a Day in Our Life


1999年01月31日(日) 031:青い炎



 「徳井が怒ったん、初めて見たわ」

 唐突に訪れた静寂を破ったのは、どこか呆然とした小杉の呟きだった。
 そんなつもりのないいつもの楽屋トークのつもりが、思いもかけずに地雷を踏んだ事に驚く。何をそんなにピリピリしているのかも分からないままに、けれどどこかぎくしゃくした二人の空気を見て取って、直ぐにフォローをかけてきた。
 「俺、何や悪い事言うた?」
 そうなると、逆に恐縮をしたのは福田の方で、不発弾のような物足りなさで激情の波が過ぎ去ってしまえば、急速に現実を理解した。それでなくとも事情の分からない、小杉に非がある筈もなかった。
 「いえ、こっちこそ気ィ悪い思いさせてもうてすんません。ちょうここんとこアイツと上手い事喋れてなくて」
 率直なところをそのまま言ってみれば、じっと福田を見た小杉は、退院って何やねん、とごくごく自然なところをまずは突いてきた。そうなれば今更、隠す必要性も感じられなくて、一泊ではあったけれど入院をしていたのだと正直に告げた。そぅか、とそれ以上の病状を突っ込んでは来なかった小杉が何を考えているのかは分からない。僅かに首を動かして、閉まっているドアに目線を向けたのは、出て行った徳井に思いを馳せたのか。
 小杉にしてみれば、普段は温厚な徳井の、初めて見る顔だった。表面上、落とした言葉は当たり障りのないものだったけれど、随分と低く、うわ言のようだったその口調が。どこか鬱蒼と、面窶れたその表情が。何より福田から外した視線の先、何もない空虚を見る徳井の眼は、昏く深く、徳井自身の闇を映すようで。思わず小杉は、はっと息を飲んでしまったのだ。
 一瞬でも、激情を表してみせた福田とは違って、徳井のそれは静かにゆらめく、凍えるような怒りだったに違いない。だからこそあの時の徳井はつるりと滑らかな無表情を浮かべていて、その端正な顔から感情という感情が消えた途端、それはぞっとするほどの美しさを放っていた。
 そういうものに、恐らくは圧倒されてしまったのだろうと思う。だから今、目の前で恐縮する福田の抱える闇も、小杉には分かるようで分からない。福田が徳井の何に神経を逆撫でされたのか、徳井が福田の何に対して、そうまで怒りを見せたのか。
 だから、分かる事はただ一つ。
 「何や事情はよう分からへんけど。お前ら見た目は仲ええやんけ、やからそうやって苛立つ前に、ちゃんと相手と向き合えよ。言葉にせな分からん事も、世の中には多いねんぞ」
 それは、小杉なりの経験と哲学でそう、思えるものだったのかも知れない。ブラックマヨネーズは喧嘩漫才のイメージほどは仲が悪くは決してないし、むしろ互いを称え合うような気配すらある。相方の力量を認めたうえで、それを敬う。きちんと伝えるから、絆が強いのだ。
 そう出来ればどんなにかよかっただろう。昨今、ちょうどいい比較対象として天秤的に扱われることも多い自分達2コンビは、差別化の意味合いも濃く、どうあっても互いにはなり得ない。だから彼らを羨ましいと思っても、そんな風に真正面から、向き合う事は自分達には難しかったのだ。
 それでも今、小杉の言葉は身に染みた。少しだけ乱暴に、背中を叩かれた気になった。
 先に出た徳井を追って、自分も行かなければならない。そろそろタクシーが着く頃だった。どの面を下げて徳井を見ればいいのだろう。どんな顔をして、徳井は福田を迎えるのだろう。
 「言葉にするんも勇気や思うぞ、福田」
 ずっと、自分の立ち位置は微妙すぎると思ってきた。養成所を出ていないから、他の芸人達との距離感が掴みにくい。それに元来の性格が付加されて、随分と卑屈気味に立ち回ってもみた。今、コンビとしては同期でも気持ち的には先輩である小杉は、まさに先輩の顔をしてそう言った。それこそが、立ち往生をしていた福田をごくごく自然に後押ししてくれた、小杉の肝煎りなのだった。
 「…そう、やと思います。ホンマに」
 それは小杉なりの優しさに違いなかったと思う。珍しく一切の茶化しもなく、至って常識的なアドバイスを寄越した小杉が、言って満足したのか、僅か笑みを浮かべる。小杉が福田や徳井を、ひいてはチュートリアルをどう思っているのかは知らない。けれど今、確実に自分は愛されているような気がした。可愛がってくれる先輩がいるというのは、上下関係の苦手な福田にとっては特に、ありがたくも嬉しい事だった。
 「そろそろ時間ちゃうんけ?もう行けや」
 最後まで気の回る先輩に背中を押されて、荷物を持ち上げた福田は、黙って礼を一つ。そしてドアを開けて、部屋を出た。







 荒い足取りで廊下を歩く徳井は、自らの奥底から湧き上がる何かに支配されて、周囲が見えなくなっていたらしい。だからゆったりとした足取りで、向こう側からやって来た吉田とぶつかりそうになるまで、その存在に全く気付いていなかった。
 肩と肩がぶつからんばかりの至近距離で、その時の徳井はそれすらが鬱陶しい、と無言のまま顔を上げる。少し睨むような目線になったのかも知れない。顔を上げて相手を見、それが吉田だった事をゆっくりと理解した。
 「…お前、何ちゅう顔しとんねん」
 一方の吉田は気を悪くした様子もなく、むしろ徳井の普段ならぬ様子に興味を惹かれたようだった。言われた意味が分からない、という表情を浮かべた徳井に、子供に言って聞かせるような口調で、
 「鬼の形相になっとんで」
 それ、と徳井自身を指さした。普段、ネタで吉田がそうするように、言われてつるりと自らの頬を撫でた徳井は、それでやっと、毒気を抜かれるように幾ばくかの表情を和らげる。
 「…すまん、」
 謝るべき事だったのかどうかは分からなかったけれど、何となく徳井は、謝ってみた。吉田に対してというよりは、もっと曖昧なものに対する懺悔だったかも知れない。
 珍しく感情の昂ぶるままに、逃げるようにその場を去ってきてしまった。それが何に対する苛立ちだったのか、自分でもよく分からなかった。邪気のない小杉の言葉。どこか茫然とした福田の糾弾。福田の左腕。
 徳井の目の奥が、ゆらりと揺れる。
 「お前ちょう、疲れとるんちゃう?」
 不意に、吉田が言った。働きすぎやねん。ちょっとは俺らにも仕事分けてくれよ、と言った吉田は、茶化す振りをして、柄にもなく本当に心配をしてくれているようにも見えた。
 「まあ、頑張りーや。ほなな」
 特別、何も聞かずに去っていく吉田に現実を教えられる。その背中をしばらく見送った徳井は、のろのろと玄関に向かって歩き出した。



***



kaleidoscope【31】
2007/09/21 Toshimi Matsushita

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