沢の螢

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居場所がない
2006年05月31日(水)

笙野頼子の小説にこんな題の作品があった。(「居場所がなかった」)
女流文学の中で、笙野頼子、富岡多恵子、古くは尾崎翠などは、多かれ少なかれ、小市民的生活の中で、居心地の悪さを感じているところが共通している。
彼女たちは、文学の神様に魅入られてしまったから、世間的な人付き合いとか、常識とか言う物では、測れない世界で生きて行かねばならないのだ。
ずいぶんつらいことだろうなと想像する。
文学を選ぶと言うことは、そうした覚悟を自分に課したと言うこと。
つらいと思うのは、こちらの勝手な解釈で、これ以上の悦楽はないのかも知れないが・・。

私のようなシロウトが、ブログなんかで、何かを表現したり、訴えたりするのは、彼女たちのようなレベルの話ではないが、これはこれで、結構つらいものがある。
まず私は、物書きを生業としている人間ではなく、生活者である。
家族、知人、友人、そのほか、多くの人と関わっている。
その人たちの、実生活をそこなってはならない。
社会のルールに従い、己の節を曲げず、その日その日の「健康で文化的な」生活を営んでいくことが、一番大事なことである。
小さなこだわりは捨てねばならぬこともあるが、しかし、これだけは譲れないと言うことも、私にとっては大切な事である。
「人」という字は、互いに支え合っている形から出来ている。
だから、自分ひとりでは生きていけない。
だが、人間というのは、なんと、悩ましく、複雑な生き物であろう。
まあまあ健康で、衣食足りていても、どうにもならぬ感情というものがある。
まさに人間は感情の動物なのである。
それがあるからこそ、悲しみも、喜びも、時には争いも、助け合いもあるのであり、いろいろな場面において、人を動かす大きな要素が感情なのではないだろうか。
それは、人種や肌の色や、職業や、経歴とは関係ない。
どんなに貧しく、条件の悪い環境にあっても、人は、感情が損なわれなければ、何とか生きていける。
逆に、外目には、恵まれた、何不自由のない暮らしをしていても、家族の中で阻害されたり、常に心を傷つけられるような環境にいたら、生きていくことは難しくなるかも知れない。
「居場所がない」と感じた時、人はどうするのだろう。
いま、この世の中で起こっている、様々な出来事に対して、私がまず思うのは、そのことである。
家庭の中で、学校で、「居場所がない」と感じている子どもがいたとしたら、何にもましてつらいことだ。
子どもは、ひとりでは生きる手だてを持たないのだから。
そして、生きることの下手な大人にとっても、同じである。
私の親族にも、ひとりそういう人がいて、人への気遣いは人一倍あり、よく気が付き、決して人から阻害されるような性格ではないのに、仕事がうまく行かず、失敗ばかりしている。
多分、決断力とか、人の使い方に、足りない面があるのだろう。
女に生まれれば、きっといい奥さん、お母さんになったであろうに。
こういう人は、しっかりした女性と結婚して、尻に敷かれて生きる方がいいのだが、なかなか理屈通りに行かず、生活感のない、見かけ倒しの女性にばかり惹かれてしまい、私生活も、失敗の連続である。
話を聞くたびに、心が痛むが、彼の人生を変わってあげることも出来ない。
せめて、居場所がないと感じることの、少なくて済むように、祈るしかない。

先日、ネット連句座での、居心地の悪さについて書いた。
主宰が作ってくれた段ボールの隠れ家も、私にとっては、もう住みやすいところではなくなったので、黙って脱出した。
そんなことは、何もなかったかのごとく、新しい人たちが、どんどん参入して、進行中である。
ネットでは、同じ状態を保っていることの方が珍しい。
紙芝居が一枚めくれたごとく、もう、そこに隠れ家があったなんてことも、記憶から消えてしまうだろう。
仮想空間。
ネットの交流とは、そんなものなのだ。
そこに、必要以上の、夢や理想を追ってはいけないのである。



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