沢の螢

akiko【MAIL

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メールの怖さ(1)
2006年02月19日(日)

ライブドア関係の一通のメールを巡って、その信憑性を問う議論が、かまびすしい。
メディアでも、インターネットでも、さんざん取り上げられている話題であるから、ここでわざわざそのことについて言及する気はない。
場合によっては、政治の根幹が揺るぎかねない可能性も含んでいるが、今の段階では、どこまでが正しい事実なのか、わからないし、公人でない人のプライバシーにも触れる問題でもあるから、その段階で、あれこれ言うことは、控えたい。
国会やメディアでの議論の行方を追っていくうちに、いずれ真実が明らかになるだろう。

それよりも、私が思うのは、メールという物が持つプラスの可能性と、それにまつわるマイナス面の怖さである。
私も、5年前から電子メールという物を使うようになった。
はじめは、なんと便利な機能であろうと感激した。
顔を合わせてなかなか話をする時間がなかったり、口答でコミュニケーションを取りにくい相手とも、時間や場所を選ばずにやりとり出来るメール。
電話やファックスのように、かしましい音も立てず、送受信出来る。
手紙に比べ、挨拶言葉や形式も軽便なので、構えずに、書くことが出来るし、保存も簡単で場所を取らない。
知っていても、遠方で滅多に顔を合わせられない相手との遣り取りはもちろん、時々顔は見るが、あまり話をしたことのない人とも、メールを通じて、ずいぶん親しくなったり、相手の人柄もわかって、良かったという経験もした。
ひと頃は、くだらないおしゃべりも、メールで交わしたりした。
簡単な原稿も、それで送った。
人間関係も、ずいぶん広がったような錯覚さえした。
しかし、こうしたことは、お互いが、善意でやりとり出来ている間にのみ、成り立つ利点である。
いったん、人間関係にヒビが生じた相手とは、メールという物が、一つの凶器になる。
相手を貶めるために、保存してあったメールを恣意的に編集し、そこに自分のコメントを付け加え、「この人は過去にこんなメールをよこしました」などと、実名を挙げて、不特定多数に送りつける。
本来、二人の間でのみ、遣り取りしていたはずのメールを、コピー貼り付けで、関係ない第三者に転送する。
手紙なら、信書の秘密に触れるようなことを、メールだと、簡単にやってしまい、罪悪感がないのである。
それは、出版物なら、著作権侵害に触れるようなことを、ネットでは、あまり罪悪感を感じないで、やってしまうことと、よく似ている。
顔を見て話せば、分かり合えることを、メールでくどくど言うことによって、かえってこじれてしまったり、そんなに簡単なメールなのに、細かく伝える手間を惜しんで、中途半端な情報を流して、お互いの間で齟齬を生じることもある。
同じ集団に属していながら、メールの遣り取りの多い、少ないによって生じる不公平さもある。
メールに頼りすぎると、裏切られるという思いを、時にするようになった。



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