沢の螢

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修司燦々
2003年06月12日(木)

東京は梅雨に入った。
人から勧められたこともあり、雨の1日、京王線芦花公園の世田谷文学館に「寺山修司展」を見に行った。
俳句、短歌、詩、小説、劇作、評論などはもとより、映画制作や「天井桟敷」を率いての演劇活動など、多彩な才能を発揮して、47歳で亡くなった寺山の、短すぎる生涯を追っていた。
若い頃から、あまり健康でなかったと見え、その分、神経がとぎすまされていたのかも知れない。
18歳で、短歌新人賞を取った。
彼の才能を最初に開花させるきっかけを作ったのは、中井英夫である。
年表を見ると、すでに中学時代に俳句を作って、活字にもなっているし、早稲田在学中から演劇活動に入っている。
既存の殻の中にいることを潔しとせず、挑戦的な創作活動は、ややもすると、批判や反発の対象になったようだが、病魔と闘うことも含めて、彼は、燦々たる人生を駈け抜けていった。
こまかな字で、ビッシリと、友人、知人たちに書き送った手紙も多数展示されていた。
父親が戦死し、母の働きだけでの生活は、決して恵まれてはいなかったらしい。
米軍キャンプで働く母が、福岡に転職し、13歳の寺山は青森県に残されている。
永山則夫の事件の際、同郷である寺山が、犯罪に至った永山の心象風景に、理解をしめしたことばを述べていたのを覚えている。
貧しさ、孤独、劣等感、母への屈折した愛、そうしたものは、寺山にも共通するものがあったのかも知れない。
天才という名がふさわしい人だったと思う。しかし、長生きするひとではなかったのだろう。
今生きていれば、68歳の筈だが、想像しにくい。

枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや
暗室より水の音する母の情事

マッチ擦る束の間海に霧ふかし身を捨つるほどの祖国はありや

ここでいう祖国を故郷と言い換えれば、寺山の心のうちが理解出来そうである。



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