a Day in Our Life


1999年02月05日(金) 036:溺夢



背中を刺す視線が痛い。
だけど福田は振り返らなかった。だって徳井は泣いている。泣き顔を見たわけでも泣き声を聞いたわけでもなく、何の根拠もないのに確信して、福田は振り向かずに部屋の中に入る。踏み出す一歩一歩がやけに重い。
そのまま綺麗に整えられたベッドに着替えもせずにばたりと倒れこめば、秒針のカチカチという音だけがやけに響く。
もう何も考えたくなかった。福田の小さな頭には、考えなければならないことがたくさんあって、なるべく意識下にある問題からは目をそらすようにしていたというのに。守りたいから壊したくないから目をそらしていたのはお互い様で、それなのに今日だけでいったい幾つのパンドラの箱を開いたことだろう。
27年間なんだかんだずっと隣にいて見慣れた相方の見たことのない顔。温厚でヘタレなはずの徳井のとった信じられない行動。徳井に捉まれた部分がまだ熱を持っているようだった。

あぁ、今すぐ川島の手を握りたい、そして抱きしめて欲しい。腕時計だけでは心許ないから。
せめて声だけでも聞きたいと祈るような気持ちで携帯に手を伸ばしかけて、慌てて頭を振る。これでは川島に逃げてるのと一緒だと。
川島の腕時計は、憎たらしいくらい正確だった。こんなときくらいはやく長針が回ればいいのに。時計に八つ当たりしつつ、福田はそっと目を閉じた。

ふるふると震える携帯で目を覚ました。アラームもかけずに寝てしまった自分に真っ青になる。酒を一滴も飲んでないのにブラックアウトしたかのようだった。しつこくなり続ける携帯に手を伸ばせば、まさかの川島からだった。留守電になる前に、と慌てて出れば、川島の声。どきりと高鳴る胸。
「おはようございます」
モーニングコールですよ、と笑う声が優しくて福田は言葉に詰まってしまう。
「福田さん?」
「おはよう。今、何時?」
「7時ですけど。あ、もしかしてもう少し寝てる予定でした?」
うわー、すみません、どないしよう。と電話口の向こう側でおろおろしだした川島に福田はすっと平常心を取り戻す。
今日の仕事は午後から東京で雑誌の取材とバラエティ収録が一本だけだったから少しのんびりしているつもりだった。乗る予定の新幹線の時間まであと二時間もあるけど、この電話がなければおそらく寝過ごしていただろうから素直に礼を言う。
「大丈夫、助かったわ。ありがとな」
「すみません、ほんまはただ福田さんの声聞きたかっただけなんです」
もうすぐ会えるのにおかしいですよね、と付け加えた川島の声音は昨日の朝聞いたときよりも幼げでどこか不安定に聞こえる。寂しいと、川島も感じてくれているのだと思ったら、申し訳ないと思いつつ嬉しくなってしまう。
「おかしないよ。俺も川島の声聞きたかってん。はよあいたい」
「ほな、福田さんの好きなもの作って待ってます」
「うん。楽しみにしとる」
電話口の向こうでの川島の笑う気配が嬉しくて、福田も小さく微笑んだ。


それから数時間後、行きよりも多くなった荷物を手に、福田は川島の部屋の前にいた。
インターフォンを鳴らしても出てこないことに不安になりながらも、川島から預かった鍵を鍵穴に差し込む。かちりと呆気なく開いた扉に、そういえばこの鍵を使うのが初めてだと気がつく。ドアを開ければ、確かに人のいる気配。なのに川島の出てくる気配がない。
「かわしま?」
恐る恐る台所に足を踏み入れると、火のついた状態でかけられた鍋。牛筋煮込みの匂いに空腹中枢が刺激される。だがそれよりも川島はどこだと周囲を窺えば、いきなり背中から抱きしめられた。あたたかな感触と、一日しか離れていなかったのに懐かしく感じる匂い。
「おかえりなさい」
「ただいま。川島、お土産買うてきたで」
包まれた体温と流し込まれる低い声がリアルで、川島だ、と実感する。それだけで心が軽くなる。振り向いて目が合えば、川島はくしゃくしゃの笑顔を浮かべていた。荷物を丁寧におろして、その中から小さな包みを取り出す。
「まずは、はい」
「あ、ばあちゃんの漬物や」
「うん。時間があったから行ってみた」
嬉しそうに受け取った姿が子供みたいで、ばたばたしたけど行ってよかったなぁ、と福田が笑えば川島は照れたように頬を緩ませる。
「あとな、これなんやけどよかったら使うて」
合鍵を無くしたくなくて仕事の空き時間に購入したキーホルダー。レジに出そうとしたとき目に付いたのは、川島が好きだと公言するドラえもんのストラップだった。子供っぽいだろうか、と一瞬だけ迷いつつも、結局手に取ったそれを川島に手渡せば、その手ごと川島の手のひらに包まれる。
「ありがとうございます」
嬉しいですと、自然に近寄せられる唇を待てば、やかんの沸騰を知らせる甲高い間抜けな音が響き渡る。絶妙ともいえる間がおかしくて、おでことおでこをくっつけて笑いあった。



***



kaleidoscope【36】
2007/10/05 Kanata Akakura

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