、以下の文章の初出は1997年です)

【どっかの雑誌でちょこっと”切手”の話を書いた。すると久しぶりに会った緒川たまきが、
「私も切手、好きなんですよ」
 と言ってきた。
 ここが問題なんだけど、緒川たまきという人は今、とってもオシャレな人々の間で人気がある女優というか、”存在”なわけだ。オレはオシャレじゃないのでよくわかんないんだけど、まわりの人がそう教えてくれた。ということは、切手がオシャレなわけだな。
「へぇ^、じゃ”月に雁”とか持ってる?」
 オレはうれしくって、そんな存在と切手の話ができて。
「みうらさんは今、”月に雁”1万円ぐらいって書いてましたけど、2万円しますよ」
 オレの記憶は小学生の時から止まっているので、倍になっているとは知らなかった。
「昔は、”月に雁”さえあれば、家が建つって思ってたもんな」
 切手話の基本は”月に雁”と、次に高かった”見返り美人”。それが出ると”写楽”そして”ビードロを吹く女”と相場は決まっていた。別にその絵柄が好きだったわけじゃなく、『原色日本切手図鑑』というカタログ(現『さくら切手カタログ』)を見て、いちばんわかりやすく高価だったからだ。
「キレイな切手を買って、それを貼って手紙を出すのが私のマイブームですね」
 せっかく”月に雁”の話で彼女のハートをゲットしたかと思った矢先、緒川たまきはそう言った。
「貼っちゃーいかんな。出しちゃーいかんな、それ以前に指紋をつけちゃーいかんなぁー」
 オレはいきなり鑑定団のオッサンのような気持ちになった。
「だってキレイなものは出したいじゃないですか? 喜んでもらえると思うから――」
 その天使のような発言に、オレは一気に強欲ジジィに墜落。
「でも将来すごく値打ち出るかもしれんがな」
 とたんに関西弁だ。
「キレイな切手を見ていると、心が休まりません?」
 心が休まるって……言ったって……おいっ!
 オレは怪獣ブームと同じく切手も、第一期生だ。決してリバイバルではないところが誇りだ。
 それまで近くの公園で鼻をたらしながら泥だんごを作っていたオレ様が、突如として手はキレイに洗うは、ピンセットで切手をつまむは、切手帳の整理はするは、もう大変な変革期だったわけだ。オレと同様、公園のブランコに荒乗りして、地面に思いっきり顔面を打ちつけていた友人も第一期切手ブームを境に、清潔野郎に変身した。
「むちゃな交渉やで、おまえのお年玉小型シート、いくら見積もっても1000円ぐらいやで。それに”蒲原(かんばら)”つけるちゅーても、ま3000円ぐらいなもんやろ。言うとくけど、こっちは”月に雁”、ま一応消印はあってもや、5000円以上は確実にしよるわけですわな」
 オレはそれまでクラスでは10位くらいの切手コレクターだったが、親戚のオッサンがくれた切手の中に何と!”月に雁”が入っていたことから、一気に切手王の座に上りつめた。
「見るのはタダやさかいにな、でも指紋はつけんといてや」
 浪花のどけち商人のようなガキだったわけだ。
 本気で”月に雁”さえあれば、家が建つと信じられていたあの頃、ガキが生まれて初めて大人の世界に首を突っ込んだようで、うれしかった。
 その頃の夢は東京という街に行って、”ケネディ・スタンプ”などの切手販売所を回ること。オレの持っている切手でブイブイ言わすことだった。】

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 男だったら、この「切手収集」というのは、誰もが一度は通る道なのではないでしょうか。僕も小学生くらいのとき「切手収集」にハマっていたことがあったので、このみうらさんのエッセイ、とても懐かしく感じながら読みました。当時の「切手入門」などの子供向けの入門書には、必ずこの”月に雁””見返り美人”の2つの切手が「いちばん高い値がつく切手」として紹介されていたものです。僕もデパートの切手売場でケースに並べられたこれらの切手を眺めながら、「こんな高い切手、絶対に買えないよなあ……」と溜息をついていたものでした。使用済切手は価値が大きく下がってしまうのですが、それでも家に来る郵便物に珍しそうな切手が貼られていると、丁寧に剥がそうとしては失敗していたりもしたものです。あの頃は、「この切手、貼らずに送ってくれないかなあ」なんて真剣に思っていたのですよね。そもそも、貼らなきゃ届かなかったはずなのに。
 そして、ここでみうらさんが書かれているような「友達との切手交換」などもよくやっていました。今でいうと、ポケモン交換みたいなものでしょうか。でも、切手というのは「これは○○円の価値がある」というイメージが頭の中にあるものですから、「なんとか自分が損をしないように」というのと友達との人間関係を天秤にかけて「商売」をするのは、なかなか骨の折れることだったような記憶もあります。そして、当時の僕は「こうして集めた切手たちが、いつかすごい『お宝』になって、本当に家が建つのではないか」と期待していたのです。
 ここで紹介されている”月に雁”、1958年生まれのみうらさんが小学生のときの”第一次ブーム”で1万円、これが書かれた1997年の時点で2万円くらいだとしたら、今は幾らになっているのだろうか?と思っていろいろ調べてみたのですが、2006年の時点での”月に雁”の価値というのは、比較的状態の良いもので1〜2万円くらいが「相場」みたいなんですよね。「さくら日本切手カタログ」では、いちばん高い未使用美品で25000円程度。郵便という文化そのものが電子メールに取って代われつつあり、趣味として切手を集める人が少なくなったせいもあるのでしょうが、市場価格は「やや凋落傾向」にあるみたいです。「時間が経つほど値上がりするはず」という僕らの目論見は、あえなく外れてしまっています。
 ちなみに、20〜30年前の「切手ブーム」の時代の切手は、「当時集めていた人たちみんながシート買いをして保存しているので、額面以上の価値があるものはほとんど無い」そうです。結局、他人と同じことをしていては、なかなか「勝ち組」にはなれないってことなのかもしれません。
 緒川さんじゃないですが、いっそのこと「貼って出してしまったほうがいい」ような気分にすらなってくる話です。
 まあ、あと何十年かすれば、「昔は『切手』というのを貼って、手書きで郵便というのを送っていたんだよ」と、孫に見せて驚かせるのに役立つ可能性は、十分ありそうなんですけどねえ。



2006年12月20日(水)
なぜ、日本映画に「リメイク作品」が増えたのか?

「日経エンタテインメント!2007.1月号」(日経BP社)の「ヒットメーカー対談・樋口真嗣監督『日本沈没』×細田守監督『時をかける少女』」より。

(今年(2006年)の日本映画界を代表する「リメイク作品」の2人の監督による対談記事の一部です)

【細田守監督:樋口さんも僕もどちらもリメイク作品ですよね。リメイクといえば、もう1本'06年の話題作に『ドラえもん のび太の恐竜2006』がありますよね。70年代、80年代の作品と今復活させることの意味を、どう考えましたか。リメイクって、見てもらう前の印象は決してよくないじゃないですか。何で今さら?と言われたりとか。

樋口真嗣監督:そうなんですよ、リメイクって何だかラクしてるっぽい感じを与えるし、変えると「どうして?」となるから敵を作りやすい。さらに難しいのが、その元になった作品を自分が好きであればあるほどつらくなっていくこと。

細田:『時をかける少女』を作るにあたっては、今の若い観客が予備知識なしで新しい作品をして出会ってもらえるように考えました。なので、あえてノスタルジックにならないように意識しています。

樋口:俺も、『日本沈没』を作るにあたって1つだけ条件をお願いしたことは、「変えてもいいですか」でした。元の映画がものすごく好きなので、ゼロから作りあげた前のものには絶対に勝てない。だとしたら、今の時代にどう着地させられるかを考えたんです。また、これは現実的な話なんですが、公開直前に大地震があっても自粛しないで済む話にしなきゃいけない、というのもあって。だから、怖いというよりも悲しい感じにできないかと思ったんです。生活の基盤、住む場所がどんどんなくなっていく怖さがじわじわっと感じられるようにしたいと。
 今回僕は、旧作を知らない人の意見の方が新鮮だったんですよ。知っている人は、知っていることが邪魔になって、映画に入り込めないような印象を受けたんです。だけど、話題性は絶対に必要だからリメイクの有利さも捨てがたい。

細田:『時をかける少女』も『日本沈没』も世代的にオールターゲットなところがありますよね。

樋口:そうですね。映画って金と暇があるやつしか行かないわけでしょう。今の30代、40代は金があるけど暇がない、それより若いと金がない。だから、もうじき定年退職を迎える世代の人たちがこれからの映画を支えてくれるんだと思います。同時にそこは、昔の『日本沈没』を見た記憶が残っている年代で。その年代の人たちが見に来てくれたのはすごくうれしかったです。『時をかける少女』は最初から変える前提でしたか?

細田:過去に7度も繰り返し映像化されている原作はほかにないですよね。もはや古典と言ってもいいほどです。だからこそ僕ら作り手の、この現代という時代をどうとらえるかという解釈が非常に重要になってくると考えました。】

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 樋口監督の『日本沈没』は興行収入約52億円の大ヒットとなり、細田監督の『時をかける少女』も非常に高い評価を得ている作品です。僕は両作品とも未見なので、内容については語れないのですが、そういえば、この料作品は、どちらもリメイクであるのと同時に、小松左京、筒井康隆という日本のSFの最盛期を支えた巨匠の作品が原作であるという類似点も持っているのですよね。ちなみに、両作品は、2006年の7月15日、ちょうど同じ日に公開されているという共通点もあります。『時をかける少女』は、今回アニメ作品としてリメイクされていますから、見た目の印象には、あまり共通点はなさそうなのですが。
 両監督がここで語っておられるように、「リメイク作品」というものに対して、多くの観客はあまり良い印象を抱いていないのではないでしょうか。原作に思い入れがある人は、「なんでわざわざリメイクするんだ、金のために名作を汚すな!」なんて憤ったりもするでしょうし、元の作品を知らない人に「古臭い」というイメージを持たれたりもするはずです。「元の作品の知名度と内容を利用して、ラクに商売しやがって!」などとも、思われがち。
 もちろん、そんなことは製作側である両監督は百も承知で、この「リメイク」という仕事をされていたようです。樋口監督は「話題性は絶対に必要だから、リメイクの有利さも捨てがたい」という、現実的な面での「リメイク作品のメリット」も正直に語っておられますし。「お金じゃなくて、好きな作品だから自分の手でリメイクしたかった」といくらアピールしてみても、やっぱり「お金にならないリメイク」をやるのは、映画を1本製作するのにかかるコストを考えたら、ちょっと無理ですしね。
 あのピーター・ジャクソン監督が、愛する『キングコング』をリメイクできたのは、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズでの彼の成功とネームバリューあればこそ、でしたから。
 この対談のなかで、僕がとても印象に残ったのは、樋口監督が「リメイク作品をつくる理由」のひとつとして、「これからの映画産業を支えていくはずの『もうすぐ定年退職を迎える世代の人々』へのアピール」を挙げていたことでした。確かに、平日の夜の映画館には、けっこう御高齢の観客が多いな、という印象を僕も持っていたのです。僕は「映画は若者向けのものが中心」だと思い込んでいたのですが、製作側にとっては、これからの映画産業にとっての「生命線」は、「若者」ではなく、「もうじき定年退職を迎える世代(あるいは、もう少し上の世代)」に移ってきているようなのです。今の30歳以下くらいになってくると、レンタルビデオやDVDで映画を観ることが当たり前になってしまっていて、「映画を映画館で観ること」にこだわりが無い人も多いでしょうし。逆に、映画館で上映されている作品にも「これは興行収入はいまひとつでも、DVDの売り上げに期待しているんだろうな」というような「ちょっとお金をかけたテレビドラマ」みたいなものが増えてきているような気もするのですけど。
 ただ、若い世代にもアピールしていかないと、長い目でみれば「映画人口」は減っていくばかりなのもたしかではあるのですよね……



2006年12月18日(月)
「人間を食べて生き延びること」を決断した理由

※今回はかなりグロテスクな内容なので、御注意ください。
 「死体」とか「気持ち悪いもの」には耐えられない!という方は、読まないほうがいいです。


『孤独と不安のレッスン』(鴻上尚史著・大和書房)より。

【1972年10月に、ある飛行機がマイナス40度のアンデス山中に不時着しました。乗客達は、食べるものがなくなり、先に死んだ乗客の死体を食べて、17人が生き延びたという事件がありました。当時、世界的な話題になった遭難事件です。
 食べ物がなくなり、乗客であるウルグアイ人達は、死ぬか死体を食べるかの選択を迫られたのです。
 その時、乗客達は、一人一人、神と対話しました。
 全体でももちろん、議論はしましたが、最終的に食べるかどうかは、一人一人、それぞれに神と対話したのです。
 仲間と話す時も神の譬(たと)えを出しました。食べることに積極的だった人は、「神の思し召し」という言い方をしたそうです。
「これは、聖餐だ。キリストは我々を求道的生活に導くために、死んで自分たちの体を与えた。我々の友人達は、我々の肉体を生かすために、その体を与えてくれたのだ」
 そして、一人一人は、神と対話し、人肉を食べることを決断して生き延びました。
 第二次大戦後、航空機が砂漠や山奥に不時着して、生き延びるために死体を食べることになった事件は、世界では10件以上あるそうです。
 伝わってくる情報では、キリスト教徒は、議論はしますが、最終的には、神との対話によって、一人一人、決めたようです。そのあと、神のことを語ることが増えるのも特徴です。鳥に姿を変えた神の導きで、山を歩いて助かったと語ったという1979年のカナダ人のセスナ事故もありました。
 一神教というキリスト教を信じた人達は、みんな、神に対して、「神様、食べていいのでしょうか? 私はどうしたらいいのでしょう?」と個人的に一人で問いかけるのです。
 僕は、いつも、もし、日本人が乗った飛行機がこういう状態になったら、日本人はどうするんだろうと考えます。
 どうなると思いますか?
 たぶん、僕達は、議論をして、話して、なんとなく、全員が納得したようなら、生き延びるために死体を食べるんだと思います。
 ひょっとして、誰が最初に実行するかは、日本文化の代表、「じゃんけん」で決めるかもしれません。
 つまり、日本人は、個人的に問いかける神を持ってないのです。みんながどう思っているか、みんながどう判断するかが、一番大切なことなのです。】

参考リンク:X51.ORG「カニバリズム - 人間は如何にして人間を食べてきたか」(このエントリのなかの「事故、飢餓対策としてのカニバリズム」という項のなかに、この「アンデス山中の飛行機事故とその後起こったこと」についての記述があります)

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 日本人にとっての「神」とは、「世間」なのではないか、という話のなかで、鴻上さんが紹介されているエピソードです。これを読みながら、僕は「自分が同じ立場になったら、いったいどうするだろう?」とずっと考えていたのですが、正直「その状況に置かれてみないと、わからないよなあ」としか言いようがありません。食べ物の心配もなく、のんびりパソコンの前に座っている状態で、「極限の飢えにさらされたら、人間を食べてでも生き延びようとするか?」と問われても、大部分の人は、「そこまでして生きようとは思わない」と答えるはずです。まあ、この飛行機の乗客たちだって、飛行機事故に遭うまでは、同じようなものだったと思うのですが。
 これを読んでいて最初に感じたのは、「神を持つ人々」に比べると、「神を信じられない僕たち」というのは、こういう極限状態に置かれたときにとても不安定なのではないか、ということです。「神の意思」を掲げて行われた侵略や大虐殺は歴史上たくさんありますしね。そして、僕がもしその乗客で、周りが日本人ばかりだとしたら、確かに「神」を持ち出す人はほとんどおらず「この人たちは、もう死んでいるのだから」「彼らも我々が生き残ることを望んでいるはず」というような「科学的な解釈」や「故人の感情」を持ち出して説得する人が出てくるだろうと想像します。ただ、もし他の犠牲者を食べて生き延びた場合には、「神の思し召し」だと自分に言い聞かせられない分だけ、罪の意識は大きくなるのかもしれないな、という気もするのです。
 しかしながら、この鴻上さんの文章には、この出来事に関する重要な点が欠けています。それは、参考リンクに書かれている、以下のことです。

【極限状況の中で生存者は死亡者の肉を食べ、何とか生き延びたのである。しかしまた、そうした非常事態にも関わらず、それでも肉を食べることを拒否し続け、命を落とした者も多かったという。また肉を食べ、生存した者たちはこの時次のように食べない者を諭し、食人を肯定したという。「聖体拝領だと思えばいいんだ。キリストの血と肉だと思えば良い。神が僕らに与えて下さった食べ物なんだよ。神は僕らに生きよと思し召していらっしゃるんだ。」また生存者の一人は後に行った講演で次のように語っている。「友人の肉を口に入れた時は、罪の意識がありました。しかし、同時にこんな所で絶対に死にたくないと思い、この肉に友人の魂は宿っていないと自分に言い聞かせました。」更に、この事件について、ローマ法王庁は後に彼ら生存者の食人による生存を肯定し、「破門しない」ことを発表して世間を驚かせた。】

 実際は、「神を持つ人々」も、全員が「神の思し召し」として人間の肉を食べることを受け入れることができたわけではないし、人間の肉を食べた人の中にも、食人を頭では否定しながらも「こんなところで死にたくない」という気持ちのほうが強かったため、泣きながら口にした人がいたのです。そういう意味では、彼らは本当に「一人一人が神と対話をして決めた」と言えるのかもしれません。そして、彼らの神は、それぞれ違う答えを出したのです。
 おそらく、遭難したのが日本人だからといって、みんながすべて同じ答えを出すということはないでしょう。そして、「みんなで話し合おうとする」可能性は高くても、「全会一致の結論」は出そうにありません。それに、食べようとする対象が自分の家族や友人であるのと、その場に居合わせただけの他人であるのとでは、答えが違ってきそうです。昔の中国では、大飢饉のときに、隣人とお互いの赤ん坊を取り替えて食べたそうです。現代と比べてはいけないことなのでしょうが、極限状態になれば、その「相手」によっては食べられる、という答えだってありえるのです。
 たぶん、「じゃんけん」はせずに、誰かひとり、あるいは1グループが「それ」を行って、それに追随する人が出てくる、ということになるのではないかと僕は思います。いずれにしても、あまり想像したくない話なのですけど。
 ただ、生き延びたあとでは、「神の思し召し」と無理矢理にでも自分に言い聞かせられるという「神を持つ人々」と比べれば、「最初に○○さんが食べようって言ったから…」「みんなが食べていたから…」と考えがちな日本人のほうが、その後生き続けるにはよりいっそう辛いのかもしれませんね。



2006年12月16日(土)
中島みゆきさんが選んだ「一冊の本」

『ダ・ヴィンチ』2007年1月号(メディアファクトリー)の「中島みゆき・スペシャルインタビュー」より(取材・文:藤井徹貫)

【インタビュアー:銀河つながりになりますが、みゆきさん推薦の一冊が宮沢賢治『銀河鉄道の夜』だそうですが。

中島みゆき:2004年に初演し、06年に再演した夜会『24時着0時発』(再演時は『24時着00時発』の土台になった物語ですから。私にとっての『銀河鉄道の夜』を、宮沢さんにお手紙申し上げたのがあの芝居というか。かっこつけて言うなら、”宮沢賢治に捧ぐ”ってところですかね。

インタビュアー:中島版『銀河鉄道の夜』とも言える舞台でしたよね。

中島:かなりしつこく読み返しましたよ。途中、挫折しそうになったし。自分としての解釈は明確でしたが、原作者が何を言いたかったのかを、確認しながら脚本を書き進めないといけないし。自分の解釈だけで染めればいいってものじゃないから。ディテールにも気をつかいました。車窓から見えたのはススキなのか、イナホなのかとか。原作がススキであるなら、舞台でもそう見える工夫をしておかなければならないし。列車のシートは何色かとか。女の子が手に持っていたものとかも。

インタビュアー:最初の出会いはいつ頃でしたか。

中島:たぶん小学生の頃だったと思います。教科書にその一部が載っていたか、夏休みの宿題の読書感想文のために読んだか。それから何十回読んだかわからないけど、読むたびに解釈が違います。

インタビュアー:『銀河鉄道の夜』が読みたくなる周期があるのですか。

中島:忘れちゃうの。細かいところを。それに誰にでもあるでしょ、なぜか何回も買ってしまう本とか。本屋に行くと、なぜか手が伸びてしまう本とか。それですね。

インタビュアー:では、『銀河鉄道の夜』から得たものをひとつ教えてもらえますか。

中島:あの物語があったから、あの芝居ができたという意味では、「わかりやすくする」ことも学んだのかもしれませんね。たとえばですが、『24時着0時発』初演時は、賢治を具体的な姿で舞台に出しませんでした。瞬間それらしきものは出しましたけど。それじゃわかりづらいと。だから、今年の再演時は、最初と最後にしっかりとKENJIとして登場させたんですよ。アルバムにも通じることだけど、わかりやすくするとは必ずしも作品のクオリティーを落とすことにはならないと、わかりやすくしようと試みていました。

インタビュアー:またいつか『銀河鉄道の夜』を読みたくなるときがくると思いますか。

中島:それはあるでしょうね。読み切ったとは思っていないし。しばらくして読むと、別な解釈をするようになるかも。この先も楽しみな本です。】

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 中島みゆきさんが選んだ「一冊」は、宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』ということです。この中島さんのインタビューを読んでいると、中島さんにとって『銀河鉄道の夜』は非常に大切な作品であるということが伝わってきます。それにしても、「自分としての解釈は明確」であったにもかかわらず、「原作者の言いたかったこと」をここまで突き詰めなければいけないのか、と僕はちょっと驚いてしまったのですけど。そういうのって、「私はこう思うから」ということで押し通してしまうことだってできるだろうし、「ススキかイナホか」「列車のシートは何色か」なんて、大部分の観客たちにとっては、たぶん「気にもかけないこと」だと思うのです。でも、同じ「創作」に携わるものとして、中島さんは宮沢さんの「世界観」を非常に大事にしているのです。
 中島さんの「忘れちゃうの」というコメントには、ファンとしては思わずニヤリとしてしまうと思うのですが、「『銀河鉄道の夜』から得たもの」として挙げたのが「わかりやすさ」というのはやや意外な印象もあります。『銀河鉄道の夜』というのは、僕にとって、けっして「わかりやすい」ものではなかったから。でも、そういうのも含めて、『銀河鉄道の夜』というのは、いろんな解釈のされかたをされながら、今でもたくさんの人に愛されているのですから、そういう「包容力」も含めて、やはり名作だということなのでしょうね。本というのは、何度も読み返したくなるものだし(僕の場合、あまりに初読の印象が素晴らしすぎて再読する勇気が出ない本というのもありますが)、読み手が歳を重ねていったり、立場が変わっていくことによって、解釈も変わっていくものですから。



2006年12月15日(金)
『プラダを着た悪魔』、アナ・ウィンター編集長の「伝説」

「クーリエ・ジャポン」2006/11/16号(講談社)の特集「ファッション業界の内幕」のなかの「『プラダを着た悪魔』と呼ばれた”女帝”という記事の一部です(Samuel Blumenfeld・著)

【スレンダーなこの英国人女性、アナ・ウィンターは56歳。'88年に米国で「ヴォーグ」編集長に起用されて以来、絶大な権力を振るってファッションの世界に君臨してきた。ストレートのボブヘア、尖った唇、ふだんは黒のサングラスで完全に隠されている切れ長の目……。アナ・ウィンターを見ると、召し使いを連れたオードリー・ヘップバーンとすれ違ったかのような錯覚に陥る。気位の高そうなその姿から「グラマーな昆虫」「手脚にハサミがついている」などと揶揄され、ファッション界での専横ぶりに相応しく、さまざまな鳥の名前まで冠されている。冗談のネタにされることはしょっちゅうだ。
 アナ・ウィンターは、パリのファッションショーの日取りを自分の都合で思うままに変更することができる。彼女が人前に姿を現すときは、きまって専属ガードマンが付き添っている。彼女の嗜好はファッションの至上命題となる。数々の流行を生み出し、消し去るのがこの女性なのだ。いや、こう言うべきか。アナ・ウィンターには、自分のまなざしを惹きつけたもの、おメガネにかなったものを、ことごとく黄金に変えてしまうミダス王の力が備わっている、と。

(中略)

 ただ、このオーラには気まぐれが付きまとう。
「彼女がニューヨークで開催されるショーの席を予約するとき、何て言うと思う?」
 と、英国の某ファッション誌の編集長。
「普通の人なら、1列目や2列目に席が取れたら満足でしょ? アナ・ウィンターは、誰にも視界を遮られず、誰の視界からも遮られる席を取れ、という無茶な要求とするのよ」

 度外れの気まぐれぶりは、「ヴォーグ」編集長就任当初から発揮されていたという。彼女が発する行き当たりばったりで容赦ない命令に、アシスタントたちは絶対服従しなければならない。物事を手際よく処理する能力が要求されるだけでなく、家政婦まがいのつらい仕事も課せられる。「ヴォーグ」の女主人が望んだものは、どんなものでも入手すべく奔走し、オフィスに届けなければならない。徹底的な献身を要求され、休憩もほとんどとれず、ときにはトイレに行く暇さえない。
 たとえば、アナ・ウィンターが朝オフィスに到着するまでに、朝食を用意しておかなければならない。こんな注文はおやすい御用と思うだろう。だが、この上司は朝、何時にオフィスに着くのかわからないのである。しかもコーヒーは熱々でなければダメ。温め直したコーヒーなど論外だというのだ。かくして15人分の朝食が時間差で用意されることになる。こうするよりほかに、方法がない。

(中略)

「ヴォーグ」のトップの座についてからというもの、彼女は新しい美的感性を追求し、顧客に服を披露するだけというそれまでのモデルのイメージを一変させた。それまでこの月刊誌の表紙写真は、スタジオ内の、いささか過剰なセットのなかで撮影されていた。それを彼女は、ごく自然なセットで撮影させるようにしたのだ。
 また彼女は、ファッション業界の表と裏、つまり生産者と消費者という相反する領域を見事に仲介した最初の人物でもある。彼女が「ヴォーグ」の編集を開始した88年11月号は、こうしたスタンスをはっきり打ち出している。表紙に登場した19歳の女の子は、40ドルの洗いざらしのジーンズに、クリスチャン。ラクロワのTシャツ、それに何と1万ドルのジュエリーを身に着けている。
「ヴォーグ」という雑誌には、編集長の確固たるアイディアが貫かれていなければならない。たとえば、登場する男女が充分に洗練されていないルポタージュなどは、容赦なく切り捨てられることになる。当然、ある程度の犠牲も出てくる。TV番組の人気司会者オプラ・ウィンフリーは、表紙登場に際し15kgもの減量を余儀なくされた。ヒラリー・クリントンは「ヴォーグ」登場の栄誉にあずかるため、自分のクローゼットの中身を総入れ替えさせられたうえ、着ていたマリンブルーの衣裳がマダム・ウィンターのお気に召さず、別のものに着替えなければならなかったという。
 掲載記事の内容も見逃せない。航空会社の客室乗務員をめぐる逸話はよく知られている。乳がんの特集記事を組んだ際、実際に病気を患った客室乗務員を前面に押し出すインタビューを掲載する予定だった。真偽の程は定かではないが、レベルの高い、あるいは気位の高いのが「ヴォーグ」読者だからと、アナ・ウィンターは、客室乗務員ではなく女性実業家の乳がん患者をわざわざ見つけてきて、出演依頼をしたのだという。】

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 映画『ブラダを着た悪魔』では、メリル・ストリープさんが、このアナ・ウィンターさんをモデルにしたと言われているファッション雑誌編集長を演じています。
 僕はあの映画で「紹介」されている「アナ・ウィンター伝説」の数々は、それなりに「演出」したものなのだろうな、と思っていたのですが、この記事を読んでみると、御本人もかなりすごい人みたいですよね。「誰にも視界を遮られず、誰の視界からも遮られる席を取れ」なんて、これはもう、一休さんにでも頼まないとどうしようもないではありませんか。ファッション業界の人たちは、いったいどうやって、この「無茶な要求」にこたえているのでしょうか?
 ここで紹介されているアナ・ウィンターさんの数々の逸話を読んでいると、「雑誌の編集長っていうのは、ここまでの権力を持てるものなのだろうか」と疑問にすらなってきます。時間差で朝食を15人前も用意させるくらいなら、ある程度決まった時間に出社するか、せめて出社してから準備をさせればいいことだし、そもそも、朝食の準備くらい自分ですればいいのに、という話ではあるんですけどね。ただ、その一方で、この記事で紹介されているように、ウィンターさんのセンスには卓抜したものがあって、彼女自身の「カリスマ性」に、「ヴォーグ」が支えられているのも事実なのです。無能でこの行状なら、こんなに長い間「君臨」できるわけもなく。
 僕などはこの記事を読んで、「ヴォーグ」の選民チックな主張に不快感を抱いてしまうのですが、世の中には「ヴォーグ」に認められるような女になりたい!と考えている女性も多そうですものね。人気司会者を15kgも痩せさせたり、あのヒラリー・クリントンにダメ出しをしまくったりしても、許され、それでも彼女らが「載りたい」と願う雑誌。そして、そんなエピソードによって、さらに「ヴォーグ」は権威づけられていくのです。まあ、読者の立場としては、自分がウィンター編集長のアシスタントになるわけではないですしね。



2006年12月14日(木)
戦慄の「マンション販売電話」の向こう側

「週刊SPA!2006.11/28号」(扶桑社)「SPA!RESEARCH[会社の雑学]大百科」より。

(『会社図鑑!』の著者オバタカズユキ氏に聞く「自分が一番凄いと思った企業ネタ」というコラムから)

【広報の紹介ではないダイレクトな会社員への大量取材によって、『会社図鑑!』を12年度ぶん刊行してきたライターのオバタカズユキ氏。街中の様子を見るだけで、どの業種に勤めている人なのかある程度わかるようになったという彼が、取材体験談を語ってくれた。

オバタ「どんな業種の人でも、大概はグチモードなのですが、とりわけグチが凄いのは銀行です。実際、2時間延々とグチを言いっ放しで、こっちがゲンナリ、なんてこともしばしばです(笑)。取材前にアンケートを実施したときは、A4の用紙に小さい字でビッシリとグチを書いてくれた率No.1。三菱東京UFJ銀行などは、社風なんでしょうけど、これに慇懃無礼さが加わって、すごい負のパワーです。銀行業界は人事考課が基本的にマイナス評価の減点法だから、ミスもできないし、ストレスも溜まるんでしょうね。それに、とにかく不自由。”協調性”の名のもとに、休日も社内行事で埋まりますから」

(中略。数少ない「自慢に走るタイプ」は、商社マンに多いという話題)

 両極端なケースを紹介してもらったが、オバタ氏が戦慄するような極北のエピソードが語り継がれている伝説的な会社もある。

オバタ「今はもうやってないようですが、マンション販売の大京は凄かった。電話営業がメインなんですが、電話中は立って話さなくてはならない。しかも、受話器が手に縛りつけられてるんです……。軍隊かと思いましたよ。まぁ、不動産業界は財閥系が圧倒的に強いので、大京のようなインディペンデント系の会社はこうせざるを得ないというのはわかりますが……」】

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 周囲からみれば「一流企業にお勤めでいいですねえ」なんて言われるような人でさえ、本人にも全く不平不満がない、なんてことはやっぱり少ないみたいです。「2時間グチを言いっぱなし」なんていう銀行員の話などは、よっぽど不満が蓄積しているんだなあ、というのと同時に、そのくらいグチが言えるバイタリティがあれば、まあ大丈夫なのかな、とも感じてしまうのですけど。しかし、平日の15時までしか窓口が開いておらず、用事があってもなかなか行くこともできない僕は、「いい商売だなホント」と内心悪態をついていたのですが(もちろん、窓口が閉まってからが大変なのだ、という話はよく耳にします)、お金を扱うというストレスのほかに、「休日も行内行事で埋まる」なんていう「業界の掟」があるとは知りませんでした。もちろん給料はそれなりに良いのでしょうけど、銀行勤めもそんなにラクではなさそうです。

 そして、この「大京」のエピソードには、僕も驚愕してしまいました。
 日頃から「節税対策のためにマンション買いませんか?」という電話に悩まされていますし、当直中に病院にわざわざ電話してくる業者もいて、僕たちが非常に迷惑している、あの電話の向こう側の恐るべき光景。
 「急患か?」とドキドキしてメモ用紙などを準備しているところに、いきなり「ところで、税金対策にマンションをオススメしているのですが……」とやられると、「誰が買うか!」と怒鳴りたい気分になるんですよね。そもそも、こんな電話でマンション買うヤツなんているわけないだろ…と思っていたら、以前の同僚から「2部屋買わされてしまってローンに追われている」なんていう話を聞いて驚いたことがあります。結局のところ、大部分の人は相手にしていなくても、たまに誰かが買ってくれれば十分に元が取れる、ということのようです。
 しかし、僕も含めて、周囲の人の大部分は「マンションの電話」に対して、「即切り」「無言」「罵倒」などのリアクションをとっているわけで、彼らだって木石ではないわけですから、よくあんなこと続けられるよなあ、という気もしていたのです。電話してくる営業マンからすれば、10回電話して、まともに話を聞いてもらえることが1回あるかどうか、くらいのものでしょう。逆に、1回話を聞いてしまったり、実際に会ってしまうと新興宗教の勧誘まがいのかなり強引な手段で買わせようとする、という話ですが……
 結局のところ、彼らもまた「生活のため」に必死になって、あの仕事をやっている(あるいは、やらされている)ということなのでしょうね。電話ですから、立っていることに合理的な意味があるのかどうかはさておき。受話器が手に縛りつけられているなんて、もはや拷問だとしか思えません。そうやって必死に営業マンが電話をしまくって、人の良い顧客にマンションを強引に買わせるというのは、なんだかもう不毛の極みであり、その必死さをもっと建設的な方向に生かせないものか、と、つい考えてしまうのですけどねえ。



2006年12月13日(水)
『パズル通信ニコリ』の人気の秘密

「ダ・カーポ」596号(マガジンハウス)の特集記事「『雑誌戦国時代』のゆくえは?」より。

(パズル雑誌の老舗『ニコリ』について)

【脳活性の効果ありと空前のブームになっている数字パズルのSUDOKU(数独)。現在パズル誌は70誌以上もあり、市場規模は拡大。読者の奪い合いが激しくなる中、26年も続く老舗中の老舗の季刊誌『パズル通信ニコリ』は今も健在。週刊文春やサンデー毎日、朝日・読売新聞などパズル問題を提供しているのは80紙誌にも。新興のライバル紙を抑える人気の秘密はやはり出題問題のクオリティーの高さにある。1冊に載る問題は数独やクロスワードなど、約150作品。驚くべきは、その9割が投稿によるものという事実だ。まさに読者が作る雑誌なのだ。
「20、30代の男性会社員や主婦、フリーター、大学生などが投稿してくれます。慣れた人だと通勤の行き帰りだけで1問作成してしまう方もいますね」(編集室長・安福良直さん)
 昨今のブームで投稿数は増加。投稿作品の誌面への採用率は今や、たった2割にすぎない。後は、残念ながらボツだ。それだけレベルが高い。読者にとっては「解いて楽しい問題」ばかりということになる。
 安福さんの編集者としての最も重要な仕事は、問題のクオリティーを見抜くこと。すなわち毎日毎日、送られてくる作品を解くことだ。多い日で1日60作以上も解くことがあるそうだ。
「どの作品でも一度解いてみないと問題の良しあしが分かりません。少しずつパズルの空欄を埋めていくと、面白さが伝わってくる。すべての空白を埋めた時の達成感の大きいものを誌面に採用しています。60作品もやっていると、頭も疲れますが、数字などを書き込む手も疲れてしまいますね(笑)」
 安福さんはこの季刊誌以外にも、パズル問題満載の各種単行本も並行して作っており、年間10数冊担当する。多忙だが、それでもこう語る。
「『パズル通信ニコリ』の定例ページに、新しいパズルを作ろうという連載企画があるんです。これも読者が次々に発案してくれる。試し問題を掲載して他の読者からの反響が大きかったら、新パズルの定番になる可能性もあるのです」】

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 『パズル通信ニコリ』は、1980年の創刊。読者は高齢者からお年寄りまで幅広く、30〜40代がメインなのだそうです。ちなみに、年間のニコリ社の販売部数総数は100万部以上。まさに、パズル誌の老舗中の老舗です。
 僕はそんなにパズル好きというわけではないので、病院で患者さんが解いている雑誌をときどき目にするくらいなのですけど、この記事を読んで、『ニコリ』に掲載されている作品の9割までもが読者投稿だというのには驚いてしまいました。いや、入院中の時間つぶしにパズルを解く、という人の気持ちはわかるのだけれども、自分で問題を作ってみようというのは、どんな人たちなのだろうか?と。でも、採用率2割ということは、それだけ多くの人が「問題を作る楽しみ」にハマっているということなのですよね。これらの投稿者は、もちろん『ニコリ』の熱心な読者でしょうから、雑誌を買ってくれる読者が、新しい問題を考えて投稿し、さらに雑誌のクオリティーを高めていってくれる。そして、雑誌の質が高まることによって、さらに読者の「パズル熱」が高まっていき、新しい読者も集まる、という幸福な関係が、『ニコリ』とその愛読者たちの間には、成り立っているのです。
 そして、この「問題の質を見極める人」のセンスというのは、パズル雑誌にとってはまさに生命線と言えるものです。あの「数独」だって、実際に解いて、その面白さを見出し、紹介した人がいればこそ、あれだけの成功をおさめているのですから。易しすぎては読者もしらけてしまうでしょうし、「難しければ難しいほど良い」というものではないでしょうし。いくら好きでも、1日60作品も解かなければならないとなると、「9割が読者の投稿作品」とはいえ、けっしてラクではないですよね。
 それにしても、『ニコリ』が「パズル問題を提供しているのは80紙誌」にもなるのか……なんだか、雑誌が全然売れなくても、それだけで十分に商売になりそう。みんな、本当にパズル好きなんだなあ。
  



2006年12月12日(火)
ある人気レスラーの「プロレスラーを目指したキッカケ」

「九州スポーツ」2006年12月8日号の記事『2006マット界若き七人の志士〈第5回〉 KENTAインタビュー』より。

(2006年のプロレス界を代表する7人の若手レスラーへのインタビュー記事の一部です。インタビューされているのは、プロレスリング・ノアのKENTAさん)

【インタビュアー:ところで、プロレスラーを目指したキッカケは何だったのか。

KENTA:実はゲームなんですよ。小学校4〜5年生のころ、「ファイヤープロレスリング」っていうテレビゲームがはやっていたんです。技を知らないと友達内で恥ずかしい雰囲気があり、勉強のため本物のプロレスを見るようになった。最初は驚きばかり、例えばDDTという技を一つ取っても、ゲームの中ではいったいどういう動きをしているのかよくわからない。けど、実際に見て「ああ、本当はこうやるんだ」って(笑)。

(中略)

インタビュアー:当時は野球少年だったとか。

KENTA:両親が共働きで祖父とのキャッチボールが始まりだった。小学校3年生の時からチームでやっていました。当時はピッチャーで、このころが野球人生のピークでしたね(笑い)。中学、高校時代のポジションはサード。でもレギュラーだったのは中学校までで、高校に入ってからはレギュラー入りしたり外れたりでした。プロに入りたかったですよ。当時は黄金期の西武ライオンズのファン。優勝すると祖母が買い物に行く西友がバーゲンをやるから好きになったのかな。ただし、ミラクル・ジャイアンツ童夢くん」というマンガを見てからは巨人ファンになりました(笑い)。

インタビュアー:プロレスラーになりたいと強く意識した時期はいつか。

KENTA:中学に入り、プロレスごっこがはやった。ゲームが”実戦”に変わったんですよ。ボクはもちろん小橋(建太)さん役。太っているヤツは外国人役で、必殺の鉄人チョップでなぎ倒しましたね。本気でなりたいと思ったのは高校生になってからですね。】

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 プロレスファンの方はもちろん御存知でしょうが、KENTA(けんた、本名:小林健太)さんは、現在25歳のプロレスリング・ノア所属のプロレスラーです。イケメンレスラーとして人気を集める一方で、GHCジュニアヘビー級王座というタイトルを獲得したこともある実力派でもあります。
 僕がこのインタビューを読んで驚いたのは、現在25歳のKENTAさんがプロレスに興味を持ったきっかけというのが、テレビゲームの『ファイヤープロレスリング』だったということでした。僕にとって、ゲームが身近になったのは中学生くらいだったのですが、当時は、スポーツをいかに「それらしく」ゲーム化できるか?という時代でした。とはいっても、グラフィックも動きも貧弱ですから、どうしても「記号的なキャラクター」にならざるをえなかったのです。ずっとバッターがバットを振り回している野球ゲーム、フィールドプレイヤーが6人しか居いないサッカー、ボタンを連打するだけのプロレス……
 「ゲーム好きの人」と「スポーツマン」のあいだには、ちょっとした壁みたいなものもありましたしね。
 でも、僕より10歳くらい若いKENTAさんにとっては、『ファイヤープロレスリング』のほうが、「本物よりも身近なプロレス」だった時代があったのです。「『ファイヤープロレスリング』を遊んでいるときに友達との話についていけるように『本物のプロレス』を観はじめた」なんていうのは、僕にとっては「そんな時代になってしまったんだなあ」と感慨深いものなのですよね。もしかしたら、「本物のプロレス」のほうが、「『ファイヤープロレスリング』じゃないほうのプロレス」になってしまっている子供というのも、けっこういるのかもしれません。
 メジャーリーグに移籍する井川投手は「パワプロ(実況・パワフルプロ野球)を発売日に購入する」ほどのゲーム好きらしいですし、海外の有名サッカー選手のなかには、コナミの「ウイニングイレブン」での自分の能力値が低すぎることを嘆いていた選手がいたそうです。サッカーイタリア代表チームには、ゲーム好きの選手が多いというような話題もありました。「スポーツ」と「ゲーム」の距離というのは、僕が昔イメージしていたような遠いものではなくなってきているのでしょう。スポーツ選手として技術を極めるというのと、ゲームでハイスコアを目指して腕を磨くというのは、ストイックな努力という点では、方向性はけっこう近そうですしね。
 ちなみに、KENTA選手がプロレスに魅かれたもうひとつの理由は、『ファイヤープロレスリング』に、自分の名前(小林健太)とそっくりの名前の選手が出ていたから、なのだそうです。
 その選手の名前は、小橋健太(現・建太)。腎臓ガンで手術を受け、現在は復帰に向けてリハビリ中のノアのエース。
 ほんと、何がきっかけで人生が変わっていくかなんて、自分でもわからないものですよね。



2006年12月11日(月)
小・中学校の「女性教師率」が1位の県

「GetNavi」2007年1月号(学研)の付録「ザ★都道府県ワールド」のなかの「正解を知ってびっくりの都道府県データクイズ」より。

(紹介されているデータから、それがどこの県か当てるというクイズのなかのひとつです)

【Q13:ちまたにも”ご長寿”イメージが定着しているこの地。実際ここの女性の平均寿命は全国1位。意外にも男性の平均寿命は26位なのだが、65歳の平均余命は男女とも1位で、”老人が長生きできる”のは確かなようだ。
 そんな長寿の国は南国でもあるわけで、平均気温と最低気温(昭和46年〜平成12年の平均)は、日本で1番高い。だが最高気温の平均は23位。つまり基本は暖かく、急激な気温の変化が少ない。
 ちなみにここは小・中学校いずれの女性教師率も1位という、うらやましい(?)データもあるが、離婚率1位という恐ろしい事実もある。】

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 さて、このデータにあてはまる県は、何県でしょうか?
 いちおう、この本のなかでは、A:宮崎県、B:鹿児島県、C:沖縄県という選択肢があるのですが、「長寿」「平均気温が高い」などから考えると、選択肢がなくても「沖縄県」が答えだとわかった人がほとんどなのではないかと思います。
 しかしながら、これを読んでみると、沖縄=長寿のイメージがあるものの、けっして沖縄の人たちがみんなのどかに長生きしているというわけではないのだなあ、と考えてしまうのです。女性はともかく、男性は「65歳まで生き延びられれば余命が長い」にもかかわらず男性の平均寿命が26位ということは、若くして命を落とす男性がけっこう多い、ということでしょうし、0歳女子の平均寿命は86.01歳で全国1位なのですが、2位の福井県が85.39歳ですから、そんなに圧倒的、というわけでもないようにも思えます。生活の便利さを引き換えにしてもいいくらいの「長生き」なのかどうかは、ちょっと微妙。ただし、2位以下は、3位の長野県が85.31歳、4位の島根県、熊本県が85.30歳という大接戦であることを考えれば、0.6歳という差は、やはり、かなり突出した数字なのかもしれませんが。
 今回僕がいちばん驚かされたのは、それが「うらやましい」かどうかはさておき、沖縄県の小・中学校の女性教師率が全国1位だということでした。ちなみに、沖縄県の女性教師率は、小学校では72.6%という数字で、7割以上の先生が女性なのです。沖縄の女性には「教師」という職業は人気があるということなのでしょうが、僕はこのデータを見て思い出したのは、以前、同級生女子が言っていた、こんな言葉でした。
「田舎で女が比較的公平に評価してもらえる仕事って、医者か学校の先生くらいしかないからね……」
 「うらやましい」というより、優秀な女性が就ける仕事の選択肢が先生のほかに少ないというのが、この「女性教師率」の高さにつながっているのだとすれば、旅行者にとっては「憧れの別世界」である沖縄も、そこで生きていくとなるとけっして「のどかな楽園」だとばかりは言い切れないのでしょうね。



2006年12月10日(日)
西原理恵子さんが「お父さんにいちばん感謝していること」

『西原理恵子の人生一年生2号』(小学館)より。

(「【土佐女】サイバラ初ガタリ」と題した、西原理恵子さんへの重松清さんのインタビュー記事の一部です)

【重松清:お父さんにいちばん感謝していることって、なんですか?

西原理恵子(以下「サイバラ」);高校を退学になったとき、学校を訴えさせてくれたんですよ。弁護士を用意してくれて。「おまえがどうしても納得いかないんなら、こういう方法もあるから」って。

重松:飲酒による退学処分でしたっけ。

サイバラ:そう。その前に1回停学になってるんですけど、いままでの判例だと、その次は無期停学のはずなのに、一気に飛んで退学になっちゃったんですね。その夜は、友達とスナックで飲んでて、私は先に帰ったんだけど、残った友達が教師につかまって、警察に連れていかれたんです。それが夜の9時か10時頃だったのに、夜中の2時ぐらいまで教師が4、5人で女の子たちを小突いて、トイレにも行かせないで、私の名前を言わせちゃったんですよ。教師のなかには酔ってたのもいたんで、それは親も怒りますよね。で、もう退学だ、って。裁判の調書でも嘘と悪口ばっかり。裁判は絶対に勝つと思ったけど。

重松:でも、負けちゃった……。

サイバラ:裁判はお金と力があるほうが勝つんですよ。そのとき、「ああそうか、世間ってこんなだったんだ」って。17くらいのときですからね。ても、大人と本気で喧嘩をさせてくれた父親には感謝してます。

重松:いい体験だった、と。

サイバラ:でしたねー。喧嘩腰でもちゃんとやっていかなきゃいけないんだ、っていうのを学びましたから。

重松:退学処分や裁判に対する、両親の反応の違いってありました?

サイバラ:母親は「みっともない」って言いましたね。世間体が悪い、恥ずかしい、って。やっぱ、それはすごく傷つきましたね、うん。
 でも、父親はそうじゃない。絶対にそんなこと言わない。そこが男の人に対する理想になっちゃってる。最後に底が割れてても、絶対に嘘は言わないとか。もし自分がまわりに攻撃されたら、そうやって観も蓋もなくがんばってくれるというのが、やっぱりあれが理想になってる。】

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 西原さんは3歳のときに実父を亡くされているので、ここに出てくる「お父さん」は、お母さんが再婚した相手である義理のお父さんです。西原さんによると、「継父だからといって苛められた記憶はまったくなくて、むしろ溺愛されたことしか覚えていない」そうなのですが。
 ここで西原さんが語られている「お父さんにいちばん感謝していること」を読んで、僕はかなり驚いてしまったのです。だって、普通、女性が「父親に感謝していること」というのは「育ててくれてありがとう」とか「一緒に遊んでくれた思い出」とかじゃないかと思いますよね。でも、それが「学校を訴えさせてくれたこと」だなんて。
 正直、学生時代「停学」とは縁がなかった僕は、これを読んで、「いや、そうは言っても高校生がスナックで飲酒、しかも再犯だったら、退学になってもしょうがないんじゃないの?」とも思ったのです。そんなの「無期停学」でも「退学」でも似たようなものじゃないか、とか。
 ところが、この「事件」の詳細について、この本のなかの別項で、西原さんは次のように語っておられます(ロフトプラスワンでのトークイベント「西原理恵子の居酒屋煮え煮え」より)

【高校の頃、スナックで酒を飲んでて、私は先に帰っちゃったんですけど、残った3人が卒業生に通報され、学校の先生が5人ぐらいスナックに駆けつけてきたんですよ。なかには酒を飲んでいる先生もいたし。その3人の友達は、先に帰った私の名前を「言わなきゃダメだ」ってことで、先生にそのまま警察に連れて行かれていきなり取調室。だいたい取調室を貸すってのが警察もバカですよね。そこで夜中の2時くらいまで監禁したらしいんですよ。その子たちも殴られて、私の名前を言うまでトイレにも行かさなかったんですって。お酒飲んでたのに…もらしちゃいそうになって、最後、ようやく言ったの。
 で、次の日、退学してくれって。その前に私はディスコと煙草で一週間停学になっていたから、「無期停学やな」ぐらいに思っとったら、「辞めてくれ。強制退学。とにかく自主退学届けを出してくれってことになって。「納得いきません」って言ったら、「とにかくダメや」の一点張り。何でかなと思ってよう考えたら、補導担当の教師がかなりの不手際やってるからフタしたいんだろうなーって。どこにでもある話ですよね。】

 これが「どこにでもある話」だとしたら、本当に怖いよなあ、と思います。おまけに西原さんによると、高校との裁判のなかで、

【私は覚せい剤を常用している生徒になっていたんです。それから補導歴が30何回とかね。私、1回も補導されたことないんですよ。でも、私が「それは違います、嘘です」って言っても教師たちは「こうです」って言う。もう言い合いですよねー。】

というようなやりとりがなされたのだとか。いやまあ、これはあくまでも西原さん側の見解であって、どちらが本当に正しいのか、ここで断言することはできませんし、僕が裁判官だったら、学校の先生たちと素行に問題がありそうな生徒のどちらを信じるのか?と問われたら、学校側を信じてしまいそうな気もするんですけどね。こうして「有名漫画家・西原理恵子の経験談」と聞くと「なんてひどい学校なんだ!」と憤ってしまうのですが。

 ただ、この「裁判」が、西原理恵子という人間に与えた「影響」というのが非常に大きかったのはまぎれもない事実なようです。今の西原さんの作品にみられるある種の「妥協のなさ」「権力への反発心」や「弱者への優しい視線」というのは、彼女自身が高校時代、実際に「大人の社会のしくみ」と闘って、そして踏みにじられ、敗れてしまった経験に基づいているものなのでしょう。
 まあ、父親としては、娘に「お父さんにいちばん感謝していることは、学校を訴えさせてくれたこと」と言われるのは、あまり嬉しいことではないのかもしれませんけど。



2006年12月08日(金)
ボウリング場で「思いどおりにボールが曲がらない」理由

『雪沼とその周辺』(堀江敏幸著・新潮社)より。

(ある田舎のボウリング場経営者の肖像)

【「あの、お疲れですか?」
 聞こえるほうの耳に青年の声が滑り込んで、彼はわれに返った。
「第5フレームが7本と2本、第6フレームが8本のスペアです」
 あわててスコアに得点を書き込む。スペアは出たけれど、どうも思いどおりにボールが曲がらないなと愚痴っている青年に、備えつけのボールではプロみたいなフックは投げられないんですよ、と言いかけて口をつぐんだ。ハウスボールは右利きでも左利きでも使えるように穴がうがたれ、しかも重心が真ん中に設定してある。よくまわるコマとおなじ道理で軸がぶれないから、極端な曲がり方はしない。反対に、オーダーメイドのボールは重心をずらしてあるため、回転をかけると左右どちらかに傾き、レーンのワックスが途切れた瞬間に摩擦がかかって、蛇が鎌首をもたげたような曲がり方をする。そういう知識をみな、彼はハイオクさんに教えてもらった。】

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 廃業の日を迎えた田舎の小さなボウリング場とその経営者の男性を描いた小説の一部です。
 僕はボウリングに対しては、「学生時代にはけっこう行ってたんだけどねえ」というくらいの経験しかないのですが、そういえば、僕がまだ学生だった15年前くらいには、スコアは手書きでつけていくのが主流だった記憶があります。コンピューターが自動的にスコアをつけてくれるボウリング場にはじめて行ったときには、すごく感動したものです。今となっては、手書きスコアのボーリング場って、残っているのだろうか?と懐かしく思ってしまうくらいなのですが。
 ボウリング下手で、球をなるべく真っ直ぐに真ん中に転がすことしか芸のない僕は、隣のレーンで手袋をした人がカッコいいフォームでカーブのかかったボールを投げ、ストライクを連発しているのをみると、いつも「あのくらい上手だったら楽しいだろうなあ、僕も上達して、あんなふうに曲がるボールとか投げてみたいなあ」と感じていたものです。でも、この文章を読んでみると、「技術だけで曲がるわけでない」のですね。あんなふうにボールが曲がるのは、そもそも「曲がりやすいボールを使っているから」であって、あの頃僕が使っていたような「備えつけのハウスボール」では、どんなに頑張っても、あんなには曲がらないようなのです。あの頃、友達と「曲がるボール」を投げようとガーターを連発しながら悪戦苦闘したのは、結果的には徒労だった、ということみたいです。
 確かに、僕を含む大部分のボウリング場の客にとっては、「すごいフックがかかるけれど癖があって、扱いが難しいボール」よりも、「誰が使っても、そんなに大きな差が出ないボール」のほうが、使いやすいのは間違いないのですが、こうして「道具が違うからね」って言われてしまうと、なんだかちょっと残念な気もしなくはないですよね。
 もちろん、「プロ仕様のボール」さえ使えば誰でもストライク連発っていうわけにはいかないに決まっているのですけど。



2006年12月06日(水)
「黙殺」されている、超人気マンガ原作者の正体

『ダ・ヴィンチ』2006年12月号(メディアファクトリー)の「呉智英の『マンガ狂につける薬・第143回」より。

【この数年、マンガ界はある原作家に乗取られたような状態にある。それは、1970年前後の梶原一騎のブーム、続いて起きた小池一夫のブームと似ているようで大きくちがう。
 似ているのは、何誌ものマンガ誌が競って同じ原作家を起用したことだ。梶原ブームの時も小池ブームの時も、見る雑誌、見る雑誌に彼らの原作マンガが載っていた。今回のある原作家のブームは、それ以上である。見る雑誌、見る雑誌どころか、見るページ、見るページである。老舗「漫画サンデー」など、今年上半期にはこの一誌に三本も並行連載され、まるで個人誌状態であった。この原作家は、毎月40本近い原作を書いている。つまり、毎日必ず1本以上の締切りがあるのだ。推定原稿料は毎月数千万円。加えて、人気作は百万部単位で単行本となり、テレビドラマ化もされるから、印税や原作料が何億円も入る。
 ところが、この超人気作家、知名度がきわめて低い。評論家が論じたりすることもない。それはちょっとまずくないか、ということを最初に言ったのは、昨年末の「このマンガを読め!」(フリースタイル)の年末回顧座談会での私である。その後、この夏、なんと朝日新聞の日曜版が3週に亘って連続インタビューを掲載したが、ほとんど話題にならなかった。
 ここまで読んできた読者よ、この原作家が誰だかおわかりだろうか。その名は倉科遼(くらしな・りょう)。時に司敬の別名も使う。20年ほど前までは、この司敬の名で学ランものマンガを自ら描いていた。今は、水商売・芸能界などのネオンものを中心に、経済ものや歴史ものなどの原作も書く。一誌に2本目3本目を書く場合、司敬の名を使うようだ。
 これほどのマンガ家歴があり原作者歴があり、毎月40本以上の締切りを抱えながら、知名度も低く、評論家が誰も論じないのは、なぜか。前述の座談会の時、いしかわじゅんが「倉科遼の作品はプログラムピクチャーだからね」と言ったのが的確な答えだろう。
 プログラムピクチャーとは、4、50年前、映画が娯楽産業の王者であった頃、映画会社の年間製作予定表通り量産されたB級娯楽映画のことである。ハリウッドの恋愛ものや西部劇、東映の時代劇、日活の青春もの、こうした他愛のない内容の厖大なプログラムピクチャーが映画の広い裾野を形成していたのだ。そこには、評論家の評価など考えず、大衆娯楽に徹する製作姿勢がある。それはひとつのプロ魂である。プロ意識を強調するいしかわじゅんが的確に表現したのも当然だろう。
 倉科遼の代表作は、1996年連載開始の『女帝』(和気一作・画)。掲載誌はマンガマニアはまず読まない「週刊漫画」(芳文社)である、しかし「週漫」は、大衆食堂や喫茶店や飯場や独身寮では根強い人気がある。マンガの多数派読者は、高尚な思想や高級な表現を求めているわけではない。わかりやすく肩の凝らない娯楽を求めているだけなのだ。
『女帝』は、貧困の中から身を興し、銀座のクラブのママにまで登りつめる女の物語である。貧しさ故の屈辱、それをはね返す才覚と度胸、そんな彼女を応援する情の熱い人、そんな彼女を妬む人……、徹頭徹尾類型的で、今時これを読む人がいるとは信じ難い。そして、単行本が数百万部売れ、テレビドラマにもなりながら、十年後二十年後には、誰もが忘れてしまうだろう。だが、マンガの出自は大衆文化なのであり、大衆文化の王道を行くのは一見泥臭く野暮ったいこうした娯楽マンガなのである。】

参考リンク;
「逆風満帆〜マンガ原作者・倉科遼(上)」(asahi.com
「逆風満帆〜マンガ原作者・倉科遼(中)」(asahi.com
「逆風満帆〜マンガ原作者・倉科遼(下)」(asahi.com)

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【ここまで読んできた読者よ、この原作家が誰だかおわかりだろうか?】  僕は全然わかりませんでした。
 言われてみれば倉科遼という名前は書店のマンガコーナーなどでしばしば目にしていたはずです。『女帝』というマンガのタイトルは知っていましたし、「面白かった!」という話もよく耳にするのですが、その作品の原作家が倉科遼さんというひとで、月に40本近くの締切りを抱えるほどの「人気原作家」だったとは知りませんでした。まあ、僕が日頃読んでいるマンガが週刊の『ジャンプ』『マガジン』「ビッグコミックスピリッツ』くらいで、それも最近は「あれば読む」という程度だという事情はあるにせよ、確かに、これほどの売れっ子であるにもかかわらず、倉科さんの「一般的な知名度」というのは、かなり低いのではないかと思います。いわゆる「マンガ論」のなかで語られることが作品の成功のわりに少ないというのも、呉さんが仰るとおりでしょう。
 倉科さんのことについて、参考リンクとして紹介したasahi.comの記事を読んで、僕はかなり意外な印象を受けました。ああいう「夜の世界」を好んで描くような作家であれば、その私生活は、あの梶原一騎さんのように豪快・破天荒なものだったのではないかと思っていたのですが、倉科さんは週3回、銀座に取材も兼ねて行くのを除いては(もちろん、普通の人は銀座に週3回も行けないには決まっているのですけど)、早起きして毎日淡々と1日2本ずつの原稿をこなしていくという、かなり規則的な生活を送っておられるのです。ただ、倉科さんひとりだけの力でそんなにハイペースの執筆ができるとは思いがたいので、アシスタントや担当編集者が、かなり下調べやデータ集めをした上でのことではあるのでしょうけど。
 僕は倉科さんの作品をそんなに読んだことがないので、本当に「プログラムピクチャー」なのかどうかは判断できないのですが、この話を読んでいて思い出したのは、赤川次郎さんのことでした。そういえば、赤川さんというのも長年たくさんの本を売り上げてきた人であるにもかかわらず、いわゆる「文壇」みたいなところから賞をもらったり、文芸評論家によって語られることが少ない作家だという印象があるのです。村上春樹さんが芥川賞を獲れなかったことはしばしば話題になりますが、赤川さんの場合は、最初からそういう話題とは蚊帳の外に置かれているような感じですし。あれだけ売れて、みんなが「泣いた」と絶賛しているリリー・フランキーさんの『東京タワー』が、現場の書店員さんたちの投票による「本屋大賞」しか受賞していないように、結局のところ、「大衆にはウケるけれど、玄人筋には黙殺される作品」というのが存在しているのかもしれません。
 僕なども「自分は見る目がある人間だ」とアピールしたいところもあって、「こんなベタな映画なんて、つまんない」と語ってしまいがちなのですが、実際のところ、多くの「前衛的だけれど面白さの欠片もない、作者の自己満足でしかない作品」よりは、「良質のプログラム・ピクチャー」のほうが、はるかに「有益な時間の使い方をした」ように感じるんですよね。そして、多くの「普通の観客」も、そうなのだと思います。
 創作者としては、「これは斬新だ!」「びっくりした!」と言われたい衝動って、誰にでもあるのではないでしょうか。そりゃあ、したり顔で「面白いけど、ちょっと古臭いね」と言われるのを喜ぶ人は、あんまりいないでしょうから。でも、世の中で「本当に多くのひとが求めている作品」というのは、たぶん、「玄人筋が賞賛する作品」とは、必ずしも一致するものではないのです。
 もちろん、世の中が「プログラム・ピクチャー」ばっかりになったら、それはそれでつまらないには決まっているのですけど。
 



2006年12月05日(火)
中国での伝染病死亡率第1位の「恐怖の伝染病」

「九州スポーツ」2006年12月4日号のコラム「カイチュウ博士の虫の居どころ」(藤田紘一郎著)より。

【先日、フィリピンでイヌにかまれた京都の男性が「狂犬病」を発病して死亡しました。世界で毎年、狂犬病で5万5千人が命を落としています。お隣の中国での感染症による死亡率第1位の病気が狂犬病なのです。ワクチンを打たないで発病すると、100%死亡する恐ろしい病気です。
 日本国内で人が感染したケースは、半世紀前の昭和30年以降ありません。今回のように海外で感染し、帰国後発病した事例も、45年に一度あったきりです。日本では聞き慣れない病気も、中国、タイ、フィリピン、インドでは日常的に頻発している感染症であることを知っておいてほしいと思います。
 狂犬病にかかっているイヌにかまれると、傷口からそのイヌの唾液中にある狂犬病ウイルスに感染します。かまれてから1ないし3か月(潜伏期間)すると、傷あとから痛み出し、食欲不振、不眠、唾液の過剰分泌が起こります。これが発病です。発病したら100%死亡します。狂犬病流行地でイヌにかまれたらすぐワクチンを接種することです。発病前のワクチン接種が唯一、助かる手段なのです。】

参考リンク:狂犬病(Wikipedia)

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 僕自身は、狂犬病の患者さんを診たことは一度もなく、大学での講義の際も習ったのかどうか記憶にないくらいなのですが、世界的にみれば、狂犬病は現代でも非常に恐れられている病気のひとつなのです。日本では長年みられていなかったので、「イヌに噛まれたら狂犬病になる!」という漠然としたイメージは小学生でも持っているにもかかわらず、実際にどんな病気かというのは、意外と知られていないのではないでしょうか。いや、僕もここに挙げられているデータを見て、かなり驚いているのですけど。

 中国では、狂犬病は「感染症(伝染病)による死亡率第1位」で、参考リンクの記述によると【近年では毎年約2500名が狂犬病により死亡しており、2005年には伝染病による死者数の20%を占めた】そうなのです。そして、その対策として、雲南省のある県で、【軍用犬・警察犬を除く全ての犬を殺処分をする政策を取った。処分の補償金ははわずか7元で、処分の方法も、薬殺のほか飼い主の目の前で撲殺することもあり、世界中から非難の声が上がった】などという、なんだかいたたまれない話も伝わってきています。中国もオリンピック開催を前に、かなり神経質になっている面もあるのでしょうが、イヌたちが年間2500人が亡くなっている病気の原因になっているということを考えれば、狂犬病への恐怖感が薄い日本人である僕が「動物愛護の精神に反している!」と憤ってみたところで、「そんな生ぬるいことは言っていられない」という返事が返ってくるだけなのかもしれません。まあ、【中国では、狂犬病を発病した犬に咬まれた患者が定められたワクチン注射をしていたのに発病する例まであるが、これは調査の結果、ワクチンを水で薄めたり、偽造ワクチンが使用されていたためと判明している】なんて話を読むと、イヌの撲滅の前にやることがあるだろ……という気がしてなりませんが。
 そして、インドでは毎年3万人が狂犬病で死亡しているのだとか。いくら人口が多い国とはいえ、すごい数ですね……
 ちなみに、【名称からは「犬だけの病気」と考えられがちであるが、狂犬病ウイルスはヒトを含む総ての哺乳類に感染するので、イヌだけではなく、ネコ、アライグマ、スカンク、キツネ、コウモリなどから感染することもある】そうです。今の日本では、あまりに神経質になりすぎるのもどうかとは思うのですが、最近は飼い犬に対する予防接種実施率が低下してきているらしいので、イヌを飼っている人には、しっかりと予防接種をお願いしたいものです。ありえない話だと笑われるかもしれませんが、もし無防備になっている日本のイヌが狂犬病に感染したら、爆発的に広がって、中国と同じように「飼い主の前で撲殺」しなければならない可能性も、けっしてゼロではないのです。やみくもにかわいがるだけが、「愛情」じゃないんですよね、きっと。



2006年12月04日(月)
「宮崎駿もこれで最後だね」と言われて、初めて気づいたこと

「ダ・カーポ」596号(マガジンハウス)の特集記事「私の生き方の原点・原則」のスタジオジブリ代表取締役社長・映画プロデューサーの鈴木敏夫さんへのインタビュー記事より。

【インタビュアー:宮崎駿監督との出会いはその徳間時代ですよね。

鈴木敏夫「ええ、アニメ誌『アニメージュ』の編集者時代です。創刊号で取材を依頼しました。16ページ書かせろ、と条件を出されて決裂(笑)。次に僕が宮さん(宮崎駿)の『ルパン三世 カリオストロの城』を取材しました。最初はチャラチャラした雑誌の取材を受けると自分がダメになる、と断られました(笑)。しかたがなく、帰ってくれ、と言われながらまる一日張り付いた。でも、何も話してくれない。2日目もダメ。3日目にやっと仲良くなって、それから29年毎日会っています。不思議な縁です。
 ルパンの頃の宮さんは一般的知名度こそ低かったけれど、僕は才能を感じていたから、何度も特集しました。当時『アニメージュ』は40万部売れていたんですよ。そのときに読者アンケートで、何人で読み回しているかを調べたら、3人だった。つまり、毎号120万人の読者がいた。つらくてねー。部数が多いと、読者ターゲットをしぼれなくて、だれもが興味を持つテーマしかやれないからです。
 それで『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』が同時に封切られた夏休み、そういう作品を無視して宮崎駿大特集をやりました。すると、部数が半分になった。確信犯です。1割以下だった返本率が5割になって社内の販売会議に呼ばれて責められた。でも、営業には部数が激減した理由は分からない。そうやって読者をしぼり、自分がつくりたい本にしていった」

インタビュアー:『アニメージュ』での、宮崎監督の取り上げ方は?

鈴木「何度か中断しながらも、『風の谷のナウシカ』を12年間続けました。宮崎作品を毎号紹介して、宮崎駿ファンを1人でも増やそうとしたんです」

インタビュアー:鈴木・宮崎コンビによって『風の谷のナウシカ』のほかにも『魔女の宅急便』『もののけ姫』など、と次々と名作が生まれ順風満帆に?

鈴木「いえ。興行成績に限っていえば、ナウシカの後はけっしてよくなかったんです。実はね、配給会社の東映の人に、宮崎駿もこれで最後だね、と数字のことを言われて、初めて気づいた。それまではおもしろい映画をつくればいいとだけ思っていました。でも、ヒットしないと次の作品はつくれません。うそのような話だけど、そこで初めて宣伝に本腰を入れました。だから本気で宣伝に取り組んだのは『魔女の宅急便』からです。日本テレビに出資のお願いに行ったし、その後、『アニメージュ』をやめてジブリへ移りました。
 また、それまでは1作ごとにスタッフを集めていましたが、『魔女の宅急便』からはスタッフを社員にして、ジブリは会社らしい会社になりました」

インタビュアー:鈴木さんが信条にしていることは。

鈴木「映画の企画がなくなったらジブリをやめると宮さんとは話しています。僕はいい映画、お客さんが入る映画に共通するのは、時代のにおいだと思う。どんなに出来がよくても、時代と無関係につくられた作品に魅力はありません。今を描けなくなったら、ジブリをやる意味はないです」

インタビュアー:新しい発想を持つスタッフはいないですか。

鈴木「いない、と断言してしまうと若い人にはかわいそうだけれど。すでにブランドになってしまったジブリには集まりにくいとはいえます。権威になってしまったからです。どんな時代でも同じだと思いますが、何か新しいことをしようとする人間は権威には近寄らない。あるいは、ジブリに籍を置いていても、ぼくらに見つからないように目立たないようにしているものです」】

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 「スタジオジブリ」の看板といえば、もちろん宮崎駿監督なわけですが、「ジブリを陰で支え続けてきた男」が、この鈴木敏夫プロデューサーなのです。ただし、この鈴木プロデューサーに対しては、アニメファン、宮崎駿ファンのあいだでは、そのワンマンぶりや、タレントを声優として起用するというタイアップによる話題づくりに対する批判の声がかなりあるというのも事実なのですけど。徳間書店という大手出版社のアニメ雑誌『アニメージュ』の編集者だったにもかかわらず、宮崎駿への傾倒のあまり、売れないのを承知で「宮崎駿大特集」をやってしまったり、ついにはジブリに移籍してしまったりというのは、徳間書店からみれば、「ひどい裏切り行為」だとも言えますよね。
 しかし、この鈴木プロデューサーの異質なところは、宮崎駿という才能に傾倒しながらも、彼自身は、自分の役割として「宮崎駿が映画を作り続けるためのお金を稼げるようなシステム作り」に没頭していったところのように思われます。『アニメージュ』にいたときには、雑誌の売り上げを度外視して、「宮崎駿特集」をやっていた人にもかかわらず。
 純粋な宮崎駿ファンで、作品の質を尊重するのであれば、人気タレントよりもちゃんと経験を積んだ声優を起用するように進言するべきでしょうし、ジブリを「会社らしい会社」にする必要などなかったはずです。でも、自分の創作にはすごい力を発揮する一方で、「チャラチャラした雑誌の取材を断った」ように世渡りが上手いとはいえない宮崎駿監督にとっては、こういう「実務」をこなし、映画を商業的に成り立たせてくれる鈴木プロデューサーという存在は、非常に大きいものだったに違いありません。もし、鈴木プロデューサーの「宣伝力」がなかったら、ジブリの作品は『魔女の宅急便』で終わっていて、「いい作品ばっかりだったけど、あんまりヒットしなかった」という評価だけが後世に残っていたのかもしれないのです。
 僕自身は、「クロネコのジジ」とかが出てくる『魔女の宅急便』以降の作品は、宣伝臭が強いし、内容も「文部省推薦」的な感じで、それ以前の宮崎駿作品ほど好きではないし、興行収入の上昇ほど内容が向上しているのかどうかは非常に疑問なのですけど(時間とお金はかかっていますから、アニメの絵のクオリティは上がっているとは思いますが)、少なくとも「同じ宮崎駿監督の作品」を、これほどまでの「お金が稼げる商品」にしたのは、この鈴木プロデューサーのおかげなのでしょう。
 世の中には、「鈴木敏夫がいなかったために、宮崎駿になれなかった人」というのも、けっこういたのかもしれません。鈴木さんと宮崎さんって、イメージ的には、「お互いに価値観が違いすぎて、絶対に友達になれそうもない二人」のように思えるのに、ほんと、人生には不思議な巡り合わせというのがあるものですね。



2006年12月03日(日)
「たった1年で戦力外通告を受けた男」の逆襲

『スポーツニッポン』2005年12月1日号のコラム「OH!サッカー」(内藤博也著)より。

【今季もあと1節を残すだけとなり、Jリーグの各クラブは選手個々に対し、来季の契約を結ぶ意思があるかないかを通達する時期を迎えた。既に横浜では元日本代表の4選手らに戦力外を通告。毎年恒例とはいえ、高年俸のベテラン選手や、あるいは芽の出なかった若手選手がチーム方針の犠牲となっている。
 これも、プロの世界といえば仕方ないが、サッカー界は極めて狭い。現役なら選手として、あるいは引退しても評論家として、かつてのクラブの人間と顔を合わせることもある。”クビ”を通告するフロントが目を一度も合わさなかったり、凍った空気に耐えられず、説明もそこそこに話を打ち切ろうとしたら、それこそ、遺恨も残る。通達する側、される側、どちらにとっても、つらい話し合いだが、お互い誠意を持った別れが一度でも契約を結んだ間柄としての礼儀だろう。
 '01年のシーズン終了後、神戸が笠岡工高(岡山)出身のFW難波宏明をわずか1年で戦力外としたことに対し、当時、チームメイトだったカズ(三浦和良)は「高卒選手を1年で切るなんておかしい。セカンドキャリアを考えても、クラブもプロならもっと責任を持つべき」と対応に苦言を呈した。現役でいられる時間は、引退してからに比べればはるかに短い。だからこそ、雇う側の責任は大きいというのである。
 その、難波は栃木SCに1年所属した後、流通経済大でサッカーを続け、先日、来季からの横浜FC入りが決まった。絶望のふちから5年を経て大舞台に戻る権利を手にした姿は、今年、戦力外通告された選手にも大きな励みとなるはず。
 再びカズのチームメイトとなった彼の努力と情熱には頭が下がるばかりだが、当時の神戸がもう少し我慢していれば、また違った選手生活が送れていたかもしれない。契約の解消は常に痛みを伴うが、選手、クラブ双方にとって、少しでも発展的な別れであることを願うばかりである。】

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 僕自身も野球チームの1ファンとして、「もっとドラフトでたくさんの選手をとって、競争で勝ち抜いた選手を使えばいいのに」なんて思ったりもするのですけど、このコラムを読むと、「夢を追う職業」というのは、雇う側にも雇われる側にも、大きな「リスク」と「痛み」があるのだ、ということをあらためて感じさせられます。
 「高卒選手を1年でクビにするなんて!」という三浦和良選手の憤りは最もではありますが、もし本当に「この選手はサッカーの才能がなさそうだ」というクラブなりの「結論」が1年間で出てしまったら、本人の第2の人生のためにも、「見切り」は早いほうが良いのかもしれませんし。明らかにモノになりそうもない選手を「まだ若いから」ということでずっと所属させ続けても、プロスポーツの世界というのは、ごく一部の頂点を極めた選手以外にとっては、そんなに条件が良いものではないので、それなら早く「第2の人生」をスタートさるべきだという考え方もあるでしょう。若い頃の「時間」というのは、後からは取り返すことができないものですから。もっとも、「そんな選手を採用してしまった」というスカウティングの失敗というのは責められてしかるべきだとは思うのですが。
 チームに予算があり、モノになる選手が限られており、プロで通用しない選手にも「人生」があるということを考えれば、やみくもに沢山選手を獲得すればいい、というものではないし、きっとフロントのなかでも現場で選手と接する立場の人は、すごく悩んで選手を「切って」いるはずです。
 この難波選手のエピソードを読んで、僕はいろいろなことを考えました。
 彼は、もしそのまま何年か神戸でプロ生活を続けていれば、もっと早く頭角をあらわせたのかもしれませんし、逆に、たった1年でクビにされ、その悔しさをバネに、再度プロとして横浜FCに入れるくらいに実力をつけたのかもしれません。そもそも、ここで再度Jリーガーになれたとしても、そこで通用するかどうかは、また別の次元の問題です。結果的には、「プロとしては使えない」ということも十分にありえるでしょう。
 華やかにみえるプロスポーツの世界、「夢を追い続ける」「夢をあきらめない」ということばかりが賞賛されがちなのですが、さて、それが本当に正しいのかどうか?ときには、「クビにする」ということが優しさである場合もあるのではないか?「才能」を判断するには、どのくらいの期間が必要なのか?まあ、それでもプロを目指す人は後を絶たないということだけは、確かなのですけど。



2006年12月01日(金)
『花の慶次』誕生秘話

「九州スポーツ」2006年12月1日号の記事「ジャンプ653万部編集長・堀江信彦氏『マンガ編集人熱伝』」(構成・古川泰裕)より。

【「花の慶次」は、いろいろと思い出深いんだ。あれはちょうど連載担当がない時だったな、原(哲夫)君も「北斗――」が終わって何もしてなかったから、「次の連載何がいいかな」なんて考えながら神保町の三省堂にブラリと行ったんですよ。そしたら「男の中の男を見た」というポップがあって、偶然手に取ったのが隆慶一郎(1923-89)さんの「吉原御免状」だった。「おもしろいなあ、この先生に会いたいな」と思って、ツテをたどっていったら「今、病院にいる」と。僕は「人間ドックかな」ぐらいに思ってたんだけど、病院に会いに行ったら、点滴のスタンドを引っ張りながら来るご老人がいる。それが隆さんだった。ただ作品が面白いという思いだけで行ったから、年も病状も知らなかった。その時は「宮本武蔵のような話を」と言ったかな。
 それからも病室に話をしに行ってたら、ある時、お弟子さんに言われた。 「熱心に通ってくれてますが、先生はがんです。もう原稿は書けません」と。ショックだったね。だけど、それで行かなくなるのは人としてどうかと思ったから、それからも時間を見つけては病院に顔を出していた。そんなある日、先生が「何をやりたい? 何枚だ? 書くよ」と言ってくれてね。そこで提案したのが先生の「一夢庵風流記」に出てくる前田慶次郎の若いころを、読み切りで漫画にしたいという話だ。
 残念なことに、先生はこの作品が完成する前に鬼籍に入られた。そしてジャンプに掲載した読み切りは、人気投票で上位に食い込んだ。だけど先生はもういないから、連載はやれない。せっかく生まれた「前田慶次」というキャラも、それっきりかもしれなかった。がっかりしていると、先生のご遺族から「話がある」と電話があった。クレームかな、と思いながら行ったら「父の遺言です。『一夢庵風流記』の漫画化権をあなたに託します」。僕は家に帰って大泣きしましたよ。
 後に1700万部を売り上げた「花の慶次」は、こうしてやっと連載ができることになった。ここからは僕と原君の頑張り次第だ。まずは舞台となる戦国時代の資料を集めまくった。馬の写真5000枚をカメラマンから買い取り、東宝の撮影所に行って鎧・甲冑をあらゆる角度から撮影させてもらった。僕は300冊ほど資料を読んで眼精疲労に。下調べに力を入れるあまり、気がつけば3か月間会社に行ってなかった。おかげで有給を使い果たして、税金を引かれた給料が額面割れしていたよ(笑い)。
 こうして練り上げたストーリーは、隆先生と同じように静岡大学の小和田哲男先生に見てもらい、「こういう解釈も間違いではない」とお墨付きをもらって原君に渡した。そうそう、原君も苦労してたよ。「北斗――」って笑顔がなかったでしょ。だから原君、笑顔がうまく描けなかったんだ。何度も顔だけ書き直させた。笑顔の絵がよくなってから、人気もドンドン上がっていったね。】

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 人気漫画『花の慶次』の誕生秘話。連載中は、慶次のカッコよさにシビレながらも、「慶次ってケンシロウだよなあ……」という印象が非常に強かったのですが、確かに、そう言われてみれば、『北斗の拳』のケンシロウに比べたら、前田慶次郎はよく「笑う」キャラクターですし、その快活さが作品の大きな魅力になっています。でも、「笑顔の絵がうまく描けない」くらい、ずっと深刻な表情を描き続けてきた原哲夫さんの漫画家人生というのも、なかなか壮絶なものではありますね。
 それにしても、この堀江さんの話を読んでいて感じるのは、「編集者」という仕事は、読者がイメージしているものよりも、はるかに激務なのだなあ、ということです。締切を守らない漫画家に悩まされる話、なんていうのはよく耳にするのですけど、編集者の仕事というのは、「原稿の督促」だけではないのですよね。作品が成功しても、漫画家のように長者番付に載るほどの見返りはないにもかかわらず、ここまで「良い漫画を作る」ことに熱中できるというのは、本当に凄いことだと感じます。『ジャンプ』だからお金が使えるというメリットはあるのでしょうが、資料集めの手間だけでもかなりの労力が必要でしょうし。しかし、こういう漫画の「資料」って、漫画家に「適当に描いといて」なんて言うわけにはいかないし、先日「構図の盗作」が話題になっていましたけど、本当に「そのへんの雑誌を参考に描く」というのも許されないのだなあ、ということに驚きました。
 そして、なんと言っても、良い作品をつくるためには、「信頼関係」が大事なのです。
 この堀江さんの話からすると、隆慶一郎さんは最初から快く「自分の作品を何でも使っていいよ」と仰っていたわけではなさそうです。でも、何の見返りも得られないかもしれないにもかかわらず日参してくれるこの編集者に、隆さんもきっと何か感じるところがあったのでしょう。結果的には、この「漫画化」のおかげで、『ジャンプ』は大ヒット作品に恵まれましたし、『花の慶次』で興味を持つようになり、隆さんの作品を読み始めたという人もたくさんいるはずです。もし、隆さんが、「がんでもう書けない」ということを知って、堀江さんが病室を訪れるのをやめてしまっていたら、『花の慶次』は生まれなかったでしょう。
 『週刊少年ジャンプ』に関しては、人気投票重視、専属契約などのビジネスライクな「負の側面」がクローズアップされることが多いのですけど、実際は、こういうちょっと泥臭いようにすら思える「人と人との繋がり」こそが、多くの人気漫画を生んできたのかもしれませんね。