連句の面白さは、人との共同作品の中で、思わぬ世界が展開されてくるところにある。 森羅万象すべて含み、虚実取り混ぜて、その中に身を置き、心を遊ばせる。 実生活では、個人の些細な体験しか持っていなくても、連句の世界で、それをあたかも経験するかのごとき、広がりを愉しむのである。 文芸上の虚と実、そのあわいを愉しむ気持ちがないと、連作の世界には入れない。 たとえば恋句。 連句の一巻の中で、恋句は、ひとつの山場だが、ここは最も虚の世界を愉しむところでもある。 私は恋の座が好きである。 想像力と創造性と働かせ、波乱に満ちた恋の場面を作っていく。 自分の連句ボードでも、月や花はどうでもいいが、恋句は懲りたいほうだ。 あるとき、少しありきたりでない恋句をといわれ、それならと、少しきわどいが、メタファーで包んでいて、わかる人にはわかるという句を出した。 するとメンバーの年配の女性が、わからないというので、「わからないような句は、ダメですよね」と、それを取り下げた。 しかし、説明して欲しいと言われ、付け句の説明など、私の好みではないが、「こういう事です」と、一応説明した。 ところが、「へえ、そういう意味なの。あなたずいぶん経験豊富なのねえ」と言われ、ビックリした。 「いいえ、経験とは別ですよ。経験があると、その貧しい経験にとらわれてしまうけど、こんなものは経験のないほうが、自由に想像が働いて、いい句が出るんです」といったが、どうも、良く理解されないようであった。 そんな風な思いこみが、時にあるのである。 特に、女性に多い。 こういう人は、人の句を見て、そこに盛り込まれた内容が、作者の実体験だと思って疑わないのであろう。 何でも実際に経験しなければ句が作れないと言うなら、それこそ殺人までしなければならなくなる。 文芸の面白さは、ウソをいかに本当らしく思わせるかというところにあるので、それを理解出来ない人は、創作者としてのセンスに欠けると言わざるを得ない。 昔こういう話をきいたことがある。 昭和40年代はじめ、文学賞を取って作家デビューした女流の話である。 海外生活経験を持つ彼女は、そこに場を設定し、小説を書いた。 そこで生活する日本人の主婦が、街中で、ふと知り合った男と、行きずりのホテルに入っていく。 でもそれが小説のテーマではなく、変化のない日常のなかのけだるさをモチーフにして、その一つの場面として、ホテルが出てくるのである。 ところが、商社マンである作家の夫は、妻の作品が日本で賞を取ると、「あなたの奥さんは、アンナ事をしてるのか」というたぐいの質問に悩まされたという。 そして、小説に出てくる人物を、いちいち実際の人物に当てはめて、あれこれ詮索をするので、困ったという話だった。 「これは、私の小説のなかの人物で、どなたのことでもありません」と言ったそうだが、人間というのは、多かれ少なかれ、似たような状況で生きているので、思いこんだ人には、なかなかわかってもらえなかったそうだ。 「小説家を妻に持つと大変です」と、連れ合いは、嘆いたそうな。 プロの小説家ならずとも、なにかを表現する時、そういう問題はついて回る。 以前、シナリオの習作をしていた頃、生活経験のあまりない私は、新聞の記事や、見聞きしたことから、ドラマになるものを探し、それを材料にシナリオを書いた。 刺激的な事件やおどろおどろしいようなものは性に合わないので、もっぱら日常に近いところにテーマを求めて、書いた。 主婦を主人公にすれば、生活描写は、自分の体験が生かせるし、そこにドラマの肉付けをしていけばいい。 どこにでもいるような人物、どこにでもあるような場面で、しかしどこにもないような話を組み立てていくのである。 もし、それが映像化されたら、見た人は、「あら、私の事かしら」と思うような、場面が出てくるであろう。 人間の持っているいやらしさ、狡猾さ、あくどさ、やさしさ・・それらも、太古から持っている人間の本質だから、「まるで私の事みたいねえ」と思っても不思議はないのである。 でも、いささかでも文芸に携わっているひとなら、「私のことみたいだけど、でも私じゃないわ」と思うセンスがある。 連句をやっている時、良く「面影付け」などといって、そこにいるひとを彷彿とさせるような句を出したりするが、それを、その人そのままだとは、誰も思わないのである。 昨日の連句で、恋句を出すところがあった。 前からの流れの中で、古拙の微笑もこわばってしまうというような句を出した。 それに付ける句がなかなか出ず、あれこれ喋っている中で、「この頃は、キャリアウーマン達の中では、普通に結婚するなんて煩わしい、 それよりも、奥さんのいるひとを、ちょっとだけ借りる方がいい、身の回りの世話みたいな事は、全部奥さんに任せて、いいところだけ戴いて、付き合えばいい。そんなことを書いたものを、読んだことあるわよ」と私が言った。 もう一昔になるが、実際に、ある女性評論家が書いた記事であった。 すると「じゃ、それを句にして頂戴よ」と言うので、ちょうど短句の場所なので、 お借りするのはよそのご亭主 いう句にして出し、治定された。 二十韻一巻、そんな風に話題が弾んで、愉しい付け合いになって、散会した。 あとで、もし、その作品が公表されて、句の人物と同じ状況にある人が目にし、虚実の理解の出来ないタイプだったとしたら、それは自分のことだと思いこみ、文句を付けてくることもあるのかなあと、ふと思った。
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