a Day in Our Life
最初にその手を離したのは、どっちが先だったのだろう。
離れてしまった手のひらに、僅か互いの熱が残っていた。まるで拒絶するように手を払われて、手首を庇う福田の右手の中には、止め具の外れた腕時計が、寸でのところで留まっていた。勢いでずれたその細い手首に、暗がりで僅かに気が付く、もう消えそうな赤い痕を認めた。昨日今日で付いたものではないらしいそれは、新しい腕時計のせいではないと分かったから、恐らく自分のブレスレットによって、傷つけられたものだと知った。 激高する感情とは裏腹に、妙に冷静な思考でそこまで考えた徳井は、それで急速に、気持ちが冷めていく自分を自覚する。我に返ったついでにここがタクシーの中だった事も思い出して、ちらりと運転手の様子を窺えば、夜も深まりかけた時間帯に、仕事仲間らしい男二人の痴話喧嘩を、見て見ぬ振りでやり過ごしているようだった。その事にまた少し、平静を取り戻して、徳井はやっと体を動かし、椅子の背もたれに深く体を預ける。ふう、と大きく息を吐けば、こちらも隣で俯く福田の気配。 「…ごめん、」 謝って欲しい訳ではないのに、場違いな福田の謝罪が遠慮がちに届く。おまえが罪を犯しているのなら、何をどう、償ってくれるの。自嘲気味にそんな事を考えた徳井は、もうやめよう、と思った。 福田の手首についた擦り傷は、たぶん例の腹痛騒ぎの時についたものだろうと想像がついた。何がどう展開してそうなったのかは知れないけれど、ひどく苦しんだらしい福田は、そうやってブレスレットを強く握っていたのだろうと思う。縋る物がそれしかなかったのか、それともはなから、それにしか縋るつもりがなかったのか。 そして徳井は、自分も同じだったと気付く。 互いが互いの代わりにブレスレットを身に着けて。いつしかその意味を摩り替えて。そうやって、どんどん自分達は離れてしまっていたのかも知れない。もはや大切なのは福田であり徳井であったのか、それとも自分達のブレスレットであったのか、分からなくなっていた。 だから、福田の腕からブレスレットが外された事に、こんなにも自分は動揺をして。新しい腕時計にこんなにも嫉妬をして。置いていかれるのが怖くて、だから。 「俺こそ、ごめん」 例えば今日、徳井の腕にないブレスレットの存在に、福田は気付いただろうか。気紛れにつけられるその意味を考えて、勘繰って、そして時に傷付いただろうか。 苦しめたのだろうと思う。自分のせいで、福田はよほど、苦しんだのだろうと思う。逃げる徳井の背を追って、いつも。それでもまだ、逃げようとする自分を徳井は認めざるを得なかった。ここに来ていまだ肝心の事が、聞けない。 「……の事、」 「え?」 「―――いや、ええわ」 川島の事が、好きなんけ?
聞きたかったのに、どうしても聞けなかった。
*
その後、ラジオの収録を終えて、スタジオを出た頃にはもう、日付が変わってしまっていた。 大阪のマンションはそれぞれもう、引き払っていたから、用意されたホテルへの道をまた、タクシーに同乗する事になる。プロなのだから、収録は普段と変わらないトーンを装って、ソツなくこなしたつもりだったけれど、狭い車中に入ってしまえば、今度はもう、交わす会話もなかった。 先ほどよりもっと深い闇に照らされて、徳井の顔にも、福田の顔にも色濃い疲れが滲む。それを互いが意識しつつ、心配をしてさえ、かける言葉が出て来ない。短い時間で辿りついたホテルの前で、領収書を切って。無言で中に入り、それぞれ与えられた部屋に向かう。たまたま隣合わせだった部屋同士の真ん中で、一瞬だけ立ち止まった。 「…ほな、また明日」 「うん。おやすみ」 一足先にドアを開けて、中に入っていく福田の背を見送った。 その背中が振り返らない事を少しだけ寂しいと思った徳井は、きっと、なにもかもが手遅れなのだと思う。また明日、と言った声の響きも、もはや新鮮ではありえなくて。心穏やかにさせる術もない。それでも、必要以上に疲れた表情を浮かべた福田が今晩、安らかに眠れればいいと、今更のような事を思った。 本当は、いつだって思っている。
そこにいるあなたが、ただ穏やかでありますように。
***
kaleidoscope【35】 2007/10/03 Toshimi Matsushita
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