a Day in Our Life
「…うん。ありがとう」
口付ける動きで一度瞼を閉じた福田が、ゆっくりと目を開いて川島を見上げる。幸い、情けない顔は見られずに済んだけれど、声の震えは気付かれたかも知れなかった。それすらも赦して僅か笑みを浮かべた福田が、いっそ神々しく見えた自分は、随分と嵌りすぎている、と思った。 いつからこんなに好きになったのだろう、と思う。 今、文字通りこの目には福田しか見えないのではないのかと思うくらいに。それでもいい、と思えるくらいに。他の何者も目に入らずに、ただいとおしいその人を見つめる。福田の目に映る随分と滑稽な姿の自分は、たぶんこの想いを持て余している。どうしたらいいのか分からない。だっていつかの井上は、こんな風に向き合う機会を与えてはくれなかったから。 「福田さん」 名前を呼んだ。 ともすれば聞き逃してしまわれそうなほど小さい声をきちんと聞いて、目線だけで反応をくれるのが嬉しい。いまだ掴まれたままの手首が、静かに続きを待つ。 「ただの親切やなんて思わんといて下さい。俺はそないええ人やないよ」 素直に感謝をされても困るのだ。だってあれこれ世話を焼きたがるのは川島の勝手で、勝手に心配で、勝手に安堵して。手を伸ばせばそこにいる存在が、その体温があまりにリアルで、だから。 「俺が、側にいたいんです」 それはエゴだと知っていた。それに対して福田がどう感じているかは分からなかった。聞くのは怖いし、手放すのはもっと怖い。一度この手に入れてしまったらもう、離したくはなかった。それがどんな我侭か、理解ってはいたけれど。 「…好きなんです」 あなたの事が、とても好き。 誤魔化しようがなく震えた声が、揺れながら眼下の福田の耳に届いた、筈だった。好きだからどうしたい訳ではなかった。応えて欲しいと願っている訳でも。けれど今、聞いて欲しかった。知って欲しかった。 加速していく気持ちを止める術を知らなかったから、例えそれで福田が、川島を軽蔑しても。 ごめん、と言いたいのはむしろ、川島のほうだった。 「川島」 黙って聞いていた福田が、そっと手首を開放する。離れていく体温を名残惜しいと感じる前に、するりと上がってきた指が、川島の頬を撫でる。 「そんな泣きそうな顔せんとって」 え、と思う間にスローモーションで顔が近づく。それでいてあっと言う間に触れた唇が、柔らかい感触を残して、すぐに離れた。 キスをしたのだ、と気付いたのは、福田の顔がゆっくりと微笑みを滲ませてからだった。 「ありがとうな」 「福田さん、」 見開いた目の中に、とろけるような福田の笑い顔が映る。それはひどく柔らかく、凪ぐように穏やかな。幸福を体現したら、こんな顔になるのではないかと思う。川島にとって今、福田が幸福そのものだった。それがあまりに鮮やかで、触れたら消えてしまいそうな気にさえなってしまう。しばらく呆然と固まっていたら、笑い顔の福田が更にわらった。
福田にしてみれば、川島の厚意は感謝こそすれ、迷惑だなどと思える筈がない。 与えられるばかりの親切に戸惑ってはみたものの、好いて貰えるのは嬉しかった。目に見える気遣いも、優しい言葉も、どれもが今までの福田には持ちえないものだったから、そしてそれらを福田はずっと、欲していたに違いないから。 徳井が与える愛情や優しさとは違う。 それは徳井らしい大らかさで、惜し気もなく与えられるものだったけれど、少しばかりややこしく、捩れて歪んで、だから純粋ではあり得なかった。 いつからか、自分達は大事な事ほど相手に言えなくなっていたのだと思う。 愛してるとか、大切だとか。使い古された言葉が徳井に届くとも思えなかったから、言わなくなるうちに、互いの気持ちも見えなくなっていた。それはどれほどの矛盾だっただろうか。共に過ごした時間は途方もなく長すぎて、愛情を引いたらそこにはもう、執着しか残らなかった。相方として徳井を手に入れた瞬間に、何かとても大事なものを、自分達は失ってしまったのかも知れない。 お互いの事はもう全て分かるから、その事が逆に、自分達を雁字搦めにしてしまった。袋小路の前で途方に暮れて、どうしたらいいのか分からないまま、互いの手をずっと握って、離せないでいたのだ。 好きすぎて、辛かったのだ、たぶん。 そうやって徳井を思い続けるのは辛いから、もう、開放されたいような気がした。徳井はそれを許さないかも知れないけれど、随分と福田は疲れてしまった。
だから…もう、この手を離してもええかな?徳井くん。
そうして今、福田が触れている手の先には、泣きそうに歪んだ川島の顔。好きだと言ってくれた気持ちが、言葉が嬉しくて。縋ってしまいたくなる。そんな風に触れられるのは、川島は、心外かも知れなかったけれど。 今は黙って抱き留めていて欲しい。その腕の中で、ひどく安堵する自分を知ったから。その体温を、感じていたいから。
「ごめん、」 だからやっぱり福田は謝ってしまう。一番狡くて醜いのは、きっと自分に違いなかった。
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kaleidoscope【23】 2007/09/09 Toshimi Matsushita
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