a Day in Our Life
気が付いた時には横山の腕の中だった。
ヒナ、と呼ばれて散漫な動作で振り返った途端、くらりと眩暈がして、次の瞬間にはもう、腕を引かれていた。ソファに座った横山の足の間に割り込む形で、勢いのままに抱き込まれる。驚いて横山を見上げた動作でまた、ぐらぐらと頭が回った。痛む頭に目を瞬かせて、その僅かな動きだけでまた猛烈な頭痛が襲う。思わず横山の肩口に片頬を埋めると、ゆっくりと、刺激しないようにゆっくりと優しく手が触れた。 「目ぇ開けるんもシンドイんやったら、瞑っとけ」 横山の冷たい指が瞼に触れて、その指先に導かれるように目を閉じた。閉じた視界でまた、強烈に頭が痛んだけれど、計ったかのように片方の腕が、より楽な体勢に導いてくれる。太った、とはよく言うけれど、人並みに骨ばった腕が柔らかく抱き込んでくれる。こんな時にだけ底抜けに優しい。横山は狡い、と心底思う。じわり、と閉じた目に涙が滲む、それは熱のせいだと思うことにする。 誘われるように身体を凭れかけて、ようやく村上は、安心して息を吐いた。
その時、三人しかいない楽屋で一部始終を視界に捉えた渋谷は、そこでようやくその日の村上の調子が悪かったのだと気が付いた。そういえば朝から相槌が曖昧だったり、意味もなくため息を吐いたりしていたような。後付けのように思い当たる節がいくつも思い浮かんだけれど、気付くことが出来なかったのなら同じことだと思った。 それは今まで一度でも違ったことがなかったのだけれど。 村上の調子が悪い時、一番に気が付くのは横山だった。渋谷が気がつく前に横山は気付いて、さりげなくフォローを入れる。今も、自分以外のメンバーが部屋から出たタイミングでそうしたのだと思うのは、考えすぎだっただろうか。
大きく息をついた村上の、吐いたその息が思った以上に熱かったことに、横山は少なからず驚いた。 「めっちゃ熱あるやんけ。ずっと我慢しとったんやろ」 怒ったような横山の声が、朦朧とした意識に届く。横山の冷たい手のひらが熱もった額に気持ちよくて、村上は、もっと触って欲しいと思う。声に出した訳ではないのに望み通りの冷たい指先が、額から瞼に、瞼から頬に、それから唇にゆっくりと移動した。 触れた村上の顔はどこも熱くて、そうまで我慢しなくてもいいのに、と口惜しく感じてしまう。そんな状態で今まで放置していたことに憤りを覚えてみても、それが彼の性分なのだと横山は、諦め半分に思った。忍耐が強いと言われる村上は、他人の事以上に自分の事に関して、そうだと思っていた。そんな村上の分かりにくい不調を読み取るのは大変で、だから横山は、彼の些細な変化を見逃さないように実は結構、気を配っているのだ。 冷え性の自分の手が心地いいのか、またひとつ吐いた村上の息がやはり熱くて、その口内はもっと熱いに違いない、と状況も場所もわきまえずにがっついてしまいそうになる自分に気が付いて、横山は何とかここが楽屋であることや、すぐ側には渋谷もいることを思い出すことに成功した。 寒気からか、抱き締めた村上の身体は小刻みに震えて。背中を撫でてやるも気休めに過ぎないだろうと思った。普段は割と薄着な彼にしては厚手のセーターを着込んで、きっと朝起きた時から体調は悪かったに違いない。 何かかけてやるものを、と、辺りを見回した視線が渋谷とかち合う。毛布のようなものはなかったので、とりあえず近くにあった横山の上着を手渡してくるのに、視線だけで礼を言った。こちらも視線だけで答えて、あとは横山に任せたとばかりに渋谷は、もう二人を見ることはなかった。あえてそうしてくれたのだろう、と横山は思う。 出来るだけ動かさないように、上着をかけてやる。寒がりなくせに着膨れるのを嫌う自分はその日も薄手のジャケットを羽織っただけで、こんなことならもっと暖かい、ダウンジャケットでも着てくればよかった、と今更なことを横山は思った。 「本番までまだ時間あるから、ちょっとでも休み」 放っておけば打ち合わせにでも行きかねない、村上に釘を刺すように横山の言葉が降りてくる。読まれてるわ、と笑う余裕はあまりなくて、代わりにその腕の中に体ごと預けた。
「ただいま戻…ぅわっ!」 買出しに出かけていた大倉が楽屋のドアを開けた瞬間に叫びそうになった声を、人差し指を唇に当てる動作だけで渋谷は制した。状況を理解出来ないまでも場の空気は読んだらしい、大倉が「村上くん、どないかしたんですか?」と小声で渋谷に問うてくる。 村上、の単語だけが聞こえたらしい安田は何事かと気を揉んでみたものの、大倉の大きな体が部屋の入り口を塞いでいたせいで、どう体を動かしても中を覗き見ることは叶わなかった。やや遅れて戻ってきた内や丸山も、入り口で無駄に飛び跳ねている安田に首を傾げるばかりだった。 「調子、悪いんですか?」 大倉の言葉に渋谷は黙って頷く。もしかしたら自分は今、機嫌が悪いのかもしれない、と思った。それが村上の体調が悪いせいなのか、それともその体調の悪さを気付けなかったせいなのかは分からなかった。 「熱があるらしい。寒気もするみたいやから、ちょぉ今、エアコン温度上げとるで」 そういえば、入った室内が蒸し暑いな、と今更のように大倉は思った。果たして中に入っていいものか、入り口でいまだ立ち続ける大倉の視線の先、ソファに座った横山に、身体を預ける村上の背中。 この冬のコンサートで、ピアノを弾く後ろ姿にしみじみと思ったのだけれど。その背中は見た目よりは随分と華奢で。逞しいと思ってしまうのは、きっと彼がそうありたいと思っているからなのだ。 そんなこと、嘘でも自分達の目の前ではしたことがなかったのに。 それでなくても照れ屋な横山が、村上と二人きりで喋る姿すら、そうそうに見ることがないのだ。だからこそ、それだけ緊急の事態なんだろう、と大倉は思う。こちらに背を向けて、横山の胸に顔を埋めてしまった村上の表情は見ることが出来なかったけれど。ぐったりと力の抜けたその身体が、全体重を横山に預けてしまっているのだと分かる。毛布代わりにかけられたジャケットの上から、横山のすらりと長い指が優しく背中をなぞる。何か大事なものに触れるように、愛おしそうにも見える白い指先が、時折り髪を撫でて、その仕草で僅かに村上が身じろぎを返した。 あまりにぼんやりとしていたらしい。気が付くと最後に戻ってきた錦戸が、動かない大倉に痺れを切らして「はよ入れや!」と軽い蹴りを入れてきたその衝撃で、ようやく我に返って楽屋内に踏み込む。続いて入ってきた残りのメンバーも、何か言いかけた言葉を全員飲み込んだらしかった。 「…横山くん。飲み物買うて来ましたけど」 こういう時、空気が読めない(読めにくい)のは得なのか損なのか。 それでも若干気を遣いながら丸山が掛けた声に、顔を上げた横山が「持って来て」と手を出した先へ丸山の手からペットボトルが差し出される。 「そうか、やからポカリやったんや」 その光景を見た錦戸が、ぽつりと呟いた。普段ポカリなんか飲まへんのにおかしい思とったんや、と言ったその言葉に全員が納得をする。なんだか、何もかも。敵わないんだなぁ、とか。
なんだか近寄りがたくて&なんとなく見づらくて、あとは視線を外して楽屋の隅っこで各自買って来たジュースを飲んでみた。ふと、ストローから口を離した内が、ぼそりと呟く。 「あんな横山くんと村上くん、初めて見たわ」 我関せずで雑誌のページを捲っていた渋谷がふと、顔を上げて。 「そぅか?昔はあんなもんやってんで」 その言葉は色んな意味で、複雑だと思った。
***** いまだにわたし的恥ずかしい小話トップ1に燦然と輝く(笑)
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