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2005年02月28日(月) ■ |
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ライブドアがラジオを変える? |
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日刊スポーツの記事より。
【ニッポン放送経営権争奪戦をフジテレビと繰り広げているライブドア堀江貴文社長(32)が27日、同放送買収後に給与条件を変更する意向を示した。徹底したコストカットを信条とする堀江社長だけに、ニッポン放送の経営権を握れば、収入や仕事のスタイルが激変する社員続出は必至。平均年収約1200万とされる同放送社員が果たして「給与見直し」をすんなり受け入れるかも、焦点となってきた。 堀江社長はこの日、テレビ朝日「サンデープロジェクト」に、司会の田原総一朗氏(70)と2人だけで特別スタジオから出演し、買収構想をしゃべりまくった。 ニッポン放送買収後に会社をむちゃくちゃにするのでは、と聞かれた堀江社長は「絶対しない。買収した会社でもリストラってほとんどしない」といったん安心させた。だが続けて「もちろん給料の条件は変更させてもらいますけど」とさりげなく付け加えた。 自社の急速な拡大を経営理念とする堀江社長は、徹底したコストカット主義で知られる。自著「儲かる会社のつくり方」では、02年に買収したライブドア社の社員平均年収が700万だったことを明かした上で「市場のアベレージと比べても高すぎた」と明言している。さらに「降格・減俸は思い切って最大限行ってしまう。給料はドーンと減ることになるが、それで投げやりになってしまうのであれば、それまでだ。(中略)たいていは退職していなくなってしまう」と冷徹な“哲学”を書いている。 ニッポン放送は、昨年のデータでは平均年齢39・4歳、平均年収約1164万円。同著などによると、堀江社長は基本的に交際費はダメ、パソコンは自前購入、消しゴム1個ペン1本まで見積もり提出必要という考え。「ダメ社員を降格して給料を減らし、できる社員を登用して給料を上げる」(同著)ともしているが、大幅に減給されたり、仕事スタイルの変更を余儀なくされる社員が続出する可能性も高い。 一方、堀江社長はこの日午後、TBSラジオ「伊集院光日曜日の秘密基地」にも出演し、買収後のネットとラジオの融合構想について具体案を明かした。それによると、まずネット上のラジオ番組を何百も作り「そのランキングをつけて、(地上波は)入れ替え制にする」(堀江社長)というプラン。ネットでのアクセス数などが多い番組だけが、従来のラジオで放送される仕組みだ。 買収が成功しても、ニッポン放送の社員244人(昨年8月現在)がこうした給与大幅見直しや番組構想に賛同するのか、注目される。】
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確かに、ラジオって、「この番組は、誰がいったい聴いているんだろう?」なんて考えてしまうような番組って、けっこう多いですよね。AMで昼間に演歌ばっかり流している番組とか。 でも、考えてみれば、こういう番組が続いているのも熱心なリスナーがいるからでもありますし、テレビがなかなか高齢者向きの番組をフォローできなくなっている昨今では、ラジオの役割というのは、けっして少なくないと思います。入院している人などは、ラジオが唯一の楽しみ、だったりもするみたいだし。 堀江社長の言っておられることは確かに合理的でもあり、けっして間違ってはいないと思います。40歳で平均年収1164万円というのは(僕がその仕事の内容をよく把握してはいないとはいえ)、ちょっと高すぎるかな、という気もしますし、スタッフもテレビに比べたらやや高齢化しているのかもしれません。それでも、今までその給料で生活してきた人たちに、急に給料を下げる、なんて宣言されたら、「頑張って勝ち組になるぞ!」という人は少ないでしょうし。 実際のところ、堀江社長はネットの力を過信されているところがあるような気がします。例えば、ライブドアの新球団名のアンケートをネットで行ったとき、トップだったのは「仙台ジェンキンス」でした。ユーザーは、堀江さんほどネットに対して真摯ではないのです。実際、ネットでラジオ番組をアップロードできるようにすれば、ネット経由で番組を聴く人は増えると思うのですが、その一方で、ネットに対して抵抗のない、若い世代が好きな番組ばかりが上位を占めて、今までのラジオを支えてきた高齢者層は、置いてけぼりにされること請け合いです。しかも、ネットで聴ける人達は、わざわざ時間を拘束されてまで、地上波放送を聴くとは思えません。 いや、ここまで堀江さんが「ネットの力」を信じているのは、僕もネット好きですから、頼もしくも感じるんですが、その一方で、あのおじいちゃんやおばあちゃん、ずっと車を運転している人などが楽しみにしている番組がことごとく絶滅してしまうのだとしたら、ちょっと残念です。
たぶん。ニッポン放送の人たちだって、保守的な今のラジオに関しては「このままでいいのだろうか?」と思っているような気もするんですけどね……
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2005年02月26日(土) ■ |
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掲示板の中の優しい人々 |
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読売新聞の記事より。
【国公立大の2次試験が始まるなど、入試シーズンも終盤を迎えているが、インターネット上の掲示板への書き込みが、大学入試や技能検定試験に大きな影響を与え、関係者が対応に苦慮している。 「最後(の質問)は『自販機がたくさんあるけど、どう思いますか?』だった気がする」「コンパクトディスク(CD)のコピーガードについてだった」 財団法人「日本英語検定協会」(東京・新宿)が英検2級の2次試験を実施した今月20日、国内最大級のネット上の掲示板サイト「2ちゃんねる」に、試験開始直後から、こうした書き込みが相次いだ。 2次試験は、受験生が英文とイラストの描かれた「問題カード」をその場で渡され、黙読後、面接委員の質問に答えるという形式だったが、書き込みは出題内容をそのまま告知するものだった。 早々と試験を終えた受験生が書き込んだとみられるが、流出後に面接に臨んだ受験生は、出題内容を事前に知り得たことになる。流出はその後、同じ日に行われた準2級と3級でも確認された。 「2ちゃんねる」は幅広いテーマを対象に匿名で議論できる点が特徴だが、少年事件の加害者の実名や顔写真が掲載されるなどのトラブルも少なくない。同協会関係者は「サイトの存在は常々意識していたが、こんな形で流出するとは……」とため息をついた。 書き込みを巡る“騒動”は1月15、16日に実施された大学入試センター試験でも起きた。 初日の英語の試験が始まる8時間以上も前、「2ちゃんねる」に「マイネムイズケヴィン」との書き込みがあり、試験では実際に「ケヴィン」を主人公とする長文問題が出題された。翌日の国語でも事前に出題内容を示唆する書き込みが見つかり、センター側は「偶然としか言いようがない」と流出を否定しながらも、警察に対応を相談する事態に発展した。
一方、同じセンター試験の「国語1」では、教科書に載っている文章がそのまま出題されるという前代未聞のミスが起きたが、これを指摘したのも「2ちゃんねる」の書き込みだった。】
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「英検問題流出事件」について、担当者へのインタビューをテレビで観たのですが、その担当者は、「受験生の良心に頼るしかない…」と、困惑気味に話していました。こういう「問題流出」を予防する措置としては、受験に時間差があるのが問題なのですから、「全員一斉受験」にしてしまえば問題なさそうな気もするのですが、それをやろうとすると、単純に考えれば、試験官の数が2倍必要になるわけですから、主催者側としては、ちょっと難しいのでしょうね。いっそのこと、時間ごとに別々の問題にしてしまうという手もありそうですが。 それにしても、今回の件に関して僕が思ったのは、「2ちゃんねる」には、いい人が多いのだなあ、ということでした。だって、考えてもみてください。「名無しさん」にとっては、掲示板に問題を書き込みすることに、何かメリットがあるのでしょうか? いや、これがお金を貰ってやっている業者であるとか、友達同士というのなら、話はわかるのです。そのこと自体は悪いことですが、「理由」とか「目的」というのは理解可能。 確かに、「名無しさん」としては、そうやって掲示板に書きこむことによって、「神降臨!!」とか言われるのは気持ちいいのかもしれないけれど、自分が受けた試験でそれをやるのは、リスクのわりにメリットが少なすぎるような気がするのです。 もしそれで、他の人の成績が平均的にアップしてしまったら、自分が落ちるかもしれないし、不正が発覚したら、試験そのものが無効になってしまうかもしれない。自分本位で冷たい発想かもしれませんが、「どうしてそこまでして、『2ちゃんねる』に問題をリークするのだろう?とか思うんですよね。普通、まずは自分がかわいいのではないだろうか……
そういう意味では、こうやって問題をリークする人というのは、まさに「神」というか、「良心的」なのかもしれません。まあ、そういうのは場当たり的な良心に過ぎない、という意見もあるでしょうけど、少なくともそれで助かった人がいるのも事実だから。もっとも、「不公平」ほど試験というものにとって困った存在はないし、逆に言えば、「比較的公平な条件で行われやすいこと」というのが、人間を評価する際に「試験」という方法が使われる、唯一無二の理由であるような気もします。
でもなあ、こういうのって「そんな書き込みなんてするな!」と言われれば言われるほど、やる人って増えていくんでしょうね。きっと今までも、携帯電話で問題を友達に教えていた人も、いたんじゃないかな。
僕はいつも「ネット上の危険な人々」について書くことが多いのですが、こういう話を聞くと、意外と「優しい人」も多いのかな、と思わなくもありません。なんという自己犠牲の精神! その優しさ、もっと他のことに使えよ!と試験をする側としては、言いたくもなるのでしょうけど。
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2005年02月25日(金) ■ |
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It's not safe or suitable to swim. |
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「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」(江國香織著・集英社文庫)の表題作より。
【It's not safe or suitable to swim.
ふいに、いつかアメリカの田舎町を旅行して見た、川べりの看板を思いだした。遊泳禁止の看板だろうが、正確には、それは遊泳禁止ではない。泳ぐのに、安全でも適切でもありません。 私たちみんなの人生に、立てておいてほしい看板ではないか。 私は、私たちの家族が、母の編んだ奇抜な縞模様の水着を着て、川を泳ぎ進もうとする光景を思い浮かべた。 父は痩せっぽちだった。母は小柄で、私は中肉中背だが、妹も痩せっぽちだ。】
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何事に対しても婉曲な表現を好む日本で、この手の看板が「遊泳禁止」とか「泳ぐな危険」といった直截的なものが多いのに対して、それこそ"Don't swim!"とか言いそうなイメージのアメリカの看板のほうが、むしろ「遠まわし」な感じなのは、ちょっと意外な気もします。「それでも泳ぐなら、それはあなたの責任ですよ」というのは、厳しいのか相手を尊重しているのか、よくわからないような気もするのですけど。
僕にとっても、こうやって生きていくというのは、「安全でも、適切でもない」ことだよなあ、なんて、この文章を読んで、ひとつ溜息をついてしまいました。いろんなリスクとか不安・不満を抱えつつも、たまには自分が泳いでいる姿にウットリしたりもしながら、なんとか「泳ぎ続けている」のだと、あらためて感じたので。 でも、その一方で、僕たちには「泳がない」という選択肢はないのだし、どんなに危険だといわれても、「泳げる場所」はここにしかないのだから、「安全でも適切でもない」なんて言われても、所詮、どうしようもないのかな、とも思うのです。 そんなことわかってるよ、じゃあ、ここがダメなら、どこで泳げばいいんだ?なんて、つい考えてしまいます。
「自分の責任で泳ぐ」か、それとも「泳ぐことをやめる」のか、泳ぐにしても、「用心深く、ゆっくり慎重に泳いでいく」のか「何かあったときは仕方がないとあきらめることにして、とにかく全力で行けるところまで行く」のか、ひとつの看板の解釈というのも、いろいろありえるのですけどね。
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2005年02月24日(木) ■ |
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ディスプレイの向こう側の「わかってくれる人々」 |
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「週刊SPA!」2005年3月1日号の特集記事「『ITで出会う女たち 』の事情」より。
【「ネット上のあらゆるサービスが『出会い』の場となっている」と語るのはジャーナリストの今一生氏だ。氏によるとITツールが女性たちに『安心感』を与えているのだという。 「ブログやSNSなどは自己表出メディア。自分を晒さなければいけない。そんな晒け出した自分の書いたことに対して、誰かからコメントなどがついてくると、『この人はわかってくれている』『私を認めてくれている』と感じられ、親近感を覚えるんだろうね。あと、1対1という閉じられた世界の 『出会い系』とは違って、ブログやSNSには第三者的視点がある。つまり、誰かが紹介した、共通の知り合いがいるという、『担保』ね。これが安心感となって、恋やセックスが簡単にできるんだよ」 一方、女性心理に変化が出てきているというのは、衿野未矢氏だ。 「セックスレス、会話レスカップルが増えています。すると足りないものを他で埋め合わせしようとする。そういう気持ちがネットに向かわせているのではないでしょうか。自分に自信がなくても、ネット上なら話を聞いてもらえます。お礼にセックスでもしてあげる。ですから、『割り切ってやっている』『私は強い女だから大丈夫』とよく言いますが、それは思い込み。本当は人恋しいんです。寂しいけれど、私とエッチをしたがる人がいるということは、それだけ私は役立っている、何かを与えてあげていると思えるんです」】
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まあ、こういうようなメディアの「煽り記事」とか、社会学者のコメントというものは、基本的に割り引いて考えたほうが良いのでしょうし、現実はそんなに簡単なものではないのだろうけど、それにしても、ここに書かれていることは、僕のようなネット中毒者にとって耳の痛い話であるのは、間違いありません。 顔の見えないネット上の「危険な出会い系」については、今までさんざん語り尽くされてきたはずなのですけど、確かに、「mixi」をはじめとするソーシャルネットワークサービス(以下SNS)やブログのコメント欄やメッセージを介しての出会いについては、少しガードが甘くなってしまう傾向があるのは否めませんから。 SNSでは、「誰かが紹介したから入れた、特別な人」という思い込みがありますし、サイト管理人であれば、「自分のサイトのファンなのだから…」という「贔屓目」で相手を見てしまいがちだし。SNSは、今のところmixiが会員数30万人を突破しているそうで、この30万人というのは、「選ばれた人」にしては、あまりに数が多すぎると思うのですが。実際、ネット上である程度名前が売れている人に関しては、「あの人もいる!あっ、この人もいるのか…」という感じで、むしろ、「mixiにいない人を探すほうが難しい」というくらい。もちろん、そう簡単に見つかるわけでもないし、「友人のみ公開」などにしておけば、存在していても、ある程度クローズな空間を作ることができたとしても。 そして、「サイトのファン」=「自分をわかってくれる人」というのは、あまりにも短絡的でもあるのです。サイトの文章を書く場合には、それが多少なりとも偽善や露悪の色彩を帯びている場合がほとんどでしょうし、そこに書かれているのは、「自分から見た自分の一部」でしかありません。たとえば、ある小説家の作品を読んだとき、その作品がどんなに好みであっても、その作家が理想的な人物であるという保証はどこにもないわけです。逆にスティーブン・キングの「ミザリー」のように、「ファン」であるからといって、自分にとって望ましいリアクションを示してくれるとは限りませんし。だいたい、感動的な文章を書いている人間は、感動的な人生を送っているとは限らない。僕のようなたいしたことは書けない人間ですら、「こんなこと書いている時間があったら、勉強しろよ自分……」とか思うことも多いですしね。 こうして何かを書きたくなること自体、何かが「欠落」しているのです、たぶん。
「足りないものがネットで埋め合わされる」とか「ネット上には、自分のことをわかってくれている人がいる」という希望は、多くの場合幻想にしかすぎません。「自分の話を真面目にきいてくれる」のは、その現実と直接の関わりがなかったり、初めて聞く話だからで、あるいは、あなたとセックスしたいから聞いているふりをしているだけなのかもしれません。どうせ、どんな顔でその話を聞いているかなんて、ネット上ではわからないしね。 そもそも、ネットで出会った相手というのは、一度顔を合わせてしまえば普通の「友達」であり、「現実」なのです。「現実で埋められない寂しさ」というのは、やっぱり、現実に向き合うことでしか埋められない。ネットでは「自分のことをわかってくれていたはずの相手」は、実際につきあってみれば、あなたと会っていない間に、次の「獲物」を探しているかもしれません。
『割り切ってやっている』『私は強い女だから大丈夫』 ああ、なんて男にとっては、「都合のいい女たち」なのだろう!
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2005年02月23日(水) ■ |
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列車に「飛び乗った男」と「飛び乗らなかった男」 |
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「我が名は青春のエッセイドラゴン!」(大槻ケンヂ著・角川文庫)より。
(「バクチも酒もやらない「石橋を叩いても渡らぬ男」だった、大槻さんのお父さんに、大学中退とバンドのプロデビューを報告したときの、お父さんのリアクションを思い出しながら)
【父は悪代官に冬越えの米までもってかれた長老のごとき渋面を浮かべていた。だがしばらくあと、ニタリと笑い、「そうか、わかった」と言った。
(中略・ここで、大槻さんの伯父さん(お父さんにとってはお兄さん)が、大学在学中に「映画の道に進む」といって、大槻家が大騒動になったことが書かれていて、大槻さんのお父さんは、そのとき「世の中には何を言ってもきかない人種がいる」ということを悟ってしまったのではないか、ということが語られます)
「しかし……俺の息子も……とはねぇ」 石橋を叩き壊す人生を選んだ僕に、父は渋面の口の端でフッと笑ったということなのか。 理由はもう1つあったと思う。 僕が少年の頃、父はテレビで雪国を走る列車の風景が映るたびに、 「俺も若ければなあ、こういうところにフラリと行ってみたかったなあ」 とつぶやいた。反抗期バリバリの高校時代、いつもの父の言葉に対し、雪よりも冷たく 「だったら今すぐ行ったらいーじゃねーかよ」と、言い放ったことがある。 父はそのとき、おし黙ってしまった。 人間には、いくつもの分岐路がある。人はある程度、行くべき道を自分で選択できる。一般社会のワクにかっちり収まる線路を選んだ父にとって、雪山の中をひた走る列車は、父の選ばなかったもう1つの人生の象徴として見えていたのかもしれない。 僕も22歳で分岐路に差しかかり、そして雪国を走る列車に飛び乗る方を決めた。父が反対しなかったのは、自分の選ばなかった道を走る息子の行く果てが、親として以上に「それに乗らなかった男」として、興味深かったからなのではないか? 伯父が乗り父の乗らなかった列車に乗って、今、僕は僕の線路をひた走っている。】
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子どもというのは、正直で、ある意味残酷だよなあ、と僕はこれを読んでいて思いました。僕も確かに、そういう「自分はわかっている」というつもりで、「わからないふりをするほうが、良い場合もある」なんて考えもしない、「世の中のことがわかった(つもりの)子ども」でしたから…… 大槻ケンヂさんのお父さんのこの話を読んで、僕は自分の父親のことを思い出しました。まあ、こんなに「堅い人」ではなかったのですが、それでも、「もうちょっと若かったら」とか「あのときああしておけばなあ…」なんて言葉を耳にすることはありましたし、僕はそういう弱音を聞かされるのが、子どもとしてなんとなく許せないようにも感じていたのです。 「親には親らしくしてもらいたい」なんて、自分が子どもの親になってもおかしくない年になってみると、そう簡単に30や40で人間悟れるものでもない、ということが実感できるんですけど。 世の中には、たぶん、「雪国を走る列車に飛び乗る人」もいれば「飛び乗らない人」というのもいます。それはどちらが正しいとかではなくて、その人の性格やタイミング、環境というものもあるのでしょう。昔の話で言えば、「母親だけしかいなくて、小さい兄弟を抱えている」というような状況であれば、いくら絵描きになりたくても、その道を選択するというのは現実的には難しい、なんてことはあったはずですし、医者の世界でいえば、実家が病院で、跡継ぎになるというレールが敷かれている、なんていうのは、傍からみればうらやましかったり、自分の道が決められていてつまらないだろうな、なんて思ったりするのですが、それに対する本人の感じ方というのも、けっこう人それぞれだったり、年齢によって変わってきたりもしますしね。 まあ、世間で大きく取り上げられるのは「列車に飛び乗って成功した人」の話ばかりですから、「列車に乗ることを選ばなかった、あるいは選べなかった」人たちにとっては、「あのとき、ああしていれば…」と思うことがあるのも、当たり前のような気もするのです。 でも、結局、僕なども「飛び乗れなかった人間」なんだよなあ、と最近つくづく思います。そういうのは「性分」みたいなものだし、今の人生に切実に後悔しているわけでもないんですが、もしあのときに戻れたら、違う選択をしてみたい、なんていうのは、誰にでもあるのではないでしょうか? 「レールの上に乗っている堅実な人生」と他人からは見えても、実際は必死にその列車にしがみつきながら、思い悩んでいることだってあるのだろうし。実際にやってみると、「堅実な人生」っていうやつも、そんなにラクではないのです。
親の心、子知らず。そんなことを嘆く親に、押し付けがましいなあ、と呆れていた子どもだった僕。 僕もいつか、自分の子供に「だったら今すぐ行ったらいーじゃねーかよ」とか言われる日が来るのかもしれません。かつて、僕がそんなふうに父親に言ったように。 それもまた、因果応報というものなのか……
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2005年02月22日(火) ■ |
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「CLIE生産終了」とPDAの理想と現実 |
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impress Watchの記事より。
【ソニーが、PDA「CLIE(クリエ)」の新機種投入を終了することが明かになった。現行機種の生産は7月まで行なわれる。 CLIEは、2000年に登場したPalm OS搭載のPDA。CLIEは“Communication Linkage for Information & Entertainment”の頭文字から取られた造語。「エンタテインメント性のある携帯情報端末」として、動画再生などのAV機能の充実を特徴としていた。 しかし、携帯電話の高機能化などにより、日本を除く海外市場では、2004年6月に新機種の投入中止を発表。日本市場では「PEG-TH55」などが好調だったが、PDA市場自体の縮小もあって、今回の決断となった。2004年9月発表の有機ELディスプレイ搭載機「VZ90」が最後の機種となる。 ソニーでは、「CLIEというプラットフォームは、これで終了となるが“エンタテインメント性のある携帯情報端末”というコンセプトは、継続していく」としており、PSPや携帯電話などのプラットフォームでの展開が期待される。】
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僕のような「ネット依存症」の人間にとって、「もっと小さなパソコンを!」というのは、ずっと切実な希望だったのです。5年前くらいには、「小型パソコン」といえば、ソニー・VAIOのC1シリーズと、富士通・LOOXシリーズ、そして、ビクターのインターリンクあたりが、WINDOWSが使えるモバイル機の最小クラスだったのでした。しかしながら、いくらC1が小型だとはいえ、電車で立ったままキーボードをいじるのにはあまりに大きいシロモノでしたし、1.5キロくらいの重さとそれなりの大きさがあるので、常にポケットに入れて持ち歩く、というわけにもいきません。 そこで、僕も「時代はPDA!」という煽り文句に乗せられて、シャープの「ザウルス」を奮発して買ったのです。それも、スライド式のキーボードがついたやつを。これで、どこでもモバイラーだぜ!と思って持ち歩いていたのはよかったのですが、それが、見事なまでに使いこなせませんでした…
たぶん、PDAというのは、使いこなせば、ものすごく便利なものなのだと思います。僕の周りにも、多くのデータを入れて、颯爽と使っていた人はけっこういましたし。 でも、その一方で、PDAには「中途半端」という面があったのも否定できません。 OSもWINDOWSとはちょっと使い勝手が違っていたし、あのキーボードは(キーボードが無い機種のほうが多かったんですが)、あまりにも打つのに手間がかかります。あれで打つ手間を考えたら、あとでパソコンでまとめて打てばいいや、という感じになってしまうのです。そして、これはPDAという機械そのものの罪ではないんですけど、なかなかPDAを使うにふさわしい状況というが、僕にはなくて。 実際に仕事をやっている最中などは、辞書代わりには使えるものの、あまりPDAの画面ばかり見ていては眼が疲れますし、そもそも、周りに普通のパソコンがあれば、そちらを使ったほうがはるかにラクで、情報量も多い。そして、ちょっと時間潰しをしたいのであれば、携帯電話でゲームでもやっていたほうが、はるかに手軽で面白いコンテンツが多かった。 電車などの交通機関での通勤・通学に時間がかかる都会の人には便利なのでしょうけど、僕のような自動車通勤の田舎で仕事をする人間にとっては、本当に「使いどころが無い」んですよね。あの操作系、とくに入力のめんどくささというのは、かなり致命的なもので。 携帯電話のメールであれば、自分も相手も「携帯だから」という暗黙の諒解があって、それなりの長さや内容のやり取りが行われるのですが、PDAの場合は「パソコンと同じ、あるいは近いもの」という意識があるわけですから、その苛立ちはよけい高まったような気がします。 しばらくポケットに入れていたのですが、結局、僕にとっては、「宝の持ち腐れ」になってしまいました。 そういえば、パソコンのモバイルマシンにしても、バイオUのような超小型機が出ているものの(いや、実は僕も持っているんですよこれ。同じ失敗を繰り返しております)、昔のC1やLOOXから、大きさ、重さに関しては、とくに「超小型機」と言われる範疇では、劇的に小型化や軽量化された機種が普及しているわけではないのです。「モバイルの夢」を追い続けた僕の実感としては、「あんまり小さすぎると、入力するのも疲れるし、使いにくい」のですよ本当に。肩もこるし、頸も痛くなるし。もちろん、使い方次第では役に立つ場面もたくさんあるんだろうけど、正直なところ、PDAしか使えないような状況では、パソコン(あるいは、それに準ずるもの)は、なくても別に困らない。
本当は、「PDAがやろうとしていたことは、携帯電話でできるようになりつつある」のですし、ややこしいプロバイダー契約とか接続設定が必要ない(というか、携帯電話会社そのものがプロバイダーなんですが)、携帯電話のほうが便利になりつつありますしね。 情報を「発信する側」としては、携帯電話で長い文章を打つのは、ちょっと勘弁してもらいたいけど。
今から考えると、PDAっていうのは、メカ好きにとっての「夢」だったんですよね、きっと。僕にとっては、使っていて便利というよりは、「どうだ、凄いだろう!」というような、誰かに見せびらかしたくなるファッションのひとつだったのかもしれません。 残念ながら、周囲の反応は、「この人、何やってんの?」とか、そういう感じでしかなくて、なかなか取り出すのに勇気が要ったりしたのですが。
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2005年02月21日(月) ■ |
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『ドラえもん』と「シャッフルモード」の時代 |
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「ドラえもん・巻頭まんが作品集(上)」(藤子・F・不二雄著、小学館)のまえがき(小学館・ドラえもんルームによる)の一部です。
【『てんとう虫コミックス ドラえもん』全四十五巻には、雑誌に掲載されたすべての作品・約千三百作から、藤子・F・不二雄先生自ら選択された八百二十六作を収録しています。そして、巻ごとの構成(作品の収録順など)にも、先生ご自身が携れています。 巻を重ねるたびに、その巻のトップバッターを藤子・F・不二雄先生は、どのようにして決められていたのでしょう? 新刊を待ちわびる全国のファンに向けて、おそらく、次のようなメッセージが込められているのではないでしょうか。 「今度は、こんな『ドラえもん』を考えてみました。この巻で、いちばん始めにあなたに読んでいただきたい作品です。ぜひ、お楽しみください。」 この本では、『てんとう虫コミックス ドラえもん』全四十五巻、各巻の先頭に収録された作品を一同に集めてみました。まとめて読むことで、藤子・F・不二雄先生が込められたメッセージを、より明確に感じ取ることができるかもしれません。】
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まだレコード全盛だった時代、アーティストたちは、「曲順」にものすごく神経をつかって、あれこれと頭を悩ませていたそうです。今のCD、あるいはデジタルオーディオプレイヤーとは違って、当時のレコードは、一度針を下ろせば、そう簡単に聴きたい曲に移動することなんてできませんでしたから、「名盤」と言われるアルバムは、その「流れ」が重視されたものでした。最初から最後まで通して聴けるかどうか、というのが、大きな評価の要素だったんですよね。 現在では、「シャッフルモード」なんて、「次に何が出てくるかわからない楽しみ」が重視されるようになってきているのですけど。
この「まえがき」を読みながら僕が考えていたのは、子どものころ一生懸命読んでいた「ドラえもん」のコミックスの陰には、藤子先生のこんな苦労があったのだなあ、ということでした。物語の流れの順番に収録していけばいい「ストーリーマンガ」に比べて、「ドラえもん」のような、原則的に1話完結のものは、「どういうふうに並べてもいい」はずですし、僕が子どもの頃に、その「並び」に意味を見出したのは、6巻の最後の「さようなら、ドラえもん」と7巻の最初の「帰ってきたドラえもん」くらいだと思います。今思い出してみると、全体的に、巻の最後には「感動的な話」が配されていたような気もしますし、こういうのは「最後はバラードで」というのと同じような発想なのかもしれません。 そして、1300作のうち、収録されたものが826作ということですから、実に3分の1以上は「コミックス未収録」になっているのです。当時のドラえもんは、さまざまな雑誌に書かれていて、たぶん、作者としては納得できない出来のものも多かったのでしょうが、それでも、出せば売れるはずの「ドル箱作品」をこれだけ自分でボツにされているのは、傍からみれば、ちょっともったいないなあ、と考えてしまうのです。でも、そうやってクオリティを保っていったからこそ、これだけ長い間愛され続けているのでしょうね。
確かに、マンガを「シャッフルモード」で読む人はいませんから、こういう「作品の順番」というのは、ものすごく大事であり、藤子先生も、かなり苦心されたに違いありません。この巻頭作品集には「アンキパン」とか「もしもボックス」なんて、印象的なひみつ道具の初登場も多いみたいだし。 こんなシャッフルモード全盛の世の中ではありますが、やっぱり、「話の順番」というのはけっこう大事なのです。誰かに何かを伝えたいときには、なおさらのこと。 だからこそ逆に、この作品集には、「ベストアルバムのような居心地の悪さ」が同居している、というのも事実ではあるのですけど。
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2005年02月20日(日) ■ |
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「まずは自分を笑いなさい」 |
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「ALLEGRIA2・日本ツアー公式プログラム」より。
(中村芳章さん(フジテレビ事務局・『アレグリア2』日本公演ゼネラルプロデューサー)が書かれている「アントンに会いたい。」という文章から。アントンさんは、『アレグリア』の人気クラウン(ピエロ)です。)
【2004年2月上旬、僕は『アレグリア』マイアミ公演の会場にいた。北米ツアー中のシルク・ドゥ・ソレイユ(以下シルク)の演出家であるピエール・パリジエンと日本公演に向けた再演出の打ち合わせをするのが目的だった。いつもの通り、会場内にあるシルクのキッチンでピエールを待っていると『アレグリア』の名物クラウン、アントン・バレンが入ってきた。他の出演者と話すでもなく1人で食事を始める。その後、娯楽用のパソコンの前に座り、インターネットで遊び始めた。その間ずっと1人だ。一般的にクラウンの演者は気難しいと言われる。欧米の演劇文化におけるクラウンの位置は日本と比べようもなく高く、哲学的だったりもするからだ。正直、難しそうな性格の演者に再演出の説得をするするのは辛いなと考えたのは事実だ。 やがてピエールが来て、開口一番、僕は言った。 「アントンは気難しそうだね」 「なぜ?」 ピエールがそう聞いてきたので先ほどの説明をすると、ピエールはこう話してくれた。 「中村、それについてはまったく問題ない。彼は普通の人間以上に明るいし、ナイスガイだ。彼がそういう行動をとるのは彼が聴覚障害者だからなんだ。彼は他のスタッフや出演者に自分のことで迷惑をかけないように、自然に配慮しているだけなんだよ」 一瞬、僕は意味が分からなかった。】
(続いて、そのアントン・バレンさん御本人のインタビュー(実際は筆談で行われたそうです。)
【聞き手:クラウンを目指す人たちに一言。
アントン:私はいつも生徒たち(彼は、演劇の教師としても10年のキャリアがあるそうです)にこう言ってきました。「まずは自分を笑いなさい。人から笑われることを受け入れなさい」と。とても単純なことなんです。誰もが持っている、自分に関する「面白いこと」を見つけてみてください。】
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僕ももちろん、この事実を知らずにステージを観ていたのですが、たぶん、そんなことを観客が知って、「かわいそうに」とか「よくがんばっているなあ」とか思われることを、アントンさんは全然望んでいないのだと思います。 彼が「クラウン(ピエロ)を目指す人たちに「まずは自分を笑いなさい。人から笑われることを受け入れなさい」と言うメッセージを伝えたというのは、裏を返せば、「人を笑わせる」ことを望んでコメディアンになろうとしているはずの人でも、表向きはともかく、内心では「自分の芸で笑わせてやる」とは思っていても、「自分を笑われる」ということに対して、プライドを捨てきれていないと感じることが多いのでしょう。それに対して、アントンさんは、「自分で自分の中に『面白い』ところを発見して、それをさらけださないと、観客を笑わせることなんてできない」と言っているのです。もちろん、すべてのコメディアンが彼と同じ考えではないのでしょうけど。 「笑い」は大事なコミュニケーションの技術なのですが、実際のところ、自分のカッコいいところを見せたり、頭がいいところを見せて「他人を笑わせようとする人って、傍目でみると、全然面白くないどころか、かえってとっつきにくい場合が多いような気がします。 こういうのは、サイトにも言えることで、「自虐系」なんて言いながら、読んでいるとどうもしっくりこないというか、笑わせることを目指しているはずなのに、笑えないようなサイトって、「書いている本人が、自分を笑えていない」のではないでしょうか?「こんな面白いことを書ける俺って凄いだろう!」というのが伝わってくると、どうも読み手としては引いてしまいます。それは、技術以上に「姿勢」の問題なのかもしれません。 こんなふうに書きながらも、僕もやっぱり、「自分を笑える」だけの余裕はないし、「他人に笑われる」ことを心の底から受け入れるのは難しいなあ、と思うんですけどね。 そうできたら、生きていくのも、少しは楽しくなるのかな、と考えてはみるのですが。
そうそう、中村さんは、アントンさんについて、このようにも書かれています。 【シルクは彼の聴覚障害を一切公表していない。しかし秘密なわけでもない。「彼の演技は100%成立している。とても自然だ。逆に公表することによって日本の聴覚障害の方たちを少しでも励ませるのなら、彼も喜んで協力するだろう」とピエールは言う。】
本当のプロというのは、こういう人のことなのでしょうね、きっと。
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2005年02月19日(土) ■ |
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夏目漱石『こころ』の読ませかた |
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「文豪ナビ・夏目漱石」(新潮文庫編)に収録されているエッセイ「『こころ』を、読もうとしているあなたに」(北村薫・文)より。
【《『こころ』を一冊読ませる時、こういう指示をする》という、ある先生の文章を読んだことがあります。 これには、とても感心しました。本来なら、その先生の名を記し、出典を明らかにしなければいけないのです。しかし、残念ながら覚えていません。 《ここに立ってごらん、ほら、こんな風景がくっきりと見えて来るよ》というのは、先生の仕事です。立ちやすく、立ちたくなる魅力的なポイントを発見するのが、優れた教師です。 その方はおっしゃいました。 『こころ』の「上」、作中の先生の家に行った学生――私は、お菓子を出されます。その残りを持たされます。 「上」の二十で、こう書かれています。
昨夜(ゆうべ)机の上に載せて置いた菓子の包を見ると、すぐその中から○○○○○○○○○○○○○○○○○を出して頬張った。
そして「中」の九では、私の死にかけた父親が、
「どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくちゃ」
といい、○○○を食べています。 この二つは、勿論、違うお菓子です。さて、何でしょう?というのです。 素晴らしい問いだと思います。だって、これなら知りたくなるでしょう。読みたくなるでしょう。勿論、漱石は意識して書いています。そういうことは、誰かがいっているでしょう。しかし、この《対比》を高校生の前に示し、《自分で確認しろ》ということが見事なのです。 わたし自身、小学生の頃、『次郎物語』という本を読んでいて、主人公がお金持ちの台所を覗くシーンが、強く印象に残っています。次郎は、そこに卵焼きがあるのを見て驚くのです。お正月でもないのに、と。 我々の子供時代にも、もう卵焼きは普通の食べ物でした。珍しいものではありません。しかし戦前の一般庶民には、卵焼きが大変な御馳走だった、と教えられたのです。】
参考リンク:夏目漱石『こころ』(青空文庫)
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僕もこの文章を読んで、あらためて夏目漱石の「こころ」を読み返してみました。本来は全文読むべきなんでしょうけれど、結局、この○○○の内容が気になってしまって、そこの部分だけ抜粋して読んだのですけど。 確かに、そう言われて読むと、漱石がこの父と子の対比、父親が「死」を口にしながら食べたがるお菓子と息子がなにげなく口に放り込むお菓子とのギャップを「狙って」書いていることがよくわかります。そういえば、僕の父親はよく「バナナを1本丸ごと食べるのが夢だった」という話をしていて、僕はそれを聞くたびに、「そんな時代もあったのだなあ」という感慨半分、「またその話かよ…」という、うんざりした気持ち半分で、それを聞いていたものです。何度も同じ話を聞かされているうちに、後者のほうがどんどん大きくなっていったのですが…… しかしながら、僕が小さかったころには、コーラ1本もそれなりに「大事に飲まなくては」というようなイメージがありましたし、プリンなんていうのも、プッチンプリンが「豪華なおやつ」だったのですから、コンビニで「本格デザート」が買える今の子どもたちに比べたら、やっぱり「世代間ギャップ」が存在しているのでしょうね。
もちろん、この「こころ」において、「食べ物に関する世代間ギャップ」というのは、メインテーマではなくて、一種の「彩り」にしかすぎないのかもしれません。でも、この先生が子供たちの物語への興味を引き出すきっかけとして、「食べ物」の話をしたのは、確かに上手い方法だなあ、と思うのです。たぶん、僕と同じような話をみんな親から聞いていて、感心したり辟易したりしていただろうから。そして、この○○○を確認するために「こころ」を読み始めたはずなのに、作品の魅力にハマってしまう子どもだって、きっといたと思います。「これは『文豪』の代表作で、素晴らしい作品だから」という価値観そのもののを提示されるより、よっぽど「どんな食べ物だったのか?」のほうが「気になる」でしょうし。
それにしても、実際に作品中で確認してみるとそんな驚くようなことでもないんですけど、逆に、そういうところにまでキチンと「伏線」が張られているというのは、やっぱり凄いことですよね。 僕が学生時代には、メジャーすぎて敬遠していたのですが、あらためて読んでみると、やっぱり「文豪」って凄い。
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2005年02月18日(金) ■ |
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終わりなき「閑古鳥コンテスト」 |
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中日新聞の記事より。
【ミス弥富金魚・ミス弥富コンテストの応募状況が低調だ。「やとみ春まつり実行委員会」などが主催し三月五日に審査予定だが、応募者は十七日現在で、まだ一人。事務局は気をもんでいる。 同コンテストは今回で二十六回目。新ミスの二人は四月一日から一年間任期を務め、四月初旬の「やとみ春まつり」に華を添えるほか、九月九日から十一日には、愛・地球博(愛知万博)会場の「弥富の日」の行事に派遣される。 対象は海部郡、津島市在住か弥富町内に勤務する十八歳以上の未婚女性。締め切りは今月二十五日で、入賞した両ミスには各二十万円の賞金が贈られる。 応募は例年、締め切り間際に集中する傾向にあるが、最終的に二十七人が集まった昨年は、この時期に五人の応募があり、ことしの低調さは顕著。事務局は「活気あるコンテストになるよう、奮って参加を」と呼び掛けている。】
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こういう「ミスコンテスト」そのものへの是非の論議はさておき。
「モーニング娘。」のオーディションに何十万通もの応募が殺到する一方で、こんな「閑古鳥コンテストもある」ということなのでしょう。とはいえ、僕の感覚では、芸能人への近道のような「ミス日本」とか「ホリプロ・スカウトキャラバン」とは程遠い、こういうローカルなミスコンに応募する人というのが、具体的にイメージできません。二十万円の賞金とか言うけれど、実際はそれで1年間もイベントなどで拘束されるのです。もしかしたらイベントごとに「手当」があるのかもしれませんが…
とはいっても、この記事だけ読めば、「春まつり」と「地球博」でのイベントしか書かれておらず、それ以外に何か仕事があるのかどうかは不明です。そもそも、「地球博」が無い普通の年は、いったい何をやっているんだろう?とか、つい考えてしまいます。こういう「ローカルなミス」というのは、ご近所では評判になったりするのかもしれませんが、だからといって、本人にとってそれほどメリットがあるとも思えないんですよね。せいぜい、お見合いのときに相手に幻想を植え付けることができるくらいでしょうか。
それにしても、毎年「締め切り間際に応募が多い」というのは、「迷っている」人もいるのだろうけど、関係者から頼まれてなどの「縁故応募」も少なくないと拝察しますし、そういう傾向は、別にこの「ミス弥富」に限ったことではないと思うのです。そこまでして、こういうミスコンテストをやる意義があるのかどうかは、ちょっと疑問にも思われます。 こういうミスコンテストに限らず、世間には「誰が応募するのかわからない懸賞」とか「誰が出たがるのかわからない視聴者参加型番組」というのもけっこうあって、僕はそういうのを見たり聞いたりするたびに、制作側の苦労をしのばずにはいられないのです。 そういえば、以前聞いたラジオ番組で、「その番組のスポンサーの店でしか使えない1万円の割引券プレゼント」というのがあって、僕はそれを聞くたびに、「せめて現金か、CD券とかにすればいいのに…」と思っていたものです。それも、そのスポンサーはデパートとかレストランとかじゃなくて、家具屋さん。そんなの、わざわざ応募してまで「割引券」を欲しがる人が何人もいるとは思えません。新聞の折り込みチラシにでもつけておけばいいようなものです。しかも、それが毎週となれば、聞いているほうも情けなくなってきます。「当選者発表」は聞いたことがないので、「応募者」がいたかどうか、ものすごく疑問でした。 あるいは、リスナー参加クイズに出ている人が、いつも似たような声とか、どうも態度がわざとらしい、とか。 そういう「応募者ゼロのプレゼント」は、テレビやラジオなら、「無かったこと」にしてしまえばいいのでしょうけど、こういう「ミスコンテスト」なんていうのは、「無かったこと」にはできないでしょうしねえ……そこまでしてやりたいのかな、こういうコンテストって。
まあ、僕の先輩も「元ミス○○」と結婚したというのをいつも自慢しておられましたから(確かに、綺麗な人でもありましたし)、こういう「ローカルな肩書き」も捨てたもんじゃないのかもしれないし、なってみれば本人たちも悪い気はしないのかもしれませんけど。
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2005年02月17日(木) ■ |
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鴨崎先生、ありがとう。 |
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読売新聞の記事より。
【天職といえる仕事に巡り合える人が世の中にどれほどいるだろう。大阪府寝屋川市立中央小学校の教職員殺傷事件で犠牲になった教諭、鴨崎満明さん(52)は、間違いなくその一人だった。全力でぶつかり、耳を傾けてくれた「鴨ちゃん」を、何百人もの教え子が惜しみ、悼む。 鴨崎さんは大阪出身。国士舘大の体育学科を経て1975年、小学校教師になった。2番目の勤務地、寝屋川市立池田第二小学校の教え子だった大阪府大東市の派遣社員、瓦田浩章さん(36)は5年生の時、勉強が嫌で不登校になった。鴨崎さんは毎日家に来た。「学校へ来い」とは言わず、学校やクラスメートの話をして帰っていった。その後ろ姿を見ていると「学校行かなあかんな」と思えた。 「子供は優しさを求めてるんや。そうやって接したら絶対にわかってくれる」。同僚にそう言っていた。 中央小に来たのは7年前。高校1年の加藤勉さん(16)は同級生を殴ったりして、先生たちをてこずらせた。5年で担任になった鴨崎さんは「おれの弟子になるか」。「1番弟子にして」と言った加藤さんに、先生は三つの約束をさせた。「女の子には手を上げない」「なるべくけんかはしない」「友達の気持ちを考える」 寂しそうにしていると、「困った時、苦しい時でも上を向けば明るいものがある。上を向いて生きろ」。いつも見ていてくれた。 中学では野球に明け暮れ、悪いこともしなくなって友達も増えた。先生は涙を流して喜んだ。 今は、明徳義塾高野球部で寮生活を送る。事件翌日、新聞に載った先生の顔写真が目に飛び込んできた。「3年間頑張れたら、2人で遊びに行こう」と約束していたのを思い出した。涙が止まらなくなった。 「鴨ちゃん」「鴨やん」「鴨先(かもせん)」。世代やクラスによって愛称は違うが、4月の始業式で担任が発表される時、「鴨崎先生」と言われたクラスからは歓声がわいた。 「これからは、だれに相談したら……」。数え切れない教え子が、心のよりどころを奪われた。】
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もちろん、こういう「お涙頂戴」的な記事がすべて真実とは限らないし、脚色もあるのでしょうし、この先生にだって「暗部」が全然無かったとは言い切れないでしょう。 でも、僕はこの記事を読んで、あらためて「先生」という仕事について考えさせられました。いろいろ言われているけれど、まだまだ、こんな素晴らしい先生もいるのだなあ、って。 医者というのは、学校の先生と並んで「聖職」と言われる仕事なのですが、最近働いていてイヤになってきていることに、「患者さんに訴えられないように、気をつけること」が、日増しに多くなっていること、というのがあるのです。職業としてベストを尽くすことに関しては、自分で選んだ仕事だし異存はないのですが、最近の医療現場は、例えば、事故を起こしたときに、海外ではI'm sorry.と言ってはならないとか、そういう「自己防衛」のための注意点ばかりになってしまい、「何のために仕事をしているのだろう?」と考えこんでしまうことばかりなので…… 「訴えられないために、働いている」ような気持ちにまで落ち込んでしまうことだって、ときにはあるのです。 「子供は優しさを求めてるんや。そうやって接したら絶対にわかってくれる」 もちろんこの言葉に対して、「理想論」だという批判をする人もいるでしょう。僕だって、「愛情や優しさだけでは、どうしようもない」という状況はあると思うのです。もちろん、鴨崎先生だって、現実の無慈悲さに打ちのめされたことだって、あったのではないでしょうか。 それでも、先生は「絶対」なんてこの世にないことを悟りつつも、あえてそう言っていたのではないか、と僕は想像しています。そして、そんな先生に救われた子どももたくさんいたのではないかな、と。 昨今の教育問題で、「学校を守るための設備」とか「教育のためのテクニック」などは、しばしば語られているようです。それは、病院でも同じことなのですけど。 にもかかわらず、そういう薄っぺらい「小手先の技術」に比べて、現代の感覚からすれば、いささかアナクロな感じすら覚える鴨崎先生の言葉は、なんと重みがあるのだろうか、と思わずにはいられません。
「どうしてこんないい先生を…」と、多くのメディアでは、「被害者・鴨崎先生」のことが語られています。確かに、鴨崎先生は、「昔の教え子」に対して、あまりに無防備だったのかもしれない。 でも、鴨崎先生が「異常な17歳の少年に命を奪われた被害者」としてだけ人々の心に残るのは、あまりにも悲しい。 「学校が悪い」「先生が悪い」ってみんな言うし、困った先生も少なくないんだろうけど、こんな「不幸な機会」がなかったために、誰にも知られずにひっそり引退していくような立派な先生も、きっとこの日本中にたくさんいるはずです。 だから、僕はあえて、先生に「お悔やみ」ではなくて、この言葉を贈ります。不幸な一瞬の記憶よりも忘れてはいけないことが、きっと生徒たちの心には遺されているはずです。
鴨崎先生、本当にありがとうございました。
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2005年02月16日(水) ■ |
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オタクと恋する女たち |
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「ダ・ヴィンチ」2005年2月号の特集記事「オタクの恋」より。
(オタク男子と「恋をした」女性たちの体験談を集めた『オタクと恋する女たち〜実録・私の彼氏もオタクだった!』の一部です。)
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【たしかにオタクファッションは千年の恋も醒めるモノ。しかし一方ではこんな話も。『派遣先のデザイン会社でひときわお洒落だった彼に一目惚れして」というBさん(27歳)のケースだ。 「すぐに同棲を始めたんですが、ある日、家に帰ると中から『ヒヒヒ』という笑い声が。ドアを開けたら、彼が床に寝そべって『ファミ通』を読んでいたんです。『小学生が読む雑誌じゃないの』と責めたら『藻前(おまえ)は逝ってよし』って……。日常会話で2ちゃんねる用語は参りました。休日は家で、一日中オンラインゲーム。でも気が弱いので私が怒っても喧嘩にならない。つき合うにはリードできて楽」 改造するもよし、脅す(!?)もよし。オタクとの恋にはそれなりの利点があるのだ。】
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いやまあ、こういう体験談っていうのは、本当のことばかりじゃなくて、アルバイトの人とかが捏造していたりするらしいし(西原理恵子さんは、昔、食うためにエロ雑誌の「女子大生の体験談コーナー」の記事をひとりで何本も創作していたということですから)、いくらなんでもこれは…と思いつつ、僕はこの「体験談」を読みながら、絶句していたのです。 えっ、『ファミ通』って、世間一般的には、「小学生が読む雑誌」なの?休日は一日中オンラインゲームって、やっぱりダメ?とか(僕の場合はネットですけど)、まさか「気が弱いからリードできて楽だ」とか、思われているのか?とか。 …本当に当たっていそうで怖いなあ、これ。
でも、こういうのって、なんだかちょっと不公平な気もします。多くの女性は、「少年のココロを持った男って素敵!」とか言って、いい年して趣味のスポーツに熱中している男性には寛容なのに、その「少年のココロ」が向かう先がゲームとか機械いじりだったら、とたんに「そんな子どもっぽいことにばっかり夢中にならないで!」と言い始めるんだもの。
まあ、そんなこと言いながらも、「好きな趣味さえある程度自由にさせておけば、陰で浮気とかに走らない男」のほうが、扱いやすいし自分も気を遣わなくて楽、という女性もけっこう増えてきているような気もします。他の女性にちょっかいを出すほどエネルギーが有り余っている男よりは、確かに「安心」だし、「電車男」みたいに、すれていないだけ自分好みに「改造」しやすい面もあるのかもしれないし。
結局、「人間の女性の中で私が一番ならいい」というほど割り切れる人はそんなにいないだろうし、「私とゲームとどっちが大事なの?」という結末になる場合も、少なくはないんでしょうけどねえ。 実際に一緒に生活するとなると、どんなに大事な趣味でも、コストやスペースの問題も無視できないからさ……
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2005年02月15日(火) ■ |
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何のための「実名報道」なのですか? |
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毎日新聞の記事より。
【大阪府寝屋川市の小学校で教師が卒業生の少年に刺殺された事件で、フジテレビが15日朝の番組で、逮捕された少年(17)を実名で画面に映した。同社によると、実名が流れたのは情報番組「とくダネ!」。小学校時代の卒業文集を画面に映した際、少年の実名を十分に隠さず、実名が分かる画面が数秒間、放映されたという。】
参考リンク:「実名報道と少年法」を考える(Web現代)
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僕はその画面を観たわけではないのですが、少なくとも、生放送中に過って「映ってしまった」という状況ではなさそうです。だいたい、そういう「少年の過去の映像」というのは、編集されてVTRで流されているものですから。 そして、今朝の放送であれば、「急いで編集して、確認する時間もなく、それを放送した」というほど切羽詰った内容でもないでしょうし。 何事にもケアレスミスというのはありますから、「わざとに決まっている」と断言するのは危険ではありますが、少なくとも担当者は「絶対に実名を出してはならない」という意識を持っていなかったということはわかります。 正直、僕も「どうして人を殺す能力があり、実際にそれをやった人間が『17歳だから』という理由だけで匿名になれるのか?と疑問には思うのです。もっとも、実名を知ったところで実家に嫌がらせの電話をしたりとかの直接行動に出ることはないでしょうし、「実名報道」というのが、どれだけ犯罪抑止や被害者救済に役立つのか、というのは、正直見当もつかないのですけど。 あるいは、単純に「そんなヤツは、晒し者にしてやれ!」という発想や興味本位だけで、僕も「実名報道」を望んでいるのかもしれないし。 でも、「年が若いというだけで、こんなに罪が甘くなるのなら、せめてそういう『社会的制裁』くらいは加えてやりたい」という気がするのも事実です。
この少年法と「実名報道」については、常に問題になっており、以前にも突出したメディアが実名報道に踏み切ったこともありました。 参考リンクには、こんな事例が書かれています。
【'98年1月8日に大阪府堺市の路上で、通学途中の女子高生、幼稚園児とその母親の3人が、シンナーを吸っていた19歳の少年に、刃物で次々に刺され、幼稚園児が死亡し、他の二人も重傷を負ったという事件がありました。殺人罪などに問われた少年は、大阪地方裁判所堺支部で今年の2月24日、懲役18年の判決を受けています。この少年が、月刊誌「新潮45」に顔写真や実名を出され人権を侵害されたとして、発行元の新潮社側に2200万円の損害賠償を求める訴訟を起こしました。1審判決は新潮社側に250万円の損害賠償を払うように命じました。しかし、先月29日に大阪高等裁判所民事部は、控訴審判決で1審の判決を完全にくつがえし被告側の請求を棄却しました。 「2審判決は少年法61条の効力がないも同然。なにが凶悪重大な事件なのか基準があいまいなまま実名報道を認めている。今後、暴走するメディアが出てくることを恐れている」(実名報道された弁護団の一人、金井塚康弘氏)。】
犯人は、【弁護士に「新潮社の行為は法律に違反している。見せしめのように実名や家族のことまで書かれ憤っている」と話した】とのことなのですが、僕の感覚からすれば、「なにが凶悪事件なのか基準があいまい」って、これが凶悪事件でなかったら、「凶悪事件」なんて稀有な存在になってしまうのではないか、と思いますし、お前にそんな「法律に違反している」なんて言う資格はないだろ、厚かましい!」とも感じます。 まあ、その一方で、自分が凶悪犯罪をやらなくても、遠い親戚とかのせいで世間の非難を浴びたら、やりきれないだろうな、とも感じるのですが。「自分の身内は、そんなことしない」と思いたいけれど、それはみんなそう思っていたのだろうし……
あまりにも甘すぎる(ように感じられる)「少年法」の改正論が高まっている一方で、「厳罰主義は、犯罪率の低下にはつながらない」とも言われています。ただ、「どうせ犯罪率の低下につながらないなら、罪を甘くしてもいい」というのもなんだかおかしな話です。
テレビでの「実名報道」がこうして社会問題として報道される一方で、ネット上では、さまざまな個人情報が飛び交っているのです。そして、それ以前に、地元の「人の噂」というネットワークでは、「○○君が犯人」という情報は、ネットが普及するよりはるか昔から地域の人々では情報公開されていたことなのです。そういう意味では、実名報道とか、某巨大匿名掲示板なんていうのは、「本来は名前なんて知らなくてもどうでもいい人たち」にまで、その個人情報を広めてしまう、という効果はありそうです。
実際のところ、僕も日航機の事故のときの「K機長」や幼女誘拐事件の「M」のことは記憶に残っているし、顔もおぼろげながら記憶にあるような気もするのですが、では、彼らが電車で自分の隣に座っていたらわかるのか?と考えると、たぶん「どこかで見たことがある顔だな…」というレベルなのだと思います。 「名前も顔も知らないと、自分に何かあったときに怖い」と言いながら、実際にその顔を一生懸命記憶しようとしているわけでもないですから。 そういう意味では、「実名報道」や「顔写真」よりも、「人の噂」のほうが、はるかに根強いメディアなのかもしれません。
それにしても、「犯人側」のことばかりがこれだけクローズアップされているのですが、僕はいつも、「被害者の側のプライバシーが、『報道』の名の下に無秩序に暴露されていること」のほうが問題なのではないかと感じているのです。被害者の日頃の生活ぶりを「こんなことをしているから、被害に遭うんだ」というニュアンスで言っているようなときもあるし、遺族にマイクを向けて「今のお気持ちを」なんてやる必要性なんて、どこにもないはずなのに。
僕が「実名報道」に対しては賛成なのに、「実名報道をするマスコミ」というのがあまり好きになれないのは、「結局、その『実名報道』っていうのは、話題づくりのためにやっているんじゃないの?」と言いたくなるからなのです。
そもそも、何のための「実名報道」なのですか?
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2005年02月14日(月) ■ |
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あるいは、「絶望」より不幸な「ごくわずかな希望」 |
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共同通信の記事より。
【約20年前の自動車事故で脳を損傷して寝たきりとなり、意識もほとんどない状態が続いていた米カンザス州の女性サラ・スキャントリンさん(38)が、母親に「お母さん」と呼び掛けるまで意識が回復し「極めて珍しい」と医師や米メディアを驚かせている。 AP通信によると、スキャントリンさんは、大学1年生だった1984年9月、酒酔い運転の車にはねられて以降、ひと言も会話ができない状態が続いていた。 しかしことし1月になって突然言葉を話し始めるようになり、今月には「もっと化粧がしたい」と母親と会話するまでになった。 スキャントリンさんは、今が80年代で自分の年齢は22歳ぐらいだと信じており、家族が本当の年齢を伝えると驚いた様子だったという。】
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ある女性とその家族に起こった、「奇跡」のエピソード。 そういえば、手塚治虫先生の「ブラックジャック」にも、事故で意識を失った若者が、何十年かぶりにブラックジャックの手術で意識を取り戻す、という話がありました。その話では、その若者は意識を取り戻した途端にどんどん年を取っていき、「どうして僕をそっとしておいてくれなかった!」と叫びながら、老衰で死んでいく、という悲劇的なラストだったのですけど。
ただ、実際にこのような「意識が戻らない人」と接している家族や医療者からすれば、スキャントリンさんに起こった出来事を「奇跡」で片付けられてしまうのは、ちょっと不本意なのかもしれません。こうして意識が戻った陰には、関係者の長年にわたる努力があったわけですから。 一言で「20年」と言っても、「寝たきりで意識がほとんどない人」を20年間欠かさずに生かし続けるというのは、並大抵の苦労ではないでしょうし。そして、今現在でさえも、「快復のきざし」は見えていても、将来自立できるかどうかもわからない状態。
もちろん、こういう「奇跡」を目の当たりにすると、僕は家族の愛情の力や医学の力を信じたい気持ちになるのです。でも、その一方で、スキャントリンさんを20年間も支え続けた家族のことも、つい考えてしまいます。 これが「奇跡」であるならば、逆に、「奇跡を信じて、意識の戻らない家族をずっと介護し続けている、結果的には報われることのない人々」というのが、この美談の陰には大勢存在しているということになるのだから。 そして、その20年という時間は、家族にとっても「失われた時間」なのでしょうし。
起こる可能性が非常に低くても「奇跡」が起こりうるというのは、人間に希望を与えてくれる一方で(たとえば、宝くじなんていうのは、まさに「夢を買う」ようなものですよね。当選番号を確認した直後は、いつも「こんなの冷静に考えれば、中るわけないじゃないか!」と思けれど、やっぱりまた買ってしまうし)、その「希望」があるからこそ、あきらめきれない、という面もあるのです。「生きていてくれるだけでありがたい」という気持ちだってもちろんあるのでしょうけど、「奇跡」が起こるという希望がなければ、やっぱり20年間というのは、あまりに長すぎると思いますし。 そして、このエピソードを聞いて、さらに「奇跡」を信じる人たちが増えて、その結果、報われない思いをする人も増えるのでしょう。 宝くじに外れるくらいの失望ならそれほど深刻なものではないとしても、いつまでも意識が戻らない家族を抱えて、それでも「いつか回復するかも…」という希望を捨てられない状況というのは、残された人にとっては、長い目で見れば、むしろ辛い状況の場合もありそうです。 そういう意味では、あまりにもわずかな希望というのは、もしかしたら、絶望よりも人を不幸にしてしまうのかもしれません。
実際のところは、当事者にしかわからないことだとは思うのですけど……
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2005年02月13日(日) ■ |
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コミュニケーション上手になるための「質問力」 |
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「日本語トーク術」(古館伊知郎・齋藤孝共著、小学館文庫)より。
(「日本語」に関する、古館さんと齋藤さんの対談の一部です。)
【齋藤:古館さんは、大きなイベントの実況をなさってますでしょう。昔ならプロレスやF1、世界陸上とか。ボブ・サップが出ていたTBSの『ダイナマイト!』。あれなんか準備が大変じゃないですか?
古館:格闘技っていうのは昔から好きで、普段から見ているから、あまり準備しなくてもよくて、慌てて資料整理する必要がないんですね。 でも、普段見ていないものの実況を単発でやるときは、ある程度のことを知っておかないと実況ができないから、大慌てで勉強するんですよ。司会なら大丈夫なんだけど、実況は基本的にある程度の知識を仕入れておくんです。知った上で自分は知らない振りをして「それでどうなんですか?」って解説者に聞くのが気持ちのいい振り方なんです。本当にわかってなかったら、怖くて聞けないですよ。
齋藤:そうかあ。知ってたうえで振るんですね、知らないことを聞くんじゃダメなんだ。
古館:そう、ある意味でお芝居なんですよね。 自分でもある程度は答えられるけれど。ここはリアルな感じで、プロである解説者の話を聞いておいたほうが僕が言うよりも信憑性が高いから、「どうなんですか、そのあたり」と聞いて、「あ、そういうことですか」と言って、また実況に戻るというのが、精神衛生上いいわけです。それが、準備不足で臨むと、本当におろおろで、実況ができなくなっちゃうんですよね。
齋藤:なるほどね。僕は「質問力」という概念を作ってみたんですが、これはすごく大事なことだと思っていて、コミュニケーションの上手い人は、だいたい質問が上手いと思っているんです。逆に言うと、質問さえ上手ければ何とかなる。子ども相手に質問するときにも、「どう最近?」とか聞いたんじゃ、なかなか話してくれないんですけれど、「『ジャンプ』読んでる?」とか聞くと、知らない子どもでもどんどん話にのってくれる。振り方によって、違うんですね。 日本人は、自分が知らないことを聞くのが質問だと思っている人が多いんですよね。学校の授業などは、確かにそうかもしれない。でも、今のお話だと、質問というのは、自分がコミュニケーションをより円滑に増幅していくために質問するんですね。
古館:そういう面はありますね。】
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二人の言葉の達人による、「質問」についての話です。齋藤先生の例えにあるような、「ジャンプ読んでる?」くらいで、本当に子どもとうまく話しができるのかどうかはやや疑問にも思えるのですが、確かに「どう最近?」よりははるかに、「答えやすい質問」ではありますよね。 古館さんのようにきちんと勉強していなくても、他人との会話の中では、自分が知っていることでもあえて「質問」する場合だってありますし。あまりに「凄いですねえ」「知らなかった」と連呼しているような人はなんだかなあ、と思いますが、そういう場合に「話したい相手」を尊重するというのも円滑な会話の技術ですし、「そんなの知ってます!」とキッパリ言い放つ人というのは、それが事実であっても、なんとなくコミュニケーションを取りづらい感じがします。もっとも、あまりに尊重しすぎて、相手の「自分語り攻撃」から抜け出せなくなってしまう場合も少なくないけれど。
時々、「質問しても、相手がそれに対して明確な解答をくれない」と嘆いている人がいて、解答者に「そんなこともわからないんですか」と嘲ったり、憤然としていたりするのです。 でも、そういう人の質問を客観的に聞いていると、そもそも「質問が抽象的でわかりにくい」とか「質問そのものが、解答者の主張のポイントからずれている」とか「そもそも、この人は自分の話をしたいだけで、何も『質問』なんてする気はないんじゃないのか?」とか思うことがけっこうあるのです。 要するに「答えられない」のではなくて、「答えようがない」質問をしてしまっている状況。 それなのに、質問している側は、相手が答えを出さないという事実に対して「自分が勝った」と勘違いして、得意気になっていたりもするのです。 「質問」もコミュニケーションなのだから、本当に解答が欲しいのであれば、質問者のほうだって、なるべく答えやすいように、わかりやすく質問する努力をするべきなのに。
そう言いながらも、僕の日頃から「調子はどう?」みたいな物の言い方をついついしてしまいますから、少しずつでも「質問される相手の立場になって質問する」ように心がけて生きたいと思います。
「質問に答えてくれない」「有効な解答が得られない」のは、必ずしも解答者だけの責任だとは限りません。役に立つサイトを探せないのは、検索エンジンのせいだけではなくて(もちろん、目的のサイトそのものが存在しなかったり、検索エンジンの不備というのもありえるのですが)、「検索のしかた」が悪ければ、いくら有能の検索エンジンでも、いつまで経っても役に立つサイトを見つけ出せませんしね。
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2005年02月12日(土) ■ |
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愚かしくも切実極まりない「帰属意識」 |
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「ばらっちからカモメール」(鴨志田穣=文・西原理恵子=絵・ゲッツ板谷=あほうりずむ、スターツ出版)より。
【はっきりした肩書きか……。 一つだけあった。 「あのね、たった一つだけあったよ。有限会社とりあたま。専務取締役だよ俺は。そっか。俺って若専務だったんだ。何だか大神源太みたいでいいじゃない。 「そうですか、それしかないんですか。判りました。その方向で検討してみます」 その青年編集者は心なしかさみしそうな声で電話を切った。 肩書きなんぞいらん! 大見えを切ってやってきては、何かのついでに誰かに、何々の……と言われてきていた。 知らない間に自民党員にされているようなものである。 旧ソ連で共産党員を産み出すのはたやすい事であったと、何かの本で読んだ。 広い大地で、人も少ない。 何でもいいから何かに属していたい。 人として当たり前の感情であろう。 自分は何にも属していきたくない。 どうしても、と言われるならば、「家族」だけである。 川を遡るオスシャケだって必死の顔色で自分の遺伝子を残そうとしている。】
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どちらかというと、僕は自分を「何かに属する」のを苦手としている人間だと認識していますし、特定の政治的信条や宗教にどっぷりとハマって、他者を排斥している人たちに対して、「どうして、そんな怪しげなものを信じられるんだ?」と半ば疑問、半ば軽蔑の感情を抱いていました。 少なくとも、自分が「大人」になるまでは。
でも、今あらためて考えると、実は、宗教や政治的思想にハマってしまう人々は、「バカだからそういうイデオロギーに騙されている」のではなくて、「ハマってしまいたくなる理由」を抱えている場合も多いのだ、と思えてくるのです。
ここに鴨志田さんが書かれている「旧ソ連で共産党員を産み出すのがたやすかったわけ」を読むと、「宗教とか政治思想とかを客観的に評価できる状態というのは、ものすごく幸福なことなのかもしれないな」という気がしますから。 昔、「マルチ商法」に騙されたお年寄りが、インタビューでこんなことを仰っていました。 「ひとり暮らしで淋しくて、あの人(マルチ商法の勧誘員)が、親身に話を聞いてくれたのがものすごく嬉しかったので、おかしいな、と薄々感じながらも、契約してしまったんです」と。 人間をある集団に所属させるものは、その「正しい理念」ではなくて、「孤独感から逃れたいという願望」なのかもしれません。 「騙されている」という以前に、「なんでもいいから、仲間が欲しい」という切実な気持ち。 それにつけこむのは、確かに酷いことではあるのですが、その一方で、「そうでもしないと、埋められない孤独」というのは、まだまだこの世界に存在しているし、どんなに「理性」が進歩したとしても、この「孤独感」があるかぎり、人は「狂信者」になる可能性を持っているのでしょう。
そもそも「何にも属さないという信条」というのも、「無宗教という宗教」みたいなものなのかもしれませんしね。
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2005年02月11日(金) ■ |
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「大安」や「友引」は、差別の温床なのか? |
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京都新聞の記事より。
【滋賀県の大津市職員互助会(理事長・佐藤賢助役)が、昨年末に発行した2005年版職員手帳に、大安や仏滅などの「六曜」を新たに記載。県内の人権団体や職員の一部から「人権啓発の主体である市として不適切」との指摘を受け、発行済みの約3800冊の全面回収と焼却処分を予定していることが10日、分かった。 手帳は市の全職員に無償配布し、市民にも510円で販売している。以前は六曜が記載されていたが、人権問題への配慮から1990年版から取りやめていた。 今回の記載は、昨年初当選した目片信市長(元衆院議員)が「国会議員の手帳は日付に六曜が記され、便利だ。職員手帳にも記載してはどうか」と提案、互助会事務局の市人事課が受け入れた。同課の齋藤弘課長は「人事異動で担当者が何人も交代し、記載しない理由が引き継がれていなかった」としている。 人権団体などからの指摘を受け、市は回収を決めた。市人事課は24日、各部課長や出先機関の長を対象に人権研修を行い、25日から手帳を回収する。密封して集め、焼却処分する予定。 市が住民向けの人権研修に使っている滋賀県発行の冊子は、日柄の良しあしと関連付けられがちな六曜について、差別意識と絡め「非科学的な迷信で、こだわらないことが大切」としている。 佐藤助役は「迷信や風習にとらわれてはいけない、という人権啓発の主体であるべき行政が、逆行する判断をしてしまった。反省して改めたい」と話している。】
参考リンク: 「六曜迷信と差別解消への行動」(篠山市人権・同和教育研究協議会)
「広報ひかわ・9月号」
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「結婚式は大安(あるいは友引)」「葬式は友引は絶対にダメ」、そういう言い伝えを本気で信じている人は現代ではあまりいないと思うのですが、それでも、自分のこととなると、世間体といものもあるし、結婚式ならともかく、あえてお葬式を「友引」の日にやろうという人はいないと思います。そもそも火葬場がお休みだったりするわけですし。 しかしながら、こういう因習がずっと続いてきた理由というのは、「多少日をずらしてもあまり大きな影響はないのなら(そもそも、結婚式や葬式なんて、そうそう頻回にやるものでもないですし)、とりあえず通例のようにやっておいたほうが無難かな」というようなものだったりするわけです。まあ、結婚式であれば、仏滅で不幸になるとしても本人たちだけの問題かもしれませんが、葬式なんて「他の人を連れて行く」なんて言われたら、やっぱり気持ちのいいものではないですしね。そのほかにも家を新築するときの地鎮祭などでも、こういう「六曜」の影響というのはいまだに残っているようです。
この記事に関して、僕が最初に思ったことは、「もう作ってしまった手帳を、この『六曜』が載っているというだけの理由で、3800冊も廃棄するのは、勿体ないんじゃないの?」ということです。 そこで、「六曜」と「差別」について調べてみたのですが(参考リンクをご覧ください)、どうも、「六曜」そのものには別に差別との直接の因果関係はなさそうで、もともとは中国から輸入された習慣らしいのですが、現代にまで伝わっているものは、江戸時代に完成されたもので、とくに『原典』とか『宗教的バックボーン』とかいうものはないようです。 では、どうしてこの「六曜」というのが、ここまで槍玉に挙げられているのかというと、「六曜のような迷信に従う非科学的な姿勢が、差別の温床になっている」というのが、人権団体の主張。まあ、確かに何の根拠もなく、実際の出来事との因果関係も証明されていないのに「昔からの習慣だから」とか「従ってもそんなに大きな問題はないから」「縁起が悪いから」というような発想は、非科学的であまり褒められたものではないのかもしれませんが、正直、そこまで目くじら立てないといけないことなのだろうか?とも思うのです。 「人権啓発」と「六曜弾劾」というのを結びつけるのは、現代人の僕としては、ちょっと不自然というか、そこまでやらなくてもいいんじゃない?という印象すら受けますし。 そもそも「担当者すら六曜が載っていない理由を知らなかった」という状況で、手帳だけ捨ててしまうことに、どのくらいの意義があるのだろうか?という気もします。 差別意識というのを無くしていく過程として、この「六曜」のように、「実際は無くてもほとんど影響のない非科学的な慣習の根絶」をモデルケースとしてやっているのかもしれませんが、だからといって、役場の人が結婚式をやるカップルや身内を失った遺族のところに行って、「六曜に惑わされてはいけませんっ!」って説得しているわけでもないですしね。だいたい、もしそんなことをやって、隣のおじいさんが「友引の葬儀」の直後に急逝されたりでもすれば、「やっぱり…」ということにならないともかぎらない。 逆に、何も起こらなかったとしても、みんな、それが当たり前のことだとしか思いませんから…
たぶん、多くの日本人は、「六曜なんて、迷信」だとわかっているのだと思います。そして、現実的にも、六曜の影響する範囲なんていうのは、ものすごく少なくなっていますし、今30代である僕たちが還暦を迎えるころには、自然消滅してしまう慣習なのではないでしょうか。「差別をなくす」というのは、人類にとって永遠のテーマなわけなのですが、「人権団体」の人々には、そんな「魔女狩り」以上に、やるべきことなんてたくさんあるような気がするのですけど。 僕としては、正直、「六曜が載っていることを理由に、3800冊の手帳が焼き捨てられてしまうこと」のほうに、居心地の悪さを感じてしまうのです。「来年からは載せないようにします」というくらいで、十分なのではないかなあ。 現在の日本において、そういう「迷信」と「差別意識」を過剰に結びつけることに、はたして、そんなに意味があるのでしょうか?
その一方で、「六曜迷信」が強く叫ばれていた時代に比べて、現代人の「差別意識」というのが薄れてきたのか?と問われると、むしろ、僕が子どものころに感じていたような、「潔癖すぎるほどの、差別することへの罪悪感」みたいなものは、次第に失われつつあるのかな、とも思うのですが……
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2005年02月10日(木) ■ |
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人の本棚を笑うな |
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日刊スポーツの記事より。
【東京都豊島区の築30年の木造アパートの2階に住む地方公務員男性(56)の部屋の床が、ため込んでいた雑誌や新聞の重みに耐えきれずに抜け落ちた。男性は約2時間後、レスキュー隊員に救出されたが、全身打撲で重傷。1階に住む無職男性(75)は「上の部屋の床が抜けそう」と警視庁目白署に相談に行っていたため、間一髪無事だった。 目白署の調べでは、6日午後8時ごろ、2階建て木造アパート「目白荘」(全4部屋)の202号室(6畳1間)の床が抜け、男性が大量の雑誌とともに1階に落ちた。助けを求める男性の声が聞こえたため、東京消防庁のレスキュー隊員が、小型カメラのついた棒を駆使して埋まっていた場所を特定。約2時間後に救出した。男性は全身打撲で重傷。 男性は81年に入居して以来、ひとり暮らし。目白署によると、雑誌は「数千冊」はあり、アパート入居前の70年代のものもあった。「週刊プレイボーイ」「週刊ポスト」や漫画雑誌「少年ジャンプ」のほかに「月刊陸上競技」や「宝塚おとめ」まであり、80年代、90年代のスポーツ新聞もあった。また、森尾由美、小泉今日子、倉木麻衣など時代を問わずにアイドル関連本も並んでいた。総重量は6000キロ(6トン)以上あったとみられている。】
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下の部屋に住んでいた男性は、まさに「間一髪セーフ」だったようです。階下の人にとっては、まさに「ハタ迷惑な話」でしかないのですが、僕も家に本を貯めこんでいる人間のひとりなので、この「雑誌男」のこと、単なる「迷惑な人」とも思えないんですよね。 世間には本好きの人というのはけっこういるようで、「トンデモ本」の研究や「トリビアの泉」の監修でも有名な唐沢俊一さんは、あまりに本が家に溢れすぎて書庫を作ったものの、今度はその書庫に本が多くなりすぎて危険を感じ、慌てて床の補強をされたという話を聞いたことがあります。本というのはけっこうかさばって重みがあるものですから、収蔵しておくのは、なかなか大変なんですよね、実際のところ。 「そんな雑誌ばっかり集めて、どうするつもり?」なんて言う人も多いだろうし、「漫画なら、コミックにまとめられたものを集めればいいのに」と思われるかもしれません。そう、確かに理論的にはそうなんですが、世の中には「もとの雑誌のまま収蔵しておく」ということにこだわる人もいるのです。雑誌の中には、「まとめて本にならないところ」というのが当然ありますし、雑誌は、「消費されて、失われてしまうはずのもの」だから、なおさら「捨てられない」という面もあるみたいで。確かに、雑誌のバックナンバーというのは、キチンとそろえるのはなかなか難しいようですから。 僕は基本的に「ものを捨てるのが苦手な人間」で、雑誌を捨てるときも、ついページをパラパラとめくっては、「あっ、ここにこんな役に立ちそうな記事が!捨てるのどうしようかな…」なんて逡巡してしまうことばかりなのですけど、この記事を読んで、「やっぱり、本をあまりにたくさん抱えているのも考えものだな…」とあらためて思いました。 媒体によって違うのですが、この56歳男性に関する記事には、「崩れ落ちてきた雑誌の山」に関して、けっこう具体的な誌名が書かれているものが多かったですし。
本棚というのは、その人のキャラクターをけっこう反映しているものです。この記事には、「56歳男性公務員」というだけしか個人情報は書かれていないはずなのに、この記事を読んだ僕には、「56歳にもなってひとり暮らしの、マンガとアイドルマニアのちょっと気持ち悪い人」のイメージがパッと浮かんできましたし。まあ、僕だって似たようなものかもしれませんけど。 スポーツ新聞の記事とはいえ、「ジャンプ」くらいならまだしも、「週刊プレイボーイ」とか、「アイドル関連本」を集めていたなんて「56歳男性」が暴露されたら、それはもう、かなりの社会的ダメージなのではないかなあ、とか、つい心配になってもしまうのです。「月刊陸上競技」も、このリストに入っているだけで、なにやら怪しげなイメージが感じられてしまうし…
書籍フリークの皆様、お互いに日頃から「いつ床が抜けてもいいように」心がけておかなければなりませんね。縁起でもない話ですが、「火事で外から丸見え」なんてことだって、ありえるわけだから。 僕もとりあえず、「ユリシーズ」とか「存在と時間」とかのカッコイイ本を、万が一のときのために買い集めておこうかと思います。でも、そういう本って、きっと報道されないんだろうなあ。
何年も本棚の定位置から1ミリも動いたことがない「必要で捨てられない本」なんて、それこそ腐るほどあるんですけどねえ……
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2005年02月09日(水) ■ |
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「大好きなこと」を仕事にする難しさ |
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「ゲームセンター『CX』」(太田出版)より。
(よゐこの有野さんが、名作ゲームの制作者に開発当時のエピソードを聞く深夜番組を書籍化したものです。第1回「スペースインベーダー」の開発者・西角友宏さんのインタビューより。
【有野:ゲームはあまりやらないんですか?
西角:私は、部下には「あまりゲームにのめり込むな」って教えてるんですよ。私の部下の中で、ゲームにのめり込んで伸びた奴がいなかったんですよ。
有野:ゲーム好きとゲームが作れる人は違うんですか?
西角:違うんですね。私と同じで、あんまりゲームしないほうが、結構いいゲーム作っていたので、そういう考えですね。】
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「テレビゲーム」という存在を日本中に認知させた「スペースインベーダー」の開発者である西角さんは、昭和19年生まれだそうですから、現在還暦を迎えられています。そのことだけでも、「テレビゲーム」自体が歴史を積み重ねてきたということがしのばれますね。 あれだけの大ヒットゲームを作られた方ですから、さぞかしゲーム好きで、腕のほうも相当のものかと思いきや、ご本人によると「スペースインベーダー」の「1面はクリアできる。今までの最高は2面」で、「ゲームというのは、作っても遊んじゃダメ」で、「作って、遊んでいる人を観て、また作ってというのが私のやり方」だという話には、ちょっとビックリしました。
よく「好きこそものの上手なれ」と言いますし、やっぱり、ある程度「自分が好きなもの」に対してでないと、創造的な才能というのを持続的に発揮するのは難しいと思うのですが(もちろん、才能を評価されることによって、モチベーションが上がる、という場合もあるでしょう)、「好き」という気持ちがあまりに高じてしまうのも考えものなのかもしれませんね。 その対象を「一歩引いて」眺めることができないと、多くの人から評価されるような作品を創造することができない、という場合もあるのでしょうし。 もちろん、そういう「愛情」と「客観性」を両立できる稀有な人も存在するのだとは思うのですけど。 某映画評論家の方の「●ベリア超特急」などは、まさに「対象への愛情」はあっても…という感じですし(まあ、いろんな意味で「面白い」と思う人がいるのもわかるけど)、映画好きの有名人が作った映画というのは、そういう失敗に陥ってしまうことも多いような気もするのです。そこに、「ノウハウの欠如」という要因があったとしても。 たぶん多くの映画製作者は、愛情から製作にかかわっているうちに、「プロ」としての客観性を身につけていくのでしょうから、いきなり「監督」として才能を発揮するのは、なかなか難しいことです。
そういう意味では、「2番目に好きな人と結婚したほうが、幸せになれる」という「伝説」って、言い得て妙なのかもしれませんね。
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2005年02月08日(火) ■ |
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逮捕するほうは、「罰金刑」なんて些細な事だろうけど。 |
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日刊スポーツの記事より。
【路上で下半身を露出しわいせつな行為をしたとして公然わいせつ罪で、昨年4月に1審宇都宮簡裁で罰金8万円の判決を受けた栃木県壬生町の被告(33)が、控訴審の東京高裁で7日、逆転無罪判決を言い渡された。
被告は医大の大学院生だった03年6月29日午前4時半ごろ、宇都宮市の路上で壁に向かいわいせつ行為をしたとして逮捕、起訴されたが一貫して否認。「ライトを消して近づいてきた白い捜査車両を不審な車と思い、立ち小便のふりをしてやり過ごしたら逮捕された」と訴えていた。】
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「痴漢冤罪」だとしたら、本当にヒドイ話です。この被告は、1年半もの間、「わいせつ男」として後ろ指を指され続けてきたのでしょうから。 午前4時半に路上で何をしていたんだろう?と思えなくもないですし、「立ち小便のふり」ならふりで、モノを取り出す必要があったのだろうか?という気もしなくはないのですが。 そこまでリアリティを追求しなくてもねえ…
しかしながら、大学院生で実験をしている人には、他の人がいない深夜に実験をしたい、というタイプもけっこう多いですし、仮に前夜からお酒でも飲んでいれば、4時半という時間に路上を歩いていたって、「そんな時間まで飲んでちゃダメだよ…」と思うことはあっても、イコール犯罪行為でもないはずです。
5年前くらいに、こんな経験がありました。夜の1時くらいに、友人を家に送った帰りのことです。そこは田舎の県道で、夜中は交通量が少なく、僕は眠気と闘いつつ、音楽を聴きながら深夜のドライブをしていました。速度は車のメーターでは、制限時速プラス10キロにもならないくらい。そんなとき、猛スピードで後ろから車がやってきて。僕の車の後ろに密着してきました。 「ああ、なんだか怖い車が後ろから来たなあ…やっかいだから先に行ってほしいけど、片道一車線で譲るのに適当な場所もないし、勝手に抜いていってくれないかなあ… そんなことを思いつつ、しばらく後ろを気にしつつ運転していたのですが、後ろの車は抜いてもくれず、ずっとピッタリと後ろをついてきます。 なんだかもう、気持ち悪くて仕方がありません。さっさと抜いてくれればいいのに。 相手はイライラしているんじゃないか?なんて思って、仕方なく少しスピードを上げたのですが、それでも、その気味の悪い車は、後ろにピッタリつけたままです。 まるで、スピルバーグの「激突」みたい…
僕もどんどん気持ち悪くなってきて、なんとか道沿いにあった店の駐車場に入って車を停めると、なんと、その車もそこに入ってきて、僕の車に横付けするではありませんか!なんか、インネンでもつけられるのだろうか…? そんな不安におびえつつ、その車を見たら、なんとその車は、「覆面パトカー」だったのです。
そして、警官の第一声は、「けっこうスピード出てましたねえ。ずっとつけてましたよ」
正直「ふざけるな!」と思いましたよ、この温厚な僕でさえ。 だって、もともとは制限速度くらいで走っていたのに、あんなに後ろにピッタリつけられたから、気持ち悪くてスピードを上げてしまったのに…
「いや、後ろからピッタリつけてくる、気持ち悪い(とは言わなかったけど)車がいたので怖くなって…」 と答えると、 「それなら、避けて道を譲れば良かったじゃないですか」 との御神託。
あの道の、どこで譲れって言うんだ!道路も路肩も狭いし、背後にはアオってくる車。そもそも、同じ道を通ってきたはずなのに。
僕はもう、キレそうになりながらも切々と事の顛末を訴え、結局、念書みたいなのを書かされて拇印まで取られたものの、点数が引かれたり罰金になるような「違反」にはならずに済んだのですが、どうも、実際のところは、許してくれたというよりは、「サイレンを鳴らす前に僕の車が停まってしまったので、違反にできなかった」ということのようです。 あれ以来、僕は警察、とくに交通違反の取締りをしている人たちへの不信感が拭えません。まあ、もともと好きだったわけじゃないんですが。 いくらなんでも、普通のスピードで走っている車を背後につけてアオっておいて、相手がスピードを上げたら捕まえるなんて卑怯というかなんというか… この人たちは、「違反をさせない」ことを目的としているのではなくて、「いかに違反を取り締まるか」だけしか考えてなくて、そのためには、「交通違反を自分たちで作り出す」ことまでやるのか、となんだか悲しなりましたし、そしてそんな相手に対して「情けをかけてもらう」ためにペコペコしてしまった自分のことも情けなくて仕方ありませんでした。
僕は断固、この被告を支持します。いや確かに、「立ち小便のフリ」は変かもしれないけど、そういう「怪しいな車につけられてる状況」になると、気弱な人間は、そういう「変なこと」をしてしまうのではないかと思うし、「壁に向かってわいせつ行為」って、どこの世界に、壁に向かって『露出』して喜んでるヤツがいるんでしょうか?それとも、壁さんが嫌がって、警察に通報でもしたのかね?
最近話題になっている「痴漢冤罪」などもそうですが、警察というところは、「どうせ罰金刑くらいなんだから、みんな多大な労力と時間をかけて警察と争うより『泣き寝入り』するだろう」とか考えているような気がします。そんないいかげんな「軽い冤罪」で、人生を狂わされた人もたくさんいるというのに… 警察官が、全部こんないいかげんな人間ではないと思います。でも、もうちょっと「他人を犯罪者にする」ということに関して、深く考えてもらいたいのです。 「めんどうなことはイヤ」とか「自分の成績を上げたい」なんていうのはひとりの人間としてはわかるんだけどねえ… だいたい、警察官の「評価」って、「何人捕まえたか」というより、「いかに犯罪そのものを減らしたか」のほうが、正しい評価基準じゃないの?
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2005年02月07日(月) ■ |
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さとう珠緒のバレンタインデー |
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サンケイスポーツの記事より。
【タレント、さとう珠緒(31)が6日、都内で行われた米SFアクション映画「アイ,ロボット」のDVD発売記念イベントに出席した。
さとうは「最初の30分は観ていてプンプンしてたけど、アレあれアレ? プンプンじゃない!とウルウルになりました」といつもの“珠緒語”で映画の魅力を解説。
もうすぐバレンタインデーだが、「ホワイトデーにお返しをくれそうな人に渡す。年4回あるといいなぁ〜」といつも恋しているようなドッキリ発言も飛び出たが、理想の男性は「まだですねぇ」。ちなみにタイプは、「料理できて、洗濯もして買い物も、マッサージも犬の散歩もしてくれる何でもしてくれる人」。そんな男、いるか?】
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もうなんだか、これが素なのか、「さとう珠緒を演じている人」なのか、僕には全然わからなくなってきました。たぶん、本人もわからなくなってきているのではないでしょうか?そもそも、これでプロモーションになるのか?「アイ,ロボット」は。 まあ、それはさておき、この「お返しをくれそうな人に渡す」という発言、男としてはかなりムカつくというか何というか。そんな「お返し目当てで、男心を踏みにじるんじゃねえ!」と一喝したい気分になる一方で、「義理」でも「お返し目当て」でも、とりあえず貰えると嬉しい、という気持ちもやっぱりあるのです。それこそ、中学生とか高校生の頃は、「義理チョコなんてオレによこしたら、叩き返してやるぜ!」とか気合を入れて、2月14日は学校に行っていたにもかかわらず、肝心の「叩き返して男の気概を見せる」機会というのは、全然巡ってこなかったわけなのですけど。 実際のところ、そういう2月14日に世間に氾濫する「チョコレート」の大部分は、有形無形の「お返し」を求められているもの、ではあるんですよね。会社の「いつもお世話になってます、これからも仲良くしてくださいね」から、水商売の「またお店に来てね」まで、それぞれ、直接の「3倍返し」とかじゃなくても、それなりの「見返り」は求められているはずです。そういう意味では、さとう珠緒という人は、「物でいい」と言っているのだから、わかりやすい、扱いやすい女性なのかもしれませんね。「その分優しくしてくれ」とか「大目にみてくれ」とかのほうが、はるかに「高い」場合だってあるわけですから。 「お返しを堂々と要求する態度」というのは、考えてみたら潔いのかもしれません。僕もオトナになって義理チョコを貰えるようになりましたが、そもそも、世間に流通しているチョコの9割くらいは、「義理」以外の何者でもありませんし、「いきなり知らない人からチョコとともに告白」なんていうのは、大部分の男にとっては、「竹やぶに一億円」くらいのファンタジーのはずです。 頼む、そうだと言ってくれ!
ああ、さとう珠緒にチョコレートを叩き返してやりたい。 でも、本当に貰えたら、たぶんものすごく喜んでしまうんだろうなあ。 ほんと、男っていうのは……
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2005年02月06日(日) ■ |
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「あなたにはうまく死ぬ準備ができているの?」 |
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「神の子どもたちはみな踊る」(村上春樹著・講談社)のなかの一篇「タイランド」より。
【あなたは美しい人です、ドクター。聡明で、お強い。でもいつも心をひきずっておられるように見える。これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬこととは、ある意味では等価なのです、ドクター」 「ねえ、ニミット」。さつきはサングラスをはずし、助手席の背もたれから身を乗り出すようにして言った。 「何でしょう、ドクター?」 「あなたにはうまく死ぬ準備ができているの?」 「私はもう半分死んでいます、ドクター」。ニミットは当たり前のことのように言った。】
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タイのバンコクでの国際学会にやってきて、そのまま現地でのバカンスを過ごしていた高名な病理医・さつき(「更年期」との記述がありますので、年齢は50歳前くらいでしょう)と、さつきの友人が紹介してくれた有能な現地ガイド・ニミットの会話の一節です。さつきは、甲状腺の研究の権威でしたが、離婚や現地での日本人バッシングに「何かが切れて」しまって、日本に戻って大学病院で働くことを決めています。そして、作品中に、ハッキリと明示されてはいませんが、彼女には「30年間引きずっていて、震災のときに、いっそ瓦礫の下敷きになってしまって欲しい」というくらい、憎み、そして愛していた男性がいるようです。 僕はこの「神の子どもたちはみな踊る」が単行本化されたとき、発売直後に読んだ記憶があるのですが、そのとき僕は20代の終わりくらいでした。そして、この二人のやりとりについては、今回4年ぶりに読み返すまで、全然記憶に残っていませんでした。 たぶん、「ゆるやかに死に向かっていくこと」に対して、実感がまだ無かったから、なのでしょう。 今でも僕は「自分が生きていくこと」に精一杯なのですが、その一方で、ここに書かれているような「死ぬ準備」という言葉に対して、なんだかしんみりとしてしまう自分を感じたことに、自分でも驚いているのです。 それは、年齢のせいなのかもしれないし、身近な人々の「死」というものに接する機会が多かったからなのかもしれませんが。 でも、この言葉のニュアンスはなんとなくわかってきたような気がする一方で、「ゆるやかに死に向かう準備」というのが、具体的にどんなものなのかは、正直思いつかないのです。 それは「遺書を書くこと」だったり「宗教的な知識を得る」ことだったり「生命保険に入る」ことだったりするのでしょうか? そういうのも、なんだか違うような気がします。 「死ぬ覚悟をする」というのも、どうも違いそうだし…
「うまく死ぬ」というのは、どういうことなのでしょうか? あるいは、50m走でいいタイムを出すための秘訣のように「ゴールを意識せずに、もっと先を目指して走る」ことのほうが、より良い生き方なのではないか、と思うこともありますし、「がむしゃらに生きる」というのが、そんなに間違っていることなのか?と問われたら、僕にはわからなくなってしまいます。「生への執着」というのが、人にとっての最大の煩悩だというのが、一面の真実だとしても。 もちろん、ここに書かれている「ゆるやかに死に向かう準備」というのは、そういう「努力」を否定するものではないのでしょうけど……
結局、今の僕には、この言葉が心に響いてきても、まだそれを具現化できるほどの覚悟も経験もないのでしょう。それは、僕自身にとっては、けっして悪いことではないのかもしれない。さて、近い将来、その「意味」がわかるときが来るのだろうか?
「生きることと死ぬこととは、ある意味では等価なのです、ドクター」 僕には、「生きること」すら、まだわかっていないのかもしれませんね。
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2005年02月04日(金) ■ |
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「お前の自慢話は、もう聞き飽きた!」…って言ってみたい。 |
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My First BIG『美味しんぼ〜愛が薫る!真摯なうどん・そば編』(小学館)の中の原作者・雁屋哲さんのコラム「美味しんぼ塾」より。
【まあ、素人が自分の打つそばに色々講釈をこねるのは愛嬌だが、これが本職のそば職人に講釈を聞かせられながら食べるのはたまらない。一度そういうそば屋に出会ったことがあって、確かにその男のそばは美味しいのだが、講釈がたまらなかった。それも、他のそば屋の悪口を言い続けるのには閉口した。自分の打つそばに比べて、いわゆる有名店のそばがどんなに下らないものであるか、そばを作りながらえんえんとしゃべり続けるのである。食事に一番合わないのが他人の悪口である。(私は自分が他人の悪口を言う分には気にしないが、他人が他人の悪口を言うのを聞くのは大嫌い)そばの料金は払っているのだから、講釈無しで静かに心平穏に食べたい物だと思う。】
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いやもう、全くもって、その通りだと思います。ああいう「講釈をしたがる料理人」というのは、どんなに美味しいものを作っていたとしても、僕はちょっと遠慮させていただきたいです。まあ、そういう「料理語り」の元祖とも言える「美味しんぼ」の原作者にそんなこと言われても…という気もしなくはありませんが。 でも、この手の「語りたがる人」というのは料理人に限らず、世間のいろんなところに生息しています。それは、タクシーの中だったり、病院の中で白衣を着ていたり。そして、彼らが語る内容のほとんどは「自慢話」なのです。 彼らは、いつでも無遠慮に僕たちの前にあらわれて、唐突に言葉をかけてきます。そして、何気ない世間話のはずだったのに、話題はなぜか彼自身のことや彼の業績、彼の素晴らしい体験、置かれた立場の難しさ、苦労話になっていきます。そして、最初は仕事の手を止めて相槌を打っていた僕は、自分の仕事が進まないし、他人の自慢話なんて聞かされても面白くもなんともないですから(というか苦痛だし)、なんとか話をやめてくれないかな、と、しびれを切らせて、わざとらしくカタカタとキーボードの音を響かせたりするわけです。 でも、ようやく話が終わった…と思ってホッとした瞬間に「そういえば…」と、また苦痛な時間が始まることがほとんど。
まあ、それだけ一生懸命話につきあってあげれば、少なくとも自分に好感は持ってくれているよな…とか思いますよね、普通。 ところが、そういう「語りたがる人」の多くは、「人の話を聞く」というのがどうも苦手なようだし、「相手の都合を考える」なんてことも、あんまり意識していないようなのです。こちらが仕事中に手を止めて話につきあっているにもかかわらず、自分が話したいことを話し終えるか、自分に何か用事ができたとたんに「長話してごめんね」なんて態度は全然見せず、全然仕事が終わっていない聞き手を残してさっさと帰ってしまったり、自分の仕事を黙ってはじめてしまいますし。こちらとしては、それでも正直「助かった…」とか思ってしまうくらいなのですけど。 たぶん、こういうのって、「話してあげている」というふうに、当人は思っているに違いありませんし、無視している人に「失礼な」とか怒りはじめる人までいます。周りの人は、あなたの自慢話を聞くためにこの世に存在しているわけじゃないんだってば!
しかしながら、こういう場合って要領が良い人は、その「語りたがる人」が近づいてくると、サーッと「現場から緊急避難」してしまい、「聞き手」は、いつも同じ人になってしまいがちです。そして、「語りたがる人」は、いつも確実に「聞いてくれる相手」を捕捉してきます。まるで、センサーが付いているかのように。 僕は基本的に他人に嫌われるのが怖い性質の人間なので、ついつい、「ちゃんと話し相手になってあげなくてはな」と真摯な対応を心がけてしまうのですが、結局残されるのは、全然進まなかった仕事と、「またつまらない自慢話を聞かされてしまった…」という精神的苦痛だけだったりするんですよね。向こうは「聞いてくれてありがとう」なんて、全然思ってもいないのに。 そしてさらに「いい人を演じようとしてしまう自分」「要領が悪い自分」に対する自己嫌悪の感情も加わって、この哀れな「聞き役」は、どんどん悪循環に陥ってしまうのです。
「お前の自慢話は聞き飽きた!」なんて言えないのはやむをえないとしても、 「今はちょっと忙しいから」 「気が散るから、話しかけないで」 そんなふうに言えたらなあ、と僕はいつも、弱気でええかっこしいの自分を責めています。
「他人の自慢話を延々と聞かされる立場になってみろよ…」といくら思ってみても、「自慢話ばかりする人」って、そもそも、他人の話をまともに聞いていないから、そんなふうになってしまうのでしょうしね。
本当は、そばに関していくら言葉で語るよりも、黙って美味しいそばを目の前に出すだけのほうが、はるかに説得力があると思うんだけど……
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2005年02月03日(木) ■ |
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男はみんな、痴漢予備軍? |
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共同通信の記事より。
【「あなたの夫が痴漢で捕まりました。解決のため金を振り込んでください」。家族が女性に痴漢行為をしたとうその電話をかけ、示談金や保釈金名目で金をだまし取る手口の振り込め詐欺が今年に入って東京都内で急増し、1月の被害金額が計約3500万円に上ったことが3日、警視庁捜査二課の調べで分かった。 捜査二課によると、犯行グループは、警察官や弁護士を装って都内の主婦らに電話。夫や息子が電車内で痴漢行為をして逮捕された、とうそを言い「会社や上司に知られないためには解決を急ぐ必要がある」などとして、示談金などの名目で金を振り込むよう指示するという。 東京都内では今年に入って目立ち始めた新たな手口で、1月の被害件数は25件(うち未遂4件)。1件当たりの被害金額は100万−150万円という。】
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新手の「振り込め詐欺」の手口らしいのですが、僕は記事を読んで、男としてちょっと考えさせられました。妻や母親にとって、「男」というのは、ものすごく信用されていない生き物なのかなあ、と。 今までの「振り込め詐欺」の手口であれば、もちろん詐欺自体は悪いことだとしても、それに引っかかってしまう人の気持ちは理解できます。事故というのは、いくら注意していても「起こるときには起こる」ものですから、「まさか…」と思いつつも、それらしい話をされて予備知識がなければ、引っかかってしまうのも致し方ない面があるでしょう。 でも、この「痴漢の示談金詐欺」っていうのは、いくら「痴漢冤罪」の話題がよく採り上げられるようになったこの御時世でも、電話を受けた女性は、そう簡単に自分の夫や息子が「痴漢をした」ということに納得できるのだろうか、と僕は思うのですが… その電話を受けたとき、「ウチの人なら、やりかねない」という心境になるのか、「信じられないけど、やっぱり、あの人も男だから…」というような気持ちになるのか、いずれにしても、「もしかしたら」と考えて、100万円を振り込んでしまうくらいには、その可能性を信じてしまう、ということですよね。 もちろん、騙す側の手口も巧妙になっているのでしょうし、急にそんな話をされて、動転してしまうのかもしれませんけど。 まあ、お金を振り込んでくれる、ということから考えてみると、「そのくらいの欲望に負ける可能性はある」と思われている一方で、「仮に痴漢をしていたとしても、100万円には換えられないくらいの価値は認められている」ということですから、妻や母親の夫や息子への「評価」というのは、なんだかものすごく微妙なところにあるような気がします。 「誰が痴漢になっても、おかしくないような世の中」なのかもしれませんが、「ウチの人(子ども)は、絶対にそんなことしませんっ!」って言ってもらいたいんだけどなあ、男としては…
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2005年02月02日(水) ■ |
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浮気を疑われないための、携帯電話の掟。 |
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『週刊プレイボーイ・2005年2月15日号』(集英社)の記事「宮藤官九郎のビガパン!」より。
(宮藤官九郎さんとタレント・和希沙也(かずき・さや)さんの対談記事の一部です。和希さんに「男の浮気を見抜く超能力がある」という話題)
【和希:まず態度でわかるの。一緒にいる時に電話に出ないとか、携帯をバイブにしてるとか。
宮藤:そ、そんなことでえ!?
和希:あと、携帯をテーブルに置かずポケットに入れてるとかね。一番怪しいね。
宮藤:うわあ、鋭い!携帯をテーブルに置いて丸腰だということをアピールしなきゃいけないんだ。
和希:あと、電話鳴ったときのリアクション。やましい男は鳴っただけでビクっとする。
宮藤:見られてる!え〜ん、怖いよぉ〜。(悪寒)
和希:あと、反対向けて置くの。番号表示が下になるように。
宮藤:上向いてると誰からかかってきたかわかっちゃうもんね…。
和希:で、わざとらしく話題変えちゃうの。「そういえば」とか言って。
宮藤:100パーセント怪しい!それは官太でもわかるぞ!
和希:それで「鳴ってるよ」って言っても出ないともうアウト!ちょっとでも携帯開くのに躊躇したら即アウト!
宮藤:それは…せっかく彼女とふたりきりなんだから、関係ない電話には出ないっていう優しさじゃ…。
和希:そんなの優しさじゃないっ!(キッパリ)
宮藤:ごめんなさい!(土下座)
和希:あと、トイレに立つ時に携帯持っていくとか、完全に怪しい。(疑)
宮藤:そっか、見られちゃマズイって言ってるようなものですもんね。
和希:ていうか、たいていの女はまず見ないから、携帯なんか。浮気してる人ぉ〜!置いてったほうが安全ですよぉ〜。(ニヤリ)】
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一緒にいるときの携帯電話の扱いひとつにしても、これだけ「見られている」わけですね。 僕は仕事上の都合と、あの「着メロ」というのがどうも馴染めないため、目覚まし代わりに使うとき以外は、日頃からほとんど携帯はバイブなのですが、それってやっぱり「怪しい」のでしょうか。彼女と一緒のときに電話に出るのは、なんとなくマナー違反のような気がするので、電話が鳴っても放置することも多いです。忘れてしまうのが怖いのでテーブルの上に放置することはほとんどないし、トイレに行くときは退屈しのぎに持って行くことも多いです。もしかしたら僕は、「和希沙也理論」によると、怪しさ大爆発の人、なのかもしれません。いやほんと、そんな事実はないんですけど…
しかし、この「和希沙也理論」によると、浮気していないことをパートナーに証明するには、かなり開けっぴろげというか、プライバシー全開にしないといけない、ということになりますよね。1本の電話に出るだけでも、かなり緊張しそうです。出たら出たで、「誰から?」なんて聞かれるし、出なかったら出なかったで、「何で出ないの?」だし、電源を切っていたり、持っていなかったら、それはそれで疑わしい気もします。「身に覚えがなければいいんじゃない?」と言いたいところですが、「(浮気相手ではない)異性の友達からの電話」なんていうのは、どうしようか悩む場合もありますよね。そういうのって、単なる「自意識過剰」であって、普通に堂々と出たほうがかえって良いんでしょうけど、目の前で電話が鳴っていると、ついつい考えすぎているうちに切れてしまうし。
そういうふうに考えると、携帯電話は浮気に便利なのかどうかというのは、ちょっと微妙なところですよね。いつでも連絡が取れるというのは、それはそれで難しいところもあるみたい。
それにしても、「たいていの女は、携帯なんかまず見ない」って、本当なんですか?ひょっとして、この発言こそが和希さんの最大のワナ…?
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2005年02月01日(火) ■ |
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自分に「レッドカード」を出した男 |
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日刊スポーツの記事より。
【イングランドのアマチュアリーグで、主審が自分を退場処分にする珍事があった。ノーサンプトン州リーグの試合で主審を務めたアンディー・ウェイン審判員(39)が、もみ合いの中で選手に威圧的な態度を取ったことを反省し、自らレッドカードを提示してピッチを去ってしまった。この審判員は試合前日に義父を亡くし、妻の重病も発覚。当日にも友人の急死が明らかになるなど不幸続きで、試合を公正に裁ける精神状態ではなかったという。州協会には「時間が欲しい」と、進退伺を出している。】
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この記事を読んで、なんだかいたたまれなくなりました。ウエインさんは、とても真面目な人だったのでしょうね。日本人の感覚からすれば、「試合前日に義父を亡くし」というような事態なら、「忌引」として仕事をしなくてもいいと思うのですが、それに加えて妻の重病と友人の急死ですから…ウエインさんは、まだ39歳だから、奥様や友人も、そんな急に亡くなられたり、重病になるような年齢でもないはずです。それはもう、普通の精神状態ではいられなかったでしょうね… もしこれがもっと大きなプロリーグならば代わりの審判だって手配しようがあるのでしょうけど、こういう「地域密着型」のリーグでは、なかなかそういうわけにもいかないのでしょう。ウエインさんは、自分の身に降りかかったあまりにも不幸出来事を抱えつつ、それでも一度審判としてピッチに立ったからには、公正なジャッジをしなくては…と心に誓っていたことでしょう。それでもやっぱり、ガマンしきれないものがあって、それを自分で恥じて、自ら「審判としての自分」に、レッドカードを出したのです。それはもう、選手や観客、周囲の人たちは、何が起こったのかわからなかったでしょうけど。 まあ、「どうしてそんな人に審判をさせるんだ、無責任な!」と言う人もいるかもしれませんが、そう簡単に代わりが見つからない、なんてことは、けっして珍しくはないはずです。「そういう事情なら、自分が代わりに」なんて言ってくれる人は、実際に頼んでみればいるのかもしれませんが、「あんまり急な話だと、迷惑かな…」なんて、自分が落ち込んでいるときは、取り越し苦労だってしてしまうかもしれないし、代わりを探す心の余裕もなかったのかもしれないし。 そう考えたら、「自分へのレッドカード」というのは、ウエインさんにとっての「こんな悪夢のような状況からは退場したい」という願いのあらわれだったのかもしれません。
きっと世の中には、「自分にレッドカードを出せなかったウエイン審判員のような人」というのは、たくさんいるのだろうし、僕の人生の中でも、何度もそういう状況の人たちとすれ違ってきたのかもしれないな、と、この記事を読んで思いました。ウエインさんのような人はけっして「歴史上まれ」なわけではないだろうから。 でも、僕はその人たちのことを全然記憶にとどめていません。ウエインさんにしても「自分にレッドカード」という「奇行」がなければ、「辛いのをガマンして審判をやった人の話」は、ごく身近な人しか知らなかったはずのエピソードでしょう。
「なんであの人、あんなにイライラしているんだ?」 「笑顔がなくて、感じ悪い!」 そんなふうに思ったときには、このウエインさんのことを少しだけ思い出してみるべきなのでしょう。彼らは、「笑わない」のではなく「笑えない」原因を心に秘めながら、一生懸命現実に立ち向かっているのかもしれないのだから。
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