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2002年04月30日(火)
2002年4月30日。

毎日新聞の記事より抜粋。

<保険金殺人>看護婦仲間4人が共謀し泥酔の夫を殺す 福岡県

 看護婦仲間4人が共謀して、うち一人の夫を殺し、生命保険金3000万円をだまし取ったとして、福岡県警は28日、同県久留米市野中町、元看護婦、吉田純子容疑者(42)らを殺人などの疑いで逮捕した。4人は泥酔した男性の体内に、チューブでウイスキーを流し込んだという。

 調べでは、4容疑者は共謀して99年3月27日午後4時半ごろ、石井容疑者の別居中の夫、会社員、久門剛さん(当時44)を北九州市小倉北区の家から大川市の石井容疑者の実家に呼び寄せ、酒を飲ませて眠らせた。その後、ボトル約1本分のウィスキーをチューブで体内に流し込み、翌28日、同市内の病院で呼吸障害で死亡させた疑い。病院は「飲み過ぎて倒れた」と聞き不審に思わなかったという。さらに4人は事故死として翌4月上旬、生命保険会社から死亡保険金約3000万円をだまし取った疑い。

〜〜〜〜〜〜〜
桐野夏生の「OUT」を彷彿とさせるこの事件。もちろん、あの小説では計画的、保険金目当てではありませんでしたから、こちらのほうが、より悪質であることはまちがいないですが。
相変わらず、メディアでは、「人の命を預かる看護職の人間が、その医学知識を使って!」という論調が目立っているようですが、正直、余計なお世話だ、という気がしなくもありません。
医者になるには、どうすればいいかご存知ですか?大学の医学部に入学して、卒業し、医師国家試験に合格すればいいのです。
看護師になるには?看護学校(専門学校、大学含む)に入学して卒業し、国家試験に合格すればいいのです。
それで、実はこれら医療職につくには、勉強さえある程度できて、実習についていてるくらいの体力、忍耐力(まあ、大変ではあるんですけどね)と他人と意思の疎通ができるくらいのコミュニケーション能力があればいいのです。表面上取り繕うことがふだんできれば、モラルの有無なんて無関係。
医療職は人の命を預かる仕事だから、人格者であってもらいたい、という気持ちはわかります。でも、食いっぱぐれのない専門職としてこの仕事を選んだ人、けっこうたくさんいると思うのです。
だから、医療関係者だからモラルが高いというのは、大間違い。
たぶん、その道徳心は医療職でない日本国民とたいして変わりないんじゃないでしょうか。責任はやたらと重いわけなので、仕事上での道徳心はみんなそれなりに持っているのだろうけど。
僕は、この4人の殺人集団には厳罰が与えられるべきだと考えています。
でも、看護師なのに…というのは、別にそんなこと関係なく、悪いことは悪い!
医者だろうが、看護職だろうが、宗教関係者だろうが、政治家だろうが、悪いやつは悪いことをするのです。ことさらに、看護師を強調することはないんじゃないかなあ。確かに、職業的な知識を利用した犯罪で、タチが悪いものなのですが…。
おかげで、全国で、患者さんに「あんたのダンナは保険金掛けてるの?」なんて聞かれる看護師さんがいっぱいいると思うと、それだけで腹立たしい話です。

蛇足:この事件の報道で、いかに看護「師」という言葉が人口に膾炙していないか、あらためてわかったような気がします。







2002年04月29日(月)
2002年4月29日。

日刊スポーツ「日曜日のヒーロー・アントニオ猪木編」より抜粋。

アントニオ猪木のインタビューの一節。
【「確かに絶体絶命だよね。『ダー!』で金もらって『糖尿病です!』で金もらって(笑い)。でも、落ち込んだりしている暇がないんだ。すぐ行動するから。まず立ち上がることしか考えてないから。」】

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アントニオ猪木ほど、波乱万丈というか、毀誉褒貶の激しい人生を送ってきた人は、そうそういないんじゃないでしょうか。僕が子供の頃(20年くらい前)は、押しも押されぬプロレス界の大スター。10年前にはスポーツ平和党から国会議員に当選し(「国会に卍固め」とかやってましたねえ)、イラクとの外交で名を馳せましたが、不正疑惑ですごいバッシングを浴びることとなり、忘れられた存在になりかけました。しかし、最近またカリスマとしてすごい人気になっています。
 アントニオ猪木、ほんとに不思議な人です。このインタビューでも、「金もらって」という、とっても即物的な表現。実は、こういう場で「金」という言葉をこれほどストレートに発する人ってあんまりいないんじゃないでしょうか?猪木が言うと厭味が無いような気がするんですよね。
確かに、「元気」も「病気」も売り物にしてしまう商魂の逞しさというか、開き直りの速さ、逆境に負けない力は、今、僕たちがもっとも必要としているものなのかもしれないなあ。これほど「欲」をさらけだして生きられるなんて、すごいことだ。それがみんなが憧れるところなのかもしれない。

ある高名なスポーツライターの方が、こんなことを言われていたそうです。
「いろんな有名スポーツ選手に会ってきたけれど、得体のしれない凄さというか、カリスマ性を感じた人が2人だけいる。ひとりは長嶋茂雄。もうひとりが、アントニオ猪木だ」と。

でも、猪木さん、糖尿病はあまりに血糖値が高すぎるときは、ムリな運動は危険です。猪木さんの場合は、なんとか偶然にうまくいったわけですが、あまりそれをみんなに薦めるのは、いかがなものかと。






2002年04月28日(日)
2002年4月28日。

報知新聞の記事より抜粋。

【早食い競争で中3死亡

 愛知県尾西市の同市立第一中学校(吉川優校長)の3年生男子生徒(14)が給食の時間にパンの早食い競争をしてのどに詰まらせ、死亡していたことが27日、分かった。一緒に競争した同級生は教諭に「テレビ番組をまねた」と話しており、同校は全生徒に危険な競争のまねをしないよう注意した。

<人気高い早食い>
 早食い競争死亡事故が起きた尾西市の中学校では、男子生徒が病院に運ばれた1月、生徒と教諭にアンケートを実施し、生徒853人のうち約6%にあたる51人が「早食い競争したことがある」と答えていた。】

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不幸な事故、としかいいようがありません。
でも、みんなやらなかったんでしょうか「早食い競争」。
少なくとも、生徒の6%(まあ、あまり女子はやらないかもしれませんから、12%と考えるのが妥当なところかな)ってことはないと思うんだけどなあ。少なくとも男子の大部分(100%近く)は、この手の早食い競争の経験があるのではないでしょうか?
僕の小学校時代や中学校時代は、昼休みの校庭の使用権とか、デザートのお代わりの権利を賭けて、日常的に早食い、牛乳の早飲み競争を行っていた記憶があります。それは、そのことが正しいとか間違っているとかいうんじゃなくって、単なる日常的な光景。
今回の事故で、「テレビを真似した」という発言により、「フードバトルクラブ」や「TVチャンピオン」が槍玉に挙げられているわけですが、これらの番組が、その大食い、早食いをエンターテイメントとして確立したからといって、その悪影響ばかりを取りざたするのはいかがなものか。
確かに、ああいった番組のために、やり方がより過激になってしまっているのかもしれませんが。
しかし、「救命病棟24時」を見て医者になった人が過労死したり、高校球児が練習のし過ぎで命を落としても、「それはテレビの悪影響だ」といわれないということを考えると、まだまだ早食いは文化として認知されてないってことなんでしょうね。まあ、人類がみんなフードファイターだったら、すぐ滅亡してしまいそうだし。

ああ、なんだか教室で牛乳の早飲み競争をしている子供たちに、先生が「そんなものすごく危険なこと、しちゃいけないでしょ!!」と金切り声を上げている姿が、早くも眼に浮かんでくるようです。

今回の事故に関しては、そんな理由で子供を亡くしてしまった親御さんの気持ちを考えると、いたたまれない気がするのですが。

むしろ、僕が思うのは、そういう窒息時の救急処置をあらかじめ指導しておくという対策のほうが、これからは有益なのではないでしょうか。
昨今の学校は、ほんとうに何が起こるかわかりませんし。



2002年04月27日(土)
2002年4月27日。

書店で見つけた、星座占いの本の帯の言葉。

【山羊座は、最後に笑う実力者。】

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僕はかれこれ、30年ほど山羊座をやっております。またこれが、地味さにかけては、右に出るものがいないとされる星座でして。「堅実・縁の下の力持ち」という言葉をいったい何度聞かされてきたことでしょうか。
それに、マンガの星座モノでも、獅子座や乙女座が主役級のキャラであるのに比べて(「聖闘士星矢」では、獅子座がアイオリア、乙女座がシャカ)地味系もしくは登場しないことが最多なんじゃないでしょうか。ちなみに、山羊座はシュラという人なんですけど、知りませんよね…僕も最近文庫版を読むまで、完璧に忘れていたキャラでした。
地味地味と虐待され続けているわが星座。ほんとに、いつか笑えるんでしょうか?

最後に笑う実力者かあ…最後って、まさか死ぬ五秒前とか、そんなんじゃないよなあ…などと考え込んだりする、それもまた山羊座チック。

まあ、人間の運命が、12(or13)通りしかないっていうのも、ちょっと信じがたい話ではあるのですが。



2002年04月26日(金)
2002年4月26日。

阿川佐和子「おいしいおしゃべり」(幻冬舎文庫)より抜粋。

【ニューヨークにはたいそうすぐれた透視能力者がいるという噂を耳にしたこともある。
「彼はね、写真を見ただけで、その人の考えていることや、健康状態なんかも言い当てるの。ユリ・ゲラーどころじゃないのよ。私が日本にいる両親の写真を見せたら、『あなたのお母さんは病気だ。お父さんは車を欲しがっている』って言うの。で、すぐに実家に電話をかけたら母が、『あなたが心配すると思ったから隠していたけど、今、病院通いをしてるの。父さんはたしかに車のカタログを集めているわ』と言うんで、ぞっとしちゃった」
こんな話を立て続けに聞いていたせいかもしれない。アメリカの占いは、日本よりずっと具体的でおもしろそうだと期待していた。】

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 おお、なんてすばらしい透視能力!って、怪しさ大爆発なのですが。筆者の阿川さんは現在40代後半。このエピソードを耳にされたときは、おそらく30代後半くらいではなかったかと思います。
で、30代後半の子供を持つ親の平均的な年齢といえば、60台半ばくらいでしょうか。まあ、写真を見ればわかるんでしょうけど。
人間60代くらいになるとたいがいどこかしら悪いところは出てきますし、(この文章の中では、病院通いをしている理由はわかりませんが)ひょっとしたら、写真で顔色が悪かったのかもしれません。
お父さんのほうも、世の男は、新車を買った直後でもないかぎり、次の車は何にしようかなあ、と考えている人が多いですから、いかがなものか。実際にディーラーと話をしている段階じゃなくて、カタログ集めてるレベルだったらなおさらかと。
 というわけで、別に「透視」なんて言えるもんじゃないと思うんですけどねえ。
それでよかったら、僕にだって、できます。
(20代後半の女性に対して)「あなたには今、気になる人がいますね!」
「えっ?そんなことないですけど…」
「自分では意識してなくても、きっと潜在意識下にいるはずです!!」
「あっ、そ、そういえば…」

などといいつつ、大学一年のときにある喫茶店で見せてもらった「超能力」だけは、いまだに「ほんもの?」という気もしてるんですが。
だって、その超能力の人、絶対に「サクラ」じゃない僕の先輩のお父さんの名前を初対面で当てちまったんだもんなあ。



2002年04月25日(木)
2002年4月25日。

岡崎昂裕著「失踪する人々」(宝島社新書)より抜粋。

(著者がまだ新人探偵だった頃の話。失踪した「無趣味で、賭け事やゲームは大嫌い、酒はたしなむ程度」の捜索対象者の調査にあたって)

【なんと、先輩調査員は、依頼者が最も否定的な見解を示していた、パチンコ店の調査から開始するというのだ。
「家出したばかりの頃は、時間を持て余すものなんだよ。仕事探す気にもならなくて、放心状態なんだな。そんなとき、彼らは何も考えなくていいような場所を選ぶ。それまでまったくやったことのないような人間でも、パチンコをしに行くのさ。日本人の娯楽の代表は、パチンコなんだから」
新米探偵だった私は、彼の深い洞察力に共感できなかった。いくら暇でも、パチンコ嫌いがパチンコをするだろうか。

 だが、その後の経験で、いかにパチンコ店での発見率が高いか、私は思い知ることになる。その日が、第一歩だった。】

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 もし自分が失踪するとしたら、まずどこに行きますか?駆け落ちとかの目的があるわけじゃなくて、ただただ、現実から逃れたいための失踪。こういうときって、例えば「北へ行ってください…」とか言って、オホーツクの流氷を眺めたりしそうなイメージがあるのですが、現実は違うようです。
確かに、急に時間ができてしまった場合、日常では、どこか旅行に行きたいとか思っていても、実際に飛行機にとび乗ってしまうというのは難しい。手続きがけっこうめんどくさいし。電車ならアリかな。
結局のところ、突然の失踪者は日常生活に接している、ちょっとした異空間に行くことになってしまうようです。人にまぎれられて、あまりものを考えずにすむところ。普段パチンコばっかりやってるような人は、こういうときには用心して行かないようにするのかもしれませんけど。
暇を持て余してしまった人間の行動パターンというのは、ある程度決まっているみたい。もし、失踪をお考えの方がいらっしゃったら、パチンコ店には、行かれないほうがいいかと思われます。

しかし、逆の考え方をすれば、僕たちはパチンコ屋に「プチ失踪」をしに行っているといえなくもないですね。



2002年04月24日(水)
2002年4月24日。

ZDNetの記事より抜粋。

【ネット人口,中国が日本を抜いて世界第2位に

Nielsen//NetRatingsが22日に発表した調査報告によると,家庭からインターネットにアクセスする人の数で,中国は今や,米国に次ぐ世界第2位の座にあるという。アジア太平洋地域では日本を抜いて首位だ。Nielsenの報告によると,今年第1四半期現在のインターネット人口は,世界第1位の米国が1億6600万人,第2位の中国が5660万人,第3位の日本が5130万人。その後をドイツと英国が追っている。中国のインターネット普及率はまだ5%程度。普及率が25%に拡大した場合,2億5600万の中国人がインターネットにアクセスすることになる。Nielsenは,中国のインターネット人口は月々5〜6%の割合で増えているという同国政府の報告を引き合いに出し,「普及率は,ものの2〜3年で25%に至るだろう」としている。】

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この記事、「日本がインターネット人口で世界3位に転落」という見出しでYahooに出ていました。僕が思ったのは、そうか、日本は2位だったのか…で、どこに抜かれたんだろう、イギリス、ドイツ、いや、ネットのインフラが進みまくっている韓国ということもありうるな…というようなことだったんですが、実は、中国のネット人口が急速に増えてきてるんですね。
確かに、あれだけ広くて人口の多い国だから、実際のネット人口では、あっという間に上位になっちゃうんでしょうね。
しかし、そのことよりも、日本が2番目、今でも世界で3番目のネット人口を有する国だということ、僕ははじめて知りました。印象としては、アメリカは別格としても、欧州などは、日本よりももっとネット人口が多いのかと思ってた。まあ、各国の人口という母集団の違いといえば、それまでなのですが。とにかく「日本は遅れている!」という声ばかりを耳にしてきたものですから。
電話料金の高さやネットインフラの整備の遅れなどを抱えながらも、いつのまにかこんなにネットワーク化されている日本人は、けっこうすごいのかもしれないと、逆に感動してしまいました。
しかし、アメリカはともかくとして、明らかにコンピューター処理には不向きな「漢字」という言語を持つ東洋の2つの国が、ネット人口の上位を占めているというのは、まさに東洋の神秘なのかもしれません。
だって、「変換」しなくていいんだよ、英語圏の人たちは。







2002年04月23日(火)
2002年4月23日。

阿川佐和子著「おいしいおしゃべり」(幻冬舎文庫)より抜粋。

【大人と呼ばれるようになって、かれこれ20年近くもたとうとしているが、いまだにひとりでレストランに入ることができない。レストランどころか、喫茶店に入るのすら躊躇する。】

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 外食する、映画を観る、買い物をする。どこまでひとりでできますか?僕は、外食はラーメン屋やファーストフードは大丈夫ですが、ファミレスはひとりでは入れないなあ。居酒屋は、何度か行ったことはありますが話し相手がいないと呑むピッチがやたらと速くなって危険。映画は、ひとりで観にいったことは、2回しかない。買い物は、本屋とかCD屋は平気ですが、洋服を買いに行くとなると、よっぽど切羽詰ってなければ同行者が欲しい。
 男性の場合、洒落たレストランはともかくとして、まあ食べ物屋はあんまり問題なく、映画や買い物はひとりじゃちょっと…というパターンが多いようです。
 一方、女性の場合には、名画座にひとりで行ったり、服選びはひとりのほうが集中できるという意見をよく耳にする一方、食べ物屋は「ちょっと怖くて入りにくい」ところがあるようです。
ただ、これは人口20万人くらいの地方都市の状況であって、都会には違うライフスタイルがあると推察されますが。
 なんでこんなことを書いているかというと、僕の後輩(女性)が外での仕事の帰りにあまりにお腹が空いていて、近くのラーメン屋で「ラーメン・チャーハンセット」という極量の昼食をカウンターでひとりで食べたという話を聞いたからなのです。
 男は…女は…というより、個性と生活環境の問題なのかもしれませんね。
僕はひとりでラーメン・チャーハンを食べに行ける人のほうが、どちらかというと好きですけど。
だいたい、ラーメン屋では、すごく高い服を店員に薦められることもないし、試着もしなくていいし、なによりも、まず話しかけられない。
ああそうか、その「話しかけられない雰囲気」が苦手な人もいるのかな。

「ひとりでカラオケに行ける人」これだけは、どう考えても理解不能なのですが。





2002年04月22日(月)
2002年4月22日。

NHKニュースのサイトより

【“延命治療続行の意思なし”
川崎市の病院で医師が患者に筋し緩剤を投与し死亡させた問題で、亡くなる数日前にも呼吸を助ける管を抜きすぐに戻していたことがわかり、病院では死亡時には延命治療を続ける意思がなかったことが強くうかがわれるとしています。】

〜〜〜〜〜〜〜
まず最初に書いておきます。僕はこの「安楽死事件」について、詳しい調査結果が出るまでは、状況の判断はできないものと考えています。
さて、上記の報道内容。これは、医学的常識からすれば、あまりに偏見としか考えようがないのです。というのは、呼吸状態が悪くなって、人工呼吸をされている患者さんの呼吸状態が改善してきた場合、医者はまず、抜管(ばっかん)といって、呼吸器をはずすことを試みます。もちろん、状態を慎重に判断した上でのことですが。で、なぜその必要があるかというと、人工呼吸があまりに長引くと、自力で呼吸をするために必要な筋肉が弱ってしまって、どんどん呼吸器が外せなくなっていくためです。
 亡くなる数日前の時点では、この患者さんは自発呼吸も出て、呼吸状態は安定していたそうですから、たぶんこの主治医は、呼吸器を外して自発呼吸に戻そうとしたのだと思うのです。それで、気道チューブを抜いてみたけれど、予想ほど呼吸能力が改善していなくて呼吸困難におちいったので、仕方なく気道チューブを入れなおし、人工呼吸に戻した、と。
 これは、呼吸器疾患の患者さんの処置としては至極まっとうなものだと僕は思うのですが(気道チューブを抜く時期の判断についてはわからないいけれど)。人工呼吸が長引くほど、快復の可能性は低くなるわけですから。

 筋弛緩剤を注入したことについては、家族の希望がないという状況では、主治医は責められて当然だと思います。でも、この数日前の時点で管を抜くことを試みたというのを「死亡時には延命治療を続ける意思がなかったことが強くうかがわれる」なんて報道をされては、手術のときに「お腹を切り刻んだ!」とかいわれるのと同レベル。治療のためのやむを得ないリスクというのもあるのです。
これは、あまりに思い込みに満ちた報道と思わずにはいられません。だって、こうしているあいだにも、全国の病院では、呼吸を助ける管を治療のために抜き、結果としてそれがうまくいかなくて管を入れなおしている患者さんがたくさんいるんだから。
NHKさん、もうちょっと勉強してください。
なんでもかんでも悪意に解釈するのが、メディアの公平な視点なんでしょうか?「事実」を「客観的に」報道するのが使命なんじゃないんですか?
この「事件」の最大の問題点は、主治医と家族とのコミュニケーション不足、主治医の一人相撲にあると今の時点では僕は思っています。
あとは、医者の全能感、あるいは無力感。





2002年04月21日(日)
2002年4月21日。

伊集院静・西原理恵子共著「アホー鳥が行く」(双葉社)より抜粋。

【狂気とは何ぞえ?と問うと、詰まるところは、私たちが肯定したり、それが当たり前と思っていることと違ったものでしかない。違える人は当然のごとくあり、しかも実に堂々とあらゆる行為を実践できる人たちは今もちゃんといるのである。
 もし読者の中で、何か新しいものをこしらえようとする人がいたら、自分の中にある枠の中に組み入れられるものを嫌悪したり、嘔吐したりする個性を大切にすることだと思う。
 ギャンブルが当たらない、酒が美味くない、女が寄ってこない、と思っている人は、自分のしていることが、正直すぎると考えてみるのも、打開策のひとつかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜
ギャンブルが当たらず、酒が美味しくなく、女性が寄ってこない僕にとっては、なるほどなあ、と考えさせられる一文。やってることが正直すぎる、ってことは、確かにあるのかもしれない。世の中、どうしてあんないいかげんなヤツが…と思わされることも多い。
万馬券っていうのは、人が買わない馬券を買わないと、当てられないし。
しかし、枠なんて無視してやろう、とか正直すぎるのをやめよう、などと仮に思ったとしても、意識的にそれをやろうとしている時点で、もうクリエイターとしては「負け組」なのかもしれません。
「枠組み」を最初から意識しないで生きている人たちにはやっぱりかなわないような気もします。彼らには彼らの悩みもあるんでしょうけど。



2002年04月20日(土)
2002年4月20日。

読売新聞の記事より抜粋。

【川崎市の病院で気管支ぜんそく患者を「安楽死」

 川崎市川崎区桜本の川崎協同病院(堀内静夫院長)で1998年、内科の女性医師が気管支ぜんそくから意識不明になった患者の気管内チューブを取り外した後、筋弛緩(しかん)剤を投与、患者が数分後に死亡していたことが19日、病院の内部調査でわかった。

 病院側の発表によると、患者は50歳代の男性。1998年11月初旬、友人の車で帰宅途中、気管支ぜんそくの重い発作を起こし、同病院に運ばれた。到着した時点で心肺停止状態だった。いったん蘇生(そせい)したものの、意識不明の状態が続き、約2週間後、内科の担当医が回復の見込みがないと判断し、酸素を取り込むためのチューブを抜いた。患者は心停止せず苦しみだしたため、医師が鎮痛剤を投与したが収まらず、筋弛緩剤を注射し、患者は数分後に死亡したという。

 堀内院長は会見で「医師はこれ以上の延命措置は忍びないと思って、死亡する2日前に『チューブを外しますか』と家族に尋ねた」と明らかにしたものの、家族が同意したかどうかは「医師の守秘義務があるので言えない」と述べた。

 国内では安楽死を医療行為と認めていないが、1991年に東海大学医学部付属病院(神奈川県伊勢原市)で起きた安楽死事件の地裁判決で、「患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている」など積極的安楽死が許されるための4要件が示されている。堀内院長は「患者の意思が確認できていないなど、今回のケースは積極的安楽死が許されるためのいずれの要件も満たしていない」としている。】

〜〜〜〜〜〜〜
 「安楽死」は赦される行為なのか?倫理上の問題はまだ結論が出ていないようですが、世界的には認められている国も多くなってきていますし、日本でも上の記事にあるように条件付で「黙認」という方針がうちだされてきているようです。
 今回の「安楽死」事件においても、実際に問題となっているのは「安楽死」の是非ではなく、「本人が同意できる状況ではなく、家族に対する説明が不十分であった」ということと、「筋弛緩剤を注射して、積極的に死に至らしめた」ことなのです。
 しかし、このときの状況を考えると、植物状態になってしまった患者さん、看病に疲れ果てた家族。たぶん、医師も消耗しきっていたんだと思います。2週間の集中治療で、なおかつ快復の見込みが薄いという状況では。
この状況が長く続けば、家族の負担も相当なものになりそうですし。
それで、「安楽死」を家族に相談したのでしょう(家族側は、気道チューブを抜く=死という認識を持っていなかったと報道されているようですが)。
で、人工呼吸器を止めてみたら、まだ自発呼吸があって、苦しみ始め、きっとこの医師もあわてたんでしょうね…鎮静剤をうち、効かないということで筋弛緩剤をうった。で、患者さんは亡くなってしまった。
さて、これは「殺人」であり、「殺人罪」が適用されるのかどうか。
筋弛緩薬をうたなかったら?そのまま、植物状態が続いていたら?

うまく結論が出せないのですが、「安楽死」で安楽になるのは、本人よりも周りの人々なのかもしれないなあ、とも思います。






2002年04月19日(金)
2002年4月19日。

時事通信の記事より。

【「監視の役割果たせなくなる」=テレビキャスター、メディア規制3法案に反対声明
 政府が進めている「個人情報保護法案」などメディア規制3法案に反対する民放各局のメーンキャスターが18日、東京都千代田区の参院議員会館で記者会見した。冒頭、フジテレビの安藤優子キャスターが代表して、「国民の『知る権利』に奉仕する『言論・報道の自由』が不当に制限され、政治や行政の在り方を監視するマスメディアの役割が果たせなくなる」などとする声明を読み上げた。 

ーーーーーーーーーーーーーー
「メディア規制3法案とは」

以下、毎日新聞「ニュースの言葉」より引用させていただきます。

 名前や住所、電話番号などの情報を保護するため、その取り扱(あつか)い上のルールを定めた法律。官庁などの公的機関と企業(きぎょう)、個人など民間の双方(そうほう)に努力を求めた「基本原則」と、大きな企業や団体など「個人情報取扱事業者」を対象にした「義務規定」から成る。IT時代の到来(とうらい)と、国民を11ケタの番号で一元管理する住民基本台帳ネットワークシステムが8月に導入されるのを前につくられた。
 基本原則では、個人情報を本人に無断で利用したり、集めることを禁止し、本人からの要請(ようせい)があれば、利用をやめることなど5項目(こうもく)を規定している。報道、学問、芸術などの分野は、義務規定の適用は除外(じょがい)されるものの、基本原則は適用される。義務規定に違反(いはん)した場合は、6カ月以下の懲役(ちょうえき)か30万円以下の罰金。

〜〜〜〜〜〜〜
 ニュース番組では、「国民の知る権利」に対する侵害だ!とか「ストーカー防止法と内容が類似しているとは何事か!という反対のシュプレヒコールのオンパレード。
 この法案の「危険性」については、国家による情報統制に利用できるという議論がなされていますし、官僚や政治家の汚職についても「基本原則」にもとづいて、情報公開を抑制される可能性がある、ということもいわれています。
 でも、僕はあえて問いたい。ほんとうに、メディアの人たちは、国民の知る権利のために働いているんですか?と。
 ここで会見をしたキャスターの人たちは違うのかもしれませんが、マスメディアのなかには、「報道の自由」とか「国民のニーズ」という錦の御旗をかかげて、事件の被害者の家にズカズカ上がりこんできたり、恫喝的な「取材」をするひとが、たくさんいるのです。
どうして、メディアを規制する必要があるのか?どうしてこの法案は「ストーカー防止法」に内容が似てしまうのか、考えてみていただきたい。
「ストーカーじみた取材方法」や過剰なプライバシーへの悪質な侵害があるから、じゃないのか。
やってることが似てるなら、規制する内容が似ているのは当然です。
「国民の知る権利に奉仕」?ほんとは、スクープをものにして有名になりたいとか、給料をもらうためとか、そういう利己的な理由でマスメディアに属している人は、けっこういるんじゃないでしょうか。

いちばんの問題は、そういうストーカー的な記事を喜ぶ国民にあるのかもしれませんが、「自浄作用にまかせてくれ」などと言われても、やっぱり、マスコミの人は自分たちは特権階級だと思ってるんだろうなあ、というようにしか感じられません。だって、スポンサーがついている時点で真の中立なんてありえないことは、誰にだってわかることですから。
自浄どころか、濁っていく一方だと感じているのは、僕だけではないはず。

僕は、「メディア規制法」には反対です。ものが自由に言えなくなる世の中は、やっぱり風通しが悪くなる。でも、どうしてこんな法案が出てきて、マスコミの反対論と国民感情の間に温度差があるのかということについて、メディアは自省しなければならないでしょう。

もちろん、彼らも職業として、自分たちが食べていくためにやっているということは承知しています。報道の必要性もわかります。
だからといって、過剰な自己顕示欲や特権意識まで許容すべきだというのは、筋違いだと思いませんか?








2002年04月18日(木)
2002年4月18日。

Asahi.comの記事より抜粋。

【沖縄やんばるの野生ネコ、安楽死の方針

 沖縄本島北部(やんばる)に生息する希少な動物が、野生化したネコ(野ネコ)に食べられている問題で、沖縄県は、わなにかかった野ネコに引き取り手がいない場合、安楽死させることを決めた。早ければ5月中旬から実施する。県はこれまで、わなにかかったネコをその場で放してきたが、最近になって国の特別天然記念物ノグチゲラも「エサ」になっていたことが判明。「一刻も早い対応が必要」と決断した。
 やんばるの野ネコについては、環境省が今年1月中旬から2カ月間、捕獲・駆除を実施した。16匹を捕えたが、いずれも飼い主や引き取り手が見つかっている。
 県が昨春、野ネコを解剖して食性を調べようとした際は、愛護団体からの抗議が殺到。県は解剖を断念した。
 県自然保護課は「やんばるからの野ネコの排除はやむを得ず、捕獲した野ネコを行政が飼い続けることもできない。5月の連休中は、ネコやイヌを捨てる人が増えるが、最後まで責任を持ってペットを飼育してほしい」と話している。】

〜〜〜〜〜〜〜
 なんともいたたまれない話。飼っていたネコを飼えなくなったといっては捨て、野生化すれば希少な動物を食べるといっては「安楽死」。ネコは、おなかがすいてれば、特別天然記念物も希少動物も何も関係なく食べるって、そりゃ。
解剖は残酷っていう、愛護団体の気持ちもわからなくはないけれど、それではあなたたちが飼うんですか?といわれると「それは行政の責任でしょ!」ということになってしまう。
常に善意の引き取り手のひとがいてくれればいいのですが…
 そんならもう、自然のなすがままにするというのも、ひとつの見解だとは思います。生態系は壊れまくるでしょうけど。天然記念物だから、珍しいから保護するというのが、果たして正しいことなのか。
 動物を人間が捨てなくなるか、せめて事情があって飼えない、引き取り手もないときには飼い主の責任で「殺害」を選択するか、というようにしていかないとこの問題は解決していかないと思います。
「安楽死」というのが、ほんとうに「安楽」なものなのかどうかは、生きている人間にはわからないことなんですけどね。
それにしても、「連休中はペットを捨てるひとが増える」というのは、いかなる理由からなんでしょうか?まさか、旅行に行くのに邪魔になるから、ですか?
駆除されるべきなのは、人間のほうなのかもしれません。








2002年04月17日(水)
2002年4月17日。

中島らも・わかぎえふ共著「リリパット・アーミー〜しこみ篇」(角川文庫)より抜粋。

【よく「弟子にしてください」とか小説の書き方を教えてください」といったお手紙をいただく。こうした手紙は、悪いけれどその時点でボツになる。なぜなら、こうした人たちはどこかぼんやりとした幻想を抱いていて、「どちらかというと小説家になりたいなあ」「エッセイストになれたらいいなあ」くらいのことしか考えていないからである。
 ほんとうにできる人は、四の五の言わずに、すでに書いたものをどかっと持ってくる。「これのどこが悪いのか教えてください」
こうなると、僕も重い腰を上げざるを得ないだろう。おそれ多いことだが、玉稿に朱筆を入れさせていただく。
 ところが、今までにそういう人に会ったことは一度もない。15年間物を書く仕事をしていて、一度もだ。】

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たぶん、中島さんのところに原稿を送りつけてきた人、実際はいるんじゃないかなあと思うのですが。まあ、それはこの文章自体にも、エッセイとしての脚色の部分もあるとして。
要するに。「考えるのではない、感じるのだ」ということなのでしょうか。
ガイドブックとか、ハウツー本に頼る程度の情熱では、実際に作家としてはやっていけないよ、と。書かないといけない、というような一種の脅迫観念じみたものが必要なのかもしれません。
まあ、この文を読んで、そうかあ、と思うレベルでは、ダメなんだろうなあ、きっと。
 書きさえすればいいというものではないだろうけど、まず、書かないことにははじまらない。これは、作家に限ったことではないですよね。そういえば、原田宗典さんも同様なことを書かれていた記憶があります。

現実にはエッセイなどとくに「何が書いてあるのか」よりも、「誰が書いたのか」のほうが重視される時代のようですが。



2002年04月16日(火)
2002年4月16日。

ZDNetの記事より引用させていただきました。

【インターネットの掲示板に書き込んだ発言を無断で書籍にまとめたのは著作権の侵害だとして,書き込んだユーザーが,著者と出版社に書籍の出版・販売差し止めと賠償などを求めていた訴訟で,東京地裁は4月15日,掲示板への仮名投稿も著作物に当たると認定,差し止め請求を認めた。

訴訟は,掲示板「サロン・ドゥ・ホテル ジャンキーズ」を運営するホテルジャーナリスト・村瀬千文氏が,2001年6月に光文社から出版した「光文社知恵の森文庫 世界極上ホテル術」が発端。これに対し書き込んだユーザーが「サイトには発言を転載する旨の断り書きは一切なかった」と相次いで抗議。2001年10月,ユーザー11人が「掲示板投稿の無断引用は投稿者の著作権を侵害している」として村瀬氏と村瀬氏の所属事務所,版元の光文社に出版・販売差し止めと約250万円の支払いを求める訴訟を起こした。

訴訟では,ネット掲示板での匿名発言に著作権を認めるべきかどうかが争点になった。村瀬氏側は「投稿は創作性が乏しく,著作権を主張できるものではない」「原告らが該当発言の投稿者なのか立証できない」と主張した。

これに対し東京地裁は「投稿の多くは思想や感情を創作的に表現しており,匿名のネット投稿でも著作物性を否定しない」と認定。その上で「光文社はサイト運営者を通じて出版許諾の確認ができたはずだった」として著作権侵害を認め,差し止めと著作権使用料約120万円の支払いを命じた。

掲示板での発言をまとめた書籍の出版が相次ぐ中,匿名発言にも著作権を認めたことで,掲示板発言の2次利用のあり方に影響を与えそうだ。】

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ネット上の掲示板は、誰のものか?
この判決、いろんなことを考えさせられます。
最初の印象としては、掲示板に書くということは、不特定多数の人々に無料で読まれることを前提としているはずなんだから、著作権といわれてもねえ。という感じの印象でした。言い方は悪いけれど、本になって、お金になりそうだということで、噛み付いてきたんじゃないか、と。

最近、掲示板での発言の書籍への無断引用(商用利用)が問題になっているケースが、かなりたくさんあるようです。それでは、例えば有料サイトやバナー広告で収入を得ている掲示板メインのサイト(「2ちゃんねる」は赤字らしいですけど…)に対し、掲示板の書き込みをした人が「著作権の侵害だ!」と言い始めたら、どうなることかなどと考えもしてみます。
もちろん「発言内容の著作権はは管理者に帰属します」という旨を明記しておけばいいのかもしれませんが。

ただ、今回のケースの場合に限定して言えば、被告の村瀬氏サイドの「投稿は創作性が乏しく,著作権を主張できるものではない」「原告らが該当発言の投稿者なのか立証できない」というような、情報(このサイトの書き込みにかんしては、有益な『情報性』があると思います)を提供してくれた人をバカにしたような考え方が、さらに火に油を注ぐことになっていったようです。

ちなみに、原告側は、この訴訟で全然儲かってはないと思われます。
だって、1人10万ちょっとの著作権使用料なんて、裁判の費用とかかった時間を考えれば大赤字なわけで。しかしこれは、いくら「ネタについての元手」がかからなかったとしても、村瀬氏側もたぶん大赤字。

匿名だからといって、そこにはちゃんと書き込んだ人がいるということは、お互いに意識しないといけないこと。
まあ、「創作性が乏しく、著作権を主張できるものではない」というような内容ならわざわざ出版するなよ、というような気もするのですが。
もちろん、そういった玉石混合の掲示板の内容をまとめて、読みやすい形にしていくというのも、かなり大変な作業ではあるのですが。

ネット上とはいえ、人と人との信頼関係が大事ということには、かわりはないようです。

掲示板は、結局、誰のものなんだろう…





2002年04月15日(月)
2002年4月15日。

アンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」(角川文庫)より。

【日記:人の生活の中で、自分自身について顔赤らめずに物語ることのできる部分を毎日記録したもの。】

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ビアスは1842年生まれのアメリカのジャーナリスト・小説家。没年は1914年くらいといわれています。
「悪魔の辞典」懐かしいです。もう立派な古典となっているこの本ですが、学校の図書館とかで「何だこれは?」と思いながら目を通した人も多いはず。
さて、この「日記」という項目。要するに、「日記には自分にとって恥ずかしいことは書かない」ということと、「他人に見られることを意識していない日記はない」ということを述べているわけです。今、WEB上には、「恥ずかしいこと」を書いた日記がたくさん存在してるわけですが、それは果たして、日記というものの性質が変貌してしまったためなのか、一般的に恥ずかしいと思われる内容の幅が極端に狭くなってしまっかためなのか、書き手の羞恥心が低下してしまったためなのか。
「日記には書けなかった部分」は、今でもやっぱりどの日記にもあるとは思うのですが、いかがなものでしょう。



2002年04月14日(日)
2002年4月14日。

読売新聞の記事から抜粋。

【不況余波?「予備自衛官補」採用試験に若者殺到

 自衛隊未経験者から公募する「予備自衛官補」の採用試験が13日から全国で始まった。今年度から初めて実施したが、不況で就職難が続いていることもあり、志願者が採用枠の6倍を超える人気ぶりだ。志願した約1600人(うち女性約170人)の顔ぶれは、社会人(42%)、大学生(23%)のほか、無職(22%)や、フリーター(4%)の若者も。

 採用後は仕事などの合間に、任期の3年以内に戦闘などの教育訓練を50日間受け、計39万5000円の手当てが支給される。訓練修了後は従来退職者から採用している「予備自衛官」になることができ、希望すれば災害派遣活動にも携われる。定員割れの予備自衛官を安定的に確保する狙いもあるという。

 この日、東京・新宿区の防衛庁で受験した江戸川区の久野正興さん(31)は、郵便局の非常勤職員。不景気で正社員の職がなかなか見つからないといい、「災害派遣や国連平和維持活動(PKO)に行ってみたい」と希望した。また、大田区のフリーター、松本恵里子さん(22)は、「全然違う世界を見てみたい。強くなりたい、人の役に立ちたいという思いもあって、軽い気持ちで来た」と話していた。】

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「予備自衛官補」って、なんかもう、補欠の補欠という感じですね。
字面から受ける印象からすると。
しかし、採用枠の6倍の応募者があったそうですが、3年で50日の戦闘などの(たぶん厳しい)教育訓練があるという条件で、月に約一万円の手当てが支給されるとはいっても、実際に残れる人がどのくらいいることか。
しかし、「不景気だからこんなに人が集まった」とか「軽い気持ちで来た」というような報道のされかたをしていて、インタビューも「軽い気持ちで」っていうのを強調するような論調になっているようですが、本来「軽い気持ちで」応募してもらうのが趣旨の募集なわけですから、それはそれでいいのではないかと。
ただ、50日間の訓練で、果たしていきなり現実の災害救助の現場でうまくやれるのかどうか?それはちょっと心配です。
いや、バイトですから、なんていいわけをされても、困っちゃうしなあ。






2002年04月13日(土)
2002年4月13日。

日刊スポーツのWEBサイトの「ダイエー寺原日記」より抜粋。 

【今日(11日)は、すいませんという言葉しかありません。(3月のオープン戦期間中に未成年ながらアルコール飲酒したことが分かり)球団を通じてコメントさせて頂きました。

 今回のことにつきましては、お騒がせして本当に申し訳ありませんでした。未成年という自覚を忘れたわけではないですが、社会人という実感からついついお酒を飲んでしまいました。軽率だったと反省しています。】

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野球界期待の大物ルーキー寺原隼人投手が、オープン戦の遠征中に飲酒をしていたという報道が写真週刊誌に掲載され、その事実は、数多くの野球ファンに深い衝撃と悲しみを与えたのでした…

えっ?与えてない?
いや、実感としては、別に目くじら立てるようなことではないんじゃないの、そんなの。と思うのですが。僕は背徳的な人間なんでしょうか。
たぶん、この記事を目にした人たちの大部分が、「まったく調子に乗ってるよなあ」というくらいの感想は抱くかもしれませんが、少なくとも18歳の野球選手が「飲酒をした」ということについては、「まあ、有名人は辛いわな」という程度の感慨しか抱かないと思うのですが。
その証拠に、「法律違反」をしているはずなのに、マスコミへの「反省文」の提出レベルの罰しか受けてないわけですから。
別に、ここで寺原投手に「未成年の飲酒なんて、言語道断!」とやるつもりは毛頭ないのです。彼は18歳ですが自分でお金を稼いでいる社会人であり、税金だって、払っているわけですから。むしろ、20歳過ぎた成年が親の金で酒飲むことのほうが、よっぽど犯罪的だと思いますよ。僕も呑んでましたが。
実際、今の大学生なんて「未成年だから飲まない」なんて人、激レアものじゃないんでしょうか。成人式に「これを機に禁酒します!」なんて人もいるくらいですし。
僕としては、18歳以上は飲酒・喫煙OK、選挙権も18歳から、でいいと思うのですが。そのほうが現実に即しているんじゃないかなあ。
未成年、という概念も、見直しの時期がきていると思います。
そのかわり、あたりまえのことですが「責任」もしっかり持たせるべきでしょう。少年法なんて、今の世の中では、ナンセンスの極みですし。

さんざんいわれていることではありますが、「成人」の時期って、そろそろ変えてもいいんじゃないかと思いませんか?
だって、実際問題として、今20歳になって初めてできることは、選挙で投票できることくらいなんだからさ(もちろんそれは、大事なことなんですけどね)。



2002年04月12日(金)
2002年4月12日。

「空想科学読本4」(柳田理科雄著・メディアファクトリー)より抜粋。

第3章「ムウ大陸、いまだ健在!」の欄外のコメントより。

【現在、わが国で1人の女性が生涯に産む子供の数は、98年の統計で1.38人。1世代ごとに人口は69%に減少することになる。種を維持するのには、最低20の個体が必要だという。この傾向が続けば、わが国の人口が20人を切るのは、43世代後。出産年齢を平均30歳とすれば、日本滅亡まであと1290年!】

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いつも楽しく読ませていただいております、「空想科学読本」。
いままで、さまざまな「人類滅亡のパターン」が語られてきた。あの「ノストラダムスの大預言」の「恐怖の大王」、太陽が燃え尽きる!(あと50億年後らしいです)、核戦争、地球温暖化で海面の水位が上昇、謎のウイルスの蔓延(「復活の日」っていう映画、最近DVD化されましたね)、宇宙人の侵略etc…
人類滅亡のストーリーというのは、数限りなく生み出されてきたわけです、たぶん、人類が言葉を持って以来ずっと。

でも、最近思うのは、人類というのは、こういう感じでなんとなく子供をつくらなくなって、なんとなく滅んじゃったりするのかなあ、と。
もちろん、今こうしている間にも人間の人口は増え続けているという事実はあるわけですが、それが減少に向かう時期が、近い将来、きっとやってくるのではないかと。子供を作るより面白いことがある、ということに、気付き始めている人々も増えてきている。

静かなる滅亡。僕たちの世代には、せいぜい年金が減るかなくなるくらいで、あまり関係のないことなのかもしれませんが。





2002年04月11日(木)
2002年4月11日。

「読売新聞世論調査」より抜粋。

 読売新聞の全国世論調査によると、電車やバスに乗る時、携帯電話の「電源を切ることが多い」と答えた人は27%にとどまった。これに対し、「着信音が鳴らないようにすることが多い」53%、「そのままにしていることが多い」18%だった。

 携帯電話(PHSを含む)を、ふだん「使っている」という人は56%。携帯電話の使用上のメリットでは、「いつでもどこでも連絡し合える」が93%で最も多く、「家族などの居場所がすぐにわかるので安心」も55%に上った。

 一方、不満や気がかりなことでは、「料金の負担が重い」44%、「迷惑メールが多い」38%、「個人情報がきちんと保護されているかが不安」37%、「電磁波の影響が心配」20%――などが挙がった。

 携帯電話を使うようになって、「ちょっとした用件でも連絡するようになった」という人は59%に達し、「いつも手元にないと不安だ」という回答も23%あった。また、「知らない人からの電話には出ないようにしている」も40%に上っている。

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この記事を読んで、僕は、ちょっと驚きました。どこにかというと「4人に1人も電源切ってるの?」ということ。そのまま着信音が鳴るようにしている人は、わずか5人に1人くらいなんだそうです。そんなことなかろう。

僕が住んでいるところが、人口20万人足らずの地方都市で、電車やバスがそんなに混まないためかもしれませんが、乗り物のなかで、電源切ったり、マナーモードにしている姿って、そんなに見ない気がします。
まあ、一昔前のような「電車の中からかけてるんだよ!」と大声で嬉しそうに話している人は、姿を消しはしたけれど。

しかし、「公共心」というのを突き詰めて考えていくと、「着メロ」を思いっきり鳴らせる場所なんて、自分の家のなか、もしくは自分の部屋の中くらいなんですよね、実際。僕の携帯は、ず〜っとマナーモードです。それで、事足りますし。

この携帯電話のメリット「どこでも連絡がとれる」は、逆に言えば「常に束縛されている」ということですし(「どうして携帯に出なかったのよ!」と責められたりするわけですね)、「ちょっとした用件でも連絡する」というのは、「そんなことでいちいち電話してくるなゴルァ」という機会が増えるということでもあるわけで。

携帯って、めんどくさいと思いつつも手放せない。
持ち歩いてないと、重要な連絡が伝わってこないんじゃないかとか、みんなに心配かけるんじゃないかとか。それに、やっぱり手元にないと、不便で不安な感じが、ものすごくするんですよね。

携帯を持てない生活はちと辛いけれど、携帯を持たなくていい生活には、憧れてしまいます。






2002年04月10日(水)
2002年4月10日。

「まことに残念ですが…〜不朽の名作への『不採用通知』160選」(徳間書店。アンドレ・バーナード編著・木原武一監修・中原裕子訳)より抜粋。

【(作家に対して、出版社が出した「不採用通知」を集めた本。パール・バック(1938年にノーベル文学賞受賞)の「大地」(1931年、のちにピュリツアー賞受賞)に対する、某出版社からの不採用通知)

「まことに残念ですが、アメリカの読者は中国のことなど一切興味がありません」】

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ちなみに「大地」という作品は、
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勤勉と土への愛着により,貧しい農夫から大地主へと駆け上がった王龍.変動する中国社会を背景に,彼と一族の歴史を描いた「大地」「息子たち」「崩壊した家」のこの3部作は,中国の内奥を初めて西洋に明らかにしてみせた作品として,衝撃を与えた.中国の民衆に深い理解と愛情を寄せたパール・バック(1892―1973)の代表作.
(岩波ブックサーチャーより引用させていただきました)。

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上記のような内容の本なのです。
で、「中国のことなど、一切興味が無い」というのは、アメリカの読者は、誰も買ってくれないよ」ということなんでしょうね、きっと。
現在ならともかく、第2次大戦前のアメリカですからなおさら。

でも、その本が大ベストセラーになり、たくさんの賞を受けたときの編集者の気持ちはいかばかりか。「売れない」と思ったのか「駄作だ」と思ったのか、それによって、感慨も違うものになるのでしょうが。

しかし、この「アメリカ人は、中国のことなど一切興味が無い」という指摘は、あながち、的外れともいえないような気がします。
テロリストには興味があっても、イスラム文化やパレスチナ問題には、あまり興味がないような印象がありますし。
まあ、自分に直接関係無いことには、興味が湧かないというのは、誰でもそうなんだろうけれど。







2002年04月09日(火)
2002年4月9日。

「リリパット・アーミー しこみ篇」(中島らも、わかぎえふ共著・角川文庫)のあとがきより抜粋(書いているのはわかぎ氏)。

(中島らも氏が、劇団リリパット・アーミーを最初につくったとき、公演で儲かったお金をギャラとして団員に支払ったことの回想)

【彼(中島らも)は、友達には最高のギャラを支払うべきだとも言った。一度だけなら、友達にタダで仕事を頼むことは出来る。
 例えば、絵を描いている友達に「頼む、1回だけでいいから芝居の背景描いてくれへん?」と頼んだら、友達は引き受けてくれるだろう。しかし、毎回というわけにはいかない。彼にだって生活というものがあるのだから、自分の生活の糧となる仕事を押し退けてまではやってくれない。
 やってくれたとしても、いつまでもそんなことしてたら気まずいだけだ。みんないつかはプロになろうとしてるのだから、当然仕事として友達を雇うべきなのだ。
 と、いうようなことを親父(中島らも氏)は言った。】

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「友達なんだからさ〜」というのは、ほんとうに、よく耳にする言葉ですよね。でも、この「友達なんだからさ〜」のあとに続く内容というのは、読んでいる方々が、なんとなく厭な感じを抱いているように、あんまりいい内容だったためしがありません。

「友達だから、最高のギャラを」というのは、すごく意外かつ冷淡な印象を受ける言葉です。でも、友達だからこそ逆に、そういうところをキッチリとやっていかないと、仕事もいいかげんになるし、友情も壊れてしまう、ということを中島らも氏は考えていたんでしょうね。

もちろん、この背景には、彼らが作った「リリパット・アーミー」が興行的に成功して、幾ばくかでもギャラをだせる状況にあったということもあるのでしょうけれど。

「仕事は仕事、友達だからこそ、お互いに貸し借りをつくらない」というのは、確かに大事なことかもしれません。
だいたい、「友達だから、〜してくれ」なんて日常的に言ってくるような人間に、ほんとうの友情があるとは思えないわけで。



2002年04月08日(月)
2002年4月8日。

渡辺誠著「殿下の料理番」(小学館文庫)より抜粋。

(当時、宮中の調理場の駆け出しであった、著者に対して)
【和食の責任者であった、宇津俊雄さんが、
「お重に詰め物をするときには、適当な勘で切ってはいけない。器の幅をものさしで測って、そこにきちっときれいに収まるように合わせて切りなさい」
と言って、それを実践してみせてくれました。その精緻な出来上がりはまさに芸術的。たんにおいしいものを作ればいいというものではない、その神経の遣い方は並々ならぬものがあるのだと、つくづく思ったものです。】

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職人の仕事のイメージというのは、いわゆる勘ですべてを見切ってしまうような印象ってないでしょうか?器の幅を定規で測るなんて、素人っぽいような感じもします。
でも、プロの仕事もつきつめていけば、人間の勘というのは、完璧にはアテにならない、ということなんでしょうね。おそらく、このレベルの人ならば、勘で切っても、そんなにバラツキはないだろうと思うのですが。

もちろん、普通の料理店で、はコスト的にも見合わないし、ここまでのことをやる必要は、ないことではあるのですが。

本当の贅沢というのは、ただひたすらに人間が手間をかけること、なのかもしれません。こればっかりは、お金だけでは、なかなか難しい。作る側の気持ちの入り具合というのも、あるでしょうから。

料理に限らず、仕事は、どんなに慣れているつもりでも経験だけをアテにしてはいけないよ、という自省の意味もこめて。

なんだか、「美味しんぼ」みたいな結び。





2002年04月07日(日)
2002年4月7日。

サンケイスポーツの記事より

【せっかく海に逃げたのに食べられてしまうなんてかわいそう−。そんな声を受け、大ヒット曲「およげ!たいやきくん」の主人公が大海を泳ぎ回る新キャラクターとして27年ぶりに復活、4日、新曲「踊れ!たいやきくん」が都内のたい焼き屋で披露された。

 高田ひろおさん作詞、佐瀬寿一さん作曲は前作と同じコンビ。歌は子門真人から5人の少女ユニット「たいプリ」に代わった。前作は哀愁を帯びた曲調とたいやきくんの人生にサラリーマンの悲哀を重ねる中高年にも大ヒットしたが、新曲は一転、たいやきくんはフグの娘にキスされるなど、別人のような幸せな毎日。ユーロビートと民謡をミックスし、テンポもぐっと速くなった。

 不況の世で、前作のしんみり調と新曲の元気はつらつ調とどちらが共感を呼ぶか。CDはキングレコードから発売中。】

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「およげ!たいやきくん」懐かしいです。あの「ま〜いにち〜ま〜いにち〜ぼくらはてっぱんの〜」というフレーズ。すごく耳に残っています。
でも、子供の頃、「たいやきくん」僕は怖かった。
歌の最後でおじさんが「ぼくをうまそうに食べたのさ〜」という、たいやきサイドからすると「食べられる」という衝撃の結末。
で、それで歌はアッサリと終わっちゃうわけですね。「食べられる」ことに対する、たいやきサイドからの主観的なコメントは、全くなし。
「ピクミン愛のうた」なんて、かなり影響受けてますよねえ。

「踊れ!たいやきくん」僕も聴きましたが、ちょっと、ねえ…という感じです。曲調が明るければいいってもんでもないだろう、と。
それに、幸せなばっかりの歌って、聴いててどうも心に残らない。
詞を書かれた人は、「前作(およげ!)の最後は、レコードの収録時間の関係で、ああいう唐突な結末になってしまった。今度は幸せにしてあげたい」と話しておられるとか。
でも、そういう結末の改変って、かえってまわりから見ると、イメージを壊されたような気がするもんです。あの唐突な終わり方が、インパクトの源泉だったと思うんだけど。「かわいそう」だから、心に引っかかっているわけで。

「おじさん、海水漬けの塩辛くてフニャフニャのたいやきなんて、よく、うまそうに食べたなあ」と子供の頃思ったのも、今は昔。






2002年04月06日(土)
2002年4月6日。

毎日新聞の記事より抜粋。

【時間外賃金が支払われない「サービス残業」に関する厚生労働省の実態調査で、84・8%の職場が労働基準法に抵触したとして、同省の指導や勧告を受けていたことが5日分かった。サービス残業の廃止は、ワークシェアリング推進の前提とされているが、深刻な実情が浮かんだ。

 厚労省は昨年10、11の両月、全国2589事業所を無作為に選び特別調査を実施した。毎日新聞が入手した資料によると、このうち1875事業所(全体の72・4%)に是正勧告書、321事業所(同12・4%)に指導票を出した。法律違反の内訳として「労働時間」(45・3%)▽「賃金台帳の有無」(23・4%)――など7項目を挙げた。

 一方、厚労省は国会議員や報道用にまとめた資料では、全体像を示す勧告、指導の数値は伏せ、法律違反の内訳のうち「労働時間」など3項目だけを公表した。

 これについて厚労省労働基準局監督課は「(データを)隠したわけではない。(一部を)示さないというのもひとつの選択肢だと思う」とコメントしている。】

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いわゆる「サービス残業」が一般化しているという事実、っていうのは、ほとんどの働いている人が実感していると思います。
時間どおりに帰るなんて、もってのほかという風潮、残ってるヤツが偉いっていう印象は、そうそう一朝一夕には変えられないものだろうと思われます。
だからこそ、国は積極的に「労働時間厳守、守れないときは賃金に反映させる」ということを呼びかけていかないといけないんでしょうに。
「隠したわけではない。示さないというのもひとつの選択肢だと思う」というのは、いったいどういう了見なのか?いったい、何を恐れてるんでしょうか?
確かに選択肢のひとつですが、最悪の選択肢だと思わないのかな。

今の日本は、仕事があるだけでも、ましなほうと思って働いている人も多いような状況なのにね。実は、普通の国民は、その統計を聞いても、ただあきらめて、そんな嘆息するのみなのかも。
その結果に腹を立てると思っているのは、ちゃんと残業手当が出て、サービス残業もほとんどしなくていい人々、そう、お役人の歴々だけなのかもしれません。
いや、身を粉にして働いている「公務員」が沢山いるってことは、僕もよく知ってはいるのですが。



2002年04月05日(金)
2002年4月5日。

別冊宝島「音楽誌が書かないJポップ批評17〜桜井和寿[Mr.Children]
”イノセントワールド”大全」(宝島社)より抜粋。

【「Cross Road」の完成に際し、彼(桜井和寿)は「ついに100万枚セールスする曲ができた」と叫んだというが、実際にその通りになったことはヒットメーカー(特に、ドラマ主題歌製作者)としての自信につながり、自我を託した「innocent world」の成功は、”時代の子”としての恍惚をもたらしたはずだ。】

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今、20代後半から30代前半の人にとっては、多感な時期をともに過ごしてきたMr.Childrenの「夜明け前」のエピソード。
記事によると、桜井氏は、デビュー時から”ミリオンセラーを作ることをひとつの「実現すべき目標」としてきたということらしいです。
やたらと長い歌詞カード。顔をゆがめながら歌うこと。内省的な歌詞。
10年後、20年後、僕の20代を思い出すときのBGMは、
Mr.Chilerenの曲なんじゃないかなあ。

それにしても「最高の曲ができた!」ではなくて「100万枚売れる曲ができた!」というのは、ちょっと意外な気もします。
自分たちのなかでの「いい曲」と「売れる曲」の間のギャップを軌道修正できた、ということなんでしょうか。
このエピソードの陰で、さまざまなアーティストが「ミリオンセラーになるはずの曲」をつくってきたのかもしれません。
その感性の照準をうまく合わせることができたという意味では、まさに桜井氏は「時代の子」だったのかもしれませんね。
「Cross Road」後の活動とセールスをみると、「100万枚売るための何か」をつかんだことは間違いないみたいだけれど。




2002年04月04日(木)
2002年4月4日。

「日産自動車の失敗と再生」(上杉治郎著・ベスト新書)より抜粋。


【(昭和30年代の初め頃の話)あのトヨタが資金繰りに苦しみ、住友銀行に融資の申し込みで頭を下げたが、けんもほろろに門前払いをくらった話はあまりにも有名である。
 そのあとトヨタが今日まで、銀行に頼らない無借金経営に徹している経営哲学の原点は、実はここにある。
「銀行なんかアテにするな。日和になると傘を貸そうとするが、雨が降り出したら傘を取り上げる。銀行とはそういうところなんだ。自分の城は自分で守るしかない」
この考え方がトヨタという会社では、骨の髄までしみ込んでいる。】

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「日和になると…」のくだり、まさにその通り!という感じです。借金しなくていい人には、甘い顔をしてお金を貸そうとし、危なくなるとサッと手を引いてしまう。冷酷な現実。
これを読んでいて最初は、「銀行は冷たい」という印象を持っていたのですが、よくよく考えてみると、昔の銀行は、企業としては健全だったのかな、と。今の不良債権問題などは、雨が降りそうだということに、気付かず(あるいは、気付かないふりをして)傘を貸しまくっていたことが元凶なわけですから。
それにしても、ペイオフ解禁で、金利は100万円あずけても10円とかいう時代。銀行口座も「いろんな支払いを円滑にする」というメリットしかないのかもしれません。
むしろ、銀行の倒産に巻き込まれるリスクを考えると、庭にでも埋めといたほうが安全なくらい。
投資してならともかく、普通に銀行に預けてるだけのお金が、どうして保護されないのか(来年4月から、普通預金もペイオフ解禁)。
ナポレオン時代から、個人の財産を保障するというのは、国家の仕事のひとつになっていると記憶しているのですが。何のために税金払ってるんだか。
別に、100万に年間100円くらいの利子なんかいらないからさ。
「自分の城は自分で守るしかない」のは、企業ばかりではないみたいです。

城っていうより、ホッタテ小屋レベルなんですけど、僕の場合は。



2002年04月03日(水)
2002年4月3日。

ザ・精神医療”現場”(別冊宝島編集部編・宝島社文庫)より抜粋。

【ある都立病院神経科部長のインタビューの一部。
部長はさらに、人格障害にも触れ、「あれは、医療が作り出しているところもあるんです。昔はひとりで悩むしかなかった。それが未熟なお医者さんにおだてられて、人を困らせるようになってきたんです。”暴れるのは自己実現だから”なんて言われて。でも、その結果、何かしでかしてしまって困るのは患者本人なんですよね。」

〜〜〜〜〜〜〜
「医者に行ったら、病気になる」一見矛盾している言葉なのですが、こういうコメントって、実はよく耳にするのです。確かに、こういうケースでは、「未熟な医者が病気にしてしまう」ということは、充分にありえるかもしれない。
まあ、患者さんにも、自分を病気だと言って欲しい、っていう人、けっこう多いような気がしますし。
でもね、これって、精神医療の現場だけのことじゃないような気がするんです。
最近、反抗するのが自己実現だ!とか、奇を衒ったことを言うのが自己実現だ!というような、勘違いをしている人って、増えているような印象があるのです。
人に迷惑をかけるのが、自己実現。依存するのが、自己実現。
子供のころにトラウマがあったから、その心の傷がもとで犯罪を…
確かに、影響がないとはいえないでしょう。でも、誰でも多かれ少なかれ、何らかのトラウマを抱えて生きているのだし、同程度のトラウマがあっても、普通に生きている人たちは、たくさんいます。
ただし、阪神大震災などの「どう考えても、人間の精神的許容量を超えた精神的外傷」の場合は、全然別のレベルですが。
ネット社会は、懐が深くて、あらゆることに対して許容してくれるというところがあるでしょう。
でも、情報の受け手として自分がこの”未熟な医者”ではないかどうか考えてみることも、ときには必要なんじゃないでしょうか。

本人のことを思うのであれば、なおさら、ね。
それとも、面白かったら、それでいいですか?



2002年04月02日(火)
2002年4月2日。

幻冬舎ホームページ「アンテナ」「モザイク」改稿にあたって〜田口ランディさんの著書内での無断引用についてのコメントより抜粋。

【私は自分がパソコン通信の会議室の延長線上で文章を書いて来たことを認識した。現実的には私の本が印刷物になっているのに、あまりにも急激にデビューしてしまったために、ただただ書き捨ててきたような状態だったのだ。
(中略)
 私としては、藤森さん(作品を無断引用された人)と一度でもいいから、会って話がしたい、電話でもいいからお話しさせてほしい、ということを大場氏を通して再三お願いしていた。
 それは、実在の人物と自分がやりとりしているのだ、と確信したかったからだと思う。
 そのために、時間を置いて大場氏を通じ何度か藤森さんに打診したが、最終的に2002年1月末に連絡したさいに、大場氏から「今後も藤森さんがお会いになることはないと思います」というお返事をいただいて、藤森さんと直接に話し合ってコンセンサスを得ることは断念した。

 正直なところ、一度も会っていない、インターネット上でしか知りえない人物と他者を通して交渉し、その要求を受け入れて作品を改稿するということには版元は疑問を提示していたし、私自身抵抗もあった。ネット上での著作権の問題はまだはっきりしていないのにそこまでの必要があるのか、というご意見もいただいた。

 だが、私が藤森さんのオリジナルな表現を侵害したという事実はまぎれもないことであり、それは藤森さんと会う会わないという問題でも、ネット上かどうかという問題でもなく、あきらかに間違った行為であると考えた。】

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今回の無断引用についての田口さん側からの見解。
田口ランディさんは、現代社会、とくにインターネットに造詣が深い作家だと認識していたので、今回の無断引用については、ちょっとショックを受けました。
「パソコン通信の会議室の延長」であり、「一度も会っていない、インターネット上でしか知りえない人物」というのを実体として受け入れるという姿勢が、彼女の現代性であると僕は思うのですが。
確かに「会ってくれない、直接話せない」という人物と交渉するのは、骨が折れるというか、どうしようもないところもあるだろうけど、職業上の守秘責任(といっていいのだろうか、ちなみに藤森さんは、SM嬢だそうです。風俗関係の人にとっては、客の秘密を守るというのは、とっても大事なことらしいです)ということもあり、藤森さんが表に出たがらない理由というのもよくわかるし、それは、田口さんも承知されているはずなのですが。
 なんとなく、幻冬舎が悪者にされているような気がするのですが、いちばんの問題点は、「(ネット上の)他者のオリジナルな表現を侵害した」という、この一点なのです。それを「友達だから」「ネット上のもので、著作権もはっきりしないから」というような、とってつけたような理由付けは、作家として情けない。まあ、誰しも、どんな作品にも「参考にしている文献」や「モチーフ」はあるとは思うのですが、明らかにそれとわかるような表現では…

おそらくご本人も言われているように「時の人」になってしまい、粗製濫造を自己強迫的にやってしまったというのも、この「無断引用」の一因では、あるのでしょうが。
でも、僕は田口さんの作品、大好きです。もっとも現代を切り取っている作家のひとりだと思っています。たぶんこれからが正念場になりそうなので、いいものを書いていっていただきたいなあ。

WEB上だったら、セーフだったのかもしれないですけど…




2002年04月01日(月)
2002年4月1日。

Yahooニュースより抜粋。

インターネット検索最大手のヤフーは1日、スペースシャトルの機体にバナー広告を掲載する「宇宙広告プロジェクト2002」を発表した。宇宙空間に広告を掲示する試みは人類史上初めて。同社では、6月下旬には実験を開始するとしており、成功すれば10月以降に商品化できるという。広告の市場規模が爆発的に成長することが期待されるばかりでなく、宇宙空間の商用利用を巡っても大きな議論を呼びそうだ。
ヤフーによると、同プロジェクトは2001年春に着手。実現可能性を含め、各方面と検討を重ねてきた。スペースシャトルの胴体上面には、長さ23.4メートル、幅3メートルの液晶パネルを搭載、同社が契約した広告360件分を表示し続ける。左右両翼には、長さ6メートル、幅4メートル大の「静止広告」を掲示し、スペースシャトルが宇宙で活動する様子を近くの衛星がとらえ、衛星回線を使って世界中にインターネットを通じて生中継する。その際に機体に描かれた広告がユーザーのパソコンに届くという仕組みだ。

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宇宙空間の商用利用というのは、今後、大きな課題となってきそうですね。
ひょっとしたら、夜空を見上げたら広告だらけっていう世の中だって、ありえるかもしれない。そんなことないよ、っていうけれど今眺めてるWEBの世界だって、広告だらけなわけですから。
これからは、「情報を遮断するためにお金が必要」な時代になっていくのかもしれません。
ただ、スペースシャトの外壁の広告だと、外側からみただけではすぐ見飽きるだろうし、内部の中継だと広告が見えないし、微妙なところですね。だいたい、衛星中継の画面に広告を入れれば、同じことなんじゃないかなあ、と思いますが。

 それにしても、毎年やってくれますね、Yahoo。
でも、こっちもなかなか引っかかりませんぞ。ネットの世界では、毎日が4月1日ですから、ね。