今日は太宰の忌。 太宰文学の愛好者であった父が、5月はじめに亡くなり、昨日は雨の中での納骨式だった。 降りしきる雨の中で、玉川上水に身を投げた太宰。 そんなことも、チラと頭をかすめながら、集まってくれた近親者に、挨拶をした。 父は筆まめな人で、よく手紙を書いたらしい。 その貴重な数通を、取っていてくれて、私に渡してくれた従妹。 子どもの私が知らない一面も窺える。 父との思い出も重なり、2年ほど前に書いたエッセイを載せる。 ------------------------------------------------------------- 6月19日は桜桃忌。 私は、太宰の墓のある街に住んでいながら、墓に行ってみたのはこの30年の間に3回くらい。 桜桃忌にも一度も行ったことがない。 太宰は、父親が著書を沢山持っていた影響で、子どもの頃から読んでいるが、「太宰ファン」といわれる人たちとは、一線を画しておきたいのである。 太宰が死んだ時、私はまだ子どもだった。 父親の本箱から「駆け込み訴え」や「ヴィヨンの妻」なんかを盗み読みしていたのは、当時、子どもの本が不足していたし、新しい本は買ってもらえなかったからである。 食べるものもないような時代に、父の本箱は、健在であった。 ある時、出張先から帰ってきた父が、靴を脱ぐのももどかしそうに、「太宰が死んだ、新聞はどこだ」と、母に言った。 そして、食事も取らずに、むさぼるように新聞を読んでいた。 太宰とほぼ同世代であった父にとって、大変なショックだったらしい。 太宰は、女の人と川に入って死んだ、というのが、子どもの私が聞いたことだった。 きっと悪い人に違いないと思った。 昭和40年代終わり近く、私は、太宰の墓のある街に住むことになった。 「あそこには、太宰の墓があるね」と父が言った。 そして、家に来ると、必ず散歩を兼ねて、太宰の墓に行っていた。 太宰の墓のそばには、森鴎外の墓もあり、目立たず、地味な墓らしかった。 10年ほど前、地元の太宰愛好家達の案内で、改めて、わずかに残る太宰の仕事場や、ゆかりの場所を訪れた。 山崎富栄が働いていたという美容院のあとも、まだ残っていた。 彼女は、太宰を死に誘ったということで、誰からも同情されず、悪女の汚名を被っているが、 本当は、結核にむしばまれていた太宰の面倒を見、何かと尽くしていたそうである。 彼女は、美容界では、大変優秀な人材で、生きていればその道で成功者になったに違いないと、案内の人は言った。 「本当は死にたくなかったと思うんです。 ひとりでは死ねなかった太宰に、同情したんでしょうね、残念です」という話であった。 太宰の旧居あとは、今や面影はないが、庭にあったサルスベリが、真向かいの家に移植されて残っている。 文豪の生と死。文学の毒と魅力。 その蔭にあって、不当に忘れられた山崎富栄のことも、考えてみた。
|