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2003年02月28日(金)
「居眠り運転士」と責任ある仕事に必要なこと。


朝日新聞の記事より。

【26日午後3時20分ごろ、岡山市のJR山陽新幹線岡山駅で、広島発東京行き「ひかり126号」(16両編成、乗客約800人)が、所定の位置より約100メートル手前で止まり、3両ほどがホームからはみ出したままになった。車掌が運転席に駆けつけると、男性運転士(33)が腰掛けたまま眠っていた。

 JR西日本の調べに対し、運転士は岡山駅の約26キロ西の新倉敷駅付近から「記憶がない」と話したという。通常は時速270キロで走行する区間で、岡山駅到着まで約8分間居眠りをしていたらしい。

 起こされた運転士が「病気ではなく、運転できる」と話したため、9分遅れで岡山駅を出発。同社は運転免許を持つ車掌を同乗させ、新大阪駅まで運転させた。

 新幹線は自動列車制御装置(ATC)で、停車駅が近づくと段階的に速度が落ちる。時速30キロまで減速した時点で運転士がATCを解除し、手動で所定の停止位置に合わせている。ATCは正常に作動しており、運転士が操作をしなかったため所定位置の手前で止まってしまったらしい。

 運転士は26日午後2時に広島新幹線運転所(広島市)に出勤。25日は公休で約10時間の睡眠をとったといい、持病もなかったという。94年2月に運転免許を取得、計2年9カ月の運転歴があった。 】

〜〜〜〜〜〜〜

 このニュースを聞いて、多くの人の命を預かる運転士が居眠りなんて!と愕然とされた方も多いのではないでしょうか?
 どうも前日にけっこう酒を呑んでいたらしいのですが…
 
 以前、飛行機に乗っていて、前の席に向かい合わせに座っていたCAさんと話す機会があったのですが、僕が「パイロットって、憧れの職業ですよね」と言うと、彼女は「でも、けっこう大変なんですよ。実際は、ずっと操縦室に副操縦士と10時間以上も籠もりっきりで、自動操縦装置で飛んでいる間は、そんなに細かいことはしなくていいけれど、話し相手もいないし…」と教えてくれました。しかし、よく考えてみると、不思議な話ですよね。
 ドラマでは、難癖をつける客によるトラブルとか。嵐の中の着陸がクローズアップされるのに、彼女はまず、「運転席での退屈」をパイロットの辛いところとして挙げてくれたのですから。
 
 そういえば、医者という仕事も、そうかもしれません。
 よく、手術とか、外来とか、大変ですよね…と声をかけていただくのですが(もちろん、それも大変な仕事ではあるのだけれど)実際は、体調が悪いときに突然夜中にポケベルで呼び出されることや眠くて帰りたいのに診断書が山のように積み上げられているときのほうが、本人にとっては憂鬱だったりするのです。
 手術や急変時などは、「大変だ!」と思いつつも、意外と体は動いてしまうもの。

 この新幹線の運転士には、全然悪気はないとは思うのですが、こういう日常の退屈に耐える能力というのは、ドラマチックな場面への適応力と同じくらい、人の命を預かる仕事には必要なのかもしれませんね。

 現実的には、そんなにフライトごとに客が暴れる飛行機なんて、存在しないわけですし。

 それにしても、新幹線の自動操縦システムっていうのは凄いですね。でも、それ以上にあんなにピッタリ列車を停止線に停める運転士というのは、すごいんだなあ。
 いや、僕は最近の新幹線って、ほとんど自動操縦で、それこそ「居眠りしてても運行できる」くらいのイメージだったものですから。



2003年02月27日(木)
「正しい民主主義」の大バーゲンセール、近日開催!


毎日新聞の記事より。

【ブッシュ米大統領は26日、保守系シンクタンク「アメリカン・エンタープライズ研究所」(AEI)の会合で講演し、対イラク軍事行動の終結後も米軍が必要な限りイラクにとどまり、同国の民主化を足掛かりにアラブ全体の政治改革を目指す考えを明らかにした。国連安保理の新決議の有無に関係なく攻撃に踏み切ることを前提とした発言であり、今回の武力行使の目的がフセイン政権の転覆と大量破壊兵器の廃棄にとどまらず、中東地域への「民主主義」の拡大にあることを鮮明にした形だ。 

 ブッシュ大統領は「いずれの道筋にせよ、サダム・フセイン(イラク大統領)と大量破壊兵器の危険は取り除かれる」と述べて武力行使は不可避との認識を示した上で、フセイン政権崩壊後は生物・化学兵器の廃棄や治安の確保、油田の保全などに全面協力することを強調。「新しい政治体制はイラク国民が決める」としながらも、イラク再建のために「我々は必要な限りイラクにとどまる」と述べ、第二次世界大戦後の日本やドイツの例を引き合いに、長期的に国づくりに関与していく方針を明言した。】

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 う〜ん、「民主主義は正しい!」とここまでキッパリ言い切れるアメリカという国は、それはそれで凄いなあ、と僕は感心してしまいます。
 しかし、なんとなく「何でコレ食べないの?こんなに美味しいのに!お前オカシイよ」というように、自分の好きな食べ物を無理に他人に食べさせようとする人みたいに見えるような気も。
 僕は生まれたときから「民主主義は正しい」という教育を受けて育ってきていますので、民主主義の正しさにそんなに違和感はないのですが、たとえば、ずっと王政(とはいっても、現代社会で、本当に文字通りに「王が政治をやっている国」というのは、それほど多くはないでしょうが)の国や社会主義の国で過ごしてきた人にとって、「民主主義の絶対的正義」というのは、どれだけ普遍的なものなのでしょうか?
 「民主主義」という概念が生まれて、それがフランス革命という形でひとつの現実となってから、まだ200年あまり。ギリシャ・ローマ帝政前までの政治形態を考慮に入れたとしても、実際は、世界史の中で「民主主義」が是とされている時代は、まだまだ王政や貴族性に比べて、遥かに短いのです。
 まあ、だからといって、現代日本に生きる僕は「王政のほうがいい!」なんて思いはしませんけど。ただ、それには、今まで受けてきた教育の影響が大きいと考えられます。
 国民に愛されている王室、というのも、世界にはまだまだたくさんありますし。

 それに、一応、名目上はイラクのサダム・フセインは選挙で選ばれた「大統領」なんですよね。
 なんだか、このブッシュ大統領の演説は、アラブ諸国の歴史を尊重しないで、自分の感覚を押し付けているだけなのではないか?と感じてしまいます。

 アメリカがイラクを攻撃するのは「自国と世界の身を守るため」だという説明であれば、僕は、そこまでやる必要があるのか?と思いはするものの、その心境は理解できるんですけどねえ。

 いやしかし、現在のアメリカがやろうとしていることは、武力で「素晴らしい共産主義」を広めようとしたスターリンとあまり変わらないのではないか、という気がしてなりません。
 
 「民主主義は正しい制度である」というのは一種の詭弁で、民主主義の中にも良いものもあれば悪いものもあるし、民主主義自体、まだまだ未完成。
 たぶん、永遠に未完成なのかもしれませんが…



2003年02月26日(水)
幻の街、ハウステンボス。


毎日新聞の記事より。

【九州のテーマパークの雄、ハウステンボス(長崎県佐世保市)が経営破たんした。テーマパークが数多く立地する九州で、バブル経済崩壊後、テーマパークの破たんが相次ぐ中、規模、入場者数とも群を抜き、「1億総余暇時代」のトップランナーだったハウステンボスの再建の行方は最大の関心事だったが、ついに力尽きた。

 九州ではバブル期に多くのテーマパークが開業した。しかし、バブル崩壊後は軒並み入場者数が伸び悩み、多額の初期投資の負担に耐えられなくなるテーマパークが続出した。98年には福岡県大牟田市などが出資する第三セクターのネイブルランド、00年9月には熊本県荒尾市の同アジアパークが会社解散に追い込まれた。さらに01年2月には、宮崎市の大型リゾート施設・シーガイアを経営する三セクのフェニックスリゾートなどシーガイアグループ3社が計3261億円の巨額の負債を抱えて会社更生法適用を申請した。

 苦戦の背景には、消費低迷に加え、東京ディズニーシー(千葉県)、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(大阪市)の開業など他の大型テーマパークとの競争激化がある。九州のあるテーマパーク関係者は「大都市圏と違い、近郊の人口が少ない地方では、繰り返し訪れる『リピーター』にも限度がある。海外旅行の低価格化もあり、経営はますます厳しくなっている」ともらす。共通入場券の導入など入場者数アップのための連携を模索しているが、実効性の高い対策は打ち出せていないのが現状だ。】

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 オランダの街並みを再現した、日本屈指のテーマパーク、ハウステンボスがついに経営破綻してしまいました。というか、危ない、という評判は、地元では随分前から囁かれていたんですけど。
 そういえば、今年の春に「ウインズ佐世保」という、日本中央競馬会の場外馬券売り場が、ハウステンボスの敷地内にオープンしました。僕は、そのニュースを目にしたときに、これは、もう本格的にダメかな…と思ったのです。
 人が集まるところ、という点では共通でも、テーマパークと馬券売り場では客層も違うでしょうし、ハウステンボスの雰囲気を壊す可能性のある施設との同居を選択したということは、かなり追い詰められているのではないかなあ、と。
 ディズニーランドの敷地内に場外馬券売り場が併設される、なんてことは、まずありえませんし。
 そういった、イメージを捨ててでも、目先の利益を取りにいかなくてはならない状況だった、ということなんでしょうね。
 しかし、2000億円を超えるとされる負債額は、あまりに大きい。ハウステンボスは、「テーマパーク」というよりも、ひとつの新しい街を造るという概念で建設されました。
 ほんとに、長崎県佐世保市ハウステンボス町という地名になっているんですよ。
 滞在型のリゾート施設として、別荘の分譲なども行っていたようですが、結局、バブル崩壊のあおりを受けて、その規模に見合った収入は得ることはできず。

 うちからはけっこう近場なので、僕にとってはディズニーランドやUSJより、遥かに身近なテーマパーク、ハウステンボス。
 派手なコースターなどのアトラクションはありませんが、ほんとうにオランダの街並みが再現されていて、真夏や真冬を除けば、パーク内を歩き回るだけでも、けっこう気持ちがいいです。
 それに、アトラクションの前で2時間も並ばなくてもいいし、閉園前には、ディズニーランドに負けないような、すごい花火も上がります。
 大人がのんびりとくつろげるテーマパークとして、僕はけっこう好きなんですよ、ハウステンボス。想い出もたくさんありますし、無くなってほしくないなあ。
 
 入場者数三百数十万人は、複合型商業施設などを除く、純粋なテーマパークとしては、東京ディズニーランド・ディズニーシーの2千2百万人、USJの1千百万人に次ぐものだそうです。

 これだけの人が来ていても、破綻。
 結局、身の丈に合わない怪物を造ってしまい、どんなに頑張ってもどうしようもなくなってしまった、ということなんでしょうか…

 僕はオトナには、強くオススメしたいのです、ハウステンボス。
 行く度に「こんな九州の西の端にこれだけのモノを造ってしまったら、どうやっても赤字なんだろうなあ」と思いますけど。
 今のうちに、バブルが造った幻想都市、一度は見ておいたほうがいいかも。



2003年02月25日(火)
「拉致被害者」と「脱北日本人妻」の保護されるべき範囲。


毎日新聞の記事より。

【帰国事業で北朝鮮に在日朝鮮人の夫と渡り、その後中国に脱出し、先月日本に44年ぶりに帰国した日本人妻(64)に対して、東京都葛飾区が生活保護法に基づき、生活費などの支援をしていることが分かった。政府は、帰国事業で渡った元在日朝鮮人や日本人妻数十人が極秘に帰国していることを明らかにしているが、この女性は公に帰国した初めてのケース。今後、帰国した日本人妻の支援のあり方に一石を投じそうだ。

 区によると、女性は、今月18日から同区内に居住。本人から申請があり、「生活保護の必要がある」と判断した。支給額は、60〜69歳の生活費支援の基準額や1人所帯分の支援金など1カ月当たり計8万3540円。同法は、住宅の家賃として、月額5万3700円以内を支給するとしており、女性の家賃はこの額より少なく、全額が補助されているという。

 女性は1959年12月に夫とともに北朝鮮に渡り、昨年11月に中国に脱出。女性の身柄と引き換えに日本の外務省に現金の要求があったことから、中国当局が今年1月15日、韓国籍の男と一緒にいた女性を保護。女性は同29日に帰国した。

 日本人妻らの支援については、政府内では、一時金の支給や国民年金の保険料免除を可能にする新法が検討対象になっている。しかし、拉致被害者と異なり自発的に北朝鮮に渡ったとみなされる帰国者の場合、優遇措置を含む新法には批判的な指摘もある。

 脱北者25人を日本に受け入れてきたNGO「北朝鮮難民救援基金」によると、これまでに生活保護を受けたのは、病気を理由とした1人だけ。加藤博事務局長は「生活はいずれも苦しいが、帰国者だからと生活保護を適用すれば、国民の中には不公平感を持つ人がいるのではないか。一時的な支援金給付などを盛り込んだ新法が必要」と話している。】

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 う〜ん、64歳の女性で、北朝鮮で過酷な目に遭ってきた人に、今から、この不景気の日本で職を探して働け!と要求するのは、あまりに酷な気はするのですが。

 拉致被害者の方々は、いわゆる日本の「国策」のために犠牲になった人たちですから、国によって保障されて然るべきだと思います。まさに「被害者」であり、日本政府だって、ある意味加害者の一員なわけですから。
 「森昌子さんのコンサートに呼んであげるから、北朝鮮に20年行ってきて」とか言われても、まっぴらゴメンですよね。もちろん宇多田ヒカルのコンサートでも。
 
 しかし、もしもこの人が、南米へ移民していった人だったら、僕たちが受ける印象はどうでしょうか?この記事の中でも触れられていますが「リスクを承知で(まあ、他所の国に渡るという行為には、とくに何十年前では、ある種の賭けだったということは、否定できない面があるでしょう)自分から行ったのだから、失敗したらしたで仕方がないんじゃない?」と思う人も多いと思うのですが。

 「北朝鮮は『地上の楽園』だと思っていた、騙されていたんだ」と言ってみたところで、それは確かに騙すほうも悪いですが、信じ込むほうにも問題はあるでしょう。
 そんなこと言い始めたら「絶対儲かると言われたので信じて入ったネズミ講」や」「絶対当たると信じて買った馬券」とかにも、騙されてかわいそう、ということで、社会保障が適用されないとおかしくなってしまいますし。

 まあ、今の日本では「北朝鮮で酷い目に遭った」ということなら、北朝鮮憎しの感情から、なんでもまかり通ってしまうかもしれませんが。

 この64歳女性のことを個人的に悪く言うつもりはありませんが(年齢的にも、今から働いて自活しろ、というのは難しいでしょうし)、これからは、「北朝鮮絡み」だからといって、何でも基準を緩くする、というようになってはいけないと、僕は思っています。
 生活保護という制度自体が悪いと言っているわけではありません。
 そういう社会保障制度は、一応文明国であることの証です。
 ただ、日本で地道に頑張って税金も払ってきたのに、事故や病気などのさまざまな事情で「保護」されるべき存在となってしまった人が、現実には保護されていないケースを目にすることが多いものですから。



2003年02月24日(月)
リストラが、地球をダメにする…


西日本新聞の記事より。

【リストラされた夫と口論になりナイフで刺したとして、福岡県警八幡西署は二十三日、殺人未遂容疑で北九州市八幡西区の無職女性(35)を逮捕した。

 調べでは、女性は二十二日午後十時半ごろ、自宅で無職の夫(38)の左腹部を家にあった果物ナイフで刺し、肝臓などに二週間のけがを負わせた疑い。

 同署によると、夫は二〇〇一年九月に会社を辞めさせられ、以降、女性と口論が絶えなかった。女性は「果物ナイフを夫と奪い合いになった」などと供述しているという。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「リストラ夫、刺される!」って、よく読んでみたら、リストラされたのは、一年半も前のことじゃないですか。
 僕は、この記事の見出しを読んで、「リストラされたために、妻に刺された」ということかと思ったのですが、果たして、「リストラされたこと」と「刺された」ことに、どの程度の因果関係があったのでしょうか?
 この二人、決定的に不仲になったきっかけには夫のリストラの影響があったんでしょうけれど、リストラが無くても、もともと仲悪かったんじゃないかなあ、という気がするのですが。
 むしろ、元々の相性、もしくはリストラされた後1年半もブラブラしていたことが原因ではないのでしょうか?
 こういう記事には、ときどき、センセーショナルにするために、全く関係ない因果関係が語られている場合があるので、要注意です。
 「東大卒のエリート官僚が汚職!」とか。
 まあ、彼らは学歴を背景にして、汚職が可能な地位についていることは事実なのでしょうけれど、東大卒だから汚職する、というわけではなくて、そういうのは個人のモラルの問題なんですよね。別に、因果関係は存在しないはず。

 確かに、この夫は「リストラ経験のある人」なんでしょうけれど、リストラされたから刺された、とは言い切れないと思います。
 リストラというのは、本人・家族にとっては深刻な問題なのですが、逆に、そういった方法をとらなければ、会社全体が倒産してしまって、もっと多くの人が路頭に迷うことだってあるわけですし。
 
 世間には、リストラにも負けずに頑張っているひとたちが、きっと沢山いるはずなのに。

 中島らも氏の人生相談に「人生固め」というのがありました。何を相談されても「君、それが人生というものだよ」と回答すると、なんとなくそれらしくなる、というものです。
 例:「彼女にフラレちゃって…」「君、それが人生というものだよ」
   「借金取りに追われてて…」「君、それが人生というものだよ」

 ちなみに、若者向けには、「人生」を「青春」に変えた、「青春固め」という技があるそうです。

 さしずめ、この話なんかは「リストラ固め」ですよね。
 夫婦の仲が悪いのは、リストラのせい。刺されたのも、リストラのせい。
 
 最後は、「リストラ企業戦士、北朝鮮を攻撃!」とかになるんでしょうか…



2003年02月23日(日)
修羅場を呼ぶ間違いメール!


「できるかな」(西原理恵子著・角川文庫)より抜粋。

(巻末の担当編集者・新保信長氏の解説より)

【そういえば、何年か前、当時付き合っていた彼女に送るつもりのデートのお誘いFAXを、よりにもよってサイバラさんの仕事場に送ってしまったことがある。ちょうどその頃、サイバラさん宛てに原稿催促FAXを連日連夜送っていたため、指が勝手にサイバラさんの仕事場の仕事場の番号をプッシュしてしまったのだ。すぐ間違いに気づいたがあとの祭り。FAXは、すでに送信済みとなっていた。人間というのはおかしなもので、気が動転すると意味不明の行動に出る。そのとき私は、送信済みの用紙をものすごい勢いでひっつかむと、グシャグシャっと丸めてゴミ箱に豪速球で投げ捨てたのだ。そんなことしても送られたFAXが消えるわけじゃないのに…。
 ま、送っちゃったものはしょうがない。なにはともあれすぐにサイバラさんに言い訳の電話を、と思った瞬間、ぶりぶりとFAXが届く。そこには見慣れたサイバラさんの文字で、
「FAXありがとう。とってもうれしいわ。ステキな夜を楽しみにしてます。あなたの○○ぞう」(○○には彼女の名前が入る)と書かれていた……。

〜〜〜〜〜〜〜

 これだけメールという情報伝達手段が発達していれば、誰でも間違いメールの一度や二度は経験あるんじゃないでしょうか?
 こういう恥ずかしい間違いメールもそんなに珍しいことではないはずで。
 僕の後輩は、以前、大晦日に彼女への待ち合わせメールを間違って送ってきた男に「送る相手間違ってますよ〜」と親切に返信してあげたそうです。
 おそらく、二人の仲は保たれたと思うのですが、その後輩からのメールを見たときに、送り主は顔から火が出るような思いをしたはずです。あはは。
 電話に比べて、メールはコミュニケーションの手段としては間接的なだけに、気楽に送れるところもあれば、逆に、いろいろ考えてしまう部分もあります。
 例えば、誰かにメールを送って返信がない場合
(1)届いていない。
(2)届いたが、読んでいない。
(3)読んだが、忙しくて返信できない。
(4)読んだが、返信の必要なしと判断したか、返信したくないと思っている。
 で、結局電話番号がわかっている相手の場合には、「メール届いた?」とか電話して確認したりするわけですよね。
 「読みたいときに読めるし、返信を強要されない」というのが、メールというコミュニケーションツールの良いところだと最初は言われていたのですが、ここまで普及してしまうと、そうも言えない状況ですし。

 メールというのは、会って話すとか、電話とかと違って、一度送ってから相手が読むまでに時間差があって、しかも、一度送ってしまえば消すことはできない、という性質を持っています。
 だから、「しまった!」と思うようなことを書いてしまって、しかもそれを相手がまだ読んでないと思われるのに、自分にはどうしようもない…という時間帯が出てくるわけですね。これはもう、なんとももどかしいこと。
 いくら「さっきのは読まないで!」というメールを送ったとしても、そのお願いが聞き届けられるかどうか?

 まあ、この新保さんの話のような、本人にとっては恥ずかしさの極致でも、周りからみれば笑い話になる間違いメール、FAXならともかく、
「よりによって、その内容のメールをその相手に…まさに、修羅場!!」
というような間違いメールって、けっこうあるみたいなんですよね。
 要するに「○美って、誰!」と言われるようなメールのことなんだけど…



2003年02月22日(土)
『努力が報われない社会・日本』


読売新聞の記事より。

【読売新聞社が中学生以上の未成年者5000人を対象に実施した「全国青少年アンケート調査」によると、青少年の4人に3人が日本の将来は「暗い」と思う一方、同じく75%が、今の日本は努力すれば、だれでも成功できる社会ではないとみている。

 調査は、昨年12月に郵送したアンケート用紙に回答を記入、返送してもらう方式で行い、主に「社会観・人生観」や「日常生活」について聞いた。有効回収数は2942人で、回収率は59%。

 日本の将来は「明るい」と答えた人は24%、「暗い」は75%だった。昨年10月の本社全国世論調査(対象は20歳以上、面接方式)で「暗い」は62%。調査手法は異なるものの、青少年の方が成人より13ポイントも多い。】

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 終末思想、とでも言いましょうか、日本の将来については、ほとんどの人が暗い予測をしているみたいです。成人よりも、未成年のほうが「日本の将来は暗い」と考える人が多いというのは、文書と面接という調査法による違いのような気がしますけれど。
 だって、面と向かって聞かれたら、あんまり悪いことは言いにくいんじゃないかなあ。
 それにしても、「日本の将来の危険」を再三指摘しつづけているのがマスメディアなら、「日本の将来に危機を抱いている人が多いという危機」をアナウンスするのもメディアだというのは、それはそれで皮肉なことですが。

 ところで「今の日本の社会は、努力しても報われない」と多くの若者たちは(他人事みたいに書いてますが、僕もまだ「若者」のつもり)考えているようなのですが、人類の歴史というのを辿っていくと、「努力が報われる社会」なんていうのは、むしろ稀有な存在なのです。いや、皆無かもしれません。
 人類は、「歴史」という概念が誕生してから洋の東西を問わず、家柄や職業、人種などによって、「生まれたときからの貴族」や「生まれつきの奴隷」というのを数限りなく生み出してきました。
 中国の科挙という制度は、試験の成績によって、優秀な人材を登用するという画期的な制度なのですが、当時そんな試験勉強をするためには、かなりの経済力を必要としましたし、科挙で登用された官僚と門閥貴族の間には、大きな軋轢があったのです。
マルクスが、そういったギャップを解消しようとして考案した「共産主義」という思想は、結局、それを運用する側の人間の問題もあって、不成功に終わっています。
 人間は、自分が他人より優れているところを見つけるのが大好きで、みんな「平等」っていうのは嫌いなんじゃないかなあ、と思うくらい。
 僕だって、どうしても他人と自分とを比べてしまいます。

 確かに、今の日本の社会は「努力すれば必ず報われる」という社会ではないかもしれません。どんなに努力しても、その努力のベクトルが間違っていたり、運が悪かったりして報われることのなかった人は、たくさんいるのですから。
  
 それでも、今の日本の社会には、身分によってなれない職業というのは(性別によって、なれない、もしくはなりにくい職業というのは存在します)、皇室関連と名門神社の神主さんくらいしか無いのです。
 もちろん、経済力によって勉強する環境が違ったり、自分の才能をうまく発掘できるか、という要素はありますが、今この瞬間に日本のどこかで、将来の日本の総理大臣が産声をあげているかもしれないのです。
 
 「努力が必ず報われる社会」なんて、この世界のどこにも存在しないし、たぶん、未来にも存在しえないでしょう。
 でもね、今の日本というのは、歴史上、「これほどすべての人々のスタートラインが近くて、家柄や経済力に関わらず同レベルの教育が受けられて、何の職業にでもなれる社会は稀有である」と言えるのではないかと思うのです。

 今、31歳になる僕は、学生時代には、そんなことは考えたこともなかったけれど。
 だから、今まさに「厭な勉強をさせられている」学生たちに伝えておきたい。
 「それを認めてしまうのはちょっと口惜しいけれど、僕たちは、たぶん恵まれているんだ」と。
 今なら、きっと、まだ間に合うよ。



2003年02月21日(金)
講談社赤字転落と「出版業界 vs WEBサイト」


朝日新聞の記事より。

【出版社最大手の講談社の02年11月期決算が20日まとまり、年間ベースで1600万円の当期損失となった。同社関係者によると、赤字になったのは戦後初めてという。
 売上高は1712億円で前期比3.2%減。全体の3分の2を占める雑誌部門の落ち込みが4.6%減と大きかった。また、同部門に含まれるコミックの不振が響いたとみられている。】

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 ついに講談社まで…というか、戦後ずっと黒字だったというのも、それはそれですごいことだとは思うのですが。
 講談社といえば、日本最大の出版社であり、有名どころでは「週刊少年マガジン」や「週刊現代」「FRIDAY」、あと、ブルーバックスなんてのも講談社が出しています。

 最近、書籍の売り上げの落ち込みは、かなり深刻な状況のようです。
 ここでは、雑誌部門の中の「コミックの不振」が響いたと分析されていますが、おそらく、BOOK OFFなどの大規模中古書店の進出の影響が大きいのでしょう。本は、CDやゲームなどよりは、単価も一般的に安いですし、誰かが自分の前に触っているのを嫌う人が、まだまだ多いとは思うのですが。
 僕も、雑誌とか買うときは、いつもわざわざ積んである下のほうから取って、「なんかセコイ」と、この年になっても言われ続けていますし。
「マガジン」などには、漫画家たちの連名による「中古書店反対!」のコメントが載っているのですが、購買者の実感としては、「面白いマンガが出なくなるのは困るけど、現実に自分の財布を眺めると、やっぱり安いほうを買ってしまう」ということなのだと思います。
 イメージとしては「漫画家は締め切りに追われて睡眠時間は短いけど大金持ち」と想像している人も多いでしょうから。
 しかし、マンガ家とか小説家の実態というのは、そんなに甘いものではないみたいです。言わば、松井選手を見て、「野球選手はみんな大金持ち」と思い込むようなものなんですよね。
 
 出版社は、僕らが大学生だった、今から10年くらい前までは、憧れの業種のひとつだったのですが、これからは、どんどん厳しくなる一方かもしれません。
 たとえば、電車の中でも本を読んでいるより携帯でメールしている人のほうが多いくらいだし、ちょっとした時間つぶしや情報収集には、雑誌を読むよりネットを利用するという人は、確実にこれからも増えていくでしょう。
 
 まあ、結局は広告収入ということであれば、媒体が紙からWEB上に移行するだけなのかもしれませんが。
 
 いずれにしても、モノとしての「書籍」は、今、危機にさらされています。
 僕も学生時代は「本は高い!」というイメージを持っていたのですが、今から考えると、一冊で何時間も没頭できる良質の本や、いい映画、5000円しても何日も遊べるゲームなんていうのは、一晩呑みに行って遣う金額を考えれば、はるかにコストパフォーマンスの高い娯楽だと思いませんか?

 でも、出版業界は、もうオシマイだ!とか、新聞の役割は終わった!とか言ってみても、1日に何千万部も発行されていて、おそらくそれとほぼ同数の人が見ているメディアの影響力というのは、やっぱり凄いものではあるんですよね…
 あのテキスト界の最大手「侍魂」だって、まだ(というのは語弊がありまくりですが)通算で1億1千5百万アクセスくらいなんですから。



2003年02月20日(木)
「真珠婦人」が招いた幸運と苦悩。


スポーツニッポンの記事より。

【昨年昼ドラマ「真珠夫人」で大ブレークした女優の横山めぐみ(33)が夫でCMナレーターの大川泰樹(39)と昨年末に離婚したことが19日、分かった。2人は95年9月に結婚。本紙の取材では丸7年を迎えた昨年夏から別居状態になり、2人の将来を考え離婚を選んだ。昨春に「真珠夫人」で人気が爆発したことが皮肉にも夫婦間のすれ違いを生んだようで“女優の宿命”ともいえる離婚劇だ。

 横山は94年9月2日の自身の誕生日パーティーで大川と知り合い、交際に発展。翌年の誕生日にゴールインした。公私ともにバランスのとれた結婚生活で、昨年4月に「真珠夫人」がスタートした当初も「結婚して毎日が豊かになった」と明かしていた。また知人らによると、横山は大の料理好き。食べ物の好き嫌いが激しかった大川のために、ひと工夫した料理を作って克服させるなど献身的な妻でもあった。

 そんな2人に溝が生じてきたのは昨年夏前。昼ドラマ帯の「真珠夫人」の撮影は「朝から夜明けまでになるのはザラで、週1回の連続ドラマの2倍以上の時間を費やす極めてタイトな仕事。横山さんの睡眠時間は3時間足らずだった」とテレビ関係者。社会現象を生むほどの大ヒット作になったことで、さらに仕事に燃えて取り組むほど、時間的にも精神的にもスレ違いが続いていったようだ。

 夏過ぎには別居状態になり、知人らによると、冷静に互いを見つめ直していたという。時間をかけて話し合った結果、昨年末に離婚することで合意した。

 本紙の取材に所属事務所では「夫婦としてお互いの目指すもの、価値観の違いが生じてきて、友人同士に戻って付き合っていくことが互いをより尊重していけると考えた次第です」と話している。】

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 「真珠婦人」で一躍人気女優となった横山さんですが、この話を読んで、僕は「人間のとって、幸せとは何だろう?」と考えてしまいました。
 もちろん、離婚=不幸というのは、もう現代社会ではあてはまらない方程式ではあると思うのですが。
 横山めぐみさん夫妻は、この記事からうかがえる限りでは、とても仲が良い御夫婦だったようです。「結婚して毎日が豊かになった」なんて、なかなか言えることじゃないですよね。そして、たぶん2人は、それなりに成功した芸能人夫婦として、対等の関係でずっと過ごしてきたんでしょうね。

 でも、「真珠婦人」の大ヒットで、めぐみさんは、一躍時の人に。
 夫のほうは、たぶん、今までの対等の関係から、それなりの芸能人と人気女優という関係の変化に耐えられなかったんじゃないでしょうか?
 夫婦の関係というのは様々で、最初から主と従という場合もありますし(これは、男が主という場合だけではありません。宇宙飛行士の向井千秋さんのご主人は献身的に千秋さんをサポートされていて「君についていこう」という本を上梓されています。現代では、ヒモみたいなのもで含めれば、女性が主である、主従関係の夫婦もけっこう多そうです)、横山さんのように、対等な関係でスタートする夫婦もあります。親子みたい、なんてこともありますよね。

 ただ、横山さんの家庭の場合、きっと、今までの対等な関係が、急速に崩壊してしまったことに、きっと御主人は耐えられなかったんでしょうね。
 最初から、人気女優と程ほどに仕事のあるCMナレーターという関係だったら、こんな形で破綻することは、なかったような気がします。

 これからの2人の人生を考えたとき、横山さんが「真珠婦人」というヒット作に恵まれたことは、果たしてプラスになったのかどうか?
 それがなければ、この二人は、ずっと、ちょっと退屈ながらも幸せな夫婦でいられたのかもしれないのにね。
 役者というのは、その一瞬の輝きにすべてをかける人々。

 でも、実はこれは芸能界に限ったことではないのです。
 夫のリストラとか、突然宝くじが当たった家庭とかでも、同じような悲劇が起こっているのではないでしょうか?急速な関係性の変化に、適応しきれない夫婦や家族たち。

 誰も実感してはいないけれども「何も変化のない、つまらない人生」って、けっこう幸せなのではないのかなあ、と思ってみたりもするのです。



2003年02月19日(水)
救われない「救う会」会長の「日本核武装論」。


朝日新聞の記事より。

【「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)の佐藤勝巳会長は18日、東京都議会であった都民集会で、北朝鮮の核開発に対抗するためとして、「我が国が核ミサイルをもつこと」の必要性について発言した。
 集会は「北朝鮮に拉致された日本人を救出する地方議員の会」主催。佐藤会長は拉致問題解決のための制裁を政府に求めたうえで、「向こうは制裁を宣戦布告とみなし、ミサイルを撃ち込むということに必ずなる。『日米安保条約を発動し対応する』と首相は答えるべきだ。戦争を恐れてはならない。長期的には我が国が核ミサイルを持つこと。要するに、核に対する防御には相互抑止力しかない」と述べた。
 集会後、佐藤会長は発言について「問題提起のために言った。日本からこういう発言が出るのは北朝鮮の核開発のためであるという議論が、周辺諸国でも起こることを期待する」と語った。 】

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 この発言を聞いて、僕の頭には疑問符が大量に浮かんできました。
 この人は「北朝鮮に拉致された日本人を救う会」の会長なんでしょうか?それとも「北朝鮮と戦争してやっつける会」の会長?
 確かに、今の日本にとって、北朝鮮の核開発が脅威であり、多くの日本人が、危機意識を抱いているのは事実です。
 また、今回の拉致事件について、憤りを感じている人が多いのも必然でしょう。
 しかし、そのことと日本の核武装を結びつけて考えるというこの人の発想は、短絡的というかなんというか…
 「核抑止力」という言葉、よく耳にしますが、果たして、そんなものがほんとうに存在するんでしょうか?
 広島もしくは長崎の原爆資料館を訪れたことがある方には理解していただけると思うのですが、原子爆弾というのは、とにかく悲惨極まりない兵器です。
 戦闘員のみではなく、非戦闘員、建物、環境、場合によっては未来をも破滅させてしまう、恐ろしい兵器です。まあ、恐ろしくない兵器など存在しないといえば、それまでなのですが。
 冷静な判断力がある国なら、現代社会で、相手が核保有国であるかどうかに関わらず、実際に核兵器を使用することは、まず考えられません。まさに、世界中を敵にまわすことになるでしょうから。
 でも、北朝鮮は「狂気の国」だから…と思われるかもしれませんね。
 それならそれで、狂っている相手に「核抑止力」なんて、最初から通用しないのではないでしょうか?
 後先考えずに、核兵器を使いまくってくるはずで。

 僕は、日本の核武装には断固反対です。
 世界唯一の被爆国である日本が核武装などすれば、世界には核兵器を持たない理由は無くなってしまうでしょう。
 「あんなに核兵器で悲惨な目にあった国が持っているなら、核は必要なものなんだ」と世界中の人々は思うはずです。
 敢えて言いたい。
 もし、狂気の国に核攻撃されるおそれがあるとしても、日本は核兵器を拒絶するべきです。核を持つ勇気があるのなら、あえて「非核」を世界にアピールする勇気を。

 どうせアメリカの核の傘に守られてるんだろ?と思われるかもしれませんが、どうせ命を張るのなら、僕は核を持たないほうを選びたい。
 
 「拉致被害者を救う会」は、被害者の方々の救出に大きな活躍をされました。
 でも、だからといって、彼らが常に正しいことを言っているとは限らないし、あまりに腫れ物に触るように、本来彼らの領分でないことでも、言いなりになる必要はないのではないでしょうか。
 家族の方の感情としてなら、理解できなくはないのですが。
 同じスポーツという範疇で、ヤンキースの松井がどんなに素晴らしい野球選手でも、サッカー選手として一流ではないのと同じこと。それはそれ、これはこれ、なのです。
 今回の発言は、会長の個人的な意見なのかもしれません。むしろ、そうであってもらいたい。
 それにしても、拉致被害者の悲しみをずっと訴えてきたはずの人が、どうして核戦争の悲惨さに対する想像力に欠けるのか、僕には理解不能。



2003年02月18日(火)
ヒルマン監督の新しい常識と古典的戦略。


日刊スポーツの記事より。

(日本ハムファイターズのキャンプレポート)

【名護キャンプ3度目の休日を利用して、ヒルマン監督がいきな計らいを見せた。13日に第1子となる長男・志夢(もとむ)君が誕生した飯山に対し、母子と対面できるよう2、3日の特別休暇を与えたのだ。飯山は前日16日の紅白戦後、監督とあいさつをかわしてその日のうちに帰京した。白井ヘッドコーチは「素晴らしいこと。家族が亡くなっても試合に出るのが美徳のような日本球界でしたが、これからは変わっていかないといけないですね」と改めて監督の人柄に感銘を受けた様子だった。】

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 よく、芸の世界では「親の死に目にも会えない」なんてことが常識として語られていますが、果たして、それが妥当なことなのかどうか?
 まあ、このヒルマン監督の「粋な計らい」は、まだキャンプの段階で、ペナントレースがスタートしていないからこそ、できたことなのかもしれませんが。

 そういえば、「史上最高の助っ人」と言われた、阪神タイガースのバース選手が退団したのも、「子供の病気のため」という理由でした。
 そのころは退団やむなし、という空気でしたが、球団側がもう少し状況をみて柔軟な姿勢をみせていれば、バース選手の姿も、もっと長く日本で見られたかもしれませんね。
 
 交通機関の発達していなかった時代ならともかく、現代のように日本の端から端まで(離島は除く)1泊2日あれば十分に往復できる時代では「親の死に目にも会えない」というのは、むしろ自己満足なんじゃないかなあ、という気もするのです。今回のような幸福な出来事だけならともかく、身内の不幸や病気なんていうのは、誰にだって起こりうることですから。
 だいたい、もともとハードなスケジュールとはいえ、メジャーリーグの一流選手では、何試合かに一度、「リフレッシュ休暇で欠場」というのが常識になっているのです。

 アメリカ流の合理主義が、すべてにおいて正しいとは思いませんが、いくら勝負事の最中とはいえ、選手たちに、そのくらいのワガママは許してあげていいのではないでしょうか?
 「美談」のために、一生後悔することになるよりも、ちゃんとお見舞いに行ったり、親族を見送ってあげたほうが、本人の人生のためにはいいんじゃないかなあ。
 それに、心のつかえが無いほうが、いいプレーができるのではないかと思いますし。
 こういうのは、ファンにも「作られた美談」に踊らされないような意識改革が必要なんでしょうね。

 それに、厳しくするだけが能じゃないですし。
 昔、ある国の名将が、負傷した兵士の傷口の膿を自ら口で吸ってやったというエピソードがあります。
 その兵士は、そのことを恩に感じて、八面六臂の活躍をした果てに戦死したのだとか。
 ヒルマン監督がそのエピソードを知っているのかどうかはわかりませんが、優しさも、ときには武器になりうる、というのも一面の真実。



2003年02月17日(月)
「サイエンス」に載らない危険な論文の正体。


毎日新聞の記事より。

【米国のサイエンスや英国のネイチャーなど世界の主要科学誌編集者ら32人は15日、論文の内容がテロなどに悪用される恐れがあると判断された場合は、削除や修正、論文の掲載中止などの措置を取ることがある、との共同声明を発表した。

 今回の措置は、科学研究の自由と公開の原則との関連で今後、議論を呼びそうだ。

 声明は「科学的な発見の結果はできる限り詳細に発表し、他者が検証できるようにすることが重要だ」とする一方で、米同時多発テロ以来、「正当な科学的成果でも、悪人の手に渡れば危険なものになるとの懸念が強まった」と指摘した。

 各誌の編集部が専門の機関を設けて悪用される危険の有無を判断。情報を公開することで得られる利益よりも危険の方が大きいと判断した場合は、執筆者に修正や削除を求めたり、掲載、出版を見合わせることもあるとした。

 過去の掲載論文では、細菌の毒性がどのようにして高まるかなどの研究や、ウイルスの遺伝情報からウイルスを人工的に作り出したとする研究などが、バイオテロに利用される危険があると指摘されたことがあった。】

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 現在の世界情勢では、やむをえないことなのかな、と思いつつも、
果たして、その安全と危険の境界はどうやって決めるのだろうか?と疑問も感じずにはいられません。
 ノーベル賞に名前を遺しているノーベルは、ダイナマイトの開発者として有名です。彼がダイナマイトを開発したのは、ニトログリセリンを使った、当時の土木工事が少しの衝撃でも大爆発を引き起こし、非常に危険だったことに胸を痛めてだったと伝えられています。
 しかし、結果として彼に巨万の富をもたらしたのは、兵器としてのダイナマイトでした。その罪滅ぼしのためにノーベルが創設を遺言したのが「ノーベル賞」なのです。
 
 「相対性理論」で知られる物理学者アインシュタインは、アメリカに移り住んだ後、「マンハッタン計画」に参加し、原子爆弾の開発に参加しました。
 彼は、そのことを生涯悔やんでいたといわれています。

 科学というものは、多かれ少なかれ、このような危険を孕んでいるものですし、戦争の道具として最先端の技術が開発・導入されてきたというのは、歴史的な事実といえるでしょう。

 医学も含めて、現在の科学の世界では、自分の研究の成果を論文にして、ここに挙げられているような「サイエンス」や「ネイチャー」といった雑誌に投稿・掲載されるというのが、重要なステータスとなっています。
 どんなに重大な発見をしたとしても、それが論文という形で雑誌に掲載され、世界の人々の目に触れないと、学問の世界で評価されることはないのです。
 今回の発表は、たぶん、これらの雑誌のエディターたちにとっても、苦渋の選択だったと思います。毒性を増す研究というのは、逆に毒性を弱める方向に応用しうるものですし、ウイルスを人工的に造る方法は、ウイルス研究には有用でしょう。
 それに、他者が追試できないような、実際の手法をぼかした論文では、結局、その論文の価値は確定できないわけですし。

 結局、何が危険であるか?というのは、使う人間しだい、ということなのだと思います。そして、残念なことではありますが、これらの研究は「悪用」されてしまうことのほうが圧倒的に多いのが現実で。
 
 僕としては「人類にはこれ以上新しい科学技術は必要ないのかもしれないなあ、もう、論文書かなくてもいいよね」と思ったりもするのですが。



2003年02月16日(日)
「子供のための離婚」なんて、嘘。


日刊スポーツの記事・亀山早苗さんのインタビュー「子のために別れる時代」より抜粋。

(亀山さんはフリーライターで「男が離婚を語るとき」などの著書があります)

【インタビュアー:それでも、子供がいる家なら「子はかすがい」になりますよね?

 亀山:甘い! 古いですね。今、子供の前で夫婦がいがみ合うのは非常によろしくないという考え方が徹底している。「子供のために無理しても一緒」というより「子供のためにも別れましょう」という時代です。特に妻に余裕ある実家があれば、すぐに「さよなら」(笑い)。父母と娘・孫の組み合わせは実に居心地が良かったりするんです。】

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 僕はまだ独身なのですが、この記事を読んで考えこんでしまいました。
 確かに、親のケンカというのは、子供心にものすごく嫌なもので、僕も子供時代に「そんなに嫌なら、別れてしまえばいいのに」と何度も思ったことがあります。
 でも、30過ぎの今になって、他の人に話を聞くと「全く波風の立たない、平和で仲良しの家庭」なんて、マンガやドラマの中だけなんじゃないかなあ、とも思うのです。
 どこの家にでも、それなりの問題があるし、むしろ一見平和そうな家庭のほうが、問題の芽は深かったりして。
 子供としては「あなたのために離婚できない」なんて親に言われるのは非常に辛いことだけれど、だからといって、親が離婚してしまった子供の心の傷も、非常に深いのではないでしょうか?
 亀山さんの「父母と娘・孫の組み合わせは実に居心地が良い」というのは、確かに母親にとってはそうかもしれません。
 でも、考えてみてください。子供にとって、両親が揃っていないというのが、どんなに心の傷になることか。親もいずれは年をとって、寝たきりになるかもしれない。そのときに、娘として、自分の夫を切りすてたように、自分の親も見捨ててしまうのでしょうか?現実には、そういうわけにはいかないと思うのですが。

 家庭内暴力などのやむを得ない理由をもっている場合は別として、亀山さんは、あまりに「離婚なんて簡単」とか「子供のための離婚」なんて言葉を気安く言いすぎているような気がしてなりません。

 自分が大人になって解ったのですが、うちの親もいろいろトラブルを抱えながらも、なんとか夫婦としてやってきていたのだし、他人同士の2人が家庭を築くなんてのは、そういうカオスみたいなものを避けて通れないものではないのかなあ。

 「離婚するのがカッコイイ」なんて幻想に、惑わされてはいけません。
 話題性のためにインパクトのあることを言っているだけなのかもしれないし。
 多少のガマンをしながら生きていくのが人間として普通だし、カッコイイと僕は思いますよ。
 
 子供のころは、「そんなに嫌なら別れればいいのに」と思っていた僕は、自分の親が離婚という選択肢をとらなかったことに、今はすごく感謝しているのです。
 そして、二人は、それなりに「いい夫婦」だったのかなあ、って。

 だいたい「あなたのため」と言う人って、結局は自分のことしか考えてなかったりすることが多いと思いませんか?



2003年02月15日(土)
インド人には、かなわない!


「できるかな」(西原理恵子著・角川文庫)より抜粋。

(筆者・西原理恵子さんが、タイで体験したトラブル)

【タイでインド人と大ゲンカした。注文したものと全く違う家具を持ってきたインド人。

違うというりえぞお。

全く気にせず、家具を組み立てはじめるインド人。

怒りまくるりえぞお。

途中ときおり何かしゃべるインド人。

ひたすら怒るりえぞお。

一時間後、家具は思いっきりすえつけられる。平気な顔で帰るインド人。このときやっと、インド人がずっと何を言っていたかわかる。

「私とあなたは前世が悪かったのだから、こうゆう事になってしまったのだ。
気にしてはいけませんよ。」

インド人とケンカをするだけ時間のムダだという事を体で覚える。】

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 僕も、イスラム圏の人は(日本人の感覚からすると)時間にルーズで、待ち合わせの時間に平気で半日(半時間、ではなくて)くらい遅れてきたり、電車のダイヤも全然時刻表どおりに運行されないという話を聞いたことがあります。
 もちろん、その国の人すべてがというわけじゃないのかもしれませんが、国民性というのは、ここまで違うものかと。
 こういう話を聞いていると、果たして、違う人種同士の相互理解というのは、どこまで可能なのかなあ…と考え込んでしまいます。
 日本人の感覚からすると「持ってきた家具が注文したのと違う」という現象が「前世が悪い」ということと、どういう関係があるのかなんて、まったく理解できませんよね。もし日本人に同じ事を言われたら、「バカにしてんのか!」と激怒すること必定です。
 でも、インド人にとっては、こういうのが当たり前の考え方なんでしょう。それが良いとか悪いとか以前の常識。
 もちろん、ごまかそうとしてやっている可能性が全然ないわけではないけれど。
 
 よく「世界中の人々は、みんな言葉や文化を超えてわかりあえるはず!」というような希望を持っている人がいますけれど、現実には、「みんな同じ感覚を共有する」よりも「違うことを理解して、妥協しあう」ほうが現実的なのかなあ、と思います。
 なんて言いつつも、僕が同じような目にあったら、「何が前世じゃ!」と怒りまくってしまうこと確実なのですが。

 本当に、インド人には、かなわない…



2003年02月14日(金)
「大学」って、本当に必要なんだろうか?


読売新聞の記事より。

【今の大学生や大学を卒業した若者について、知識や学力がきちんと身についていないと感じることがあるという人が70%に上ることが、読売新聞社の全国世論調査でわかった。

 身についていないと感じることがあると答えた人に、具体的な点を聞いたところ、「筋道立てて考える習慣が身についていない」(54%)が最も多かった。また、同じく84%が、知識・学力不足の大学生の増加は日本企業の競争力や技術力の低下につながると思う、と答えた。

 今の日本の大学のあり方については、「満足」25%に対して、「不満」は61%に上った。今の日本の大学が、学生にとってどのような場所になっていると思うか――では、「友人や仲間を作る」(53%)が最多で、「専門的な知識や技術を身につける」(35%)や「教養を身につける」(21%)を上回った。 】

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 この記事を書いた記者も、たぶん大学出ていると思うのですが。
 医学部というのは、一種の職業訓練施設ですから、僕の大学生活は、世間でイメージされているような「ヒマな大学生」とは違っていました。
 途中で週休二日にはなったものの、水曜日以外は、朝の9時くらいから17時まで講義がびっしり詰まっていましたし(もちろん、全員がすべての講義に出ていたわけもなく、ほとんど学校で姿を見ない同級生もいました)、講義のあとは部活で、あまり自由な大学生活を味わえなかった記憶があります。

 もちろん、それで今の仕事に就けているわけですし、実際は、自分の将来のためにしっかり勉強している大学生だってたくさんいるわけですから、一概に「今の大学はダメだ」と言い切ってしまうのもどうかなあ、と思うのです。

 それに、大学で指導しれている教授たちは、実は「学生を教えるのが巧いから」教授になったわけではなくて、研究での業績があったから教授になられた方が多いのです。だから、人を教えるプロじゃないし(もちろん、あまりに学生を無視した教授は本分に外れているでしょうけど)、大学生にもなって「学校が悪い、教え方が悪い」では、情けないような気がします。
 僕も教官に質問できるような優秀な学生ではなかったのですが、今から考えると、大学の先生というのは辞書みたいなもので、自分で勉強してわからない部分を教えてもらう、というのが正しい使い方なのかもしれません。

 でも、僕は正直なところ、「学生の本分は勉強だ!」とか別に思わないんですよね。「大学出は、社会人として必要な知識がない!」とか言われても、社会人として必要な知識は、社会人になってから得ればいいような気がしますし。
 実際に、ある職業に必要な知識っていうのは、その職業について実践してみないとわからないことが多いんですよね。

 時間もなかったし、部活でも結果を出せなかったし、女の子にもモテなかったし、勉強と部活とバイトをやって、残りは家でダビスタばかりやっていた大学生活でしたが、僕にとっては、大事な時間だったと思うのです。
 今の学校制度では、大学に入るまでは常に余裕のないカリキュラムに試験の連続。社会人になってからも、やはり自分の所属する企業集団の意向に従わなくてはならない場合が多いのです。
 「大学生は、遊んでばかりだ!」そうかもしれない。でも「遊ぶ」という選択肢を自分で選んで実行できる時期があるというのは、すごく良いことだし、幸せなことだと思うのですよ。もちろん、勉強したい人、もしくは、する必要があると思う人は、勉強すればいいのです。部活だって、バイトだって、恋愛だって、他人に過度の迷惑をかけなければ、自由ににやっていい。「自由にやることを選べる」ということそのものが、大学生の特権なのですから。
 でも、ときどきは「好きなことができるということが、どんなに稀有で、素晴らしいことなのか」を考えてみてください。
 たぶん、それがいちばん重要なことなのです。

 きっと、それをリアルタイムで体験しているときには、本人はただ漠然と悩んでいるだけだったりするんでしょうけれど。



2003年02月13日(木)
「入間ネット心中事件」を引き起こしたもの。


毎日新聞の記事より。

【11日午後4時15分ごろ、埼玉県入間市下藤沢のアパート1階の空き室で、近くに住む無職男性(26)と若い女性2人が倒れ、死亡しているのを栃木県内の女子高校生(17)が発見、119番通報した。室内には七輪が4個置かれ、窓や部屋の入り口は粘着テープで目張りがされていた。狭山署は、3人は自殺志願者が集まるインターネットのホームページを通じて知り合い、集団自殺をしたとみられる。

 調べでは、3人は6畳和室で服を着たまま倒れていた。外傷はなかった。和室内にあった七輪の練炭は火が消えた状態だった。3人とも死後数日とみられ、一酸化炭素(CO)中毒で死亡したらしい。女性2人は寝袋の中で死んでおり、いずれも20歳前後とみられる。遺書などは見つかっていない。

 発見した女子高生は同署の調べに対し「男性がインターネットで、この部屋で自殺する人を募っていた。男性と連絡を取っていたが、電話が途絶えたため心配になった」と話しており、栃木県から様子を見に来たという。玄関の鍵が掛かっていたため、窓から室内をのぞき、3人を発見した。

 ネット絡みの自殺は、昨年10月には、東京都練馬区のマンションでも、ネットを通じて知り合ったと見られる男女2人がマンションの一室で自殺した。98年12月、東京都杉並区の女性(当時24歳)が、インターネットを通じて入手した青酸カリを飲み自殺、送付した札幌市の塾講師の男(当時27歳)もその後自殺したが、死亡後に自殺ほう助容疑で書類送検された。また00年10月には、今回と同様のホームページで知り合った福井県内の歯科医師の男性(当時46歳)と愛知県内の元会社員の女性(当時25歳)が睡眠薬を大量に飲み自殺している。】

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 僕がこの記事をはじめて聞いたとき、なんだか得体の知れない恐怖を感じました。だって、ほとんど見ず知らずの人と心中するなんて…
 もっとも、考えようによっては「将来を悲観して」という理由で、人生どう転ぶかわからない子供と無理心中する親より、良心的といえなくもないような気がしますが。
 
 それにしても、この事件によって「インターネットは恐ろしい」という先入観が深まってしまうのは、残念なことです。こんなに便利なものなのに。

 例えば僕が、どうしても将棋を指したくて居ても立ってもいられないとしましょうか。でも、身の回りで相手を探すってことは、けっこう難しいですよね。将棋が指せる人ばかりが周りにいるわけではないし、指せるとしても、相手が、ちょうど指したいとは限らない。運良く相手が見つかったとしても、その相手が自分にちょうどいい強さである可能性は低いはず。
 ところが、ネットで相手を探そうと思えば、まさに自分が求めていた相手が、かなりの高確率で見つかります。しかも、興味のある人が反応してくれるだけで、「断られる辛さ」は、ほとんど味あわなくていいわけですから。
 
 仮に僕が死にたいという強迫観念にかられた精神状態で「ひとりで死ぬのは寂しい」と感じていたとしましょうか。ネットがない時代で、知り合いに「一緒に死のう!」とお願いしたら、かなりの高確率で病院に行かされることでしょう。
 街中の女子高生に片っ端から「援助交際しない?」と尋ねたら警察に通報されるのと同様に。

 彼らは、インターネットという道具がなければ、出会うことはなかったでしょう。おそらく、3人という集団の力が、彼らを死に導いた部分もあるはず。
 人間が集まれば、ある一方向へと進むエネルギーが加速するということは、ナチスがユダヤ人に対して行ったことで歴史が証明しています。ひとりひとりのドイツ人が、あそこまでユダヤ人への憎悪を持っていなくても、人間の集団のエネルギーというのは、ひとりひとりの良心や意思を押し流してしまうものです。

 果たして、自殺は悪なのか?これは人間にとっては、永遠の課題。
 昔の哲学者がこんなことを言っています「人間は、あらゆる動物の中で、唯一自ら死を選択できる生き物だ」と。
 この3人のここまでの綿密な準備は、むしろ「死にたい」というより「死ぬことを愉しみたい」のではないか?という気がするし。

 ちなみに、現在の日本で自殺者は1年に約3万人で、交通事故で亡くなられた方の約3倍!そのうち3分の2は、中高年者の自殺で、病苦やうつ病、統合失調症などを基にするものです。これらの多くが報道されないのは、珍しいことではなく、自殺の原因も外部から納得できるようなものが多いからなのでしょうね。
 今回の事件は、「ネット心中」というセンセーショナルな背景があったから、これだけ大々的に報道されているわけで。
 しかも、死んでしまった原因は、一般論からすれば、「まだ若いんだし、それで死ぬ必要があったのだろうか?」と疑問になるようなもの。

 僕の印象では、ネット上の自殺サイトが原因で自殺した人の数は、全体の割合から考えると、ごく少数だと思うのです。ほんとうに死への強迫観念にかられている人は、ネットに書き込みができたり、仲間を集める余裕があるのかどうか?
 ただ、こういうネットでのやりとりでは、本来は自殺しなくて済んだ人まで、その場の流れで自殺してしまう可能性がありそうです。それは、まったく勿体無い話ではありますね。そういう点では、やはり規制の必要があるかもしれません。顔が見えないネット上で出会ったから運命、みたいな錯覚を起こしてしまう人もまだいるんでしょうか?
 単に、仲間集めのための便利なツールなだけなのに。
 むしろ、道を歩いていて、偶然自殺志願者に声をかけられて知り合う方が遥かに確率としては運命的なのに。
 死ぬのに、いちいち仲間集めるなよ…とは思いますが。

 心中が「究極の愛」とかいう幻想が抱かれているのは、実際に心中を実行できるカップルは非常に少数だからです。誰もが心中できるくらいなら、ドラマ性も何もないはずで。やっぱり「死にたい」と思う一方で、「生きたい」という欲求を持っているのが人間だと思うから。 
 おそらく、インターネットの力で救われている自殺志願者もたくさんいると思うのですよ、現実には。

 車だって最初の頃は「交通事故の原因になるから」と言って、みんなが恐れていたと思うんです、でも今は、「危なくても生活に必要なものだから」ということで、みんな車に乗っています。

 インターネットが人間を自殺させるんじゃありません。
 それだけは確かなこと。
 
 それともうひとつ、人がひとり自殺することによって、たとえばこのアパートの大家さん、警察官、検視した医者、そして自殺した人たちの両親…たくさんの人たちが、被害を受けたり、心の傷を負うことになるんです。
 自殺なんて、ドラマチックでもなければ、綺麗でもない。
 ただ、迷惑で心残りなだけ。

 本当に「死にたい」という強迫観念があるのなら、それはあなたの心が弱いわけではなくて、癌や骨折と同じように心が故障しているのです。
 恥ずかしいことじゃない。
 僕だって、いつそうなるかわからない。
 そういうときはネットに書くんじゃなくて、精神科の医者に相談すべきです。
 残念ながら、100回のネット上の温かい言葉のやりとりよりも、一錠の薬のほうが僕たちに効く事だって多いはずだから。



2003年02月12日(水)
ミッキーマウスのロシアンルーレット。


「ディズニーリゾート150の秘密」(TDR研究会議・新潮文庫)より抜粋。

(ミッキーマウスは何人いるのか?という疑問に対して)

【その要点をまとめると、例えば、東京ディズニーランドの「ショーベース」に出演しているミッキーマウス(つまり『ワンス・アポン・ア・マウス』のことね)は、1日最低6人はいるというのだ。ということは、ほかのショーやパレード、さらに東京ディズニーシーのショーにも、そのくらいのミッキーマウスがスタンバイしてるってことか。
 そして、衝撃!ミッキーマウスの正体は実は女の子だった疑惑、について。
 これも、メンバーの手の感触が正しかった。例えば、1つのショーに6人のミッキーマウスがいるとする。そのうち5人が女の子、1人が男の子だったのである。
 そんなこと言われても信じられな〜い!というあなた、さっそく明日にでも東京ディズニーリゾートに出かけて、グリーティング時に自分自身の手で触って確認してみよう。その際のチェックポイントは、握手したときの手のしなやかさ、ハグしたときの腕、背中のやわらかさの3点だ。】

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 まあ、ほんとうに「ミッキーは世界に一人だけ」じゃあないってことは、TDLに行った事がある方なら、理解していただけると思うのですが。
 それにしても、ひとつのショーに6人もミッキーがいるなんて、確かにハードな仕事だとは思うのですが、楽屋ではミッキーの集団がみんなでババ抜きとかやってるのかもしれませんね。ああ、夢がない。
 ところで、ミッキーマウスの中の人は女の子、という疑惑についてなのですが、僕もTDLに行ったときに、年甲斐もなくミッキーにハグしてもらいました。
 いや、あそこに行くとそういう気分になるんだって!
 そのとき、僕もやっぱり「中は女の子、に違いない!よね…」と思ったのでした。骨格というか、身体のつくりというか…
 この人たちほど詳しく観察したわけではありませんが。
 ミッキーの体格からすると、女の子のほうが入りやすいのかなあ、と思っていたんですが、この内容を読むと6分の1は男なんですね。
 う〜ん、僕に「好き好き」してくれたミッキーは、たぶん、女の子、のはず。
 男とハグしていたと想像すると…
 その場の空気としては、まぎれもなくミッキーマウス、なんだけどさ。

 しかし、6分の1という確率は、ロシアンルーレットみたいだ…
 まあ、ミッキーからすれば、こんな30男にも余儀なくサービスしなきゃいけないんだから、ロシアンルーレットどころじゃない!と言いたいかもしれませんが。



2003年02月11日(火)
ただ「祈る」しかないとき。


「はらだしき村」(原田宗典著・集英社文庫)より抜粋。

【おやじが病にたおれてみて、あらためて思い知ったのは、自分には”書く”ことしかできない、という単純な事実だ。
 もちろんそれ以外にも、自分にできることは何でもやってみた。祖父と祖母の遺影に供えた水をこまめに替えて祈り、神にも仏にも祈り、頭も丸坊主にして願をかけた。けれどおやじに向けて、或いはおやじのことを思いながら書いている時こそ、自分は純粋に祈っているのだ、という実感があった。今、書いているこの文章もまた、私にとっては”祈り”以外の何ものでもない。
 自己満足?そうかもしれない。私はおやじが助かることで、自分自身を助けたいだけなのかもしれない。おやじを失う悲しみに襲われるのが怖いのだ。】

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 原田さんにとては、書くことが祈ることだったんですね…
 この文章を読んでいて、僕は自分の父親のことを思い出しました。
 父は医者だったのですが、僕の母親(父にとっては妻、ですね)が重い病気になったとき、彼は彼女をその病気の権威である先生のところに入院させました。
 その病院は、僕たちの家から新幹線と電車を乗り継いで4〜5時間もかかるような遠いところにあって。
 そして、週末になると、父親は自分の仕事が終わるとすぐに新幹線に飛び乗り、母親が入院している病院に見舞いにやってきて、そこで一泊して、また日曜日の夕方に家に戻っていくのです。
 それで、父が母の病室で何をしていたかというと、食べられそうなものを買ってきたり、時々は話をしていたのですが、たいがいは、病室で大いびきをかいて眠っていただけでした。
 子供(とはいっても、大学生でしたが)の僕には、なんでそんなにしてわざわざ遠くからやってきて、しかも病室では寝てばかりなのか、理解できなくて。
 そんな父の姿を見て、母はただ苦笑しながら「家で休んでればいいのにねえ」と言うばかり。

 今は、そのときの父の気持ちが少しわかるようになった気がします。
 父も、何かやりたくても何もできなくて、ただ、そういう形で祈っていたのかなあ、と。
 病で苦しんでいる人に対して、家族や恋人といっても、周りの人間はあまりにも無力(医者だって無力なことも多いのですが)。
 
 でも、無力だからこそ、何かをしたいという気持ちって、大事なのではないでしょうか?
 口では「来なくて良い」と言いながらも、今思い返すと、母は少しだけいつもより饒舌だったような記憶がありますし。



2003年02月10日(月)
幸運な「破局・流産・ストーカー」。


ロイター通信の記事より。

【主演最新作「めぐりあう時間たち」で、1941年に自殺した英作家バージニア・ウルフ役を熱演した女優ニコール・キッドマン(35)が、俳優トム・クルーズとの離婚など、実生活で問題を抱えていたことが演技に役立ったと語った。
 ベルリン国際映画祭での同作品のプレミア上映後、会見で述べたもの。
 キッドマンは撮影開始当時、クルーズとの破局や度重なる流産、ストーカーなどの問題を抱えていたという。
 キッドマンは、人生において、役のめぐり合わせというものがあり、演じるべき時にこの役を得られて幸運だったとしている。
 キッドマンはこの役で、ゴールデン・グローブ賞主演女優賞を獲得。アカデミー賞受賞の期待も高まっている。】

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 ニコール・キッドマンとトム・クルーズは、ハリウッドきってのオシドリ夫婦として有名でした。それが、お互いを傷つけあうような離婚劇、やっぱり芸能人っていうのは…と僕は内心思ったものでした。
 「演じるべき時にこの役を得られて幸運だった」というのは、確かに役者としての彼女にとっては事実でしょうね。
 おそらく、そういった実体験が、彼女の演技にリアリティを与え、今回のような栄誉をもたらしたわけですから。
 
 でも、「幸運だった」という言葉は、人間・ニコール・キッドマンにとっては、強がりなのかもしれないなあ、という気もするのです。
 周りの人はよく「それも人生経験だよ」という慰め方をするものですが、本人がそう思えるかというと、必ずしもそうでもないだろうし。
 「あの女と別れたから、今の嫁さんと結婚できたんだろ」とか「早くに親を亡くしたから、しっかり者に育って…」なんてのは、本人は「ほんとうは前の彼女のほうが好きだったのに…」とか「両親が揃っている家の子が羨ましくてしょうがなかったのに…」と内心思っていることも多いのではないでしょうか?
 ほんとうは、そんな「役に立つ体験」したくもなかったよ!というのが本音のことも多いはず。

 もちろん、こういう負の体験をプラスにできるのが役者という仕事であり、そのくらいの強い前向きな意志がないと成功できない世界なのでしょうけれど。

 ただひとつ確かなのは、たぶん他人から「離婚やストーカーのおかげで、いい演技ができましたね」と言われたら、キッドマンはすごく腹が立つだろうなあ、ということです。

 それにしても、どんなに素晴らしい役者でも、幸せな夫婦、幸せな家族を演じ続けるのは難しい!



2003年02月09日(日)
『WEB日記の良い題名、悪い題名(技術編)』


「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(井上ひさしほか、文学の蔵編・新潮文庫)より。

(作文教室にて「自分が今いちばん悩んでいること」をテーマに書いてください、と参加者に話した後で)

【題は出しません。題は、自分で考えてつけてください。題名をつけるということで3分の1以上は書いた、ということになりますから。
 それだけ題名というのは大事なんです。
 ですから、みなさん、自分で好きな題をつけてください。いい題名とは、たいへん情報量が豊かなものなんですね。
 読み手が、それを見て「あっ、これ、読んでみようかな」と思うような題名を、うんと考えてつけてください。つまり、題名とは最初の勝負どころなんですね。】

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 題名が3分の1以上!
 字数としては、本文に比べたら少ない数なのですが、題名というものを井上さんが非常に重視しておられることがよくわかります。

 紙媒体にしてもWEB日記にしても、名の知れた作家・サイトでない限り、はじめてみた本を手に取ったり、そのサイトへのリンクをクリックするかどうかは、ひとえにこの「タイトル」にかかっています。
 本の場合は、その本じたいの荘丁などで興味を惹かれることもありそうですが、日記系やテキストサイトのリンク集から、初めて来た人が、どの日記を読もうとするかというと、まず、「タイトルに興味を惹かれもの」だと思うのです。
 どんなに内容がすぐれていても、読者にとっての判断材料は「タイトル」もしくは「更新報告の文章」だけであることも多いわけで。
 僕自身もそんなに経験豊富なわけではないのですが、たくさんの人に来てもらえるタイトルについて、いくつか感じたことを。

 以下は、まだサイトを始めたばかりで、多くの人に読んでもらいたいという初心者向きの話です。
 そして「こうするべきだ!」と意見しているわけではなくて、何らかの参考にしていただければ、ということですので悪しからず。

 まず、当たり前のことですが「読者に共通の話題をとりあげる」ということ。
 恋愛系・H系のサイトは、アクセス数が高めになりやすい傾向があるようですが、これについては「恋愛とかエロ話は、一般的な人間にとって共通項になりやすい」というのが僕の印象です。「現代プラレール事情」と「現代遠距離恋愛事情」という2つの更新報告が並んでいたら、どっちに興味を持つ人が多いでしょうか?
これはもう、そのことに興味を持っている人間の母集団の差が、根本的にあるわけです。
 まあ、前者もツボにはまるということがあるんですけどね。
 One of them より、only one の方が良いときもありますから。
 この話はいつか機会があれば、上級編としてどこかで。

 芸能界ネタ、ドラマネタなども同様ですが、さらにこの場合に大事なのは、読者にアピールするために「固有名詞」を入れておく、ということ。
 「今夜のドラマの感想」というタイトルより「『Good Luck』の竹中直人って…」というタイトルのほうが、アピール力は高いと思いませんか?
 読む日記を探すほうは、キーワードに反応する習性があるので、固有名詞を入れることは、非常に効果的なのです。あとは、「テキストサイト論」なんていうのも希求力があります。あまり目新しいものは出てこないので、僕はもう食傷気味ですが。

 あとは、「題名」には、少しだけ引っかかりをつくっておいたほうが良いと思います。あまりに素直な題だと、印象に残らずに流されてしまう。
 だって、多量の更新報告の文章をいちいち吟味する人なんて、ほとんどいないわけですし。
 たとえば今日の題名「WEB日記の良い題名、悪い題名(技術編)」というのが単に「題名の重要性」という題だったら、あなたは今ここに来ていますか?
 たぶん「それなら読まなかった」という人がけっこうおられると思うのです。
 
 日記を書き始めて最初の頃は、「面白い内容」にこだわるあまり、疲れ果てて余力でタイトルをつけてしまったりしがちです。
 でもね、それだと残念ながら、せっかくの内容が読んでもらえないこともある。
 勿体無いなあ、と思うことって、けっこう多い。
 
 いや、つい最近まで「○月×日」という題名をつけ続けていた僕が、こんな偉そうなこという資格はないのですが、何かの参考にしていただければ。

 ただし、いくらタイトルにインパクトがあっても、内容が伴っていないと、更新報告をするたびに「またかよ!」と読者に思われたりするだけなのかもしれませんが。

 こういう内容を書くとやや自己嫌悪に陥るのですが、日曜版ということで。



2003年02月08日(土)
役立たずな「秘密兵器」

「ベトナム怪人紀行」(ゲッツ板谷著・角川文庫)より。

(海外旅行に行くときに持っていく「秘密兵器」の話)

【今回の秘密兵器はズバリ、超最新型MDウォークマン。これでオレの大好きなラップミュージックを聴くことにより、各街角で住人を巻き込んで踊るような香ばしい旅をすることができるって寸法だ。
…肝心のディスクを忘れたことに気付いたのは、行きの飛行機の中だった…。】

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 そういえば、ヤンキースに入団した松井選手は、お気に入りの枕を持ち歩いているそうですね。これなんかもまさに秘密兵器といえるでしょう。

 この板谷さんの書いたものを読んで、僕も思わず頷いてしまいました。
 僕も、旅行用のさまざまな秘密兵器を装備しているのですが、意外と役に立たないことが多いのです。
 たとえば、デジカメ。
 今回は写真をとりまくるぞ!と気合を入れて持っていったら、電池切れで、しかも充電器を忘れてしまったり、「今度こそ!」と充電器は持っていったら、今度はメモリースティックが入っていなかったり。
 今ではそうでもないのかもしれませんが、旅先でそれらのものを補充するのは、乾電池を買ったり、普通のカメラのフィルムを買ったりするほど簡単なことではありません。

 そうそう、パソコンなんかも「使えない秘密兵器」になることが多いです。
 「旅先で仕事をしよう!」と重いのをわざわざ抱えていったら、電源コードを忘れて使えなかったことが、今までに何度あったことか…
 どうしてここに本体があるのに動かないんだ!と怒ってみてもあとの祭り。
 電源のないパソコンなんて、単に重いだけの荷物にすぎません。
 せっかく持っていっても電波が届かないAir−H”なんてのも(これはそんなに重いものではないけれど)。
 
 秘密兵器を有効利用するには、それなりの準備が必要、ってことなんでしょう。
 
 こういうとき、電気が要らないものは強いなあ、とつくづく思います。
 



2003年02月07日(金)
「猟奇的な中学生たち」に捧ぐ。


時事通信の記事より。

【東京都世田谷区の公園で路上生活者とみられる男性が少年にナイフで刺されて死亡した事件で、傷害致死容疑で逮捕された同区内に住む私立中学校3年の男子生徒(15)が警視庁成城署の調べに対し、「男性に因縁を付けられた。もみ合いになり、怖かったので反射的に刺した」と供述していることが6日、分かった。
 少年は男性と面識がなかったと話しており、同署は少年が男性と口論の末、偶発的に刺した可能性があるとみて、死亡した60歳ぐらいの男性の身元の確認を急いでいる。】

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 まったく最近の中学生は恐ろしいねえ…なんて呟きが聞こえてきそうな記事です。ほんと、中学生が殺人事件を起こすような世の中、なんてねえ…

 と言いたいところなのですが、本当にそうなのでしょうか?
 この記事を読んで、僕は十数年前のことを思い出しました。
 それは確か、高校3年生の夏休みのこと。
 進学校の全寮制男子校に通っていた僕は、寮生活の息苦しさを逃れるため、博多の某有名予備校K塾の夏期講習に通うことにしたのです。
 それまで寮生活で世間の風に吹かれた経験の乏しい僕にとっては、その2週間は、まさに別世界。自由だなあ、と思う一方、人通りの多い道を歩くのにも緊張していたのです。

 そんなある日、予備校の帰りに、僕が天神駅の地下街をひとりで歩いていると、なんだか人相の悪い50代くらいの男が、僕の横にいきなりやってきて、「お前はさっき俺にぶつかっただろう!」とかいうようなことを聞き取りにくい声で言いながら、僕の横を身体をベッタリ密着させてついてくるのです。もちろん僕は、そんなこと気づいていませんでしたが。
 そのときはもう、僕は怖くて怖くて。

 大きな駅の昼間の地下街ですから、誰かなんとかしてくれてもよさそうなものなのですが、その場に大勢いた人々は、みんな僕の不幸に気がつかないのか無視。
 その男はポケットにずっと手を入れて僕にからんできていたのですが、ポケットの中に、何か凶器でも入っているんじゃないかと不安にもなりました。
 結局、なんとか隙をみて、走って逃げることができたのですが、そのあとしばらく体中が震えていたのをよく覚えています。
 それ以後の夏期講習では、2度とその駅は利用しませんでした。

 今から考えてみるとたいしたことではないのかもしれませんが、あのとき僕がナイフを持っていたら、その男を刺していたかもしれないなあ、とこの記事を読みながら思いました。
 刺す必要はない、逃げればいい、助けを呼べばいい、と言われるかもしれませんが、その場では、やらないと自分がやられる!というくらい切迫した気持ちにもなっていますし、この中学生の言っていることが事実とすれば、暗い中で誰も周りにいない状況で、そんな目に遭ったとしたら…
そして、もし自分の手にナイフがあったら…
相手をそれで刺すというのは、そんなに不自然なことじゃないでしょう?

そんな相手を刺しても結局は自分が損だ、というような予測ができないほど、中学生なんて未成熟なものだと僕は思うのです。
 ナイフなんて持ち歩くな、と言いたいところですが、今の世の中、家のチャイムが鳴ってドアを開ければ強盗に侵入され、固定電話に出ればキャッチセールス。拳銃くらい持ち歩きたくもなる心境は、理解できなくはないのです。

 本当は、可能であれば中学生は逃げればよかった。でも、それができないのが「未成年」なのではないでしょうか?
 何でも大人になってからの価値観で「すぐキレる中学生」と判断してしまうのは、あまりに早計なのではないでしょうか?

 この中学生の話が事実であれば、僕はこの「因縁をつけてきた」男の自己責任が大きいと思います。殺されても仕方がない、とまでは言えないとしても。
 「大人が子供に因縁をつける」ということは、とても恥ずかしいことでしょう。普通の子供は、大人が思っている以上に、きっと大人を怖がっているものです。

 もしこれを読んでいる中高生がいたら、よく覚えておいてください。
 面識のない君たちにいきなり因縁をつけてくるようなバカな大人に立ち向かうのは、本当の勇気じゃない。どうかどうか、争いを避ける勇気・逃げる勇気・助けを呼ぶ勇気を持ってください。
 そんなヤツの命と引き換えにするほど君たちの人生は軽いものじゃないはずだし、ほんとうの勇気を見せなくてはいけない場面が、これからきっとあるはずだから。



2003年02月06日(木)
ノキアの「完璧な携帯電話」に僕が望む新機能。


ZDnetの記事より。

【世界最大の携帯電話機メーカーであるフィンランドのNokiaは2月5日、携帯型ゲーム機として機能する新型携帯電話「N-Gage」を正式発表した。】

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 ちなみに「N−Gage」は、通常の携帯電話に加えてゲームができる他にも、FMラジオ、MP3プレイヤー、Bluetoothを通じての電子メールや対戦ゲームなどのインターネット機能も備えているそうです。
 そういえば、今の日本での流行である「iショット」ことデジタルカメラ機能はついてないんですねえ。まあ、僕はあれのが好きではないので、ついてなくても全然かまいませんが。
 まだ、あれが出はじめのころに、僕のアドレスに自分の顔写真とか家の写真とかを次々と送ってきてくださる愛読者の方がいらっしゃってですね…あれは怖かった。
 逆ストーカーなんてのもあるんだなあ…と。
 自分の個人情報を探られるのも嫌ですが、知りたくもない他人の個人情報を見せられるのもかなり辛いことです。
 それに僕は、結婚式とか花火大会とかで、ずっとカシャカシャやってるのを見ていると「どうして記録することにばかり目が行って、体験すること、記憶することをしようとしないんだ!」と密かに憤っているのです。
 脱線しすぎですね…

 あと、携帯電話に装備しうる機能としては「テレビ機能」くらいでしょうか?確かにこれはあると便利だとは思うのですが、価格設定やバッテリー容量の点で、まだ難しいのかも。

 ところで、僕は携帯はキライですが、ないと困るという人種。
 仕事柄着メロは流せないし(電源切っているか、サイレントモード)、iアプリなんて、ほとんど使ったことはありませんでした。
 でも、この間ディズニーランドに行って、行列に並んでいるときに「なるほど、こういうときにiアプリのゲームとかは便利なんだなあ」と実感。確かに、行列に並んだり通勤でずっと電車に乗ったりしていないといけない人にとっては、便利なんでしょうね。
 
 ただ、こうやって、どんどん無駄な時間が削られていくというのは、休む暇がない人間の脳にとってはかえって辛いことなのかもしれません。連絡がつくというのは、拘束されているということにもつながりますし。
 
 それに、僕も怒られたんですけど「目の前の私にも構ってよ!」というのも、よくある話ですよね。
 目の前の人を無視してメール打つなんて、よく考えると本末転倒なのですが。

 ところで、僕はこの「N-Gage」に要望があります。
 それは、「電話しながらゲームができる機能をつけてほしい」ということです。
 実際、いちばん辛い時間って、「話したくないけど、切ることもできない電話をしているとき」だったりしませんか?
 



2003年02月05日(水)
作家・中島らも氏の「麻薬取締法違反」に思う。


読売新聞の記事より。

【人気作家の中島らも(本名・中島裕之)容疑者(50)=兵庫県宝塚市南ひばりガ丘=が、幻覚作用を持つキノコ「マジックマッシュルーム」や大麻を所持していたとして、近畿厚生局麻薬取締部は5日までに、同容疑者を麻薬及び向精神薬取締法違反、大麻取締法違反の両容疑で逮捕した。

 調べに対し「大麻は以前に使用していた」と話しているが、マジックマッシュルームについては「知らない」と供述。同部が入手先を追及している。

 中島容疑者は大阪芸術大を卒業し、吉川英治文学新人賞を受けたほか、1994年には、小説「ガダラの豚」で日本推理作家協会賞を受賞した。テレビやラジオ、演劇など幅広い活動で知られており、自らの薬物体験を赤裸々に紹介する著作も出版している。】


「さかだち日記」(中島らも著・講談社文庫)より抜粋。

(中島らも氏が、オランダのマリファナ(大麻)の大品評会「カンナビス・カップ」に参加したときの日記(注:オランダでは、マリファナは合法です))

【カンナビス・カップの表彰式に行く。広いホールなのだが、空気がない。みんなが吸っているので、ホールの中は煙でいっぱいなのだ。いるだけで意識がぼうっとなってくる。
 表彰式は音楽やDJをはさんでにぎやかなものだった。みんな楽しんでいる。こういうものを見ていると、0.8グラム所持していたとかで捕まってしまう日本の現状がとてもつまらないものに思えてくる。】

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 中島らもさんが、家宅捜査をうけたときに、自宅で見つかった大麻は6グラムだったそうです。
 僕は中島さんの大ファンです。「好きな作家は?」との問いへの答えには、筒井康隆さんと中島さんの名前を欠かしたことはありません。
 中島さんは、自らの麻薬体験を赤裸々に語っている作家ですから、今回の逮捕については、意外だとは思いませんでした。
 もっと正直に言ってしまえば、「覚醒剤やコカインじゃなくて良かった(いやこれはさすがに不謹慎か…)」と思ったりもしたのです。
 中島さんの著書によると、マリファナというのは「タバコよりも体に与える影響は少ないし、依存性もほとんどない」そうですから。
 でも、海外だけでは我慢できずに国内でもやっていたということは、「依存性がない」というのは間違いということを自ら立証されてしまったわけですね。

 一人のファンとしては、今回の逮捕については、ただただ悲しく、寂しく思います。
 僕はもちろん麻薬は人類の敵だと思っていますし、それで人生を過ってしまった人をたくさん知っています。
 ただ、中島さんはこのようにも書かれています。
「人類にとっての最大最強のドラッグは、酒だ。」と。
 でも、いまさら人間社会から酒を締め出すことなんて、不可能になってしまっているくらい、人類はアルコール漬けなんですよね。

 僕は、中島さんが逮捕されたのは、仕方がないことだと思っています。
 彼は、禁止されている「麻薬」を所持していたのだから。
 でも、彼の書いた麻薬についての経験談やたくさんの知識が「薬漬けの作家によって書かれた、いかがわしいもの」として魔女狩りに遭うのは、とても残念なことだと思います。
 「麻薬は怖い!」というイメージを植えつけるばかりで、その真の姿を描いて、人々に知識を与えてくれるたのは、意外に少ないのです。
 作品に罪はない(少なくとも中島さんの作品は「自分の体験」ですから)、というのは僕の欲目なんでしょうか?
 これで、せっかくの麻薬の知識たちが闇に葬られるのも、もったいないことです。
 
 僕は中島さんのような生き方はできないけど、彼の生き方に憧れていました。
 今回のような弱さも彼の魅力で、人間として共感できる気もするのです。
 でも、犯罪は犯罪。作家だからといって、許されることじゃない。
 だから、ただ残念で悲しいです。



2003年02月04日(火)
梅宮アンナの離婚への共感と反発。


サンケイスポーツの記事より。

【働かない夫に三下り半−。離婚危機にあったタレント、梅宮アンナ(30)が1月28日に夫のTさん(32)と協議離婚していたことが3日、分かった。同日夜、アンナは「最良の選択として…」という表現で発表したが、定職につかないTさんに愛想をつかしたのが最大の理由。結婚後約1年7カ月のスピード離婚で、1歳の長女の親権はアンナが持つ。慰謝料や財産分与など、その他の離婚条件はないという。

 Tさんは平成13年6月の結婚当初、リゾート関連会社の社員だったが、すぐに退職。その後は一時、「レストランを開業したい」と話していたが、定職につかない状態が続いた。そんなTさんについてアンナは昨年、「夫が仕事をしないので困る。どこで何をしているのか分からない」と周囲に漏らし、昨秋には「離婚してほしい」とTさんに迫った。

 結局、Tさんは昨年11月末に東京・渋谷区の自宅を飛び出し別居。Tさんは昨年12月24日のクリスマスイブに、百々果ちゃんの着る物をプレゼントするため突然帰宅したが、アンナは一切口を利かず、夫婦の亀裂は決定的となっていた。アンナ自身、その直前のイベントで「夫婦は難しいですね」と離婚をほのめかし、左手薬指から結婚指輪をはずしていた。

 アンナがTさんと交際を始めたのは、平成12年夏頃。タレントの羽賀研二と別れ、その後付き合った関西の実業家とも別れてすぐで、妊娠2カ月と判明した平成13年6月5日に入籍した。同年9月16日には東京・内幸町の帝国ホテルで約480人を集めた総額約2億円の豪華挙式を行い、アンナは当時、Tさんについて「料理や掃除が好きで父(梅宮辰夫)に似ているんです」と話し、幸せ一杯だった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕の周りでは、驚きよりも「やっぱりね…」という声が支配的なこの離婚劇。アンナさんを「男運が悪い女」というよりは「男を見る目が無い」という意見が多いようです。「そんな男と結婚するほうが悪い!」というような。
 羽賀研二さんのときで、懲りたはずなのにねえ、って。

 でも、ある女性と話していたら、彼女はこんなことを言いました。
「結局、そういう男が好きなんだろうねえ…ちょっと悪そうで、金回りがよくって、派手で、夢ばっかり語っているようなタイプが。わかってて、苦い経験をして反省しているつもりでも、同じような男のほうに惹かれちゃうんだろうね…」
 僕は、その話を聞いて思ったのですが、もちろん例外もあるにせよ、人間というのはどうも「タイプの異性の呪縛」からは、逃れられない運命にあるみたいですね。僕の女友達も、みんな同じような失敗を繰り返している人が多いのです。
 むしろ、結婚してうまくいっている人って「最初はタイプじゃなかったんだけどね…」と言っている人のほうが、多いような印象も。
 
 しかし、彼女は結婚に、いったい何を求めていたんでしょうか?
「料理や掃除が好き」な人なら、彼女が働いて家事をやってもらうというわけには、いかなかったのかなあ。そういう家庭的な面と「青年実業家」なんていうベンチャー系の要素を本当に並立させられる男は、滅多にいないと思うのですが。

 結局、アンナさんというのは、ダメな男に頼られることが快感な「共依存」のタイプなのかもしれませんね。「この人は私がいないと生きていけない」と感じることに自分でも依存してしまうような。そして、そういうタイプの人は、自分で生活の糧を得られるようになった現代女性には、珍しい存在ではないのです。
 
 でもね、それはきっと悪いことではありません。
 「別れるなら結婚するな」とか言うのも、乱暴な話ですし。そもそも、別れようと思って結婚したわけじゃない。
 ただ、人間というのは「自分のタイプの異性の呪縛」というものから、なかなか逃れられない生き物で、わかっているつもりで過ちを繰り返してしまうものなのだなあ、と。少し哀しくなるだけで。

 僕は、今まで「梅宮アンナの大ファン」という人に会ったことがないですし、いったいどういう人たちが、彼女のファン層を形成しているのか疑問でした。
 ファッションリーダーとかいっても、ねえ。

 でも、今回、なんとなくわかったような気がします。
 たぶん、梅宮アンナに憧れている人ばかりじゃなくて、梅宮アンナに自分の姿を投影している人が多いんじゃないかなあ、って。
 
 ただ、あんまり真似することはオススメしません。
 あなたのお父さんは、梅宮辰夫じゃないでしょうから。
 



2003年02月03日(月)
「宇宙から帰還できなかった人々」の失われた言葉。


「宇宙からの帰還」(立花隆著・中公文庫)より。
(アポロ7号で宇宙体験をした、宇宙飛行士ウォーリー・シラーのインタビューより)
【「宇宙人が地球にやってきたらエイリアンだが、宇宙における地球人もエイリアンなんだよ。地球以外にいきどころがないのが地球人だ」】

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 僕は、アポロ11号の月面着陸をリアルタイムで観た世代ではありません。
 それでも、「1999年に世界は滅ぶ!」という世紀末思想に恐れを抱きながらも、1971年生まれの僕は、漠然とした宇宙への憧れを抱いていたような気がします。
 「21世紀には、海外旅行に行くくらいの感覚で宇宙旅行ができる」とか、スペースコロニーで人類の大部分は生活するようになる、とか。
 交通機関やインターネットの発達で、地球上の人類の間での物理的な距離は、かなり近づいてきた感じ。でも、「宇宙」に関する僕たちの予想は、現代の状況とは明らかに違ったものでした。
 いまだに、宇宙旅行は選ばれた宇宙飛行士たちのものですし(先日、お金を払って宇宙に行った人がいましたけれど、それでも訓練は不可欠です)、宇宙に人間が住むようになるには、まだまだ時間がかかりそうです。
 というよりむしろ、人類はもう、宇宙へ行くことを必要としてないんじゃないかなあ、と思うくらい。

 人類にとって、宇宙に行くことには、どんな意義があるんでしょうか?
 たとえば、僕がアメリカに行ったときに、痛切に自分が日本人であることを意識したように、シラー飛行士は、宇宙から地球を見て「自分が地球人であり、地球以外に行き場が無い」と感じたのだと思います。
 壁一枚の外には「死」しかない、広い宇宙空間の片隅で。

 より広い世界をみたときに初めて、人間は自分の世界の狭さ、そしてその狭い世界の大切さを知ることができるのかもしれません。

 今の宇宙開発自体が、アメリカという国の国威高揚という面を持っているのは否定できませんが、多くの飛行士たちは、宇宙から還ってきた後に世界観の変化を語っています。 
 
 今回事故に遭った「コロンビア」には、イスラエル人初の宇宙飛行士が搭乗されていました。彼は、出発の際に「悲劇的な歴史をもつ、ユダヤ人の同胞のために宇宙に行く」と発言していたそうです(そのことが、現実的にはまず不可能な「テロによる爆破説」などというのが出た要因でもあるのですが)。
 僕は、このイスラエル人飛行士が、宇宙で何を考え、宇宙から帰還したときに、果たして何を世界に言おうとしていたのかとても興味があったし、それを聞くことができないことを非常に残念に思います。

 彼は「イスラエル万歳!」と言ったでしょうか?それとも…



2003年02月02日(日)
美しいおなごは、鼻持ちならぬ!

「壬生義士伝(下)」(浅田次郎著・文藝春秋社)の10ページ、新撰組三番隊長・斎藤一の科白より。

【「美しいおなごは嫌いじゃ。そもそも人間はみな醜い糞袋じゃからの。他から美しいといわれ、おのれもまた美しいと信じておるおなごは、鼻持ちならぬ。むろんその妙な自信の分だけ質も悪い。
 じゃからわしは、おなごを買うときもつとめて醜女を選んだ。少なくとも、そうそう客もつかぬほどの醜女ならば、男に尽くしてくれるからの。」】

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 「美女は冷たい」「醜女は優しい」
 まあ、美醜が価値の大きな基準であったと考えられる当時の遊郭では。頷けるような気もしますが、実は現代でも、同じようなイメージを抱いている男は、けっこう多いのではないでしょうか?
 でも、自分の周りの人に実際にあてはめてみたらどうでしょうか?
 必ずしも、この説は正しくないのでは。

 「醜女」とされる人について語るのは、いろいろと問題がありそうなので、今回は「美人は冷たいか?」ということを考えてみたいと思います。

 僕の後輩に、ものすごく優しい性格で、上品で、綺麗な女の子がいました。彼女は、端からみると、それはもうすごいモテっぷりで、周りの男から常にいろいろなアプローチを受けつづけていたのです。でも、本人は全くそれを鼻にかけず、甘えることもなく、同性からも一目置かれる存在だったのです。

 ある日の呑み会で、僕は、彼女に酔っ払って話しかけたのです。
「いつもモテて、うらやましいね」って。
 彼女は、こんなふうに答えてくれました。
「そんなことないですよ、先輩。もちろん誰かに『好き』って言ってもらえることは光栄なことだし、嬉しいことだけれど、そういう他人の真剣な、重い感情をしょっちゅうぶつけられるとすごく辛いんです。断るのにだって、けっこうエネルギーが要りますし…私はひとりしかいないんですから。
『予約済』の札をつけて歩きたいくらい」

「いい女」が冷たくみえるのには、彼女たちなりの防衛本能がはたらいているのかもしれません。

 あっ、でもこれは逆は必ずしも真ならず。
「冷たいから、いい女」ってわけじゃないですからね。