沢の螢

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桜桃忌
2006年06月19日(月)

今日は太宰の忌。
太宰文学の愛好者であった父が、5月はじめに亡くなり、昨日は雨の中での納骨式だった。
降りしきる雨の中で、玉川上水に身を投げた太宰。
そんなことも、チラと頭をかすめながら、集まってくれた近親者に、挨拶をした。
父は筆まめな人で、よく手紙を書いたらしい。
その貴重な数通を、取っていてくれて、私に渡してくれた従妹。
子どもの私が知らない一面も窺える。
父との思い出も重なり、2年ほど前に書いたエッセイを載せる。
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6月19日は桜桃忌。
私は、太宰の墓のある街に住んでいながら、墓に行ってみたのはこの30年の間に3回くらい。
桜桃忌にも一度も行ったことがない。
太宰は、父親が著書を沢山持っていた影響で、子どもの頃から読んでいるが、「太宰ファン」といわれる人たちとは、一線を画しておきたいのである。 

太宰が死んだ時、私はまだ子どもだった。
父親の本箱から「駆け込み訴え」や「ヴィヨンの妻」なんかを盗み読みしていたのは、当時、子どもの本が不足していたし、新しい本は買ってもらえなかったからである。
食べるものもないような時代に、父の本箱は、健在であった。

ある時、出張先から帰ってきた父が、靴を脱ぐのももどかしそうに、「太宰が死んだ、新聞はどこだ」と、母に言った。
そして、食事も取らずに、むさぼるように新聞を読んでいた。
太宰とほぼ同世代であった父にとって、大変なショックだったらしい。
太宰は、女の人と川に入って死んだ、というのが、子どもの私が聞いたことだった。
きっと悪い人に違いないと思った。

昭和40年代終わり近く、私は、太宰の墓のある街に住むことになった。
「あそこには、太宰の墓があるね」と父が言った。
そして、家に来ると、必ず散歩を兼ねて、太宰の墓に行っていた。
太宰の墓のそばには、森鴎外の墓もあり、目立たず、地味な墓らしかった。
10年ほど前、地元の太宰愛好家達の案内で、改めて、わずかに残る太宰の仕事場や、ゆかりの場所を訪れた。
山崎富栄が働いていたという美容院のあとも、まだ残っていた。
彼女は、太宰を死に誘ったということで、誰からも同情されず、悪女の汚名を被っているが、
本当は、結核にむしばまれていた太宰の面倒を見、何かと尽くしていたそうである。
彼女は、美容界では、大変優秀な人材で、生きていればその道で成功者になったに違いないと、案内の人は言った。
「本当は死にたくなかったと思うんです。
ひとりでは死ねなかった太宰に、同情したんでしょうね、残念です」という話であった。
太宰の旧居あとは、今や面影はないが、庭にあったサルスベリが、真向かいの家に移植されて残っている。

文豪の生と死。文学の毒と魅力。
その蔭にあって、不当に忘れられた山崎富栄のことも、考えてみた。



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