a Day in Our Life


1999年01月25日(月) 025:夢現



 真夜中、うつらうつらと眠りに落ちかけた後藤は、ごくごく小さな呟きに目を覚ました。

 番組でリフォームされたのだという、天蓋付きの妙にエロチックなベッドはひどく寝付きが悪かった。暗がりで目を凝らせば、狭い隙間に毛布に包まる徳井の姿が見える。半ば強引に泊まったというのに、これではどちらが家主か分からない、と後藤は改めて苦笑する。目を覚ましたきっかけは何だったか、空耳だったかも知れない、と後藤が改めて目を瞑ろうとした時。
 「…く、」
 やはりその呟きは、間違いなく眠る徳井から発せられたものだった。
クローゼットに向かって背を向けているせいで徳井の表情までは分からなかったけれど、随分と辛そうな、徳井の声。
 「ふく…」
 何の夢を見ているのか、それだけでもう、分かる気がした。
 珍しい徳井の深酒の理由も。新居に引っ越して以降、寝覚めが悪いのだ、と言っていた徳井の言葉を思い出した。深すぎる眠りは目覚めた時の現実感を奪い、見ていた夢すら思い出せない。
 今、福田の名前を呼んだ徳井は、果たしてどんな夢を見ているのか。何を思って、苦しんでいるのか。搾り出すような切実な声は、ひどく哀れを誘った。後藤は思わず身体を起こして、その様子を窺ってしまう。
 寝言に話しかけてはいけないと言う。会話を交わす事で、より深いところまで潜ってしまうのだ。
 「徳井、」
 この声は徳井に届くだろうか。もし届いたなら、それはどう聞こえるのだろうか。名を呼ぶそれは、後藤の声をしていたか、福田の声をしていたか。
 ベッドを起きだし、近づいて、上から徳井を覗き込む。眉間に皺を寄せて、薄っすら汗ばんだ徳井の顔には苦悶の表情。それらを振り払うように、首を振る動作で寝返りを打った拍子に、毛布から腕がはみ出した。
 その、左腕には見慣れたブレスレット。最近は久し振りに見たような気がした。随分とくたびれたそれは、10年以上も愛用しているのだから当然だった。それはそのまま、彼らの関係に重なって。惰性のようにそこにある存在は、徳井にとってもう、苦しいだけのものだっただろうか。
 大らかで優しい、温厚な徳井という人格は、おおむね人間に対して過敏ではありえない。懐が深い、とも言えたけれど、後藤はそれとは少し違うのではないかと思った。他人に対して沸点が高いという事は、それだけ諦めているとも言える。どこか世の中を斜めに見て、所詮こんなもんだ、と割り切っているようにも見える。
 けれど今、目の前で苦しんで苦しんで、藻掻く徳井の姿は、後藤の見てきた徳井像とは違うもので。
 諦めてしまえばきっと楽になれるのに。割り切って、捨ててしまえばさっぱりするのに。

 だから徳井は恐らく、福田を諦めていないのだ。

 気が遠くなるほど長い間、目に見えない僅かな何かが積もりに積もっていったのだと思う。そんな彼らの時間や歴史は彼らにしか分かり得ないけれど、第三者的に見るからこそ、分かることもある。
 互いの事を知りすぎて、思い遣るあまりに身動きが取れなくなってしまった彼らを、哀れだと思った。それは体が震えるほどの嫉妬でもあった。それほどまでに互いを求めている事に。それほどまでに、想われている事に。
 「でもそれはやっぱり、健全ではありえへんよ」
 そっと手首に触れてみる。くたびれた皮のブレスが徳井の体温で温もっているのが、ひどく切ないと思った。徳井にとっての精神安定であり、拠りどころでもあるらしいそれは、けれど逆に、徳井の手枷にも見えた。
 「おまえ、生き難い人生やなぁ…」
 そして後藤にしてやれる事は、ごく少なかったのだ。
 毎日を生きるほど積み重なる時間が、彼らをより縛ろうとする。じわじわと絞め上げられるように、それでも誰より長い時間を共にする。快楽にも苦痛にも似た倦怠感が今、彼らを蝕もうとしていた。
 そんな関係は、まるきり地獄ではなかったか。
 ちらりと後藤の脳裏に、浮かぶ映像がある。昨晩、珍しい組み合わせで川島の背に負ぶわれた福田の、少し病んだ顔。居留守を使うくらいに一人が好きだと豪語する福田が、なぜ昨日に限って川島の世話になっているのかも何となく、分かる気がした。蝕まれているのは、たぶん徳井だけではない。
 いらぬお節介だとは分かっていた。福田はともかく徳井はきっと、そんな事を望まないのだろうとも。
 けれど後藤はその時、決めてしまっていたのだった。今日いくつか入っている仕事は時間が限られていて、夜まで押す事はない筈だった。奴の予定は知らなかったけれど、遅いのなら終わるまで待つまでだ、と。たぶん後藤には、予感めいたものがあったのだと思う。あの時に見たその表情が、自分とひどく似ていた事に。
 「…頑張れ、徳井」
 夢の中で戦う徳井にそう、声を掛ける。もちろん返事はなかったけれど、不意にその表情が、幾分か和らいだ気がした。







 眠ったんだか考え事をしていたんだか、分からないくらいの浅い微睡みの中、携帯のアラームが鳴り出した。

 七時にセットしたそれは画面表示を見なくても、徳井を起こせと告げていた。のろのろとベッドから起き上がり、鳴り続けるアラームを止める。そのままの体勢で一度徳井を見やれば、それぐらいの物音では全く起きないらしい、徳井はいまだ深い眠りの中にいた。
 「徳井、七時やぞ」
 声を掛けたくらいでは起きないだろう事は分かっていた。だからベッドから下りて、傍らに近づく。少し強めに肩を揺すれば、やっと身じろぎが返った。
 「徳井。ほら、はよ起き」
 ゆすゆすと揺さぶる動きで、のろのろと眠りの淵から這い上がってくるらしい、徳井の瞼がスローモーションで開いていく。焦点の定まらない視線が空を見つめ、ゆっくりな時間を掛けて、後藤に返ってくる。
 「おはよう」
 「……はよ、」
 口の中で呟かれた言葉はひどく不明瞭で、夢うつつの徳井のぼんやりとした声。今が夢か現実か、そんなことすら徳井の意識下にはなかったに違いない。眠りは深すぎて、きっと夢を見た事すら覚えていない。だから、知っているのは後藤だけだった。
 「おい、今この状況で二度寝なんか出来る思うなよ。さっさと顔洗って来いや。目ぇ覚めるで」
強引に毛布を剥がして引っ張れば、ようやく体を起こした徳井がふらつきながら洗面所に向かっていく。その姿に苦笑いを浮かべながら、後藤も身支度を整える。徳井が戻ってきたタイミングで、鞄を持ち上げた。
 「…あれ?」
 「一旦家帰るわ。世話んなったな」
 現場が近いからと言って強引に泊まったのに、起き抜けでまだ多少ぼんやりとした徳井は、その矛盾を見逃した。微妙な相槌を打って、そうこうしている間にももう後藤は玄関に向かう。
 「ほなまた」
 「おぅ、」
 バタン、とドアが閉まる直前に、見えた後藤の背中が、残像のように徳井の意識に残る。妙な違和感を残して、首を傾げながらリビングに戻れば、テーブルの上にぽつんと置かれたものに目が行った。
 「あれ、俺いつの間に外したんやろ…」
 拾い上げたブレスレットは、ひんやりと徳井の肌を冷やした。



***



kaleidoscope【25】
2007/09/11 Toshimi Matsushita

過去 未来 目次 マイエンピツに追加