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2002年09月30日(月)
2002年9月30日。


時事通信の記事より。

【シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子(積水化学)が29日、当地で行われた第29回ベルリン・マラソンで、当時世界最高となった昨年の2時間19分46秒には及ばなかったが、2時間21分49秒の好記録で連覇を果たした。高橋はマラソン7度目で6連勝。
 スタート時の気温12度と絶好のコンディション。1年ぶりのマラソンに臨んだ高橋は、序盤から女子の先頭に立ち、25キロすぎに抜け出して快勝した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も昨日の夕方、テレビの中継を観てました。やっぱり、強いですね、高橋選手。
 体調も万全にはほど遠い状態だったらしいのに、圧勝でした。

 ところで、このマラソン中継、僕はなんだかとっても観ていてイヤだったのです。
 その原因は、なんといってもフジテレビの朝の情報番組「とくダネ」の小倉智昭さんが、
キャスターとしてこの番組に出ていたこと。
 いや、毎朝(というより、朝テレビを観ている余裕があるときは、ですが)「とくダネ」観てるくらいだから、大嫌いというわけじゃなくて、主張のはっきりしている司会者としては、他局の自分の常識を世間の常識として振りかざす人たちにくらべれば、好きなところもあるんですけどね。
 でも、小倉さんの宇多田ヒカルさんや高橋尚子さんを取り上げるときの姿勢は、ちょっと迎合しすぎという気がするんですよね。彼女らが、時代の寵児であるだけになおさら、「人気者の尻馬に乗ってるんじゃないよ!」と言いたくもなるわけで。
 とくに、今回の番組はスポーツ中継なわけですから、彼がず〜っと高橋選手のことを「Qちゃん、Qちゃん」と愛称で呼んでいたのは、すごく違和感がありました。
 基本的に、スポーツ中継っていうのは、なるべく中立の立場が望ましいと思うのです。
 真の中立など、ありえないのはわかっているけれど。
たとえば、某局の巨人戦中継のように、勝っていれば巨人の勝因、負けていれば巨人の敗因では、他のチームのファンはしらけてしまいます。
 スポーツ中継の醍醐味というのは、事実を客観的に伝えることにあるのではないかと僕は思うのです。贔屓のチームや感想は、視聴者が個々にフィルターをかければいいだけのことで。
 昔、オリンピック中継で日本の水泳選手を応援してしまったアナウンサーがいましたが、そのアナウンサーは、当時は局内では大変非難されたそうです。
 でも、その実況は、伝説として語りつがれています。
 これが伝説になったのは、たぶん、そのアナウンサー自身も公正に実況しようと思いつつも、我を忘れてしまって応援してしまったということが、視聴者の心とシンクロしたところにあるんじゃないでしょうか?
 もし彼が、最初から「前畑ガンバレ」を予定稿に入れていれば、そんなに感動を与えることはできなかったはずで。
 小倉さんが、プライベートや情報番組で高橋選手のことを「Qちゃん」と呼ぶのは、別に構いません。現実には、2人の間に付き合いがほとんどないとしても、親しみの表現としては、許容範囲内でしょうから。
 でも、試合の場にまで、関係者でもないのに「自分は、高橋尚子の理解者であり、応援者なんだ」という態度を露骨に表す必要があるのかどうか?
 レース中は、彼女だって1選手であり、どんなアクシデントに見舞われるかわからない。
 だからこそ、スポーツ中継は時代を問わずに視聴者をひきつけてやまないのでは。
 演出過多、報道する側の自己露出の材料としてのスポーツ中継は、もう飽き飽きです。
 小倉さんが語りたかったのは、高橋選手のことじゃなくて、「国民的ヒロインのQちゃんと仲良しな自分」だったような気がします。

 こういう報道姿勢は、長すぎる結婚式のスピーチと同じ類で、しゃべっている本人は陶酔しきっていても、観ている方はしらけてしまうだけだと思うのですが。
 高橋選手が、優勝インタビューの最初に「見飽きた…」と言ったような気がしたんですけど、空耳だったかな。





2002年09月29日(日)
2002年9月29日。


「らもチチ・わたしの半生〜青春篇」(中島らも・チチ松村著、講談社)より抜粋。

(中島らもさんが、まだ7、8ヶ月くらいの年齢のときのことを覚えていて、部屋の状況などを詳細に母親に話したらびっくりされたという話を受けて)

【らも「引っ越してくる前の家の部屋なんだって。それが寸分たがわず合ってるわけよ。
で、やっぱり、自分は7、8ヶ月のこと記憶してるんだということを確認したんだよ。
 チチ「いや、それはちょっとすごい。たとえば、同じような体験をしたと言っている人に三島由紀夫さんとかいるけどね。
 らも「産道をつたって、外へ出るときの産まれてくる瞬間のことを覚えてるって、三島由紀夫さんは言っているけどね。あれはうそやと思うんや。
 チチ「何やそれは(笑)。
 らも「あれはないと思うんや。」
 チチ「そんなな〜。だって、まだ目が見えへんやん。」】

〜〜〜〜〜〜〜

 自分が産まれてから最初の記憶って、何ですか?
 僕もこれを読んで思い出そうとしてみたのですが、どうも「これがいちばん小さいときのだ」というのは、はっきりしないんですよね。
 なんとなく、部屋でおもちゃで遊んでいた記憶とか、母親にミルクを飲まされていた「ような」記憶はあるのですが…
 これも、自分がもっと若いとき、たとえば幼稚園のころには、もっといろいろ覚えていたような気がするんだけどなあ。
 それにしても、この三島由紀夫さんの「産道をつたって…」というコメントは、僕も読んだことあるんですが、ほんとかな?と思っておりました。う〜ん、三島由紀夫だったらありえるかも、と感じたのですが、確かに、目が開いてないのに何を覚えてるんだ!というツッコミはもっとも。

 しかし、中島らもさんも含めて、こういう「記憶力のよさ」というのは、やっぱり作家には必要な条件なんでしょうね。
たとえそれが、事実とは違っていたとしても、作品を描く上で「見てきたように語れる」というのは大事な要素なのかもしれない。
そして、三島由紀夫のように、「自分は、産まれたときのことも覚えているような、特別な人間なんだ」という過剰なまでの自意識も。





2002年09月28日(土)
2002年9月28日。


「九州ウォーカー」2002.No20より。

(歌手・UA(ウーア)さんのインタビューより抜粋)

【UA「私、コンピューターとかテレビとか怖いときがあるんです。なんで勝手に動いて文字が出てくるのかなとかって思うと。それと同じで私は偶像崇拝って嫌いなんですよ。本当の神様は自然の中にあると思っているから。私自身は石ころみたいなもんですよ、今も」】

〜〜〜〜〜〜〜

 後半部分は、個人個人の価値観の部分なので、コメントできないのですが、前半部分について。
 僕も、機械って怖いと思うことが、今でもときどきあります。
 たとえば、車を運転しているとき、自分を囲んでいるこの鉄板がなかったら、どんなことになるんだろう、とか考え始めると、不安で仕方がなくなるときがあります。まあ、それは発作的なもので、すぐに気にならなくなって…の繰り返しなのですが。
 コンピューターとかテレビというのは、番組を作っている人間やホームページを作っている人間がいますから、そんなに怖くはありません。
 どうして、こんなふうにリアルタイムに映像を送れるんだろう?って、疑問に思うときはありますけどね。
 ただ、ときどきものすごく怖くなるのは、「はたして、この画面に映っているのは、真実なんだろうか?」ということです。
 テレビやパソコンの画面のなかの出来事は、目には見えても、自分の手では触れられない。
 事故や災害の現場や、感動のシーン。落ちる寸前の飛行機からだって、僕たちが生中継の映像でみることは可能なのです。
 報道でどんどん目に映る範囲は広がるけれど、手の届く範囲はそんなに変わっていない、というのが現代社会。
 映画「マトリックス」じゃないけれど、僕たちが観ている映像は、ほんとに「事実」なんだろうか?って、思うことないですか?
 こんなことを考えてしまうのは、事実と思いたくないことが多すぎるからなんでしょうか。




2002年09月27日(金)
2002年9月27日。


ZDnetの記事より抜粋。

【男性より女性の方が親になる前と後でWeb利用習慣が変わりやすい――米インターネット市場調査会社のcomScore Networksがそんな調査結果を発表した。

 男親がよく行くのは玩具販売サイトとポルノサイト。男性の場合には、子供ができたからといってすぐにこの嗜好に変化が出るわけではないようだ。

 一方、子供が生まれたばかりの女性や妊娠中の女性は子供に関係したサイトや家具販売サイトなどにアクセスすることが多い。「母親」は、最も急速に拡大しているネット利用者層の1つ。またオンラインショッピングを最も盛んに行う層でもある。

 comCastは、過去6カ月間に親になったか、今後6カ月以内に親になる予定の人たちのWebサーフィン習慣を調査した。】

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 なるほど、と思わされる記事。ただ、変わるのはWeb利用習慣というより、子供が生まれる前後の男と女の生活環境そのもので、それにともなってWebの利用の仕方が変わっているような気がするのですが。
 今の一般的な慣習では、とくに女性の場合、子供が生まれてすぐの時期は、どうしても家で世話をしなければいけない時間が長くなりますし、それならネットで買い物とか情報収集をと考えるのも、いたしかたないかなあ、と。
 しかし、ネットショッピングというのも、お金が目に見えないだけで、実際はお金がかかるわけですから、あまりストレス解消に使われると困ったものかもしれません。
 僕が思ったのは、では、Webに文章を書いている人の傾向というのは、親になる前と後で変わってくるのだろうか?ということです。
 たとえば、松田聖子が、結婚してからは実らない恋愛の歌が歌いにくくなり、離婚してからは結婚生活の幸せが歌えなくなり、ついには子供のことか、私生活的でない曲しか歌えなくなってしまったように、結婚したら恋愛日記が書きにくくなったりするものなんでしょうか?
 ネット界は、まだまだ歴史が浅いので、そのへんの統計は今ひとつわかっていないのですが、みんな、どういうふうに変わっていくのか、というのは、これから興味深いところです。
 不倫は、いつまで続くのか?彼らは、いつまで手首を切り続けるのか?
 まあ、そういう系列に属する日記は、一般的にあまり長くは続かないようです。
 そういう日記が終わってしまうことは本人たちにとって、けっして不幸ではないはずなんですけれどね。
 そういう、環境の変化によって考え方が変わっていく生の姿を見られるというのは、とても興味深いところだと思うのです。
 
 しかし、男性の場合には、子供が生まれるとWebの利用の目的は変わってくるような気がしますね。
生まれる前は、現実と係わる手段として。
そして、生まれてからは現実から逃れる手段として。
 




2002年09月26日(木)
2002年9月26日。


時事通信の記事より。

【プロ野球セ・リーグの最下位となった横浜の森祇晶監督(65)が、任期途中で退団することが、26日に決まった。
 大堀隆球団社長が同日、広島遠征から帰京した森監督を横浜市内の球団事務所に呼び、事実上の解任を通告した。今年は3年契約の2年目だが、契約は26日付で打ち切られ、27日の阪神戦から残り14試合は黒江透修ヘッドコーチが指揮を執る。】

〜〜〜〜〜〜〜

 森監督といえば、西武ライオンズの黄金時代を作り上げた「名将」。
 いままでの監督生活で、Bクラスは一度もなかったそうなのですが、今年は早くも最下位が決定し、ついに解任となってしまいました。
 しかし、最下位とはいえ、森監督自身の責任というのが、今年の横浜の成績にどのくらいあるのか?といわれると、首をかしげざるをえません。
 ここ数年の横浜ベイスターズは、日本一になったときのメンバーである佐々木、小宮山、谷繁、ローズ、野村といった主力選手が、相次いでFA移籍や解雇・故障でいなくなってしまい、戦力的にはかなり厳しい状況。まあ、「どんなに頑張っても、Aクラスは厳しいだろうなあ」というのが、多くの野球ファンの見解なんじゃないでしょうか。
 むしろ、あの戦力で、よく戦っているもんだと思っていたくらいなのですが。
 いくら名将が指揮をとっても、選手の能力が足りなければ、やっぱり優勝なんて、できないものだと思います。
 今回の解任劇には、横浜の親会社がTBSに変わったことなどが影響していると言われており、球団フロントも「監督の責任じゃない」という人もいるようですから、原因はともかく、結果について指揮官に詰め腹を切らせたということなのでしょう。

 この解任劇で痛切に感じるのは、人間が能力を発揮するには、やっぱり環境が必要なんだなあ、ということです。森監督自身の監督としての能力は、たぶん西武時代とそんなに遜色ないと思われますから。
 少なくとも、今の横浜の戦力では、優勝はおろか、3位以内に入ることも困難なのは自明の理(横浜ファンの皆様、申し訳ありません)。
 「6位の戦力のチームを4位にする」ということは、実際のところ「優勝できるだけの実力を持ったチームで優勝する」というのと同等、あるいはそれ以上に難しいことかもしれないのに、実際は、その監督の能力って、評価されることはほとんどないんですよね。
 確かに、「選手がFAで、出ていってしまったこと」には監督の責任もあるのかもしれないし、「勝てるチームを勝たせる」という采配と「負けるはずのチームに力を出させる」という采配は異なるものなのかもしれませんが、こうして考えると、野球界には、環境に恵まれず、もしくは実力を評価されずに終わってしまった、隠れた「名将」が沢山いたのではないかなあ、という気がします。強いチームを任せられれば、何度も胴上げをされたはずの監督。逆に、環境に恵まれたために「名将」となった人もいるんでしょう。
 よく、指揮官の能力の大切さを説く言葉として「1頭の羊に率いられたライオンの群れより、1頭のライオンに率いられた羊の群れのほうが強い」なんていうのが引き合いに出されるのですが、多少の力の差ならともかく、僕はどう考えても前者のほうが強いと思うのですが。
 野球チームには、個人の能力の差はライオンと羊ほどはないのかもしれないけれど、指揮官の能力を発揮するには、よい環境は必要不可欠。やっぱり、巡り合わせとか運といったものを無視することはできないと思います。環境そのものを自分で変えていけるほどのカリスマ性を持つ人も、歴史上は存在するのかもしれませんが。





2002年09月25日(水)
2002年9月25日。


「幽玄漫玉日記・6巻」(桜玉吉著・エンターブレイン)より。

(鬱状態の作者が、外出もままならず、インターネットのソリティアにはまっているときの状況)

【この日もじんわりと酔いながら、1日の大半をソリティアに没頭し、気づけば1000点から始めたゲームは15万点を超えていた。
 オンラインのソリティアは、点数を送信し、ランキングを見ることができる。
 こんなバカ長時間ソリティアだけをやっている人間など他にいるとは思えず、普通に一番だろうとこの日初めて送信してみると、20万点の奴がいた。
 マンスリーランキングを見たら、5200万点の人がいた。

 どういう暮らしをしている人間なのか少し想像してみる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 インターネットのソリティアって、やったことありますか?
 トランプのカードを使ったパズルゲームなのですが、一昔前の(今も?)WINDOWSマシンのオマケのゲームとしては、定番でしたよね。
 誰でも一度はハマったことがあったと思われるゲーム。
 玉吉さんがほぼ1日やっていて15万点ということは、20万点というのは、技術的なこともあるんでしょうが、ほんとに一日中ソリティアをやっている、ということなんでしょうね。この時期の玉吉さんは、鬱のピークの時期で、「単純作業をしていると、ものすごく気が楽」な状況だったにもかかわらず、それ以上の人がいた、ということなのですね。
 そして、1ヶ月で5200点というと、30日として、1日平均17万点以上…ほんとに、1ヵ月中ソリティアをやっている人としか考えようがないのです。この人は、まあ、単なる凄いソリティア好き…じゃ、ないだろうなあ、やっぱり。

 ところで、話はとんでしまうのですが、このハイスコア競争の件を読んでいて僕が思い出したのは、20年位前に爆発的に流行った「ゼビウス」(ナムコ)という大ヒットゲーム。
 当時は、ゲームのスコアアタック(要するに、いかにして高得点をとるか、という競争)が華やかなりし時代で、この「ゼビウス」は、なかでもとくに人気の高いゲームだったため、争いが激しかったのです。
 このゲームは、1000万点でカウンターストップ(999万9999点)で、それ以上はスコアが上がらなくなるのですが、ある日、ついにそこに辿りついた猛者が現れました。なんと彼は、トイレの時間だけ友人に代わってもらい、朝早くからゲームセンターの営業時間終了後までかかって、この大記録をなしとげたのです。達成時には、期せずして店内は拍手に包まれたとか。
 それ以来「ゼビウス1000万点」は、ゲーマーの登竜門となったのでした。いやあ、一口にいうけれど、「ゼビウス」は、けっして簡単なゲームではなかったし、一日中集中力を切らさないのは、ほんとにすごいことだと思います。
 今では、ゲームセンターもさびれてしまったところが多く、スコアの無いゲームも増えてしまったのですが、かつては、そんなふうにゲームに青春を燃やした人々もいたんですよ。
 そういえば、僕の人生に青春は無かったなあ、などと思いながら30になったのですが、この件をみて、そういえば、こんな「青春」もあったなあ、というようなことを思い出したものですから。
 
 しかし、デイリーのスコアはともかく、マンスリーは、やっぱりある程度病的でないとたどり着けないような気がしますが。
 「気分転換にゲーム」じゃなくて、「気分転換にリアルライフ」って感じなんだろうなあ…
 



2002年09月24日(火)
2002年9月24日。


ロイター通信の記事より。

【米前衛作曲家の故ジョン・ケージの作品「4分33秒」をめぐる著作権訴訟が、和解に達した。
 原告であるケージの作品の発行元が明らかにした。
 訴えを起こされたのは、斬新な作風で知られる作曲家マイク・バット。最新アルバム「Classical Graffiti」に、
ザ・プラネッツの演奏する「A Minute's Silence」と題した無音の曲を収録し、クレジットにはバット/ケイジと記載していた。
 半世紀前に初演されたケージの作品「4分33秒」は、4分33秒間、一音も発しないという全3楽章のピアノ曲。
 発行元がロイター通信に明らかにしたところによると、バットは相当額の和解金をジョン・ケージ財団に支払った。
 両者は今年に入り、それぞれの曲の演奏会を開催し、自分たちの正当性を主張していた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ジョン・ケージの「4分33秒」って、非常に有名な曲です。
いわゆる「名曲」かどうかは、よくわかりませんけど。
ちなみにこの曲のこと、僕は何かのクイズ番組の問題で知りました。
指揮者が壇上に上がって、観客が固唾を呑んで見守っていると、
4分33秒、まったく演奏が行われず、シーンとしたまま、という「曲」。
 最初にこの曲が初演されたとき、観客は唖然としたといいますが、
確かにびっくりしたでしょうね。怒った人とか、いなかったのかなあ。
正直、この曲そのものは「一発ネタ」みたいなもので、何度も「演奏」されるようなものでは、
ないんじゃないかという気がするのですが。
 最初に、この「無音」というアイディアを考えた「ジョン・ケージ」という人はすごいけれど、
それを「盗作」したマイク・バットという人も、けっこうすごい気がします。
自分たちの「正当性」を主張したというのは、どんな演奏会だったんだろう?
どっちが、より静かかとか、そういう勝負?
しかし、「一音も発しない『ピアノ曲』」というのは、矛盾しまくりなのですが…
静寂もまた音である、というのは、ひとつの思想だろうけれど、
僕としては、アイディアは認めても、音楽として理解するのは辛いです。
こういうのを「哲学」だと評価する人が多いのが多いのも事実ですが。
まあ、静寂の時間が4分33秒から1分に短くなったのは、
「現代風にアレンジした」と言えなくもないような気がしますけど。

 



2002年09月23日(月)
2002年9月23日。


「週刊SPA」2002・9/24号より抜粋。

(記事「これが人生の失敗学だ!」の「結婚失敗のポイント」より抜粋。
 離婚情報誌「LIZ」編集長の岡野さんのインタビューより)

【岡野「私のところへ相談に来たある夫婦は、相手のへの不満を散々言って、お互いの話をまったく聞こうとしない。
『あなたは相手からこう言われていますよ。どうですか』と聞いても、『私は何も悪くない』の一点張り。
こういうタイプは、自分を正当化して失敗を認めず、反省もしない」】

〜〜〜〜〜〜〜

 結婚情報誌ならぬ、離婚情報誌なんてのが、あるんですね。
ちょっと驚きました。まあ、離婚には結婚の何倍ものエネルギーが必要、というのは、よく耳にする話ではあるのです。
 でも、この話を聞いて思うのは、あまりに他人の話を聞かなかったり、
相手の立場を理解できない人は、同じ失敗を繰り返すことが多い、ということです。
同じ結婚の失敗でも、そこから何かを学んでいけば、そうそう同じ失敗を繰り返さないはずなんですが。
 その一方、なんでも「私が悪いんです!」というタイプの人も、
それはそれで扱いに困ったりするんですよね。
逆に自分を追い詰めてしまうし「自分が悪い」というところで思考停止してしまい、それ以上考えようとしないで満足してしまう。
 一番いいのは、相手の話を聞いて自分の悪いところはちゃんと認めたうえで、相手の悪いところを分析することだと思うのですが。

 でもなあ、口で言うのは、簡単だけど、現実にはなかなか難しい。
恋愛に失敗した友達の次の恋人は、やっぱり同じような人だった、という経験、ありませんか?

 



2002年09月22日(日)
2002年9月22日。


「パチンコ攻略マガジン」2002.19号、28ページより抜粋

(あの「黒ひげ危機一発」がパチンコになった、という記事の中で)

【今回は黒ひげだってさ。ウチのお兄ちゃんも持ってたよ、このゲーム。そそ、コレって飛び出させた人が勝ちなんだって?完全に反対ルールで遊んでたよ私。無邪気にも黒ひげとばして罰ゲーム受けてたわ…】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに「黒ひげ危機一発」というのは、樽に剣を差していって、「当たり」だと樽から黒ひげがポーンと飛び出してくるという、懐かしいゲームです。誰でも子供の頃に一度は遊んだことがあるのでは。
 ところで、この「黒ひげ危機一発」って、確かに、ルール上は「黒ひげを飛ばした人が勝ち」ってことになってるんですよね。このパチンコ台でも、大当たりのときは、黒ひげがポーンと飛んでいきますし。
 でも、僕も、「飛ばしたら負け」のルールでやってたんですよね。実際のところは、みんなどうしていたんだろう?
 僕の記憶では、「ドレミファドン」という音楽クイズ番組(「超ウルトライントロ、ドン!」とかいうやつですね)の中で、この「黒ひげ」をやっていて、黒ひげを飛ばしたらアウト!というルールだったと思うのです。その影響なのかなあ。
 しかし、どう考えても、人間を串刺しにして体に刺さったら当たり、というルールはグロテスクなんで、飛ばしたら負け!のほうが生理的には納得できるのですが。
 そういえば、小さなタイプの「黒ひげ危機一発」で、樽の中の黒ひげが、首しかないバージョンがあったなあ、あれは、子供心に気持ち悪かった…
 




2002年09月21日(土)
2002年9月21日。


「九州ウォーカー」2002.No.20の映画「es(エス)」の紹介記事より。

【被験者を募集していた高収入の実験に参加したタレク。それは、擬似刑務所内で看守役と囚人役に分かれて2週間過ごす実験だった。参加した男たちは時間の経過とともに驚くべき豹変ぶりを見せ、看守役が囚人役を虐待しはじめる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 映画「es」といえば、えっ?あのミスターチルドレンの?と一瞬思ってしまいが、それとはまったく別。
この映画、1971年のスタンフォード大学心理学部の実験をモチーフにしているのです。この実験というのは、参加した男たちを囚人役と看守役とにランダムに分け、「囚人は番号で呼ばれる」「看守に対しては、『看守さん』と呼ぶ」「食事を残してはならない」などの簡単なルールに基づいて擬似刑務所生活をおくらせるというもの。
結局、その実験は、途中で中止されてしまいました。なぜかというと、看守役たちは、どんどん囚人たちを「虐待」するようになり、囚人たちは、どんどん精神的に卑屈になって、追い詰められていったから。この実験に参加するまでは、看守役も囚人役もごく一般的な市民だったのに。
あまりの異常な状況に、研究者たちは、実験を途中で打ち切ったそうです。
 ちなみに、「アイヒマン実験」という有名な実験もあり、こちらは、研究者に「正義のため」と命令されると、他人がひどい苦痛を感じるような電気ショックのスイッチを被験者は、嬉々として押すようになってしまうようになる場合が多い、というものです。

 なんでこの実験のことを書いたかというと、昨日解剖をやっていて、「これって、死体損傷」だよなあ、という思いが湧いてきたからなのでした。たとえば、警察が犯人を捕まえるために拳銃を撃つこととかもそうなのですが、世間には「これが正義なんだ」という裏づけがなければ、できないことってけっこうあるような気がするのです。
 「医学のため」「治安のため」に必要なことだと思ってやっていることだし、それはたぶん当たっているのだろうけれど、ひょっとして、僕たちは「世界のため」「人類のため」と信じこまされて、とんでもないことをやらされることがあるかもしれません。
 正しいと思い込まされてしまえば、どんなことでもやるようになる人がほとんどだと思うのです。残酷なことでも、喜んで。
 僕が北朝鮮に生まれて、「正義のために日本人をさらってこい」と言われれば、その通りにしたかもしれないですし。
 異常な国家の異常な行動。そういってしまうのは簡単なことだけれど、少なくとも国民すべてが生まれつき異常ではないでしょうし、悪いことだと知りつつ悪事をはたらく人は、世の中そんなに多くはないような気がします。
 人間って、悲しいほど何かに染まりやすい存在。




2002年09月20日(金)
2002年9月20日。


毎日新聞の記事より。

【死後の冷凍保存で生まれ変わりに挑戦しませんか――。英科学週刊誌ニューサイエンティストは19日、愛読者1人に人体冷凍保存サービスと蘇生のチャンスをプレゼントすると発表した。
 同誌の販売宣伝が狙いで、アラン・アンダーソン編集長は「本誌は一般の人に科学への興味を抱いてもらうことを目指しており、人体保存はこの目的にかなう」と話している。
 応募者は、今の発売号と今後4週間の計5号のうち、3号分のクーポンを集め、10月30日までに申し込む。当選者が死亡すると、腐敗が進まない液体窒素の中に遺体を保存。将来、科学の進歩で蘇生が可能になった暁には「第二の人生を再開できる」としている。
 米ミシガン州の専門施設を使う予定で、通常の費用は2万8000ドル(約340万円)という。冷凍人体の蘇生が可能になるかどうかは科学者の間でも意見が分かれており、実現は保証の限りでない。
 死者の復活を信じない当選者のため、ハワイ・マウナケアの天文台から宇宙を観察するという“現世プラン”も用意している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「機械の体での永遠の命と限りある生身の命は、どっちがいいのか?」というのは、かの有名な「銀河鉄道999」のテーマなのですが、人間にとって「不老不死」もしくは「復活」というのは、永遠の夢なんでしょうね、やっぱり。
 この企画、なかなか面白いところをついていると思います。SF作品では、コールドスリープからよみがえった主人公は(まあ、この場合は「死後」ですけどね)、蘇った世界とのギャップに苦しみながら、幸せになることが多いのです。
 でも、よく考えてみてください。たとえば、エジプトや中国のミイラは、もとは王様だったわけです。生きているときは、下賎のものには、手も触れられない存在。それが、死んでしまって復活を信じてミイラになったばかりに、見世物にされて、子供に「生きてるみたいだねえ…」などと言われてしまうのです。
 それに「復活」を信じるのはいいけれど、死んだときのままで復活したとしたら、末期癌で衰弱しきっていたり、高齢で足腰立たなくなっていたら、どうするんでしょうか?
 そんな状況で「さあ、第二の人生を!」なんて言われても、困んないのかなあ。
 蘇生じゃなくて、再生じゃないと、辛いところですね。
 生き返れるときは、そんな問題もあっさり解決できる世の中になっているんでしょうか。
 そんなことを考えるのも、このあいだ映画「バイオハザード」を観たばかりだからなのかも。

 人間にとって、死んでも蘇れるというのは、夢のような話。
 難しい問題も多いようだけれど、もし、「銀河鉄道999」の機械人間たちが、あんなにグロテスクでメカメカしい風貌でなかったら、僕も機械の体になりたいなあ、と思ったような気がしますし。




2002年09月19日(木)
2002年9月19日。


読売新聞の記事より。

【フジテレビのクイズ番組「クイズ$ミリオネア」に出演した静岡県沼津市の男性会社員が、答えが間違っていないのに不正解とされ、賞金が得られなかったとして、フジテレビ(東京都港区)を相手取り、賞金650万円の支払いを求める訴えを、17日までに静岡地裁沼津支部に起こした。

 訴えなどによると、男性は今年2月21日放送の同番組に出演。マヨネーズの語源を問われた4択問題に対し、「人の名前」と解答したが、番組では「町の名前」が正解とされた。

 男性は、正解なら750万円を獲得できるはずだったが、不正解とされたため、それまでの正解分として100万円しか得られず、「事典などで人の名前という説も有力に主張され、間違いではない」と、差額分650万円を求めている。

 フジテレビ広報部は「当方の見解は裁判の場で明らかにしていきたい」と話している。】

〜〜〜〜〜〜〜

まったく、ひどい話です。
 テレビのクイズ番組で、嘘をつくなんて…
 と言いつつ、これって、同じ類の間違いでも入試の問題ミスなんかに比べて、どうでもいいような気がするのも事実ですが。
 その理由としては、ひとつは自分には関係ないということ、そして、もうひとつは、この人の訴えは、ちょっと言いがかりめいている気がするのです。
 彼がその場で根拠と自信を持って出した解答ならともかく、あとから調べて「こんな説もあるじゃないか!」と言いはじめたら、クイズの問題なんて、作るのは至難の業になってしまいます。もともと、「ミリオネア」は4者択一という解答方式ですし、そのなかで一番正解に近いものを選ぶという意味合いも当然あるでしょう。
 まったくノーヒントで「マヨネーズの語源は?」と聞かれたならともかく。
 それに、この人も650万円仮に賠償してもらえたとしても、重箱の隅をつつくような、いわゆる「クレーマー」として、これからの人生でとりあつかわれる可能性もあるんじゃないでしょうか?果たして、650万円というのは、それに見合った金額なのか?
 やっぱり欲しいかなあ…
 しかし、こういうクレームが出てくるのも、「ミリオネア」が超高額賞金を売りものにしている番組だからなんでしょうね。
 「アタック25」で、カーペット欲しさに裁判を起こす人がいるとは考えにくいですし。

 僕がいちばん危惧しているのは、こういう人が増えてくると、素人が参加できるクイズ番組が、さらに減っていってしまうのではないか、ということです。
 「アメリカ横断ウルトラクイズ」には遅すぎ、「高校生クイズ」には早すぎた、ひとりのクイズマニアとしては、なんだか寂しい限り。
 
 実は、このニュースで僕がいちばん驚いたのは「ミリオネア」の参加者がほんとに普通の人で、本当に賞金あげてるんだなあ、ということにです。
ヤラセじゃなかったんだ!




2002年09月18日(水)
2002年9月18日。


毎日新聞の記事より。

【北朝鮮による拉致事件被害者8人死亡の衝撃は、在日コリアン社会にも暗い影を落とし始めた。北朝鮮に対する国内世論の硬化を背景に、朝鮮人学校などに脅迫めいた電話や嫌がらせが相次いでいる。

 新潟市空港西の新潟朝鮮初中級学校(生徒35人)は、18日からしばらく休校すると決定した。大阪の朝鮮学校に脅迫電話があったことなどを受け17日夜、生徒の安全を確保するため急きょ決定した。「しばらく様子を見て、生徒が安心できる状況になってから、学校を再開したい」(校長)としている。

 横浜市神奈川区の神奈川朝鮮初中高級学校(生徒380人)には17日夜、約30本の嫌がらせ電話があった。「朝鮮に帰れ」「拉致問題をどうしてくれる」といった内容や無言電話などだったという。

 こうした状況を受け、各地の朝鮮初中級・高級学校は18日、集団登校・下校のほか、女子がチマ・チョゴリの代わりにブラウスなどの第2制服を着用するよう指導した。 また、朝鮮総連中央本部教育局も、各学校へ児童・生徒の身辺安全の徹底を周知したほか、所轄警察に警戒を要請するよう指導した。98年8月のテポドン発射など日朝間で問題が発生した時にはこれまで、女子生徒がチマ・チョゴリを切られたり、嫌がらせや暴行を受けるなどの被害が全国で相次いだ。】

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 北朝鮮の日本人拉致疑惑は、これまで明らかにされたところでは、ほんとうに非人道的というか、「なんてことをしやがるんだ!」っていうのが、日本人の多くの人の感想ではないでしょうか?
 メディアは、昨日の夕方に「有本さんら帰国の可能性」などと速報を流していましたが、結局、それは功を急いだための誤報で、現実は、家族を落胆の淵に突き落とすものでしたた。
 選挙の開票速報にしても、なにも、開票直後に「当選確実」を出す必要性などないような気がするのですが。世の中には「速報性」を多少犠牲にしても「信頼性」が重要な情報というのもあるでしょうに。

 それはさておき、この一連の愚かな行為、恥を知れ!と言ってやりたい。
 こういう人たちというのは、自分が実際に被害を受けたわけではなくて、「義侠心」「正義感」という化粧をした、自分のストレスをぶちまけているだけのような気がします。
 いくら、北朝鮮政府の主導による拉致とはいえ、在日朝鮮人の人々がみんな拉致にかかわっていた、というような考えは「アフガニスタン人は、みんなアルカイダ」とか「日本人は、みんな日本赤軍」というのと同じレベルの話。
 そんなに何かしたいのなら、せめて大使館に抗議デモでもやりにいけばいいのに、狙いは子供や学校かよ、恥ずかしいなあ。自分は安全な状況で、そんなイヤガラセをしたところで、何かが変わると本当に信じているんでしょうか。
 もちろん、やり場のない憤りは、みんな感じているはずです。でも、この憤りは、果たして朝鮮人学校の子供たちに向けられるべき筋合いのものなのか?
 同じ朝鮮人じゃないか、って?そういうのを人種的偏見というのです。
 関東大震災のときの朝鮮人虐殺から、メンタリティが向上していない日本人がこんなにいるとは、情けない。
 こういう人たちって、雪印の牛乳問題では、何の罪もない販売店にクレームの電話をかけ、ニッポンハムの売り場のおばさんに嫌味を言うような人なんでしょうね。
 でも、これは日本人だけの問題ではなくて、同時多発テロのときにアラブ人というだけで差別を受けた人が、アメリカではたくさんいたのです。これはもう、自分より劣った人間をつくりたがるという、人間の性なんでしょうか。
 だいたい、どうして今まで、この問題を国民も政府もみんなもっと真剣に考えてこなかったんだろう?僕は、なんだか自分がとても情けないです。

 北朝鮮の拉致は、国家的テロリズムといえるでしょう。
 でも、この愚かな人たちの報復(だと自分たちでは思っている)行為もまた、テロリズムなんじゃないでしょうか。
 自分のストレス解消のため、抵抗できない弱者を狙うなんて、最低のテロリストたちだ。
 テロに、最低とか最高とかは、ありえないのかもしれないけれど。



2002年09月17日(火)
2002年9月17日。


朝日新聞の記事より。

【「罪を償うために骨髄バンクに登録したい」。強盗殺人事件で死刑が確実視される被告がドナー登録の手続きをしようと刑の一時執行停止を求めたことに対し、法務・検察当局は申し立てを認めない方針を固めた。刑事訴訟法で定められた「刑を停止する重大な理由」にあたらないと判断したという。
 骨髄提供を理由として刑の執行停止を申し立てたケースは初めて。
 申し立てたのは、強盗殺人罪で無期懲役となって服役し、仮出所中の92年に別の強盗殺人事件を起こして審理中の男性被告(49)。  最高裁は99年、「死刑を選択するほかない」として、二審までの無期懲役判決を破棄し、広島高裁に差し戻した。92年の仮出所は取り消され、最初の事件の無期懲役刑囚として申し立てた。
 執行停止は、刑の執行が著しく本人の健康を害したり、重大な理由があったりする場合にできると刑事訴訟法で定められている。
 骨髄移植は白血球の型が同じでないとできないが、適合率は低く数百人から数万人に1人とされる。提供者を何年も待つ患者も少なくない。
●骨髄提供希望の受刑者の手紙
 罪をどのように償えば良いのだろうか。歳を重ねるごとに自責の念が深まり、辛苦の受刑生活は当然の事ですけれど、この境遇の中でも何か人の役に立てることはないものかと思いをめぐらせておりました。数年前、ラジオ放送で白血病であと数カ月の命と告知された小学生が骨髄移植を受けて一命をとりとめたと知り、何とか協力できないかと強く思うようになりました。
 自分の命で誰かの命を救うことができるならば、これ以上の罪滅ぼしはありませんし、被害者に万分の一でもおわびできるのではないか、と思うのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

ちなみに、この受刑者、今年の5月には、「脳死状態になったら、すべての臓器提供をする意志を明らかにしている」そうです。
 なんと美しい心なのでしょう。こんなに立派に改心したんなら、死刑になんか、しなくたっていいじゃありませんか!

 …って、思うとでも?
 この話を聞いて、僕はもう、唾で眉がベトベトです。
 骨髄移植の登録は、してもいいと思うんですよ、別に。
もし、適合する人がいたら、即刻ドナーにはなっていただきたい。でも、登録は2時間くらいで済むそうですし、適合者がいるかどうかの確認も、まあ、何週間かといったところでしょう。ちなみに、適合率は数百人から数万人にひとりですから、逆に言えば、この受刑者に適合する患者さんがいる確率そのものは、けっして高くありません。
「登録」=「ドナーとなる」とは限らない。むしろ、適合者する患者さんなしの可能性が、現実にははるかに高いのです。
 適合者がいれば、移植の間は刑を猶予していいと思います。患者さんのために。まあ、だいたい一週間くらいの入院でしょうか。

 でもね、僕はもう、この手の「マスコミによって作られた美談」には、飽き飽きしてるんですよ。
 この受刑者、「自分の命で誰かの命を救うことができるならば」などと、ほざいていますが、骨髄移植のドナーになっても、死んだりすることは、
まず100%ありません。
ドナーは、骨髄液を採取されるだけですよ。
もちろん、普通の人にとって「採取されるだけ」のことが、とても大変なことは、承知しているつもりです。痛いし、入院しなきゃいけないし。でも、「命がけ」というのは、あまりに過大表現。
あと「脳死になったら、好きに移植していい」ですか?
絞首刑になる人が、いったいどうやって脳死状態になるつもりなんでしょうか。
 ほんとに「自分の命で誰かを救いたい」と思っているのなら、今すぐ腎臓なり、角膜なりを提供したらいいのでは。
心臓だっていいと思いますよ、死にますけど。
現実的には、そういうことは今の日本の法律上では不可能なのですが。

 だいたい、「万分の1のおわび」とか「この辛苦の受刑生活」とか、ふざけるな、といってやりたい、耳が腐る。あなたに殺された2人の人は、そんなおわびなんて、聞きたくないと思っているんじゃないでしょうか?
 人の未来を2つも奪っておいて、ちょっと骨髄バンクに登録したくらいで「自分は少しでも罪滅ぼしをした」と自己満足。
亡くなられた方は、おわびなんて聴こえはしないし、「辛苦」すら感じられなくなっているというのに…
そういう、感じることすらできなくなってしまう、というのが「死」の本質なのに。
 でも、この受刑者は、まだ生きて、考えている。

 マスメディアも、こんなことをいかにも美談のようにとりあげるのは、もうやめてもらいたい。この受刑者は、骨髄バンクに登録しようとしたから罪に問われたわけではなく、人を2人も殺めたから罪に問われているのです。
 「人道」とは、どんな悪いことでも赦して「よしよし」って、言ってあげることですか?
 それとも、罪に対して、適正な罰を与えることですか?


 ひとつだけ、いくばくかでも罪滅ぼしをする方法をお教えしましょう。

「この世に存在して、罪滅ぼしをしようとすること自体が傲慢なんだ。
さっさと死んで、この世から消えてなくなれ!」



2002年09月16日(月)
2002年9月16日。


「同・級・生」(柴門ふみ著・小学館)の科白より。

(主人公のひとり、名取ちなみ(24)と彼女とお見合いのあと交際するようになった相手、飛鳥浩史(30)との会話より)

【飛鳥「ふつうの若いカップルなら、映画観て、プールバーにでも行くのだろうけど…」
 ちなみ「飛鳥さんだって、まだお若いくせに…」
 飛鳥「もう30です。二時間も女の人と黙って座って映画観てる余裕はない」】

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 柴門さんの初期の代表作「同・級・生」。週刊ビックコミックスピリッツに連載されていたのが1986年から88年。1991年ですから、ちょうど10年前にテレビドラマ化されています。配役は、名取ちなみが安田成美、飛鳥浩史が石田純一、あと、ちなみの大学時代の恋人、鴨居透が緒方直人、透の新しい恋人、佐倉杏子が菊池桃子でした。
 書いてて、激烈に懐かしいなあ。僕が、ちょうど大学に入学してすぐの時期に放映されたこのドラマ、当時の僕は、年齢が近いこともあって、同級生カップルが、なんとかヨリが戻らないものかと思い、この飛鳥という男のことは、あんまりいい印象がなかったです。石田純一というのも、ね…
 まあ、それはさておき、この飛鳥の「30歳なんだから、映画観てる余裕なんかない」という科白、20歳の頃の僕の印象は、「なんだよ、カッコつけちゃって、このオジサン」という反感と「やっぱり、30歳くらいの大人になったら、そんなに時間の余裕がなくなっちゃうんだなあ」という感慨が入り混じっていたような気がします。
 いまや、自分がそのオジサンになってしまっているわけで。
 でも、今から思うと、別に30になったからといって、女の人と2時間くらい映画を観る時間、あると思うんですけど…常に何かに追われているような感覚というのは、年齢というより、生来のその人の感性なのでしょうけど。
 ああ、そういえば、ちょっと年上の同僚の先生が、社員旅行のときに、「小さな子供が居たら、なかなか映画観に行く機会とかないもんなあ、何年ぶりだろう…」って言ってたっけ。やっぱり、家庭があると違う面もあるんだろうなあ。
 30歳って、少なくとも自分が20歳のときにイメージしていたほど、オトナじゃないなあ。このままだと、60歳くらいでも、自分が若い頃思ったほど年寄りじゃない、とか思ってそうで、ちょっと怖い気もします。
  
 10年前、柴門ふみに騙されたなあ…などと、今回ちょっと懐かしいような、切ないような、そんな気持ちで読み返したのでした。



2002年09月15日(日)
2002年9月15日。


週刊プレイボーイ8/20・27合併号の記事「日本人選手がヨーロッパサッカーを変える!!」より抜粋。

(現地イギリスで取材中のフォト・ジャーナリスト、山田一仁氏のコメントより)
【正念場を迎えた稲本がポジションを奪うためのカギはいったいどこに?
山田「日本代表でやっているようなプレイをアーセナルではできなかった。なにしろ、昨季はチームメイトたちと食事に行ったという話も聞きませんでしたからね。何度かフルハムの練習を取材したのですが、まだ稲本の声は聞こえてこない。積極的にコミュニケーションがとれるかどうか。それが成功のカギを握るでしょう」】

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 稲本選手、今日も1得点・1アシストの大活躍でした。スポーツ界での日本人選手の海外進出は、野球以外にも年々目立ってきています。
 この記事は、プレミアリーグ開幕前に書かれたものなのですが、このコメント、ちょっと違和感を覚えるところがないでしょうか?
 それは、山田さんが、稲本選手が日本代表でやっているようなプレイが昨季アーセナルでできなかった理由を、技術的なことは一切ふれずに(ひょっとしたら、記事になる際にカットされたのかもしれませんけど)「チームメイトと食事に行かなかった」と表現しているところだと思うのです。
 一緒に食事に行くことと、サッカーの試合とどういう関係があるんだと僕も最初は思いました。でも、よくよく考えてみると、ごく一部の芸術的な分野などを除けば、社会人にとってコミュニケーション能力、「伝える」能力というのは非常に大事だと痛感する機会は多いのです。
 正確に状況を認識して、専門家に伝達する能力は、多少の知識や技術の優越よりもはるかに有益。
 たとえば、家のパソコンが壊れたとき、ちょっと詳しいという理由で自分でなおそうとする人と、自分は詳しくないけれどものすごく詳しい友達に頼める人とどちらが早くなおすことができるでしょう?
 野球のように投手と打者という1対1の勝負が基本となる競技は別として、サッカーなどの団体競技は、稲本選手がどんなにすばらしいプレイヤーでも、いいパスをもらえなければいいプレイはできないわけです。ボールが回ってこなければ、ペレでもベッカムでも、どうしようもない。そして、そのパスも、自分の好みに合わせたものであればさらにいいわけで。そういうのって、「伝えなければわからないこと」なんですよね。
 まあ、稲本選手の場合は、ワールドカップで活躍したことによって、まわりからも一目置かれる存在になったことが、コミュニケーションをとる上で非常に役に立っているという面もあるんでしょうけれど。
 もちろん、実力がなければ通用しません。でも、実力があっても、まわりとのコミュニケーションのとり方で、それが発揮できない場合って、けっこうあると思うのです。
 スポーツの世界じゃない、一般の会社や組織ではなおさら。

 稲本選手、今年は大活躍できそうな予感。



2002年09月14日(土)
2002年9月14日。



「週刊SPA!2002年4/30,5/7合併号」(扶桑社)の鴻上尚史さんのコラム「ドン・キホーテのピアス」より。

【今の日本で大学に行く一番の意味は、60歳を過ぎないと手に入らない、4年間という長期の時間を手に入れることなのです。そして、その時間を手に入れることで、生まれて初めて、「いったい、私は何がしたいんだろう?」という問題を悩むことができるのです。
 授業に出席しているだけでは、この人生の根本問題に悩むことはありません。で、そういう場合、えてして、30歳を過ぎた頃に突然、「俺はなんで生きているんだ?」と考え始めるのです。それでも遅すぎるということはないですが、しかしなるべくなら、大学の時間にすませたほうがいいのです。

〜〜〜〜〜〜〜

 鴻上さん流の「モラトリアムのススメ」です。僕は、大学に6年間行ってたわけですが、医学部というのはけっこう出席日数に厳しかったり、実習が多かったり講義がギッチリつまっていますから、勉強と部活に明け暮れていた記憶しかないのですが、それでも就職してからの生活に比べれば、はるかに余裕があったような気がします。一日中ゲームしてたり、飲み会続きだったときもありましたし。
 でも、「子供は純真でいいねえ」とか「学生は悩み事がなくていいねえ」というようなことを聞くのですが、自分が子供だったり、学生だった頃のことうを思い出すと、果たしてどうだったか?今から考えると些細なことかもしれませんが、給食を食べるのが遅かったり、席替えで仲のいい子と近くにられなかったりで、すごく落ち込んだりしませんでしたか?学生時代だって、悩む人は「どうして僕には悩みがないんだろう?」なんてことを悩み始めたりするわけです。
 たとえば、小説家が紙に向かっている時間だけでは小説が書けないように、誰でも「仕込み」の時期は必要なんだと思います。
 それに、悩んだことがない人って、他人が悩んでても「どうしてそんなに暗い顔してんの?たいしたことないじゃん!」などと他人の神経を逆撫でしてしまうことも往々にしてあるわけで。
 まあ、悩むかどうか?というのは、時間というより、体質的なものかもしれませんが、それでも「悩んでいる暇がある」というのは、幸せなことなんでしょうね。
 悩んでいる最中には、そんなこと思いもつかないんだけれど。




2002年09月13日(金)
2002年9月13日。


毎日新聞の記事より。

【兵庫県川西市の市立多田中学校で今月初め、教師が茶髪の生徒5人の髪の毛を市販の毛染め薬で黒く染めたところ、アレルギー体質の女子生徒1人の頭皮がただれ、全治1週間と診断されていたことが13日、分かった。学校側は生徒と保護者に謝罪し、今後、同様の指導の中止を決めた。】

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 教育現場の荒廃、ここに極まれり、という感じですね。髪を茶色に染めただけのアレルギー体質の生徒を無理やり市販の毛染め薬で染め直し、頭皮をただれさせるなんて…
 とくに多感な時期だけにこのショックは大きいでしょうね…

 って、思いますか、本当に?
 僕が疑問に思ったのは、まず、この生徒がアレルギー体質であったことを事前に先生は知っていたのかどうか?ということ。知っていたなら、責められるべきところはあるでしょう。でも、知らなかったとしたら、すでに茶色に染めてるんだから、アレルギーとか、あんまり意識しませんよねえ。
 僕は医者なので、患者さんに検査の説明をすることがあるのですが、その際「その検査って、絶対安全なんですよね。100%大丈夫だって、保障してください!」といわれることがあるのです。でも、この世に100%大丈夫なんてことは、まずありえないわけで、「僕たちも慣れていますから、ご心配されなくてもいいですよ」などと言いつつ、さまざまな合併症の説明をしてしまうのです。
 
 こういう報道に接して思うのは、「はたして、どこまでの可能性を『危険』と判断するのか?」ということです。最近、「溺れるかもしれないから、プールの授業は止めます」とか「薬品が危険だから、理科の実験は止めます」とかいうような発想が、どんどん広まってきているような印象があるのです。
 溺れたり、爆発したりするリスクはあるでしょう。でも、そればかりを大々的に取り上げて、そういう危険なことに接するという機会を失っていくというのは、子供の教育にとって、果たしていいことなのかどうか。
 もちろん、自分の子供が溺れたら、僕だって、いたたまれません。けれど、道を歩いていたら、暴走してきた車にはねられるかもしれないし、突然、くも膜下出血を起こすかもしれない。どこまでが受け入れるべきリスクなのか、あまりメディアにあおられずに、もう一度よく考えてみたほうがいいんじゃないかなあ。そうしないと、生きていくために必要な耐性が得られないまま大人になっていくような気がしますし。

 この「染髪事件」については、「先生が自分で染めた」ことを責めているのか、「茶髪の子の髪の毛を無理やり染め直した」ことそのものを責めているのか、ちょっとわからないところがあるのですが、前者だったら、「これからは、プロに染め直してもらう(もちろん、それでもアレルギーになることはありますよ)」という選択肢でいいでしょう。もし、後者であるとしたならば、今後、髪型は自由ということになるんでしょうね。
 僕は、校則の大部分は意味がないと思うし、髪形なんて、どうでもいいと思います。
 世間の大人たちが「高校生らしい」と思い込んでいる高校球児の不祥事の多さを考えれば、みかけなんて、あんまり意味がない。グラウンド上の高校球児は、まさに「大人にとってのの理想の高校生像」の幻影なわけで。「解説者の『高校生らしい』というコメントが出るたびに、失笑を禁じえません。あなたたちが求めている高校生なんて、どこにもいないって。

 校則の正しさそのものについては、異論もあるところでしょうが、ものごとを学ぶ(もしくは教える)ためには、最低限のルールが必要でしょうし、リスクを避けるわけにはいかない場合もあります。交通事故がこれだけ起こっても、人々が車を必要としているように、リスクがわかっていながら、あえて教えないといけないこともあると思います。
 学校は、自分たちで必要だと思って決めた校則なら、もっと自信をもっていいのでは。
 教育の現場が、どんどん事なかれ主義に陥っていくのは、正直怖いのです。
 
 学校側は、この生徒には、「アレルギーになってしまったことは残念だけど、茶髪に最初に染めてきたのは、君じゃないか」とはっきり言うべきじゃないでしょうか。
 メディアは、「学校が悪い」「医者が悪い」というけれど、「必要なことをするために、どうしてもついてまわるリスク」を、ちゃんと勉強もせずにとりあげて、「明らかなミス」というような報道の欺瞞には、最近、ほとほとあきれ果てているのです。
 
 だいたい、今の世の中、むしろ真っ黒でストレートの髪のほうが、金髪よりはるかに自己主張になっているような気がするんだけどなあ。



2002年09月12日(木)
2002年9月12日。


(「赤塚不二夫漫画大全集DVD−ROM」の広告コピーより)

【一生笑って、暮らすのだ。

 全298作品、5万2000ページ以上!
 不滅の天才、赤塚不二夫のすべてを収録!
 空前絶後の永久保存版ついに登場!!
 (DVD4枚組 豪華装丁BOX入り・限定1935セット 
価格:7万円(税別)】

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 赤塚さん、お体のほうは大丈夫なんでしょうか?
 僕は、「おそ松くん」には、リアルタイムの記憶がなくて、「天才バカボン」のコミックスくらいからの読者なのですが、子供心に、なんて漫画なんだ、これは!と面白さというよりも意味不明な凄さに魅了されていたような気がします。

 300作品、5万2000ページであれば、1日1作品ずつ読んでも(とはいっても、「バカボン」みたいに分量が多いものもあれば、短編もあるでしょうから、一概には言えないでしょうけど)1年近くかかりますし、1日100ページでも、一年半くらいかかるわけです。
 まさに、ファンにとっては、「一生笑って、暮らせる」一品でしょうね。いいなあ、欲しいなあ。

 でも、この商品について、僕はちょっとだけ残念なところがあるのです。
 それは、赤塚不二夫の「全集」が、たった4枚のDVDに収まってしまうなんて!ということ。
 「全集」といえば、立派な本棚の中で、一回くらい読んだことがあるんだろうか?とやや疑問に思われつつも堂々と鎮座しているものというイメージが、僕にはあるのです。
 赤塚さんが一生かけてやってきた仕事が、あんな小さなディスク4枚分だなんて…
 いや、「重さ」や「大きさ」で測るような筋合いのものではないということは、理屈ではわかっているつもりなのですが、ちょっと寂しいなあ、という気持ちも湧いてきます。
 5万2000ページ分の本と4枚のDVDでは、実際に置く場所を考えればどっちが便利かなんて、言うまでもないことなんですけどねえ。
 でも、いちいちDVDをセットして、コントローラーでめくっていったりする手間を考えたら、意外といい勝負なのかも。
 「本」というものに対する愛着で、少しだけひいきしてみれば、なおさら、ね。



2002年09月11日(水)
2002年9月11日。


「新ゴーマニズム宣言・第11巻テロリストナイト」(小林よしのり著・小学館)より抜粋。

(小林氏の語りおろし、「個と公論2」から、同時多発テロ前のタリバン政権時のアフガニスタンのことについて)

【小林氏「しかし、世界はアフガニスタンを見捨てた。前国連難民高等弁務官の緒方貞子さんが、100万人規模の餓死者が出そうだと懸念を表明しても、一顧だにされなかった。アフガン人の平均寿命は40歳そこそこ。
2000万人といわれる人口のうち、630万人が難民と化している。こんな絶望的な状況こそが、テロリストを生む温床となったわけだからね。
 そのような絶望感を、映画『カンダハール』の監督、モフセン・マフマルバフは、バーミヤンの仏像破壊とからめて、こんなふうに表現しているよ。
『ついに私は、仏像は、誰が破壊したものでもないという結論に達した。仏像は、恥辱のために崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がっこまで無関心であることを恥じ、字頭からの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ。』(『アフガニスタンの仏像は砕けたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(武井みゆき+渡部良子訳、現代企画室)より)
 ところが、仏像が崩れてさえ、中国の諺に言う「あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている」つまり、人々は仏像の破壊だけを悲しみ、「誰も、崩れ落ちた仏像が指さしていた、死に瀕している国民をみなかった」、とマフマルバフ監督は言っている。】

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 あれから、1年。今日は、「2002年9月11日」というタイトルにもなんとなく意味がありそうな気がしています。
 同時多発テロのこと、考えれば考えるほど思考は堂々巡りになってしまうのです。被害にあってしまわれた人たちは、ほんとうに悔しいだろうなあ、と思いますし、アメリカが怒るのもわかります。
 でも、いろいろな角度から見てみると自分の立場を見失ってしまう。ビンラディンは、湾岸戦争のときはアメリカの協力者だったのですが、湾岸戦争後、アメリカ軍が「聖地をアメリカの女性兵士が短パン姿で歩いているのを見て、聖地を穢されたことを屈辱的に感じ」、それ以降、反米になっていったそうです。
 郷に入れば郷に従え、といいますし、こういうのは、果たしてビンラディンを責められることなのかどうか。占領軍とはいえ、相手の文化を尊重すべき面もあったのではないか?という気もします。
 それに、この文章にあるように、当時のアフガニスタンの状況を考えると「アルカイダは、テロに快楽を覚える狂信者集団だ」と言い切ってしまっていいのかどうか?果たして、彼らの国がこんな状況でなく、豊かで、文化を尊重されていたなら、それでも彼らはテロをやったのでしょうか?
 物事というのは、理性的にいろんな角度からみていくと、どんどん何が悪いのか、よくわからなくなってきます。欧州の人たちは「テロは、アメリカ側にも要因がある」と考えている人が過半数を占めているようですし。
 
ただ、僕の感情が出す答えは、ただひとつ。アメリカに従わない国がいるのは当然のこと。でも、反抗や報復の方法として、テロは嫌だ。戦争も嫌だ。僕はまだ、死にたくないし、テロや戦争のような状況で死ぬのはまっぴらごめんです。
なんだかみっともないけれど、評論家や政治家のいうところの「アメリカの傲慢」も「アメリカへの絶対的帰依」も、正直、実感として湧いてこない。
 でも、知ったかぶった「理性」の尻馬にのってしまうよりも、こういう「嫌だ」という主観の積み重ねが、悲劇の再発予防につながるような、そんな気がしています。

 同時多発テロから、もう1年。被害にあわれた方々は、時の流れさえも感じることはできません。この1年で、世界の何が変わったのだろう?

 広島の平和公園の碑には、「安らかに眠ってください あやまちは、二度と繰り返しませんから」と刻んであります。
 僕たちは、結局この50年以上もの間、戦争の被害にあわれた方々の指差しているものではなく、その指を見続けてきただけなのかもしれません。



2002年09月10日(火)
2002年9月10日。


「オーケンののほほん日記・ソリッド」(大槻ケンヂ著・新潮文庫)より抜粋。

(大槻さん自身による、「文庫版あとがき」より抜粋)

【この本は、単行本から文庫化する際の校正、いわゆるゲラチェックなるものを一切行っておりません。ま、日記を手直しするというのも変だから、というのもあるのですが、一番の理由は、恥ずかしくて仕方がなかったからです。ただでさえこっ恥ずかしい昔の文章、あまつさえ、日記ともなればなおのこと堪ったものではありません。】

〜〜〜〜〜〜〜

ここで大槻さんが書かれている気持ち、とってもよくわかります。
僕も、実際に自分が書いたものを読み返すっていうのは、けっこう気恥ずかしいのです。あまり考えずにザーッと書いて、書き終わったら、サッと流し読みだけして、誤字・脱字や日本語のおかしいところだけをチェックして、アップしてしまいます。ここは「エンピツ日記」を使わせていただいていますから、文章だけ書いて、「登録」のボタンを押せば、それでおしまい。
 でも、これには大きな落とし穴もあるんですよね。あとで読み返したときに、文法としてはおかしくなくても、言い回しとして気持ちが悪いもの(たとえば、「〜という気がします」という結びが2連発、とか)が出てくることがけっこうあるのです。
 そういうときは、ディスプレイの前で赤面しながらあわてて「修正」したりしているわけで。
 それだったら、あらかじめ推敲してからアップしておけばいいんですけどねえ。
 まあ、「活字中毒。」については、自分のことを書いている場合は少ないので、恥ずかしいことといえば、そういう表現上のことか、知ったかぶりして書いてしまったことくらいなのですが、某所で書いている日常日記のほうは、ほんとに恥ずかしくて読み返せません。
 昔の紙の日記帳なら、「こんなこと書いてるなんて、若かったなあ…」という、自分に対する気恥ずかしさだけですむのですが、WEB日記の場合には「この自意識過剰な文章を全世界に向けて、大公開していたなんて…」と思うと、さらにグレート・ブルー。
 それなら、もう日記なんて書かなけりゃいいのに、と自分でも考えることはあるのですが、書き手としての愉しさは、読み手としての恥ずかしさを今のところは上回っているのです。「恥ずかしい」と思うような自意識の強さは、日記を公開するという自己顕示欲と表裏一体、ということなのでしょうか。
 「恥ずかしいなあ、カラオケ苦手なんだよ」とさんざんマイクを断りながら、いざ歌い始めると大熱唱してしまう、そんな感じ。







2002年09月09日(月)
2002年9月9日。


毎日新聞の記事より。

【総務省の家計調査によると、納豆の年間平均消費額は、80年の1289円から90年には2532円、98年には4097円と増え続けた。その後、納豆の生産量が多い茨城県でウラン加工施設の臨界事故が起き、99、00年は前年を下回ったが、02年は1〜7月の累計で2474円に達し、年間で過去最高となる勢いだ。
 消費拡大の背景は「におわない納豆」。ミツカンはにおいのもとの一つ、脂肪酸を抑える独自の納豆菌を使った「におわなっとう」を00年9月に発売した。今年1〜6月は前年同期比8%増の約1億個を売り、年間でも昨年の1億7000万個を上回りそうだ。
 大手メーカーがここ数年、においを抑えた納豆を発売し、納豆を食べる習慣があまりなかった西日本でも受け入れられてきたのが主因とみられる。】

〜〜〜〜〜〜〜

「アホ!こんなくされた豆なんか食えんわ、ボケ!」というのは、マンガで描かれる典型的関西人の納豆への対応。
 僕自身は、「納豆大好き!」と言えるほどではありませんが、出てくれば普通に食べるけど、自分で買ってまで食べようとは思わない、というレベルです。まあ、一人暮らしが長いですから、家でご飯を炊かないというのも、あまり食べない理由なのですが。でも、キライじゃないです。
 
 僕の母親は茨城県の出身で、「納豆は『畑の肉』っていうくらいで、すごく栄養があって、体にいいのよ」と言いながら、いつも食卓に納豆を並べていました。
 父親は関西人で、母親の手前「納豆を出すな」とは言いませんでしたが、そういえば、あまり箸をつけたのは見た記憶がないように思います。
 僕の兄弟でも「納豆キライ!この臭いが…」と公言していた者もいましたし。
 子供の頃の僕は、今から考えると母親を喜ばせるために納豆を食べていたような気がします。
 それでも、長い間食べ慣れてきたものですから、こんなふうに「におわない」ように変わってしまった納豆には、違和感を覚えてしまうのも事実。最近の納豆は「におわない」とか「納豆カレー」とか、「納豆の味がしない!」という方面でシェアを広げているらしく、「このケーキ、甘くなくて美味しい!」という言葉に対してと同じ種類の疑問を感じてしまいます。

 しかし、こういうふうに、あまりに納豆が納豆らしくなくなっていくのは、「納豆、好き!」「大嫌い、あんな腐った豆!」という、それぞれの人々の連帯意識が失われていくような気がして寂しいような気がするなあ。
「納豆、う〜ん、別にどっちでも…」って、なんだか、らしくないと思いませんか?

 このシェア拡大の裏には、品種改良もさることながら、全国に移り住んでいった関東出身のお母さんの努力が、けっこう大きいんじゃないのかな。
 納豆って、子供が自分から好んで食べるようになる食べ物ではないような気がするし。




2002年09月08日(日)
2002年9月8日。


「ホームページアクセスアップの鉄則」(KEI+蒲健太著・翔永社)より。

【インターネット人口の増加に伴い、初心者でも気軽にホームページが作れる製作ソフトが安く販売され、さらには無料ウェブスペースなどの普及によって、その気になれば誰でも簡単にホームページが開設できます。現在日本だけでも2億以上のホームページが存在すると言われているのに対し、ネットを日常的に利用している人はわずかに1500万人程度です。】

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 こうやって、あらためて数字をあげられると、なるほどなあ、と。
 確かに、僕の周りの人たちも、インターネットを何かを検索したり、オークションに参加するための「手段」として利用している人は多いですが、毎日お気に入りのサイトを巡回しているひとって、そんなにいないような気がするなあ。
 2億という数字からすると、日本国民の1人平均1つ以上のホームページを持っているということになりますが、ひょっとしたら、これは総ページ数のことなんでしょうか。そのあたりは言及されていなかったんだけど。
 それにしても、1500万人のうちのコアなネットジャンキー人口を考えたら、「自分のホームページに人が来てくれない」っていうのは、当然のことなのかもしれないですね。1000万人の人が1日10サイトを巡回したとしても、1日1億ページしか見られないわけですし。
 来る来ないという以前に、見つけてもらうことすら困難というのが現実なのかもしれません。僕などは、ネット巡回をしていて、アクセス数の多いページって、たくさんあるよなあ、と感慨に浸ることが多いのですが、考えてみれば、そういうアクセス数が多くて目立っているページだから、僕も知っているわけですよね。逆に言えば、存在すら知らないようなところが、たくさんあるということで。
 たとえば、本を書いたからといって、それが必ずベストセラーになるはずないし、本屋に置いてある本のタイトルをすべて知っている人なんて、まずいないですよね。
 僕たちが、その存在すら知らない本が、本屋にはたくさんあるわけです。
自分の書いたものを読んでくれる人が自分以外に1人でもいればホームページとしては大したものなのかもしれません。
 もう、ホームページは、自己主張の場としては機能しにくい時代なんだろうなあ。




2002年09月07日(土)
2002年9月7日。


aikoのニューアルバム「秋 そばにいるよ」のCDに貼ってあったシールのコメント。
【ほんのりヒットシングル「おやすみなさい」「あなたと握手」
 ついこの前出したシングル「今度までには」を含む全13曲】

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 CD買うときって、たいがい、ジャケットを見て、収録曲を確認しますよね。よっぽどの「指名買い」でなければ。CDショップに行って、いろんなCDを見ていると、どのアルバムにもたいがい、「あのヒットシングル〜収録!」というような帯がついているか、シールが貼ってあります。たとえば、ミスチルのアルバムで「ヒットシングル・イノセントワールド収録!」と書いてあっても、何の違和感もありませんよね。でも、中には、あまり聞いたことがないような歌手のアルバムに「ヒットシングル〜何々〜収録!」と書いてあっても、買う側からすると「その曲って、聞いたことないけど、どこが『ヒット』シングルなの?」と聞き返したくなるような場合もままあるわけで。そのコメントになんとなく違和感を覚えてしまうのもまた事実。ちなみに、そのさいには「スマッシュヒット」という表現が多用されがち。スマッシュって何?
 それで、このコピーなのですが、「ほんのりヒットシングル」っていう表現は、うまいなあ、と感心してしまいます。aikoのキャラクターにも合っているし、確かに、大ヒットとまではいかないけれど、よく耳にした曲ではありますし。
 こういうのって、ああ、誠実だなあ、とけっこう好印象な気がしますね、うまいなあ。
 もちろん、aiko本人が書いているわけではないだろうけど。
 でも、aikoさんの場合は、実際に売れている人だから、これが誠実さとして伝わるわけで、ほんとに全然売れてない人が「全然売れてないシングル〜何々〜収録!」とか書いても、やっぱり失笑の対象にしかならないでしょうね…
 こういう誠実さも、余裕のなせるワザなのかな。



2002年09月06日(金)
2002年9月6日。


毎日新聞の記事より。

【歌手の宇多田ヒカルさん(19)が6日、結婚届を出したことを明らかにした。相手はフォトグラファーの紀里谷(きりや)和明さん(34)で、アルバムのジャケット撮影などを通して知り合った。2人は2年前の冬に知り合い、交際を続けていたという。
 しばらく病気で療養していた宇多田さんは「休養後の音楽活動の再出発となるこの時期が、新しい生活のスタートにもふさわしいと思いました」とコメントしている。
 宇多田さんは、自身のホームページで、ファンにあて、「この若さで妊娠もしていないのに結婚? と不思議に思う人もいるかもしれない。愛する人と堂々と人生を歩んで行きたいという自然な気持ちからの決断です」とのメッセージも書いてある。】

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 おそらく、このニュースを聞いて、日本中で「えっ?まだ若いのに」という驚きの声が上がったことだと思われます、僕もその一人。現在30歳・独身の男性としては、19歳で結婚する女の子には、「ちょっと、早すぎるんじゃない?まだ若いんだし、そんなにあわてなくても…」と言いたくなります。
 でもまあ、考えてみれば、僕だって20歳のときに18歳の子とつきあっていれば、結婚するということを当然意識することはあったでしょうし、30歳からみての19歳は「まだまだ」でも、本人にとっては、自然ななりゆきだったんでしょうね。
 話はちょっと変わってしまうのですが、昨日、柔道のヤワラちゃんこと田村亮子選手とオリックスの谷選手が、今度の冬にも婚約か?という報道が、テレビでされてました。
 なんだか、ヤワラちゃんはひとりウキウキして大気圏を脱出してしまっていたかのようなインタビューだったのですが、あれを見て、谷選手は、「頼む!そんなことテレビで言って、俺に妙なプレッシャーをかけないでくれ…」と思っていたんじゃないかなあ、と僕は想像してしまいました。なんかもう、既成事実作成!って雰囲気が漂いまくり。
 まあ、田村選手は、結婚しても「若すぎる!」と言われる年ではないですが、彼女たちが結婚を意識した理由には、共通点があるような気がします。
 それは、障害の克服。周知の通り、宇多田さんは、卵巣腫瘍で闘病中ですし、田村選手も膝の怪我で昨年は試合ができない状況でした。病気と闘っている最中というのは、不安がつのったり、助けてくれる人のチカラを強く意識することが多いはず。
 よく、長年つきあっているカップルで「いやあ、なんだかきっかけがなくって…」ということで結婚できないケースがありますが、この2組のカップルをみると、やっぱり結婚というのは年齢による適齢期というよりは、子供ができたとかも含めて、タイミングが大事なんじゃないかなあ、と30歳、未婚のオトコは思うのでした。
 
 でもなあ、最後にひとつだけ言わせてくれ。34と19はセーフだろうけど、付き合いはじめは32と17!それは、さすがに犯罪チックなのでは…




2002年09月05日(木)
2002年9月5日。


読売新聞の記事より。

【ロサンゼルス4日=森田清「マディソン郡の橋」の小説や映画で登場した米アイオワ州の木造橋で3日夜、火災が発生し、橋はほぼ焼失した。AP通信によると、橋には火の気がなかったことから、地元捜査当局は放火の疑いがあると見て調べている。

 焼失したのは同州マディソン郡ウインターセットの「チェダー橋」。1883年に建造された全長約23メートルの屋根付き木造橋で、小説と映画のヒットにより観光名所となっていた。同郡に残る他の5つの木造屋根付き橋とともに史跡にも指定されていた。】

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 「マディソン郡の橋」僕も小説読みましたし、映画も観ました。すごく風景が綺麗な映画で、あの自然の中にたたずむ趣のある橋が焼けてしまったなんて、寂しい気がします。
 そういえば、あの映画で主演女優のメリル・ストリ−プは「田舎の中年女性の雰囲気」を出すための役作りとして、10キロほど太ったというのも有名な話です。
 しかし、僕は正直言って、どうしてあの小説や映画が、あんなにウケたのかよくわかりません。感動しましたか?「マディソン郡の橋」に。
 内容的には、「短いアバンチュール(死語?)を愉しんだ主婦が、一生そのことをニヤニヤと思い出しながら生き続け、死んでからわざわざ子供たちに手紙を残して自分の精神的不実を告白し、遺族をたまらなく嫌な気持ちにさせる映画」だと、僕は記憶しています。
 僕が「裏切られる側」であるオトコだからなのか、このストーリーの良さが、全然理解できないのです。そういえば「ゴースト・ニューヨークの幻」を観たときも、恋人が死ぬとすぐに他のちょっと親切な男のほうにクラッときてしまうデミー・ムーアに、なんて尻軽な女なんだ!と憤ったものでした。
 アメリカ人はこういうのにホントに感動するの?としか思えなかった。
 結婚していても、家族がいても、誰かを好きになってしまうことはあるかもしれない。
 でも、ほんの数日の「寄り道」を純愛に仕立て上げているような気がして、なんだかバカらしいのです。不倫を美化するなっちゅうの。
 人間、ずっと一緒にいれば、嫌なことだって当然あるでしょう、飽きることだってありますよね。でもね、どうせ隠すんだったら、彼女は手紙なんか遺さずに、その秘密をお墓の中に持っていくべきだったと思います。それが、人間としての礼儀ってもんじゃないでしょうか。映画の中では子供は理解を示していましたが、現実に自分の親がそんな手紙を残して死んだら、嫌な気持ちになるか、痴呆が始まっていたのかと思うだけかと。
 ほんと、僕にとっては「夫がかわいそうに思えて、仕方がない映画」なんですよね「マディソン郡の橋」って。




2002年09月04日(水)
2002年9月4日。


ロイター通信の記事より。

【NTTドコモは、迷惑メール対策として、表題の最前部に「未承諾広告※」と記載されているメールを受信拒否にできるサービスを10月1日から始めると発表した。設定にかかるパケット通信料は無料。
 また、1月から提供していたドメイン指定受信サービスのドメイン指定件数も、9月24日から最大20件(従来は同10件)に拡大する。】

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 ああ、メールボックスにメールが来ただけで嬉しかった時代が懐かしい。
 この「未承認広告※」というメールを受信するたびに、「未承認なら、最初から送ってくるなよ!」と言ってやりたくなります。
 ホームページをやっていたりすると、なおさらスパムメールの数は増えてしまうわけで。
 ちなみに、この設定では、カギカッコがついていないと拒否できなかったり、「未承認 広告※」のように、スペースが空いていると、受信拒否できないとか。要するに、ちゃんと「未承認広告※」って書いているやつは、まだ良心的(?)なほうというわけで。
 はじめて郵便制度ができたときに、ハガキをもらった人。はじめて電話が通じたときに、電話で話した人。そして、はじめてパソコンをネットに接続したときに、もらったメール。
 どんなコミュニケーションツールも、最初はきっと便利なものだったんでしょうね。
 そのうち、どんどん鬱陶しいことが多くなってしまいます。ハガキはダイレクトメール、電話は宗教の勧誘、メールは「未承認広告※」。
ドコモになんとかしろ!といっても、なかなか難しいんでしょうね。
 しかし、逆にこれだけ迷惑メールが増えると、まともに読む人はほとんどいないんじゃないでしょうか。ほとんどの人がすぐにゴミ箱にスパムメールを放り込んでいるはずで。ダイレクトメールのように、スペースや資源をあまり無駄にしないだけ、マシなんでしょうか?
たくさんのメールのなかから、読みたいメールを探すのが大変。
 とはいえ、メールボックスに何も入ってないと、何か寂しい。
 メールマガジンもなんとなく下火になってきたような気がするし、ある意味、メールというのがごく普通のコミュニケーションツールになってきたのかもしれませんね。
 それにつれて「見たい時に見られるのがメリット」だったメールが、頻繁にチェックすることを要求されるようになりつつあるのは、なんだか厭になりますが。





2002年09月03日(火)
2002年9月3日。


日刊スポーツの記事より。

【126年前の曲がヒットチャートでなんと1位を獲得した。シンガー・ソングライター平井堅(30)が8月28日に発売したカバー童謡曲「大きな古時計」が、9日付の大手音楽誌「オリコン」のシングルチャートで初登場1位を記録したことが2日、明らかになった。1876年(明治9年)にアメリカで生まれた童謡で、日本には40年前の62年に初めて紹介された。カバーブームの今年の、究極のカバーヒット曲といえそうだ。】

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 平井堅さんの「大きな古時計」はじめて耳にしたときは、びっくりしました。どうしていまどきこんな古い歌をカバーしたんだろうって。アルバムかなんかに入っている曲だと思っていたのですが、シングルカットされて、ここまでヒットするとは。
 
 僕が小学生の頃の教科書にも「大きな古時計」は載ってました。でも、僕はちょっと苦手な歌だったなあ。いい曲だとは思うのだけれど、この歌の中には「死」の匂いがいっぱいつまっている気がして。おじいさんの人生を寓意的にあらわした古時計。ひとりの人間の生誕と時計の停止で語られる死。子供にとっては、あまりにも深く、その暗闇に落ち込んでしまいそうな曲。「チクタク、チクタク」という、ちょっと滑稽なような、それでいてせかされるような擬音語。人間の死に直接接する機会もない子供にとっては、こうしている間にも、僕の時計は「チクタク、チクタク」っていって、そのうち止まってしまうんだろうなあ、という恐怖感。
 平井さんが、この歌をカバーしたのは「昔から好きだった曲」だからだそうなのですが、死の静寂というのは、人間にとって魅力的な世界なのかもしれませんね。
 僕も、好きな歌ではないけれど、忘れられない曲ではあります。「死んでしまった」と言われるより「時計が動かなくなった」というほうが、かえってリアルに感じられる「死」のイメージ。まだ、当時のちょっと怖かった手触りは残っています。





2002年09月02日(月)
2002年9月2日。



スポーツニッポンの記事より抜粋。

【小室哲哉(43)率いるglobeに元X JAPANのYOSHIKI(36)が正式メンバーとして加入することが1日、緊急発表された。新生globeの4人がこの日夜、東京・台場で開催された野外コンサート「a―nation」に飛び入り出演しお披露目。11月にも新曲をリリースし、年内にも初の韓国公演を含む大々的なアジアツアーを計画している。

 小室とYOSHIKIは10年以上の親友。「期間限定でもいいから一緒にやらないか?と、ダメもとで口説いたらトントン拍子に進んだ」と小室。X解散から4年半以上経たYOSHIKIとは目指す音楽性が「近いところにある」と直感し誘ったという。
 プロデュースは小室がコンピューター操作など技術的な部分、YOSHIKIが作曲とボーカル面の監督など役割分担。】

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 なんと、元「X」のYOSHIKIがglobeに加入とは…このニュースを聞いて、僕はけっこう驚きました。そういえは、小室さんとYOSHIKIさんは、10年位前に「V2」というユニットを組まれてたことがあるんですよね。まさに2人の絶頂期でした。
 確かに「V2」の最大の弱点はボーカルでしたから、今回のメンバーなら、2人の技術力に加えて、KEIKOのボーカル、マークのラップとそれぞれ役割分担ができていいような気もします。
 しかし、今回の「新globe」のメンバーについては、正直、「船頭多くして、船丘に登る」ということわざを思い出します。それに、「プロデュースは小室がコンピューター操作など技術的な部分」って、それは、ミュージシャンじゃなくて、エンジニアの仕事ではないでしょうか。わざわざ小室氏がやらなくても。
 どんなものができてくるのか、興味はつきませんが、僕のイメージでは
「Departures」のバックで首を振りながらドラムを叩きまくっているYOSHIKIとか、「紅」の曲の最中に所在なさそうにしているマークの姿しか思い浮かびません。それはそれで見ものだとは思うけれど。
 なんとなく、「近いところにある」のは、2人の音楽性じゃなくて、2人の今の音楽界での立場なのではないか、という気もしますし。




2002年09月01日(日)
2002年9月1日。


宮崎駿監督のインタビュー集「風の帰る場所〜ナウシカから千尋までの軌跡」(ロッキング・オン)より抜粋。

【宮崎「自分が善良な人間だから善良な映画を作るんじゃないですよね。自分がくだらない人間だと思ってるから(笑)、善良な人間が出てくる映画を作りたいと思うんです。
インタビュアー「なるほど。」
 宮崎「やっぱり人間みんな同じだよって言うんじゃなくてね、その善良なこととかですね、それから、やっぱりこれはあっていいことだとか、優れている人がいるんじゃないかとか、自分の中じゃなくても、どっかにそういうものがあるんじゃないかと思う気持ちがなかったら、とても作品をつくれないわけですよね」】

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 宮崎作品は、性善説的なものに裏打ちされているものだと思われていることが多いようですが、このインタビューを聞いてみると、ご本人は必ずしもそういう意識はないようです。むしろ、絶望をしている中での希望を見出したいというスタンスなんでしょうか。
 宗教的なバックボーンに裏打ちされた小説やマンガの中には、読み手にとってはかえってあまりに理想的過ぎて、リアリティを感じえないものがけっこうあるような気がします。宮崎作品が、非現実的なものを描いていながら、理想主義に過剰に陥っていないのは、彼自身の感じている「絶望」がベースにあるのかもしれません。
 よく、オカマさんは本物の女性よりも女性らしい、って言うじゃないですか。ひょっとしたら、宮崎作品に「希望」の要素を僕らが感じることができるのは、「絶望から見上げた希望の像」であるからなのかもしれません。
 それにしても、表現を生業とするには、やっぱりあまり正直すぎてもいけないし、だからといって、あまりに斜に構えすぎてもいけないのかなあ、と思わされます。

 前に、寺山修司の本で「幸福とは、幸福をさがすことである」という言葉を読んだことがあります。絶望しがちな世界から「希望を求めること」が宮崎作品の「希望」の源なのかなあ。