a Day in Our Life


2004年12月21日(火) もしもピアノが弾けたなら。(真澄+研二)


 柔らかい音色が聞こえて、歩みを止めるまでもなく真澄は、ふと顔を上げた。

 研二にしてはたどたどしい、その音は足先の部室から聞こえてきた。けれどその優しい旋律は、真澄を惹きつける。今まで耳にしたことのない音楽だった。誰だろう、と訝しむというよりは単純な興味で、部室のドアを開けたその音に反応して、音色はぴたりと止んだ。
 「…康平さん?」
 開けたドアの奥、こちらに向けた背中がゆっくりと振り返る。鍵盤を離れた指を椅子に置いて、体ごと向き直る。
 「ピアノ、弾くんですか」
 もしかしたらその質問は、あまりに素直すぎたのかも知れない。康平さんがピアノ弾けるなんて知りませんでした、と言った真澄に康平は、黙って微笑んだ。
 「昔、ちょっとな」
 言いながら立ち上がってもう、ピアノの蓋を閉じてしまった。




 「実はな、あえて言わへんかったんやけど」

 それでも研二は珍しく、まだ言い淀むような表情をした。
 「口止めされた訳やないし、そもそも俺がそれを知ってることを康平さんが理解しているのかどうかはわからへんけど。康平さんの家は、著名な音楽一家やねん。康平さん自身も昔は有名なピアニストやったんや。けど事故に遭って、指を…怪我してもうて」
 日常生活には問題はなかったけれど、その怪我は、ピアニストにとっては致命的だった。ましてやプロを目指そうとする者にとっては。
 「それで康平さんは、あっさりピアノを捨てた。もちろん本人に聞いたわけ違うから、推測でしかないんやけど。そんなに最近の話でもないし、その後ぱたりと姿が消えた康平さんに、まさかこんな所で会うとは思わへんかったから、初めて康平さんを見た時は驚いたわ」
 これは、憶測に過ぎへんのやけど、と言った研二の表情が僅かに変わった。
 「ピアノを捨てたと思ってた康平さんは、今でもピアノを愛してるんと違うかな。推理小説家を目指す康平さんがわざわざジャズ研に入ったんは、どこかで繋がっていたかったんやと思う」
 珍しく饒舌な研二が、熱っぽくすら見える、と真澄は思った。
 「俺な。実は、康平さんに憧れてたんや」
 研二が落とした視線の先、黒いピアノに反射して、ありし日の康平を見た気がした。
 「真澄は知らんやろうけど、あの人のピアノは、本当に美しかってん。やから俺は康平さんがまだ、ピアノをやめてへんかったことが嬉しい」
 次は俺も聞きたいわ、と言った研二を見て、直ぐに目線を逸らした。
 「…人には聞かせたくないみたいやったけどな」
 真澄に気がついた瞬間に鍵盤を離れた指は、再び戻ることはなかった。それはやんわりと拒絶されたのだと思った。それでも耳が、あの旋律を忘れない。
 「そぅか…、」
 同じピアニストとしてそれも分かる気がする、と顔を曇らせた研二に、後日談があったことを真澄は遂に言いそびれた。



*****
これも続かなかったなぁ…。

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